美妙斎美妙
内田魯庵
丁度この欧化主義の最絶頂に達して、一も西洋、二も西洋と、上下有(うち)頂(ょう)天(てん)となって西欧文化を高調した時、この潮流に棹(さお)さして極端に西洋臭い言文一致の文体を創(はじ)めたのが忽(たちま)ち人気を沸騰して、一躍文壇の大(おお)立(だて)者(もの)となったのは山(やま)田(だび)美(みょ)妙(うさ)斎(い)であった。美妙斎はあたかも欧化熱の人工孵(ふら)卵(ん)器(き)で孵化された早産児であった。
これより先き美妙斎は薩(さつ)摩(ま)の美少年の古い物語を歌った新体詞を単行本として発表した。外(とや)山(ま)博士一流の﹁死地に乗入る六百騎﹂的の書(しょ)生(せい)節(ぶし)とは違って優艶富麗の七五調を聯(なら)べた歌らしい歌であったが、世間を動かすほどに注意を牽(ひ)かないでしまった。が、この詩を発表した時が十八だというから、美妙の早熟の才は推して知るべきである。
美妙斎の名が初めて世間を騒がしたは﹃読売新聞﹄で発表した短篇﹁武(むさ)蔵(し)野(の)﹂であった。極めて新らしい言文一致と奥(おく)浄(じょ)瑠(うる)璃(り)の古い﹁おじゃる﹂詞(ことば)とが巧みに調和した文章の新味が著るしく読書界を驚倒した。﹁美妙斎とはドンナ人だろう?﹂と、当時美妙斎の作を読んだものは作者の人物を揣(し)摩(ま)せずにはおられなかった。が、新聞で読んで感嘆したのはマダ一部少数者だけであったが、越えて数月この﹁武蔵野﹂を巻軸として短篇数種を合冊した﹃夏(なつ)木(こだ)立(ち)﹄が金(きん)港(こう)堂(どう)から出版されて美妙斎の文名が一時に忽ち高くなった。
丁度同時に硯(けん)友(ゆう)社(しゃ)の﹃我(がら)楽(くた)多(ぶ)文(ん)庫(こ)﹄が創刊された。紅(こう)葉(よう)、漣(さざなみ)、思(しあ)案(ん)と妍(けん)を競う中にも美妙の﹁情詩人﹂が一(いっ)頭(とう)地(ち)を抽(ぬき)んでて評判となった。続いて金港堂から美妙斎を主筆とした﹃都(みや)之(この)花(はな)﹄とが発行されて、純文芸雑誌としてのエポックを作ったので、美妙斎の名は忽ち喧(けん)伝(でん)されて、トントン拍子に一方の旗(はた)頭(がしら)と成(なり)済(す)ましてしまった。
今日の金港堂は強(きょ)弩(うど)の末(すえ)魯(ろこ)縞(う)を穿(うが)つ能(あた)わざる感があるが、当時は対抗するものがない大(だい)書(しょ)肆(し)であった。その編(へん)輯(しゅう)に従事しその協議に与(あず)かるものは皆錚(そう)々(そう)たる第一人者であった。然(しか)るにこの大勢力ある金港堂が一大小説雑誌を発行するに方(あた)って如(い)何(か)なる大作家でも招き得られるのに漸(やっ)と二(は)十(た)歳(ち)を越えたばかりの美妙を聘(へい)して主筆の椅(い)子(す)を与えたのは美妙の人気が十分読者を牽(ひ)くに足るを認めたからであろう。その頃金港堂の編輯を督していたのは先年興(おき)津(つ)で孤独の覊(きか)客(く)として隠者の生涯を終った中(なか)根(ねこ)香(うて)亭(い)であった。が、﹃都之花﹄については美妙が一切を主宰して香亭はただ巻尾に謡曲の註釈を載せただけであった。その時は明治二十一年の春であった。
﹃都之花﹄以前に﹃芳(ほう)譚(たん)雑誌﹄とか﹃人情雑誌﹄とかいう小説雑誌があった。が、皆戯(げさ)作(くし)者(ゃ)の残党に編輯されていたので、内容も体裁も古めかしくて飽かれていた。﹃都の花﹄はあたかも世間が清新の読物に渇する時に生れたので、忽ち当時の雑誌のレコードを破って、美くしい花やかな気持の好い表紙が新らしい気分を漲(みなぎ)らして若い読書家の心を誘(そそ)った。随(したが)ってその主筆たる美妙の位置と人気とは当時の文学青年の羨(せん)望(ぼう)の中心であった。
﹃我楽多文庫﹄は﹃都之花﹄に先んじて、硯友社の名は新時代の若い文人の集団としてその時既に読書界を騒がしていた。二者を比較すると﹃都の花﹄は羽(はぶ)二(た)重(え)の黒(くろ)紋(もん)付(つき)の如く、﹃我楽多文庫﹄は飛(かす)白(り)の羽織の如き等差があった。その代りに前者はドコとなく市気があったが、後者は微(みじ)塵(ん)も算(そろ)盤(ばん)気(け)がなくて自由な放縦な駄(だ)々(だ)ッ子(こ)気分を思う存分に発揮していた。ドチラにも各々長所があってそれぞれ人気を呼んだが、美妙斎はこの二雑誌に跨(また)がって、あたかも政党の領(りょ)袖(うしゅう)であって内閣の椅子に座しているような観があったから声望隆々として硯友社同人を圧していた。紅葉でさえが当時はなお微々として、美妙に対しては太陽の前の月ほども光らなかった。
美妙と紅葉とは本(も)と同じ町に育って同じ学校に学び、或(ある)時は同じ家に同宿して同じ文学に志ざし、相(あい)共(とも)に提携して硯友社を組織した仲であった。然るに﹃我楽多文庫﹄公刊匆(そう)々(そう)二人が忽ち手を別ってしまったはいわゆる両雄聯(なら)び立たずであって、陽には磊(らい)落(らく)らしく見えて実は極めて狭量な神経家たる紅葉は美妙が同人に抜(ぬけ)駈(が)けして一足飛びに名を成したのを余り快よく思わなかったらしい。が、﹃我楽多文庫﹄の基礎がマダ固まらない中(うち)に美妙が﹃都之花﹄に趨(はし)って別に一旗(き)幟(し)を建て、あまつさえ自分一人が幸運に舌(した)鼓(つづみ)を打って一つ鍋(なべ)を突(つッ)付(つ)いた糟(そう)糠(こう)の仲の同人の四苦八苦の経営を余(よ)所(そ)々(よ)々(そ)しく冷やかに視(み)た態度と決して穏(おだ)当(やか)でなかったから、紅葉初め硯友社の同人が美妙を謀(むほ)反(んに)人(ん)扱いしたのも万(まん)更(ざら)無理ではなかった。
が、美妙としてはその時既に﹃都之花﹄の外に﹃以(い)良(ら)都(つ)女(め)﹄という婦人雑誌を経営し、﹃女学雑誌﹄の特別寄(きし)書(ょ)家(か)として毎号寄稿し、それ以外にもアチラコチラの新聞雑誌社から寄書を依頼されるという日の出の勢いであったから、紅葉は左(と)に右(か)く他の硯友社同人と伍(ご)するには余りに地位が懸隔し、実際上にも糟糠の友を助けて﹃我楽多文庫﹄に寄与するだけの余裕はなかったのだ。紅葉と乖(かい)離(り)するのは決して本意ではなかったろうが、美妙の見識は既に眇(びょう)たる硯友社の一美妙でなくて天下の美妙斎美妙であったのだ。
私が初めて美妙と音信したのは﹃夏木立﹄発行後間もなくであった。私はその中の﹁武蔵野﹂を感嘆した一人であったから、マダ学生の貧しいポッケットの中から﹃夏木立﹄をも購読し、﹃我楽多文庫﹄をも﹃都之花﹄をも愛読していた。
今から考えると幼稚な鑑賞眼が楽隊入りの異形な文章に眩(くら)まされたのだろうが、﹁武蔵野﹂には非常に驚嘆した。が、続いて発表された他の諸作には余り感服しなかった。殊(こと)に﹃都之花﹄の巻頭の呼(よび)物(もの)となった﹁花(はな)車(ぐるま)﹂は愚作であると思った。が、偶然の機会から二、三回音信したのが縁となって、偶(たま)々(たま)金港堂の編輯所近くへ用達しに行った戻りに天下の人気作者を見るべく刺を通じたのがタシカ明治二十一年の十一月頃(ごろ)であったと思う。
応接室に通されておよそ十五分ばかりも待ってると、やがて軽い靴(くつ)の音が聞えてスウッと扉(ドア)を排(ひら)いて現れたのは白(はく)皙(せき)無(むぜ)髯(ん)の美少年であった。﹁私が山田美妙斎でござります﹂と叮(てい)嚀(ねい)に会釈された時は余り若々しいので呆(あっ)気(け)に取られた。美妙が私と同齢の青年であるとは前から聞いていたが、私の蓬(ほう)頭(とう)垢(こう)面(めん)に反(ひき)対(か)えてノッペリした優(やさ)男(おとこ)だったから少くも私よりは二、三歳弱(とし)齢(した)のように見えた。が、一(ひ)ト言(こと)二タ言話して見ると極めて世(せ)事(じ)慣(な)れていて、物ごし態度も沈(おち)着(つき)払(はら)っていて二つも三つも年(とし)長(うえ)のように思えた。何を話したか忘れてしまったが、こんな色の生(なま)白(っちろ)い若い男があんな巧(うま)い文章を書くかと呆気に取られた外には初対面の何の印象も今は残っていない。かえって当の美妙斎よりはその時美妙に紹介された同席の中根香亭の清(せい)鶴(くづる)のような表々たる高人の風(ふう)が今でもなお眼に残っている。香亭は幕人であった。亡朝の遺臣として声利を謝し聞達を求めず、﹃天(てん)王(のう)寺(じだ)大(いざ)懺(ん)悔(げ)﹄一冊を残した外には何の足跡をも残さないで、韜(とう)晦(かい)して終(つい)に天涯の一覊客として興(おき)津(つ)の逆(げき)旅(りょ)に易(えき)簀(さく)したが、容易に匹(ひつ)を求められない一代の高士であった。
二度目に美妙を訪(おとの)うたのは駿(する)河(がだ)台(い)の自宅であった。水(すい)道(どう)橋(ばし)内の莢(さい)坂(かちざか)を駿河台へ登り切った堤(どて)際(きわ)の、その頃坊城伯爵が住(すま)っていた旗(はた)本(もと)屋敷の長屋であった。売れッ子の若い人気作者の住(すま)居(い)とは思われない古風な武(むし)者(ゃま)窓(ど)の付いた頗(すこぶ)る見(みす)窄(ぼ)らしい陰気な長屋であった。︵この家は最(も)う三十年も前に取(とり)毀(こぼ)たれてしまった。︶精(せい)々(ぜい)が四(よ)室(ま)かそこらの家であったが、書斎を兼ねた八畳の座敷の周囲に大小の本箱を積み重ね、ギッシリ塞(つま)った和漢洋の書籍が室内を威圧していた。今考えるとそれほどの蔵書ではなかったが、二本立ちの本箱の一つしか持っていなかったその頃の私の眼には非常な大蔵書家であるかのように映った。殊に函(はこ)入(いり)の﹃源氏物語﹄や上(シャ)海(ンハイ)版の函入の石(せき)印(いん)本などが馬鹿に光って無知な書生ッぽの私を驚かした。
その頃の私は文学よりは経済に志ざしていた。が、小説は好きで新刊も旧刊もかなり広く読んでいた。外国小説も語学の研究かたがた少しは見ていた。専門小説家がドレホド広く読んでいたかは知らぬが、読書の量はそれほど負けているとは思わなかった。が、その晩の美妙斎の談が古今東西に渉(わた)ってかつて聞いた事もない作家の名を五つも六つも聞かされたには我を折って、自分よりも二つも三つも年下に見えるコンナ若々しい青年がドウしてこんなに博識かと煙(けむ)に巻かれて降参してしまった。どんな話をしたか、この時の談話はスッカリ忘れてしまったが、古今東西に渉った博覧に煙に巻かれてしまった事だけを記憶しておる。
その頃徳(とく)富(とみ)蘇(そほ)峰(う)、朝(あさ)比(ひな)奈(ろく)碌(ど)堂(う)、森(もり)田(たし)思(け)軒(ん)の三人が新らしい文人の会合を思(おも)立(いた)って文学会を組織した。蘇峰と碌堂とは新進第一の論客として勢望既に論壇を圧していた。思軒の名声はマダ両者に及ばなかったが、造(ぞう)詣(けい)文章は夙(つと)に文壇の第一人者と推されていた。この三人が幹事となって文壇各方面の第一流と目される名士を毎月案内して会合した。この文学会は後には次第に有(うぞ)象(うむ)無(ぞ)象(う)を狩集めて結局文人特有の放(ほう)肆(し)乱脈に堕して二、三年後に自然的に解体したが、初めは最も選ばれたる少数者の集団であって、当時の私設翰(かん)林(りん)院(いん)を以(もっ)て目されていた。美妙は実に純文学を代表して耆(きし)宿(ゅく)依(よだ)田(ひゃ)百(くせ)川(ん)と共に最始の少数集団に加(くわわ)っていたので、白面の書生が白髯の翁と並び推された当時の美妙の人気を知るべきである。
当時徳富蘇峰の﹃国民之友﹄は政治を中心としてあまねく各方面の名士を寄書家に網(もう)羅(ら)し、鬱(うつ)然(ぜん)として思想壇に重きをなした雑誌界の覇(はお)王(う)であった。この﹃国民之友﹄が特別附録として小説を載せ初めたのは従来この種の評論雑誌が漢詩文あるいは国風の外は小説その他の純粋美文を決して載せなかった習慣を破った破天荒の新例であった。随って﹃国民之友﹄の附録は著るしく読書界の興味を惹(ひ)き、尋常小説読者以外の知識階級者の注目をも集めて世評の焼点となった。かつこれに加えて広告に巧みな民友社が商略上大(おお)袈(げ)裟(さ)に吹(ふい)聴(ちょう)したから、自然この附録に載ったものは大家を公認される形があって、読書界が毎年二季のこの附録を迎うるやあたかも回(えこ)向(うい)院(ん)の番附を見ると同一の感があった。その文壇に重きをなしたは今の﹃改造﹄や﹃中央公論﹄の附録のようなものでなくて、皮肉な正太夫はこれを称して民友社の大家製造といった。尤(もっと)もこの大家製造は年々次第に粗製濫(らん)造(ぞう)となって、終には民友社の折(おり)紙(がみ)が余りに権威を持たなくなってしまったが、その初めはこの附録が文人の進士登第と認められていた。
この新例を創めたのは二十二年の春であって、美妙の新作は春(はる)廼(のや)舎(おぼ)朧(ろ)の短篇と相並んで第一回の選に入った。当時春廼舎は既に文壇の第一人者として仰がれていたから選に入るのは少しも不思議はないが、新進年少の美妙が春廼舎と並んで推されたのは異数であった。シカモ、美妙は特にその作﹁蝴(こち)蝶(ょう)﹂のための挿(さし)画(え)を註文し、普通の画をだも評論雑誌に挿(そう)入(にゅう)するは異例であるのを、択(え)りに択ってその頃まだ看(み)慣(な)れない女の裸体画を註文して容易に容(い)れしめたのは、蘇峰に作家の意思を尊重する理解があったからだが、また以て美妙の人気が先例のない無理な註文をすらも容れしめたほど高かったのを証する事が出来る。
が、この挿画の策略が見事に中(あた)って作その物よりは美くしい女の裸体画が公衆の非常なる好奇心を喚起した。この画は平家の若い美くしい上(じょ)臈(うろう)が壇(だん)の浦(うら)から遁(のが)れて、岸へ上ったばかりの一糸をも掛けない裸体姿で源氏の若武者と向い合ってる処で、ツイこの頃も明治の裸体画の初めとして或る雑誌に写真が載せられた。今見れば何でもない拙(まず)い画であるが、好奇心から評判になると同時に道学先生の物議を醸(かも)し、一時論壇は裸体画論を盛んに戦わして甲(こう)論(ろん)乙(おつ)駁(ばく)暫(しば)らくは止まなかった。美妙自身もまた幼稚な裸体画論を主張して、議論が盛んになればなるほど﹁蝴蝶﹂の挿画が益(ます)々(ます)評判となって、知るも知らざるも皆裸蝴蝶を喧伝した。この評判に蹴(けお)落(と)されて春廼舎の洗練された新作を口にするものは殆(ほと)んどなく、﹃国民之友﹄附録に対する人気を美妙が一人で背(せ)負(お)ってしまった。が、実をいうとこの評判は美妙の作よりは省(しょ)亭(うてい)の拙い裸体画の成功であったのだ。今なら当然発売禁止となるべきこういう下劣な裸体画を寛仮した当時の内務省の役人の頭は今の官憲よりも美妙斎よりも進歩していた。S・S・S即ち鴎(おう)外(がい)の新声社派の﹁おも影﹂が﹃国民之友﹄に載って読書界を騒がしたのはこの年の夏の第二回の特別附録の時であって、美妙は文壇的には鴎外よりも早く、春廼舎に次いでのエポック・メーカーであった。
一方、美妙斎が経営していた﹃以良都女﹄は、婦人雑誌としての思想上の位置こそ巌(いわ)本(もと)善(よし)治(はる)の﹃女学雑誌﹄に及ばなかったが、美妙の編輯だけに頗る文学的色彩に富み、搗(か)てて加えて美妙の人気が手伝ってかなりに多数の読者を吸収していた。質も量も今の雑誌と比べては話にならぬが、丁度一と頃売れた﹃女子文壇﹄に若干の芸術趣味を加味したような相当な雑誌であった。厳本の﹃女学雑誌﹄の素朴に引換えて極めて花やかな色彩を帯び、その寄書欄から多くの若い女の秀才を輩出した。後に美妙と結婚して蜜月の甘い陶酔が覚(さ)めない中に果(は)敢(か)ない悲劇の犠牲となった田(たざ)沢(わい)稲(なふ)舟(ね)もまたこの寄書欄から出身した女秀才であった。
美妙は美男であった。ドチラかというと為(ため)永(なが)の人情本にありそうなニヤケ男であった。言語が物柔らかで応対も巧みであった。女の好きな国文の素養があって、歌や韻文も上(じょ)手(うず)なら芝居や音楽をも噛(かじ)っていて、初対面のものを煙に巻く博覧の才弁を持っていた。その上に天下の人気を背負って立って、一世を空(むなしゅ)うする大文豪であるかのように歌いはやされていたから、当時の文学少女の愛慕の中心となっていた。﹃我楽多文庫﹄に載った﹁情詩人﹂というは多分自分自身を主人公としたのであろうが、如何にも多恨多感な詩人らしい生活を描いたものだ。男の我々が見ると堪(たま)らなくキザで鼻持がならないもんだが、当時の若い女をゾクゾクさした作で、キザな厭(いや)味(み)な文句を文学少女は皆暗(あん)誦(しょう)していたもんだ。
が、美妙斎の全盛は裸蝴蝶時代が絶頂で、それから以後は次第に下り坂となった。﹃都之花﹄に載った﹁花車﹂は人気のお庇(かげ)で多少読まれたが、具眼者の間には愚作と認められていた。最も苦(くし)辛(ん)した労作と自からも称していた﹁いちご姫﹂は昔しの物語の焼直し染(じ)みて根ッから面白くなかった。一時は好奇心を牽いた﹁おじゃる﹂詞(ことば)も徐(そろ)々(そろ)鼻に附いて飽かれ出した。これに反して一方妙なイキサツから美妙と睨(にら)み合いになった紅葉はメキメキ売出して硯友社の勢力が漸次に文壇を席(せっ)巻(けん)し、何(い)時(つ)とはなしに美妙に取って代って人気を蚕食してしまった。文壇の寿命が如何に短かいにしても美妙の人気は余りに飽(あっ)気(け)なくて線香花火のようであった。だが、その短かい間の人気は後の紅葉よりも樗(ちょ)牛(ぎゅう)よりも独(どっ)歩(ぽ)よりも漱(そう)石(せき)よりも、あるいは今の倉(くら)田(た)よりも武(むし)者(ゃ)よりも花々しかった。美妙がもし裸蝴蝶時代に早世したなら必ず一代の大天才なるかのように天下を挙げて痛惜哀悼を惜まなかったろう。生(なま)じい生(いき)延(の)び過ぎて最も気の毒な末路に終った。
美妙斎はドウシテ人気を失墜したろう。美妙斎について実は余り多くを知っていないから、私の憶測が中(あた)るか中らないかは請(うけ)合(あ)わないが、試みにその原因を数えようなら、
第一、美妙斎には限らないが、少年名を成すは第一の不幸で、美妙斎は余り早くから世間に管(もて)待(は)やされ過ぎた。詩人には随分早くから売出したのが古今珍らしくないが、美妙斎は世間に出るなり直ぐ大家となってしまった。二(はた)十(ち)か二十一で一躍して数年以上の操(そう)觚(こ)の閲歴を持つ先輩を乗越して名声を博し、文章識見共に当代の雄を以て推される耆(きし)宿(ゅく)と同格に扱われた。如何に天才でも非凡人でもこう易(やす)々(やす)とトントン拍子に成上ると勢い矜(きょ)驕(うきょう)となり有(うち)頂(ょう)天(てん)となるは人間の免かるべからざる弱点である。美妙斎は余りに早く大家となったために自分をもまた余りに高く買い被り過ぎて少しも造(ぞう)詣(けい)に励まなかった。自然頭の中が忽ち空乏となって、文章上の工(くふ)風(う)も構想上の進歩も行(ゆき)詰(づま)って飽かれてしまった。
第二、美妙斎の人気を博した第一の理由は文章上の新味であるが、この新味はこれまでの日本文には余りなかった非情物即ち草木や動物の擬人法、例(たと)えば花が囁(ささ)※(や)﹇#﹁口+需﹂、U+5685、179-8﹈いたとか犬が欠(あく)伸(び)したとかいうような文句や、前にもいった足(あし)利(かが)時代の﹁おじゃる﹂詞(ことば)や﹁発(はっ)矢(し)!……何々﹂というような際(きわ)立(だ)った誇張的の新らしい文調であったので、初めの珍らしい中こそヤンヤと喝(かっ)采(さい)されたが、段々馴(な)れると鼻に附いて飽かれてしまった。匂いの高いものは鼻に附くようになると嘔(むか)吐(つ)くほどイヤになるもんで、美妙斎の文章の新味も余り香気が高過ぎたので一時は盛んに管(もて)待(は)やされたが、その反動として今度は極端に嫌(きら)われるようになった。
第三、美妙斎に限らず、創作家は余り評論をしない方が得策である。創作家と評論家とは自(おの)ずから領分が違ってる。二者共に長ずる少数特殊の人を除いては、創作家は評論をするとボロが出る。どういうもんだか美妙斎は評論が好きで、やたらと幼稚な評論をしては頭の貧弱を惜(おし)気(げ)なく露(さら)け出してしまった。殊に美妙斎の生(なま)緩(ぬる)い冗漫の言文一致は論難に不適当であって、いとど薄弱なる議論を益々力弱くさせて世間の軽侮を招くようになった。︵この点においてはかつて一度もマジメな議論をした事のない紅葉は有(さす)繋(が)に怜悧であった。︶
第四、美妙斎は余りに多才多能で、何でもちょっとは器用にやってのけたので、一事の完成に全力を注がなかった。創作もすれば評論もする、文学も論ずれば婦人も論ずる、小説の評判が悪くなると字引を作る、著述が受けなくなると算盤を持つ、甚(はなは)だしいのはラムネの製造までもして損をしたというように、始終転々して一事を貫く熱心が欠けていた。文壇に乗出したそもそもの初めこそ小説を生涯の使命とする意(いき)気(ご)込(み)があったらしいが、人気が去ってからは他の仕事に転々して、最後に再び文壇に舞戻った時は最(も)う時代に遅れてしまって、口を糊(のり)するに忙がしくて捲(けん)土(どち)重(ょう)来(らい)の花を咲かせようとする意気地が抜けていた。
第五、美妙斎は人となりが偏狭で、誰とでも親密になれなかった。かつ誠実が多少乏しかったようである。その頃我々は大抵独身で、始終互いに往来して共に飲食する事が珍らしくなかったが、美妙と一緒に飯を喰(く)ったという話を誰からも聞いた事がなかった。勿(もち)論(ろん)美妙の家で蕎(そ)麦(ば)一つ御(ごち)馳(そ)走(う)になったという人もなかったようだ。かえって美妙を尋ねる時は最(もな)中(か)の一と折も持って行かないと御(ごき)機(げ)嫌(ん)が悪いというような影(かげ)口(ぐち)があった。かつ、文人の集まる席へ案内されても滅多に顔を出さなかった。尾崎と一緒に下宿して一つ鍋のものを突ッついた仲でありながら、文壇の羽(はぶ)振(り)が宜(よ)くなると忽ち裏切してしまった。二(ふた)葉(ばて)亭(い)とは親同士が同僚であって、小学時代からの友人であったが、中年以後は全く疎隔して音信不通であった。文壇人とは誰とも面識があったが、親友というものは殆んど一人もなかったようだ。であるから金港堂を離れて後の美妙斎は全く孤立して、誰とも交(つき)際(あ)わないから随って誰にも余り同情されないで、社会的にも私的交際にも段々存在を認められなくなってしまった。
第六、稲舟女史との関係については真相を判断する材料を持っていないが、無責任な新聞紙に大袈裟に伝えられるほどの不徳が美妙にあったとは思われない。美妙にも必ず同情すべき気の毒な事情があったろうと思うが、平(へい)生(ぜい)誰とも交際わないから自然文壇の同情が薄く、同情したいにも同情するだけの材料を持ってる者がなかったから、蔭(かげ)にも日(ひな)向(た)にも美妙のため弁疏する事が出来ないで、新聞紙の報道を半分虚伝と思いつつも暗(あん)々(あん)裡(り)に認める外はなかった。実をいうと、日本のような道徳的基準の低い国で美妙が犯したぐらいの恋愛的過失で社会的に葬むられてしまうというのは不思議である。が、嶮(けん)峻(しゅん)の隘(あい)路(ろ)に立つものは拳(こい)石(し)にだも躓(つまず)いて直ぐ千(せん)仭(じん)の底に墜(お)ちる。人気が落ちて下り坂となった時だから、責むるに足りない聊(いささ)かの過失でも取返しの付かない意外な致命傷となったのであろう。愛の冷却した夫婦の結合は不自然であるとか虚偽であるとかいう勝手な理(りく)窟(つ)を附けて不条理極まる破縁を不人情とも没(もぎ)義(ど)道(う)とも思わず、あるいは三角や四角の恋愛を臆面もなく手(てが)柄(らが)顔(お)に告白するのを少しも怪(あやし)まない今から考えると、ただこれだけで葬むられてしまったのは誠に気の毒であった。
以上は美妙が文壇に失墜した所(ゆえ)以(ん)の重なる理由である。それ以外に幾多の遠因も近因もあろうが、畢(ひっ)竟(きょう)するに最後が極めて悲惨であったのは自ら求めて世間や友人の同情を薄くしたためである。文壇が美妙に背(そむ)いたのではなくて美妙が文壇に背いたのである。
だが、ドウしてこんな風に偏小狭隘求めて世間に遠ざかるようになったかというと、美妙をこんなに偏屈に孤立を好むようにならしめた所以の美妙の生(おい)立(た)ちの家庭の事情に遡(さかのぼ)らねばならないが、美妙と交際の極めて浅かった私はこれを究(きわ)むるだけの材料に不足しておる。が、美妙の生立ちには一貫した一条の悲劇的径路があったように聞いている。
美妙と紅葉とは種々の点で違っていた。第一に雅号である。美妙斎美妙と名乗った理由は知らぬが、別段説明を聞かないでも解(わか)るほど露骨であって詩人の奥床しさを欠いておる。小説家よりは曲芸師染(じ)みて寄(よ)席(せ)のビラに書かれそうだ。紅葉山人というは青年時代に芝に住(すま)っていた因(ちな)みから紅(もみ)葉(じや)山(ま)の人という意味で命じたので、格別捻(ひね)くらない処に洒落の風が現われている。第二に筆跡である。美妙斎の筆蹟は定(てい)家(か)ようの極めて美くしい書風であったが、何となく芸人披露の名(なび)弘(ろ)めの散らしの板(はん)下(した)然(ぜん)として気品に欠けていた。紅葉は蜀(しょ)山(くさ)人(んじん)を学んで、若い頃のは蜀山人以上に衒(げん)気(き)満々としていたが、晩年はスッカリ枯れ切って蒼(そう)勁(けい)となった。蜀山人から出て蜀山人よりも力があって、何(ど)処(こ)となく豪快の風が現われていた。
風采からいっても、美妙は色(いろ)白(じろ)な柔(よわ)々(よわ)しい、ドチラかというと少し柔(にや)気(け)て、如何にも﹁詩人でございます﹂といったような美男であったが、紅葉は色の浅黒い、苦(にが)み走った、スッキリと背の高い江戸前の、美男というよりは好男子という方であった。美妙は鯔(いな)の背のように光ったベラベラ着物に角(かく)帯(おび)をキチンと締め、イツでも頭(あた)髪(ま)を奇麗に分けて安(やす)香(こう)水(すい)の匂いをさしていたが、紅葉は燻(くす)んだ光らない着物に絞りの兵(へこ)児(お)帯(び)をグルグル巻いて、五分刈頭の紺足袋で八(やわ)幡(たぐ)黒(ろ)の鼻緒の下駄が好きであった。万事がこんな風に著るしく違っていた。
私が先ず二人の性格の相違を著るしく感じたのは初対面の印象であった。美妙斎との初対面は前にもいった通りに何を訊(き)いても知らざる事なく、打てば響くように直ぐ答える博覧に驚かされたが、二度三度と重なるとイツデモ一つ話ばかりをしていて博覧の奥底が忽ち看(み)え透いて来たには嫌(いや)気(ぎ)が挿して来た。
紅葉を尋ねたのは美妙に会ってから三、四カ月後であった。その頃紅葉は飯(いい)田(だま)町(ち)の国学院大学の横町にお祖(じ)父(い)さんと一緒に住んでいた。美妙の武(むし)者(ゃま)窓(ど)の長屋よりは気の利(き)いた一軒建(だて)であったが、美妙が既に一人前の紳士であったと違って、紅葉はマダ書生ッぽで三畳の書斎に納まっていた。何しろ三畳敷だから二、三人座るとギッシリ詰って身動きも出来ない位で、美妙の書斎のように嚇(おど)かし道具を列(なら)べる余地もなかったし、美妙のように何でも来いと頤(あご)を撫(な)でる物(もの)識(しり)ぶりを発揮しなかった。例えば美妙は、これなら豈(よ)夫(も)知っていまいと窃(ひそか)に予期して質問した西(さい)鶴(かく)についてすらも初対面の私を煙に巻くだけの批評をしたが、紅葉はこの頃漸(やっ)と﹃一代男﹄を読んだばかしで何が何やらサッパリ解らない、女の行(ぎょ)水(うずい)している処を隣りの屋根から遠(とお)目(めが)鏡(ね)で覗(のぞ)いている画なんぞあって面白そうだが少しも解らない、﹃源氏﹄よりは難かしいもんだと率直に答えた。美妙はディッケンスもサッカレーも鵜(うの)呑(み)にした批評をしたが、紅葉はやはり難かしくて少しも解らないといった。字引をコツコツ引いて油汗をダクダク出して考え考え読んで、なるほどコイツは巧(うめ)エやでは少(ちっ)とも面白くないと言った。美妙は学者然と取澄ましていたが紅葉は極めてザックバランで少しも飾らなかった。美妙の知識の領分はかなり広いようだったが、イツデモ一つ領分の中を彷(ほう)徨(こう)して同じ話ばかりしていた。紅葉はこれに反して段々と新らしい領分を開拓して、会う度(たん)毎(び)に必ず新らしい本を読んでいて新らしい話をした。
美妙斎は少しも温か味がなかった。何(なん)度(たび)会っても他人行儀で、心(しん)底(そこ)から胸(きょ)襟(うきん)を開いて語るという事がなかった。強(あなが)ち裃(かみしも)を付けた四角四面の切(きり)口(こう)上(じょう)で応接するというわけではなかったが、態度が何となく余(よ)所(そ)々(よ)々(そ)しくて、自分では打解けてるツモリだったかも知れぬが、他(ひと)には何(い)時(つ)でも城(じょ)府(うふ)を設けてるように見えた。紅葉はこれに反して、腹の中には鉄条網を張って余人の闖(ちん)入(にゅう)を決して許さなかったが、表(うわ)面(ば)は城門を開放して靴でも草(わら)鞋(じ)でも出(しゅ)入(つにゅう)通り抜け勝手たるべしというような顔をしていた。それゆえ美妙斎とは何年交(つき)際(あ)っても親友となる事が難かしかったが、紅葉は初対面の時から百年の友のように打解け、戯(じょ)言(うだん)もいえば気(きえ)焔(ん)も吐いて誰とでも直ぐ肝胆を照らして語り合った。
その実、紅葉は初対面から誰でも親友扱いするが心から打解けるのではなかった。江戸ッ子風の洒(しゃ)脱(だつ)らしく見えて実は根ッから洒脱でなかった。硯友社という小さな王国に立(たて)籠(こも)って容易に人を寄せ付けなかった。実をいったら美妙の方がリベラルで、紅葉の方が遥(はる)かにオーソドキシカルであったかも知れぬが、リベラルな美妙が人に嫌われてオーソドキシカルな紅葉がかえって人に親(したし)まれたというは紅葉の社交の才が勝(すぐ)れていたからで、文壇的には狭量偏固な鎖港攘夷党であっても、社交上には如才なく振舞って勢力を扶植し、硯友社以外にも多数の後援を擁していた。美妙はこれに反して自分から世間を狭くして友人にも遠ざかったから、文壇的にも社会的にも孤独無援の位置に落ちて、終(つい)に悲惨の生涯の幕を閉じた。
美妙の文壇生活の最高調は﹃都之花﹄時代であったが、社会生活としての最得意は平(ひら)永(なが)町(ちょう)に新築した頃であったろう。駿河台の暗(くら)ぼったい旗本屋敷の長屋から移転したので、タシカ今の神(かん)田(だ)キネマの辺であった。軒(のき)並(なみ)の町家の中で目立った相当に大きな門構えの二階建で、間数もかなり多かったらしい。木(きぐ)口(ち)は余り上等とも思わなかったが、左(と)に右(か)く木の香(か)のする明るい新築だった。今と違ってマダ操(そう)觚(こし)者(ゃ)の報酬の薄かったその頃に三十になるかならぬかの文筆労働者でこれだけの家を建築したのは左も右くも成功者であった。
書斎は二階であったが、椅子テーブル式で、クローム画の額や、ブロンズや、西洋家具の古道具屋から仕入れたものをゴテゴテ列べ、何のツモリか知らぬが弾(ひ)けもせぬヴァイオリンが壁へ掛けてあった。今なら文化生活で、美妙の得意はこの安価洋風装飾に現れていた。が、その頃は字書を編(へん)纂(さん)していたので文壇人としては既に一歩を降り坂に踏入れていたのだ。
美妙を訪問したのは前後三、四回しかなかったが、この平永町の新居を偶然通り縋(すが)りに尋ねたのが最後であった。僅(わず)か二十分ほど話して美術学校の一年生ぐらいが作ったらしい木(もく)雕(ちょう)の牛を見せられたが、それぎり美妙とは会わなかった。自分ばかりじゃない、その頃から以後は美妙が時折寄稿した雑誌の編輯者以外には美妙と往来したものは殆(ほと)んどなかったろう。
それでも稲舟と結婚した時は両人連名で益々御愛顧を願うというような開業の引札然たる活版摺(ずり)の通知を交友間に配った。が、新婚のお祝いをする遑(いとま)がない中に最(も)う二人の恋の破(はた)綻(ん)が新聞で剔(すっ)抉(ぱぬ)かれた。それから以来はラムネを作って損をしたとか、公園芸(げい)妓(ぎ)を引入れたとかいうような面白くない風説を新聞の三面で聞くばかりで、文壇人としての消息はまるきり絶えてしまった。それから二、三年経ってから復(ま)たポツポツと美妙の名が低級な雑誌に見え出して、そういう雑誌の発行者や編輯者の口から噂(うわさ)を聞く事があったが、お情(なさけ)に原稿を買ってやるというような口(こう)吻(ふん)で美妙の気の毒な境遇が想像された。書いたものもまた色も香も艶(つや)も生気もない萎(しお)れた花の憐(あわ)れさを思わせるようなものばかりだった。
二葉亭が没した時、諸家の追懐談を集めた追悼録を作ろうとして少年時代の友たる美妙斎へも寄稿を依頼した。その時の美妙の返事は敗残者の卑下した文体で、勝誇った寵(ちょ)児(うじ)のプライドに充(み)ちた昔の面影は微塵も見られないで惻(そく)隠(いん)に堪えられなかった。
それから一、二年経ってからであろう、美妙の訃(ふ)の伝わったのは。最後の隠れ家は駒(こま)込(ごめ)の伝中辺だと聞いたが、丁度旅行していたし、十何年間もまるで音信不通であったし、それ以前とても親友というほどの関係でなかったから葬儀に行かなかったが、後に聞くと送棺者がただ僅かに三、四人だったそうだ。自ら世を狭くしたのだとはいえ、誠に気の毒な最後であった。
それから数月経って聞いた咄(はなし)だが、最後は石(いし)橋(ばし)思(しあ)案(ん)と丸(まる)岡(おか)九(きゅ)華(うか)が専(もっぱ)ら世話をしたそうだ。いよいよ重体となってから、九華はシュークリームが美妙の大好物であると聞いて見舞に一と折持って行った。美妙は大変喜んだので、家人も厚く感謝して大切にし、病人の外は子供にさえも手をつけさせなかったそうで、黴(かび)の生(は)えたシュークリームが臨終の枕(まく)頭(らもと)に残っていたそうだ。日本の言文一致の先駆者︵あるいは創始者︶として文壇の風雲を捲(まき)起(おこ)した一代の才人の終(しゅ)焉(うえん)として何たる悲惨の逸事であろう。こういう悲惨な運命を速(まね)いたのは畢竟美妙自身の罪であったが、身から出た錆(さび)であったにしても、日本の新文体の創始者に対して天才の一失を寛容しなかった社会は実に残忍である。
︵大正十三年九月補修再録︶
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