1
某ぼう大たい国こく宰さい相しょうの特使だと称しょうする人物が、このたび金きん博はか士せの許もとにやってきた。
金博士は、当時香ホン港コンの別荘に起き伏ふししているのである。
別荘と申しても、これは熱あた海みの海岸などによくある竹の垣かきを結ゆいめぐらして、湯ゆぶ槽ねの中から垣ごしに三みは原らや山まの噴ふん煙えんが見えようというようなオープンなものではなく、例によって香港の地下三百メートルに設もうけられたる穴あな倉ぐらの中にその別荘があるのであった。
某大国の特使閣かっ下かを、金博士の許へ案内したのは誰あろう、かくいうわたくしであった。その当時、世界通信は、金博士が生死不明なること三十日に及び、まず死亡したものと噂されていたのである。従って、博士に会いたくて焦こげつきそうな焦しょ燥うそうを感じていた某大国の特使閣下も、この噂に突き当られ、落らく胆たんのあまり今にもぶったおれそうな蒼あおい顔色でもって、上シャ海ンハイの大たい路ろ小しょ路うろをうろうろしていたのである。しかし特使閣下は、幸運だった。わたくしという者に、ぱったり行き合ったからである。
﹁やあやあそこに渡らせられるは……﹂
と、わたくしがものをいいかけるうちにも、かの特使閣下はわたくしの姿を認め、手に持っていたステッキもウォッカの壜も、鋪ほど道うの上に華々しく放り出して、ものも得えいわず、いきなりわたくしの小さい身体に抱きついたものである。それは大おお熊くまが郵ゆう便びん函ばこを抱かかえた恰かっ好こうによく似ていたそうな。通り合わせたわたくしの妹が、後のちに語ったところによると……。
﹁何万ルーブルでも出すよ、君。金博士が生きているということを証明してくれればね﹂
と、特使閣下は、腕の中のわたくしを、ぎゅっぎゅっと締めつけながら、声をひきつらせていったことである。
﹁それは有難う。では九万ルーブル、いただきましょう、ネルスキー﹂
﹁えっ、君は手を出したね。じゃあ、金博士はまだ生きていたんだね。ウラー、九万ルーブルはやすい。その倍を支払うよ。さあ、銀行まで来たまえ。どうせ君は、金を受取らなきゃ、喋しゃべりゃすまいから……﹂
十八万ルーブルは、相当かさばって、ポケットに入りにくいものだと感じながら、わたくしはぼつぼつネルスキー特使閣下の質問に答えていた。
﹁……ねえ、金博士は、上海の邸やしきで、時限爆弾にやられて死んだという噂なんだよ。いや、噂だけではない、わしも実じっ地ちけ検んし証ょうをしたが、博士が爆発のとき居たという場所は、すっかり土が抉えぐられてしまって大穴となっている。かりそめにも、博士の肉にく一いっ片ぺんすら、そこに残っているとは思えないのじゃよ﹂
﹁あほらしい。金博士ともあろうものが、死んだりするものですか﹂
﹁いくら金博士でも、身は木ぼく石せきならずではないか﹂
﹁それはそうです。木石ならずですが、たとい爆弾をなげつけられようとも、決して死ぬものですか。おしえましょうか。あのとき博士は、“これは時限爆弾だな、そしてもうすぐ爆発の時刻が来るな”と感じたその刹せつ那な、博士は釦ボタンを押した。すると博士は椅子ごと、奈なら落くの底へガラガラと落ちていった。しかも博士の身体が通り抜けた後には、どんでんがえしで何十枚という鉄てっ扉ぴが穴をふさいだため、かの時限爆弾が炸さく裂れつしたときには、博士は何十枚という鉄扉の蔭にあって安全この上なしであったというのです﹂
﹁なーるほど、ふんふんふん﹂
﹁しかし博士の部屋は、跡あと形かたなくなってしまったので、博士はもうそこにはいられず、或るところへ移った﹂
﹁それはどこかね。早く話してくれ﹂
﹁なにもかも教えましょう。香港にある博士の別荘ですよ、そこは﹂
﹁香港の別荘に金博士は健在か! あーら嬉しや、これでもう大たい願がん成じょ就うじゅだ﹂
という次第で、この特使閣下を、わたくしが案内して、博士のところへ連れていってやったのである。この特使閣下は、自じこ国くさ宰いし相ょうの面おも影かげに生きうつしで、影武者に最適なりとの評判高き御ごじ仁んで、そのままの御面相でうろつかれては、宰相と間違えられていつなんどき面めん倒どうなことが発生するやも知れず、かくてはわたくしが傍そば杖づえをくうおそれがあるので迷惑だから、道どう中ちゅうだけを特に変装して貰うことにした。それで特使は、あの髭ひげを反対の方向へカイゼル髭にぴーんとひねり上げたものである。
2
﹁金博士よ、ぜひとも聴き入れてください。そうでないと、折せっ角かくわしが特使に立った甲か斐いがないというものだ﹂
金博士は、後向きに椅子に腰をかけて、西すい瓜かの種をポリポリ齧かじっている。さっきから何ひとつろくに返事をしない。
﹁ねえねえ金博士。博士は、わしが好んで特使に立ち、好んで味み噌そをつけるのだといわれるでしょうが、わしは自分の名声のために特使に立ったのではない。わが国の存そん亡ぼうの決まる日がすぐそこに見えているために、これが最後のチャンスと奮ふるい起たって立ったのだ。どうぞ愍あわれみたまえ﹂
ネルスキーの熱演に拘かかわらず、金博士は依然として後向きになって西瓜の種をぽりぽり噛みつづける。そこでネルスキーの顔色が、また一段と赤くなって来た。それは大だい焦しょ燥うそうのしるしである。
﹁おお金博士、なぜ黙って居られる。ふん、そうか。さっきから、わしがあれほどくどくどといっても返事をしないところをみると、さすがの金博士も、わが宰相が持ちだした問題があまりにむつかしいために、手出しが出来ないのだな。それに違いない。それ故ゆえ、ろくろく口もきかないのだ﹂
ネルスキーは、ついに勘忍袋の緒を切らしたという風に、あくどい罵ばげ言んをはきはじめた。それでも金博士は、やはり西瓜の種を喰くらうことだけに口をうごかして、ネルスキーのためには応こたえない。が、今度だけは博士の眼がぎょろりと光ったのは、多少ともネルスキーの言葉が博士の皮膚の下まで刺さしたものらしい。
﹁そうじゃないかね金博士。お前さんは、この広い世界に只一人しかいないオールマイティーの科学者だということであるが、へん、オールマイティーが聞いてあきれるよ。ダイヤのクイーンか、クラブのジャックぐらいのところだろう。ねえ、そうじゃないか。わが聯邦が今死守しているシベリア地方から、あの呪のろわしい雪と氷とを奪い去るくらいのことが、お前さんに出来ないのかね。シベリアの各港を不ふと凍うこ港うにして貰いたいというのだ。シベリアに棲すむのに、毛皮の外がい套とうなんか用なしにして呉くれというのだ。ペチカも不要、犬いぬ橇そりなんかおかしくて誰が使うかという風に笑い話の出来るようにして貰いたいのだ。いや、もう何もいうまい。われわれが抱いていた夢はすべて消えた。科学の魔王金博士が健在なる間は、われわれの望みはきっと実現されるものと思っていたが、そもそもそれが思い違いだった。なにが科学の魔王だ。シベリアから雪と氷とを追放するぐらいのことが出来ないで、へん、何が金博士さまだ﹂
﹁やろうと思えば、そんなことぐらい訳なしだ﹂
金博士が、西瓜を噛みくだく間に、ぽつんぽつんと言葉を挟はさんでいった。
﹁ええええええっ!﹂
と、ネルスキー特使は、金博士の言葉をきいて椅子からすべり落ちた。よほどおどろいたものと見える。
﹁あれっ、早はやもう重心方向が変ったかな。この太っちょの特使閣下が安定を欠かいて椅子から滑り落ちるとは……﹂
金博士は、人のわるいことをいう。
ネルスキーは、腰のあたりを痛そうにさすりながら立ち上ったが、彼はすぐ金博士の手をとって押し戴いただき、
﹁そういうこととは存ぜず、さきほどから失礼いたしました。今更ながら、博士の学問の深く且かつ大きいことについては驚きょ嘆うたんの外ほかありません。どうかわが国を救っていただきたい。九十九路ろは尽つき、ただ残る一路は金博士に依存する次第である。金博士よ、乞う自愛せられよ﹂
有うち頂ょう天てんになったネルスキー特使は、まことに現金なごまをする。
﹁で、博士。それなら実際問題として、どういうことをなされます。これは宰相に報告する貴重なる材料となりますので、ぜひお話し置き願いまする﹂
﹁さっきから聞いていれば、わしが一口喋しゃべる間にお前さんは二十口も喋るね。北ほっ国こく人じんには珍しいお喋りじゃ﹂
﹁これは御ごあ挨いさ拶つです﹂
﹁まず何よりも決めて貰いたいのは報ほう酬しゅう問題じゃ。これが成功の暁には何を呉れますかな﹂
﹁ああ報酬ですか。これは申し遅れて、まことに申訳なし。わが宰相から委任されている範囲内でもって、如何様なる巨額の報酬でもお支払いいたす。百ルーブル紙幣を、博士の目の高さまで積んでもよろしいです﹂
﹁いや、ルーブル紙幣の名を聞いただけで、寒さむ気けがしてぶるぶると慄ふるえが出る。そんなものを紙幣で頂いただこうなど毛もう頭とう思っとらん﹂
﹁では何を……。あ、そうそう、カムチャッカでやっとります燻くん製せいの鰊にしんに燻製の鮭さけは、いかがさまで……﹂
﹁それだ。初めから、そういう匂いがしていた。燻製の本場ものはさぞうまいことじゃろう。そっちから申込みの仕事は、その燻製が届いてから始めるから、仕事を早く始めて貰いたかったら、一日も早く現げん品ぴんをわしのところへ届けなさい。では失礼﹂
というと、金博士の姿は忽こつ然ねんとしてその場から消えた。日本人に見せたら、これはきっと金博士が忍術を使ったと思うだろうが、実はさにあらず、例の偏へん光こう硝ガラ子スで作った衝つい立たての中に、博士が入ったためで、博士の方からはネルスキーの方が見えるが、ネルスキーの方からは博士が絶対に見えないのであった。
3
シベリアから雪と氷とを永遠に追放して呉れさえすれば、今こん次じせ戦んに惨ざん敗ぱいをくらった政権が猛然と立ち直り得るというのであった。
金博士は、大だい自しぜ然んり力ょくを向うへ廻してのこの極めて困難なる大事業をわずかの燻製の魚ぎょ類るいを代償に簡単に引受けてしまったのであった。
博士は一体成算があるのであろうか。
いや、これまでの博士のひととなりを知っているわれらは、今度も博士が十分やりとげる自信があって引受けたものと信ずる。それにしても報酬があまりに粗末すぎるようでもあるが、元がん来らい博士は黄金の価値について無むと頓んち著ゃくで、只ただマージナル・ユーティリテーの大なるものこそ欲ほしけれ、という極めて淡白なる性格の人だった。それはそれとして博士は今いかなる計画を胸に描いているのであろうか。
髭の宰相の狙う最後の機会なるものは、シベリアから雪と氷を永遠に追払うことに繋つながれてある。
いかなる学者が聞いても、とたんに気絶するであろうと思われるこの難事を博士はとたんに胸のうちに解決をつけていたのだ。
﹁地ちじ軸くを廻せば、そんなことは自由自在に出来るじゃないか﹂
地軸を廻すとは?
地球は地軸を中心として、反時計式に回転している。
その地軸は、二十三度半の傾けい斜しゃをもち、太陽に対して一年を周期とする大きなかぶりを振っている。だから、温帯では春夏秋冬がいい割合に訪れて生物を和やわらげてくれるが、赤道附近では一年中が夏であり、極地附近は一年中が氷ひょ雪うせつに閉とじこめられている。シベリア一帯などもかなり極地的であって、寒帯と呼ばれる地域が大部分を占めている。さてこそ、やむなくそこへ逃げこんで一いち命めいをもちこたえたのはいいが、後になってくしゃみの連発に気をくさらす者も出来てくる始末であった。これを思えば、なるほど“シベリアから雪と氷とを永遠に追放せよ”との叫びも、彼らの衷ちゅ心うしんからほとばしり出いでた言葉であることが肯うなずかれもし、そして又、そのように途とほ方うもない夢を画えがくことによって僅かに自分を慰めなければならぬほど、窮きゅ乏うぼうのどん底へ陥ってしまったのだとも云える。
しかし、それは普通人の見方というものであって、金博士に限っては︵そうだ、なぜそれを早くやらないのか︶といいたげである。
地軸を廻せば、雪と氷とを追放することなんか訳なしだ、と博士は思っている。たとえば仮かりに北極をワシントンへ持っていったとしたらどうであろうか。シベリアの氷雪はたちまち融とけ去り、さぞ御ごめ迷いわ惑くなこととは思うが、北米合衆国全土は美しき雪せつ原げんと氷山とに化してしまい、凍とう結けつ元がん祖そ屋やさんだけに有ゆう終しゅうの美びをなしたと、枢すう軸じく国こく側がわから拍はく手しゅ喝かっ采さいを送られることになろうもしれぬのである。しかし、そのときには寒帯の方の国は、アメリカとは大反対に、躍りあがってよろこぶことであろう。
かようにして、金博士が地軸を廻せば、新北極や新南極に当った土地の住民は、ぶうぶう云うか、感かん冒ぼうに罹かかって死ぬるのが落ちであろうが、寒帯から一躍温帯に変ったかのエスキモー人など、どのように瞳を輝かして、あのあざらしの服を脱ぎ、俄にわかに咲き乱れる百花に酔うであろうか。
いや、アメリカのことや、エスキモーのことなどはどうでもよろしい。肝かん腎じんのシベリアの話を書き綴つづらねばなるまい。
4
さてもさてもここはシベリアの新モスクバである。
ネルスキー特使が泣き言をならべていったように、今この土地は吹ふぶ雪きと厳げん氷ぴょうとに閉じこめられている。
新クレムリン宮殿は、突とつ兀こつたる氷山の如く擬ぎそ装うされてあった。中ではペチカがしきりに燃えていて、どの室へやも、頭の痛くなるほど饐すえくさかった。宰さい相しょ公うこ室うしつにおいては、例のネルスキー特使が、いかにも宰相らしく装よそおって、大きな椅子に腰をかけていた。
そこへ運うん送そう相しょうクレメンスキーが呼ばれた。
﹁やれクレメンスキーか、待ち兼ねたぞ﹂と、ネルスキーは宰相そっくりの声で、﹁で、早さっ速そくたずねるが、あの一件はどうした。たしかに先方へ届いたか﹂
﹁宰相閣下、あの一件と申しますと……﹂
﹁あの一件を忘れているようじゃ困る。ほら、あれじゃ、燻くん製せいのあれを、ほら中国の金博士に届けろといったあれだ。まだ届けてないんだな、こいつ奴め﹂
﹁いやいやいや、とんでもない。金博士のところへお届けする燻製十箱は、もう三日も前に向うへ着いています。そのことは、書類でもって御報告して置きました筈はずですが﹂
﹁なんだ三日前に届いたのか。書類というはよく途中で紛失するものだ。そういう重大なることは、口こう答とうでするように﹂
﹁申訳ありません。では失礼を﹂
クレメンスキーが、こそこそと去ると、ネルスキーはにたりと笑って、額の汗をふいた。
﹁燻製十箱で、シベリアが常とこ夏なつの国になれば、電信柱も愕おどろいて花を咲かせるだろう。とにかくこれが実現されれば、やすい取引のレコードを作るというものじゃ――しかし金博士は、交換条件のあれを何いつ日ご頃ろから始めてくれるのだろうか﹂
と、ネルスキーは、金博士が一日も早く、シベリアの雪と氷とを追っ払ってくれることを祈るのだった。彼はまた額の汗をふいた。
﹁いやだなあ。今年は石炭が高いから節約して使えといっておいたのに、今日は又やけに燃もやし居るぞ。察するところ、ペチカ委員め、気でも変になったと見える。一つ、呶ど鳴なりつけてやろう﹂
ネルスキーは、電話機をもって、ペチカ委員を呼び出した。
﹁おおペチカ委員部か。おいおい気でも変になったか、この石炭の高いというのに、こんなに燃して、一体国家経済をどうするつもりだ。わしかい。わしはネル、いや宰相じゃ﹂
ネルスキーは、宰相になりすまして、太い口髭をひっぱった。
﹁ああ宰相閣下。それはとんでもない御思い違いであります。私は石炭を無駄使いして居りませぬ。いや本当です。只今ペチカには一いっ塊かいの石炭も燃えては居りませぬ。嘘だとお思いなら、こちらへ来て御覧下さるように……﹂
﹁なにを、うまいことを云って、わしをごま化そうとしても、なかなかごま化されないぞ。たとい宰相閣下を――いや、わしは宰相閣下だが、ごま化されるものか。ペチカに一塊の石炭も入っていないで、こんなにぽかぽかするものかい。わしの額からは、ぽたぽたと汗の玉が垂たれてくるわ﹂
﹁ああ宰相閣下。そうお思いになるのは無理ではありません。今日は外気の気温の方が室内よりも高いのでありますぞ。窓をお開きになってみて下さい。途方もないいい陽気です﹂
﹁外はいい陽気?﹂
ネルスキーは、このとき初めて、或ることに気がついた。夙とくに気がつくべかりしことを、今になってやっと気がついたのであった。彼は思わず指の腹をこすって、ぱちんという音をたて、
﹁あっ、そうか。いや、早いものじゃ。燻製の効果が、こうも早く出てくるとは思わなかった。いや偉大なものじゃ、豪えらいものじゃ﹂
﹁これはこれは過分なる御お褒ほめの言葉で恐れ入ります。本員といたしましては……﹂
﹁莫ば迦か、今のはお前を褒めたのではない。はきちがえるな﹂
﹁はあ。それは御ごひ卑きょ怯うというものです。私と電話でお話になっていて、御褒めになったのですから、これはどうしても私の取しゅ得とくです。そうではありませんか、宰相閣下﹂
その返事の代りに電話機の掛けられたがちゃりという音が、ペチカ委員の耳に入ったばかりであった。彼は大きな白熊を取り逃がしたように思ったが、しかしもう少しネルスキーの気のつき方が遅ければ、既にゲペウの手に懸かかって始末されていたかもしれないのであった。
5
ネルスキーは、廊下を飛ぶように駈けて、早さっ速そく宰相室へいった。それは、今シベリアに不定期の春が来たことを告げて、香ホン港コン会談における彼の功績を宰相に認識せしめんがためであった。
彼が宰相室の前までいったとき、その入口で、沢山の宮廷委員がモートルを担かついだり、蛇だか管んを持ったり、電でん纜らんを曳ひきずったりして、ごったがえしをしている有様を見て愕いた。
﹁ど、どうしたのかね、この体ていたらくは……﹂
ネルスキーは、そのうちの一人の腕をとらえて質問を浴あびせかけた。
﹁さあ、私は訳をよくは存知ませんがね、とにかく冷房装置をここ一時間のうちに取りつけろという御命令です﹂
﹁冷房装置を? ふふん、それは宰相閣下の御命令なのか﹂
﹁いや、私の受けたのは、気象委員部からです。これはここだけの話ですが、宰相閣下は暑さ負けがせられて、心臓に氷をあてておやすみ中だとの噂がありますよ﹂
﹁それはデマだろう。宰相閣下はあのとおり丈夫な方で……いや、しかしこのような温おん気きには初めて遭あわれて、おまごつきかもしれない。おい、貴公は寒暖計を持っているか﹂
﹁私は持って居りませんが、この壁にかかっています。これは自じき記かん寒だん暖け計いですよ。ほう、只今摂せっ氏しの二十七度です。暑いのも道理ですなあ﹂
﹁ほう、二十七度か。うん、シベリアがウクライナ以上の豊ほう庫こになる日が来たぞ﹂
﹁これをごらんなさい。全くふしぎなことがあるのですよ。今からたった十分前が摂氏二十度です。気温は急速に騰のぼりつつあります。おや、また騰りましたよ。いま正に摂氏の三十度。私はもう蒸し殺されそうです。失礼ですが上うわ衣ぎを脱がせて頂かねば、生いの命ちが保もちません﹂
﹁なるほど、これは暑くて苦しい。わしも上衣を脱ごう。ついでにズボンも外はずそう﹂
﹁ふう、暑い暑い。これは一体どういうわけですかな。急に気温は騰るわ、雪は融けるわ、その水蒸気のせいで湿度百パーセント、なんという蒸し暑さでしょう﹂
﹁なるほどなるほど、宰相閣下が氷の塊を心臓の上におのせになるのも無理ではない﹂
といっているとき、部屋の中からは、一人の役人が、頭から湯ゆ気げを立てて、まるで茹うで蛸だこのような真赤な顔で飛び出してきた。
﹁おい、氷はないか。さっきまで全国どこでも有りあまった氷が、今はどこへ電話をかけても無いそうじゃ。懸賞金を出すから、誰でも外へいって氷を持ってこい。宰相閣下の心臓が心配だ﹂
といっているところへ、これは廊下をばたばたと駈けて来た裸の役人がいた。
﹁たいへんたいへん、大だい洪こう水ずいだ。何しろ氷山も雪せつ原げんも一度に融けだしたんだから、町という町、防ぼう空くう壕ごうという防空壕は水みず浸びたしになり、水かさはどんどん殖ふえていく。この新クレムリン宮きゅうも、あと三時間以内には水中に没するぞ。宰相閣下に、そう取次いでください﹂
たいへんな騒ぎが、それからそれへと発展していった。宰相は、新クレムリン宮を後あとにするに際して、委員の一人をしてネルスキーに叱しっ責せきの言葉を伝達せしめられた。
“余よは汝なんじの行き過ぎを遺いか憾んに思うものである。シベリアを熱帯にせよとは、申しつけなかったつもりである。早そう々そう香ホン港コンに赴おもむきて、金博士に談だん判ぱんし、シベリアを常とこ春はるの国まで引きかえさせるべし。その代だい償しょうとして、あと燻製の五十箱や六十箱は支出して苦しからず”
宰相の言葉をうけて、ネルスキーは不思議に銃殺の刑から免まぬかれたことを悦よろこびつつ、直ちに香港に赴おもむいた。
金博士は、最もは早や香港にはいなかった。
博士はどこへいったのであろうか。助手に訊きくと、博士はアルプス山中に行かれたとのことであった。そこで、この助じょ手しゅ君くんを拝おがみ倒たおして、アルプス山中へ飛行機で案内して貰った。
博士は、白い天テン幕トを張って、悠々と作業をつづけていた。
百トン戦車かと思うような巨大な鋼こう鉄てつの怪かい車しゃ輌りょうが数百台、博士の握るハンドル一つによって、電波操縦でギリギリと前進する。その怪車輌が崖がけにぶつかると、爆音をあげて崖はたちまち消え失うせる。その代り一本の茶ちゃ褐かっ色しょくの煙がすーっと立ちのぼり、轟ごう々ごうたる音をたてて天てん空くうはるかに舞いあがっていく。その有様は、竜たつ巻まきの如くであった。
これは人工竜巻とも名付くべきものである。博士は、この人工竜巻を何のために起しているか。それをいう前に、この人工竜巻がどんなものであるかということを説明する方が、順序であろう。
人工竜巻は、アルプス山を削けずりとった岩石が天空高く舞い上っていく姿である。山を削るには、かの怪車輌がある。この怪車輌は、能率三千パーセントと称せられた原げん子しへ変んか換んエネルギーを利用した起きじ重ゅう動どう力りょ発くは生っせ機いきであって、さてこそ連れん山ざんを削り、岩石を天空にとばす。しかもその人工竜巻には予あらかじめ計算によって行ゆく方えが定められてある。その行方は月げっ世せか界いである。地球から四千六百八十粁キロ距へだたったところに、地球と月との重じゅ心うしんがあるが、この重心を稍やや通りすぎるに足るくらいのエネルギーを人工竜巻に与えることにより、あとは自然にアルプス崩くずれの岩石が月世界に到とう達たつする。かくして地球がいくらかいびつになること、人工竜巻の生ずるモーメント、それと月世界の質量の増加することとが、相あい重かさなり合って、遂ついに地軸がかくも廻ったのであった。
﹁ひどいですねえ、金博士﹂と、やっと博士をつかまえたネルスキーは、くどくどとシベリアの焦しょ熱うね地つじ獄ごく化かのことを陳のべて泣きついたが、博士は彼の言葉が耳に入らぬげであった。博士は、いま始めている地軸変動の実験にすっかり興味を吸い込まれている態ていであったが、それでもやがて一ひと言ことだけ、ネルスキーに向って云ったことである。
﹁シベリアから雪と氷とが追放されたことは、誰もが認めているじゃないか。それで約束の取引は立派に済すんでいる。あとの言い分は贅ぜい沢たくというもんだ。吾わが儘まま者ものめが!﹂
そういったきり、もはや博士は缶詰のように口をつぐんでしまったことである。