欧洲紀行

横光利一




二月二十二日

[注・昭和十一年]
家人への手紙 一
 
 
 
 
 


二月二十四日

 稿


 





二月二十六日

 


二月二十八日

 曇。朝八時香港着。港の景観は旅の幸福を事実となすに足る。このあたりも早や春雨だ。風に波立つリパルスベイ一面の黄色な花――香港島を自動車にて一周後、マスクをかけて街を散歩する。群衆は私のマスクに驚くことしきりである。子供らは追っかけて見に来る。立話をしているものも話をやめてぼんやりと口をあける。こうなるとその次の者はどんな顔をするものかと観て行くうち、逢うもの逢うもの同様な表情を一瞬私の面前でする。総て香港の支那人は上海のものより俊敏で活溌だ。





 竿





 禿





 
 


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 姿
 


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 西
 


三月一日

 姿()





 退


三月二日

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便


 





 


三月三日

 


便




 


三月四日

 
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 最高点は上ノ畑楠窓氏、機関長なり。十一時に終る。船までの帰りを日日新聞の特派員柳重徳氏が自身自動車を運転して送ってくれる。柳氏は少し酔って手もと危険と見えたが感じの良い青年なので、生命を託す気になった。月が沖天に昇り、まさに清涼爽快、椰子の幹高く連る中を疾駆する。


三月五日

 
 


三月六日

 ()()()


 


 鹿


 


三月七日

 


 
 


 


 
 
 


 


 


 


 


 
 


三月八日

 退


三月九日

 


 




 





三月十日

 


 


三月十日

 




 





 

 


 


三月十一日

、正午コロンボ出帆。
 




 


三月十二日

 


三月十三日

 





 


三月十四日

 
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三月十五日

 
 


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三月十六日

 


 





 西()





 


三月十七日

 


 
 

 




 




 


 宿


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 夕空の下をアデン出帆。ルビー色の山々が酒の中に溶け流れてゆくようだ。私はふと気がついたが、旅行というのは行く先の自然と人間とを比較することだと思う。それだけが作用だ。ところが、こんなに遠い紅海の真ん中で、突然、東京音頭や長唄のレコードを聴かされると、首を絞められたような気持になり、これは自分は刑罰を受けに誰かに流されたのだと気がつく。喜びなんかどこにもない。洋行などという洒落はあれは曳かれものの小唄である。しかし、このような真綿で首を絞められる刑罰を受ければ、誰だって自慢でもしなければやりきれたものではあるまい。「あちらでは」と云いたがるのも実はあれは苦痛の表現にすぎぬのだ。


三月十八日

 退


 


 


三月十九日

 


 


 綿使


 鹿


三月二十日

 
 





三月二十一日

 


 





 

 調


三月二十一日

 





 


 ()()調


 

 





三月二十四日

 





 


 西
 


三月廿五日

 


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三月廿六日

 


三月廿七日

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三月廿八日

 
 


 


四月四日

 


 


四月六日

 


 
 使使


 


 1
 宿
 
 
 


 2
 便調
 
 
 






 
 
 
 
 
 調
 






1


 
 姿殿
 
 
 
 使沿


2


 
 
 
 
 
 
 沿

幾山河越え去り行かば寂しさの果てなん国ぞ今日も旅行く






 
 
 
 





四月七日

 


 
 


 





 
 


 


四月八日

 
 


 姿


四月廿一日

 
 


 


 調


 廿


 
 
 


四月廿三日

 椿


 
 


四月廿六日

 


 


 


四月廿七日

 まだ明瞭ではないが極右と極左が競り合っているとの事だ。


四月廿八日

 


 


五月一日

 
 
 
 
 


五月二日

 


 姿鹿


 


五月四日

 使


 


五月五日

 


五月六日

 宿宿


五月七日

 宿


 


五月八日

 宿


五月九日

 
 


五月十日

 
 


五月十一日

 調


五月十二日

 


五月十三日

 


 沿
 沿


 


 


 
 


五月十八日

 樋口、岡本両君とヴァンセンヌの森へ行く。一昨日から続いている暑さが今日もつづく。広い森の中は人でいっぱいだ。人のいない奥深くへ這入って休もうとすると、雑木の中には、あちらにもこちらにも男女の二人づれが横になっている。私たち男三人は森をけがしているのじゃないかと思うほどだ。小さくより固ってただ梢を眺めているのだが、誰も沈んで物云うものもない。樋口君はときどき溜息をもらして早く日本へ帰りたいと云う。岡本君はむっつりして木の葉をむしり取っているばかりだ。私はふとこの森を戯曲の一場面にしたくなってノートを取る。パリー市民の理想は日曜日になると森へ男女で来ることだと云う説も耳にした。もうただ野蛮になりたくて仕方がないというパリー人の苦しみ。


 第一の自然を征服し、第二の自然の技術を尽し、第三の自然である思想を、窮極へまで押し縮めたパリーでは、どうかして第一の自然へ返りたく、野蛮な扮装をしているのだ。これが第四の自然である。リアリズムはここにはも早やない。


五月十九日

 


 鹿


 


 


 


 


五月廿日

 
 


 沿


 


 
 


五月廿一日

 沿


 宿


 退使使


 


 


五月廿二日

 


 




 







 


 


西

 


 


 


五月廿六日

 


 


 


 


 


 


 


 


 


 鹿


五月廿七日

 


 


 


 


五月三十一日

 


 


六月一日

 
 
 鹿


六月二日

 
 


 


 
 


六月三日

 


 


 


 


 


 


六月四日

 便便


 使()()


六月五日

 
 稿


 西


六月六日

 


 


 
 


 


 


六月七日

 


六月八日

 新聞は少しずつ出始めた。その代りに、汽車の食堂とチュリーストが休み出す。フランス銀行の頭取が更迭した。


 大きな百貨店はどれも大戸を降ろしているが、こうなれば一度はどの店も罷業をして行くにちがいあるまい。長年忘れていた大掃除をするように、掃除を終った店からまた開業をやっていく。埃りが通行人の顔に少しもかからぬところは流石にフランスだと思う。


六月九日

 


六月十日

 


 


六月十一日

 宿


 


六月十二日

 


 


 






六月十七日

 沿


 西


 


 


六月十八日

 


六月十九日

 


 


 


同日

 西


 


六月廿日

 


 


 
 


 


六月廿一日

 沿


 


 


六月廿二日

 ブダペストへ出発。オーストリアからハンガリアの野へかけて、雛芥子ひなげしが所嫌わず生えている。ダニユーブ河は雛芥子とともに太っていく。


 午後六時ブダペスト着。――ヨーロッパへ来てどこが一番面白かったかという話が出る度に、異口同音にブダペストと誰も云う。ここはブダとペストが河を挟んで合している街。ハンガリアの総人口八百万のうち、百六万人がこの都で生活している。ペストの平原に対してブダは対岸の緑樹鬱々とした丘陵である。この丘陵の下ダニューブの河岸半里の間に、高温の自然温泉が百二十もある。しかも市街の真ん中だ。この地の理想を一手にかね備えた街を各民族が取り合いしないという筈はない。二千年この方争奪の絶え間なき所以だ。


 ジンギスカンにとられ、トルコにとられ、オーストリアにとられ、いままたイタリアの手が八分まで延びている。ハンガリアの曠野は真紅の葵の花がシンボルだ。コンパスでヨーロッパに円を描くと、中心がブダペストの上に刺さる。海岸線を一つも持たず、兵力の集中をどちらの国境に向けて良いのかうろうろしなければならぬ民族というものは、その絶え間もなき悲しみの結果、生活の享楽に唯一の道を発見する。殺戮に次ぐ殺戮が、戦国時代の無教養を民衆に強いた日本のごとく、ここでは、無に代って慰楽の道が強いられたのだ。


六月廿四日

 ()


六月廿五日

 


 


 


 


 


 


六月廿六日

 


 ()


 


六月廿六日

 廿





 殿


 姿


六月廿七日

 


 


六月廿八日

 


同日

 


六月廿九日

 調


 


 


 


 


 


 


六月三十日

 


同日

 


 


 
 鹿


 


七月一日

 調


 


 沿


 


 


七月二日

 ()


 




 


 鹿鹿


 
 使


七月三日

 


 


 


 


七月九日

 


 


七月十三日

 






七月十三日夜

 
 


 


 


七月十四日

、巴里祭――
 


 


 


 


 


七月十五日

 


七月十七日

 鹿
 


七月十八日

 


 


七月十九日

 


七月廿日

 


 


七月廿一日

 


 


 


七月廿二日

 スペインの反乱拡大し、昨日は負傷者三千人との報がある。旅行者は帰れないそうだ。私も行く予定であったのを延ばしたために事なきを得た。


七月廿三日

 ベルリンへ発つ飛行機の切符を買う。この夜、西條八十氏とぼたん屋で出逢う。アメリカを廻り、昨日パリーへ着いたばかりとの事である。
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七月廿四日

 
 

 



 西

 

 

 

 


 姿

 

 
調
 退

 

 

 

 
 使


七月廿五日

 ルッツェンブルガア・ストラッセ三十三番地に宿泊す。ホテルが満員なので私の宿は女医の家だ。女主人はキエフの白系露人の貴族である。王朝時代の品位と善良さを持った五十過ぎの婦人であるが、無一文で革命の際に老母と息子二人を連れベルリンまで逃げて来た。刻苦精励医学を勉強し医者の免状をそれから取ろうとしたのだが、独乙では医者の免状は難しく、殊に女医は一層難事である。漸くパスした時には心身の疲労で卒倒したという。しかも、この一家はユダヤ人であるからドイツでも今はなかなか生活が困難だということである。この人の主人は現在もロシアにまだいるとのことであるが、革命以来別れてからは何の消息もなくどこにいるかも分らないとのことだ。日本では想像し難い事件である。


七月廿六日

 

 


七月廿七日

 

 


七月廿八日

 

 


七月廿九日

 パリーから十八の姪が来るというので女主人は嬉しそうだ。ベルリンの娘は十八ならもう大人と同じ事をしているが、パリーの姪はまだほんの子供ですよという。私の隣室に日日新聞のパリー特派員城戸又一氏夫妻がいる。城戸氏は社務に多忙なため、私は夫人に何から何までお世話を受く。まことによく気のつく頭の良い夫人である。フランス語も上手で感じの良い人だが、この人は先日パリーへ日本から来たばかりにも拘らず、パリーは長くいる気はしないがベルリンならいつまでだっていられると云う。
 これからヨーロッパに長くいようという人と、私のように無目的にぶらぶら遊びに来たものとは見方は自然に変るのであろう。


七月三十日

 

 

 


 


七月三十一日

 


八月一日

 オリンピック始まる。夜、スタジアムの様子を書く。城戸氏がこれをローマ字でタイプに打ち日本へ送ってくれる。四十分の後この文章は日本の机の上で私の本文のままに書き換えられているのである。しかし、昼間の疲労で私の頭は意の如くに動かない。書き終えて、城戸、北澤清、本田親男三君と附近のヴィクトリヤのテラスへ行く。中は踊りの最中だが、誰も中へも這入らず、人一人もいない寒さの増して来たテラスでビールを飲み、それぞれ帰る。ヴィクトリヤは俗称トリアと云い、代々日本人の一番世話になるところだとの事だ。日本人が一人女を抱えて闇の中へ消えていく。


八月二日

 日本選手の成績が悪いのでこれを文章に書く気がしない。書け書けと喧しい新聞社の催促を受けるが、ペンを持つ気さらになし。記者諸君は全く気の毒なほど多忙である。食事をする暇もないようだ。睡眠さえろくにしない。


八月三日

 

 


八月四日

 宿
 


八月五日

 

 


八月六日

 日本へ帰る道をアメリカにしようかソビエットにしようかと迷う。二者撰一の難関に立てばおのれを動かす他の力に従って傾こうと私は決心する。このようなときに神が現れるのだ。私は先ず何より私の神を見たい。全く空しい気持ちになって自然力に従う場合が今だと思う。どの方向から私を東西に動かして来るか。


八月七日

 私は今は全く空虚である。自分の通りたい意志はアメリカにもなくソビエットにもない。私の感じ得られることは、出来得る限り、感じてしまった。膨れ切った袋のような自分はただ外界から襲って来る力を信ずるだけだ。私には人々の批判も言葉も今は全く無益である。雨が降ったかと思うとすぐまた天気だ。私にとっては、今日はレインコートを持って出ようかどうしようかを考えるのが最大の私の関心事になって来た。街々を歩いても足の向く方へ歩いているだけである。今日のコーヒー一杯飲めれば世の中がどうなろうとかまやしないと、このように言ったドストエフスキイのベルリンに於ける心理も、何も珍らしいことではない。

 ドストエフスキイはここで毎日賭博をした。私がレインコートを持って出ようかどうしようかと、必死に考えているのとどこが違うのか。


八月八日

 



 
 


八月九日

 

 
 


八月十日

 

 

 

 

 

 退


八月十一日

 

 
 貿


 

 


八月十二日

 
 

 湿


 

 

 

 

 湿調調調使


 
 沿


 使使使

 


 

 

 

 


八月十三日

 

 鹿

 


 

 

 

 ()

 

 便

 

 

 

 

 

 

 
 


 


八月十四日

 
 
 

 ※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)

 


八月十六日

 

 


 

 

 

 


 鹿

 


八月十七日

 

 使
 


 

 


 


 

 

 

 

 

 

 


 


八月十八日

 

 鹿鹿

 鹿

 


八月十九日

 

 
使
 



 


八月廿日

 

 

 

 




 

 
 

 

 
宿
 
 
 宿

 

 

 


 


 






七月廿四日

 199-6()宿






八月一日

 
 姿
 
 
 
 


八月三日

 昨日(二日)も今日(三日)も天気が悪い。家を出る時空を見て降りそうな天気の日は、今日は日本は駄目だといつも思う。日本人は植物のように一片の雲にも皮膚の感覚がちぢむのである。殊に円錐型のベルリン競技場は吾々の想像以上に底が深く円錐の縁が深い。このように空の少なく見える平面では日頃の練習は役に立つものではない。日本人が自分の記録を誰も出さず敗北している第一の原因は、底から仰ぐ狭い空の曇っていることだ。たとえば比較的によい成績をあげた村社と、山本嬢二人の出場の時は太陽が雲を破って珍しく場内が輝き渡っていた。人間が実力以上の活動を希えるのはその時の自然によらねばならぬ。山本嬢の槍投、これはもう一息のところだった。殊にさていよいよという時になると、他の一方の八百メートルの競技でどっと拍手がその方にあがるのだ。また次に投げようとすると高跳の方の拍手があがる。これでは働ける筈がない。敗れて風呂敷包を抱え、とぼとぼ退場して行く姿は離縁されて実家へ戻る不運な主婦を見るようだ。一万メートルの村社とフィンランド陣との競走はこの日の圧巻であった。卅一人の選手のうち最初の一回から十二回までは、村社が先頭を切りっ放して進んで行く。しかし、十三回目の終るところでちょっと後を向いたので、これは駄目だと思うと果して十六回目の時にフィンランドの一人に抜かれた。あと二回の時にはフィンランド陣三人の抜き合いとなり村社が四番目になって進んでいる。ところが次の時には再び先頭に立って進んで来たのでこれは続くと思っていると次にはもはや駄目だ。このような日はただ肉体がものをいうだけだ。大きなものが殆どあらゆる競技に勝ってしまった。民族の肉体の限界を眼下に眺める壮観さは曇天のオリンピック以外には絶対に見られない。日本の負けた日は私は大きな実験室にいるように時々望遠鏡を顕微鏡のように手にとって人々の筋肉を調べて見るので楽しみになる。


八月五日

 四日、五日、日本の一行が目ざましかった。各国の観衆の中で昨日までは黒人とドイツ人の一人舞台の観があった。ドイツが沈んで日本が頭を擡げてくると各国の応援はことごとく日本に向って押しよせて来た。殊に一昨日の村社と昨日の西田、大江の受けた拍手の波は満場われんばかりである。棒高跳決勝の時には陽は全く暮れ、明るく照明をうけた底を見下す観衆は西田と大江の名ばかり呼び続け、さて愈々二人が跳ぶ姿勢をとると水を打ったように静かになり、各国へ打つタイプライターの音と大空の上ではじけるオリンピアの焔の音ばかりパチパチとするだけだ。私はこれらの情景を眺めつつオリンピックが日本へ廻って来た日の観衆の態度が、かくの如く公明に美しくあらんことを望んで止まなかった。
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 姿鹿


 鹿鹿


 


 


 西鹿退
 退


 西


 便


 


 


 


 






 
 
 
 
 
 
 西

 


 
 
 椿
 
 
 


 
 
 禿禿
 
 


 姿
 姿姿姿
 
 


 
 
 宿姿
 禿
 
 
 
 

 






   20061812101
  
   1982577



20151117

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JIS X 0213

JIS X 0213-


「卍」を左右反転したもの    199-6


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