甲こう野のや八そ十す助け
﹁はアて、――﹂
と探偵小説家の甲野八十助は、夜店の人混みの中で、不審のかぶりを振った。
実は、この甲野八十助は探偵小説家に籍を置いてはいるものの、一向に栄はえない万年新進作家だった。およそ小説を書くにはタネが要いった。殊ことに探偵小説と来ては、タネなしに書けるものではなかった。ところで彼は或る雑誌社から一つの仕事を頼まれているのであるが、彼の貧弱な頭脳の中には、当時タネらしいものが一つも在庫していなかった。逆さに振ってものみ一匹出てこないという有様だった。苦しまぎれに、彼はいつもの手で、フラリと新宿の夜店街へ彷さま徨よいいでた。いつだったか彼はその夜店街で、素晴らしいタネを拾った経験があったので、今夜ももしやというはかない望みをつないでいたのだった。
﹁はアて、あいつは誰だったかナ﹂
甲野八十助は、寒い夜風に、外套の襟を立てながら、また独ひと言りごとをいった。
彼はいまそこの人混みの中で、どこかで知り合ったに違いない男と不ふ図と擦すれちがったのだった。その男というのがまた奇妙な人物だった。非常に背が高くて、しかも猫背で、骨と皮とに痩せていた。眼の下には黒い隈くまが太くついていて、頬には猿を思わせるような小じわが三四本もアリアリと走っていた。そして頭には、宗匠の被かぶるような茶頭巾を載せ、そのくせ下は絹仕立らしい長い中国服のような外套を着ていた。そして右手には杖をつき、歩くたびにヒョックリヒョックリと足をひいていた。
﹁やあ、――﹂
と甲野八十助は、そのときこの奇妙な男に声をかけたのだった。彼は至って顔まけのしない性質だったから……。
﹁いよオ――﹂
と相手は口辺に更に多数の醜いしわの数を増しながら、ガクガクする首を前後に振り、素直に応じたのだった。
八十助はそれで満足だった。それ以上、何を喋ろうという気もなかった。そのまま、この知人と別れて、同じ人混みをズンズンと四よつ谷やみ見つ附けの方へ流れていったのだった。
︵あいつは、誰だったかナ︶
八十助には、いま挨拶を交かわした奇妙な男の素性を思い出すことが、何だか大変楽しく思われて来た。それでソロソロこの楽しい一人ゲームを始めたのだった。
だが、思う相手の素性は、いつまで経っても、彼の脳裏に浮びあがりはしなかった。
﹁誰だったか。あいつの素性よ、出てこい、――﹂
八十助は、小学校の友人から出発して、中学時代、大学時代、恋愛時代、それから結婚時代、さらに進んで妻と死別した後の遊ゆう蕩とう時代、それから今の探偵小説家時代までの、ことごとくの時代の中に、彼の奇妙な男の姿を探し求めたけれど、どうもうまく思い出せなかった。ついそこまで出ているだが﹇#﹁出ているだが﹂はママ﹈、どうも出て来ないのであった。彼はすこしジリジリとして来た。
そのとき彼は、大きな飾ウイ窓ンドの前を通りかかった。そしてそこに並べてある時事写真の一つに眼を止めた。﹁逝ゆける一いち宮のみ大やた将いしょう﹂とあって、太い四角な黒枠に入っている厳いかめしい正装の将軍の写真だった。その黒枠を見たとき、彼は電光の如ごとく、さっきの奇妙な男の正体を掴んだのだった。
﹁うん、彼あい奴つだッ。――﹂
そう叫んだ彼は、不思議にも、叫び終ると共に、なぜかサッと顔色を変えた。何な故ぜ何な故ぜ?
鼠ねず谷みや仙せん四しろ郎う
﹁そうだ、彼奴だ。彼奴に違いない!﹂
螳かま螂きり男おとこへの古い記憶が電光のようにサッと脳裏に映じた。黒枠写真を見たときに、どうして彼奴のことを思い出したのであろうか。それはいわゆる第六感というものであろうが、不思議なこととて気になった。しかし後日になってその不思議が解ける日がやってきたとき、八十助は呼い吸きの止まるような驚愕を経験しなければならなかったのである。
﹁そうだ、彼奴は姿こそ変り果てているが、鼠谷仙四郎に違いない!﹂
鼠谷仙四郎――という名前を口のなかで繰返していると、八十助は小学校へ上ったばかりのあの物珍らしさに満ちた時代を思い出す。木の香新しい、表面がツルツル光っている机の前に始めて座った時、その隣りに並んでいるオズオズした少年が鼠谷仙四郎君だった。そのころの鼠谷は、顔色は青かったが、涼しいクリクリする大きい眼を持ち、色は淡うすいが可愛い小さい唇を持った美少年だった。たまたま机を並び合ったというので、二人の少年はすぐ仲なか善よしになってしまった。この仲善しは、年と共に濃厚になり、軈やがて大学を卒業すると二人はこれまでのように毎日会えなくなるだろうというので、女学生もやらないだろうと思われるほどの大騒ぎを起したのだった。
その揚あげ句く、八十助と鼠谷とは一つのうまい方法を考えた。そのころ二人とも勤め先が決っていて、八十助は丸の内の保険会社に、鼠谷の方は築つき地じの或る化粧品会社へ通勤することになっていた。それで申し合わせをして午後の五時ごろ、二人が勤め先を退けるが早いか、距離から云ってほぼ等しい銀座裏のジニアという喫茶店で落合い、そこで紅茶を啜すすりながら積もる話を交わすことにしたのだった。これは大変名案だった。二人はすっかり朗ほがらかになり、卒業のときに大騒ぎをしたのが可お笑かしく思われてならなかった。
ところがこの名案ジニアのランデヴー︵?︶は名案には違いなかったが、彼等二人の交際に思いがけない破局を齎もたらすことになったのも運命の悪いた戯ずらであろうか。それはこの喫茶店に、露子という梅つゆ雨ぞ空らの庭の一隅に咲く紫あじ陽さ花いのように楚そ々そたる少女が二人の間に入ってきたからであった。
﹁鼠谷さんは、そりゃ親切で、温おと和なしいからあたし好きだわ﹂
と朋輩にいう露子だったが、また或るときは
﹁甲野の八十助さんは、明るいお坊ちゃんネ。あたしと違って何の苦労もしてないのよ、いいわねエ﹂
とも云った。
昨日の親友は今日の仇て敵きとなり、二人は互に露子の愛をかちえようと急あせったが、結局恋の凱歌は八十助の方に揚がった。八十助と露子とが恋の美酒に酔って薔薇色の新家庭を営む頃、失意のドン底に昼といわず夜といわず喘ぎつづけていた鼠谷仙四郎は何処へともなく姿を晦くらましてしまった。そのことは八十助と露子との耳にも入らずにいなかった。流さす石がに気になったので、探偵社に頼んで出来るだけの探索を試みたりしたが、鼠谷の消息は皆かい目もく知れなかった。これは屹きっ度と、人に知れない場所で失恋の自殺をしているのかも知れないと、二人は別々に同じことを思ったのだった。
ところがそれから三年経って、八十助は妙な噂を耳にした。それは鼠谷仙四郎が生きているというニュースだった。しかも彼は、同じ東京の屋根の下に、同じ空気を吸って生きていたのである。彼の勤め先というのは、花山火葬場の罐かま係がかりであった。
当分は、彼は勤めに出ても、鼠谷のことが気になって仕事が手につかなかったが鼠谷は、別に彼等夫妻に危害を加えようとする気配もないばかりか、次の年にはチャンと人並な年賀状を寄越したりした。そんなことから八十助夫妻は、始めに持った驚愕と警戒の心をいつともなく解いていった。一年二年三年と経ち、それから五年過ぎた今日では、八十助にとって鼠谷仙四郎はもう路ろぼ傍うの人に過ぎなかった。それには外にもう一つの理由があった。というのは、八十助の恋女房の露子が、この春かりそめの患いからポツンと死んでしまったため、彼は亡なき妻つまを争った敵手のことなんかいよいよ忘れてしまったのである。
その鼠谷仙四郎が、こうして久し振りで目の前に現われたりしなければ、八十助は一生涯彼のことを思い出すことなどはなかったであろうのに……。
﹁ハテナ……﹂
と、そのとき何に駭おどろいたのか、八十助は舗道の上に棒立ちとなった。彼はつい今まで忘れていた重大なことを思い出したのだった。
﹁ハテ……、鼠谷仙四郎なら、あいつは確か死んでしまった筈だったが……﹂
暗鬼は躍る
﹁鼠谷仙四郎なら、生きている筈がない!﹂
八十助が顔の色を変えたのも無理はなかった。なぜなれば、いまから二三ヶ月ほど前、彼はハガキに印刷した鼠谷仙四郎の死亡通知を受取ったことを思い出したからだ。なぜそのような重大なことを度忘れしていたのだろう?
その文面には、たしかに次のような文句があったと思った。
﹁……鼠谷仙四郎儀、療養叶かなわず、遂に永眠仕つか候まつ間りそうろうあいだ、此この段だん謹きん告こく候そう也ろうなり。
追おっ而て来る××日×時、花山祭場に於て仏式を以て告別式を相営み、のち同火葬場に於て荼だ毘びに附し申可く候そうろう……﹂
この文面から推おせば、彼はたしかに病気で死亡し、その屍体はたしかに火葬せられたのだった。しかも皮肉なことに、彼が生前世話を焼いていた花山火葬場の罐の中で焼かれ、灰になってしまった筈だった。尤もっとも稀には死人がお葬とむらいの最中に甦よみがえって大騒ぎをすることもないではないが、それは極きわめて珍らしいことで、もしそんなことがあれば、鵜うの目鷹たかの目で珍ダネを探している新聞記者が逸いっする筈はなかった。しかし最近の新聞記事にはそんな朗かな報道がなかったことから推して、かれ鼠谷の死体は順調に焼場の煙突から煙になって飛散したに違いあるまい。すると……?
すると八十助は、今しがた其処の夜店街の人込みの中で、旧友鼠谷仙四郎の、幽霊を見たことになる。
﹁ううッ――﹂
彼はガタガタ慄ふるえだした。そして外套の襟を咽の喉どのまえで無むや暗みに掻きあわせた。もうこうなっては小説のタネのことなどを考えている余裕はなかった。なんだか脳貧血に襲われそうな不安な気持になった。そこで彼は、通りかかった一軒の酒場の扉をグンと押して、中へ飛びこんだ。
﹁ブランデーを……。早くブランデーを……﹂
給仕の小娘を怒鳴りつけるようにして、洋酒の壜を催促した。彼の前にリキュール杯が並ぶまでの僅かな時間さえ、数時間経ったように永く感ぜられた。ブランデーの栓を抜こうとする小娘の手を払いのけて、彼は自みずからグラスに注いだ。ドロドロと盛りあがってくる液体をグッグッと、立てつづけに四五杯もあおった。腸の中がカッと熱くなってきて、やがて全身に火のような熱い流れが拡がっていった。
﹁ふーッ﹂
と彼は溜息をついた。
︵ああ、助かった!︶
と彼は心の中で叫んだ。そしてまたしてもグラスを手に取上げた。気が次第に落着いて来て、始めてあたりの閑かん寂じゃくな空気に気がついた。
八十助の座席の隣では、二人の男が物静かな会話をつづけていたそれを聞くともなしに、彼は聴いた。
﹁……というわけでネ﹂と紋付羽織の男が言った。﹁どうも変なのだ一宮大将ともあろうものがサ、まさか株に手を出しやしまいし、死の直前に不動産を全部金に換え、しかもそいつを全部使途不明にしてしまい、遺族は生活費の外に一文も余裕がないというのだからネ﹂
﹁それに変だといえば、大将の急死がおかしい。いくらなんでも、あんなに早く逝くものかネ﹂
﹁僕は大将の邸で、変な男を見かけたことがある。肺病やみのカマキリみたいなヒョロ長く、そして足をひいている男さ。あいつが何か一役やっているに違いない﹂
﹁でもあいつは其後死んじゃったという話じゃないか……﹂
二人の話をここまで聴いていた八十助は、そこから先をもう聞くに堪えなかった。話題に上っているカマキリのような男というのは、あの鼠谷仙四郎のことに相違ない。この二人も彼あい奴つが死んじまったといっているではないか。
八十助は何がしかの銀貨を卓テー子ブルの上に置くと、酒場から飛び出したのだった。
幽霊男
酒場を出てみると、そこは賑にぎやかな夜店街の切れ目だった。そこから先は夜店がなくなって、急に日が暮れた様な寂しい通りだった。彼は当てもなく、足を早めた。
そのときだった。丁度そのとき、彼の背後から声を懸けたものがあった。
﹁モシモシ、甲野君……﹂
突然わが名を呼ばれて八十助はギョッとその場に立ち竦すくんだ。背後を見てはならない――誰かが警告しているように感じた。といって呼ばれて振り向かずに居られようか。
﹁モシモシ、甲野君じゃないか……﹂
﹁あ――﹂
彼は思い切って、満身の力を込めて、背後を振りかえった。
﹁呀あッ﹂
そこには背のヒョロ高い、眼の下に黒い隈の濃いカマキリのような男――あの鼠谷仙四郎の幽霊が突っ立っていた。
﹁やア甲野君﹂
とその怪物はニヤニヤ笑いながら声をかけた。
﹁キ、キミは誰ですウ――﹂
﹁誰だとは、弱ったネ﹂と怪物は一向弱っていなそうな顔で云った﹇#﹁顔で云った﹂は底本では﹁顔を云った﹂﹈。﹁僕は君と中学校で机を並べていた鼠谷……﹂
﹁鼠谷君なら、もう死んだ筈だッ﹂
﹁そいつを知っていりゃ、これからの話がしよいというものさ。はッはッはッ﹂と彼は妙なことを云った。﹁なぜ死んだ人間が、生き返って君達に逢うことができるのか――そいつは暫しばらく預かっておくとして、もしそんなことが出来るとしたら、君はそれがどんなに素晴らしい思いつきだと考えないか﹂
﹁くだらんことを云うな。幽霊なら、ちと幽霊らしくしたらどうだ﹂
と八十助は云ったものの、自分の方が随分下らんことを云ったものだと呆あきれた。
﹁まアいい。僕が幽霊だか、それとも生きているか、それは君の認識に待つこととして、僕は一つ君に聞いてみたいことがある﹂
幽霊にしては非常にしっかりしたことを云うので、八十助はもう何がなんだか判らなくなった。そして応える言葉も見当らなかった。
﹁いいかネ。君は細君を亡くしたネ。たしか君たちは熱烈な恋をして一緒になったのだネ。君は輝かしい恋の勝利者だった。……﹂
﹁ナ、なにを今頃云ってるんだい﹂
﹁うん、……そこでダ、君に訊いてみたいのは、君は亡くなった細君――露子さんと云ったネ、あの露子さんに逢いたかないかネ﹂
﹁露子に?﹂
露子に逢いたくないかといっても、露子は亡くなったのだ。そして火葬に附して、僅かばかりの白骨を持ってかえって、今それを多た摩ま墓地に埋めてある。骨になった者に逢いたくないかというのは、盆の中の水を地面にザッとあけてその水を再び盆の上に取り戻してみせる以上に難かたいことだった。このカマキリ奴めは、幽霊である上に御丁寧にもおかしいのだと思った。
﹁いいかネ。死んだ筈の僕が斯こうして君の前に立っているのだ。見たまえ、ここはすこし淋しいが、たしかに四谷の通りだよ。僕は生きていることを認めて貰えるなら首を横にちょっと廻して、君の恋女房の露子さんが生きているかもしれないことを考えないかネ﹂
︵首を横にちょっと廻して……︶と云われた八十助は、ハッと驚いて、幽霊男の両側をジロジロと眺めまわした。
﹁やっぱり気になると見えるネ。ふふふふッ﹂
と鼠谷と名乗る男は、煙草の脂やにで真黒に染まった歯を剥むきだして笑った。
八十助は赤くなった。しかし彼の眼には、死んだ女房の幽霊らしいものは見えなかった。
怪人怪語
﹁イッヒッヒッ。……いくら探しても、まさか此処には居やしないよ﹂
鼠谷はますます機嫌がよかった。それだけ八十助は腹が立ってたまらなかった。
﹁君はこの僕を嬲なぶるつもりだナ。卑劣なことはよし給え﹂
﹁ナニ俺が君のことを嬲るって?﹂鼠谷はわざと大おお袈げ裟さに駭おどろいてみせた。﹁それア飛んでもない言いがかりだよ。俺の言うことは大真面目なんだ。それを信じない君こそ実に失敬じゃないか……とは云うものの、君が一ちょ寸っと信じないのも無理がないと思うよ。余りに俺の云うことが突とっ飛ぴだものネ﹂
鼠谷は怒るかと見せ、その後で直すぐ顔色を和やわらげて八十助の機嫌をとるのだった。八十助はようやく気持を直した、それが策略であるかも知れないとは思いながら……。
﹁とにかく君は大おお嘘うそ吐つきだネ﹂と八十助は相手の顔にぶつけるように云った。﹁チャンと生きている癖に死亡通知をだしたのだからネ。僕としても、もし今夜君にめぐり逢わなかったとしたら、君は火葬場で焼かれて骨になっていることとばかり思っているだろうよ。君は何な故ぜ、死んだと詐いつわったんだい﹂
﹁詐っちゃいないよ、俺は。あの死亡通知は本当なのだ。まア落着いて俺の言うことを一通り訊いてくれよ。全く奇々怪々な話なんだから。……﹂
鼠谷は八十助の腕をとらえて放そうとしなかった。そして此処では話ができないから、何か飲みながら話そうといった。そして馴染のいい酒場を知っているからといって、逡しゅ巡んじゅんしている八十助を無理に引張って行った。
それは確かに新宿裏にある酒場で、名前もギロチンという店だったが、その辺の地理に明るい八十助もそんな店のあるのを知ったのがその夜始めてだった。扉ドアを押して入ってみると、土間は陰気にだだ広く、そして正面には赤や青や黄のレッテルの貼ってある洋酒の壜が駭くばかりの多種に亘わたって、重なり合った棚の上に並べてあり、その前のスタンドはいやに背が高く、そしてその間に挟まって店の方を向いているバアテンダーはまるで蝋人形のような陰影をもっていた。
﹁いらっしゃいまし。……貴あな方たのお席はチャンとあれに作ってございます﹂
バアテンダーはゼンマイの動き出した人形のように白いガウンの腕だけを静かにあげて、隅の席を指さした。そこには白バラの活いけてある花瓶が載っていた。観察すればするほど奇妙な酒場だった。八十助はいつか西洋の妖怪図絵の中に、こんな感じのする家が出ていたのを思い出した。
鼠谷はカクテルを註文すると、すぐに話の続きを始めた。
﹁……いいかネ、甲野君。俺は一旦死んで、たしかにあの花山火葬場の炉の中に入れられたんだ。それを見たという証人もいくらでもあるよ。その人達にとっては、俺の生きていることを信ずることよりも、死んだことの方を信ずる方が容易だろうと思う。本当に俺は死んだのだ。一旦死んだ世界へ行ってきて、それから再びこの世に現れたのだ。思いちがいをしてはいけないよ。君には俺がよく見えるだろうけれど、俺はとくの昔に、この世の人ではないのだ﹂
﹁莫迦莫迦しい。もうそんなくだらん話は止よし給え。誰が君を死人の国から来た男だと思うだろうか。それよりも、君の生きていたことを祝福して、一つ乾杯しようじゃないか﹂
八十助は鼠谷がおかしいのだと思ったので、いい加減にその相手から遁のがれるために、乾杯をすすめた。
﹁ナニ祝杯をあげて呉れるというのかい。そいつは嬉しい。では――﹂
カチンと洋カッ盃プを触れあわせると、二人は別々の盃さかずきからグッと飲み乾した。
﹁やあ、これで俺の勝利だ。今度は俺が君のために乾杯することにしよう﹂
といってバーテンダーに合図をした。
﹁君の勝利だって、何を云っているんだ――﹂
八十助は相手の言葉を聞き咎めた。
﹁それはこっちの話さ。いまに判るがネ。つまり君は俺がこの世の者でないという俺の説を信じてくれる見込がついたからさ。……さあ酒が来た。君のために乾杯だ﹂
﹁なんだって? 君は……﹂
八十助はそこまで云ったときに、俄にわかに酔いが発したのを覚えた。彼の前にある世界が、酒場が、そして鼠谷が、一緒になってスーッと遠くへ退いてゆくように思われた。
︵呀ッ。これはしっかりしなくては……︶
と卓テー子ブルの上に手を突張ろうとしたが、どうしたのかこのときに彼の上体は意志に反してドタンと卓子の上に崩れかかった。
火焔下の金魚
八十助は不思議な夢を見ていた。――
クルン、クルン、クルン……
妙な音のしている空間に、彼は宙ぶらりんになっていた。赤いような、そして青いような、ネオンの点滅を身に浴びているような気がした。
クルン、クルン、クルン……
細かい綾のような波紋が、軽快なピッチで押しよせてきては、彼の身体の上を通りすぎてゆくのであった。すると今度は、上からも下からも、左からも右からも、前からも後からも︵後うし方ろさえよく見えたのだから、後で考えると不思議である︶、美しい虹が、槍が降ってくるように真まっ直すぐに下りてきては、身体の傍をスレスレに通りすぎるのだった。それもやがて、水の泡沫のように消え去ると、今度は大小さまざまのシャボン玉が、あっちからもこっちからも群をなしてフワリフワリと騰のぼってくるのだった。
クルン、クルン、クルン……
シャボン玉の大群はゆらゆらと昇って、どこまでも騰ってゆくように見えたが、そのうちに何か号令でもかけられたかのように、その先頭のシャボン玉がピタリと止ってしまった。それは丁度、見えない天井につきあたったような具合だった。なおも後からフワリフワリと騰ってくるシャボン玉は、みるみる重なりあって、お互いに腹と腹とをプルンプルンと弾きあった。八十助は何だか自分の胸を締めつけられるような苦しさを感じたのであった。
するとこんどはそのシャボン玉が、風に煽あおられるように、少しずつ騒ざわめき立つと見る間に、やがてクルクルと廻りだした。その廻転は次第次第に速力を加え、お仕舞いにはまるで鳴なる門との渦巻のようになり、そうなるとシャボン玉の形も失せて、ただ灰白色の鈍い光を見るだけとなった。だんだん暗くなってゆく視野は、八十助の心臓をだんだん不安に陥おとしいれてゆくのであった。……
そのとき、忽然として、泥でい土どの渦の中に、なにかピカリと光るものが見えた。なんだろうと、一生懸命みつめていると、その泥土の渦の中から浮び上って来たのは一つの丸い硝ガラ子ス器だった。その形は、夜店で売っている硝子の金魚鉢に似ていたが、内部は空か虚らだった。
︵金魚鉢なんだろうか?︶
と不審に思っていると、その鉢の底からパッと火焔が燃えだした。金魚鉢の上の穴からも真赤な焔ほのおの舌は盛んにメラメラと立ちのぼって、まるで昔の絵に描いた火の玉のようになった。八十助はどうしようもない不安の念に駆られて、アレヨアレヨと見つめているばかりだった。
すると急に、火焔が上に動きだした。金魚鉢の中で、火焔だけが競せり上りだしたのであった。見る見るうちに火焔の底が現れた。火焔はズンズン騰のぼってゆく。やがて金魚鉢の頂上のところ一面に焔々と火は燃え上った。焔の下は何だろうとよく見ると、そこには清澄な水が湛たたえられてあった。
水は硝子のせいでもあろうか、淡うすい青色に染まっていて、ときどきチチチと歪ゆがんでみえた。その歪みの間から、何か赤いものがチロチロと覗いて見えた。
︵何だろう、あれは!︶
チロチロと揺めく赤いものは、だんだんと沢山に殖ふえていった。よくよく見ていると、それは小さい金魚の群であることが判った。
︵金魚が泳いでいる!︶
可愛い金魚が泳いでいるのだ、しかし何という奇怪なことだろう。金魚のすぐ頭の上は水面だったが、そこには呪わしい紅ぐれ蓮んの焔がメラメラと燃え上っているのだった。哀れなる金魚たちは、その焔に忽たちまち焼かれて、白い腹を水面に浮き上らせるだろうと思って気の毒に眺めていたが、その心配はすっかり無駄に終った。何な故ぜなら金魚は焔の下の水中で、嬉々として元気に泳ぎつづけていたからである。
焔が水中の金魚を焼かないとすると、焔は何を焼くだろうかと、急に心配になった。すると紅蓮の焔はまるで生物のように八十助の存在を認めて、そのメラメラといきり立つ火頭を彼の方に向け直すと、猛然と激しい熱風を正面から吹きつけた。
﹁うわーッ﹂
八十助は駭いて後方へ飛びのいた。焔は執拗に追いかけてきた。彼は夢中で駈けだした。ドンドン駈けて駈けてつづけた﹇#﹁駈けて駈けてつづけた﹂はママ﹈。
あまり一生懸命に駈けたので、気がついたときには、全く思いがけない場所に仆たおれている自分に気がついた。振りかえってみたが、もう焔は見えない。どこにも火が見えない。八十助の周囲には涯しない永遠の闇が続いていた。火焔の脅迫は去ったが、それに代り合って闇黒の恐怖がヒシヒシと迫ってきた。全く何も見えない無間地獄の恐怖が……。
彼は首を動かしてみた。頭の下に固いものが触れた。彼は地獄の底に、仰向きになって寝ているのだということが判った。なんだか頭の芯がピシピシ痛む。彼は手を痛む額の方へ伸ばした。そのとき思いがけなくも、伸ばした手が胸より少し高いところで何か固いものにぶつかり、ゴトリと響を立てた。
鼻をつままれても判らぬ暗闇の中に、ゴトリと手の先に当ったものは、一体何だったであろうか。
ゴトン、ゴトン。
︵ム。――これは板らしい!︶
八十助は、ゴトリと手先に触れたものを、板と感じた。板なればどこにある板であろうか。彼は手首を真直に立てて、上の方をさぐった。だが何にも触れない。こんどは腰をすこし浮かしてみた。そして手首をまた動かしてみた。果然なにか手先に触れた。
ゴトン、ゴトン。
︵あッ、――上も板だ︶
横も板、上も板、下も板らしい。足先で裾の方をさぐってみると、これも板、それなれば頭の上の方も板に違いない。するとこれは一体どんなところへ来ているのだろうか。四方八方板で囲まれたところといえば……。
﹁おお、そうだッ。――﹂
八十助の心臓は、早鐘のように鳴りだした。
﹁これは棺桶の中だ。棺桶の中に違いない!﹂
彼の胸には、急に千貫もあろうという大石を載せられたように感じた。棺桶の中に入れられている。いつの間に入れられたのか。彼は人じん事じふ不せ省いから醒めて、生きている悦よろこびを、やっと感じたばかりだったが、その悦びは束の間に消え去った。いくら生きていても、棺桶の中に入れられていては、どうしようもない。彼は望みがないと知りつつも、手足や首をゼンマイ仕掛けの亀の子のようにバタバタ動かした。ドカンドカンと板の上を叩いた。叩いているうちに不ふ図と気がついた。
︵こうして叩いていれば、誰かが発見してくれるかも知れない︶
八十助は、彼の入った棺桶がどこかの祭壇に置かれている場面を想像した。しかし何のザワメキも鐘の声も聞えないところから見れば、それはまず当っていなかった。
︵それでは、死体収容所かも知れない?︶
死体収容所なれば、森しん閑かんとしているのも無理がない筈だった。そうだ、そうだ。死体収容所であろうと思った。それで彼は、しばらく暴れることを中止して、両方の耳を澄ました。外部から何の音も響いてこないことを確かめるためだった。
﹁いーや。……何か聞こえる!﹂
彼はハッと胸を衝つかれたように感じた。何か聞えるのであった。あまり大きい声ではなかったが、水道の栓をひねったときにするようなシュウシュウという音が聞えて来た。
﹁何だろう、あのシュウシュウいう音は?﹂
そのうちに、ドンドンというような音が交って来た。その間にカーンと、金属の触れ合うかん高い音が交って聞えた。
﹁おや。――﹂
それは、どこかで聞いたことのある音響だった。ドンドンという低いながらも、底力のある物音が地鳴りのように、八十助の腹の底を打った。彼は呼い吸きをこらし、身体をすくめてその異様な物音に聞き入った。
パチパチというような音が交り始めたと思う間もなく、今度は八十助の身体が、不思議に熱くなって来た。考えてみると、先刻から気がつかなければならなかったことだが、彼が暗黒の箱の中で気がついてからこっち、室内は春のように暖かだった。厳冬の真唯中だというに、まるで春のような暖かさは不思議だった。ところがいま急に熱くなって来たのでこの異様な温度の上昇に気がついたというわけだった。
﹁何が始まったのだろう?﹂
と思ううちに、パッと眼の先が明るくなった。といっても暁あけがたに薄っすりと陽の光りがさしこんでくる位の明るさだった。奇態なことに、別に臭気というものを感じなかったけれど、――それは後に至って、一種の瓦ガ斯スマスクが懸けられていたので、臭気を感じなかったことが判った――このパッと差し込んだ明るさと、パチパチと物の焼け裂けるような音響とは、八十助に絶望を宣告したも同様だった。彼の脳裏には、始めてこの不思議な場所についての一切が判明した。
﹁ううッ。これは火葬炉の中だッ。もう火がついて、棺が焼けはじめたのだッ。ああ、俺はどうなる!﹂
彼は、上下の歯をギリギリと噛み合わせた。
思いあたる怪夢
所もあろうに八十助は、自分自身を、焼場の火葬炉の中に発見したのだった。
︵生きながらに焼き殺される!︶
ああ、何という恐ろしいことだ。生きていると気がついて悦んだのも束の間、次の瞬間、身に迫って来たものは、生きながらの焦熱地獄だった。死んで焼かれるのなら兎とに角かく、生きながら焼き殺されるなんて、そんなむごいことがあろうか。八十助は焔が手足をいぶらせ焔が毛髪にメラメラ燃え移る場面を想像した。――彼は当てのない呪いの言葉を口走った。
﹁ククククッ――﹂
どこからか忍び笑いが聞えて来た。その声には充分――聞き覚えがあった。彼あい奴つだ! 鼠谷仙四郎奴が笑っているのだ。それを合図のように、火は一きわ激しくドンドンと燃えさかった。
﹁うぬ、悪あく魔ま奴め! 悪魔奴!﹂
彼は動けぬ身体を、自や暴けに動かした。そのために、身体を堅く縛っている麻縄が、われとわが肉体に、ひどく喰い込んだ。もうこうなっては、麻縄のために、手首がちぎれて落ちようと、太股がひき切られようと、そんなことは問題外だった。身体の一部分でもよいから、自由になりたい。そして火のつこうとしているこの棺桶の板をうち破りたい……。
﹁ううーッ……うぬッ﹂
八十助は血と汗とにまみれながら、獣のように咆哮し、そして藻も掻がいた。
そのときだった。実にそのときだった。
なんだか一つの異変が、横合から流れこんで来た。それは有り得べからざる奇蹟の様に思われた。一陣の涼風が、どこからともなくスーッと流れこんで来たのだった。
﹁……?﹂
八十助は藻も掻がくのを、ちょっと止めた。
︵どうしたのだろう?︶
何事か起ったらしい。
焼けつきそうだった皮膚の表が急に涼しくなった。
そして、焦げつきそうな痛みがすこしずつ取れてゆくように思った。
︵罐かんの火が消えたかナ!︶
と思ったが、しかし罐の火はいよいよ明るく燃えさかっているらしいことが、棺の蓋ふたの隙間から望見された。罐は盛んに燃えている。それだのに、棺の中にいるわが身は急に楽になったのだ。
ポツーン。
そのとき何か冷いものが、胸のあたりに落ちてきた。
﹁おや。――﹂
と彼は叫んだ。その声のすむかすまないうちに、つづいてポツリポツリと冷いものが上から降って来た。
﹁ああ、水だ。――水が洩れてくる﹂
彼の元気は瞬間のうちに回復した。気が落着いて来た。助かるらしい。八十助は両眼をグルグル廻して何物か見当るものはないかと探した。有った、有った。棺の隙間から見える真赤な火の幕、その火の幕すこし手前の、おそらく棺桶のすぐ外と思われるところに、空間を斜に硝子管が走っているのを認めた。そしてその硝子管の中には、小さい水泡を交ぜた透明な液体が、たいへんな勢いで流れているのだった。それは水に違いなかった。さっきポツンと胸の上に落ちて来た水と同じところから、供給されている水に違いなかった。
︵ああ、なんたる不思議! 火葬炉の中に、冷水装置がある!︶
人体を焼こうとするところに、逆に冷やす仕掛けがあるというのは、何と奇妙なことではないか。このとき彼はゆくりなく、あの変な夢のことを思い出した。
﹁硝子の金魚鉢の水の中に、金魚が泳いでいて、――それで水の表面には火焔の幕があった。――ああ、あれだッ﹂
火焔の天井を持った水中の金魚のように、いま彼の身体も、冷水装置でもってうまく火気から保護されているのだった。
﹁これア一体、俺をどうしようというのだッ﹂
八十助は、あまりにも不審な謎をどう解いてよいかに苦しんだ。
そのとき、ギギーッという物音が聞えはじめたと思うと、彼の横たわっている棺桶は、しずかに揺れながら、どうしたのか、下の方へ下りだした。
棺桶は飛ぶ
火葬炉の中で、不思議に焼けもせず、八十助の入っている棺桶は、しずしずと下へおり出した。
︵これは?︶
と面喰っているうちに、棺桶は下へおりきったものと見え、ゴトンという音とともに動かなくなった。そのうちにゴロゴロという音が聞え、棺桶は横に滑り出した。トロッコのようなものに載せられて、引張りだされているという感じであった。これらはすべて、暗黒の中で取行われたが、そのうちにまた、仄ほの明あかるい光りが差した。それはどうやら太陽の光りではなく、電灯の光りのようであった。もし八十助が、瓦ガ斯スマスクをかけられていなかったなら、このときプーンと高い土の香りを嗅いだことであろう。たとえば掘たての深い地下隧とん道ねるをぬけてゆくときのように。
そこへ、ヒソヒソと、人間の話し声が聞えてきた。何を云い合っているのか、一向に意味がわからない。そうこうしているうちに、棺桶は人間の肩に担かつがれたようであったが、ゴトンと台の上らしいところへ載せられた。そして間もなく、シュウ、シュウという音響が聞えて来て、青い光芒が棺の隙間から見えた。
﹁クックックッ﹂
﹁はッはッはッ﹂
人を馬鹿にしたような高い笑声が、棺の外から響いて来た。八十助はハッと身を縮めたが、次の瞬間、ベットリと冷汗をかいた。どうやら棺の外からX光線をかけたものらしい。X光線をかけると、棺の中は見透しだった。彼が生きて藻掻いているところも、骸骨踊のように、棺外の連中の眼にうつったことであろう。それで可お笑かしそうに笑ったのに違いない。
﹁おうーい、甲野君。聞えるかネ﹂
と鼠谷のしゃ枯れ声がした。
八十助は石亀のように黙っていた。しかし彼の伸縮している心臓だけは、どうも停めることが出来なかった。八十助は結局、嘲笑を甘んじて受けつづけねばならなかった。
﹁……むろん聞えているだろうネ。もう暫らくの辛抱だ。しっかりして居給え﹂
なにを云っているんだい――彼はムカムカとした。
︵どうなと勝手にしろ!︶
彼は一切の反抗と努力とを抛棄した。もうこうなっては、藻掻けば藻掻くほど損だと知った。そう諦めると、俄にわかに疲労が感じられた。ゴトゴトと棺桶はまた揺ぎ、そしてまた別な乗物にうつされた。こんどはブルブルブリブリと激しい音響をたてるものだった。彼はそれを子守唄の代りにして、グウグウ眠った。グーッと浮き上るかと思えば、ドーンと奈なら落くへ墜ちる。その激しい上下も、いまとなっては、彼を睡らせる揺よう籃らんとして役立つばかりだった。
十時間――ではあるまい、恐らく数十時間後であろう。八十助の棺桶は、遂ついに搬ばれるところまで搬ばれたようである。俄に周囲が騒々しくなった。汽笛が鳴る。音楽が聞える。花火が上る。一体之は何ごとが始まったのであろうか。
嵐のような歓呼とでも云いたい喧騒の中をくぐりぬけて、最後に彼の棺桶は、たいへん静かな一室に入れられた。
そのとき、またボソボソ云う話声が、棺桶のそばに近づいた。
﹁じゃいよいよ出すかネ﹂
﹁うん、出し給え﹂
﹁では一宮先生、とりかかってよろしゅうございますか﹂
﹁うむ。始めイ……﹂
ゴソリゴソリと綱らしいものを解く音、それからカンカンと釘をぬくらしい音が続いて起った。いよいよ棺桶から出る時が来たのだ。さていかなる場所へ着いたのかしら。それにしても一宮先生とは、どこかで聞いた名前だと、八十助はしきりに棺の中で首を振った。
火葬国
八十助は、棺桶――果してそれは棺桶だった――の蓋を開かれたときの、あの奇妙なる気分と、そして驚愕とを一生涯忘れることはあるまいと思った。だが、それにも増して、奇怪を極めたのは、棺の外の風景だった。
そこには数人の男女が立っていた。その中で、顔の見知り越しな男が二人あった。一人は云わずと知れた鼠谷仙四郎だった。彼をここまで連れこんだ彼のカマキリのような怪人だった。そしてもう一人は?
︵どこかで見た顔だ︶
と八十助は咄とっ嗟さに考え出そうと努めたけれど、そこまで出ているのに思い出せない。それは非常に肥えたあから顔の巨漢で、鼻の下には十センチもあろうという白い美びぜ髯んをたくわえていた。
室内は、どういうものか、天井も壁紙も、それから室内の調度まで、鼠ねずみがかったグリーン色に塗りつぶされてあった。そして一方の壁の真ン中には、大きな硝ガラ子ス窓が開いていた。その窓は大分高いところについているものらしく、そこに見える外の風景には、広々とした海原が見渡された。そして陸地は焦げた狐色をしていた。海に臨のぞんでいるところは、断崖絶壁らしくストンと切り立っていた。その陸地の一部に大きな建物の一部が見えた。それがわれわれの普段見慣れたものと全く違い、直線で囲まれた真四角いものではなく、すべて曲線で囲まれていたのであった。又その形が何とも云えない奇妙なもので、一目見てゾッと寒気を催したほどだった。それに、建物の色が、やはり狐色で、塔のような形の先端は血のように紅く彩られていた。それがまた不思議な力で、八十助の心臓に怪しき鼓動を与えたものである。
︵これア一体、どこへ来たのだろう?︶
どうも日本とは思われない。と云って、それほど遠くへ来たようにも思わない。
﹁どうじゃ、気がついたかの?﹂
と白い美髯の肥満漢が声をかけた。
﹁はッ――﹂
と八十助は、彼の顔を見た。そのソーセージのようないい色艶の顔を眺めていたとき、八十助は始めて、さっきから解きかねていた謎を解きあてて、愕きの叫び声をあげた。
﹁あッ――﹂
﹁甲野君、一つ御紹介をしよう﹂
と鼠谷仙四郎がすかさずチョロチョロと前に進み出でた。
﹁こちらは一いち宮のみ大やた将いしょうでいらっしゃる﹂
﹁やっぱり一宮大将!﹂
一宮大将といえば、あの新宿の夜店街で、飾窓の中に黒枠づきでもって、その永眠を惜しまれていた将軍のことではないか。そういえば、大将の美髯は有名だった。その美髯がたしかに眼の前に見る老紳士の顔の上にあった。
﹁一宮大将は亡くなられた筈ですが……﹂
﹁はッはッはッ﹂と将軍は天井を向いて腹をゆすぶった。﹁亡くなって此処へ来たのじゃ。この鼠谷君もそうであるし、君も亦いま、ここへ来られたのじゃ﹂
﹁私は死にませんよ。死んだ覚えはありません﹂
﹁死なない覚えはあっても、死んだ覚えはあるまい。――それはとにかく、君は死んだればこそ、ほらあれを見い、棺桶の中に入っていたではないか﹂
将軍の指す方を見ると、八十助のいままで収容されていた棺桶が、いかにも狼ろう藉ぜきに室の隅に抛ほうり出されていた。
﹁ああ、それでは――それでは、やっぱりここは冥めい途どだったんですか﹂
﹁そうでもないのじゃ﹂
﹁え?﹂
八十助の怪けげ訝んな顔を暫く見詰めていた将軍は静かに口を開いた。
﹁ここは、つまり、火葬国じゃ﹂
奇怪な話
﹁火葬国?﹂
八十助は怪げんな顔で、一宮大将と名乗る男の云った言葉を叫び返した。
﹁そうじゃ。火葬国といったが早判りがするじゃろう﹂と一宮大将は傍かたわらを向いて﹁どうじゃな鼠谷君。一つ君から、この国柄を説明してやって呉れぬか。なにしろ君が一番よく知っているでのう﹂
﹁はア、じゃ一つ、甲野君を驚かせることにしますかナ﹂といって八十助の方をジロリと眺めた。﹁だがその前に、是ぜ非ひ云って置かなければならぬことがある﹂
︵おいでなすったな――︶と八十助は思った。
﹁それは、君を此処へ連れて来たからには、もう絶対に日本へ帰って生活することを止めてもらいたいのだ。第一君はもうお葬式をすませ、戸籍面からハッキリ除かれているのだからネ。いま日本へ帰っても、君が僕を幽霊と間違えたように、君は幽霊だと思われて人々を驚かせる外になんの術も施すことができないのだからネ﹂
﹁お葬式を済ませたというと……﹂
﹁そうだ。君は覚えているだろう。新宿の酒場で飲んでいたときフラフラと倒れたことを。あれは僕が密かに盛った魔薬の働きなのだ。あれで君は仮死の状態になった。恐らく医師が診ても、あれを本当の死としか考えられなかったろう。君は行き倒れ人として一いっ旦たんアパートへ引取られそれから親類総出でお葬式を営まれたのだ。君の両親も友人もその葬式に参列し、あの花山火葬場で焼いて骨にしたと信じている﹂
﹁そんな馬鹿なことが……﹂
﹁君の遺族は、壺に一杯の骨を貰って、何の疑うところもなく、家に引取ったのだ﹂
﹁その骨というのは……﹂
﹁無論、どこの馬の骨だか判らぬ人間の骨なんだよ。君は知るまいが、人間の骨なんて、いまの世の中には、手を廻せばいくらでも手に入るものだよ﹂
﹁ナ、なんていう奴だ。恐ろしいインチキ罐係め﹂
﹁そうだ、インチキ罐係の言葉は当っている。君は僕の少年時代のことを思い出して呉れるだろう、僕はいくら運が悪くなっても、ぼんやり暮らしているほど、自分の力量に自信のない男ではない。云いかえると、罐係をやったのも、一つの大きな目的があってのことだ。僕は何を考えて罐係になったか、想像がつくかい﹂
﹁…………﹂それは今となって想像がつかないでもないが、相手は何しろ非常識な男のことであるから、ハッキリは指さして云えない。黙っているのが勝ちである。
﹁僕は一見不可能なことを可能にして、この世の中に素晴らしいゆっくりした国を建設したかったのだ。君はあの大おお晦みそ日かに迫ると、なんとなく身辺がゆっくりして、嬉しさが感ぜられるということを経験したことはなかったかネ。あれは、もう今年も残りは二三日となり、いくら焦ってみても、もうどうにもならぬ、――という気持ちが、あの使い残りの二三日をたいへんゆっくり嬉しく感じさせてくれるのだ。これをもっと徹底させると、どういうことになるか。それは人間が戸籍面からハッキリ姿を消すことになる!﹂
﹁ふふン﹂と八十助は呻うなった。
﹁つまり自分の死亡届けを出して置いて、自分は鬼きせ籍きに入る。そうなれば、この世でのいろいろの厭なきずなを断つことが出来る。もう借金とりも来なければ、大勢の子供の面倒を見なくてもよいし、年寄りになれば、老いぼれと蔑さげすまれなくてもいい。鬼籍に入った上で、本当の生命の残りを、極めて自由に有意義に使うなら、こんな愉快なことは、無かろうじゃないか。――それがそもそもこの火葬国の起源であるというわけだ﹂
鼠谷仙四郎の醜怪な頬には、ぽッと紅の色がさし昇って来た。
白煙に還る
鼠谷仙四郎の饒じょ舌うぜつはつづく。
﹁僕は花山火葬場に長く勤めているうちに、火葬炉に特別の仕掛けを作ることを考え出した。早く云えばインチキ火葬だ。誰でも棺桶を抛り込んで封印をしてしまえば、それで安心をする。しかし封印をしたのは表口だけのことだ。封印をしてないところが上下左右と奥との五つの壁だ。一見それは耐たい火かれ煉ん瓦がなぞで築きあげ、行き止まりらしく見える。誰一人として、あの五つの壁を仔細に検しらべようと﹇#﹁検しらべようと﹂は底本では﹁検しらべとようと﹂﹈思った者はない。僕はそこを覘ねらい、一旦封印をして表口を閉じた上で、側方の壁から特設の冷水装置をつきだして棺桶の焼けるのを防ぐ仕掛けを作った。その次にあの罐の真下に当る地下室から棺桶を下げおろす仕掛けを作った。そして予あらかじめ用意して置いた人骨と灰とを代りに、あの煉瓦床の上に散らばらしておく。それでいいのだ。遺族の者は、すこしも怪しむことを知らない﹂
﹁ああ、悪魔! 君はそうして、私の妻の死体を引っ張り出して、自由にしたのだな﹂
﹁まア待ち給え。――僕はこの仕掛けに成功すると、こんどは人間を仮死に陥おとしいれる研究に始めて成功した。こいつはまた素晴らしい。奇妙な毒物なんだが溶かすと無味無臭で、誰も毒物が入っていると気がつかない。これを飲んで、識らないでいると、昏睡状態となり、そして遂に仮死の状態に陥すことができる。しかも医師たちはそれを真死と診断する外はない程巧妙な仮死だ。この二つの発明が、僕に火葬国の理想郷を建設する力を与えて呉くれた。それからこっちというものは、これはと思う人物を、巧たくみに仮死に導いては、飛行機に乗せてこの火葬国へ送りつけ、そして君がこの部屋で経験したような順序で蘇生させていたのだ。傑けっ出しゅつした男であれ花恥かしい美女であれ、僕のこうと思った人間は、必ず連れて来て見せる。ここに居られる一宮大将においでを願ったのも、この火葬国建設の指揮を願うのに最も適任者だと思ったからだ。大将はすっかり共鳴されて、私財の全部をわが火葬国のために投ぜられたのだ﹂
﹁するとここは一体何ど処こなのだ。日本ではないのだネ﹂
﹁そうだ。小笠原群島より、もっと南の方にある無人島なのだ﹂
﹁僕の露子はどうした。早く逢わせて呉れ給え﹂
﹁露子さんか﹂
と鼠谷は一ちょ寸っと困ったような顔付をした。
﹁露子さんに逢わせてもいいが、その前に、君から誓いを聞かねばならぬ﹂
﹁誓いとは?﹂
﹁この火葬国の住民となって、文芸省を担任して貰いたいのだ﹂
﹁文芸省?﹂
﹁そうだ。君の文芸的素養をもって、この火葬国に文芸を興おこして貰いたい﹂
﹁文芸を興せというのかい﹂
文芸ということを聞いた八十助は愕然として吾われに帰った。そうだ、八十助の原稿は常に売れなくても彼の生命は文芸にあったのである。しかしその文芸は、あくまであの喧騒を極めた巷ちまたの間から拾い上げてこそ情熱的な味があるのであった。理想郷とは云え、こんな無人島から拾い上げられる文芸なんてどう考えても砂を噛むように味気のないものとしか思えない。況いわんや探偵小説なんてものがこんな理想郷に落ちては居まい。彼は矢張り陋ろう巷こうに彷さま徨よう三流作家であることを懐なつかしく思い、また誇りにも感じた。そう思いつくと、俄にわかに矢のような帰心に襲われたのだった。
﹁僕は断る。僕はやっぱり東京へ帰るよ﹂
﹁なに東京へ帰る。……あの露子さんに逢いたくないのかい﹂
﹁うん、急に逢いたくなくなった。僕はそんなに突とっ拍ぴょ子うしも無い幸福に酔おうとは思わないよ。あのゴミゴミした東京で、妻を失ったやもめの小説家としてゴロゴロしているのが性に合っているのだ。僕は帰る!﹂
﹁どうしても帰るというか﹂と鼠谷は残念そうに訊きいた。
﹁うん帰る!﹂
﹁よオし是非もない﹂
鼠谷は歯ぎしりを噛んで二三歩ツツと下った。
ド――ン。
銃声一発。真白なモヤモヤした煙が八十助の鼻先に拡がった。それっきり、八十助の知覚は消えてしまったのだ。……随って今のところ、火葬国についての話も、これから先が無いのである。