1
ずいぶんいい気持で、兵器発明王の金博士は、豆まめ戦せん車しゃの中に睡った。
睡すい眠みん剤ざいの覚さめ際ぎわは、縁えん側がわから足をすとんと踏み外はずすが如く、極きわめてすとん的なるものであって、金博士は鼾いびきを途中でぴたりと停めたかと思うと、もう次の瞬間には、
﹁さて、この大使館では朝あさ飯めしにどんな御馳走を出しよるかな﹂
と、寝ねご言とではない独ひとり言をいった。
博士が、年齢の割にかくしゃくたる原因は、一つは博士の旺おう盛せいなる食慾にあるといっていい。
目の前に押おし釦ボタンが並んでいた。
押釦というものは便利なもので、それを指で押すだけで、大たい概がいの用は足りてしまう。以前、博士のところへ、新兵器の技術を盗みに来た某ぼう国こくのスパイは、博士のところにあった押釦ばかり百種も集めて、どろんを極めたそうである。
閑さ話て休題、博士が、その押釦の一つを押すと、豆戦車の蓋がぽっかり明いた。博士はその穴から首を出して左右を見廻した。
﹁やあやあ、この豆戦車を明けようと思って、ずいぶん騒いだらしいぞ﹂
この豆戦車は、某国大使館の一室に、えんこしているのであった。部屋の寝しん台だいは、片隅に押しつけられ、床には棒をさし込んで、ぐいぐい引張ったらしい痕あともあり、スパンナーやネジ廻まわしや、アセチレン瓦ガ斯スの焼やき切きり道どう具ぐなどが散らばっていた。
﹁この大使館にも、余計な御せっかいをやる奴が居ると見える。これだから、旅に出ると、一いっ刻こくも気が許せないて﹂
そういいながらも、博士は別に愕おどろいた様子でもなく、豆戦車からのっそりと外に出た。それからまた、もう一度豆戦車の中をのぞきこむようにして、押おし釦ボタンの一つをぷつんと押した。すると、がちゃがちゃと金属の擦すれ合あう賑にぎやかな音がしたかと思うと、その豆戦車はばらばらになり、やがてそのこまごました部分品や鋼こう鉄てつがひとりでに集ってきて、三つのトランクと変ってしまった。重ちょ宝うほうな機械もあったものである。
博士は、そのトランクを、部屋の隅に重ねて積み上げた。
それから、もみ手をしながら、扉を開けて、階し下たへ下りていった。
博士はずんずん食堂へ入っていった。
﹁おい、飯を喰わしてくれんか﹂
食堂の衝つい立たての蔭から、瞳の青い、体からだの大きい給きゅ仕うじがとびだしてきたが、博士を見ると、直立不動の姿勢をとって、
﹁あ、王おう水すい険けん先生のお客さまでいらっしゃいましたね。では、只今仕した度くをいたしますから、しばらくお待ちを……﹂
といって、周あ章わてて衝立のかげに引ひっ込こんだ。
金博士は、ぶうと鼻を鳴らして、窓ぎわに出た。広い庭園は、今は黄いろくなった芝しば生ふで蔽おおわれ、ところどころに亭あずまやみたいなものがあるかと思うと、それに並んでタンクのようなものがあったり、なにか曰いわくのありそうな庭園であった。
﹁どうも半はん端ぱな庭園じゃな。それにしても、王老師は、どうしていられるのか。おいおいボーイ君、王老師はまだこの大使館へ出勤せられないのか﹂
金博士が、がなりつけるようにいうと、ひょっくり衝立からとびだしてきた給きゅ仕うじ頭がしらが、
﹁は。王老師は、当館にお泊り中でございますが、まだお目ざめになりませんので……﹂
﹁まだ目がおさめにならぬ。はて、年寄のくせにずいぶん寝坊でいらっしゃるな﹂
﹁はい。今までこんなことはなかったのでございますが、ふしぎなことで……。只今、医師が参りまして、診察をして居ります﹂
﹁診察? 老師は、睡りながら病気に罹かかられたのかね。ずいぶん御ごき器よ用うじゃ﹂
﹁いや、そうじゃございません。あまり睡りすぎるというので、一同心配のあまり、医師をよびましてございます。それに醤しょ買うか石いせき先生も、同様一昨日の夜以来、睡り込んでいられますので……﹂
﹁なんじゃ、醤買石?﹂
博士の眼がぎょろぎょろと動いた。
﹁ははあ、読めたぞ。おい、王先生のところへ案内頼むぞ﹂
﹁は。ではこっちへどうぞ﹂
金博士は、給仕頭の案内で、王老師の部屋を訪れた。
博士はその部屋に入ったが、すぐ出て来た。そして元の食堂に戻って来た。
このとき卓テー子ブルの上には、白いクロスが伸べられ、その上には金色のフォークやナイフが並び、卓テー子ブルの用意が出来ていた。
博士は、ナプキンを胸にさし込みながら、食事の催さい促そくをした。
給仕が、燻くん製せいの鮭さけを、金きんの盆にのせて持ってきた。
﹁おや、わしの好きな燻製が朝から出て来るぞ。これは頼たのもしい。彼きゃ奴つらの目の覚めないうちに、腹一杯喰っておくことにしよう﹂
博士の機きげ嫌んは、斜ななめならず、フォークとナイフとを使いながら、何かしきりに呟つぶやいている様子が、たいへん楽しそうに見えた。
そこへ給仕頭が、次の料理を搬はこんできた。金博士は、その給仕頭をとらまえて、
﹁おい、あんちゃん。わしが王先生と醤買石の寝室を覗のぞきにいったことは、内緒にしておいてくれ。これはわしの志こころざしぢゃ﹂
そういって博士は、ポケットから取り出した一つかみの金貨を呆あきれ顔の、給仕頭の掌てにのせてやった。
2
人を咒のろうことについて趣味のある醤しょ買うか石いせきと、彼にうまく担かつがれているとは知らぬ王おう老ろう師しとは、医師の手てあ当ての甲か斐いあって間もなく前後して、目を覚ました。
﹁人払いだ﹂
醤は、目が覚さめるや、大声を発した。
居いそ候うろうなりとはいえ、今を時めくABCDS株式国家のC支店長の号令である。それに愕おどろいて医師は診察鞄をそこに忘れて立ち上ると、部屋附のボーイは、出かかった嚏くさめを途中で停めて部屋を出た。
﹁ああ、王老師。どこへ行かれる﹂
﹁人払いじゃ﹂
﹁ああ、王老師はここに居て頂いただかねばなりません。そうでないと、話が出来ません﹂
﹁するとわしは人の部類に入らない訳じゃな。やれやれ情けない﹂
老師は、無理やりにお臀しりに刺された睡すい眠みん解かい下げざ剤いの注射のあとがまだ痛むので、すこし不機嫌であった。
﹁なに用じゃ、醤どの﹂
老師は、腰がだるくて仕方がないが、立ったままでものをいう。
﹁何よりもまず、余が依いぞ存んいたすことは、老師の手腕と、この某国大使館における始末機関の偉いり力ょくとですぞ。昨夜は失敗しましたが、今日は十分に駆く使しして、金博士を綺麗に始末していただきたい。大丈夫でしょうな﹂
﹁商売熱心なるその言葉、恐れ入ったぞ。今日こそは、始末機関をフルに働かして、邪じゃ弟てい金の奴を片づけてしまうであろう﹂
﹁いや、その御言葉で、余は安あん堵どしました。さあ、後は十分おくつろぎ下さい。ボーイを呼びましょう﹂
醤は、ベッドの上に半身をねじって、枕まく許らもとの押おし釦ボタンを押した。すると枕許のスタンドが、ふっと消えた。
﹁おや、これはボーイを呼ぶ押釦じゃなかったか﹂
醤は、しまったという表情で、今度は壁からぶら下っている釦を押した。すると、とたんにがらがらというしたたかな雑音が聞え、続いてアナウンサー鶯おう嬢じょうの声で、
﹁……今日十六日の天気予報を申上げます。今日は一日中晴天が続きましょうから、空襲警報に御注意下さい。明日はまた天気は下くだり模もよ様うとなり――﹂
醤は、ふうッと猫のような叫び声を出して、部屋の隅のラジオ受信機のところまでいってスイッチを切った。
王老師は、あきれたような顔で、
﹁ああ、アナウンサー鶯嬢も、どうかしているな。今日は十五日であるのを、十六日といいまちがえた。近頃の若い者は、熱心が足りない﹂
﹁老師、今日は十六日ですよ。余の腹心の部下からの報告があったから、まちがいなしですわ﹂
﹁そんなことはない。醤どのは、算術を忘れてしまわれたか。十四日の次は十五日であるが、決して十六日ではない﹂
﹁いや、老師、私たちは、一日余よけ計いに睡ったのですよ。部下の報告から推おして考えると、金博士を睡らせる睡すい眠みん瓦ガ斯スが、余と老師とにも作用した結果です﹂
﹁そんなことはない﹂
﹁いや、そうです。われわれ二人は、金博士が睡ったかどうかをみるために、うっかり金博士の部屋に入ったではありませんか、あのときあの部屋に残っていた睡眠瓦斯を、われわれが吸いこんだのです。そして足かけ二日間に亘りばかばかしく睡りこんだ……﹂
﹁ああ、そうか。いや、それにしても四十幾時間も睡るわけがない。わしの調ちょ合うごうによれば、せいぜい前後十時間ぐらいは睡るように薬の濃のう度どを決めたつもりじゃったが……﹂
﹁しかし結果は、このとおり四十二時間も効きいたのです。ねえ、王老師、失礼ながら老師は、学問的にすこしく疲れていられるのではありませんか。もしそうだとすると、これからあの金博士の奴を、この某大使館の始末機関で始末していただこうと余は大いに期待しているわけですが、それが甚はなはだ覚おぼ束つかないことになりますなあ。老師、大丈夫ですかなあ﹂
醤買石は、心細そうにいう。
﹁濃度をまちがえるような耄もう碌ろくはしないつもりじゃが、はて、どこでまちがったかな﹂
王老師は、しきりに首をひねったり、山やぎ羊ひ髯げをしごいてみたが、一向その不思議は解とけなかった。
3
﹁おかげさまで、十分睡眠をとることが出来まして、長旅の疲れもすっかり癒なおりましたわい。いや、老師のおかげです﹂
食卓に向い合って、金博士が、王おう水すい険けん老ろう師しを恭うや々うやしく拝はいしながらいった。それは老師にとって、いささか皮肉にも響く言葉であった。
﹁いや、お互たがいの年と齢しとなっては、疲れを除くには睡眠にかぎるようじゃ。すなわち、いよいよ年齢をとれば、大量の睡眠が必要となり、すなわち永遠の眠りにつくというわけじゃ﹂
﹁御教訓、ありがたいことでございます﹂
老師は照れかくしに、つまらん講義を始める。
﹁ところで、この酒を一杯献けんじよう。これはこの地方で申す火ウォ酒ッカの一種であって、特別醸じょ造うぞうになるもの、すこぶる美び味みじゃ。飲むときは、銀製の深い盃さかずきで呑めといわれている。ではなみなみとついで、乾盃といこう﹂
二つの銀の盃に、その火ウォ酒ッカはなみなみとつがれた。盃の縁ふちは、りーんといい音をたてて鳴った。
﹁チェリオ!﹂
﹁はあ、ペスト!﹂
金博士は、変な言葉でうけて、盃の酒を、一息に口の中に流しこんだ。
老師も盃を傾けて口の傍そばに持っていった。しかし師は酒を呑んだわけではない。老師の拇おや指ゆびが、その盃についている突とっ起きをちょいと押した。すると、盃の底に穴があいて、酒はこの穴を通して盃の台の中にちょろちょろと流れ込んでしまった。とんだ仕掛のあるインチキ盃だった。
﹁どうじゃ、美びし酒ゅじゃろうが、もう一杯、いこう﹂
﹁さいですか。どうもすみませんねえ﹂
金博士は、またも盃になみなみ注ついでもらって、老師と共に乾盃をくりかえした。
こんなことが三回続けられた。そして、老師の持てる盃は、一回毎に重くなり、そして三回目には、穴の入口まで酒が上ってきた。もうこの上は入らない。
やがて朝ちょ餐うさんは終った。
﹁仲々いい庭園じゃろうが。ちと散歩をしてきたらどうじゃ﹂
﹁はい。では老師先生﹂
金博士は、日頃のつむじまがりもどこへやら、まるで人がちがったように師の前には従順となり、庭園へ出た。
﹁老師は、いらっしゃらないので……﹂
﹁ああ、わしはちょっとソノ……食事のあとで用を達たすことがあるので、そちだけでいってくれ﹂
﹁は。では、散歩をして参りましょう﹂
金博士は、石段づたいに芝しば地ちに下り、そして正確なる歩速でもって、向うの方へ歩いていった。
﹁老師、うまくいったようですな﹂
卓テー子ブルの下から、醤があの長いへちまのような額ひたいをぬっと出した。
﹁叱しッ。ボーイが、こっちを向いている。いやよろしい、窓の方を向いた。……いや、醤どの、うまくいったよ。あの無類の毒どく酒しゅを、まんまと三杯も乾ほしてしまったよ。致ちし死りょ量うの十二倍はある。あと十五分で、金博士の死しが骸いが庭園に転がるだろうから、お前の部下に手配をして、早いところ取片づけるように﹂
﹁そうですか。あと十五分ですか。それは大成功だ﹂
﹁やれやれ、醤どののためとはいえ、殺せっ生しょうなことをしてしまったわい﹂
王老師は、ちょっと後あと味あじのわるさに不機嫌な表情をつくった。
醤は、もう話はすんだと、卓テー子ブルの下から脱だっ兎とのようにとびだすと、部下のつめている部屋へとんでいって、金博士の死骸の取片づけ方を命令した。やれやれこれで、あの恐るべき金博士を始末することが出来たかと、醤買石は、鼻の横に深い皺しわをつくって、大だい満まん悦えつであった。
4
それから二時間ばかり経った。
食堂の隅の卓テー子ブルに、醤と王老師とが向いあい、額をあつめて、何か喋っている。さっきとはちがい、二人の顔付は、共にすこぶるいらいらしているように見えた。
﹁王老師、ことごとく失敗ですぞ。どうしてくださる﹂
﹁どうしてくださるといって、どうも不思議という外ない﹂
﹁余はあのように多額の報ほう酬しゅ金うきんを老師に支払ったのも、当館の始末機関に絶対信頼を置いたればこそです。然しかるに況いわんやそれ……﹂
﹁当館の始末機関は絶対に信頼し得るものじゃったのじゃ、すくなくとも昨日までのところは……。しかしあの金博士に限り効きき目めがないので呆あきれている。察するところ、金博士のあの素晴らしい食慾が、一切を阻はばんでいるのかもしれん﹂
﹁食慾なんかに関係があるもんですか。あの毒酒にしても毒蛇にしても、インチキじゃないかな﹂
﹁そんなことはない。あの毒酒では、過去において千七百十九名の者が斃たおれ、毒蛇では百九十三名が斃れ、いずれも百パーセントの成功を見たのじゃ。殊ことにあの毒蛇に咬かまれた者のあのものすごい苦しみ方に至っては……﹂
﹁それは余も一度見たことがありますが、実に顔を背そむけずにはいられなかったです。その毒蛇と今日の毒蛇と、毒性は同じものですかね﹂
﹁毒性に至っては、今日のやつは、特別激しいものを選んだのだ。しかも今日のやつは、非常に獰どう猛もうで、人を見たら弾丸のように飛んでいって咬みつくという攻撃精神に燃え立っている攻撃隊員というところを五匹ばかり選えり抜ぬいたので、それで相手が斃れないという法はないのじゃ。不思議という外ほかない﹂
﹁ですが、わが部下の話では、その突撃隊の毒蛇が、金博士の腕と足とにきりきりと巻きついたのを双眼鏡でもって確たしかめたというとるですが、博士は別に痛そうな顔もせず、銅像のように厳げん然ぜんと立っていたそうですぞ。本当に突撃隊ですかなあ﹂
﹁すぐとんでいってきりきり巻きつくところから見ても、それが突撃隊員だということが分る。その毒蛇が人じん語ごを喋しゃべることが出来れば、もっと詳くわしいことが分るのじゃが……﹂
話の最中に、醤の部下が、庭の方からあわただしく食堂の中にとびこんできた。
﹁委員長。たいへんです。金博士が、只今これへ現れます﹂
﹁え、こっちへ金博士が……﹂
﹁あ、あの足音がそうです﹂
ずしんずしんといやに底ひびきのする足音が聞える。醤は、泡あわをくっているうちに、逃げ場を失い、またもや卓テー子ブルの下にごそごそと匐はい込んだ。
卓子のシーツの裾すそが、まだゆらゆら揺ゆれている最さい中ちゅうに、金博士がぬっと入って来た。どうしたわけか、金博士は、頭の上から肩のへんにひどく泥を被かぶっていた。
﹁やあ、金どのか。一杯どうじゃ﹂
王老師も、ちょっとおどろいて、前にあった盃をとって差し出した。
﹁いや、酒はもうたくさんですわい﹂
と金博士が、落付いた声でいった。
うむと呻うなった老師は、のみかけの酒を食しょ道くどうの代りに気きか管んの方へ送って、はげしく咳せき込んだ。
﹁いや、老師先生。ここの酒は、あまり感心しませんなあ﹂
﹁そ、そんなはずは……ごほん、ごほん﹂
﹁どうも、感心できませんや、砒ひ素その入っている合ごう成せい酒しゅはねえ。口あたりはいいが、呑のむと胃袋の内ない壁へきに銀ぎん鏡きょうで出来て、いつまでももたれていけません﹂
﹁ま、真まさ逆かね﹂
﹁本当ですよ。気持がわるくなって、庭園を歩いていましたが、ふしぎなことにぶつかりました﹂
﹁ふしぎなことって、それは耳よりな、どうしたのかね﹂
﹁この庭園には、冬だというのに、蛇が出てくるんですよ﹂
﹁ああ一件の……いや、二メートルの蛇か﹂
﹁二メートルもありませんでしたが、頤あごのふくれた猛毒をもった蛇です。トニメレスルス・エレガンスに似ていますが、それよりもすこし長くて九十五センチぐらいありました﹂
﹁それはたいへん。君に咬かみつかなかったか﹂
﹁すこしは咬みついたらしいですが、私は感じがにぶいのでねえ。ですが、脚だの腕だのにきりきり巻きついて歩くのに邪魔をしますので、癪しゃくにさわって、補えて来ました。ほらこれです﹂
金博士は、ぬっと右手をさしだした。その手には、例の蛇が四五匹、ぶらりと下っていた。
﹁うわッ﹂
王老師は、おどろいて、椅子に腰かけたまま、うんと呻うなって目をまわした。
﹁ああ、老師は蛇はお嫌きらいでしたか。これは失礼。では取り捨てましょう﹂
と、博士は手にしていた蛇を、卓テー子ブルの下へ、そっと捨てた。
すると、卓子の下で、
﹁きゃッ﹂
と、只ならぬ悲鳴が聞えたと思ったら、卓子が華はな々ばなしく持ち上り、中から一人の真まっ青さおな皮膚をもった人間がとびだしたかと思うと、衝つい立たてをぶっ倒して、料理場へ逃げこんでしまった。それこそ余よじ人んならず醤買石だったことは、今ここに改めて申すまでもなかろう。
5
﹁王老師。あんな手ぬるいことでは、最もは早やだめですぞ﹂
醤は、老師に詰めよっている。
老師は眉をあげ、卓子をどすんと打った。
﹁まあそう焦あせるな。あの手この手と、まだやることはたくさんある﹂
﹁この上、金の奴に一分間でも余計に生きていられては、余よの面めん目もくにかかわる﹂
﹁さわぐな。いよいよ今日は彼を貴きひ賓んの間に入れることにしたから、こんどは大丈夫だ﹂
﹁ああ貴賓の間ですか。それは素敵だ。見たいですな、中の様子を……﹂
﹁見たいなら、見せるよ。こっちへ来なさい、テレビジョン器械をのぞけば、貴賓室の模様は、手にとるように分る﹂
﹁おお、それはいい﹂
王老師に案内されて、醤はテレビジョン室に入った。高こう圧あつ変へん圧あつ器きがうーんと呻うなり、室内が真まっ暗くらになると、ブラウン管の丸いお尻が蛍ほたるのように光りだして、やがてその上に、貴賓室の内部がありありとうつりだした。
﹁ほら見ろ。何も知らず、金博士のやつ、今入ってきたわ﹂
博士は入口の扉をあけて、部屋の中へ入った。そして扉のハンドルを押して、扉をしめた。
とたんに、高声器から、だだだだンと、はげしい機関銃の音が聞え、画面で見ていると、扉と向いあった壁から濠もう々もうと﹇#﹁濠もう々もうと﹂はママ﹈煙が出て来た。要ようするに、それは扉をしめる拍ひょ子うしに自動式にそこを狙って前の壁の中に仕掛けてある機関銃が一聯の猛射を行やったものである。これが普通の人間なら、まだ扉のハンドルを外はずさないうちに、背中から腰よう部ぶへかけて、蜂の巣のように銃弾の穴があけられること間違いがないのであったが、金博士には、それが一向筋道どおり搬はこばない。博士は、平気な顔で、ちょっと自分の尻をがさがさとかいただけであった。
この光景を見て、醤は怒り、王老師はなげいた。
﹁王老師、あれは弾た丸まぬきの機関銃を撃ったのですかい﹂
﹁おお醤どの。ふしぎという外ほかない。しかしまだあの部屋には、かずかずの始しま末つど道う具ぐがあるから、まだ失しつ望ぼうするのは早い﹂
室内の金博士は、のっそりと、シャンデリアの下に立った。すると、矢やに庭わにそのシャンデリアがどっと音をたてて、金博士の頭の上に落ちてきた。金博士の頭ずが蓋いこ骨つは粉ふん砕さいせられ、こんどこそ息の根がとまったろうと思われたが、あにはからんや、粉砕したのはシャンデリアだけであった。博士は相変らず、銅像のように部屋の真まん中なかに突つっ立たって居り、そして、首にかかったシャンデリアの枠わくを、面倒くさそうに外して床の上に放りだしただけであった。
﹁王老師。見ましたか。あれではシャンデリアが饅まん頭じゅうの皮で出来ているとしか思えないですぞ﹂
﹁ばかいわっしゃい。あの落ちた音で分るが、大した重さのものだ。ほほ、注意、博士が椅子に坐るぞ﹂
﹁椅子に坐ることが、何か重大なる意味があるのですか﹂
﹁まあ、黙って見ていりゃ分る﹂
金博士は、散乱した硝ガラ子スの砕さい片へんを平気で踏んで、窓際に置かれてある安楽椅子に腰を下ろそうとして、椅子に手をかけた。
﹁ほら、腰をかけるぞ﹂
金博士がその安楽椅子の上に腰を下ろすのが眺められた。とたんに、あーら不思議、博士の身体はぶーんと呻うなりを生しょうじて空間を飛び、大きな音をたてて壁にぶつかった。
﹁ほら、あれを見たか。あれが、叩きつける“椅子”じゃ。あれでは硬い壁に叩きつけられて、生なま身みの人間は一たまりもあるまい。可かわ哀いそうに死んだか﹂
﹁王老師、壁に穴があきましたよ。人じん体たいの形をした穴です﹂
﹁何じゃ﹂
﹁そして金の奴の姿が見えませんぞ。あっ、あの穴から、部屋の中をのぞいています。王老師、金は自分の身体で壁をぶちぬき、無事に廊下にとびだして、部屋の中をじろじろみているのですよ。可哀そうに死んだかも何もあるものですか﹂
﹁ふーん、これは想像に絶して、あの金博士め、手てご硬わい奴じゃ﹂
この某国大使館の、いろいろある始末機関をそれからそれへと動員して使ってみたが、どういうわけか、たった一人の博士を片かた附づけることは仲々容よう易いに成功しなかった。
﹁王老師、どうしてくれる﹂
﹁待て、せっかちな!﹂
今や醤買石と王老師の間柄は、湯ゆ気げの出るほど切せっ迫ぱくしていた。
﹁もう一つ、やってみることがある。これなら、きっとうまくいく﹂
﹁どうだかなあ、信用は出来ん﹂
﹁いや、これは確実だ。火かや薬く炉ろの中につきおとして密みっ閉ぺいし、電熱のスイッチを入れて、じゅうじゅう焼いてしまうのだ﹂
﹁本当にそのとおりいくのなら、大したものだが……﹂
﹁きっとうまくいく。さあ見て居れ。今、金博士が、あの廊下の角かどを曲ると、とたんに床が外れて、金の身体は奈なら落くへおちる。その奈落には、火薬炉が大きな口をあけて待っているのだ……﹂
﹁能のう書がきはあとにして、金博士を骨にして見せて下され﹂
﹁いざ、いざ、これを見よや﹂
王水険老師は、この寒中に汗だくだくとなって、廊下の床をおとすスィッチを引いた。
金博士は、廊下をそのときゆっくり歩いていたが、何の考かんがえもなく、この手に引ひっ懸かかって、奈落へ……。それから、がちゃん、がらがらと大きな音がして、身は火薬炉の中に密閉されてしまった。
電気炉のスィッチは入った。じりじりと電熱線は身ぶるいをはじめ、燻こげくさい熱が久振りに人間の膚はだを慕したって、匐はいよってきた。
高熱三時間。これくらい長い間熱すると、人間の肉や皮は燃えおち、人じん骨こつさえ、もう形をとどめず、ばらばらとなって、一つかみの石いし灰ばいとしか見えなくなる。
﹁もうこの辺でよろしかろう。ほう、ずいぶん手間をとらせたわい﹂
と、王老師は、醤立たち合あいで、火葬炉の蓋ふたをぎりぎりばったんと開けてみた。すると、あら不思議、炉の中からは、依然たる姿の金博士がぬっと現われ、
﹁わっはっはっ、わっはっはっはっ﹂
と、あたりかまわず無遠慮な笑しょ声うせいを響かせながら、そこを出て、階段をとことことのぼっていってしまったのである。
金博士は、ずんずんと歩いて、元の居間へ戻って来た。
扉をあけると、部屋はきちんと片づいている。部屋の隅には、博士のトランクが三つ、積み重ねてあるのが見える。
﹁おお、帰ってきたか﹂
博士の声がした――部屋の隅に、その声がしたようである。
博士は、部屋の真中に、黙って直立している。
すると、三つ積んであるトランクの一番上のものが、ころころと下に転ころがりおちた。すると、二つ重ねてあったトランクから、ぬっと人間の首が出た。それは何と不思議にも金博士そっくりの顔をしていた。
すると、こんどは上にのっているトランクがもちあがった。そのトランクに二本の足が生はえた。トランクに足が生えたわけではない、裸の金博士が、真中に穴のあいたトランクを胴にはめたまま立ち上ったのである。裸の博士は、そのトランクを外した。そしてのこのこと立ち現れて、部屋の真中に立っている服装正しい博士と対座した。二人の博士。一体これはどういうわけであろうか。
裸の博士は、そこで大きな欠あく伸びを一つしたが、それから両手をさし出して、服装正しい博士の身体にさわってみた。そして呟つぶやいた。
﹁うむ、よく冷ひえている。十分熱に耐えたようじゃ。彼かや奴つらは、まさかこの人じん造ぞう人にん間げんの胸の中には、液体酸素の冷却装置があるということに気がつかないのじゃろう。いや、ことによると、このごろ彼奴らの前に現れる金博士が、かくの如き人造人間であるということにすら、気がつかないかもしれん﹂
この独ひとりごとから推すと、裸の博士が本当の金博士で、服装正しき博士こそ、身代りの人造人間の金博士であったのである。道どう理りで、毒酒毒蛇も平気だし、弾た丸まにあたっても、壁にぶつけられても死なない筈はずであった。
﹁ああ、この大使館の燻くん製せいの鮭さけと火ウォ酒ッカにも飽あきてしまったわい。もうこれくらい滞在しておけば、王老師の顔も立つことじゃろう。では今のうちに、道具をまとめて、帰るとしようか﹂
そういうと、金博士は、無むぞ造う作さに、人造人間の金博士をばらばらに解体し、それを例の三つのトランクに収めた。そしてこんどはきちんとした旅りょ装そうをととのえ、トランクをかつぐと、莨たばこをぷかぷかとふかしながら、悠ゆう々ゆうとこの館をふらふらと出ていってしまったのであった。