1
蒸むし暑あつい或る夜のこと、発明王金きん博はか士せは、袖そでのながい白服に、大きなヘルメットをかぶって、飾かざ窓りまどをのぞきこんでいた。
南ナン京キン路ろの雑ざっ沓とうは、今が真まっ盛さかりであった。
金博士の視線は、さっきから、飾窓の小こだ棚なにのせられてある洋酒の群像に釘くぎづけになっている。いや、正しくいえば、その洋酒の壜びんにぶら下げられた値段札の数字に釘づけになっていたという方がいいだろう。
﹁あはは……﹂
博士がとつぜん声をあげた。これは決して博士が笑ったのではない。実は大だい歎たん息そくをしたのである、あははと……。およそ歎息というものは、感かん極きわまってその窮極に達すればあたかも笑声のような音を発するものである。嘘だと思ったら、読者は御自分で験ためしてみられるがよろしかろう。
﹁あはは、あの味のわるいウィスキーが一壜五百元げんとは、べら棒な値段じゃ。その昔、重じゅ慶うけ相いそ場うばというのがあったがその上をいく暴ぼう価かじゃ。同じ五百元でも、こっちのペパミントがいい。こいつを、氷の中に叩きこんで、きゅっきゅっとやると、この殺人的暑さは嵐にあった毒どく瓦ガ斯スの如く逃げてしまうことじゃろうが、それにしても五百元とは高い、今のわしの財政ではなあ﹂
金博士は、このごろアルコールに不自由をしている上に、金にも困っていると見え、さてこそ極きょ限くげ歎んた息んそくの次しだ第いと相あい成なったらしい。
丁ちょ度うどそのときであった。金博士の頭を目がけて、一匹の近が海ざ蟹みのようによく肥こえた大おお蜘ぐ蛛もが、長い糸をひいてするすると下りてきた。そして、もうすこしで、金博士のヘルメットにぶつかりそうになって、ようよう下さがるのを停めた。おそるべき大蜘蛛だ。こんなやつに頸くびのあたりを喰いつかれ、生いき血ちをちゅっちゅっ吸われたら、いかな頑がん固こお爺やじの金博士であろうと、ひとたまりもなかろうと思われた。
﹁もしもし金博せん士せい、おなつかしゅうございますなあ﹂
とつぜん、その大蜘蛛が金博士に言葉をかけたのだった。冗じょ談うだんじゃない……。
﹁うん﹂
博士の鼓こま膜くに、その声が入ったのか、博士は生なま返へん事じをした。生返事をしただけで、彼はなおも飾窓の青いペパミントの値段札に全身の注意力を集めている。
﹁博せん士せいは、いつに変らず御ごそ壮うけ健んで、おめでとうございます。この前、金博士にお別れをしてから、もうかれこれ五六年になりますなあ﹂
その化け物のような大蜘蛛は、しきりに金博士をなつかしむのだった。これを横から眺めていると、博士も亦また、蜘蛛の化け物じゃないかという疑いが湧わいてくる。そういえば﹁新しん青せい年ねん﹂誌上にのっている金博士の顔は、蜘蛛の精じみた風ふう貌ぼうをもっているよ。
閑さ話て休題、金博士は、ようやく注意力の二割がたを、蜘蛛の声に向けて割さいた。
﹁おう、そういうお前は醤しょ買うか石いせきじゃな。お前はまだ生きていたんか﹂
醤買石といえば、あの有名なる抗こう日にち遷せん都と将軍の名である。すると醤買石も、ついに人間の皮を被かぶっては遷都する先がなくなって、遂に大蜘蛛に化けたのであるか。それとも、彼はオーストラリヤで戦車にのし烏い賊かられて絶命し、魂こん魄ぱくなおもこの地球に停とどまって大蜘蛛と化したのであるか。
﹁あれ、金博せん士せい。醤はそう簡単に死にませんよ。しかしとにかく、博士にお目にかかりたいばかりに、部下もつれずに単身、きびしい監かん視しも網うをくぐって、ようやくここまで参りました。そしてとうとう博士に行き会いまして、こんな嬉しいことはございません。ふふふふ﹂
ふふふふは、醤の笑い声ではない。感激の泣き声である。泣き声がその極致に達すれば笑い声に似たる――ああもうその解説はよろしいか。なるほど前にも鳥ちょ渡っと書きましたなあ。
﹁泣くなよ、醤。お前は小しょ便うべ小んこ僧ぞう時代から泣きべそじゃったな。東に楠くすのきの泣き男あり、西に醤買石ありで、ともに泣きの一ひと手てで名をあげたものじゃ。で、わしに会いに来たというのでは、また何か大それた無心じゃろう﹂
金博士は、やっぱり前まえ跼かがみになって、飾窓の中をのぞきこみながら口を動かした。博士は、まさか頭の上に忍びよったる大蜘蛛と話をしているのだとは気がついていない様子に見えた。
﹁やあ、そのとおり、それが図ずぼ星しでございますよ。余よ――いや小しょ生うせいはこのたびぜひとも博せん士せいにお願いをして、毒どく瓦ガ斯スをマスターいたしたいと決心しまして、そのことで遥はる々ばる南海の孤こと島うからやって参りました﹂
﹁毒瓦斯の研究か。そんなむずかしい金のかかるものは、お前の柄がらじゃないぞ﹂
﹁いえ博せん士せい、そう仰おっ有しゃらないで、是非にお願いいたします。今こそ孤島に小さくなっていますが、昔せき日じつの太陽を呼び戻すには、猛毒瓦斯を発明し、その力によってやるのでないと全く見込みなしとの結論に達し、博士にお縋すがりに参りました。ぜひともこの醤を哀あわれと思おぼ召しめし……その代り、お礼の方はうんときばり、博士のお好みのものなれば、ウィスキーであろうとペパミントであろうと……﹂
﹁そうか。それは本当じゃな。男の言葉に二にご言んはないな――というて相手がお前じゃ仕しよ様うがないが……﹂
といいながら、博士は飾窓から顔を放して腰を真まっ直すぐにのばしたものだから、さっきから垂たれ下っていた大蜘蛛が一ひと揺ゆれ揺れると、博士の顔へぴしゃと当った。さあたいへん、危あやういかな博士の一命! 生かまたは死か?
2
……筆ひっ勢せいあまって嚇おどし文句を連つらねてはみたが、ここで金博士が、間かん髪ぱつを容いれず、顔にあたった大おお蜘ぐ蛛もを払いのけ、きゃあとかすうとかいってくれれば、作者も張はり合あいがあるのであるが、当の博士は、別に愕おどろきもなにもしない。甚はなはだ張合いのない次第であった。
愕くどころか、博士は、矢やに庭わに手をのばして、その大蜘蛛の胴どう中なかをつかんだものである。
すると、ガラガラと、ラジオの雑音のようなものが聞えた。
金博士は、つかまえた大蜘蛛を口のところへ持って行き、声を一段と低くして、
﹁おい醤買石、今すぐわしは、お前の居る屋上へ上っていくから、すこし待って居てくれ。しかしお前も、こんどというこんどは余よほ程ど懲こりたと見え、屋上から、蜘蛛に見まがうような擬ぎそ装うのマイクと高声器をつり下げて、わしに話しかけるなんて、中々機械化してきたじゃないか、はははは﹂
﹁いや、ちとばかりソノ……﹂
﹁しかし、この無細工な蜘蛛を屋上からこの人通りの多い通りに吊つり下ろすなんて、やっぱりお前は、垢あかぬけのしないこと夥おびただしい。この次からは、もっといい智慧を働かすがいい﹂
褒ほめられたと思った醤は、とたんにぺちゃんこにやっつけられた。
さて、ここは屋上である。例の洋酒店のあるビルの屋上であった。
のっそりと、非ひじ常ょう梯ばし子こからあがってきたのが金博士であった。非常梯子の上り口に立って、うやうやしく挙きょ手しゅの礼をして立っている二人の白いターバンに黒眼鏡に太い髭ひげの印イン度ドじ人んじ巡ゅん警けい! 脊の高い瘠やせた方が醤しょ買うか石いせきで、脊が低く、ずんぐり肥っている方が、醤が特選して連れてきた前途有望な瓦ガス斯しち師ょ長う燻くん精せいであった。二人は、まるで舷げん門もんから上って来た司令官を迎えるように、極きわめて厳げんたる礼をもって金博士に敬意を表ひょうした。
博士は、几きち帳ょう面めんに礼をかえすどころか、いきなり醤の瘠せた肩をどんと叩いて、
﹁おい、ウィスキーにペパミントの約束、あれはまちがいないじゃろうな。一本が五百元もするぜ。お前そんなに金を持っとるか﹂
と、無ぶえ遠んり慮ょな問いを発した。
﹁や、それはもう大丈夫です。御承知のとおり、昔からイギリスと深い関係がありますものですから、武力こそ瘠せ細っていますが、黄金であろうとダイヤモンドであろうとウィスキーであろうと、そんなものは、うんとストックがあります﹂
﹁ほ、ん、と、ですか﹂
﹁もちろん本当です。国くに破やぶれて洋酒ありです。尤もっとも早いところストックにして置いたのですがね……しかし博せん士せい、毒瓦斯の方のことですが……﹂
﹁うん、毒瓦斯なんて、他たあ愛いもないものじゃ。ウィスキーになると、そうはいかん﹂
﹁いや博せん士せい、ウィスキーなんて浴あびるほどあります。毒瓦斯の研究となると、そうはいかん﹂
﹁よろしい、バーター・システムで取引しよう。一体どんな毒瓦斯が入いり用ようか。フォスゲン、ピクリンサン、ジフェニルクロルアルシン、イペリット、カーボンモノキサイド、どれが欲ほしいかね﹂
下は人じん工こう灯ひの海、上は星ほし月づき夜よ、そして屋上は真まっ暗くらだった。その真暗な屋上に立って、金博士は大きく両手をひろげる。
﹁そんなものは、どれも欲しくありません﹂
醤は人一倍大きな頭を左右に振る。
﹁ほう、これじゃ気に入らんのか﹂
﹁博せん士せい。余よ――いや私の欲しいものは、そんな従じゅ来うらいから知れている毒瓦斯ではありません。そんな毒瓦斯は、吸きゅ着うち剤ゃくざいの活かっ性せい炭たんと中和剤の曹ソー達ダー石せっ灰かいとを通せば遮さえぎられるし、ゴム衣いゴム手袋ゴム靴で結けっ構こう避さけられます。そういう防毒手段のわかっている毒瓦斯は、今じゃどこへ持っていって撒まいても、効きき目めがありません。もっとよく効く、目新らしいものがいいですなあ﹂
南ナン京キン虫むし退たい治じの新しん剤ざいを探しているようなことをいう。
博士は、別段困った顔もせずに肯うなずき、
﹁わしのところには、どんなものでもあるよ。今お前のいった防毒面をどんどん通して、今までの防毒面じゃ役に立たない毒瓦斯があるがこれはどうじゃ﹂
﹁それはいいですなあ。しかしそれは○○○、○○○○○じゃないのですか﹂
﹁ほう、それを知っているか。この種のものはドイツと○○だけが持っているので、従来の防毒面ではまるで防ぐ力がない﹂
﹁しかし博せん士せい、それも駄目ですよ。なぜといって、他の国には無いかもしれないが、ドイツなどには、その超ちょ毒うど瓦くガ斯スを防ぐ仕掛をちゃんと持っている。そういう防ぐ手段のあるものは全然駄目です。私は、全然防ぐ用意のない毒瓦斯が欲しいのです。博士、ぜひお力をお貸しねがいたい﹂
醤は、熱心を面おもてにあらわしていった。
﹁ほうほう、だいぶん熱心じゃが、それもあるにはある。しかしこれを教えるには、大分高こう価かにつくが、いいかね。まずウィスキーならダース入いりの函はこ単たん位いでないと取引が出来ないが……﹂
﹁ダース函でも何でも提供しますとも﹂
﹁ほい、お前にも似合わん、えらく気が大きいじゃないかい﹂
﹁博せん士せい、わしの報ほう復ふく成なるかどうかという瀬せと戸ぎ際わなんです。あに真剣にならざるを得えんやです﹂
﹁そうか。なら、よろしい。ちょっとここに出してみようか﹂
﹁あ、待ってください。それはあぶない。ここで出されたんでは、私が死んでしまうじゃないですか。そればかりは遠慮します﹂
﹁なにをうろたえとるか。出すといっても、本当の毒瓦斯を出すとはいっておらん。こういう毒瓦斯があるという話をしようかという意味でいったのじゃ﹂
﹁ああ、そうでしたか。やれやれ安心しました。とにかく博せん士せいと来たら、興きょうが乗れば、敵と味方との区別なんかもう滅めち茶ゃく苦ち茶ゃで、科学の力を残ざん酷こくに発揮せられますからなあ。これまでに私は、博士のそのやり方で、ずいぶんにがい体験を経へて来たもんです﹂
﹁醤よ、科学は残酷なものじゃよ。わしはそう思っとる。だから人間は出来るだけ早く科学を征服しなければならないのじゃ。ドイツに於ては――﹂
﹁博士、ドイツの話はもう沢山です。それで私のお願いは、ここに立っている腹ふく心しんの部下で、新たに毒瓦斯発明官に任じました燻精を一週間だけお預けいたしますから、その期間にこの男に対し、新毒瓦斯研究の方針とか企画とか設備とか経費とか、ありとあらゆることを吹きこんでいただきたい。私は、この男の帰還を待って、早さっ速そく全世界覆ふく滅めつの毒瓦斯を発明する鬼と化かして、全力をあげ全財産を抛なげうって発明官と一緒にやるつもりです﹂
醤は、満天の星を吸いこもうとするのではないかと思われるような大口をあいて、芝居気たっぷりに、途方もない重大決意を喚わめき散らしたのであった。
﹁ええ加減にしろ。大たい言げんよりは、ウィスキーじゃ。ペパミントじゃ﹂
金博士が、醤に負けないような大きな声を出し、怒おこった蟷かま螂きりのような恰かっ好こうで、拳げん固こで天をつきあげた。
3
博士の例の地下研究所の一室において、白い実じっ験けん衣いを着た金博士と発明官燻くん精せいとが向きあっていた。
二人は、手に手に盃さかずきを持っている。
実験台の上には、いろんな形をした洋酒の壜が、所も狭く並んでいる。
博士は盃を唇のところへ持って行き、黄色い液体を一口ぐっとのんで、後はしばらく唇と舌とをぴちゃぴちゃいわせた。
﹁……ふーん、どうもおかしい。燻精、お前のんでみろ﹂
﹁はい﹂
燻精が盃を唇のところへ持っていった。
﹁はい、のみました。実にこたえられない、いい酒ですなあ﹂
﹁そうかね。わしには、それほどに感じないが……﹂
﹁博せん士せい、それは先生のお身体の工ぐあ合いですよ。どこかどうかしていられるのです。糖とう分ぶんが出ているとか、熱があるとかでしょう。私には、十分うまいですよ。やっぱりイギリス製のウィスキーだけありますねえ。これは英えい帝てい国こく盛さかんなりし時代の生きい一っぽ本んですよ。間違いなしです﹂
﹁相当にうるさいね、君は﹂
﹁いや、酔よっ払ぱらったんです。これもこの酒の芳ほう醇じゅんなる故ゆえです。そこで先生、酒の実験はこのくらいにして、お約束ですから、かねがねお願いしてありました毒瓦斯研究の指導を早さっ速そくお始めいただきたいのですが……﹂
﹁ふん、毒瓦斯研究の件か﹂
博士は何となく不ふき機げ嫌んに、盃をがちゃんと台の上に置いて、
﹁では醤との契約に基き、正まさしく履行するであろう。神経瓦斯について講義をする﹂
﹁あ、その神経瓦斯というものなら、既にドイツ軍がエベンエマエル要よう塞さい戦せんに使ったということを聞いています。それはもう陳ちん腐ぷな毒瓦斯で……﹂
﹁ドイツ軍が使ったという話のある神経瓦斯は、一いち時じせ性いの神経麻痺瓦斯だ。それを嗅かいだベルギー兵は、恍こう惚こつとなって、しばらく何も彼もわからなくなった。もちろん、機関銃の引ひき金がねを引くことも忘れて、とろんとしておった。気がついたときには、傍そばにドイツ兵がいたというのだ。これは一時性の神経瓦斯だ。一時性では効力がうすい。これに対してわしが考えたのは、持じき久ゅう性せいの神経瓦斯だ。これをちょっと嗅ぐと、まず短くても一年間は麻痺している。人によっては三年も五年もつづく。そうなると、その患者はもはや常人として責任ある任務をまかせて置けなくなる。どうだ、すごいだろう﹂
博士は、ようやく機嫌をとりかえした。
﹁それは、生理学からいうと、どんな作用をするのですか﹂
﹁つまり、脳細胞を電気分解し、その歪ゆがみを持続させるのじゃな﹂
﹁はあはあ、脳細胞を電解して歪みを持続させる……、それはおそろしいことだ。しかし電解させるというのなら、それは怪かい力りょ線くせんの一種ではありませんか。毒瓦斯とはいえないでしょう﹂
燻精師長は、さすがに醤の信任があついだけに、するどく博士に突つっ込こむ。
﹁怪力線の如きものでは、ぴりぴりちかちかと来て、相手に知れるから、よろしくない。もっと緩かん慢まんなる麻痺性のものでないといけぬ。わしの作った神経瓦斯は、全然当人に自じか覚くがないような性質のものだ。臭しゅ気うきはない、色もなくて透明だ、もちろん味もない、刺しげ戟きもない。もちろん極ごく緩慢な麻痺作用を起すものだから、はじめから刺戟を殺してあるのだ。しかもその後いつまでたっても当人は、瓦斯中毒になっているという自覚が起らないのだ。つまり常じょ人うにんと殆んど変りない精神状態におかれてあって、しかも脳の或る部分が日と共に完全麻痺に陥おちいる。そうなると、たとえば、にこにこ笑って人と話をしていながら、手に握ったナイフで相手の心臓の真まう上えをぐさりと刺すといったようなことを、一向昂こう奮ふんもせず周あ章わてもせず、平気でやる。まあ、そういう最も常人らしい狂人に変質させるのが、わしのいう持久性神経瓦斯の効果じゃ。どうじゃな。君もそういう方向のものを考えてみてはどうかな﹂
﹁す、すばらしいですなあ﹂
燻精師長は、盃を置いて、金博士に抱きついた。
﹁よせやい、気持のわるい﹂
と、金博士は燻精を突き放し、
﹁さあ、もうそれだけのヒントを与えてやれば、お前は醤のところへ帰って、早さっ速そく発明研究を始めていいじゃろう。さあさあ、とくとく醤の陣営へ戻れ﹂
﹁はい。では、引揚げましょう。永なが々ながと御ごは配いり慮ょありがとうございました﹂
﹁いやなに、たった十分間の講義だけじゃ。しかしあのウィスキーにペパミント百四十函は、授業料としては至しご極くやすいものじゃ﹂
﹁あれだけの夥おびただしい洋酒を捧ささげても、まだ先生の方が御ごそ損んをなさいますか﹂
﹁それはそうじゃ。甚はなはだわしの方が損じゃ。帰ったら醤に、そういっていたと伝えてくれ。しかし神聖なるバーター・システムの誓ちかいの手前、こっちでもぬかりなく按あん配ばいしておいたと、あの醤めにいってくれ。さあ、引取るがよろしかろう﹂
﹁はいはい承知いたしました﹂
燻精には、何やら腑におちかねる点もあったが、今が引ひき揚あげの潮しお時どきだと思ったので、博士をいい加かげ減んにあしらった。着換えをすますと彼は博士の前に出て恭うや々うやしく三拝九拝の礼を捧げ、踵きびすをかえして、部屋を出いでんとすれば、何思ったか金博士は、急にうしろから呼よび留とめた。
﹁ああ、お帰りはこちらだ。この狭い廊下をずっといって、やがて突当ると、自動式の昇降機がある。それに乗って一階へ出なさい。すると至しご極く交通に便なところへ出る﹂
と博士は、壁の釦ボタンを押し、壁に仕掛けてあった秘密の潜くぐり戸を開いて、指した。
﹁ああそれはどうも。こっちに通路があるとは、全く存ぞん知じませんでした﹂
﹁こっちは特別の客だけしか通さないんだ。暫しばらく誰も通さなかったから、顔に蜘く蛛もの巣がかかるかもしれない。手で払いのけながら、そろそろ歩いていきたまえ﹂
﹁いや、御親切に、ありがとう﹂
﹁どういたしまして。はい、さようなら﹂
潜り戸を入った燻精師長のうしろで、ぱたんと扉ドアのしまる音がした。と同時に、博士が扉の向うで、さめざめと啜すすり泣くような声を聞いたと思ったが……。
4
南国の孤島において、醤しょう委員長は、あいかわらずの裸はだ身かで、事務を執とっていた。例の太い附つけ髭ひげはもう見えない。
そこへ燻精が戻ってきた。
﹁おお帰ってきたか。して、金博士から、すばらしいネタを引き出したか﹂
﹁はい、持じき久ゅう性せいの神しん経けい瓦ガ斯ス……﹂
﹁叱しッ。これ、声が高い!﹂
醤は、手の舞い足の踏むところを知らずといった喜び方であった。彼は、燻精の手をとらんばかりにして、彼を砂すな地じの上に立つ古こじ城ょうへ連れていった。
﹁さあ、ここが毒瓦斯発明院だ。看板も、余よが直じき々じき筆をふるって書いておいた﹂
なるほど、あちこち崩くずれている城門に、毒瓦斯発明院の立て看板が懸かかっていた。
﹁発明場は、すっかり用意をしておいたつもりじゃ。余自みずから案内をしよう﹂
衛兵の敬礼をうけつつ、御両人は城内に入った。
﹁敵空軍の目をのがれるため、外観は出来るだけ荒あれ果はてたままにしておいた。しかし、あの煙突だけは、仕方なく建てた﹂
太い煙突が古城の上にぬっと首をつきだしている。
﹁あれは何ですか、あの煙突は﹂
﹁試しさ作くの毒瓦斯が空高く飛び去るためだ﹂
﹁毒瓦斯は元来空気より重きをよしとするのでありまするぞ。煙突から飛び立つような軽い毒瓦斯てぇのはありません﹂
﹁いや、その重い毒瓦斯の逃げ路も作っておいた。向うに見える太い鉄てっ管かんは、海かい面めんすれすれまで下りている。重い毒瓦斯は、あの方へ排はい気きするんだ。風下はベンガル湾わんだ。海うみ亀がめとインド鰐わにとが、ちかごろ身体の調子がへんだわいといいだすかもしれんが……﹂
醤が毒瓦斯発明院に対して肩の入れ方は、非常なものだった。燻精は、彼の信頼に十分報むくいることが出来ようと自信たっぷりだった。
発明院長に燻精が就しゅ任うにんして、百三十五名の発明官が、その下に仕事を始めることになった。まず設備を作るのに、三ヶ月かかった。それから燻精の講義が三ヶ月つづいた。
燻精の講義は全くすばらしかった。ときどき傍ぼう聴ちょうに来る醤しょ買うか石いせきは、その都度、頤あごの先をつねって恐きょ悦うえつした。
﹁ふふふ、洋酒百四十函が、こんなにすばらしい効きき目めがあろうとは、すこし気の毒だったなあ﹂
燻精の指導ぶりは、目のさめるようであった。
原げん動どう機きは廻転し、ベルトはふるえ、軸シャフトは油をなめまわし、攪かく拌はん機きはかきまわし、加かね熱つ炉ろは赤く焔もえ、湯ゆ気げは白く噴き出し、えらい騒ぎが毎日のように続いた。
そうなると、醤は落ちついていられなくなって、毎日のようにここに足を運んだ。
﹁おい燻精。まだ例の神経瓦斯は出来ないか。出来たら、余に早く見せてくれ﹂
﹁醤委員長よ。今度こそすばらしいものが出来ますぞ。瓦ガス斯み密つ度どが一・六〇〇〇四です。理想的な密度です。おどろいたでしょう﹂
﹁一・六〇〇〇四? よくわからないねえ﹂
﹁精密なること、金博士の製品を凌りょ駕うがしています。かかる精密なる毒瓦斯は……﹂
﹁精密よりも、効目の方が大切だぞ﹂
﹁いや、この精密度なくして、あの忍耐力のつよい敵兵を斃たおすことは出来ん。あ、また霊感が湧わいた。おおそうか、この毒瓦斯に芳ほう香こうをつけるのだ。鰻うなぎのかば焼のような芳香をつけるのだ。無むし臭ゅう瓦ガ斯スよりもこの方がいい。敵は鼻をくんくんならして、この瓦斯を余よけ計いに吸い込むだろう。ああなんというすばらしい着想点だろう! 鰻のかば焼の外ほかに焼き鳥の匂い、天ぷらの匂い、それからライスカレーの匂い等とう々とう、およそ敵兵のすきな香かおりを、この毒瓦斯につけてやろう。なんと醤委員長、すばらしい発明ではないですか﹂
﹁なるほど、積極的吸入性のある毒瓦斯じゃな﹂
醤は、にやりと笑って、燻精院長の手をしっかと握った。
この新製毒瓦斯が、予定の数量だけ出来上ったのは、その年の夏だった。
醤は燻を帯たい同どうし、その毒瓦斯をもって、突とつ如じょ戦線に現れた。
そして朝から時間割を決め、午前七時には鰻の匂いのする神経瓦斯を、午前九時には水すい蜜みつ桃とうの匂いのする神経瓦斯を、午前十一時には、ライスカレーの匂いのする神経瓦斯をと、用意周到な順序で次々に瓦ガス斯だ弾んを、敵軍戦線へ向けて撃ちだしたのであった。
その結果は、どうであったか。
醤買石は、生命からがら、怒どと濤うのような敵の重じゅ囲ういを切りぬけて、ビルマ・ルートへ逃げこむという騒ぎを演じた。
燻精の作った新製の毒瓦斯は、悉ことごとく無力であった。いや、うまそうな匂いをもって、反かえって敵兵をふるい立たしめるという反はん効こう果かがあったくらいであった。燻精は、その戦場において捕虜となり、やがて病院に入れられた。
この顛てん末まつを聞いて、からからと笑ったのは余よじ人んならぬ金博士であった。
彼は唐とう箋せんをのべて、醤買石宛あてに手紙を書いた。
“謹きん呈てい。どうだ、持久性神経瓦斯の効目は。燻精は、わしのところから出ていくとき、特設の通路内で無味無臭無色無反応の持久性神経瓦斯を吸って戻ったのだ。だから、そちらの陣営に帰りついたころから彼はそろそろ、脳細胞の或る個所が変になりはじめたはずだ。彼の発明製造した毒瓦斯なんか、どうして信用がおけようぞ。おい醤よ、これに懲こりて、今後を慎つつしめよ”
なるほど、そうだったか。肝かん腎じんの毒瓦斯発明院長の燻精が、金博士のところを辞じき去ょするとき、瓦斯通路を歩かされ、すっかり瓦斯患者とされてしまったのを、当人はもちろん醤も気がつかなかったのだ。
この手紙を受け取った醤は、たいへん口惜しがって、豆のような涙をぽろぽろ机の上におとしながら、博士に向って抗議文を書いた。その要よう旨しは、
“金博士よ。バーター・システムの取引を承知しておきながら、かの燻精を変質させて送りかえすとは、片かた手て落おちも甚はなはだしい。われに確かっ乎こたる決意あり。しっかり説明文をよこされよ”
すると、金博士が折りかえし返事して曰く、
“醤よ。身から出た錆さびという諺ことわざを知らぬか。燻精を変質させて送りかえしたのは、お前がわしに、表のレッテルとはちがう変質インチキ酒しゅを贈ってよこしたからだ。つまり変質に対する変質の応おう酬しゅうである。わしは、バーター・システムの約を忠実に果したつもりである。質クオ的リティヴのバーター・システムをね。あのインチキ・ウィスキーは悉く黄こう浦ほこ江うへ流してしまったよ。以後お前とは絶ぜっ交こうじゃ”
と、博士は手紙の端はしに黒々と句くと読うて点んをうったのであった。