模型飛行機
丁てい坊ぼうという名でよばれている東京ホテルの給きゅ仕うじ君くんほど、飛行機の好きな少年は珍めずらしいであろう。
丁坊は、たくさんの模型飛行機をもっている。みんなで五六十台もあろうか。これはみな丁坊が自分でつくったのだ。
航こう研けん機きもある。ニッポン号もある。ダグラスやロックヒードの模型もみんな持っているのだ。
﹁おい、丁坊。ベルリンから来た新聞に、こんな新しい飛行機の写真が出ているぜ﹂
などと、ホテルのボーイ長ちょうの長はせ谷が川わさんは、外国から来る新聞によく気をつけていて、珍らしい写真があると、それを丁坊に知らせてくれるのだった。
﹁ふふん、これは素すて敵きだ。プロペラが四つもついていらあ。――長谷川さん、どうもありがとう﹂
そうお礼をいって、丁坊は新聞を穴のあくほど見つめているが、それから一週間ぐらい経たつと、丁坊は大きな叫び声をあげて、ホテルの裏口からとびこんでくる。
﹁長谷川さんはどこにいるの。うわーい、新しい飛行機が出来たい﹂
丁坊は、手づくりのその模型をボーイ長の鼻の先へもっていって愕おどろかせる。
﹁うーむ、これは何処で買ってきたんだい﹂
﹁買ったんじゃないよ。僕が一週間かかってこしらえちゃったんだい﹂
﹁あはっはっはっ。嘘うそをつけ、子供にこんな立派な細工が出来るものかい﹂
と、ボーイ長は本当にしない。
そこで丁坊は怒いかって、それじゃ僕の腕前を見せてやろうというので、この頃はホテルの中で身から体だの明あいたとき、せっせと模型飛行機をつくっている。
ホテルで丁坊が儲もうけたお金のその半分は、模型飛行機材料を買うためになくなってしまう。
丁坊の家族は、お母さんが只ただひとりいるきりだ。お父さんは、今から十年ほど前、なくなった。このお母さんという人が変っていて、丁坊が飛行機模型をつくるのに、ホテルで儲けた尊いお金の半分をつかってしまうので、さぞお怒おこりなんだろうと思っていると、そうではない。
﹁丁てい太たろ郎う︵これが丁坊の本名だ︶は飛行機がすきなんだし、それに手も器用なんですから、わたくしは飛行機づくりならいくらでもおやり、お母さんは叱しからないからねといっているのでございますよ﹂
と、お母さんはすましたものである。
﹁いえね、それにうちの丁太郎は自分で働いて儲けたお金で好きな細工をやっているんですから、云うことはありませんよ。これからの世界は、わたくしたちの昔とはちがいますよ。役に立つことにはどんどんお金をつかわないと、えらい人にはなれませんよ﹂
と、お母さんは近所の奥さんに話をして、とくいのように見えた。こんなふうだから、丁坊はいよいよ飛行機模型づくりに熱心になって、三み間ましかないお家の天井という天井には、いまでは大小さまざまの飛行機模型がずらりとぶらさがっていて、風にゆらゆらゆらいでいる。だから蠅はえなどは、それにおどろいて、丁坊の家に入ってきても、すぐ逃げていってしまう。
このような丁坊の飛行機好きが、後になって、大変なさわぎを起そうなどとは、当人はもちろん丁坊を眼の中に入れても痛くないというほど可か愛わいがっているお母さんにも、全まったくわかっていなかったろう。
戦争の噂
それは、まだごはんにはすこし早いという或る冬の日だった。
丁坊は非番でホテルへはいかず、自分の部屋で、飛行機づくりに夢中になっていた。
そのとき遠くの方で、ピピーという口笛が鳴った。
﹁ああ、口笛が鳴った。清きよちゃんだね。そうだ今日はユンカース機を見せてやろう﹂
そういって彼は、長い竹をとりあげて、天井に釣つってあったユンカースの重じゅ爆うば機くきの模型を畳たたみの上におろした。
ばさーっ。
玄関に、夕刊の投げこまれる音がした。
﹁おーい清ちゃん。こっちの窓へお廻りよ﹂
﹁ああ、いまいかあ。――﹂
とんとんと土をふんで、林りん檎ごのように赤くて丸い顔をした鉢はち巻まきすがたの少年が、にっこりと窓の外から顔を出した。
﹁やあ丁坊。早く見せておくれよ。今日は本社の配達がたいへん遅れちゃったんで、これからいそがなきゃならないんだよ﹂
吉よし岡おか清きよ君しくんは、動物園のお猿のように、窓の鉄てつ格ごう子しにつかまって覗のぞきこんでいる。
﹁じゃ、早く見なよ。これがほら、この前いったユンカースの重爆機だよ。七十四型というのだ。どうだ凄すごいだろう。ドイツでは、今から十年も前に、これを旅客機として作ったんだ。そのころのドイツは、軍用機を一つもつくることができなかったんだが、いざという場合には、この旅客機を重爆機として、祖国を苦しめる敵軍を爆撃するつもりだったんだ。ほら、よくごらんよ。この翼つばさの形は、どうだい。操そう縦じゅ席うせきのところも、ずいぶん凄いだろう﹂
﹁うん、凄いや凄いや﹂
と、清君はしきりに頭をふっている。
﹁もう一台つくったら、君にもあげるよ﹂
﹁うふん﹂と清君は遠慮ぶかい笑えみをうかべたが、
﹁ねえ丁坊、本社で聞いたんだけど、そのうち北の方で大戦争が起るんだってさ﹂
﹁へえ、北の方で大戦争が……﹂
と、丁坊は眼をまるくした。
﹁北の方って、どこだい﹂
﹁北の方って、よくは分らないけれど、つまり北極に近い方をいうのだろうさ﹂
﹁こんな寒いときにも、北極で戦争をするのかい﹂
﹁あんなことをいってらあ、北極の附近なら、年がら年中、氷が張っているじゃないか﹂
﹁それはそうだけれど、あの辺だって、夏になると、すこしは氷が溶けるのだよ、氷山なんか割れるしね﹂
﹁そうだ。――﹂と清君は首をひねって、
﹁いまの大戦争は北極を中心として、シベリヤ、アラスカ、カムチャツカなどという、日本の樺から太ふとや北海道よりもずっと北の方へひろがるだろうといってたぜ﹂
﹁どうしてそんなところに戦争が起るんだい﹂
と、丁坊がたずねると、清君は新聞記者気どりで、
﹁そりゃ分っているよ。北の方で、世界の国々が、自分のために力をひろげておかねばならぬと喧けん嘩かをはじめるんだとさ。ソ連、米国、英国なんて国がさわいでいるんだよ。日本も呑のん気きに見ていられないだろうといっていた﹂
﹁ふーむ、日本もね﹂
そういっているところへ、丁坊のお母さまが飴あめ玉だまを紙につつんで、清君にあげましょうともってきた。
﹁清ちゃんはえらいのねえ。新聞配達をして小さい弟や妹を養やしなっているんだから……﹂
清君はあたまを下げた。
﹁まだお父さんもお母さんも、御病気がよくならないのかい﹂
﹁ええ、まだなんです﹂
変な怪け我が
一家のために、けなげにも新聞配達をして、くらしの足たしにと、わずかながらもお金を稼いでいる清君は、丁坊のように活発ではないが、おとなしい感心な少年だった。
それから三日ばかり経たった日の夜のこと、丁坊はその日も休みで家にいたが、なんとなく、そわそわしていた。
﹁どうしたんだろう。今日は清ちゃんの夕刊配達が、ばかに遅いけれど、どうかしたのじゃないかしら﹂
仲よしの清君の身の上をおもって、丁坊はさすがに心配のあまり、好きな模型づくりもやめてしまった。
時計はもう七時だ。
するとピピーと口笛の音が、表口の方にした。
﹁ああ、清ちゃんが来た﹂
丁坊は、そのままとび上るようにして、自分の部屋の窓をあけた。
﹁おーい。清ちゃん。早くこっちへおいでよ。ばかに今日は遅いじゃないか﹂
夕刊をばさっと投げいれる音がした。
それからばたばたと、窓下へかけてくる小さい足音がした。赤いベレー帽がみえた。その下で白い顔が笑っている。
﹁おや、――﹂
と、丁坊は叫んだ。
﹁おや、ユリちゃんじゃないか。兄さんはどうしたの﹂
意外にも、新聞の入った大きな袋を肩からかけて、窓下に立ったのは清君ではなくて、その妹のユリ子だった。
﹁丁ちゃん。兄ちゃんは、きょう怪け我がをしたから、配達ができないのよ﹂
﹁えっ、兄ちゃんが怪我をしたって。どうして怪我をしたの、そしてどんな怪我なんだい﹂
お母さんもとんで出てきて、けなげなユリ子の手を窓ごしに握って、涙をこぼした。
﹁――さっき、兄ちゃんが沢山の夕刊を持って、この向うの雑ぞう木きば林やしをぬけようとしていると、そのとき、あっという間もなく、頭の上からなんか大きな硬いものが落ちてきて、兄ちゃんの左ひだ脚りあしにあたったのよ。それで左脚がひきさいたように裂さけて、歩けなくなったの。折よく傍そばを自転車にのった酒屋さんが通りかかったから、うちへ知らせてもらったんだけれど、ずいぶんびっくりしたわ。そんなわけで、あたしが兄さんの代りに配達しているのよ。でも夕刊が遅れるといけないでしょう﹂
ユリ子は、けなげにもそういった。丁坊はこのユリちゃんが大好きである。実に、はきはきしている子だったから。
﹁その大きい硬いものって、何だったの﹂
﹁それが分らないのよ。土どち中ゅうに深く入っていて、中々掘りだせないんですって﹂
ユリ子は悲しそうに首をたれた。
﹁なんだろうね、そいつは。清ちゃんを怪我させて、黙って地面の下にもぐっているなんて﹂
丁坊は大へん腹を立てた。
﹁よし、僕が一ついって見てきてやろう﹂
そういって、お母さんやユリ子の停とめるのもきかずに、暗いおもてに飛びだした。
空魔艦
暗い雑木林の中だった。
しかし丁坊は、もともと日本兵のように豪胆者だったから、すこしもおそろしくない。
懐中電灯をてらしながら、中へ入ってゆくと、やがてその場所へ来た。
そこには地面に大きな穴があいていた。附近の笹ささの葉には、清君の身から体だから出た血らしいものがとんでいた。
見たけれど、穴は深いが、なんにもない。ただ一つ土のなかから、丸い環たまと、これについている沢山の麻あさ糸いととをみつけだした。
﹁なんだろう、これは?﹂
と、手にとりあげて見ていたが、そのうちに丁坊は、
﹁ああ、これはたいへんなものだ。成せい層そう圏けんという高い高い大空のことをしらべる風船の破れたものだ。この下に機械がついているはずなんだが、どこにあるんだろう﹂
そういって、彼はあたりを懐中電灯でもってさがしはじめた。
そのとき近ちかくで、ふと足音が聞えたと思ったら、
﹁あっ、――﹂
と、丁坊がさけぶひまもないほどすばやく、彼の頭の上から、なにか大きな布きれがばさりと被かぶさった。
﹁ううー﹂
と、呻うなってみたが、もうだめである。何者とも知らず、二三人の大人があつまってきて、丁坊のからだをかるがると抱だき上げた。そして丁坊をどこかへ連れてゆく。
そのうち丁坊は、なんだかいいにおいをかいでいると思っているうちに、たいへんねむくなった。
どこへ連れられていったのやら、またどのくらいたったのかはしらないが、おそらくずいぶん長いことたった後あとなのであろうが、丁坊は、はっと眼がさめた。そのとき彼が一番はじめに気がついたのは、ごうごうという洪こう水ずいが流れるような大きな音であった。
なんの音だろう。
と、思う間もなく、身体がすーっと下に落ちてゆく。
﹁はてな、――﹂
と思うまもなく身体は停った。目を明いてみると、小さい西洋風の寝台に寝ているではないか。部屋は小さい。あたりを見ると、誰もいない。
﹁ここはどこだろう﹂
そう思った彼は、寝台のそばに小さい丸窓のあるのに気がついて、顔をそっとその方へよせた。そのときの愕おどろきくらい、丁坊にとって大きい愕きは外になかった。
﹁うわーっ、飛行機にのっているのだ﹂
しかしその愕きは、まだまだ小さかった。彼の目がひょいと向うの方にうつると、
﹁ああっ、――﹂
と、愕きのあまり息がとまるように思った。
なんであろう、あれでも飛行機なのであろうか。まるで要よう塞さいに羽根が生えてとんでいるようだ。
それが世にもおそろしい空魔艦とは知らず、丁坊は小窓にかじりつくようにして、向うを飛ぶその空魔艦の姿に見入った。
空中戦のはて
いつの間にさらわれてしまったのか、丁坊が気のついたときは飛行機のなかの寝台にねていたのだ。ところがその飛行機も、ただの飛行機ではなかった。
空魔艦とよばれる世界一のおそろしい飛行機であった。まるでお城に翼をはやしたような、ものすごいかっこうをしている空魔艦であった。
大砲や機関銃やらが、いくつあるのかちょっと見たくらいでは、数かずがわからないというたいへんな攻撃力をもっていた。
その空魔艦のおそろしい姿を、丁坊は窓のそとに見た。そこをとんでいるのだった。丁坊ののっている飛行機も、やはり空魔艦であった。つまり二台編隊で、ゆうゆうと空をとんでいるのである。
一体どこをとんでいるのだろう。そしてどこへゆくのだろう。
丁坊は、窓から地上をのぞいてみた。
見なれない景色がみえた。雪がふっていてまっしろだ。いや、氷山のようなものも見える。空は、いまにも泣きだしそうに灰色であった。
﹁ずいぶん北の方らしい﹂
丁坊は、そのときはまだなんにも分らなかった。氷の山が見えたり雪がいちめんにふっているから、北の方の国だと思ったばかりであった。
もしそのとき丁坊が、いま窓から下に見える土地が北極にごくちかい寒帯地方だと知ったらどんなにおどろくだろう。
いや、そんなことにおどろかなくてもいいことになった。もっともっとびっくりすることが向うからやってきた。
ダダダダダン。ダダダダダン。
いきなりはげしい機関砲の音であった。びりびりと、機のなかのかべがふるえた。
びっくりして窓からそとをみると、いつの間にあらわれたのか、上空から戦闘機が身がるにすーっとおりてくるのが見えた。
一機ではない。二機、三機、四機、五機――みんなで五つか六つある。それがいずれも編隊をくんで、まっさかさまにこっちを狙いうちにまいおりてくるのだ。
どどーン、どどーン。
大きな砲門もひらいた。
空にぱっとうすずみいろの煙が、ハンカチの包みをほおりだしたようにあらわれる。
こっちの空魔艦からうっているのである。
ダダダダン、ダダダダン。
向うの飛行機からも、機関銃が火のような弾丸をぶっぱなす。ときどきこつんと音のするのは、機体に敵の弾丸があたった音にちがいない。
フワーッと、敵機は空魔艦のまわりであざやかな宙がえりをうって逃げる。
そこをつづいて、ダダダダンとうつ。
おそろしい空中の戦闘だった。なぜこんなことが始まったのであろうか。
えらいチンセイ
まるで大おお象ぞうを、燕つばめの群むれがおいまわすような恰かっ好こうだ。――空魔艦と、敵の戦せん闘とう機きとの空中戦は。
空魔艦もいらいらしてきたらしい。
うちだす砲声も銃声も、いよいよさかんになり、そのはげしい砲ほう火かのため、耳もきこえなくなりそうだ。
どどどーン。
ダダダダダン。
そのうちに、敵の戦闘機の一機に、こっちの弾があたったらしく、つばさがぶるっとふるえると、たちまち黒煙をあげて、きりもみになって落ちていった。
﹁みごとに撃げき墜ついだ﹂
げきつい――という言葉はよくきくが、そのげきついを見るのはこれがはじめての丁坊だった。
﹁じつにものすごいなあ﹂
丁坊は感心をした。
それをきっかけに、空魔艦のねらいはますます正確になっていって、一機またつづいて一機もうもうたる火かえ焔んにつつまれ、いずれも地上におちていった。
それをみるより、のこりの三つか四つの敵機もおじけがついたのか、くるっと機首をまげて、向うへとんでいった。敵は空魔艦にかなわないとみて、どんどんにげだしたのだ。そうして遂に、敵機のすがたは見えなくなった。
空魔艦は、べつに後からおいかける様子もなく、ゆうゆうと高い空をとびつづけるのであった。
﹁なんという強い飛行機があったものだろうか。一体どこの飛行機なんだろう﹂
丁坊はすっかり感心したり、ふしぎにおもったりした。
空中戦がすっかりすんでしまうと、丁坊は身から体だを寝台の上によこにしているのが退屈になった。
﹁誰かこないかなあ﹂
つい、そういってひとりごとをいったときに、この寝台の室の扉がさっとひらいた。そして扉の向うからひょっくり顔を出したのは、二十五六の背広の洋服をきた男であった。
その顔をみると、たしかに東洋人であった。丁坊は毛布にあごのところまでうずめながら少し安心した。
その男は、腰をかがめて丁坊の額ひたいへ手をやった。そしてううーと呻うなった。丁坊は目をつぶって狸たぬきねいりをしていたのだが、このときぱっと目をあいてにこにこと笑った。
すると、背広男は、うわーっとおどろいて丁坊の前からにげだしたが、扉のところでおもいかえしたらしく、また丁坊のところへやってきた。そして丁坊の耳のところへ口をあてて、
﹁おれチンセイだ。この飛行機の中のありとあらゆる室を見まわっているえらい人間だ。おれをうやまったがいい。どうだ少年、もう気ぶんはなおったか﹂
といった。
チンセイのもののいい方は、日本人ではない。どうやら中国人みたいである。
国のない国
丁坊は寝台の上からチンセイに、ていねいに礼をいった。気ぶんもわるくはないこと、しかしおなかがたいへんへったことを話した。するとチンセイは、ぷいと座をたっていったが、まもなく金属せいの丼どんぶりのようなものをもってきた。そのなかからは、あったかそうに湯ゆ気げが立っていた。それを喰たべろというので、なかを見ると、うまそうな中華そばが入っていた。
中華そばを喰べながら、丁坊はどうして自分がこんなところへつれてこられたのかときいた。
﹁さあ知らないね﹂
﹁でもチンセイさんは、この飛行機の各室を見まわっているえらい人だというから、知らないことはなかろう﹂
﹁うん、えらいことはえらいが、知らんことは知らないよ。しかし今に機長が話をしてくれるだろう﹂
﹁えっ、機長てなんだい﹂
﹁機長かね。機長はこの飛行機の中にのっている百二十人の人間のなかで、一等えらい人のことだ﹂
﹁ああそうか。船でいうと、船長みたいなものだね﹂
と丁坊はいったが、内心にはこの飛行機に百二十人もの人間がのっているときいて、非常におどろいた。今までに、そんなに沢山の人間がのりくんでいる飛行機の話をきいたことがない。
﹁チンセイさん。この飛行機は、なんのためにこんな寒いところを飛んでいるのかね﹂
﹁それはわかっているじゃないか。客と荷物をはこぶためだ﹂
﹁うそいってらあ﹂と丁坊はやりかえした。
﹁だって、さっきはどこかの戦闘機とたいへん激しい空中戦をやったじゃないか。戦争をやるこの飛行機が……﹂
﹁うう、まあ待て﹂とチンセイはあわてて少年の口をおさえた。
﹁それを見たか。あれは、こんなさびしいところを飛んでいるとああいう空中のギャングがよく現れるのだ。だからこっちでも大砲や機関銃をもっていて、空中のギャングをああいう風におっぱらうんだ﹂
﹁そうかね﹂丁坊は、よく分らないけれど、分ったような返事をした。
﹁チンセイさん、この飛行機には名前がないのかい﹂
﹁名前はあるよ。それは――つまり日本語でいうと﹃足の骨﹄というんだ﹂
﹁えっ、﹃足の骨﹄! へんな名前だなあ。いったいこの飛行機は、どこの国のものなんだい﹂
﹁どこの国の飛行機?﹂
チンセイの顔色が急にあおくなった。彼はいままでのように、すぐには返事をしなかった。やがて彼は、ふるえ声で丁坊の耳にそっと伝えた。
﹁おい、おどろくな。この飛行機はね、世界のどこの国の飛行機でもないんだ。つまり国のない国の飛行機なんだ﹂
氷上の怪人
﹁ええっ、国のない国の飛ひこ行う機き!﹂
国のない国って、どんな国のことだろう。
丁坊は、まるでなぞなぞの問題をだされたように思った。
そのうちに、空魔艦はにわかに高度を、ぐっとさげはじめた。
じつに上手な操縦ぶりだ。
たちまち白い地上は、すぐ近くにもりあがってきた。
下は氷でおおわれている。どうみても極地の風景であった。
その広々とした氷の上に、ばらばらと黒い点があらわれた。よく見ると、人間らしい。
空魔艦はエンジンの爆音もたからかに、どしんと氷上についた。
どこかでブーブーと、サイレンがなりひびいている。
長い滑走をしたあげく、やがて空魔艦の停ったところは、小山のような氷山の前であった。
チンセイはあわてて部屋をとびだしていった。
丁坊は、窓のところに顔を出して、ものめずらしげに、あたりの氷山風景をながめまわした。
よくみると氷山の下がくりぬいてあって、大きな穴ができている。その穴が格かく納のう庫こになっているらしく、空魔艦と同じ形の飛行機がおさまっている。穴の中からは、毛皮をきた人間が、ぞろぞろ出て来て、こっちへかけつけてくる。どうやらここは飛ひこ行うこ港うらしい。
どうなることかと、丁坊は片かた唾ずをのんで窓の外の、人のゆききをながめている。
するとそのとき、少年のうしろの扉があらあらしく開いた。
はっとうしろをふりかえると、防ぼう毒どく面めんに防ぼう毒どく衣いをつけた人相のわからない者が、二人ばかり入ってきた。
なにか分らぬ言葉で叫ぶと一人が逞たくましい両腕をのばして、丁坊をむずとつかまえた。
﹁な、なにをするんだ﹂
丁坊は、力のかぎりはねまわった。が、とても大人の力に及ばない。そのうちにもう一人がもってきた袋のようなものの中に、丁坊のからだはすぽりと入れられてしまった。その袋は丁坊の首のところでぎゅーとバンドがしまるようになっていた。
二人の怪しい男は、防毒面の硝ガラ子スごしに、にやりと笑ったようである。
それから二人は、丁坊を入れた毛皮の袋を両方からかついで、飛行機の外にはこびだした。
一体どうなることだろう。
丁坊の運命はいまや、あやしいみちをとおっている。
やがて丁坊の入った袋は氷上にどしんとおかれた。
すると左右から、いずれも怪しい服をつけた人間が十四五人あつまってきて、丁坊をまんなかにぐるりとまわりをとりまいてしまった。
危あやうき一いち命めい
毛皮の袋の中に入れられ、首だけちょこんと外に出している丁坊を、ぐるりと取巻いた十四五名の防毒面の怪漢たちは、丁坊を指しながらなにごとか分らぬ国のことばで、べちゃくちゃと喋しゃべっていた。
﹁なんだ。なにを騒いでいるのだろう。ははあ! 僕をどう始しま末つしようかと相談しているらしいぞ﹂
丁坊は、怪漢たちの心の中をそういう風に察した。
そして、どうなるのだろうと成なりゆきをみていた。はたして、しばらくすると、その中の一名が、ほかの人をおしのけて、丁坊のまえにつかつかと出てきた。そしていきなり丁坊の鼻のさきへ、ピストルの銃口をむけた。
﹁あッ、僕を殺そうというんだな。殺されてたまるものか。うぬッ――﹂
と、丁坊は、かなわないまでも、その怪人にくいつこうと思って、一生懸命に立ちあがろうとしたが、どうして立ちあがれるものか。なにしろ丁坊は、首だけ外にだして袋の中に入っているんだから、まったく自由がきかない。くやしいが、ついにこんな見もしらぬ氷原の上で、防毒面の怪人に殺されるかと思い、丁坊は非常に無念であった。
すると、そのとき別の人がつかつかと出てきて、ピストルを持つ人の手をおさえた。ピストルを持っていた人は怒おこったらしい。二人が争うのを見ていた残りの人も、結局ピストルをうとうとした人をおし止めた。
﹁なんだ! 生いの命ちは助かったのか﹂
丁坊は弱味を見せまいとしたが、さすがに嬉しかった。
しかしはたして、それは嬉しがることであったろうか。いや、丁坊は知らないけれど、彼の一命を助けた人というのは、この氷上の怪人団の智ちえ恵ぶく袋ろといわれている人物であって、やがてこの丁坊を、死よりも、もっとつらい仕事に使おうとしているとは、神ならぬ身の丁坊は知るよしもなかった。
やがて中国人チンセイがよばれた。
チンセイは丁坊の張番を命ぜられたのだ。十四五人の怪人は、もう用がすんだという顔つきで、大空魔艦の格納庫の方へすたすたと歩いていった。
﹁チンセイさん。僕のことを、あの人たちはどういってたの?﹂
と、丁坊はチンセイに話しかけた。
﹁うむ、何にも知らん﹂
チンセイはかぶりを振った。知っていても喋ると叱しかられるのが、こわいという気もちらしかった。
﹁ねえ、チンセイさん、云っておくれよ。僕はどうせこんな風に捕虜になっていて、逃げようにもなんにも出来ない身体なんだよ。すこしぐらい、僕の知りたいと思っていることを教えてくれたっていいじゃないか﹂
丁坊は、ここを先せん途どと、チンセイの心をうごかすことにつとめた。
チンセイはもともとお人よしであるらしく、丁坊の言こと葉ばにだんだん動かされてきた。
﹁じゃあ、話をしてやるが、黙っているんだぞ。こういうわけなんだ――﹂
チンセイは、怪人たちに気け取どられぬよう、そっぽを向いて早口で語りだした。はたして彼はどんなことを口にして、丁坊の心をおどろかそうとするか?
空魔艦の秘密
﹁おい丁坊、ほんとをいうと、おれは空魔艦﹃足の骨﹄のコックなんだ。料理をこしらえたり、菓子をつくったりするあのコックだ。おれは、お前と同じように、攫さらわれてきたんだ。それはおれが杭こう州しゅうで釣をしているときだったよ。突然袋を頭から被せられてかつがれていったのだ。あれからもう三年になる。早いものだ﹂
そういってチンセイは、ふかい溜ため息いきをした。
﹁チンセイさん。僕のことを早く話しておくれよう﹂
﹁おう、そうだったな﹂
とチンセイはわれにかえり、
﹁なんでもお前は、この空魔艦の秘密を見たそうじゃないか。空魔艦がとんでいるところを見たんだろう。そういってたぜ﹂
﹁嘘だよ。空魔艦なんか、僕の村にいたときは見なかった。ただ林の中で、成せい層そう圏けんの測定につかった風船や器械が落ちているのを発見しただけのことだ﹂
﹁それ見ろ。そいつが困るんだ。おれは三年前、この仲間に入ったから、多少は知っているんだが、この空魔艦の一つの仕事は、あの高い成層圏を測量し、そして世界中のどの国よりも早く、成層圏を自由に飛ぼうと考えているらしい﹂
﹁なぜ成層圏なんて高い空のことを知りたがっているのかい﹂
﹁それはつまり――つまり何だろう、成層圏を飛行機でとぶと、たいへん早く飛行が出来るのだ。たとえば今、太平洋横断にはアメリカのクリッパー機にのってもすくなくとも三日間はかかる、ところが成層圏までとびあがって飛行すれば、せいぜい六時間ぐらいで飛べるんだ。ただし空魔艦ならもっと早く飛べるよ﹂
﹁へえ! 空魔艦も成層圏をとぶのかい﹂
﹁そうさ、第一あのふしぎな恰好を見ても分るじゃないか﹂
丁坊はチンセイの物語に、たいへん心がひかれた。
﹁――だがね、僕が林の中で成層圏探険の風船がおちているのを見ていたぐらいで、さらうのは、おかしいじゃないか﹂
﹁そうじゃないよ。空魔艦が、そういうものを日本の国の上で測量しているのが知れては困るというんだ。だからお前をさらってきたんだ﹂
﹁へえ、一体、空魔艦は、どこの国の飛行機なのかね﹂
﹁うふん、また訊きいたね。いくど訊いても同じことだ。空魔艦は、世界のどこの国の飛行機でもないんだ。それ以上は、今は云えない。しかし気をつけたがいい、お前は逃げないかぎり日本へは帰れないだろう。あの人たちはお前を逃がさんつもりらしいぞ﹂
﹁ええッ、日本へかえさないって﹂
そういっているところへ、格納庫の中で手入れをしていた空魔艦が、出発のためにしずしずと巨体を氷上にあらわした。そして例の十四五人の怪人たちが、チンセイと丁坊の待っている方をむいて駈けてきた。
僚りょ機うき﹁手ての皮かわ﹂
空魔艦﹁足の骨﹂は、出発の位置についた。
この巨機の窓という窓からは、いろいろな顔がのぞいている。しかしどれもこれも防毒面を被かぶっているので、下から見ると、異様なお化けが巨人飛行機にのっているとしか見えなかった。
﹁さあ、はやく乗った!﹂
十四五人の怪人たちは、手まねをして、チンセイに、機の中に入るように命じた。この十四五人の怪人は何者であろうか。これこそ実は、この空魔艦の主脳部の人たちであったのである。
チンセイが乗ると、怪人は丁坊のそばによってきて、かるがると両方からぶらさげた。そして、よいこらと空魔艦のなかに積みこんだのであった。
どこへ空魔艦は行くのか。
爆音が高くひびくと、空魔艦は氷上に滑かっ走そうをはじめた。ぴんと張った両翼は、どう見ても巨大ないきもののように思えてならない。そのうちに空魔艦はふわりと空中に浮いた。
チンセイは丁坊のそばにいる。
﹁チンセイさん。もう一つの空魔艦は、ついてこないのかい﹂
﹁いや、一緒に来るはずだよ。ほらほら、いま滑走をやっているよ﹂
丁坊は身体の自由がきかないから、外が見えない。
﹁もう一つの空魔艦は、なんという名前なの﹂
﹁ああ、あれかい、あれは﹃手の皮﹄というんだ﹂
﹁へえ、変な名前だね。これが﹃足の骨﹄で、もう一つのが﹃手の皮﹄かい﹂
﹁足の骨﹂と﹁手の皮﹂の二機は、ぐんぐん高度をあげて、北の方にとんでゆく。
﹁チンセイさん﹂
と、また丁坊がよびかけた。
﹁なんだい、丁坊。ちと黙っていろよ﹂
﹁だってチンセイさん。僕はこうして、いつまでたっても毛皮の袋の中に入れられたっきりだぜ。いやになっちまうなあ。チンセイさんから頼んで、僕を袋から出してくれないか。僕はもう逃げやしないよ。日本へ帰ることもあきらめている。だけれど、こんな窮きゅ屈うくつな袋の中にいれられているのはいやだ。出して呉くれればコックのことだって、ボーイの役目だってなんなりとするよ﹂
丁坊は熱心さを顔にあらわして、チンセイに頼んだ。
﹁そうだなあ﹂とチンセイはようやく本気になって、
﹁じゃあ一つ、機長の﹃笑わらい熊ぐま﹄さんに聞いてみてやろう﹂
﹁﹃笑い熊﹄だって?﹂
﹁ああそうだよ。それが機長の名前なんだよ。じゃおとなしくして、しばらく待っておれ、いいか﹂
チンセイは背広のポケットに両手を入れたまま立ちあがった。
難なん破ぱせ船ん
丁坊は、チンセイの帰ってくる足音を、いまかいまかと待ちつづけた。チンセイはうまく話をしてくれたかしら?﹁笑い熊﹂機長は、丁坊を自由にしてくれるかしら。
どやどやと、入りみだれた足音が近づいてきた。チンセイ一人ではなさそうだ。ではうまく行ったのかと思っていると、扉がガチャリと明いた。
真先に入ってきたのは、例の防毒面の怪人で、一番えらそうな人物――これこそ機長の﹁笑い熊﹂であると知られた。
そのうしろからチンセイや、主しゅ脳のう部ぶの怪人たちがつづいた。
チンセイは﹁笑い熊﹂のうしろからとびだしてきて、丁坊のそばにすりよった。
﹁おい丁坊。機長さんに話をしたところ、お前を自由にするまえに、一つ試験をするといっているぜ。その代り、この試験に及第すれば、この空魔艦の一員にとりたててやるというのだ。しっかりやれ﹂
丁坊は、うなずいた。試験もよかろう。とにかく早く自由にしてもらわねば、どうすることも出来やしない。
﹁笑い熊﹂が手をあげて合図すると怪人たちは太い針金でもって、丁坊の身体をぐるぐると捲まいてしまった。
どうするのかと思っていると、﹁笑い熊﹂がチンセイをよんで、なにごとかを命令した。
それを聞いていたチンセイは、窓のそとをのぞいて、さっと顔色をかえた。そして丁坊のそばによって、気の毒そうな声でいった。
﹁丁坊、いまから試験が始まるそうだ。これからお前は、地上におろされるのだ。そしてそれから先、どんな目に遭おうとも、黙って我慢していて、後にわれわれが迎えに行くまで待っているのだ、いいか﹂
地上におろされる?
どういう風におろされるのだ。彼の身体は、いま針金でぐるぐる巻まきにされている。なんだか一向わからない。
﹁笑い熊﹂が、またさっと手をあげた。
すると怪人たちは、いきなり毛皮の袋に入った丁坊をだきあげて、窓の外に出した。
﹁呀あッ、――﹂
目がくらくらした。はるかに何百メートル下の氷原が、きらきら光っている。
丁坊の身体は、そろそろと下る。
針金がだんだんのばされるのだ。針金一本が丁坊の生命の綱だ。
おそろしい宙ちゅ釣うづりとなった。ぱたぱたと板のように硬い風が、丁坊の頬ほほをなぐる。そして身体はゴム毬まりのようにゆれる。いまは遉さすがの丁坊も生きた心持がない。
一体どうするのか。このまま下すのだろうか。どこへ下して、なにをさせようというのか。
このとき丁坊は、すこしずつ近づく下界を見た。いま空魔艦は、だんだん高度を下げながら一つところをぐるぐる廻って飛んでいるようだ。
﹁おお、あれは何だ﹂
そのとき丁坊の眼に入ったものはなんであったか?
﹁船だ、船だ!﹂
それは船であった。氷原の真まっ只ただ中なかに、氷にとざされて傾いている巨船であった。
ああ北極の難なん破ぱせ船ん! あれが着陸地らしい。
なぜ丁坊は、そんなところへ、ただ一人で下ろされるのか!
いよいよ奇怪な空魔艦の行動であった。
吊つり綱づな
空魔艦の上から、一本の綱でもって宙につりさげられた丁坊は、気が気ではない。
丁坊の身体こそは温い毛皮で手も足も出ないように包まれているけれど、顔はむきだしになっていて、氷のような風がびゅうびゅうと頬ほっぺたをうつ。顔一面がこわばってしまって、すっかり感じがなくなり、まるで他ひ人との顔のような気がするのであった。
下はまっしろに凍こおりついた氷ひょ原うげんである。
ものの形らしいのは、氷上の難破船一つであった。
﹁あれはどこの国の船だろうかなあ﹂
もちろん檣マストには、どこの国の船だかを語る旗もあがっていず、太い帆げたも、たるんだ帆ほづ綱なもまるで綿でつつんだように氷つら柱らがついている。
丁坊をつりさげた綱は風にあおられて、いまにもぷつりと切れそうだ。切れたが最さい後ご、いのちがない。なにしろ氷上までは少なくとも七八百メートルはあるだろう。綱が切れれば、身体は弾丸のように落ちていって、かたい氷にぶつかり、紙のように潰つぶれてしまうであろう。
迫せまってくるこわさに、ともすれば丁坊の気は遠くなりそうだ。目まいがする。頭はずきんずきんと痛む。
﹁これはとても生命はないらしい。空魔艦の乗組員はひどいやつだ﹂
丁坊は、曲らない首をしいて曲げて、上を見た。空魔艦は悠々と上空をとんでいる。
﹁おや、また綱をくりだしているぞ﹂
丁坊が出てきた窓のところから四五人のマスクをした顔がのぞいている。そしてにゅっと出た手が、しきりに綱を下へおろしている。
﹁いくら綱をおろしたって、とても氷の上にはいかないのに﹂
そう思っているうちに、丁坊の身体は急に猛烈なスピードでどっと落下をはじめた。
﹁あッ、綱が切れたんだ﹂
丁坊は愕おどろきのため息がつまった。目を開こうと思ってもしばらくは目があかなかった。いよいよもうおしまいだ。﹁笑い熊﹂機長の大うそつきめ!
この間かん数十秒というものは、丁坊が生れてはじめて味わった恐ろしさであった。
だが、これでいよいよ自分は死ぬんだなと覚悟がつくと、こんどは急に気が楽になった。そして変なことだが、なんだかたいへん可お笑かしくなった。あっはっはっと笑いだしたいような気持におそわれた。
﹁――おや、僕は気が変になるんだな﹂
気が変になるなんて、なんて情なさけないことだろうと、丁坊は歯をくいしばって残念がった。
﹁どうにでもなれ。これ以上、自分としてはどうすることもないんだ﹂
丁坊はすべてを諦あきらめて、そしてこの上は、せめて日本人らしく笑って死のうと思った。ただしかし、東京にいるお母さんに会えないで死しぬことが悲かなしい――。
落らっ下かさ傘ん
死の神の囁ささやきが、丁坊の耳にきこえてきた。
﹁いよいよ最さい期ごがきた。――﹂
と思った丁ちょ度うどそのとたんの出来事だった。彼の身体は、急に上へひきあげられたように感じた。
﹁おや、――﹂
びっくりして、彼は空を見上げた。
空には、まっすぐに伸びた綱の上に、白い菊の花のような大きな傘がうつくしく開いていた。丁坊ははじめて万ばん事じをさとった。
﹁あれは落らっ下かさ傘んだ﹂
助かった助かった。落下傘のおかげで、危あやうい一命をたすかった。綱のさきには落下傘がついている。
﹁ああ、よかった。僕はすこしあわて者だったね﹂
急に気がしっかりしてきた。
空を見上げると、空魔艦はどこへ飛びさったか、あの大きな翼も見えないし、エンジンの音も聞えない。
眼をひるがえして下を見ると、おお氷原はすぐそこに見える。難破船が急に大きくなって眼にうつった。
ここにいたって丁坊は、機長﹁笑い熊﹂の考えがさっぱり分らなくなった。大だい悪あく人にんだと今の今まで思っていたが、落下傘をつけて放すようでは、善ぜん人にんである。
﹁いや、善人といえるかどうか。なにしろ下が東京の銀座とか日比谷公園でもあるのならともかく、氷点下何十度という無むじ人んき境ょうなんだ。そんなところへ落下傘でおろすような奴やつは、やっぱり善人ではない﹂
そうすると、やっぱり﹁笑い熊﹂を憎んだ方が正しいのであろうか。丁坊は、そのどっちであるかを一刻もはやくたしかめたいと思った。
氷原はぐんぐん足の下にもりあがってくる。はじめは小こじ蒸ょう気きぐらいに思えた難破船が、だんだん形が大きく見えてきて、今はどうやら千五六百トンもある大きな船に見えてきた。
すると船上に、今まで見えなかった人影が五つ六つ現われているのに気がついた。
﹁ああ、人だ。あの船に人がいる﹂
丁坊は嬉しかった。
たとえ善人であろうと悪人であろうと、そんなことはどうでもいい。生きた人間がいさえすればいいのだ。氷原に誰一人として生きた人間がいなければ、このまま落下傘で下りてみたところで、丁坊は餓が死しするか、さもなければこの辺へんの名物である白熊に頭からぱくりとやられて、向うのお腹なかをふとらせるか、どっちかであろう。
しかしもう大丈夫だ。生きた人間が見ている以上は自分をかならず助けてくれるであろう。
丁坊は、はじめていつものような快活な少年にもどっていった。
はたして丁坊の思ったとおり、彼の一命はうまくすくわれるであろうか。
銃じゅ声うせい
落下傘はついて、丁坊を氷原の上になげだした。
風があるので、丁坊のまるい身体は、氷上をころころと毬まりのように転ころがってゆく。はやく助けてくれなければ、いまに氷の山かなにかにぶつかって死んでしまう。はやく頼む。
そのうちに、うしろの方で思いがけなく大きな銃声がした。
だーん、だんだだーん。
﹁ああ、僕を撃うった。やっぱり彼きゃ奴つらも大悪人だ。なぜ罪もない僕をうつんだ﹂
丁坊は、また大きな失望と恐怖とに陥おちいった。しかも間もなく、彼はそれが間違いであったことに気がついた。
なぜなら彼の丸い身体が、急にどしんと軟やわらかい白いものに当ったからである。それに落下傘の綱がうまくひっかかったものだから、それ以上、氷原を転がらなくてもいいことになった。その白い軟いものをよくよく見れば、それは大きな白熊だった。
こわい!
いや、こわくはない。その白熊は顔面をまっ赤に染めて、氷上にぶったおれていたのだ。血だ、血だ。その赤い血は、傷口からふいて氷上に点々としたたっていた。
﹁ああ、あぶないところだった﹂
毛皮を頭からかぶった真まっ先さきにとんできた人間が、銃の台だい尻じりで熊の尻ぺたをひっぱたいて、嬉しそうに叫んだ。その声は、丁坊をたいそうおどろかせた。
なぜって?
なぜというに、それは紛まぎれもない懐なつかしい日本語だったからである。
ぱたぱたと続いてかけつけた同じような服ふく装そうの人が五六人みな銃を手に握っている。この人たちのお蔭で、丁坊に喰いつこうと思って氷上に待っていた白熊が射いこ殺ろされた。するとこの日本人たちは、あきらかに丁坊の危難をすくってくれたことになる。
﹁おじさん、白熊をうってくれてありがとう﹂
と丁坊が大声で叫ぶと、かけつけた人たちはふりかえって愕おどろきの眼をみはった。
﹁な、なんだって、――お前は日本語をしっているのか﹂
﹁知らないでどうするものか。見よ東海の天そらあけて――僕、日本人だもの﹂
落下傘についていた少年が、愛国行進曲をあざやかに歌って、僕は日本人だあと叫んだのであるから、氷上の人たちはあまりの意外に眼をみはるばかりだった。
﹁――ああ、たしかに日本人らしい。どうしてまあ、こんな北極にちかいところへ君はやってきたんだ﹂
と、最初にかけつけた男がいって、丁坊に近づこうとすると、残りの人たちがびっくりしたような顔をしてその身体をひきもどした。
﹁おい一いち木き。はやまったことをしてはならんぞ。近づいちゃいかんというのだ﹂
丁坊は、はっとした。
﹁なんだ二にむ村ら、いいじゃないか。これは日本少年だ。声をかけてやるのが当り前だ﹂
﹁いや、いけない。お前はこの子供が、空魔艦の者だということを忘れているのだろう。かるはずみなことをして、大おお月つき大たい佐さに叱られたら、どうするつもりだ﹂
﹁そうだったね、二村﹂
と、一木と呼ばれた親切な人も、手をひっこめそうになった。
丁坊は思わずはらはらと涙をこぼした。せっかく日本人にあいながら自分が空魔艦から下りてきたということのために、たいへんいやがられ、そして恐れられているのだった。やっぱり自分はひとりぽっちなのか。
大月大佐
﹁おお、本船が信号をしているぞ﹂
一人がうしろをふりかえって叫んだ。
﹁どうしたのか、わけをしらせろって、大月大佐の御ごさ催いそ促くだ﹂
すると一木が、
﹁じゃ丁ちょ度うどいいじゃないか。わけを報告してこの日本少年をどうしましょうと聞けやい﹂
﹁そうだったね。うむ、聞いてみよう﹂
丁坊が泣きじゃくっている間に、手を使って信号がとりかわされた。
﹁おお、大佐は、少年を船へつれてこいていわれる。ただしそのまま担かついでこいということだ﹂
﹁それ見ろ。大佐も俺も同感らしいじゃないか﹂
と一木はにやりと笑って、丁坊のところへ近づいた。
﹁こら、お前はこれから探険船若わか鷹たか丸まるへつれてゆかれる。おとなしくしていなきゃいけないぞ﹂
丁坊は、黙ってうなずいた。彼の眼はいきいきと輝きを加えた。
大勢の肩にかつがれて、やがて丁坊は難破した探険船若鷹丸についた。そして階段を下りてやがて一つの部屋につれこまれた。
そこは事務室のようであった。大月大佐であろうか、正面にやはり毛皮を頭からすっぽりと被かぶった長い髭ひげの壮そう漢かんが、どっかと粗末な椅子に腰をかけていた。
﹁こっちへ連れてこい﹂
大佐は一つの椅子をさした。
丁坊はその上に、ちょこなんと載せられて、どんな問答が始まるのであろうか。気の毒にもこの難破船はもうストーブにくべる石炭や薪まきもなくなったと見えて、室内に氷が張っていたり天てん井じょうから氷つら柱らが下っていたりする。すこぶる困っている様子であった。
﹁私わしはこの探険船の団長大月大佐だ。お前は何者か。そしてなぜ落下傘で氷上におりてきたか。さあ、包まず話せ﹂
そういわれて丁坊は、のぞむところと、いままでのいきさつをなにからなにまで話をした。
丁坊の話を感にたえないような顔で聞いていた大佐はそこで腕うで組ぐみをして、
﹁わけが分らずに、氷原へお前は下ろされたというのだね。そしてあとから拾いにゆくといったのだな。はて空魔艦からの変な贈物だわい。一体どういうわけだろうか﹂
といっているところへ、一人の船員が階段を転がるように入ってきた。
﹁おお、大佐、たいへんです。船せん腹ぷくがさけました。船はめりめり壊こわれています。もう間もなく――そうです、十分とたたないうちに、この船は氷の下に沈んでしまいますぜ﹂
﹁ええ、船が――船がとうとう氷に壊されたか。今までそんなけはいも見えなかったのに、どうしたんだろう。いや、これも空魔艦のなせる業にちがいない。さあ全員をよびあつめて、そしてすぐ氷上へ避難だ﹂
丁坊の訊じん問もんどころではなく、難破船は大混乱となってすぐさま荷物の陸あげにかかった。そういううちにも、船は一センチ、また二センチと、しだいに気味わるく下ってゆく。はたしてこれも空魔艦のせいであろうか。空魔艦はどんなおそるべき仕掛をしていったのだろうか。
最後は迫せまる
若鷹丸は、刻一刻と氷の下にめりこんでいった。
大月大佐は隊員を指揮して、船内にあった大切な器具や残り少くない食糧を氷原にはこばせた。船はだんだん傾きはじめた。船首がたかく上にもちあがって、船尾はもう氷とすれすれになった。いままで真直に立っていた檣マストが、今は斜に傾いているのもまことに哀れな姿であった。
丁坊少年は、例のとおり達だる磨まさんのように手も足も厚い蒲ふと団んのようなものにくるまれたまま氷上に置かれて、沈みゆく難破船をじっとみつめていた。久ひさ方かたぶりで懐しい日本人に会えた悦よろこびも、この沈没さわぎで煙のように消えてしまった。どうしてこうもよくないことが丁坊の行くところへ重なってくるのだろう。
﹁おい皆、もっと元げん気きを出して頑張れ。船が沈んでしまったら、それこそ何にも取りだせないぞ﹂
と大月大佐は、まだ船の上に立って、しきりに隊員をはげましていた。
﹁食糧と水とは全部だしました。武器や観測用具も殆んどみな出ました。こんどはエンジンを出したいのですが、どうも間にあいません﹂
と隊員が大声で叫んだ。
﹁いや、どう無理をしてもエンジンは出さなきゃいけない。無電室に小さいのがあったじゃないか﹂
﹁あれは前から壊れているのです﹂
﹁壊れている? 壊れていても、エンジンを一つも出さないよりはましだ。出して置いた方がいい。それから椅子や卓テー上ブルや毛布など隊員の生活に必要なものは一つのこらず出してくれ﹂
﹁ええ、そいつはもうすっかり出してあります。船の向う側へ抛ほうりだしてあるんです﹂
﹁無電装置は出したろうな﹂
﹁ええ、短波式のを一組、いま出しにかかっているところですが、この分じゃ間に合うかなあ﹂
﹁間に合うかなあと心配ばかりしてはいけない。無電装置はぜひ入用だ。いいからすぐ全員をその方に向けて、なんとしても取出すんだ﹂
﹁はい、承知しました﹂
船員は呼よび笛こにつれて、傾いた甲かん板ぱんの上を猿ましらのように伝わって走ってゆく。
そのうちに、ああっという叫び声が聞えた。見よ、若鷹丸の船首はすっかり宙に浮いてしまって、さびついた赤い船底までがにょっきり上にあがってきた。それと反対に、船尾の方はまったく氷の下に隠れてしまった。いまや若鷹丸は沈没の直前にあった。
﹁あ、危い。――もう駄目だ。皆、下りろ、早く!﹂
大月大佐は舷ふなばたにつかまったまま、船内にむかって怒ど鳴なった。
沈没
﹁おいどうした。皆、早く甲板へ駈かけあがれ。そして氷の上にとびおりろ。おい、どうしたんだ﹂
無電室へとびこんだ隊員たちは、だれ一人として姿すがたをあらわさなかった。ただ、よいしょよいしょという掛け声だけがする。
隊員たちは、いまや決死の覚悟で無電装置を搬はこびだしているところらしい。
﹁これはいけない。皆逃げおくれてしまうぞ﹂
大月大佐は舷ふなばたをはなれて、無電室の方へ匍はいよった。そのときは氷原がもうわずかに目の下一メートルばかりに見えた。
﹁おい皆、早く逃げろ。無電装置よりは人命の方が大事だぞ﹂
その声が無電装置をうごかすのに夢中の隊員の耳にやっと通じたものか、おうという返事があった。
﹁おい、最後の努力だ。さあ力を合わせて、そら、よいしょ﹂
どどどどっという足音とともに、嬉しや無電室から大勢の姿があらわれた。彼等が周囲からささえているのは、最後まで望みを捨てなかった無電装置だ。
彼等は室外に出ると、只ならぬあたりの光景に気づいて、一せいにうむと呻うなった。いつも見なれてきた平らな甲板は、今は立て板いたのように傾いている。またずっと下にあった氷原が、手にふれんばかりの近さに盛りあがっている。
﹁おい、もう一秒も余すところがないぞ。思いきって氷上にとびおりろ﹂
と大月大佐は必死になって怒鳴った。
﹁わっ、――﹂
一同は無電装置を舷から外に押しだした。そいつはうまく氷の上にひっかかった。その代り隊員の姿は氷の下に隠れた。
﹁おい、なにをぐずぐずしているんだ。船首の方へ匍いあがれ。そして氷にとびつくんだ﹂
大佐は手すりにぶらさがって叫んだ。
もういけない。めりめりという船腹をくだく物凄い音響だ。これに入り乱れて、氷片を交えた北極の黒い海水が、ごぼごぼと下から泡あわをふいて湧わきあがる。
逃げそこねた隊員は、最後の力をふりだして、滑すべる甲板をよじのぼる。
黒こく影えいが一つ、また一つ、氷ひょ上うじょうにとびだしてゆく。
﹁もういないか、誰だ、残っているのは﹂
大月大佐は、隊員の身の上を心配して、まだ舷の手すりにつかまっている。危険きわまりない芸当だった。ただ大佐は船首に近い位置にうつっていたので、残った隊員よりはずっと氷の上に出ていた。
﹁隊長、あぶないです。もうとびおりて下さい﹂
氷上では、無事に避難した隊員が手をふりながら、口々に大月大佐に飛びおりるようにすすめる。
﹁まだ誰か残っている。もう二人いる。おい頑張れ。俺は、お前たちが出ないまでは、ここにつかまって見ているぞ﹂
隊長大月大佐は一身を犠牲にして、逃げおくれた二人の隊員を元気づけた。
﹁おお、ううん、ううん﹂
二人の隊員は隊長の声に元気づいた。そして無我夢中で断だん崖がいのように見える傾いた甲板をよじのぼった。
﹁もう一息だ。それ、頑張れ。一木に二村!﹂
隊長の声は、ますます大きくなる。
﹁よ、よいしょ。うぬっ!﹂
とうとう一木が氷上にとびついた。つづいて二村が飛んだ。
そのころ、まるで棒立ちになった若鷹丸は、そのまま矢のように海中に沈んでいった。
﹁あっ、隊長、危い!﹂
隊員たちが異いく口どう同お音んに叫んで、手で眼を蔽おおったとき大月大佐の巨体は、もんどりうって氷上に転がった。
と、それと入れ替えのように、若鷹丸の船影は、全く氷上から姿を消し、海底ふかく沈没してしまった。
もう五秒も遅れると、大月大佐の身体は船体もろともに、氷の下にひきずりこまれたであろう。全く間一髪という危いところで大佐の生命は救われた。隊員おもいの大佐に、神様が救いの手をさしのべたせいであろう。
丁坊はこの息づまるような避難作業の一部始終を、魅みいられるように氷上でみつめていたが、隊長が最後に救われたと知った瞬間、両眼から涙がどっと湧わいてきて、眼の前がまったく見えなくなってしまった。
なんという感激すべき人達だろう。さすが日本人だ。
天テン幕トせ生いか活つ
若鷹丸の沈んだ跡は、しばらくのうちは氷が船の形に明いていて、黒い水が淀よどんでいたけれど、そのうちにどこからともなく氷片がぶくぶくと浮いて来て、次第に白く蔽おおわれていった。
氷上には、早さっ速そく天テン幕トが急造された。大きいのが一つに、小さいのが三つできた。
大きい方には、大月大佐以下二十名の隊員が入り、小さい三つの天幕には、陸あげされた器械や器具などが入れられた。
大月大佐は、大きい天幕の中に新しくつくられた席に腰をおろすと、
﹁おい、さっきの空魔艦から降ってきた日本少年をひっぱってこい﹂
と命じた。
達だる磨まのような姿の丁坊は、左右から二人の隊員によってひっさげられ、隊長の前にひきすえられた。
﹁どうだ、丁坊――といったな。若鷹丸はとうとう沈んでしまった。お前はいい気持だろう﹂
﹁えっ、なんですって﹂
丁坊は自分の耳をうたがって、大佐の言葉を聞きかえした。
﹁お前は、いい気持だろうというんだ﹂
﹁すこしもいい気持ではありません。僕、たいへん口く惜やしいです。隊長そんなことを、なぜ僕にいうのですか﹂
すると大月大佐は、少年の顔をぐっと睨にらみつけて、
﹁お前にはよく分っているじゃないか。お前は空魔艦の廻まわし者だ。そして若鷹丸を沈めにきたということはよく分っている﹂
﹁なんですって、隊長さん。ぼ、僕は日本人ですよ、空魔艦に攫さらわれた者ですよ。空魔艦を恨うらんでも、どうして同国人である隊長さんなどに恨うらみをもちましょう﹂
﹁ごま化してはいけない。じゃあ聞くが、なぜ空魔艦はお前をこの若鷹丸の難破しているところへ落下傘で下ろしたのだ。その理由を説明したまえ﹂
丁坊はそういう風なことを聞かれて、全く困ってしまった。大佐は自分のことを空魔艦の廻し者だと思って、気をゆるさないのだ。
秘密の仕掛
﹁僕、なんにも知らないのです。なぜこんなところに下ろされたか知らないのです。もし知っていれば同じ日本人の隊長さん方に喋しゃべりますとも﹂
﹁いや、儂わしには、お前が本当に日本人かどうかということが分らないのだ﹂
﹁ええっ、僕が日本人でないかも知れないというのですか。ああ、そんな馬鹿なことがあるものですか。僕は立派な日本人です﹂
丁坊はわっと泣きだした。そうであろう。そのくやしさは尤もっともだった。日本人が日本人でないと疑われるくらい情けないことがあろうか。
大月大佐は、丁坊の眼からぼたぼた流れる涙をしばらく見つめていたが、やがて、
﹁――お前が日本人であることがはっきりわかるか、それとも空魔艦がなぜお前を下ろしたかその理わ由けが分るか、そのどっちかが分らない間は安あん心しんしていられないのだ﹂
と云って溜ため息いきをついた。
丁坊が日本人であることは、丁坊自身ばかりではなく、読者もよく知っている筈だ。しかし読者がもし丁坊のような場合にであったとしたら、どうして見ずしらずの他人の前に出て、自分は日本人だという証明をなさるであろうか。なんでもないように見えて、それはなかなかむずかしいことだ。
もう一つ、空魔艦がなぜ丁坊を下ろしたかという疑問は、これは空魔艦の幹部にきいてみないと分らない。
しかしそれは、いま空魔艦のなかでどんな光景がひろげられているかを説明すれば、容易にわかることだった。
ではその方へ、物語を移してみよう。
ここは例の氷こお庫りぐらの前の、空魔艦の根拠地であった。
丁坊をとらえた方の空魔艦﹁足の骨﹂の機長室では﹁笑い熊﹂と称よばれる機長が、マスクをしたまま一つの機械をいじっている。そのまわりには、六七人の幹部のほかに、中国人チンセイも加わって機械を注視している。
﹁こっちの機械はよく働いているんだから、もうそろそろ聞えてきてもいい筈だ﹂
と﹁笑い熊﹂はいった。
暫しばらくすると、その機械から、ぼそぼそと語りあう話声がきこえてきた。
﹁笑い熊﹂は緊張して、機械の目めも盛りば盤んをしきりに合わせた。
“隊長さん。なぜあなたがたは、こんな北極まで探険にこられたのですか。その目的はどんなことなのですか”
そういう声は、紛まぎれもなく丁坊の声であった。なぜ丁坊の声がきこえてくるのか。
“お前が日本人なら聞かしてもいいことなんだが――”
という声は、たしかに隊長大月大佐の声であった。﹁笑い熊﹂はマスクの中なかでにやりと笑って、
﹁いよいよ喋しゃべりだしたぞ。あっはっはっ、探険隊の奴らも小こせ伜がれも、まさかあの小伜の身体を包んだゴム袋の中に、無線電話機が隠してあるとは気がつかなかろう。見ていたまえ。いまに俺たちの知りたい探険隊の秘密の目的やなにかも、どんどん向うで喋ってくれるぞ。そうすればわが空魔艦の活動も、たいへん楽になる。うふふふ﹂
驚くべきことを、﹁笑い熊﹂は云った。丁坊の身体を包つつんだゴム袋の中に、無線電話機が入っているというのだ。もちろん丁坊も知らなければ、隊長大月大佐もこれを知らない。そしてこれが恐るべき空魔艦の一味に盗み聞かれるとは知らず、大佐はだんだんと重大な話を隠されたマイクロフォンの前に始めようとする。ああ危あぶない危い。
重い使命
空魔艦﹁足の骨﹂の船内では、隊長﹁笑い熊﹂をはじめとし、主脳部の連中がそろって高声器の前へあつまっていた。それはいましも、水上の探険隊長大月大佐と丁坊少年の重大なる話が始まるところだったからである。
﹁丁坊。お前が熱心な愛国心をもった日本人だということはよく分った。では、わが探険隊の目的というのを教えてやろうよ﹂
と、これは大月大佐の声だった。
﹁ああ、隊長さんとうとう分ってくれたのですね。僕はこんなに嬉しいことはない。さあ聞かせてください。こんな極地へ探険にやってきた目的というのを﹂
と、これは丁坊の声である。
いよいよ重大な秘密が洩もれそうである。氷上の探険隊員は誰一人として、この会話がそのままそっくり空魔艦の高声器から響きわたっているとは知らない。
その高声器の前へ、怪人隊長﹁笑い熊﹂は章た魚このようなマスクをかぶった顔を近づける。
﹁――じゃあ丁坊。よく聞け。これは大秘密だがお前も知ってのとおり、このごろ北極に近い地方に、恐ろしい大型の飛行機をもった国籍不明の団体が集っていて、なにかしきりに高級な研究をやっているという情報が入った。北極のことなんかどうでもよいという人が多いのだけれど、儂わしはそれを聞いてびっくりした。というわけは、昔はこの氷の張りつめた北極地方はほとんど船で乗りきることができないので、交通路として三文の値打もなかった。ところが近年航空機がすばらしい発達をとげてからというものは、なにも氷をわけてゆかなくとも空を飛行機で飛べば、この北極地方を通りぬけられるという見込がついた。しかしこの北極航空にはまだいろいろ問題がある。そういう非常に寒いところでは、エンジンも電池もすっかり働きがわるくなるし、お天気などのこともよく分っていないし、飛行機に使っている金属材料もたいへん折れやすくなるなどという風に、いろいろと困ったことや分らないことがあるのだ。だから飛行機さえ持っていれば、極地をかんたんに飛びこえられると思うのは間違いである。わかるだろうね、丁坊﹂
﹁ええ、分りますとも﹂
﹁例の国籍不明の団体は、空魔艦によってこの北極にのりこみ、いろいろと研究を始めているらしい。その研究も、なかなか油断のならぬ研究であることは、空魔艦がときどき日本内地の上空に現れることからも察しられる﹂
﹁そうですとも。僕なんかも、東京に住んでいたのにとつぜん空魔艦にさらわれたんですものねえ﹂
﹁うん、そこだ。空魔艦団なるものは、明らかに日本を狙ねらっているのだ。日本に対しどういうことをしようと思っているのか、それはまだはっきり分らないけれど、この際、それを知って置かねば日本国民は枕を高くして安心して寝てはいられない。われわれが若鷹丸に乗ってこんな大冒険をしてまでここへやってきたのもそれを突きとめるためだ﹂
と語る隊長大月大佐の言葉は、火のように熱してきた。
死か突とつ撃げきか
﹁――ところが残念にも、われわれの仕事は途中で折れてしまった。若鷹丸は、まず氷にとじこめられ、次に沈没してしまった。われわれはこれ以上前進しようと思っても、もう足の用をするものがないのだ。実に残念だが、もうどうにもならない。しかもわれわれは前進するどころか、無事に日本へ帰りつくことさえ断念しなければならない。この極地に遅い春が来て氷が割れだすころには一同そろって冷い海水の中に転げおちなければならない。残念である。まことに残念である﹂
大月大佐は、そういって身体をふるわせた。自分ははじめより生命を捨ててかかっているので、捨てる生命はい惜しくはないが、隊員たちの生命までここでむざむざ失うのは、たえられないことだった。若鷹丸は、いかに厚い氷にとざされても大丈夫だとうけあわれていたのに、こんなことになってしまって、すっかり予定がくるってしまったのだ。
丁坊は、大月大佐が悄しょ気げているのを見ると、気の毒にもなり、またこんなことではいけないと思った。そこで少年は、隊長をはげまそうと思った。
﹁隊長さん、どうせ死ぬことが分っているのなら、皆で隊を組んで、空魔艦のいるところまで攻め行ってはどうですか。僕は、そこまで案内しますよ﹂
﹁空魔艦のいるところまで攻めてゆく。あっはっはっ、お前はなかなか勇敢なことをいう﹂
と大月大佐は、始めて笑いました。
﹁だって、何でもないではありませんか。幸さいわい氷はどこまでも張っているから、氷の上の歩いてゆけば、きっと空魔艦の根拠地へつきますよ﹂
﹁それは容易なことではなかろうが、理屈は正にそのとおりだ。いや丁坊君。よくいってくれた。儂わしは大いに元気づいた。これから食料品や武器がどのくらいあるかをしらべた上で、出来るものなら、空魔艦遠征部隊をつくることにしよう﹂
大月大佐は、遂に重大なる決意を固めて、そういった。
それはいいが、この会話がすっかり空魔艦に筒ぬけに聞えているのだから、まことに危いことだった。
高声器の前にいた空魔艦の隊長﹁笑い熊﹂は、うふふふと気味わるい笑い声をあげた。
﹁そうか。この若鷹丸は、やはり俺たちのことを探偵にやってきたのだったか。氷上づたいに俺たちを攻めるなんて、生意気なことをいっているな。よし、それではこっちにも覚悟があるぞ﹂
と、ひとりで肯うなずくと、また高声器の前に耳を傾けた。
ところが、高声器はもう何にも物をいわなくなった。
﹁おい、無線長。聞えなくなったじゃないか。一体どうしたのか﹂
といえば、狼ろう狽ばいしてしきりに目盛盤をうごかしていた無線長は、頭を一つ大きくふり、
﹁どうも変なことが起りました。急に相手の会話が聞えなくなったのです。あのいい器械が故障になることなんか、ない筈なんですがね﹂
といかにも不ふ思し議ぎそうであった。
秘密発見
それよりすこし前のことであった。
丁坊少年の愛国心にすっかり感動してしまった大月大佐は、丁坊の方によると、袋に入った少年をしっかと抱えたのであった。そのとき大佐は、おやと思った。
それはたまたま大佐の手がふれた袋の一ヶ所がたいへん熱をもっていたのである。
大佐はびっくりしたが、同時にきらりと頭にひびいたものがあった。始めからどうも変だと思っていたのは、この少年の服装だ。ところが、いまその袋の下の方に手をふれてみたところが、たいへん熱い。
なにがこう熱いのであろうか。
空魔艦は、少年のために懐かい炉ろを入れておいたのであろうか。まさか、そのような親切が空魔艦の乗組員にあるはずがない。
大月大佐は大いに怪あやしみ、考えるところがあって丁坊には黙っているように合図し、隊員をよんで、袋の口を開くと丁坊をそっと袋の外にひっぱりだした。
外はなにもかも凍りついている寒さだ。袋を出たとたん丁坊は大きな嚏くしゃみを二つ三つ立てつづけにやった。隊員は用意の毛布で、丁坊の身体をつつんでやった。
大月大佐は、一同に声を出さぬよう命令し、袋の中を隊員に調べさせた。
﹁この温いところに、何が入っているのか、よく調べろ﹂
と、手真似の命令だ。
隊員が、袋を切りひらいてみて愕おどろいた。その熱い箇所から出てきたのは、精巧な無線の器械であった。よく見ると、マイクロフォンもついている。熱いのは、そこに点ともっている真空管が熱しているせいだった。
そこに居合わせた無線技士が、真空管をそっと外した。
そこでその器械は働かなくなった。もう喋しゃべっても大丈夫だ。
﹁隊長。これは無線電信の送信装置ですよ。いままで真空管がついていたところを見ると、この器械のそばで喋っていたことは、すっかり電波になって空中を飛んでいたわけですよ。これは空魔艦のたくらみです。だからこっちの話はすっかり向うに聞かれちまったわけですぞ﹂
と無線技士は顔色をかえて、大月大佐にその精巧な器械を指した。
隊長は大きくうなずいて、
﹁うむ、気がついたのが遅かった。いや、それで丁坊少年を空魔艦が氷上になぜおとしたか漸ようやく分った。すっかり聞かれてしまったらしい﹂
丁坊の愕きは、更に深いものがあった。彼は自分でその変な器械を背負っていたのだから。そして秘密にしておかなければならぬ若鷹丸探険隊の重大な決心を、憎にくい空魔艦に知らせてしまったから。いくら、当人の丁坊が知らなかったこととはいいながら、全くそのはずかしさは穴の中にかくれたいくらいのものだった。
﹁丁坊君、悲観せんでもいい。なあに、どっちになったって、今の境遇では、大したちがいはないよ﹂
と大月大佐は丁坊をなぐさめ、そして他をふりかえって、
﹁おい誰か。丁坊君に新しい防寒服を大急ぎで作ってやれよ﹂
といえば、待っていましたとばかり、隊員が三四人声を合わせて承知の返事をした。
怪あやしき爆ばく音おん
丁坊はすっかり隊員のなかの人気者となった。隊長のお声がかりで、新しい防寒服はすぐ出来たし、その上、毛皮がそとについている防寒帽をつくってもらうやら、靴もエスキモーにならって外を魚の皮でつくり、内にはやはり毛皮を張ってあるものを貰うようにしてたいへんな可愛がられようであった。
﹁ああ嬉しいなあ。僕、まるで日本に帰ったような気がする﹂
そういって丁坊が跳はねまわれば、隊員もそれを見てにこにこ顔であった。
しかしここは氷上の避難住居である。船もなければ、橇そりもない。到とう底てい日本へはかえれまい。丁坊はそれをはっきり知らないのだろうと、蔭で涙ながして気の毒がる隊員もあった。
隊長大月大佐は、丁坊の進言によって、空魔艦の根拠地へむけて遠征する計画をたてはじめた。
幸いに、食料は三十日間だけあり、武器も弾丸の数にして五千発ばかりあったので、これなら一戦やれると見込がついた。
隊員のなかから、十五名を選んで遠征隊員として、のこり五名をここにのこして置いて、予備隊とする。
その一方、沈みゆく若鷹丸から持ち出した電波の無線機械を至急修理して、内地と連絡できるようにせよという命令が出て、無線班は食事も忘れて、しきりに器械をいじっていた。
﹁どうだ、松まつ川かわ学がく士し。遠征隊は何い日つ出発できるだろうか﹂
と、大月大佐は、若い副隊長の松川彦太郎学士にたずねた。
﹁今のところ、どんなに急いでも、明あ日すの朝になりますね﹂
﹁そうか。やっつけるなら、早い方がいい、急いでくれ﹂
﹁承知しました。急ぎましょう﹂
隊員は、さらに急がしくなった。
いつの間に陽ひが傾いたのか、よくわからなかったが、既にして夕刻となり、あたりはもううすぐらくなりかけた。
空の遠くには、まだ極光が現れ、そのうつくしい七色の垂れ幕がしずかに動いてゆく。
そのとき空の一角から、轟ごう々ごうと爆音がひびいてきた。
﹁ああ、空魔艦だ﹂
まっさきに気がついて飛びだしたのは、丁坊であった。
﹁なに、空魔艦?﹂
隊員はおどろいて天テン幕トの外に出た。
なるほど、真北の空、地上から約五千メートルと思われる高空に、空の怪物大空魔艦がうかび、しずしずこっちへ近づいてくる。
大月大佐も、天幕の外にとんで出たが、このとき叫んだ。
﹁おい。大急ぎで天幕のなかに隠れろ。こっちの姿を見せてはならぬぞ。早くしろ﹂
隊長の命令で隊員一同は天幕のなかに走りこんだ。
息をこらしてまつほどに、爆音はいよいよ大きくいよいよ近づき、天幕はびりびりと振動をはじめた。
﹁あっ、空魔艦の腹から、なにか黒いものがとびだしたぞ﹂
と天幕の裂け目から望遠鏡で空をのぞいていた隊員の一人が叫んだ。
﹁そうか。それは爆弾だぜ﹂
﹁爆弾! あっ落ちてくる。ぐんぐんこっちへ近づいてくるぜ。これはいけねえ﹂
望遠鏡をもった隊員は叫ぶ。
試練の嵐
空魔艦のなげおろす爆弾は、いよいよ氷上にぶつかった。
どどーン、ぐわーン、ぐわーン。
ずしんずしんごごごーっ。
あっちにこっちに、硬い氷をやぶって吹雪のような氷片がとぶ。
まっくろな硝煙は、氷上をなめるように匍はう。
実におそろしい光景がいくたびとなく、くりかえされた。
隊員は、声をからして、お互たがいにはげましあった。
この猛烈な爆撃に、探険隊の天テン幕トなどは、一ぺんにふきとんでしまった。隊員のなかにも、怪けが我に人んがそれからそれへと現れ、流血は氷上をあかくいろどった。
空魔艦は、都合三十個の爆弾をおとし、天幕がすっかりふきとび、怪我人が相当出たのをたしかめると、機首をかえして元来た北の空に姿をかくした。
こうして危難はひとまず去った。
大月大佐は、すぐさま人員点呼をおこなうとともに天幕の中にあった食料などをしらべた。
怪我人は八名、死者は二名。
食料品などが半分ばかり氷の下におちてしまった。
かなりの損害であった。
探険隊の運命はどうなるのか、たいへん心ぼそいことになった。
その夕方、さわぎが一段かたづいたところで、大月大佐は隊員をあつめ、あらためてこれから探険隊のすることを相談した。
﹁やっぱり、はじめ考えたとおり、空魔艦の根拠地へ攻めてゆきましょう﹂
と、まっさきにいったのは丁坊少年だ。
﹁だが、食料は半分になったし、死傷は十名にのぼる。これではとてもつよい決死隊をつくるわけにはゆかない﹂
と、他の隊員が元気のないことをいった。
すると大月大佐は、ぬっと立ちあがり、
﹁隊員のかずがすくなくなっても、日中戦争の徐じょ州しゅう攻略のときのように、うまい作戦をたてれば成功することもあるんだ。よし、やっぱり決死隊を作って一か八か攻めてゆこう﹂
﹁それがいい。ばんざーい﹂
と、元気のいい隊員は両手をあげて、隊長の考えに賛成した。
﹁うむ、それではこれから作戦を考えよう。人数はすくなくとも、必ず成功するという戦法をみんなで考えだすのだ﹂
夜をとおして、みんなが智恵をしぼったあげく、これならまず大丈夫という作戦がきまった。
そこでいよいよ決死隊のかおぶれがはりだされたが、隊員の数は、前より五名減って、十人となり、怪我をした者はみな天幕に留守番をすることとなった。もちろん決死隊長は大月大佐であり、大佐は甲組四名をひきつれてゆくこととし、松川学士は乙組四名をひきつれ、二隊になって進むこととなった。
丁坊は乙組になった。
決死隊出発
出発は、その翌日の夜になった。
昼間は空魔艦に見つけられるおそれあるので、夜にしたのだった。
隊員は身体をすっかり氷とみまがう白しろ装しょ束うぞくでつつんだ。これは敵の眼をできるだけあざむくためであった。
まず松川学士を隊長とする乙組が出発した。
﹁じゃあ皆さん、いってきますよ。きっと空魔艦をぶん捕どってきますよ﹂
丁坊は元気に出発した。
﹁どうか本当に空魔艦をぶん捕っておいでよ。丁坊くん、ばんざーい﹂
﹁丁坊、しっかり頼むよ。おれもすぐ後から出発する﹂
と、大月大佐も大きな声で一行をはげました。
冷い氷上を、一行はひとりひとり重い荷物をせおって進軍をおこした。橇そりもなければ、犬もいない。歩きなれない氷上を、一行は小こぐ暗らいカンテラの灯をたよりにして、一歩一歩敵地にすすんでいった。
夜が明けかかると、一行は大いそぎで氷を掘り目立たぬ氷の室へやをつくった。そして一日その中にもぐりこんで、眠られぬ時間をしいて睡った。敵地へしのびよるには、昼間歩いてはならぬ。見つけられてはおしまいである。
また夜が来た。
腹をこしらえて、氷の室をでる。そしてまた一歩一歩、氷上行軍がはじまるのであった。
第三夜をおくり、第四夜を氷上にむかえた。
先頭に立って歩いていた松川理学士が、一つの氷の丘をのぼったとき、
﹁おお、向うに明るい灯が輝いている﹂
と叫んだので、丁坊たちはわっといって、氷の丘をのぼった。
﹁ああ見える。あれが空魔艦の根拠地だ﹂
点々と輝いている灯のかたちからいって、それは丁坊に見覚えのある根拠地にちがいないことが分った。
一行はそこにしばらく憩いこうことにした。それは別のみちをとおってくる大月大佐指揮の甲組がおいつくのを待つためであった。その夜おそく、大月大佐の元気な声が、闇の中からきこえた。
﹁よおし、明あし日たの夜までゆっくり英気をやしなって、いよいよ最後の活動をはじめよう﹂
両組は、途中で敵に見つけられもせず、道もついていて、今ここにうまく出会ったことをよろこびあった。
さていよいよ第五夜がやってきた。
決死隊は、ふたたび甲乙の二組にわかれ、闇の中をいさみ出発した。戦闘につかうものだけを持ち、他はみなそこにのこしておいた。
乙組のやることは、空魔艦をうごけないようにすることであった。
大月大佐の甲組の方は、敵と撃ちあい切りあう戦闘部隊であった。
丁坊の背中にあるのは、ダイナマイトが五本と手てり榴ゅう弾だんが十個に、食糧が二食分。これでも少年には相当の重さであった。
空魔艦の最後
空魔艦の根拠地がいよいよ目の前に見えてきた。そのころ急に天候が険悪になってきて、風がひゅうひゅうとふきだし、氷上につもっている粉雪を煙幕のようにふきはらった。
それをじっとみつめていた松川隊長は、
﹁橇そり犬いぬにみつけられては、なにもならないから、風かざ下しもからしのびこむことにする。この風で、風下からゆくのはつらいだろうけれども、どうか皆がんばってくれ﹂
といった。
一行は、なあにこれしきの風がなんだと、大いにはりきり、五人が縦にならんで腕をくみ、転ばないようにして根拠地に押していった。
はじめのころはソ連機などがうるさく攻めてきたものだが、空魔艦はそいつらをぽんぽん射おとしてしまったので、それ以来おそれをなしてやって来ない。北極の空は空魔艦の天下であった。だから今ではもう空魔艦は、自分の力のつよいことをたのんで安心し、まさか若鷹丸の探険隊などがおしかけてくるまいと思って油断していた。
松川隊の五勇士は、思いのほかやすやすと根拠地の中に入った。
﹁それいまのうちだ。爆破作業を始め﹂
五勇士はそこでちりちりばらばらになった。
油タンクや、飛行機のあな蔵ぐらをみつけては、ダイナマイトを植えていった。時計を見て、時刻をはかると導火線に火をつけた。さあ、あと三分間で爆発する。
そのうち空魔艦二機だけは、そのままにしておいたが、五人の勇士はぞくぞくとその前に集ってきた。
﹁どうだ、ダイナマイトは、うまくいったか﹂
﹁うん、大丈夫だ。いまにたいへんなことになるぞ﹂
﹁じゃあこの辺で、空魔艦のタイヤをぶちこわそう。さあ、みんな掛れ!﹂
一同は手てり榴ゅう弾だんをふりあげた。
そいつをがーんとなげつけて、さっと身体を氷上にふせた。空魔艦のタイヤのそばには、黒い手榴弾がごろごろあつまってきた。――と思う間もなく、大音響をあげて爆破!
タイヤは破れた。
空魔艦は翼をがくりとゆすぶって、手榴弾のつくった穴の中に、轍わだちをすべりこませる。
敵が起きて来たらしく、あちこちに怒どせ声いがおこる。
と、次の瞬間、天地もふるうような大爆音が起った。猛烈な空気のながれ、目もくらむような大だい閃せん光こう。
ぐわーん、めりめりめり、ばらばらばらと、なにが飛ぶのか、根拠地の奥の方ではひっくりかえるようなさわぎだ。
敵は寝耳に水のおどろきで、ぞろぞろと格納庫やあな蔵のなかからとびだしてきたが、そこへ、わーっと喊ときの声をあげてとびこんできたのが、大月大佐を先頭に決死隊甲組の面々であった。
こうなればピストルよりも白刃がものをいう。五勇士はいずれもそのむかしの戦場のつわものだ。右うお往うさ左お往うする寝ぼけ眼の敵の中におどりこんで、あたるを幸いと切って切って切りまくる。
そのころ火のついた油タンクは火勢を一段とつよめて燃えさかる。
にげまどう敵の脂あぶ汗らあせにまみれた顔に、紅ぐれ蓮んの火が血をあびたように映える。
大だい団だん円えん
不意をうたれては、世界無比をほこる空魔艦もその乗組員も、まるで藁わら細ざい工くと同じことである。
おそろしい武力の中心は、わずか十名のわが日本人の手によってひっくりかえされてしまった。
捕ほり虜ょになった敵は、みなで三十人ばかり。その多くは怪け我がをしていた。
丁坊と仲よしだったチンセイは、空魔艦の中の冷い座席にひとりでねむっていたので、折よくそこへ第一番にとびこんだ丁坊にみつけられ、ぶじにたすけられた。
氷上にのこったのは、二機の空魔艦と、そのほかわずかの食料庫ぐらいのものであった。
大月大佐は、隊員をあつめ、東の空をあおいで高らかにばんざいを三唱した。怪我をしているものはあるが、生いの命ちをおとしたものが一人もないのはまったく天てん祐ゆうであった。
空魔艦の怪人たちは、いずれもその仮面をひきむかれた。その奇怪な防毒面の下には、やはり普通の人間の顔があった。しかし西洋人もあれば東洋人もあった。これは世界に大革命をおこそうというユダヤの秘密結社の一味であった。もし時がくれば、この空魔艦を相手国には知られぬように、成層圏といわれる高い空にとばして、各国の首都をひとおもいに大爆撃しようと考えていたことがわかったが、その空魔艦こそ、じつに世界中どこをさがしても、みあたらない大進歩をとげた飛行機であったのだ。思えば、日本の国もあぶないことであった。
空魔艦は、若鷹丸探険隊員の手によって、うまく分ぶん捕どることができた。しかしこれをどうして日本まで動かしたらいいのであろうかと、大月大佐たちは困っていた。
そこへ突然、探険隊の消しょ息うそくを心配して日本から有力な飛行隊が大挙して飛んできたので、大月大佐以下は生命をすくわれた上、この大きな土みや産げ空魔艦を捕虜とともに飛行隊へ手わたすことができて、重なる悦よろこびであった。もしこの救援飛行隊が、もう四五日もはやくこの極地へとんでくれば、そのときは空魔艦とはなばなしい戦闘をしたことであろうが、丁坊の勇ましい言葉によって決死隊をさしむけた若鷹丸探険隊が、一足お先に手柄をたててしまったことになった。
お母さんは、丁坊の帰京を、ゆめかとよろこんだ。おなじ心配をしていた吉岡清君もその妹ユリ子もすぐ丁坊のうちへとんできて、うわーっといってだきついた。
丁坊はもうホテルの給きゅ仕うじをやめてしまって、立派な飛行機博士になるために、いまでは上の学校へ通って勉強をしている。
いつも丁坊の味方になっていた中国人チンセイは、丁坊につれられて東京にやってきたが、大月大佐などの力ぞえで、銀座裏に小さい中華料理店を開業している。どうかみなさんも折があったら、チンセイの店をのぞいてやってください。入口をはいると、すぐ正面に大きな空魔艦の額がかかっているから、知らないで店に入ったひとでもすぐ気がつくにちがいない。
では本ものの空魔艦は? それは、それ航空館へゆけば、陳列してあるのが見られる。館長大月大佐にたのむと、よろこんで空魔艦征伐のときの説明を、身ぶりたくさんでしてくれるであろう。