月げっ光こう下かの箱はこ根ねや山ま
それは大変月のいい夜のことでした。
七月の声は聞いても、此こ所こは山深い箱根のことです。夜に入ると鎗やりの穂ほさ先きのように冷い風が、どこからともなく流れてきます。
﹁兄さん。今夜のようだと、夏みたいな気がしないですネ﹂
﹁ウン﹂兄は真まっ黒くろい山の上に昇った月から眼を離そうともせず返事をしました。
兄はなにか考えごとを始めているように見えました。兄の癖くせです。兄は理学士なのですが、学校の先生にも成らず、毎日洋書を読んだり、切抜きをしたり、さもないときは、籐とう椅い子すに凭もたれ頭の後に腕を組んでは、ぼんやり考えごとをしていました。なんでも末は地球上に一度も現れたことの無い名探偵になるのだということです。探偵名を帆ほむ村らそ荘うろ六くといいます。
﹁民ちゃん、御覧よ﹂と兄が突然口を切りました。空を指しています。﹁あの綺きれ麗いな月はどうだい﹂
﹁いいお月様ですね﹂
﹁東京では、こんな綺麗な月は見られないよ。箱根の高い山の上は、空気が濁にごっていないから、こんなに鮮かに見えるのだよ﹂
﹁今夜は満月でしょう﹂
﹁そうだ、満月だ。月が一番美しく輝く夜だ。まるで手を伸ばすと届くような気がする。昔嫦じょ娥うがという中国人は不死の薬を盗んで月に奔はしったというが、恐らくこのような明るい晩だったろうネ﹂
私は嫦娥などという中国人のことなどはよく知らないのですが、しかしお月様の中に棲すんでいるという白しろ兎うさぎが、ピョンと一跳はねして、私の足あし許もとへ飛んできそうな気がしました。
﹁だが向うの森を御覧﹂と兄は又別のことを云いだしました。﹁あの森蔭の暗いことはどうだ。あまり月が明るいので、却かえってあんなに暗いのだ﹂
﹁なんだか化物がゾロゾロ匍はいまわっているようですね﹂
そうは云ってしまったものの、私は失し敗まったと思いました。何という気味のわるいことを口にしたのでしょう。俄にわかに襟えり元もとがゾクゾクしてきました。
﹁ほんとに神秘な夜だ。東京にいては、こんなに月の光や、星のことなどを気にすることはないだろう。こんな高い山の頂きにいると空の化物に攫さらわれてしまいそうな気がしてくる﹂
私は先程の元気も嬉しさもが、いつの間にか凋しぼんでしまったのに気がつきました。ザワザワと高く聳そびえている杉の梢こずえが風をうけて鳴ります。天てん狗ぐお颪ろしのようです。なんだか急に、目に見えぬ長い触しゅ手くしゅがヒシヒシと身体の周まわりに伸びてくるような気がしてきました。私はいつの間にか、兄の袂たもとをしっかり握っていました。
丁ちょ度うどそのときです。
微かすかながら、絹きぬを裂さくような悲鳴が――多分悲鳴だと思ったのですが――遠く風に送られ何処からか響いたように感じました。
﹁呀あッ!﹂
と私は口の中で呟つぶやきました。たしかに耳に聞えました。気のせいにしては、あまりに鮮あざやかすぎます。
誰か来て下さい――といっているようにも思われる救いを求める声が、間もなく続いて聞えて来ます。魂たまぎるような悲鳴です。月つき明あかりの谿たに々だにに、響きわたるさまは、何というか、いと物すさまじい其その場の光景でした。私の足は、もう云うことをきかなくなって、棒のように地上に突き立ったまま、一歩も進みません。細かい震ふるえが全身を襲って、止めようとしても止りません。
﹁誰か呼んでいるぜ﹂兄は立ち止ると、両りょ掌うてを耳のうしろに帆ほのようにかって、首をグルグル聴ちょ音うお機んきのように廻しています。
﹁兄さん、兄さん﹂
﹁おおッ、こっちだ﹂兄はハッと形を改めて私の手を握りました。﹁たしかにあの家らしい。民ちゃん、さあ行ってみよう﹂
そういうなり兄の荘六は、私の手をひいたままひた走りに走り出しました。私も仕方なしに走りました。白い山道に、もつれ合った怪しい影が踊ります。二人の影です。
満月の夜だったことをハッキリと後こう悔かいしました。せめて月が無ければ、こんなにまで荒こう涼りょうたる風ふう光こうに戦せん慄りつすることはなかったでしょう。
一体なにごとが起ったのでしょう?
飛びゆく怪博士
悲鳴のする家は、漸ようやくに判りました。それは、向うに見えている大きい洋館でありました。二階の窓が開いて、何だか白い着物を着た女の人らしいものが、両手を拡げて救いを求めているようです。
﹁どこからあの家へ行けるんだろう﹂と兄が疳かん高だかい声で叫びました。
﹁ほら、あすこに門のようなものが見えていますよ﹂と私は道をすこし上った坂の途中に鉄の格こう子しの見えるのを指ゆびさしました。
﹁うん。あれが門だな。よォし、駈け足だッ﹂
私達二人は夢中で草深い坂道を駈けあがりました。
﹁門は締っているぞ﹂
﹁どうしましょう﹂押しても鉄の門はビクとも動きません。
﹁錠じょうがかかっている。面倒だが乗り越えようよ。それッ﹂
二人はお互たがいに助けあって、鉄てっ柵さくを飛び越えました。下は湿しめっぽい土が砂じゃ利りを噛かんでいました。私はツルリと滑って尻しり餅もちをつきましたが、直ぐにまた起上りました。
﹁オヤッ﹂
先頭に立っていた兄が、何か恐こわいものに怯おびえたらしく、サッと身を引くと私を庇かばいました。兄は天の一角をグッと睨にらんでいます。私は何事だろうと思って、兄の視線を追いました。
﹁おお、あれは何だろう?﹂
私は思わず早口に独ひと言りごとを云いました。ああそれは何という思いがけない光景を見たものでしょうか。何という奇怪さでしょう。向うから白い服を着た男が、フワフワと空中を飛んでくるのです。それは全く飛ぶという言葉のあてはまったような恰好でした。私は何か見みち違がいをしたのだろうと思いかえして、両りょ眼うがんをこすってみましたが、確かにその人間はフワリフワリと空中を飛んでいるのです。だんだんと其その怪あやしい人間は近づいて来ます。私は兄の腰にシッカリ縋すがりついていましたが、恐こわいもの見たさで、眼だけはその人間から一刻こくも離しませんでした。
﹁民たみちゃん、恐くはないから、我慢をしているのだよ﹂と兄は私の肩を抱きしめて云いました。﹁じッと動かないで見ているのだ。じッとしてさえ居れば、あいつは気がつかないで、僕たちの頭上を飛びこして行っちまうだろう﹂
﹁うん。うん﹂
私はやっと腹の底からその短い言葉を吐はきだしました。そのときです。怪しい人間が頭上五メートルばかりのところを、フワフワと飛び越しました。人間が飛ぶなんて、出来ることでしょうか。飛び越されるときに、なおもハッキリ下から見上げましたが、その怪しい人間は、寝しん台だいの上に乗ったように身体が横になっていました。手足はじっとしています。別に動かしもしないのに、宙を飛んでいるのです。どんな顔をしているかと見ましたが、生あい憎にく顔が上を向いているので、下からはよく見えません。しかし白い服と思ったのは、お医者さまがよく着ている手術着のようなものでした。
兄と私は、こんどは後から伸びあがって、飛んでゆく人の姿を見つめていました。白びゃ衣くいの人は、尚なおもフワフワと飛びつづけてゆきます。そしてだんだん高く昇ってゆきます。深い谿たにが下にあるのも気がつかぬかのようにそこを越えて、やがて向うの杉の森の上あたりで姿は見えなくなってしまいました。私達は悪あく夢むから覚さめたように、呆ぼう然ぜんと立ちつくしていました。
﹁不思議だ、不思議だ﹂
兄は低く呟つぶやいています。
そこへバタバタと跫あし音おとがして、年とった婦人が駈けてきました。さっき窓から半身を乗りだして救いを呼んでいたのは、この婦人でしょう。家の中からとびだして来たものです。
﹁ああ、貴方がた、主人はどこへ行ってしまったでしょう﹂
老婦人は紙のように蒼そう白はくな顔色をしていました。両手をワナワナと慄ふるわせながら、兄の胸にとびついて来ました。
﹁奥さん、しっかりなさい﹂と兄は老婦人の背をやさしく撫なでて言いました。
﹁あれは御主人だったのですか。向うの方へゆかれましたが、追駈けてももう駄目です﹂
﹁駄目でしょうか﹂婦人は力を落して、ヘナヘナと地上に膝ひざをつきました。兄は直ぐに気がついて助け起しました。
﹁さあ奥さん。こうなれば私達は落付きをとりかえさなければなりません。詳くわしいお話をうかがうことによって、一番いい方法が見つかることでしょう。しっかり気をとりなおして、一いち伍ぶし一じゅ什うを話して下さい﹂
﹁ああ、恐ろしい――﹂老婦人は顔に両手を当てると、何を思い出したのか、ワッと泣き出しました。
﹁奥さん、お家の中へお送りしましょう﹂
﹁ああ、家の中ですか。いえいえそれはいけません。家の中には、まだ恐ろしい魔まも物のが居るにきまっています。貴方がたもきっと喰われてしまいますよ。ああ、恐ろしい……﹂
﹁魔物ですって?﹂兄はキッとなって老婦人の顔を見つめました。﹁魔物って、どんな魔物なんです﹂
﹁そいつは鬼です。あの窓のところに、その魔の影が映りました。あれは人間でも猿でもありません。しかし何だか判らないうちにその鬼の形がズルズルと崩くずれてしまったのです。崩くずれる鬼おにの影かげ――ああ、あんな恐ろしいものは、まだ見たことが無い﹂
崩れる鬼影!
老婦人は一体どんなものを見たのでしょう。空を飛んでいった手術着の人は、どこへ行ってしまったのでしょう。
怪事件の顛てん末まつ
家の中に三人が入ってみますと、別に何の物音もしません。まるで地ちて底いの部屋のように静かです。
老婦人はベッドの上に、暫しばらく寝かして置きました。私は兄に命ぜられて、老婦人のそばについていました。兄さんはソッと部屋を出てゆきました。きっと二階の方に、事件のあとを探しに行ったのに違いありません。
老婦人はベッドの上に、静かに目を閉じて睡っています。呼い吸きも大変穏おだやかになって来ました。やっと気が落付いてきたものと見えます。二階では、コツコツと跫あし音おとがしています。兄が廊下を歩いているのでしょう。
﹁ああ――﹂
老婦人は、一つ寝ねが返えりをうちました。そのときに両りょ眼うがんを天井の方に大きく開きました。
﹁ああ、うちの人は帰って来たのかしら﹂
﹁いいえ、あれは私の兄ですよ﹂
老婦人は急に恐ろしい顔になって、私の方を向きました。
﹁兄さんですって――﹂
﹁二階へ調べに行っています﹂
﹁二階へ? そりゃいけません。恐ろしい魔物にまた攫さらわれますよ。危い、危い。さ、早くわたしを二階へ連れていって下さい﹂
そのときでした。俄にわかに二階で、瀬せと戸も物のをひっくりかえしたようなガチャンガチャンという物音が聞えてきました。つづいてドーンと床を転ころがるような音がします。
﹁民たみ夫お! 民夫! 早く来てくれッ﹂
兄の声です。兄が呶ど鳴なっています。とても悲ひつ痛うな叫び声です。今までにあんな声を兄が出したことを知りません。恐ろしい一大事が勃ぼっ発ぱつしたに違いありません。
私は老婦人の傍そばから立ち上ると、室の扉ドアを蹴って飛び出しました。入口を出ると、そこには二階へ通ずる幅の広い階段があります。何か組くみ打うちをしているらしい騒そう々ぞうしい物音が、その上でします。私は階段を嘗なめるようにして駈けのぼりました。
﹁兄さーん﹂
二階の廊下を走りながら叫びました。
﹁兄さんッ﹂
ところが俄にわかにハタと物音がしなくなりました。さあ心配が倍になりました。いままで物音のしていたと思われる室の扉ドアをグッと押しましたが開あきません。
﹁うーッ﹂
変な呻うなり声が、内う部ちから聞えます。正まさしくこの部屋です。
私は身体をドンドン扉にぶつけました。ぶつけて見て判ったことです。扉には鍵がかかっているのだろうと思ったのに、そうではないらしいです。何か向うに机のようなものが転がっていて、それが扉の内部から押しているらしいです。それならば、力さえ籠こめれば開くだろうという見みこ込みがつきました。
ドーン。
ガラガラと扉が開きました。
部屋の中へ飛びこんでみますと、そこは図書室のようでもあり、何か実験をしている室でもあるらしく、複雑な器械のようなものが、本棚の反対の側に置いてあり、天てん体たい望ぼう遠えん鏡きょうのようなものも見えます。しかし肝かん心じんの兄の姿が見えません。
︵攫さらわれたのかナ︶
私はハッと胸をつかれたように感じました。
﹁兄さーん!﹂
うーッ、うーッというような呻うなり声ごえが突然聞えました。呻り声のするのは、意外にも私の頭の上の方です。私は駭おどろいて背うし後ろにふりかえると、天井を見上げました。
﹁ややッ――﹂
私はその場に仆たおれんばかりに吃びっ驚くりしました。兄が居ました。たしかに兄が居ました。しかし何という不思議なことでしょう。兄は天井に足をついて蝙こう蝠もりのように逆さまにぶら下さがっているのです。頭は一番下に垂たれ下っていますが、私の背よりもずっと高くて手がとどきません。兄の顔は、熟じゅ柿くしのように真赤です。両手は自分の顔の前で、蟹かにの足のように、開いたまま曲っています。何物かを一生懸命に掴つかんでいるようですが、別に掴んでいる物も見えません。口をモグモグやっていますが、言葉は聞えません。何者かに締しめつけられているような恰かっ好こうです。どうしたらいいだろう。
一体、兄はどうしてそんな天井に逆さまで立っているのか判らないのです。しかし兄が非常な危険に直面しているらしい事は充分にわかります。
︵何とかして早く助けなければ……︶
私は咄とっ嗟さの考えで、傍の本棚に駈けよると洋書をとりあげました。
﹁ええいッ﹂
私は洋書を、兄のお尻の辺を覘ねらって抛なげつけたのです。本は兄の身体から三十センチ程手前でバサッという物音がしてぶつかると軈やがてドーンと床の上に落ちて来ました。
一冊、又一冊。四五冊抛なげつづけている間に、兄の様子が少しずつ変って来ました。それに勢いきおいを得て尚なおも抛なげていますと、急に兄の身体が横にフラリと傾かたむくとどッと下に落ちて来ました。
私は吃びっ驚くりして、その下に駈けつけました。抱きとめるつもりが、うまくゆかなくて、兄の身体の下敷になったまま、ズトンと床に仆たおれました。
﹁兄さん、兄さんッ﹂気を失っている兄を、私は一生懸命にゆすぶりました。
﹁おお﹂兄はパッと目を見開きました。﹁ああ影が崩くずれる――﹂
謎のような言葉を云ったなり、兄は又ガクッとして、床の上に仆れてしまいました。
丁度そのときガチャーンと大きな物音がして、硝ガラ子ス窓が壊こわれました。見ると門の方に面した大きい硝子窓には盥たらいが入りそうな丸い大きい穴がポッカリと明いているのです。不思議にも硝子の破はへ片んは一向に飛んで来ません。別に何物も硝子窓にあたったように見えないのに、これは一体どうしたということでしょう。
次から次へ、不思議としか言うことの出来ない事件が起ったのです。私は気を失った兄を膝の上に抱き起したまま、老婦人が始めに呟き、それから又兄が今しがた叫んだ謎の言葉を口の中に繰くりかえして見ました。
﹁崩れる影、崩れる鬼おに影かげ!﹂
信じられない事件
月の明るい箱根の夜の出来事でした。空中をフワフワ飛んでゆく白びゃ衣くいの怪人が現れたかと思うと、間近くから救いを求める老婦人の金かな切きり声ごえが起りました。救いに行った、私の兄の帆ほむ村らそ荘うろ六くは、その洋館の一室で、足を天井につけ、身は宙ぶらりんに垂たれ下さがっていました。ニュートンの万ばん有ゆう引いん力りょくの法則を無視したような芸げい当とうですから私は驚きました。これは様子がおかしいと気がついて、やっと助け下ろしますと、﹁崩くずれる鬼おに影かげ!﹂と不思議な言葉を呟いたまま人じん事じふ不せ省いに陥おちいってしまいました。
﹁崩れる鬼影﹂とは、あの老婦人も譫うわ言ごとのように叫んでいた言葉ではありませんか。これは一体どうしたというのでしょう。鬼影とはなんでしょう。それが崩れるとは、何のことだか一向見当がつきません。
﹁兄さん。兄さん――﹂
私は兄の荘六の耳元で、ラウドスピーカーのような声を張りあげました。でも兄はピクリとも動きません。反応がないのです。
﹁兄さん、しっかりして下さい――﹂
と今度は両手でゆすぶってみました。しかしやっぱり兄はまるで気がつきません。所は山深い箱根のことです。人里とては遠く、もう頼むべき人も近所にはないのです。私はどうしてよいのやら全く途方に暮れてしまいました。ポロポロと熱い泪なみだが、あとからあとへ流れて出ます。私はもう怺こらえきれなくなって、ひしと兄の身体に縋すがりつき、オイオイと声をあげて泣き始めました。笑ってはいけませんよ。誰でもあの場合、泣くより外ほかに仕方がなかったと思います。
﹁ああ、ひどい熱だ――﹂
兄の額ひたいは焼やけ金がねのようです。私はハッと思いました。兄をこの儘ままで放って置いたのでは死んでしまうかも知れないぞと思いました。そうなると、もうワアワア泣いてなど居られません。私は一刻も早く、兄の身体を医者に見せなければならないと気がつきました。
私は気が俄にわかにシッカリ引き締まるのを覚えました。
﹁日本の少年じゃないか﹂私は泪をふるい落としました。﹁非常の時に泣いていてたまるものか。なにくそッ――﹂
私はヌックと立ち上ると、お臍へそに有ありったけの力を入れました。
﹁ウーン﹂
すると不思議不思議。気がスーゥと落付いてきました。鬼でも悪魔でも来るものならやってこい――という気になりました。
私は兄のために、さしあたり医者を迎えねばならないと思いました。この家のうちには電話があるのではないかと思ったので、兄の身体はそのままとし、階し下たへ降りてみました。階段の下に果して電話機がこっちを覗のぞいていましたので、私は嬉しくなって飛びついてゆきました。だが電話をかけようとして、私はハタと行ゆき詰づまってしまいました。どこのお医者様がいいのだか判らないのです。そのとき不ふ図と気がついたのは所しょ轄かつの小おだ田わ原ら警察署のことです。
︵まず警察へこの椿ちん事じを報告し、救いを求めよう。それがいい!︶
警察の電話番号は、電話帳の第一頁ページにありました。私は自動式の電話機のダイヤルを廻しました。――警察が出ました。
﹁モシモシ。小田原署ですか。大事件が起りましたから、早く医者と警官とを急行して貰って下さい﹂
﹁大事件? 大事件て、どんな事件なんだネ﹂
向うはたいへん落付いています。
﹁兄が天井に足をついて歩いていましたが、下におっこって気絶をしています。いくら呼んでも気がつかないのです﹂
﹁なにを云っているのかネ、君は。兄がどうしたというのだ﹂
﹁兄が天井に足をつけて歩いていたんです﹂
﹁オイ君は気が確かかい。こっちは警察だよ﹂
ああ、これほどの大事件を報告しているのに、警察では一向にとりあってくれないのです。私はヤキモキしてきました。
﹁まだ大事件があるのです。ここの主人が、先刻フワフワと空中を飛んで門の上をとび越え、川の向うの森の方へ行って見えなくなりました﹂
﹁なアーンだ。そこは飛行場なのかい﹂
﹁飛行場? ちがいますよちがいますよ。ここの主人は飛行機にも乗らないで、身体一つでフワフワと空中へ飛び出したのです﹂
﹁はッはッはッ﹂と軽けい蔑べつするような笑い声が向うの電話口から聞えました。﹁人間が身体だけで空中へ飛び出すなんて、莫ば迦かも休み休み言えよ。こっちは忙いそがしいのだから、そんな面白い話は紙かみ芝しば居いのおじさんに話をしてやれよ﹂
﹁どうして警察のくせに、この大事件を信じて手配をして呉くれないんです﹂わたしはもう怺こらえきれなくなって、大声で叫びました。
﹁オイ、これだけ言うのに、まだ判らないことを云うと、厳げん然ぜんたる処しょ分ぶんに附ふするぞ。空中へ飛び出させていかぬものなら、縄で結ゆわえて置いたらばいいじゃないか。広告気球の代りになるかも知れないぞ﹂
警官はあくまで冗談だと思っているのです。私はどうかして警官に早く来て貰いたいと思っているのに、これでは見みこ込みがありません。そこで一策を思いつきました。
﹁ヤイヤイヤイ﹂私は黄色い声を出して云いました。﹁ヤイ警官のトンチキ野やろ郎う奴め。鼻っぴの、おでこの、ガニ股の、ブーブー野郎の、デクノ棒野郎の、蛆うじ虫むし野郎の、飴玉野郎の、――ソノ大間抜け、口惜しかったらここまでやってこい。甘あま酒ざけ進しん上じょうだ。ベカンコー﹂
﹁コーラ、此この無ぶれ礼いも者の奴め。警察と知って悪あく罵ばをするとは、捨てて置けぬ。うぬ、今に後悔するなッ﹂
警官は本気に怒ってしまいました。その様子では、間もなくカンカンになって頭から湯ゆ気げを立てた警察隊がこの家へ到着することでしょう。
ところで病院は、小田原病院というのが見付かりました。私はそこへ電話をかけて、急病人であるから、自動車で飛んで来てくれるように頼みました。
さあ、これで一ひと安心です。警察隊と医者の来るのを待つばかりです。その間に私は現げん場じょうを検しらべて、事件の手てが懸かりを少しでも多く発見して置きたいと思ったのでした。私だって素しろ人うと探たん偵てい位は出来ますよ。
少年探偵の眼は光る
兄の身体は重いので、絨じゅ氈うたんの上に寝かしたままに放置するより仕方がありません。隣の寝室らしいところから、枕と毛布とをとって来て、兄にあてがいました。それから、金かな盥だらいに冷い水を汲くんで来て、タオルをしぼると、額の上に載のせてやりました。こうして置いて私は、現場調査にとりかかったのです。
その室で、まず私の眼にうつる異様なものは、窓硝ガラ子スの真ン中にあけられた大きい孔あなです。これは盥たらいが入る位の大きさがあります。随分大きな孔があいたものです。何故この窓硝子が割れたのでしょうか。それを知らなければなりません。
調べてみると、その窓硝子の破はへ片んは、室内には一つも残らず、全部屋おく外がいにこぼれているのに気がつきました。どうして内側に破片が残らなかったか?
︵うむ。これは窓硝子を壊こわす前に、この室内の圧力が室外の圧力よりも強かったのだ︶
もし外の方が圧力が強いと窓硝子が壊れたときは、外から室内へ飛んでくる筈はずですから室内に硝子の破片が一杯散さん乱らんしていなければなりません。そういうことのないわけは、それが逆で、この室内の方が圧力が高かったわけです。
︵室内の圧力が高いということは、どういう状態にあったのかしら?︶
風船ではないのですから、この室内だけに特に圧力の高い瓦ガ斯スが充満していたとは考えられません。それに窓硝子の壊れる前に、私はこの室内へ入っていたのです。扉を破って入ったときに、室内に圧力の高い瓦斯と空気が充満していたものだったら、私は吃きっ度と強く吹きとばされた筈です。しかし一向そんな風ふうもなく、普通の部屋へ入るのと同じ感じでありました。するとこの室内に高圧瓦斯が充満していたとは考えられません。
︵すると、それは一体どうしたわけだろう︶
こんな風に窓硝子が壊れるためには、もう一つの考え方があります。それは何か大きい物体を、この室から戸外へ抛なげたとしますと、こんな大きな孔が出来るかも知れません。いつだか銀座のある時計屋の飾窓の硝子を悪あっ漢かんが煉れん瓦がで叩たたき破って、その中にあった二万円の金きん塊かいを盗んで行ったことがあります。あの調子です。しかし煉瓦位では、こんなに大きい孔はあきそうもありません。少くとも盥たらい位の大きさのものを投げたことになります。
︵だが、盥位の大きさのものを外に投げたとしたら、そのとき私は室の中に居たのだから、それが眼に映らなければならなかったのに――︶
ところが私は、盥のようなものが、この窓硝子に打ちつけられたところなどを決けっして見ませんでした。いやボール位の大きさのものだってこの硝子板をとおして飛び出したのを見なかったのです。
︵すると、この矛盾はどう解決すべきであろうか?︶
全く不思議です。盥位の大きさのものをこの室内から外に投げたと思われるのに、それが見えなかったというのは、どうしたわけでしょう。――そうだ。こういうことが考えられるではありませんか。若もし抛なげられたものが、無色透明の物体だったとしたらどうでしょうか。仮かりに盥ほどもある大きい硝ガラ子スの塊かたまりだったとしたら、そいつは私の眼にもうつらないで、この室から外へ抛げることが出来たでしょう。その外に解きようがありません。
しかしながら、そんな大きい無色透明の物体なんて在あるのでしょうか。そいつは一体何者でしょうか。それは室しつ内ないのどこに置いてあって、どういう風にして窓硝子へぶっつかったのでしょうか。こう考えて来ると、折せっ角かく謎がとけてきたように見えましたが、どうしてどうして、答はますます詰つまってくるばかりです。なぜなれば、そんな眼に見えないもの︵又は眼に見え難にくいもの︶で、莫ば迦かに大きいもの、そして硝子を壊こわす力があるようなもの、そしてそれは誰が抛なげたか――イヤそれはまるで化物屋敷の出来ごとでもなければ、そんな不思議は解けないでしょう。
﹁ム――﹂
と私は其の場に呻うなりながら腕うで組ぐみをいたしました。
眼に見えないか、見えにくいもので、盥たらい位の大きさ、形は丸くて、硝子を壊す位の重いもので、その上、簡単に室内から投げられるようなものとは、一体何だろう。
怪あやしい白しら毛げ︵?︶
私はそのときに、﹁崩れる鬼影﹂という謎のような言葉を思い出しました。
ああいう非常時に、人間というものは、驚きのなかにも案外たいへんうまい形容の言葉を言うものです。﹁鬼影﹂というも﹁崩れる﹂というも、決して出でた鱈ら目めの言葉ではありますまい。ことに此この家やの老婦人も兄も、全く同じ﹁崩れる鬼影﹂という言葉を叫んだのですから、いよいよ以もって出鱈目ではありますまい。
影というからには、どこかに映ったものでありましょう。あのときは――そうです、満まん月げつが皎こう々こうと照っていました。今はもう屋根の向うに傾かたむきかけたようです。月光に照らされたものには影が出来る筈はずです。影というのは、その影ではないでしょうか。あの場合、満月の作る影と考えることは、極きわめて自然な考えだと思いました。すると――
︵あの満月に照らされて出来た影なのだ。それはどこへ映うつったか?︶
私は首をふって、改めて室内を見まわしてみましたが、
︵ああ、この窓に鬼影が映ったのだッ︶
と思わず叫び声をたてました。そうだ、そうだ。兄はこの部屋に入る前までは﹁鬼影﹂などと口にしなかったではないですか。これはこの室に入って始めて鬼影を見たとすれば合うではありませんか。しかもこの室の、この窓硝子の上に……
私はツカツカと窓硝子の傍そばによりました。そして改めて丸く壊れた窓硝子を端はしの方から仔しさ細いに調べて見ました。破壊したその縁ふちは、ザラザラに切り削そいだような歯を剥むいていました。私はそこにあったスタンドを取上げてどんな細かいことも見みの遁がすまいと、眼を皿のようにして観察してゆきました。
しかし別に手てが懸かりになるようなものも見えません。台をして上の方もよく見ました。だんだんと反対の側を下の方へ見て行きましたが、
﹁オヤ﹂
と思わず私は叫びました。
﹁これは何だろう?﹂
硝子の切きり削そいだような縁ふちに、白い毛のようなものが二三本引ひっ懸かかっているではありませんか。ぼんやりして居れば見みの遁がしてしまうほどの細いものです。余り何も得るところがなかったので、それでこんな小さなものに気がついたわけでした。
これを若もし見落していたならば、この怪事件の真相は、或いはいまだに解けていなかったかも知れません。それは後のちの話です。
私はハンカチーフを出して、その白い毛のようなものを硝子の縁から取りはなしました。そしてそのまま折おり畳たたんで、ポケットに仕舞いこんだのでした。
丁ちょ度うどそのときです。
戸こが外いに、やかましいサイレンの音が鳴り出しました。
ブーウ、ウ、ウ。ブーウ、ウ、ウ。
まるで怪獣のような呻うなり声です。
破れた窓から外に首を出してみますと、どうでしょう、遥はるか下の街かい道どうをこっちへ突進して来る自動車のヘッドライトが一ひイ、二ふウ、三みイ、ときどきパッと眩まぶしい眼玉をこっちへ向けます。いよいよ警察隊がやって来たのです。頭からポッポッと湯ゆ気げを出して怒っている警官の顔が見えるようでした。
ふりかえってみると、兄は依然として絨じゅ氈うたんの上に長くなったまま、苦しそうな呼吸をしていました。
私は階段をトントンと下って、老婦人の室へやの扉ドアを叩たたきました。
﹁おばさん。いよいよ警官が来ましたよ。もう大丈夫ですよ﹂
そう云いながら、私は扉を開いて室内へ一歩踏み入れました。
﹁や、や、やッ――﹂
私の心臓はパッタリ停ったように感じました。私は一体そこで、何を見たでしょうか?
妖よう怪かい屋やし敷き
この室の扉ドアを開くまでは、私は老婦人ひとりが、静かに寝ベッ台ドの上に睡ねむっていることと思っていました。ところがどうでしょう。いま扉を押して見て駭おどろきました。なんでもそのときの気けは配いでは、婦人の外に十人近くの人間がウヨウヨと蠢うごめいているのを直感しました。
﹁オヤッ﹂
一体この大勢の人間は何処から入ってきたのでしょう? ここの主人の谷村博士とこの老婦人以外には、せいぜい一人二人のお手伝いさんぐらいしか居ないだろうと思った屋敷に、いつの間にか十人近くの人間が現れたのです。しかも大して広くもない此この婦人の室に、ウヨウヨと集っていたのですから、私は胆きもを潰つぶしてしまいました。
ですけれど、私の駭きはそれだけでお仕し舞まいにはなりませんでした。おお、何という恐おそろしい其その場の光景でしょうか。その十人近くの人間と見えたのは、実は人聞だかどうだか解りかねる奇きか怪いなる生いき物ものでした。そうです。生物には違いないと思います、こうウヨウヨと蠢いているのですから。
彼等は変な服な装りをしていました。時代のついた古い洋服――それもフロックがあるかと思えば背広があり、そうかと思うと中年の婦人のつけるスカートをモーニングの下に履はいています。しかしそのチグハグな服装はまだいいとして、この人達の顔が一向にハッキリしないのは変です。
私は眼をパチパチとしばたたいて幾度も見直しました。ああ、これは一体どうしたというのでしょう。彼等の顔のハッキリしないのも道どう理りです。全まったくは、顔というものが無いのです。頭のない生物です。頭のない生物が、まるで檻の中に犇ひしめきあう大おお蜥とか蜴げの群むれのように押し合いへし合いしているのです。
﹁ばッ、ばけもの屋敷だ!﹂
私はそう叫ぶと、室しつ内ないに死んだようになって横たわっている老婦人を助ける元気などは忽たちまち失うせて、室外に飛び出しました。うわーッと怪物たちが、背うし後ろから襲おそいかかってくる有様が見えるような気がしました。
﹁助けてくれーッ﹂
私はもう恐ろしさのために、大事な兄のことも忘れ、一秒でも早くこの妖怪屋敷から脱出したい願いで一杯で、サッと外へ飛び出しました。
﹁たッ助けてくれーッ﹂
ああ、眩まぶしい自動車のヘッド・ライトは、二百メートルも間まぢ近かに迫せまっています。警察隊が来てくれたのです。あすこへ身を擲なげこめば助かる! 私はもう夢中で走りました。
﹁オイ何者かッ。停まれ、停まれ﹂
私の顔面には突然サッと強い手てさ提げで電んと灯うの光が浴せかけられました。おお、助かったぞ!
怪しき博士の生活
﹁この小こぞ僧うだナ、さっき電話をかけてきたのは﹂
無むが蓋い自動車の運転台に乗っていた若い一人の警官が、ヒラリと地上に飛び降りると、私の前へツカツカと進み出てきました。
﹁僕です﹂私はもう叱しかられることなんか何でもないと思って返事しました。﹁トンチキ野郎などと大変な口を利きいたのもお前だろう﹂
﹁僕に違いありません。そうでも云わないと皆さん来てくれないんですもの﹂
﹁オイオイ、待て待て﹂そこへ横から警部みたいな立派な警官が現れました。﹁それはもう勘かん弁べんしてやれ﹂
私はホッとして頭をペコリと下げました。
﹁それでナニかい。一体どう云う事件なのかネ。君が一生懸命の智ち慧えをふりしぼって僕等を呼び出した程の事件というのは……﹂
警部さんには、よく私の気持が判っていて呉くれたのです。これ位嬉うれしいことはありません。私は元気を取戻しながら、一いち伍ぶし一じゅ什うを手短かに話してきかせました。
﹁ウフ、そんな莫ば迦かなことがあってたまるものか。この小僧はどうかしているのじゃないですか﹂
例の若い警官黒田巡査は、あくまで私を疑っています。
﹁まアそう云うものじゃないよ、黒田君﹂分ふん別べつあり気げな白しろ木き警部は穏おだやかに制して、﹁なるほど突とっ飛ぴすぎる程の事件だが、僕はこの家を前から何なん遍べんも見て通った時とき毎ごとに、なんだか変なことの起りそうな邸やしきじゃという気がしていたんだ﹂
﹁そうです、白木警部どの﹂とビール樽だるのように肥った赤坂巡査が横から口を出しました。﹁ここの主人の谷村博士は、年がら年中、天体望遠鏡にかじりついてばかりいて他のことは何にもしないために、今では足が利きかなくなり、室内を歩くのだってやっと出来るくらいだという話です﹂
﹁可お笑かしいなア、その谷村博士とかいう人は、確たしかに空中をフワフワ飛んでいましたよ﹂私は博士が足が不自由なのにフワフワ飛べるのがおかしいと思ったので、口を出しました。
﹁それは構わんじゃないか﹂黒田巡査が大きな声で呶ど鳴なるように云いました。﹁足が不自由だから、簡単に飛べるような発明をしたと考えてはどうかネ﹂
﹁ほほう、君もどうやら事件のあったことを信用して来たようだネ﹂と警部は微びし笑ょうしながら﹁だが兎とに角かく、当面の相手は何とも説明のつけられない変な生いき物ものが居るらしいことだ。そいつ等の人数は大おお約よそ十四五人は発見されたようだ。それも果して生物なのだか、それとも博士の発明していった何かのカラクリなのだか、これから当ってみないと判らない。博士の行ゆく方えが判ると一番よいのだが、とにかく様子はこの少年の話で判ったから、一つ皆で天文学者谷村博士邸ていを捜そう査さし、一人でもよいからその訳のわからぬ生物を捕ほり虜ょにするのが急きゅ務うむである。判ったネ﹂
﹁判りました﹂﹁判りました﹂と凡およそ二十人あまりの警官隊員は緊張した面おもてを警部の方へ向けたのでした。彼等はいずれも防ぼう弾だん衣いをつけ、鉄てつ冑かぶとをいただき、手には短ピス銃トル、短たん剣けん、或いは軽けい機きか関んじ銃ゅうを持ち、物々しい武装に身をととのえていました。これだけの隊員が一度にドッと飛びかかれば、流さす石がの妖怪たちも忽たちまち尻しっ尾ぽを出してしまうことであろうと、大変頼たのもしく感ぜられるのでした。
怪かい物ぶつの怪かい力りき
﹁では出動用意﹂警部は手をあげました。﹁第一隊は表玄関より、第二隊は裏の入口より進む。それから第三隊は門もん内ないの庭木の中にひそんで待機をしながら表門を警戒している。本官とこの少年は第一隊に加わって表玄関より進む。――よいか。では進めッ!﹂
警官はサッと三つの隊にわかれ、黙もく々もくとして敏捷に、たちまち行動を起しました。
私はすっかり元気になって、第一隊の先頭に立ち、表玄関を目め懸がけて駈け出しました。
﹁オイ少年、静かに忍びこむのだよ﹂
たちまち注意を喰いました。そうです、これは戦争じゃなかったのでした。あまり活かっ溌ぱつにやると、妖怪たちは逃げてしまうかも知れません。
玄関は静かでした。訓練された七名の警官は、まるで霧のように静かに滑すべりこみました。階下の廊下は淡あわい灯とう火かの光に夢のように照らし出されています。気のせいか、黄色い絨じゅ氈うたんが長々と廊下に伸びているのが、いまにもスルスルと匍はい出しそうに見えます。
そのとき私の腕をソッと抑おさえた者があります。ハッと駭おどろいて振りかえると、何のこと白木警部です。
﹁怪物のいる部屋は何処かネ﹂
と警部は私の耳に唇を触ふれんばかりに囁ささやきました。
﹁……﹂
私は無言のまま、すぐ向うの左手の扉ドアを指さしました。老婦人を囲んで、怪あやしげなる服装をつけた頭のない生物が、蜥とか蜴げのように蠢うごめいているところを又見るのかと思うと、いやアな気持に襲おそわれて参まいりました。
警部は首を上下に振ふって大きい決心を示しました。﹁懸かかれッ!﹂サッと警部の手が扉ドアの方を指しました。
黒田巡査が最まっ先さきに飛び出して、扉の把ハン手ドルに手をかけると、グッと押しました。
﹁オヤ、あかないぞ﹂
ウーンと力を入れて体当りをくらわせてみましたが、どうしたものかビクとも開かないのです。
﹁警部どの、これァ駄目です﹂
﹁扉ドアを壊こわして入れッ。三人位でぶつかってみろ﹂
三人の逞たくましい警官が、たちまちその場に勢ぞろいをすると、一、二イ、三と声を合わせ、
﹁エエイッ﹂
と扉にぶつかりました。グワーンと音がするかと思いの外ほか、呀あッと叫ぶ間もなく、扉はパタリと開き、三人の警官は勢いきおいあまってコロコロと球でも転ころがすように、室内に転げ込みました。どうやら鍵は懸かかっていなかったものらしいのです。
一同は思いがけぬことに、ちょっとひるんで見えましたが、
﹁それ、捕ほば縛くしろッ﹂
と警部が激げき励れいしたので、ワッと喚わめいて室内に躍おどりこみました。そこには予よ期きしていたとおり、頭のない洋服を着た怪物がゾロゾロと匍はいまわっていました。
﹁ウム﹂
とその一つに手をかけるとたんに、ピシリとひどい力で叩かれました。警官は呀あッと顔をおさえたまま尻しり餅もちをつきましたが、叩かれたところは見る見る裡うちに紫色に腫はれ上ってきます。
あっちでもこっちでも、警官が宙ちゅうに跳はねとばされています。壁へ叩きつけられて気きぜ絶つをするもの、ガックリと伸びるものなどあって、形勢は不利です。
ピリピリピリピリ。
もうこれまでと、警部は非常集合の警笛をとって、激しく吹き鳴らしました。
素す破わ一大だい事じとばかりに裏門の一隊と、表門に待機していた予よび備た隊いとが息せききって駈かけつけました。
警部はその二隊を、問題の室には向けず、階段の影に集結しました。この上乱らん闘とうをしてみたって、あの怪物には到とう底てい歯が立たないことを悟さとったからでしょう。
﹁機きか関んじ銃ゅう隊たい、配置につけッ﹂
たちまち階段の影に三挺の機関銃を据すえつけました。しかし引金を引くわけにはゆきません。向うの室では、味方の警官も苦くと闘うをつづけていれば、老婦人もどこかの隅すみにいるかと考えられるからです。唯一つの機会は、室から外へ出てくる怪物があれば、この機関銃から弾だん丸がんの雨を喰くらわせることが出来ます。
﹁うーむ、今に見ていろ﹂
警部は自じぼ暴う自じ棄きで、苦闘している部下のところへ飛びこんでゆきたいのを、じっと怺こらえていました。それは犬いぬ死じににきまっていますが見す見す部下が弱ってゆくのを眺めていることは、どんなにか苦しいことでしょう。戦いの運はもう凶きょうのうちの大だい凶きょうです。
鬼おに影かげを見る
﹁呀あッ、出て来たッ﹂
果かぜ然ん、モーニング・コートを着て、下には婦人のスカートを履はいた奴やつが、室の入口からフラフラと廊下の方に現れました。生いけ捕どりにはしたいのですが、こう強くてはもう諦あきらめるより外ほかはありません。死しが骸いでも引き擦ずって帰れると、成功の方かも知れません。
﹁撃うち方かたァ始めッ﹂
ダダダダダダダダーン。
ドドドドドドドドーン。
銃口からは火を吹いて銃丸が雨あめ霰あられと怪物の胴どう中なかめがけて撃ち出されました。
﹁この野郎、まだかッ﹂
バラバラと飛んでゆく弾丸は、黒いモーニングの上にたちまち白い弾たま丸あ跡とを止とめ度どもなく綴つづってゆくのでした。とうとう洋服の布ぬの地じの一部がボロボロになって、銃じゅ火うかに吹きとばされました。
怪物の腹のところに、ポカリと大きい穴があきました。それだのに怪物は、悠ゆう々ゆうと廊下を歩いているのです。
﹁あの怪物には、身体も無いぞ﹂
誰かが気が変になったような悲鳴をあげました。なるほどモーニングの大きい穴の向うには、背中の方のモーニングの裏うら地じが見えるばかりで中はガラン洞どうに見えました。こんな不思議な生物があるのでしょうか。
﹁あれは洋服だけが動いているのじゃないだろうか﹂
一人の警官が、いくら雨あめ霰あられと飛んでゆく機関銃の弾た丸まを喰くらわせてもビクとも手てご応たえがないのに呆あきれてしまって、こんなことを叫びました。しかしその証明は、立たち処どころにつきました。というのは、破れモーニングの怪物が、こんどはノソノソと、機関銃隊の方へ動き出したのです。
ビュン、ビュン、ビュン、ビュン。
異様な音響を耳にしたかと思うと、そのモーニングはサッと走り出しました。呀あッと一同が首をすくめる遑ひまもあらばこそ、機関銃がパッと空中に跳はねあがり、天てん井じょうに穴をあけると、どこかに見えなくなりました。
﹁これはいかん﹂
と思う暇もなく、一同の向むこう脛ずねは、いやッというほどひどい力で払はらわれてしまいました。
﹁うわーッ﹂
警部と私とが助かったばかりで、あとは皆将棋だおしです。もう起きあがれません。警官隊は全ぜん滅めつです。
モーニングの怪物はと見てあれば、フワフワと開あけ放はなされた玄関に出てゆきました。玄関には入口の扉の影だけが、月光に照らされて三角形の黒い隈くまをつくっています。
怪物はその扉の向うへ出てゆきました。出て行ったと思う間もなく、玄関の厚い硝ガラ子ス戸どにモーニングの影がうつりました。
﹁おお、あれを見よ、あれを見よ﹂
警部さんは生きた心地もないような慄ふるえ声ごえで叫びました。
おお、それは何という物もの凄すごい影でしょうか。硝子戸に月が落おとした影は、モーニングだけの影ではなかったのでした。稍やや淡あわい影ではありましたが、モーニングの上に、確かに首らしいものが出ています。その頭がまた四しと斗だ樽るのように大きいのです。
モーニングの袖からも手らしいものが出ていますが、それが不ふつ釣りあ合いにも野球のミットのような大きさです。
いやもっと駭おどろくことがあります。
その大きい頭部が、見る見るうちに角つのが出たり、二つに分かれたり、そうかと思うとスーッと縮ちぢんで小さくなったり、その気き味みの悪さといったらありません。なんと形容して云ったらよいか。
ああ、そうだ。
﹁崩くずれる鬼おに影かげ!﹂
影が崩れる、鬼の影――というのは、これなのです。私は背中に冷水を浴びたように、ゾーッとしてきました。血が爪つま先さきから膝ひざ頭がしらの辺までスーッと引いたのが判りました。一体これは何者でしょうか。
鬼か、人か?
妖よう怪かい屋やし敷きを照らす満まん月げつの光は、いよいよ青あお白じろくなって参りました。
異変の夜は、まだいくばくも過ぎていないのです。
続いて起ろうとする怪事件は、そも何か。
警官の紛ふん失しつ
﹁化物は何をしているんでしょ。ねエ警部さん﹂
と私は白木警部の腕を抑おさえて云いました。
﹁なんだか、ガタガタいってたのが、すこしも音がしなくなったようだネ﹂
そういって警部は、注意ぶかく頭をもちあげて、戸口の方を、見ました。月光は相あい変かわらず明るく硝ガラ子ス戸どを照らしていましたが、先さっ刻き見えた怪あやしい鬼おに影かげは、まったく見当りません。唯ただ空むなしく開いた入口の外は木こだ立ちの影でもあるのか真まっ暗くらで、まるで悪魔が口を開あいて待っているような風ふうにも見えました。
﹁さっき戸口がゴトゴト云ってたが、みな外へ逃げ出したのかも知れない﹂
警部の声を聞きつけたものか、あちらこちらから、部下の警官が匍はいよってきました。
﹁警部どの。あれは一体人間なんですか﹂
﹁人間ですか。それとも人間でないのですか﹂
部下のそういう声は慄ふるえを帯おびていました。
﹁さア、私わしにはサッパリ見当がつかん﹂
警部も、今は匙さじを投げてしまいました。それから沈黙の数分が過ぎてゆきました。その間というものは建物の中がまるで死の国のような静けさです。
﹁オイみんな。元気を出せ﹂と警部が低いが底そこ力ぢからのある声で云いました。﹁この機に乗じょうじて一同前進ッ﹂
警部は左手をあげて合あい図ずをすると、自みずから先頭に立ってソロソロと匍はい出しました。ゆっくりゆっくり戸口の方へ躙にじり出てゆきます。息づまるような緊張です。
﹁オヤオヤ﹂
戸口のところまで達すると、警部は意外な感に打たれて身を起しました。
﹁どうしましたどうしました﹂
私も警官たちと一緒にガタガタと靴を鳴らして戸口へ飛び出しました。外は水を打ったように静かな眺ながめです。月光は青々と照てり亙わたり、虫がチロチロと鳴いています。まるで狐に化かされたような穏おだやかな風景です。
﹁居ないようだネ﹂と警部が云いました。その声から推おして大だい分ぶ落おち着ついてきたようです。﹁では全員集まれッ﹂
全員は直ちにドヤドヤと整列しました。私は恥はずかしかったので、横の方で気を付けをしました。
﹁番号ッ﹂
一、二、三、……と勇しい呼び声。
﹁オヤ、一人足りないじゃないか﹂
﹁一人足らん。誰が集まらんのだろう﹂
警官たちは不思議そうに、お互たがいの顔をジロジロ眺めました。
﹁ああ、あの男が居ない。黒田君が居ない﹂
﹁そうだ、黒田君が見えんぞ﹂
黒田君、黒田クーンと呼んで見たが、誰も返事をするものがありません。
﹁これは穏おだやかでない。では直ただちに手分けして黒田を探してこい。進めーッ﹂
警部は命令を下しました。一同はサッと其その場ばを散りました。家の中に引かえすもの、門の方へ行くもの、木こだ立ちの中へ入るもの――僚りょ友うゆうの名を呼びつつ大だい捜そう索さくにかかりました。しかし黒田警官の姿は何ど処こにも見当りません。
﹁警部どの、見当りません﹂
﹁どうも可お笑かしいぞ。どこへ行ったんだろう﹂
そうこうしているうちに、庭の方を探しに行った組の警官が、息せき切って馳はせ帰かえってきました。
﹁警部どの。向うに妙な場所があります﹂
﹁妙な場所とは﹂
﹁池がこの旱かん魃ばつで乾ひあ上がって沼みたいになりかかっているところがあるんです。その沼へ踏みこもうという土の柔やわらかいところに、格かく闘とうの痕あとらしいものがあるんです。靴跡が入いり乱みだれています。あんなところで、誰も格闘しなかった筈はずなんですが、どうも変ですよ﹂
﹁そうか、それア可笑しい。直すぐ行ってみよう﹂
警部さんはその警官を先頭に、急いで乾上った池のところへ駈けつけてみました。
なるほど入り乱れた靴の跡が、点々として柔い土の上についています。
警部さんは、懐中電灯をつけて、その足跡を検しらべ始めました。
﹁オヤこれは変だな。足跡が途中で消えているぞ﹂
﹁消えているといいますと﹂
﹁ほら、こっちから足跡がやってきて、ほらほらこういう具合にキリキリ舞いをしてサ、向うへ駈け出していって、さア其そ処こで足跡が無くなっているじゃないか﹂
﹁成なる程ほど、これア不思議ですネ﹂
﹁こんなことは滅めっ多たにないことだ。おお、ここに何か落ちているぞ。時計だ。懐中時計でメタルがついている。剣道優ゆう賞しょ牌うはい、黒田選手に呈ていす――﹂
﹁あッ、それは黒田君のものです。それがここに落ちているからには……﹂
﹁うん、この足跡は黒田君のか。黒田君の足跡は何故ここで消えたんだろう?﹂
蘇そせ生いした帆ほむ村らた探んて偵い
そのとき、門の方に当って、けたたましい警けい笛てきの音と共に、一台の自動車が滑すべりこんできました。
﹁何者かッ﹂
というんで、自動車の方へ躍おどり出てみますと、車上からは黒い鞄かばんをもった紳士が降りてきました。待ちに待った小おだ田わら原びょ病うい院んのお医者さんが到着したのです。
﹁なァーンだ﹂
警官は力ちか瘤らこぶが脱ぬけて、向うへ行ってしまいました。私はそのお医者さまの手をとらんばかりにして、兄の倒れている二階の室へ案内しました。
兄は依いぜ然んとして、長々と寝ていました。医者は一ちょ寸っと暗い顔をしましたが、兄の胸を開いて、聴ちょ診うし器んきをあてました。それから瞼まぶたをひっくりかえしたり、懐中電灯で瞳どう孔こうを照らしていましたが、
﹁やあ、これは心配ありません。いま注射をうちますが、直すぐ気がつかれるでしょう﹂
小さい函はこを開いて、アンプルを取ってくびれたところを切ると、医者は注射器の針を入れて器用に薬やく液えきを移しました。そして兄の背中へズブリと針をさしとおしました。やがて注射器の硝ガラ子スと筒うの薬液は徐々に減ってゆきました。その代りに、兄の顔色が次第に赤あか味みを帯おびてきました。ああ、やっぱり、お医者さまの力です。
三本ばかりの注射がすむと、兄は大きい呼吸を始めました。そして鼻や口のあたりをムズムズさせていましたが、大きい嚔くさめを一つするとパッと眼を開きました。
﹁こン畜生﹂
兄は其その場ばに跳はね起きようとしました。
﹁やあ気がつきましたネ。もう大丈夫。まァまァお静かに寝ていらっしゃい﹂
医者は兄の身体を静かに抑えました。
﹁おお、兄さん――﹂
私は兄のところへ飛びついて、手をとりました。不思議にもう熱がケロリとなくなっていました。
﹁やあ、お前は無事だったんだネ。兄さんはひどい目に遭あったよ﹂
兄は医者に厚く礼を云って、まだ起きてはいけないかと尋たずねました。医者はもう暫しばらく様子を見てからにしようと云いました。
その間に、私が見たいろいろの不思議な事件の内容を兄に説明しました。
﹁そうかそうか﹂だの﹁それは面白い点だ﹂などと兄はところどころに言葉を挟はさみながら、私の報告を大変興味探そうに聞いていました。
﹁兄さん。この家は化物の巣なのかしら﹂
﹁そうかも知れないよ﹂
﹁でも、化物なんて、今いま時どき本当にあるのかしら﹂
﹁無いとも云いきれないよ﹂
﹁どうも気味の悪い話ですが﹂と小田原病院の医い師しが側から口を切りました。﹁ここの谷村博士の研究と何か関係があるのではないでしょうか。博士と来たら、二十四時間のうち、暇ひまさえあれば天体を覗のぞいていられるのですからネ。殊ことに月の研究は大したものだという評判です﹂
﹁月の研究ですって﹂と兄は強く聞き返しました。今夜も大変月のいい夜でありました。
﹁博士が空中を飛んだり、あの窓から眼に見えないそして大きなものが飛び出したり、それから洋服の化物のようなものがウロウロしていたり、あれはどこからどこまでが化物なのかしら﹂
﹁それは皆化物だろう﹂
﹁兄さんは化物を本当に信じているの﹂
﹁化物か何かしらぬが、僕がこの室で遭あったことはどうも理屈に合わない。あれは普通の人間ではない。眼には見えない生物が居るらしいことは判る。しかし月の光に透すかしてみると見えるんだ。僕はこの部屋に入ると、いきなり後からギュッと身体を巻きつけられた。呀あッと思って、身体を見ると、何にも巻きついていないのだ。しかし力はヒシヒシと加わる。僕は驚いてそれを振り離そうとした。ところがもう両腕が利きかないのだ。何者かが、両腕をおさえているのだ。僕は仕方なしに、足でそこら中じゅうを蹴っとばした。すると何だか靴の先にストンと当ったものがある。しかし注意をしてそこらあたりを見るが、何にも見えないことは同じだった。そのうちに、呀ッと思う間もなく、僕の身体は中心を失ってしまった。身体が斜ななめに傾かたむいたのだ。僕はズデンドウと尻しり餅もちをつくだろうと思った。ところが尻餅なんかつかないのだ。身体は尚なおも傾いて身体が横になる。そこで僕はもう恐怖に怺こらえきれなくなって、お前を呼んだのだ﹂
﹁ああ、あのときのことですネ﹂
﹁すると今度はイキナリ宙ぶらりんになっちゃった。足が天てん井じょうにピタリとついた。不思議な気持だ。尚も叫んでいると、今度は頸くびがギュウと締まってきた。苦しい、呼吸が出来ない――と思っているうちに、気がボーッとしてきてなにが何だか、記憶が無くなってしまった。こんな不思議なことがまたとあろうか﹂
と兄は始めて、この博士の室で遭あったという危きな難んについて物語りました。
﹁眼に見えない生物が、兄さんに飛びかかったんだ﹂
﹁そうだ。そう考えるより仕方がない。僕はお医者さまが許して下されば、もっと検しらべたいことが沢山あるんだ……﹂
﹁そうですネ﹂と医者は時計を見ながら云いました。﹁大分元気がおよろしいようですが、では無理をしないように、すこしずつ動くことにして下さい﹂
﹁じゃ、もう起きてもいいのですネ﹂
兄は嬉しそうに身体を起しました。そして両腕を体操のときのように上にあげようとして、ア痛タタと叫びました。
二人連れの怪人
兄は元気になって、谷村博士の老夫人を見舞いました。
﹁まア、貴あな郎たまでとんだ目にお遭あいなすってお気の毒なことです﹂
と老婦人は泪なみださえ浮べて云いました。
﹁おや、あれはどうしたのです﹂
兄は内扉の向うが、乱雑にとりちらかされてあるのを見て、老婦人に尋たずねました。
﹁あれは衣服室なのです。それが貴郎、ゾロゾロ動き出して、まるで生物のように此の室を匍はい廻ったんです﹂
﹁ああ、あの一件ですネ。するとあの洋服はすべて先生と奥様のだったというわけですね﹂
老婦人は黙って肯うなずきました。
﹁いや、それですこし判って来たぞ﹂
﹁どう判ったの、兄さん﹂
﹁まア待て――﹂
兄はそれから庭へ下りてゆきました。警官たちは例の池のところに、何か協議を開いていました。私は兄を紹介する役目になりました。
﹁いや皆さん、私まで御心配かけまして﹂と兄は挨あい拶さつをしました。﹁ときに警官の方が一人見えないそうですね﹂
﹁黒田という者ですがネ。これ御覧なさい。この足跡がそうなんですが、黒田君は途中で突然身体が消えてしまったことになるので、今皆みんなと智慧を絞しぼっているのですが、どうにも考えがつきません﹂
﹁突然身体が消えるというのは可お笑かしいですネ。見えなくなることがあったとしても足跡は見えなくならんでしょう。矢張り泥の上についていなければならんと思いますがネ﹂
﹁それもそうですネ﹂
﹁僕の考えでは、黒田さんは、私を襲ったと同じ怪物に、いきなり掠さらわれたんだと思いますよ。あの怪物が、追っかけた黒田さんの身体を掴つかまえ、空中へ攫さらいあげたのでしょう。黒田さんの身体は宙に浮いた瞬間、足跡は泥の上につかなくなったわけです。それで理りく窟つはつくと思います﹂
﹁なるほど、黒田君が空中にまきあげられたとすればそうなりますネ。しかし可笑しいじゃないですか﹂と警部はちょっと言葉を停めてから﹁それだと黒田君の足跡のある近所に怪物の足跡も一緒に残っていなければならんと思いますがネ﹂
﹁さあそれは今のところ僕にも判らないんです﹂と兄は頭を左右に振りました。
そのとき家の方にいた警官が一人、バタバタと駈け出してきました。
﹁警部どの、警部どの﹂
﹁おお、ここだッ。どうした﹂
ソレッというので、先程の異変に懲こりている警官隊は、集まって来ました。
﹁いま本署に事件を報告いたしました。ところが、その報告が終るか終らないうちに、今度は本署の方から、怪事件が突発したから、警部どの始め皆に、なるべくこっちへ救きゅ援うえんに帰って呉くれとの署長どのの御命令です﹂
﹁はて、怪事件て何だい﹂
﹁深夜の小おだ田わ原らに怪人が二人現れたそうです。そいつが乱暴にも寝静まっている小田原の町ちょ家うかを、一軒一軒ぶっこわして歩いているそうです﹂
﹁抑えればいいじゃないか﹂
﹁ところがこの怪人は、とても力があるのです。十人や二十人の警官隊が向っていっても駄目なんです。鉄の扉ドアでもコンクリートの壁でもドンドン打ち抜いてゆくのです。そして盛んに何か探しているらしいが見付からない様子だそうで、このままにして置くと、小田原町は全滅の外ほかありません。直ぐ救援に帰れということです﹂
﹁その怪人の服装は?﹂
﹁それが一人は警官の帽子を着た老人です。もう一人は白い手術着のような上に剣をつった男で、何だか見たような人間だと云ってます。異いよ様うな扮いで装たちです﹂
﹁なに異様な扮装。そして今度は顔もついているのだナ﹂
﹁失礼ですが﹂と兄が口を挟はさみました。﹁どうやら行方不明の谷村博士と黒田警官の服装に似ているところもありますネ﹂
﹁そうです。そうだそうだ﹂警部は忽たちまち赤くなって叫びました。﹁じゃ現場へ急行だ。三人の監視員の外ほか、皆出発だ。帆村さん、貴方も是ぜ非ひ来て下さい﹂
ああ、変な二人の怪人は、小田原の町で一体何を始めたのでしょう。例の化物はどこへ行ったでしょう。奇怪なる謎は解けかけたようで、まだ解けません。
重大な手てが懸かり
﹁帆村さん、身体の方は大丈夫ですか﹂
警官隊の隊長白木警部はそういって私の兄を優しくいたわってくれました。
﹁ありがとう。だんだんと元気が出てきました。僕も連れてっていただきますから、どうぞ﹂
﹁どうぞとはこっちの言うことです。貴あな方たがいて下さるので、こんなひどい事件に遭あっても私達は非常に気強くやっていますよ﹂
そこで私達も白木警部と同じ自動車の一いち隅ぐうに乗りました。私達の自動車は先頭から二番目です。警けい笛てきを音高くあたりの谷間に響ひびかせながら、曲り曲った路面の上を、いとももどかしげに、疾しっ走そうを始めました。
﹁兄さん﹂と私は荘そう六ろくの脇わき腹ばらをつつきました。
﹁なんだい、民ちゃん﹂と兄は久しぶりに私の名を呼んでくれました。
﹁早く夜が明けるといいね﹂
﹁どうしてサ﹂
﹁夜が明けると、谷村博士のお邸やしきにいた化物どもは、皆どこかへ行ってしまうでしょう﹂
﹁さア、そううまくは行かないだろう。あの化物は、あたりまえの化物とは違うからネ﹂
﹁あたりまえの化物じゃないというと……﹂
﹁あれは本当に生きているのだよ。たしかに生せい物ぶつだ。人間によく似た生物だ。陽ひの光なんか、恐おそれはしないだろう﹂
﹁すると、生いき物ものだというのは、確かに本当なんだネ、兄さん。人間によく似たというとあれは人間じゃないの﹂
﹁人間ではない。人間はあんなに身体が透すきとおるなんてことがないし、それから身体がクニャクニャで大きくなったり小さくなったり出来るものか。また足を地面につかないで力を出すなんておかしいよ。とにかく地球の上に棲すんでいる生物に、あんな不思議なものはいない筈はずだ﹂
﹁じゃ、もしや火星からやって来た生物じゃないかしら﹂
﹁さアそれは今のところ何とも云えない。これぞという証しょ拠うこが一つも手に入っていないのだからネ﹂
そういって兄は首を左右にふりました。そのとき私の頭脳の中に、不ふ図と浮うかび出たものがありました。
﹁あッ、そうだ。その証拠になるものが一つあるんですよ﹂
﹁えッ。何だって?﹂
﹁証拠ですよ﹂と云いながら私は大事にしまってあった手ハン帛カチの包みをとり出しました。﹁これを見て下さい。兄さんが気を失った室の硝ガラ子ス窓のところで発見したのですよ。硝子の壊こわれた縁ふちに引ひっ懸かかっていたのですよ。ほらほら……﹂
そういって私は、あの白い毛のようなものを取り出して兄に見せると共に、発見当時の一いち伍ぶし一じゅ什うを手短かに語りました。
﹁ふふーン﹂兄は大きい歎ため息いきをついて、白木警部のさし出す懐中電灯の下に、その得えた態いの知れない白しら毛げに見入りました。
﹁一体なんです。化物が落していったとすると、化物の何です。頭に生えていた白毛ですか﹂
﹁イヤそんなものじゃありません。――これはいいものが手に入りました。御覧なさい。これは毛のようで毛ではありません。むしろセルロイドに似ています。しかしセルロイドと違って、こんなによく撓たわみます。しかも非常に硬かたい。こんなに硬くて、こんなによく撓むということは面白いことです。覚えていらっしゃるでしょうネ。あの化物の身体は、自由に伸のび縮ちぢみをするということ、そして透明だということ、――これがあの化物の皮膚の一部なのです﹂
﹁皮膚の一部ですって!﹂
﹁そうです。化物が硝ガラ子ス窓を破って外へ飛びだしたときに、剃かみ刀そりよりも鋭い角のついた硝ガラ子スの破はへ片んでわれとわが皮膚を傷つけたのです。そして剥むけた皮膚の一部がこの白しら毛げみたいなものなのです。いやこれは中々面白いことになってきましたよ﹂
兄はひとりで悦えつに浸ひたっていました。
化ばけ物もの追つい跡せき戦せん
﹁とにかく此この白毛みたいなものを早さっ速そく東京へ送って分析して貰うことにしましょう。分析して貰えば、これが地球上に既に発見されているものか、それとも他のものか、きっと見分けがつくと思いますよ﹂
﹁なるほど、なるほど。いいですね﹂と白木警部は大きく肯うなずきました。
そのとき先頭に駆はしっている自動車から、ポポーッ、ポポーッと警けい笛てきが鳴りひびきました。
﹁なんだ﹂
﹁イヤ警部どの、もう小田原へ入りましたが、ちょっと外を御覧下さい﹂
﹁うむ――﹂
警部さんにつづいて私達も外を覗のぞいてみました。両側の家は、停電でもしているかのように真まっ暗くらです。しかしヘッド・ライトに照らされて街まち並なみがやっと見えます。ああ、何たる惨さん状じょうでしょうか。
﹁うむ、これはひどい!﹂
﹁まるで大おお地じし震んの跡のようだッ﹂
﹁おお、向うに火が見えるぞ﹂
近づいてみると、それは町の辻つじに設もうけられた篝かが火りびです。青年団員やボーイスカウトの勇しい姿も見えます。――警官の一隊がバラバラと駈けて来ました。
﹁どッどうした﹂白木警部は手をあげて怒ど鳴なるように云いました。
﹁やあ、警部どの﹂と頤あご髯ひげの生はえた警官が青ざめた顔を近づけました。﹁やっと下した火びになりました。その代り、小田原の町は御覧のとおり滅めち茶ゃめ滅ち茶ゃです﹂
﹁二人の怪人というのはどうした﹂
﹁決死隊が追跡中です。小田原駅の上に飛びあがり、暗い鉄道線路の上を東の方へ逃げてゆきました﹂
﹁そうか、じゃ私達も行ってみよう﹂
自動車は更さらにエンジンをかけて、スピードを早めました。自動車に仕掛けてあるサイレンの呻うなりが、情景を一層物もの凄すごくしました。どんどん飛ばしてゆくほどに、とうとう小田原の町を外はずれて、線路と並行になりました。生なまぐさい草の香かが鼻をうちます。
﹁どうだ、見えないか﹂と警部は大おお童わらわです。
﹁さアまだ見えませんが……呀あッ呀あッ、居ました、居ましたッ﹂
﹁どこだ、どこだッ﹂
﹁いま探たん照しょ灯うとうをそっちへ廻しますから……﹂
運転台のやや高いところに取りつけてあった探照灯がピカリと首を動かすと、なるほど線路上にフワフワと跟よろめきながら東の方へ走っている二つの白い人影がクッキリ浮かび出ました。一人の方は剣を吊っているらしく、ときどきピカピカと鞘さやらしいものが閃ひらめきます。
﹁居た、居た、あれだッ﹂と兄が叫びました。
﹁追跡隊はどうしたのだ。――うん、あすこの線路下に跼うずくまっている一隊に尋たずねてみよう﹂
警部さんは汗あせみどろになっての指し揮きです。
﹁オーイ、どうして追おい駆かけないのだ。元気を出せ、元気を――﹂
﹁いま最後の一戦をやるところです。見ていて下さい。駅の方から機関車隊が出動しますから……﹂
﹁ナニ、機関車隊だって……﹂
その言葉が終るか終らぬ裡うちに、ピピーッという警けい笛てきが駅の方から聞えました。オヤと思う間もなく、こっちに驀ばく進しんしてきた一台の電気機関車、――と思ったが一台ではないのでした。二ツ、三ツ、四ツ。機関車が四つも接つながって驀進してゆきます。
なにをするのかと見ていると、上のぼり線と下くだり線との両道を機関車は二列に並んで、二人の怪人に迫ってゆくのでした。いまにも二人の怪人は車輪の下にむごたらしく轢ひき殺ころされてしまいそうな様子に見えました。
﹁あッ﹂
と私はあまりの惨ざん虐ぎゃくな光景に目を閉じました。
隧トン道ネル合かっ戦せん
しかしながら恐こわいもの見たさという譬たとえのとおり、私はこわごわそッと目を開あいてみました。すると、ああ、なんという不思議なことでしょう。猛もう然ぜんと突とっ進しんしていった筈はずの機関車が、急に速力も衰おとろえ、やがて反対にジリジリと後へ下ってくるのでありました。見ると、驚いたことに例の二人の怪人が、機関車の前に立って後へ押しかえしているのです。なんという恐ろしい力でしょう。それは到とう底てい人にん間げん業わざとは思われません。機関車はあえぎつつ、ジリジリと下ってくる一方です。
そのときピピーッと汽笛が鳴ると、こんどは機関車の方が優勢になったものか、逆に向うへジリジリと押しかえしてゆきます。怪人は機関車の前に噛かじりついたまま押しかえされてゆきます。まるで怪人と機関車の力ちか較らくらべです。しかし私はそのとき、変な事を発見しました。それは怪人の足が地上についていないということです。地上に足がつかないでいて、どうしてあのような力が出せるのでしょう。これは一いっ向こう腑ふに落おちません。
﹁もしや……﹂
とそのとき気のついた私は、探照灯の光の下に、尚も怪人の身体を仔しさ細いに注意して見ました。
﹁おお、思ったとおりだッ﹂
私は思わず大きい声を立てました。怪人の身体は機関車にピタリと密着していないのです。怪人の身体と機関車との間には、三十センチほどの間かん隙げきがあきらかに認められました。前に兄が谷村博士邸で、天井に逆さかさにぶら下っていたとき、私は下から洋書を投げつけたことがあります。あのとき、どうしたものか、投げた洋書は兄の身体に当らずして、いつも三十センチほど手前でパッと跳はねかえるのでした。何か兄の身体の上に三十センチほどの厚さのものが蔽おおっている――としか考えられない有あり様さまでした。あとから兄に聞いたところによれば、あのとき兄は化物に胴どう中なかをギュッと締められているように感じたという話でした。
では、この場合、あの機関車を後へ押しているのは、あの怪人だけではなく、あの怪人に纏まといついている化物の仕しわ業ざではありますまいか。イヤそうに違いありません。やっぱりあの化物です。しかし化物がどうして怪人と力を合わせているのでしょうか。
﹁何が思ったとおりだ﹂と兄が尋たずねました。
﹁やっぱりあの化物が機関車を前から押しかえしているのですよ﹂
﹁ほう、お前にそれが解るか﹂
私はそのわけをこれこれですと、手てみ短じかに兄に話をしてきかせました。
ジリジリと機関車は尚なおも怪人を押しかえしてゆきました。そして機関車はとうとう、隧トン道ネルの入口にさしかかりました。それでも機関車はグングン押してゆきます。怪人の姿は全く見えなくなりました。隧道の中に隠れてしまったのです。
そうこうしているうちに、突とつ如じょとして耳を破るような轟ごう然ぜんたる大だい音おん響きょうがしました。同時に隧道の入口からサッと大きな火の塊かたまりが抛ほうりだされたように感じました。
グォーッ。ガラガラガラガラ。
天地も崩れるような物音とはあのときのことでしょう。私の耳はガーンといったまま、暫しばらくはなにも聞こえなくなってしまいました
﹁隧トン道ネルの爆発だッ﹂
﹁入口が崩れたッ﹂
という人々の立ち騒ぐ物声が、微かすかに耳に入ってきました。どうしたというのでしょう。
﹁うわーッ。逃げてきた逃げてきた﹂
﹁警官も鉄道の連中も、要よう領りょうがいいぞオ﹂
そんな声も聞えます。
﹁あまりに乱暴じゃないですか。東京方面へ列車が出ませんよ﹂
と抗議しているのはどうやら兄らしいです。
﹁いや仕方が無い。報告の内容から推おして考えると、ああするより外ほかに道はないのです。むしろ思い切って決行したところを褒ほめてやって下さい。なにしろ化物は完全に隧道の中に生き埋めだ﹂
﹁隧道の向うが開あいているでしょう﹂
﹁なに鴨かもの宮みやの方の入口も、あれと同時に爆発して完全に閉じてしまったのです。化け物は袋ふくろの鼠ねずみです。もうなかなか出られやしません﹂と白木警部は一人で感心していました。
後で詳くわしく聞いた話ですけれど、二人の怪人の戦せん慄りつすべき暴行について、小田原署の署長さんは一世せ一代だいの智慧をふりしぼって、あの非常手段をやっつけたのでした。その儘まま放って置けば、あの怪人や化物は何をするか判らないのです。お終しまいには東京の方へ飛んでいって空くう襲しゅうよりもなお恐おそろしい惨さん禍かを撒まきちらすかも知れません。そんなことがあっては一大事です。署長さんは、あの怪人の背後に、例の化ばけ物もの団だんが居ると見て、これを釣り出すために機関車隊を編成させ、力ちか較らくらべをさせたのです。恐さを知らぬ化物団は、勝っているうちはよかったが、力負けがしてくると大おお焦あせりに焦って、大おお真ま面じ目めに機関車を後へ押し返そうと皆で揃ってワッショイワッショイやっているうちに、いつの間にか隧道の中へ押おし籠こめられたのです。それに夢中になっている間に、爆破隊が例の入口封ふう鎖さを見事にやってのけました。むろん機関車にのっていた警官や乗務員連中は爆破の前に車から飛び降りて、安全な場所までひっかえしてきたわけでありました。
こうして正体の解らない化物は封鎖されてしまった形ですが、こんなことで大丈夫でしょうか。化物はもう残っていないのでしょうか。残っていたら、それこそ大変です。それから気にかかるのは、谷村博士と黒田警官の行ゆく方えです。それも今夜は尋たずねようがありません。
警備の人々は帽子を脱ぬいでホッと溜ため息いきを洩もらしました。そして道みち傍ばたにゴロリと横になると、積り積った疲労が一時に出て、間もなく皆は泥どろのような熟じゅ睡くすいに落ちました。
山さん頂ちょうの怪かい
警備の人達の苦労を知しらぬ気げに、いくばくもなく東の空が白んできました。生き残った雄鶏が元気なときをつくると、やがて夜はほのぼのと明け放れました。
﹁やあ﹂
﹁やあ﹂
目め醒ざめた警備の人々は、相手の真黒に汚れた顔を見てふきだしたい位でした。瞼まぶたは腫はれあがり、眼は真赤に充血し、顔の色は土のように色を失い、血か泥かわからぬようなものが、あっちこっちに附ふち着ゃくしていました。しかしそれは自分の顔のよごれ方と同じであったのですが、始めは気がつきませんでした。
﹁化ばけ物ものはどうしたな、オイ巡じゅ視んしだッ﹂白木警部の呶ど鳴なる声がしました。
私もその声に、ハッキリと目が醒さめました。ハッと思って傍そばを見ると、一緒にいた筈の兄の荘そう六ろくの姿が見えません。
﹁兄さん――﹂
呼んでみても、誰も返事をする者がありません。
﹁もしもし、兄を知りませんか﹂
﹁帆村君かネ﹂と警部さんも訝いぶかしそうにあたりを振りかえってみました。﹁そこにいたと思ったが、見えないネ﹂
私は急に不安になりました。
警部さんは巡じゅ視んし隊たいを編へん成せいすると、勇しく先頭に立って歩きはじめました。
﹁私も連れていって下さい﹂
﹁ああ、恐ろしくなければ、ついて来きた給まえ﹂
そういって呉くれたので、私も隊たい伍ごのうしろに随したがって歩き出しました。
歩いているうちにも、化物の封鎖された隧トン道ネルのことよりも、兄のことが心配になってたまりません。私はあたりをキョロキョロ眺ながめながら歩いてゆくので、幾度となく線路や枕木に蹴つまずいて、倒れそうになりました。
隧トン道ネルの入口に近づいてみますと、昨夜とはちがって白はく昼ちゅうだけにその惨さん状じょうは眼もあてられません。崩れた岩石の間から、半分ばかり無むざ惨んな胴体をはみ出している機関車、飛び散っている車輪、根まで露ろし出ゅつしている大きな松の樹など、その惨状は筆にも紙にもつくせません。しかし幸さいわいにも、一向あとから掘りかえした跡もありません。まず西にし口ぐちは大丈夫だということがわかりました。
一行はなおも隧道の全体にわたって異状がないかどうかを調べるために、崩れた崖をよじのぼって、隧道の屋根にあたる山の上を綿めん密みつに検しらべてゆくことになりました。
﹁どうやら大丈夫のようだね﹂
﹁すると化物は、皆この足の下に閉じこめられているというわけなんだな﹂
巡視隊の警官も、さすがに気き味みわるがって、足音をしのばせて歩いていました。
﹁オヤッ﹂
﹁オヤ、これはどうだ﹂
﹁オヤオヤオヤオヤ﹂
安心しきっていた一行は、急に壁につきあたりでもしたかのように、立ち止どまりました。私も遅おくれ馳ばせに駈けつけてみましたが、鳴あ呼あこれは一体どうしたというのでしょう。山の上に、まるで噴ふん火かこ口うでもあるかのように、ポッカリと大穴が明あいているのです。穴から下を覗のぞいてみますと、底はどこまでも続いているとも知れず、真まっ暗くらで見みと透おしがつきません。
﹁こんな穴は、以前から有ったろうか﹂白木警部は不安に閃ひらめく眼を一同の方に向けました。
﹁いいえ、ありませんです。ここはずッと盆ぼん地ちのように平たいらになっていて、青い草が生えていたばかりですよ﹂
﹁ほほう、すると何い時つの間に出来たのだろうか﹂
﹁もしや……﹂
﹁もしや何だッ﹂と警部は声をはりあげて聞きかえしました。
﹁もしや、あの化物が明けたのでは……﹂
﹁そんなことかも知れん。天井の壁さえ抜けば、あとは軟やわらかい土ばかりだったのかも知れない﹂
﹁すると化物は、どッどこに……﹂
﹁さあ――﹂と警部が不ふ図と傍かたわらの土どか塊いに眼をうつしますと、妙なものを発見しました。
﹁おお、そこに人間の足が見えるではないか﹂
一行はあまりに近くへ寄りすぎて、穴ばかりに気をとられ、傍らの堆うず高たかい土塊に気がつかなかったのです。そこから二本の足がニョッキリと出ています。全く裸の脚です。誰の足でしょう。行方不明になった谷村博士も黒田警官も洋服を着ている筈です。兄は私と同じく和服でありました。するとこの裸の足は、ああ……
私はそう思うと、頭がクラクラとしました。謎を包んだ大きい穴が、急にスーと小さくなって、釦ボタンの穴ほどに縮ちぢまったような気がいたしました。それっきりでした。私は大きい衝しょ動うどうにたえきれないで、恐ろしい現げん場ばを前に、あらゆる知ちか覚くを失ってしまいました。暗い世界に落ちてゆくような気がしたのが最後で、なにもかも解わからなくなったのです。
覚かく醒せいのあと
或るときは、月光の下に、得えた体いの知れぬ鬼おに影かげを映しだす怪物、また或るときは、変な衣いし裳ょうを着て闊かっ歩ぽする怪物、その怪物を、うまく隧トン道ネルの中に閉とじこめたつもりであった警官隊でありましたが、隧道の上に、なんとしたことか、大きい穴が明いていたのです。もしやこれが、怪物の逃げ出した穴ではないかしらと、白木警部はじめ一同が、その穴の縁ふちに近づいたとき、傍かたわらの盛もり土つちの中から、二本の足がニョッキリ出ているのを発見して大おお騒さわぎになり、私は、その足の主が、きっと兄の帆村荘六だろうと考え、なんという浅ましい光景を見るものかなと思ったとき、気を失ってしまいました。――と、そこまではお話しましたっけネ。
それから、どのくらい経たったのか、私には時間の推すい移いがサッパリ解りませんでした。フッと気がついたときには、あの凄せい惨さんな小田原の隧道の上かと思いの外、身はフワリと軟やわらかいベッドの上に、長々と横になっているのでありました。
﹁ああーッ﹂
私は思わず、声を放はなちました。︵ああ、気がついたようだ︶︵もう大丈夫︶などという囁ささやきがボソボソと聞えます。ハッと気がついて周まわ囲りをキョロキョロと見廻すと、これはどうしたというのでしょう。傍かたわらに立って、こちらへ優しく笑額を向けているのは、あの悲ひた歎んの主ぬし、谷村博士の老夫人だったのです。いや駭おどろきと意外とは、そればかりではありません。いまのいままで、惨ざん死ししたとばかり思っていた兄の荘六までが、警官や手しゅ術じゅ衣つぎの人達の肩越しに、私の方を向いてニコニコ笑っているではありませんか。ああ私は何か夢を見ていたのでしょうか。
﹁に、にいさん――﹂
﹁おお、気がついたナ、民たみちゃん﹂
兄は私の手を握ると、顔を寄せました。
﹁どうしたんです。兄さん。――博士夫人も笑っていらっしゃるじゃありませんか﹂
﹁はッはッ。では夫人に訳を伺うかがってごらん﹂
﹁イエあたくしからお話申しましょうネ。早く申せば、私のつれあい――つまり谷村が無事で帰って来たのです。兄さんたちのお骨折りの結果です﹂
﹁どうして無事だったんです。誰か死んでいましたよ、隧トン道ネルの上で……﹂
﹁あれなら大丈夫。あれは僕だったんですよ﹂
と、そういって脇わきから逞たくましい男が出て来ました。見れば、どこかで見たような顔です。
﹁僕――黒田巡査です﹂
﹁ああ、黒田さん﹂
﹁僕が土に埋うめられたところを、皆さんで掘り出して下すったのです。僕だけではなく、博士も助かったんです。これは怪物が隧道から飛び出すときに、私達を土と一緒に跳ねとばして埋めてしまったんです﹂
﹁ああ、すると怪物はやはり隧道から逃げてしまったのですネ﹂
﹁そうです、逃げてしまったのです――但し一匹を除いてはネ﹂
﹁一匹ですって?﹂私は思わず大声に訊ききかえしました。﹁一匹は逃げなかったんですか﹂
﹁そうなんだよ、民ちゃん﹂と今度は兄が横から引取って云いました。﹁一匹だけ、僕等の手に捕とらえることができたんだよ。それも、お前の手柄から来ているんだ﹂
﹁手柄ですって? なんだか、なにもかも判らない尽づくしだナ﹂
﹁そうだろう。いや、夜が明けると、何も彼かもが、まるで様子が違っちまったのだからネ﹂
そういって、やがて兄が顛てん末まつを話してくれました。それはまったく思いもかけなかったような新事実でありました。
谷村博士の研究録
兄は、私から渡された例の白しら毛げのことを思い出し、それの正しょ体うたいを一いっ刻こくも早く知りたい気持で一ぱいで、小田原の警備隊の中からひとり脱け出でると、この谷村博士邸へ帰ってきたのだそうです。私はいま、博士邸ていに来ているのだそうですから、驚きますネ。
兄はこの怪物について、きっと博士の研究があるものだと考え、博士夫人の力を借りて研究室をいろいろ探したのです。すると果して書しょ類るい函ばこの一つの抽ひき出だしに、﹁月世界の生物について﹂と題する論文集を発見いたしました。
怪物が月に関係のあることは、兄はすでに感づいていたそうです。それでパラパラと論文を開いてゆくうちに、次のような文面を発見しました。
﹁月世界には、一つの生物がいるが、それは殆んど見わけがつかない。それは人間の眼では透明としか見えない身体をもっているからだ。その生物は形というものを持っていない。まるで水のように、あっちへ流れ、こっちへ飛びする。そして思いのままの形態をとることができる。液えき体たい的てき生せい物ぶつだ。アミーバーの発達した大きいものだと思えばよい。この生物は、もし地球上で大きくなったとしたら、必ず人間や猿のように固こた体いとなるべきものであるが、月世界の圧力と熱との関係で、液体を保って成長したのである。
恐おそらくこの生物は、アミーバーから出発したもので、人間より稍ややすぐれた智慧をもっているものと思われる。それは、今日盛んに、この地球へ向って、信号を送っているからである。人間界には、この生物のあることを知っている者が殆んど居ない。それはあの透明な月の住民たちの身体を見る方法がなかったからだ。然しかるに予よは、特殊の偏へん光こう装そう置ちを使って、これを着色して認めることに成功した。その装置については、別項の論文に詳解しておいた。
ここに注意すべきは、このルナ・アミーバーとも名付くべき生物は、地球の人類に先んじて月と地球との横断を試こころみたい意志のあることである。おそらく、それは成功することであろう。彼等は地球へ渡とこ航うしたときに、身体の変質変形をうけることを恐れて、何かの手段を考え出すことであろうと思われる。予の考うるところでは、多分そのルナ・アミーバーは身体を耐たい熱ねつ耐たい圧あつ性せいに富み、その上、伸しん縮しゅ自くじ在ざいの特殊材料でもって外がい皮ひを作り、その中に流動性の身体を安全に包んで渡航してくるであろう。その材料について、予は左記の如き分子式を想像するが、この中には、地球にない元素が四つも交まじっているので、もしルナ・アミーバーが渡来したときには、面白い研究材料が出来ることであろう、云うん々ぬん﹂
ルナ・アミーバーという、透明で、流動性の生物があることは、博士の論文を見て始めて知ったのです。これは恐おそらく、博士夫妻の外ほかに知った人間は、兄が最初だったことでしょう。兄は勇躍して、その白しら毛げのようなものをポケットから取り出しました。これは私が曾かつて、壊こわれた窓硝ガラ子スの光った縁ふちから採さい取しゅしたものでした。あの怪物が室内から飛び出すときに、鋭するどい硝子の刃はじ状ょうになったところで、切開したものと思います。
兄は理学士ですから、スペクトル分析はお手のものです。博士の研究室のスペトロスコープを使って、その白毛みたいなものを、真空容器の中で熱し、吸収スペクトルを測定してみました。すると、どうでしょう。その結果が、博士の論文に掲かかげられた分子式と、ピッタリ一致したのです。
﹁ああ、ルナ・アミーバーだッ。ルナ・アミーバーの襲しゅ来うらいだッ﹂
兄は、気が変になったように、その室の中をグルグル廻って歩いたのです。
﹁どうしたのです、帆村さん﹂
と博士夫人が階下から駈けつけられる。説明をしているうちに、夜がほのぼのと明けはなれ、そこへ白木警部一行が、掘り当てた谷村博士と黒田警官とを護まもって、急行で引っかえして来たのでありました。
博士も黒田警官も、殆んど死人のように見えましたが、博士の用意してあった回かい生せい薬やくのお蔭で、極ごく僅わずかの時間に、メキメキと元気を恢かい復ふくすることが出来たのだそうです。
この不思議な話を聞いて、私はもう寝ているわけにはゆかなくなりました。そして皆みんなの停とめるのも聞かず、ガバと床の上に、起き直りました。
室の向うは、博士の研究室です。なんだかモーターがブルンブルンと廻っているような音も聞え、ポスポスという喞ポン筒プらしい音もします。イヤに騒そう々ぞうしいので、私は眉まゆを顰ひそめました。
﹁だから無理だよ。もっと寝ていなさい﹂と兄はやさしく云いました。
﹁イヤ身体はいいのです。もう大丈夫。――それよりも向うの部屋で、一体なにが始まっているんですか﹂
﹁はッはッ、とうとう嗅かぎつけたネ﹂と兄は笑いながら、﹁あれはネ、たいへんな実験が始まっているのだ﹂
﹁大変て、どんな実験ですか﹂
﹁実はルナ・アミーバーを一匹掴つかまえたんだ。そいつは、この門の近くの沼に浮いているのを見付けたんだ。なにしろ沼の水面が、なんにも浸つかっていないのに、一部分が抉えぐりとったように穴ぼこになっていたのだ。地球の上ではあり得ない水面の形だ。それで、この所にルナ・アミーバーが浮いているんだなということが判ったんでいま引張りあげ、博士が先頭に立って実験中なんだ﹂
﹁私にも見せて下さい――﹂
私はもうたまらなくなって、寝ベッ台ドの上から滑すべり下おりました。
ルナ・アミーバーの実験
なんだか訳のわからない器械が並んだ実験室には、東京からこの珍らしい実験を見ようと駈けつけた学者で、身動きも出来ません。
真中に立っていた谷村博士は、私の入って来たのに気がついて、こっちを向かれました。
﹁おお民たみ彌や君。もう元気になりましたか﹂
﹁はい﹂
﹁いやア、あなた方ご兄弟のお蔭で、ここにいる一匹のルナ・アミーバーが手に入りましたよ﹂
そういって博士は、前に横よこたわっている大きい硝ガラ子スせ製いのビール樽だるのようなものを指ゆびさしました。しかしその中は透明で、博士の云うものは何も見えません。
﹁いまはまだ見えますまい﹂と博士はすぐ私の顔色を見て云いました。﹁しかし今に見えますよ。偏へん光こう作さよ用うがうまく行ったらネ﹂
﹁偏光作用といいますと﹂
﹁この硝子器の中に、ルナ・アミーバーが居るのです。この中をすっかり真空にして、こっちの方から偏光をかけてやると、肉眼でも見えてくるのですよ﹂
﹁こいつはどうして捕ったんでしょうネ。大変強い動物でしたのに﹂
﹁動物じゃなくて、植物という方がいいかも知れませんよ。――弱っているわけは、あの硝子窓を通るときに、外がい皮ひを大分引ひき裂さいたので、地球の高い温度がこたえるのです。そしてこのルナ・アミーバーは、兄さんを胴どう締じめにしていた奴です。あのとき此こい奴つは、兄さんに苦くるしめられたのです。兄さんは護ごし身んよ用うに、携けい帯たい感かん電でん器きをもっていらっしゃる。あの強烈な電気に相そう当とう参まいっているところへ、あの硝子の裂さけ目めへつっかかったんで、二重の弱よわり目に祟たたり目で、沼の中へ落ちこんだまま、匍はい上あがりも飛び上りも出来なくなったんですよ。つまり荘六君と民彌君とのお二人が、この怪物を捕えたも同様ですネ﹂
私はそのとき、目に見えぬルナ・アミーバーと闘ったことを思いだしました。
﹁この一匹の外ほかはどうしたのですか﹂
﹁もう月の世界へ逃げかえったことでしょう。今夜月が出ると、その天てん体たい鏡きょうでのぞかせてあげましょう﹂
﹁すると、あの小田原の町に現れていたサーベルを腰に下げた老人や、白びゃ衣くいを着た若者なども、逃げかえったんですか﹂
﹁いや、あれは……﹂と博士はすこし赧あかくなって云いました。﹁あれは私と黒田さんなんです。二人はルナ・アミーバに捕つかまって、あのとおり彼あい奴つの身体に捲まきこまれていたのです。だからいかにも私たちは空中に飛んでいるように見えましたが、実はルナが飛んでいたわけで、私たちは、ルナの上に載のっているようなものでした。そして彼奴は、私たちを勝手に裸にしたり、そして間違ってサーベルや白衣を着せたりしたのです﹂
﹁ああ、そうでしたか﹂
私は始めて、空中を飛ぶ男の謎がとけたのを感じました。
﹁では、小田原や隧道で暴れたのも、先生たちの力ではなかったのですネ﹂
﹁そうですとも。あれは皆ルナ・アミーバーの一隊がやったことです。たまたま中で見える私たちだけが騒がれたわけです﹂
﹁しかし先生、あの崩れる鬼影はどうしたのです。硝子窓に、アリアリと鬼影がうつりましたよ﹂
﹁あれはこのルナの流動する形が、うっすりと写ったのです。月の光に透すかしてみると、ほんの僅わずか、形が見えます。それはあの月光に、一種の偏光が交まじっているから、月光に照らされて硝子板の上にうつるときは、ルナの流動する輪りん廓かくが、ぼんやり見えたのですよ﹂
﹁ははーん﹂
私は、この大きな謎が一時に解けたので、思わず大きな溜ため息いきをつきました。
そのとき一座が俄にわかにドヨめきました。
﹁ああ、いよいよ、ルナ・アミーバーが見えて来ましたよ﹂
大だい団だん円えん
ああ何という不思議!
硝子樽の中には、いままで何も無いように思っていましたが、ジリジリブツブツと、なんだか紫色の霧のようなものが動揺を始めたと思う間もなく色は紅くれないに移り、次第次第に輪りん廓かくがハッキリして来ました。やがてのことに、青あお味みを帯おびたドロンとした液体が、クネクネとまるで海うみ蛇へびの巣を覗のぞいたときはこうもあろうかというような蠕ぜん動どうを始めました。なんという気味のわるい生物でしょう。覗のぞきこんでいる人々の額ひたいには、油あぶ汗らあせが珠たまのように浮かび上ってきました。
﹁ああ、いやらしい生物だッ﹂
誰かがベッと、唾つばを吐はいて、そう叫びました。それが聞えたのか、ルナ・アミーバーは、草くさ餅もちをふくらませたように、プーッと膨ぼう脹ちょうを始め、みるみるうちに、硝ガラ子スだ樽る一ぱいに拡ひろがりました。
﹁これはッ――﹂
と思って、一同が後あと退ずさりをしたその瞬間、がちゃーンという一大音響がして、サッと濛もう々もうたる白しろ煙けむりが室内に立ちのぼりました。
﹁呀あッ――﹂
私達は壁際にペタリと尻餅をついたことにも気が付かない程でした。バラバラとなにか上から落ちてくるので、気がついて天井を見ますと、そこには大きな穴がポッカリ明いていました。
﹁オヤオヤ。ルナが逃げたッ﹂
﹁どうして逃げたんだッ﹂
﹁弱っていたと思っていたがな﹂
﹁いや、これは私の失敗でした﹂と博士は別に駭おどろいた顔もせずに、静かに口を切りました。
﹁どうしたんです﹂
﹁いえ、彼あい奴つの入っている容器を真空にしたのがいけなかったんです﹂
﹁なぜッ﹂
﹁真空は、彼奴の住む月げっ世せか界いの状態そっくりです。だから弱っている彼奴は、たちまち元気になって、器うつわを破って逃走したのです。ああ、失敗失敗﹂
こんなわけで、折せっ角かく生いけ捕どったたった一匹のルナ・アミーバーでありましたが、惜しくも天てん空くうに逸いっし去ってしまったのです。
いやはや、残念なことでありましたが、谷村博士を責せめるのもどうかと思います。ルナが逃げてしまったのですから、﹁崩れる鬼影﹂について私の申上げる話の種も、もうなくなりました。