善の研究

西田幾多郎





 この書は余が多年、金沢なる第四高等学校において教鞭を執っていた間に書いたのである。初はこの書の中、特に実在に関する部分を精細に論述して、すぐにも世に出そうという考であったが、病と種々の事情とに妨げられてその志を果すことができなかった。かくして数年を過している中に、いくらか自分の思想も変り来り、従って余が志す所の容易に完成し難きを感ずるようになり、この書はこの書として一先ず世に出して見たいという考になったのである。
 この書は第二編第三編が先ず出来て、第一編第四編という順序に後から附加したものである。第一編は余の思想の根柢である純粋経験の性質をあきらかにしたものであるが、初めて読む人はこれを略する方がよい。第二編は余の哲学的思想を述べたものでこの書の骨子というべきものである。第三編は前編の考を基礎として善を論じたつもりであるが、またこれを独立の倫理学と見ても差支ないと思う。第四編は余が、かねて哲学の終結と考えている宗教について余の考を述べたものである。この編は余が病中の作で不完全の処も多いが、とにかくこれにて余がいおうと思うていることの終まで達したのである。この書を特に「善の研究」と名づけた訳は、哲学的研究がその前半を占め居るにも拘らず、人生の問題が中心であり、終結であると考えた故である。
 純粋経験を唯一の実在としてすべてを説明して見たいというのは、余が大分前からっていた考であった。初はマッハなどを読んで見たが、どうも満足はできなかった。そのうち、個人あって経験あるにあらず、経験あって個人あるのである、個人的区別より経験が根本的であるという考から独我論を脱することができ、また経験を能動的と考うることに由ってフィヒテ以後の超越哲学とも調和し得るかのように考え、遂にこの書の第二編を書いたのであるが、その不完全なることはいうまでもない。
 思索などする奴は緑の野にあって枯草を食う動物の如しとメフィストにあざけらるるかも知らぬが、我は哲理を考えるように罰せられているといった哲学者(ヘーゲル)もあるように、一たび禁断の果を食った人間には、かかる苦悩のあるのもむを得ぬことであろう。
明治四十四年一月
京都にて
西田幾多郎
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再版の序


 この書を出版してから既に十年余の歳月を経たのであるが、この書を書いたのはそれよりもなお幾年の昔であった。京都に来てから読書と思索とにもっぱらなることを得て、余もいくらか余の思想を洗練し豊富にすることを得た。従ってこの書に対しては飽き足らなく思うようになり、遂にこの書を絶版としようと思うたのである。しかしその後諸方からこの書の出版を求められるのと、余がこの書の如き形において余の思想の全体を述べ得るのはなお幾年の後なるかを思い、再びこの書を世に出すこととした。今度の出版に当りて、務台、世良の両文学士が余の為に字句の訂正と校正との労を執られたのは、余が両君に対し感謝に堪えざる所である。
大正十年一月
西田幾多郎
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版を新にするに当って


 この書刷行を重ねること多く、文字も往々鮮明を欠くものがあるようになったので、今度書肆しょしにおいて版を新にすることになった。この書は私が多少とも自分の考をまとめて世に出した最初の著述であり、若かりし日の考に過ぎない。私はこの際この書に色々の点において加筆したいのであるが、思想はその時々に生きたものであり、幾十年を隔てた後からは筆の加えようもない。この書はこの書としてこのままとして置くの外はない。
 今日から見れば、この書の立場は意識の立場であり、心理主義的とも考えられるであろう。しか非難せられても致方いたしかたはない。しかしこの書を書いた時代においても、私の考の奥底に潜むものは単にそれだけのものでなかったと思う。純粋経験の立場は「自覚における直観と反省」に至って、フィヒテの事行じこうの立場を介して絶対意志の立場に進み、更に「働くものから見るものへ」の後半において、ギリシャ哲学を介し、一転して「場所」の考に至った。そこに私は私の考を論理化する端緒を得たと思う。「場所」の考は「弁証法的一般者」として具体化せられ、「弁証法的一般者」の立場は「行為的直観」の立場として直接化せられた。この書において直接経験の世界とか純粋経験の世界とかいったものは、今は歴史的実在の世界と考えるようになった。行為的直観の世界、ポイエシスの世界こそ真に純粋経験の世界であるのである。
 フェヒネルは或朝ライプチヒのローゼンタールの腰掛に休らいながら、日うららかに花かおり鳥歌い蝶舞う春の牧場を眺め、色もなく音もなき自然科学的な夜の見方に反して、ありの儘が真である昼の見方にふけったと自らいっている。私は何の影響によったかは知らないが、早くから実在は現実そのままのものでなければならない、いわゆる物質の世界という如きものはこれから考えられたものに過ぎないという考をっていた。まだ高等学校の学生であった頃、金沢の街を歩きながら、夢みる如くかかる考に耽ったことが今も思い出される。その頃の考がこの書の基ともなったかと思う。私がこの書を物せし頃、この書がかくまでに長く多くの人に読まれ、私がかくまでに生き長らえて、この書の重版を見ようとは思いもよらないことであった。この書に対して、命なりけり小夜の中山の感なきを得ない。
昭和十一年十月
著者
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 ()()()()()()Wundt, Grundriss der Psychologie, Einl. §I()
 ()()James, The Principles of Psychology, Vol. I, Chap. VII()() fringe James, A World of Pure Experience()()
 Stout, Analytic Psychology, Vol. II, p. 45James, The Principles of Psychology, Vol. I. Chap. XV() perceptual train Stout, Manual of Psychology, p. 252()()
 ()()
 ()Schopenhauer, Die Welt als Wille und Vorstellung, §54()()
 ()()Wundt, Logik, Bd. I, Abs. III, Kap. 1
 ()



 


 ()()()Locke, An Essay concerning Human Understanding, Bk. IV, Chap. II, 7()
 ()
 ()()()()()()
 ()() Gore Dewey, Studies in Logical Theory()
 ()()()
 ()()()()()
 Hegel, Wissenschaft der Logik, III, S. 37
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 ()()()()()()()()()()調
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  axiom Sturt, Personal Idealism, p. 92()



 


  intellektuelle Anschauung 
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 () Identit※(ダイエレシス付きA小文字)t()()
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 世界はこのようなもの、人生はこのようなものという哲学的世界観および人生観と、人間はかくせねばならぬ、かかる処に安心せねばならぬという道徳宗教の実践的要求とは密接の関係を持っている。人は相容れない知識的確信と実践的要求とをもって満足することはできない。たとえば高尚なる精神的要求を持っている人は唯物論に満足ができず、唯物論を信じている人は、いつしか高尚なる精神的要求に疑を抱くようになる。元来真理は一である。知識においての真理はただちに実践上の真理であり、実践上の真理は直に知識においての真理でなければならぬ。深く考える人、真摯なる人は必ず知識と情意との一致を求むるようになる。我々は何を為すべきか、何処に安心すべきかの問題を論ずる前に、先ず天地人生の真相は如何なる者であるか、真の実在とは如何なる者なるかをあきらかにせねばならぬ。
 ()() Brahman  Atman ()()()
 今もし真の実在を理解し、天地人生の真面目を知ろうと思うたならば、疑いうるだけ疑って、すべての人工的仮定を去り、疑うにももはや疑いようのない、直接の知識を本として出立せねばならぬ。我々の常識では意識を離れて外界に物が存在し、意識の背後には心なる物があって色々の働をなすように考えている。またこの考が凡ての人の行為の基礎ともなっている。しかし物心の独立的存在などということは我々の思惟の要求に由りて仮定したまでで、いくらも疑えば疑いうる余地があるのである。その外科学というような者も、何か仮定的知識の上に築き上げられた者で、実在の最深なる説明を目的とした者ではない。またこれを目的としている哲学の中にも充分に批判的でなく、在来の仮定を基礎として深く疑わない者が多い。
 物心の独立的存在ということが直覚的事実であるかのように考えられているが、少しく反省して見ると直にそのしからざることが明になる。今目前にある机とは何であるか、その色その形は眼の感覚である、これに触れて抵抗を感ずるのは手の感覚である。物の形状、大小、位置、運動という如きことすら、我々が直覚する所の者は凡て物其者そのものの客観的状態ではない。我らの意識を離れて物其者を直覚することは到底不可能である。自分の心其者について見ても右の通りである。我々の知る所は知情意の作用であって、心其者でない。我々が同一の自己があって始終働くかのように思うのも、心理学より見れば同一の感覚および感情の連続にすぎない、我々の直覚的事実としている物も心も単に類似せる意識現象の不変的結合というにすぎぬ。ただ我々をして物心其者の存在を信ぜしむるのは因果律の要求である。しかし因果律に由りて果して意識外の存在を推すことができるかどうか、これが先ず究明すべき問題である。
 さらば疑うにも疑いようのない直接の知識とは何であるか。そはただ我々の直覚的経験の事実即ち意識現象についての知識あるのみである。現前の意識現象とこれを意識するということとは直に同一であって、その間に主観と客観とを分つこともできない。事実と認識の間に一毫の間隙がない。真に疑うに疑いようがないのである。勿論、意識現象であってもこれを判定するとかこれを想起するとかいう場合では誤に陥ることもある。しかしこの時はもはや直覚ではなく、推理である。後の意識と前の意識とは別の意識現象である、直覚というは後者を前者の判断として見るのではない、ただありのままの事実を知るのである。誤るとか誤らぬとかいうのは無意義である。かくの如き直覚的経験が基礎となって、その上に我々の凡ての知識が築き上げられねばならぬ。
 哲学が伝来の仮定を脱し、新に確固たる基礎を求むる時には、いつでもかかる直接の知識に還ってくる。近世哲学の始においてベーコンが経験を以て凡ての知識の本としたのも、デカートが「余は考う故に余在り」cogito ergo sum の命題を本として、これと同じく明瞭なるものを真理としたのもこれに由るのである。しかしベーコンの経験といったのは純粋なる経験ではなく、我々はこれに由りて意識外の事実を直覚しうるという独断を伴うた経験であった。デカートが余は考う故に余在りというのはすでに直接経験の事実ではなく、已に余ありということを推理している。また明瞭なる思惟が物の本体を知りうるとなすのは独断である。カント以後の哲学においては疑う能わざる真理として直にこれを受取ることはできぬ。余がここに直接の知識というのは凡てこれらの独断を去り、ただ直覚的事実として承認するまでである(勿論ヘーゲルを始めもろもろの哲学史家のいっているように、デカートの「余は考う故に余在り」は推理ではなく、実在と思惟との合一せる直覚的確実をいい現わしたものとすれば、余の出立点と同一になる)。
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 我々の感覚的知識を以て凡て誤となし、ただ思惟を以てのみ物の真相を知りうるとなすのはエレヤ学派に始まり、プラトーに至ってその頂点に達した。近世哲学にてはデカート学派の人は皆明確なる思惟に由りて実在の真相を知り得るものと信じた。
 思惟と直覚とは全く別の作用であるかのように考えられているが、単にこれを意識上の事実として見た時は同一種の作用である。直覚とか経験とかいうのは、個々の事物を他と関係なくそのままに知覚する純粋の受動的作用であって、思惟とはこれに反し事物を比較し判断しその関係を定むる能動的作用と考えられているが、実地における意識作用としては全く受動的作用なる者があるのではない。直覚は直に直接の判断である。余がさきに仮定なき知識の出立点として直覚といったのはこの意義において用いたのである。
 上来直覚といったのは単に感覚とかいう作用のみをいうのではない。思惟の根柢にも常に統一的或者がある。これは直覚すべき者である。判断はこの分析より起るのである。
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第二章 意識現象が唯一の実在である


 少しの仮定も置かない直接の知識に基づいて見れば、実在とはただ我々の意識現象即ち直接経験の事実あるのみである。この外に実在というのは思惟の要求よりいでたる仮定にすぎない。すでに意識現象の範囲を脱せぬ思惟の作用に、経験以上の実在を直覚する神秘的能力なきは言うまでもなく、これらの仮定は、つまり思惟が直接経験の事実を系統的に組織するために起った抽象的概念である。
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 普通には我々の意識現象というのは、物体界の中特に動物の神経系統に伴う一種の現象であると考えられている。しかし少しく反省して見ると、我々に最も直接である原始的事実は意識現象であって、物体現象ではない。我々の身体もやはり自己の意識現象の一部にすぎない。意識が身体の中にあるのではなく、身体はかえって自己の意識の中にあるのである。神経中枢の刺戟に意識現象が伴うというのは、一種の意識現象は必ず他の一種の意識現象に伴うて起るというにすぎない。もし我々が直接に自己の脳中の現象を知り得るものとせば、いわゆる意識現象と脳中の刺戟との関係は、ちょうど耳には音と感ずる者が眼や手には糸の震動と感ずると同一であろう。
 我々は意識現象と物体現象と二種の経験的事実があるように考えているが、その実はただ一種あるのみである。即ち意識現象あるのみである。物体現象というのはその中で各人に共通で不変的関係を有する者を抽象したのにすぎない。
 また普通には、意識の外に或定まった性質を具えた物の本体が独立に存在し、意識現象はこれに基づいて起る現象にすぎないと考えられている。しかし意識外に独立固定せる物とは如何なる者であるか。厳密に意識現象を離れては物其者そのものの性質を想像することはできぬ。単に或一定の約束の下に一定の現象を起す不知的の或者というより外にない。即ち我々の思惟の要求に由って想像したまでである。しからば思惟は何故にかかる物の存在を仮定せねばならぬか。ただ類似した意識現象がいつも結合して起るというにすぎない。我々が物といっている者の真意義はかくの如くである。純粋経験の上より見れば、意識現象の不変的結合というのが根本的事実であって、物の存在とは説明のために設けられた仮定にすぎぬ。
 いわゆる唯物論者なる者は、物の存在ということを疑のない直接自明の事実であるかのように考えて、これを以て精神現象をも説明しようとしている。しかし少しく考えて見ると、こは本末を転倒しているのである。
 それで純粋経験の上から厳密に考えて見ると、我々の意識現象の外に独立自全の事実なく、バークレーのいったように真に有即知 esse=percipi である。我々の世界は意識現象の事実より組み立てられてある。種々の哲学も科学も皆この事実の説明にすぎない。
 余がここに意識現象というのは或は誤解を生ずる恐がある。意識現象といえば、物体と分れて精神のみ存するということに考えられるかも知れない。余の真意では真実在とは意識現象とも物体現象とも名づけられない者である。またバークレーの有即知というも余の真意に適しない。直接の実在は受動的の者でない、独立自全の活動である。有即活動とでもいった方がよい。
 
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 我々の思想感情の内容は凡て一般的である。幾千年を経過し幾千里を隔てていても思想感情は互に相通ずることができる。たとえば数理の如き者は誰が何時何処に考えても同一である。故に偉大なる人は幾多の人を感化して一団となし、同一の精神を以て支配する。この時これらの人の精神を一と見做みなすことができる。
 次に意識現象を以て唯一の実在となすについて解釈に苦むのは、我々の意識現象は固定せる物ではなく、始終変化する出来事の連続であって見れば、これらの現象は何処より起り、何処に去るかの問題である。しかしこの問題もつまり物には必ず原因結果がなければならぬという因果律の要求より起るのであるから、この問題を考うる前に、先ず因果律の要求とは如何なる者であるかを攻究せねばならぬ。普通には因果律はただちに現象の背後における固定せる物其者そのものの存在を要求するように考えているが、そは誤である。因果律の正当なる意義はヒュームのいったように、或現象の起るには必ずこれに先だつ一定の現象があるというまでであって、現象以上の物の存在を要求するのではない。一現象より他の現象を生ずるというのは、一現象が現象の中に含まれておったのでもなく、またどこか外に潜んでおったのが引き出されるのでもない。ただ充分なる約束即ち原因が具備した時は必ず或現象即ち結果が生ずるというのである。約束がまだ完備しない時これに伴うべき或現象即ち結果なる者はどこにもない。たとえば石を打って火を発する以前に、火はどこにもないのである。或はこれを生ずる力があるというでもあろうが、前にいったように、力とか物とかいうのは説明のために設けられた仮定であって、我々の直接に知る所では、ただ火と全く異なった或現象があるのみである。それで或現象に或現象が伴うというのが我々に直接に与えられたる根本的事実であって、因果律の要求はかえってこの事実に基づいて起ったものである。しかるにこの事実と因果律とが矛盾するように考うるのは、つまり因果律の誤解より起るのである。
 因果律というのは、我々の意識現象の変化を本として、これより起った思惟の習慣であることは、この因果律に由りて宇宙全体を説明しようとすると、すぐに自家撞着じかどうちゃくに陥るのを以て見ても分る。因果律は世界に始がなければならぬと要求する。しかしもしどこかを始と定むれば因果律は更にその原因は如何いかんと尋ねる、即ち自分で自分の不完全なることを明にしているのである。
 終りに、無より有を生ぜぬという因果律の考についても一言して置こう。普通の意味において物がないといっても、主客の別を打破したる直覚の上より見れば、やはり無の意識が実在しているのである。無というのを単に語でなくこれに何か具体的の意味を与えて見ると、一方では或性質の欠乏ということであるが、一方には何らかの積極的性質をもっている(たとえば心理学からいえば黒色も一種の感覚である)。それで物体界にて無より有を生ずると思われることも、意識の事実として見れば無は真の無でなく、意識発展の或一契機であると見ることができる。さらば意識においては如何、無より有を生ずることができるか。意識は時、場所、力の数量的限定の下に立つべき者ではなく、従って機械的因果律の支配を受くべき者ではない。これらの形式はかえって意識統一の上に成立するのである。意識においては凡てが性質的であって、潜勢的一者が己自身を発展するのである。意識はヘーゲルのいわゆる無限 das Unendliche である。
 ここに一種の色の感覚があるとしても、この中に無限の変化を含んでいるといえる、即ち我々の意識が精細となりゆけば、一種の色の中にも無限の変化を感ずるようになる。今日我々の感覚の差別もかくして分化し来れるものであろう。ヴントは感覚の性質を次元にならべているが(Wundt, Grundriss der Psychologie, §5)、元来一の一般的なる者が分化して出来たのであるから、かかる体系があるのだと思う。



 


 
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 純粋経験においては未だ知情意の分離なく、唯一の活動であるように、また未だ主観客観の対立もない。主観客観の対立は我々の思惟の要求より出でくるので、直接経験の事実ではない。直接経験の上においてはただ独立自全の一事実あるのみである、見る主観もなければ見らるる客観もない。恰も我々が美妙なる音楽に心を奪われ、物我相忘れ、天地ただ嚠喨りゅうりょうたる一楽声のみなるが如く、この刹那いわゆる真実在が現前している。これを空気の振動であるとか、自分がこれを聴いているとかいう考は、我々がこの実在の真景を離れて反省し思惟するに由って起ってくるので、この時我々は已に真実在を離れているのである。
 普通には主観客観を別々に独立しうる実在であるかのように思い、この二者の作用に由りて意識現象を生ずるように考えている。従って精神と物体との両実在があると考えているが、これは凡て誤である。主観客観とは一の事実を考察する見方の相違である、精神物体の区別もこの見方より生ずるのであって、事実其者そのものの区別でない。事実上の花は決して理学者のいうような純物体的の花ではない、色や形や香をそなえた美にして愛すべき花である。ハイネが静夜の星を仰いで蒼空における金のびょうといったが、天文学者はこれを詩人の囈語げいごとして一笑に附するのであろうが、星の真相はかえってこの一句の中に現われているかも知れない。
 かくの如く主客の未だ分れざる独立自全の真実在は知情意を一にしたものである。真実在は普通に考えられているような冷静なる知識の対象ではない。我々の情意より成り立った者である。即ち単に存在ではなくして意味をもった者である。それでもしこの現実界から我々の情意を除き去ったならば、もはや具体的の事実ではなく、単に抽象的概念となる。物理学者のいう如き世界は、幅なき線、厚さなき平面と同じく、実際に存在するものではない。この点より見て、学者よりも芸術家の方が実在の真相に達している。我々の見る者聞く者の中に皆我々の個性を含んでいる。同一の意識といっても決して真に同一でない。たとえば同一の牛を見るにしても、農夫、動物学者、美術家に由りて各その心象が異なっておらねばならぬ。同一の景色でも自分の心持に由って鮮明に美しく見ゆることもあれば、陰鬱にして悲しく見ゆることもある。仏教などにて自分の心持次第にてこの世界が天堂ともなり地獄ともなるというが如く、つまり我々の世は我々の情意を本として組み立てられたものである。いかに純知識の対象なる客観的世界であるといっても、この関係を免れることはできぬ。
 科学的に見た世界が最も客観的であって、この中には少しも我々の情意の要素を含んでおらぬように考えている。しかし学問といっても元は我々生存競争上実地の要求より起った者である、決して全然情意の要求を離れた見方ではない。特にエルザレムなどのいうように、科学的見方の根本義である外界に種々の作用をなす力があるという考は、自分の意志より類推したものであると見做みなさねばならぬ(Jerusalem, Einleitung in die Philosophie, 6. Aufl. §27)。それ故に太古の万象を説明するのは凡て擬人的であった、今日の科学的説明はこれより発達したものである。
 我々は主観客観の区別を根本的であると考える処から、知識の中にのみ客観的要素を含み、情意は全く我々の個人的主観的出来事であると考えている。この考は已にその根本的の仮定において誤っている。しかし仮に主客相互の作用に由って現象が生ずるものとしても、色形などいう如き知識の内容も、主観的と見れば主観的である、個人的と見れば個人的である。これに反し情意ということも、外界にかくの如き情意を起す性質があるとすれば客観的根拠をもってくる、情意が全く個人的であるというのは誤である。我々の情意は互に相通じ相感ずることができる。即ち超個人的要素を含んでいるのである。
 我々が個人なる者があって喜怒愛欲の情意を起すと思うが故に、情意が純個人的であるという考も起る。しかし人が情意を有するのでなく、情意が個人を作るのである、情意は直接経験の事実である。
 万象の擬人的説明ということは太古人間の説明法であって、また今日でも純白無邪気なる小児の説明法である。いわゆる科学者は凡てこれを一笑に附し去るであろう、勿論この説明法は幼稚ではあるが、一方より見れば実在の真実なる説明法である。科学者の説明法は知識の一方にのみ偏したるものである。実在の完全なる説明においては知識的要求を満足すると共に情意の要求を度外に置いてはならぬ。
 ()()()()Schiller, Die G※(ダイエレシス付きO小文字)tter Griechenlands ()()
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第四章 真実在は常に同一の形式を有っている


 上にいったように主客を没したる知情意合一の意識状態が真実在である。我々が独立自全の真実在を想起すれば自らこの形において現われてくる。かくの如き実在の真景はただ我々がこれを自得すべき者であって、これを反省し分析し言語に表わしうべき者ではなかろう。しかし我々の種々なる差別的知識とはこの実在を反省するに由って起るのであるから、今この唯一実在の成立する形式を考え、如何にしてこれより種々の差別を生ずるかをあきらかにしようと思う。
 真正の実在は芸術の真意の如く互に相伝うることのできない者である。伝えうべき者はただ抽象的空殻である。我々は同一の言語に由って同一の事を理解し居ると思って居るが、その内容は必ず多少異なっている。
 独立自全なる真実在の成立する方式を考えて見ると、皆同一の形式に由って成立するのである。即ち次の如き形式に由るのである。先ず全体が含蓄的 implicit に現われる、それよりその内容が分化発展する、而してこの分化発展が終った時実在の全体が実現せられ完成せられるのである。一言にていえば、一つの者が自分自身にて発展完成するのである。この方式は我々の活動的意識作用において最も明に見ることができる。意志について見るに、先ず目的観念なる者があって、これより事情に応じてこれを実現するに適当なる観念が体系的に組織せられ、この組織が完成せられし時行為となり、ここに目的が実現せられ、意志の作用が終結するのである。ただに意志作用のみではなく、いわゆる知識作用である思惟想像等について見てもこの通りである。やはり先ず目的観念があってこれより種々の観念聯合を生じ、正当なる観念結合を得た時この作用が完成せらるるのである。
 ジェームスが「意識の流」においていったように、すべて意識は右の如き形式をなしている。たとえば一文章を意識の上に想起するとせよ、その主語が意識上に現われた時すでに全文章を暗に含んでいる。但し客語が現われて来る時その内容が発展実現せらるるのである。
 意志、思惟、想像等の発達せる意識現象については右の形式は明であるが、知覚、衝動等においては一見ただちにその全体を実現して、右の過程を踏まないようにも見える。しかし前にいったように、意識はいかなる場合でも決して単純で受動的ではない、能動的で複合せるものである。しかしてその成立は必ず右の形式に由るのである。主意説のいうように、意志が凡ての意識の原形であるから、凡ての意識はいかに簡単であっても、意志と同一の形式に由って成立するものといわねばならぬ。
 衝動および知覚などと意志および思惟などとの別は程度の差であって、種類の差ではない。前者においては無意識である過程が後者においては意識に自らを現わし来るのであるから、我々は後者より推して前者も同一の構造でなければならぬことを知るのである。我々の知覚というのもその発達から考えて見ると、種々なる経験の結果として生じたのである。例えば音楽などを聴いても、始の中は何の感をも与えないのが、段々耳に馴れてくればその中に明瞭なる知覚をうるようになるのである。知覚は一種の思惟といっても差支ない。
 次に受動的意識と能動的意識との区別より起る誤解についても一言して置かねばならぬ。能動的意識にては右の形式が明であるが、受動的意識では観念を結合する者は外にあり、観念は単に外界の事情に由りて結合せらるるので、或全き者が内より発展完成するのでないように見える。しかし我々の意識は受動と能動とに峻別することはできぬ。これも畢竟ひっきょう程度の差である。聯想または記憶の如き意識作用も全然聯想の法則というが如き外界の事情より支配せらるるものでない、各人の内面的性質がその主動力である、やはり内より統一的或者が発展すると見ることができる。ただいわゆる能動的意識ではこの統一的或者が観念として明に意識の上に浮んでいるが、受動的意識ではこの者が無意識かまたは一種の感情となって働いているのである。
 能動受動の区別、即ち精神が内から働くとか外から働を受けるとかいうことは、思惟に由って精神と物体との独立的存在を仮定し、意識現象は精神と外物との相互の作用より起るものとなすより来るので、純粋経験の事実上における区別ではない。純粋経験の事実上では単に程度の差である。我々が明瞭なる目的観念をっている時は能動と思われるのである。
 経験学派の主張する所に由ると、我々の意識は凡て外物の作用に由りて発達するものであるという。しかしいかに外物が働くにしても、内にこれに応ずる先在的性質がなかったならば意識現象を生ずることはできまい。いかに外より培養するも、種子に発生の力がなかったならば植物が発生せぬと同様である。もとより反対に種子のみあっても植物は発生せぬということもできる。要するにこの双方とも一方を見て他方を忘れたものである。真実在の活動では唯一の者の自発自展である、内外能受の別はこれを説明するために思惟に由って構成したものである。
 凡ての意識現象を同一の形式に由って成立すると考えるのはさほどむずかしいことでもないと信ずるが、更に一歩を進んで、我々が通常外界の現象といっている自然界の出来事をも、同一の形式の下に入れようとするのはすこぶる難事と思われるかも知れない。しかし前にいったように、意識を離れたる純粋物体界という如き者は抽象的概念である、真実在は意識現象の外にない、直接経験の真実在はいつも同一の形式によって成立するということができる。
 普通には固定せる物体なる者が事実として存在するように思うている。しかし実地における事実はいつでも出来事である。希臘ギリシャの哲学者ヘラクレイトスが「万物は流転し何物も止まることなし」Alles fliesst und nichts hat Bestand. といったように、実在は流転して暫くも留まることなき出来事の連続である。
 我々が外界における客観的世界というものも、吾人の意識現象の外になく、やはり或一種の統一作用に由って統一せられた者である。ただこの現象が普遍的である時即ち個人の小なる意識以上の統一を保つ時、我々より独立せる客観的世界と見るのである。たとえばここに一のランプが見える、これが自分のみに見えるならば、或は主観的幻覚とでも思うであろう。ただ各人が同じくこれを認むるに由りて客観的事実となる。客観的独立の世界というのはこの普遍的性質より起るのである。
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第五章 真実在の根本的方式


 我々の経験する所の事実は種々あるようであるが、少しく考えて見ると皆同一の実在であって、同一の方式に由って成り立っているのである。今かくの如きすべての実在の根本的方式について話して見よう。
 先ず凡ての実在の背後には統一的或者の働きおることを認めねばならぬ。或学者は真に単純であって独立せる要素、たとえば元子論者の元子の如き者が根本的実在であると考えている、しかし此の如き要素は説明のために設けられた抽象的概念であって、事実上に存在することはできぬ。試に想え、今ここに何か一つの元子があるならば、そは必ず何らかの性質または作用をもったものでなければならぬ、全く性質または作用なき者は無と同一である。しかるに一つの物が働くというのは必ず他の物に対して働くのである、しかしてこれには必ずこの二つの物を結合して互に相働くを得しめる第三者がなくてはならぬ、たとえば甲の物体の運動が乙に伝わるというには、この両物体の間に力というものがなければならぬ、また性質ということも一の性質が成立するには必ず他に対して成立するのである。たとえば色が赤のみであったならば赤という色は現われようがない、赤が現われるには赤ならざる色がなければならぬ、而して一の性質が他の性質と比較し区別せらるるには、両性質はその根柢において同一でなければならぬ、全く類を異にしその間に何らの共通なる点をもたぬ者は比較し区別することができぬ。かくの如く凡て物は対立に由って成立するというならば、その根柢には必ず統一的或者が潜んでいるのである。
 この統一的或者が物体現象ではこれを外界に存する物力となし、精神現象ではこれを意識の統一力に帰するのであるが、前にいったように、物体現象といい精神現象というも純粋経験の上においては同一であるから、この二種の統一作用は元来、同一種に属すべきものである。我々の思惟意志の根柢における統一力と宇宙現象の根柢における統一力とはただちに同一である、たとえば我々の論理、数学の法則は直に宇宙現象がこれに由りて成立しうる原則である。
 実在の成立には、右にいったようにその根柢において統一というものが必要であると共に、相互の反対むしろ矛盾ということが必要である。ヘラクレイトスがあらそいは万物の父といったように、実在は矛盾に由って成立するのである、赤き物は赤からざる色に対し、働く者はこれをうける者に対して成立するのである。この矛盾が消滅すると共に実在も消え失せてしまう。元来この矛盾と統一とは同一の事柄を両方面より見たものにすぎない、統一があるから矛盾があり、矛盾があるから統一がある。たとえば白と黒とのように凡ての点において共通であって、ただ一点において異なっている者が互に最も反対となる、これに反し徳と三角というように明了の反対なき者はまた明了なる統一もない。最も有力なる実在は種々の矛盾を最も能く調和統一した者である。
 統一する者と統一せらるる者とを別々に考えるのは抽象的思惟に由るので、具体的実在にてはこの二つの者を離すことはできない。一本の樹とは枝葉根幹の種々異なりたる作用をなす部分を統一した上に存在するが、樹は単に枝葉根幹の集合ではない、樹全体の統一力が無かったならば枝葉根幹も無意義である。樹はその部分の対立と統一との上に存するのである。
 統一力と統一せらるる者と分離した時には実在とならない。たとえば人が石を積みかさねたように、石と人とは別物である、かかる時に石の積みかさねは人工的であって、独立の一実在とはならない。
 そこで実在の根本的方式は一なると共に多、多なると共に一、平等の中に差別を具し、差別の中に平等を具するのである。而してこの二方面は離すことのできないものであるから、つまり一つの者の自家発展ということができる。独立自全の真実在はいつでもこの方式を具えている、しからざる者は皆我々の抽象的概念である。
 実在は自分にて一の体系をなした者である。我々をして確実なる実在と信ぜしむる者はこの性質に由るのである。これに反し体系を成さぬ事柄はたとえば夢の如くこれを実在とは信ぜぬのである。
 右の如く真に一にして多なる実在は自動不息でなければならぬ。静止の状態とは他と対立せぬ独存の状態であって、即ち多を排斥したる一の状態である。しかしこの状態にて実在は成立することはできない。もし統一に由って或一つの状態が成立したとすれば、直にここに他の反対の状態が成立しておらねばならぬ。一の統一が立てば直にこれを破る不統一が成立する。真実在はかくの如き無限の対立を以て成立するのである。物理学者は勢力保存などといって実在に極限があるかのようにいっているが、こは説明の便宜上に設けられた仮定であって、かくの如き考はあたかも空間に極限があるというと同じく、ただ抽象的に一方のみを見て他方を忘れていたのである。
 活きた者は皆無限の対立を含んでいる、即ち無限の変化を生ずる能力をもったものである。精神を活物というのは始終無限の対立を存し、停止する所がない故である。もしこれが一状態に固定して更に他の対立に移る能わざる時は死物である。
 実在はこれに対立する者に由って成立するというが、この対立は他より出で来るのではなく、自家の中より生ずるのである。前にいったように対立の根柢には統一があって、無限の対立は皆自家の内面的性質より必然の結果として発展し来るので、真実在は一つの者の内面的必然より起る自由の発展である。たとえば空間の限定に由って種々の幾何学的形状ができ、これらの形は互に相対立して特殊の性質を保っている。しかし皆別々に対立するのではなくして、空間という一者の必然的性質に由りて結合せられている、即ち空間的性質の無限の発展であるように、我々が自然現象といっている者について見ても、実際の自然現象なる者は前にもいったように個々独立の要素より成るのではなく、また我々の意識現象を離れて存在するのではない。やはり一の統一的作用によりて成立するので、一自然の発展と看做みなすべきものである。
 ヘーゲルは何でも理性的なる者は実在であって、実在は必ず理性的なる者であるといった。この語は種々の反対をうけたにも拘らず、見方に由っては動かすべからざる真理である。宇宙の現象はいかに些細なる者であっても、決して偶然に起り前後に全く何らの関係をもたぬものはない。必ず起るべき理由を具して起るのである。我らはこれを偶然と見るのは単に知識の不足より来るのである。
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 意識の結合には知覚の如き同時の結合、聯想思惟の如き継続的結合、および自覚の如き一生に亙れる結合も皆程度の差異であって、同一の性質より成り立つ者である。
 意識現象は時々刻々に移りゆくもので、同一の意識が再び起ることはない。昨日の意識と今日の意識とは、よしその内容において同一なるにせよ、全然異なった意識であるという考は、直接経験の立脚地より見たのではなくて、かえって時間という者を仮定し、意識現象はその上に顕われる者として推論した結果である。意識現象が時間という形式に由って成立する者とすれば、時間の性質上一たび過ぎ去った意識現象は再び還ることはできぬ。時間はただ一つの方向を有するのみである。たとい全く同一の内容を有する意識であっても、時間の形式上すでに同一とはいわれないこととなる。しかし今直接経験の本に立ち還って見ると、これらの関係は全く反対とならねばならぬ。時間というのは我々の経験の内容を整頓する形式にすぎないので、時間という考の起るには先ず意識内容が結合せられ統一せられて一となることができねばならぬ。然らざれば前後を連合配列して時間的に考えることはできない。されば意識の統一作用は時間の支配を受けるのではなく、かえって時間はこの統一作用に由って成立するのである。意識の根柢には時間の外に超越せる不変的或者があるといわねばならぬことになる。
 直接経験より見れば同一内容の意識はただちに同一の意識である、真理は何人が何時代に考えても同一であるように、我々の昨日の意識と今日の意識とは同一の体系に属し同一の内容を有するが故に、直に結合せられて一意識と成るのである。個人の一生という者は此の如き一体系を成せる意識の発展である。
 この点より見れば精神の根柢には常に不変的或者がある。この者が日々その発展を大きくするのである。時間の経過とはこの発展に伴う統一的中心点が変じてゆくのである、この中心点がいつでも「今」である。
 右にいったように意識の根柢に不変の統一力が働いているとすれば、この統一力なる者は如何なる形において存在するか、いかにして自分を維持するかの疑が起るであろう。心理学では此の如き統一作用の本を脳という物質に帰している。しかしかつていったように、意識外に独立の物体を仮定するのは意識現象の不変的結合より推論したので、これよりも意識内容の直接の結合という統一作用が根本的事実である。この統一力は或他の実在よりして出できたるのではなく、実在はかえってこの作用に由りて成立するのである。人は皆宇宙に一定不変の理なる者あって、万物はこれに由りて成立すると信じている。この理とは万物の統一力であって兼ねてまた意識内面の統一力である、理は物や心に由って所持せられるのではなく、理が物心を成立せしむるのである。理は独立自存であって、時間、空間、人に由って異なることなく、顕滅用不用に由りて変ぜざる者である。
 普通に理といえば、我々の主観的意識上の観念聯合を支配する作用と考えられている。しかしかくの如き作用は理の活動の足跡であって、理其者そのものではない。理其者は創作的であって、我々はこれになりきりこれに即して働くことができるが、これを意識の対象として見ることのできないものである。
 普通の意義において物が存在するということは、或場処或時において或形において存在するのである。しかしここにいう理の存在というのはこれと類を異にしている。此の如く一処に束縛せらるるものならば統一の働をなすことはできない、かくの如き者は活きた真の理でない。
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 前にもいったように、個人と個人との意識の連結と、一個人において昨日の意識と今日の意識との連結とは同一である。前者は外より間接に結合せられ、後者は内より直に結合するように見ゆるが、もし外より結合せらるるように見れば、後者も或一種の内面的感覚の符徴によりて結合せらるるので、個人間の意識が言語等の符徴に由って結合せらるるのと同一である。もし内より結合せらるるように見れば、前者においても個人間に元来同一の根柢あればこそ直に結合せられるのである。
 我々のいわゆる客観的世界と名づけている者も、幾度か言ったように、我々の主観を離れて成立するものではなく、客観的世界の統一力と主観的意識の統一力とは同一である、即ちいわゆる客観的世界も意識も同一の理に由って成立するものである。この故に人は自己の中にある理に由って宇宙成立の原理を理会することができるのである。もし我々の意識の統一と異なった世界があるとするも、此の如き世界は我々と全然没交渉の世界である。いやしくも我々の知り得る、理会し得る世界は我々の意識と同一の統一力の下に立たねばならぬ。
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第七章 実在の分化発展


 意識を離れて世界ありという考より見れば、万物は個々独立に存在するものということができるかも知らぬが、意識現象が唯一の実在であるという考より見れば、宇宙万象の根柢には唯一の統一力あり、万物は同一の実在の発現したものといわねばならぬ。我々の知識が進歩するに従って益々この同一の理あることを確信するようになる。今この唯一の実在より如何にして種々の差別的対立を生ずるかを述べて見よう。
 実在は一に統一せられていると共に対立を含んでおらねばならぬ。ここに一の実在があれば必ずこれに対する他の実在がある。而してかくこの二つの物が互に相対立するには、この二つの物が独立の実在ではなくして、統一せられたるものでなければならぬ、即ち一の実在の分化発展でなければならぬ。しかしてこの両者が統一せられて一の実在として現われた時には、更に一の対立が生ぜねばならぬ。しかしこの時この両者の背後に、また一の統一が働いておらねばならぬ。かくして無限の統一に進むのである。これを逆に一方より考えて見れば、無限なる唯一実在が小より大に、浅より深に、自己を分化発展するのであると考えることができる。かくの如き過程が実在発現の方式であって、宇宙現象はこれに由りて成立し進行するのである。
 かくの如き実在発展の過程は我々の意識現象についてあきらかにこれを見ることができる。たとえば意志について見ると、意志とは或理想を現実にせんとするので、現在と理想との対立である。しかしこの意志が実行せられ理想と一致した時、この現在は更に他の理想と対立して新なる意志が出でくる。かくして我々の生きている間は、どこまでも自己を発展し実現しゆくのである。次に生物の生活および発達について見ても、此の如き実在の方式を認むることができる。生物の生活は実に斯の如き不息の活動である。ただ無生物の存在はちょっとこの方式にあてはめて考えることが困難であるように見えるが、このことについては後に自然を論ずる時に話すこととしよう。
 さて右に述べたような実在の根本的方式より、如何にして種々なる実在の差別を生ずるのであるか。先ずいわゆる主観客観の別は何から起ってくるか。主観と客観とは相離れて存在するものではなく、一実在の相対せる両方面である、即ち我々の主観というものは統一的方面であって、客観というのは統一せらるる方面である、我とはいつでも実在の統一者であって、物とは統一せられる者である(ここに客観というのは我々の意識より独立せる実在という意義ではなく、単に意識対象の意義である)。たとえば我々が何物かを知覚するとか、もしくは思惟するとかいう場合において、自己とは彼此ひし相比較し統一する作用であって、物とはこれに対して立つ対象である、即ち比較統一の材料である。後の意識より前の意識を見た時、自己を対象として見ることができるように思うが、その実はこの自己とは真の自己ではなく、真の自己は現在の観察者即ち統一者である。この時は前の統一はすでに一たび完結し、次の統一の材料としてこの中に包含せられたものと考えねばならぬ。自己はかくの如く無限の統一者である、決してこれを対象として比較統一の材料とすることのできない者である。
 心理学から見ても吾人の自己とは意識の統一者である。而して今意識が唯一の真実在であるという立脚地より見れば、この自己は実在の統一者でなければならぬ。心理学ではこの統一者である自己なる者が、統一せらるるものから離れて別に存在するようにいえども、此の如き自己は単に抽象的概念にすぎない。事実においては、物を離れて自己あるのではなく、我々の自己は直に宇宙実在の統一力その者である。
 精神現象、物体現象の区別というのも決して二種の実在があるのではない。精神現象というのは統一的方面即ち主観の方から見たので、物体現象とは統一せらるる者即ち客観の方から見たのである。ただ同一実在を相反せる両方面より見たのにすぎない。それで統一の方より見ればすべてが主観に属して精神現象となり、統一を除いて考えれば凡てが客観的物体現象となる(唯心論、唯物論の対立はかくの如き両方面の一を固執せるより起るのである)。
 次に能動所動の差別は何から起ってくるか。能動所動ということも実在に二種の区別があるのではなく、やはり同一実在の両方面である、統一者がいつでも能動であって、被統一者がいつでも所動である。たとえば意識現象について見ると、我々の意志が働いたというのは意志の統一的観念即ち目的が実現せられたというので、即ち統一が成立したことである。その外凡て精神が働いたということは統一の目的を達したということで、これができなくって他より統一せられた時には所動というのである。物体現象においても甲の者が乙に対して働くということは、甲の性質の中に乙の性質を包含し統括し得た場合をいうのである。かくの如く統一が即ち能動の真意義であって、我々が統一の位置にある時は能動的で、自由である。これに反して他より統一せられた時は所動的で、必然法の下に支配せられたこととなる。
 普通では時間上の連続において先だつ者が能動者と考えられているが、時間上に先だつ者が必ずしも能動者ではない、能動者は力をもったものでなければならぬ。而して力というのは実在の統一作用をいうのである。たとえば物体の運動は運動力より起るという、然るにこの力というのはつまり或現象間の不変的関係をさすので、即ちこの現象を連結綜合する統一者をいうのである。而して厳密なる意義においてはただ精神のみ能動である。
 次に無意識と意識との区別について一言せん。主観的統一作用は常に無意識であって、統一の対象となる者が意識内容として現われるのである。思惟について見ても、また意志についてみても、真の統一作用その者はいつも無意識である。ただこれを反省して見た時、この統一作用は一の観念として意識上に現われる。しかしこの時は已に統一作用ではなくして、統一の対象となっているのである。前にいったように、統一作用はいつでも主観であるから、従っていつでも無意識でなければならぬ。ハルトマンも無意識が活動であるといっているように、我々が主観の位置に立ち活動の状態にある時はいつも無意識である。これに反し或意識を客観的対象として意識した時には、その意識は已に活動を失ったものである。たとえば或芸術の修錬についても、一々の動作を意識している間は未だ真に生きた芸術ではない、無意識の状態に至って始めて生きた芸術となるのである。
 心理学より見て精神現象は凡て意識現象であるから、無意識なる精神現象は存在せぬという非難がある。しかし我々の精神現象は単に観念の連続でない、必ずこれを連結統一する無意識の活動があって、始めて精神現象が成立するのである。
 最後に現象と本体との関係について見ても、やはり実在の両方面の関係と見て説明することができる。我々が物の本体といっているのは実在の統一力をいうのであって、現象とはその分化発展せる対立の状態をいうのである。たとえばここに机の本体が存在するというのは、我々の意識がいつでも或一定の結合に由って現ずるということで、ここに不変の本体というのはこの統一力をさすのである。
 かくいえば真正の主観が実在の本体であると言わねばならぬ事になる、然るに我々は通常かえって物体は客観にあると考えている。しかしこれは真正の主観を考えないで抽象的主観を考えるに由るのである。此の如き主観は無力なる概念であって、これに対しては物の本体はかえって客観に属するといった方が至当である。しかし真正にいえば主観を離れた客観とはまた抽象的概念であって、無力である。真に活動せる物の本体というのは、実在成立の根本的作用である統一力であって、即ち真正の主観でなければならぬ。
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第八章 自然


 実在はただ一つあるのみであって、その見方の異なるに由りて種々の形を呈するのである。自然といえば全然我々の主観より独立した客観的実在であると考えられている、しかし厳密に言えば、かくの如き自然は抽象的概念であって決して真の実在ではない。自然の本体はやはり未だ主客の分れざる直接経験の事実であるのである。たとえば我々が真に草木として考うる物は、生々たる色と形とを具えた草木であって、我々の直覚的事実である。ただ我々がこの具体的実在よりしばらく主観的活動の方面を除去して考えた時は、純客観的自然であるかのように考えられるのである。而して科学者のいわゆる最も厳密なる意味における自然とは、この考え方を極端にまで推し進めた者であって、最抽象的なる者即ち最も実在の真景を遠ざかった者である。
 自然とは、具体的実在より主観的方面、即ち統一作用を除き去ったものである。それ故に自然には自己がない。自然はただ必然の法則に従って外より動かされるのである、自己より自動的に働くことができないのである。それで自然現象の連結統一は精神現象においてのように内面的統一ではなく、単に時間空間上における偶然的連結である。いわゆる帰納法に由って得たる自然法なる者は、或両種の現象が不変的連続において起るから、一は他の原因であると仮定したまでであって、如何に自然科学が進歩しても、我々はこれ以上の説明を得ることはできぬ。ただこの説明が精細に且つ一般的となるまでである。
 現今科学の趨勢すうせいはできるだけ客観的ならんことをつとめている。それで心理現象は生理的に、生理現象は化学的に、化学現象は物理的に、物理現象は機械的に説明せねばならぬこととなる。かくの如き説明の基礎となる純機械的説明とはいかなる者であるか。純物質とは全く我々の経験のできない実在である、いやしくもこれについて何らかの経験のできうる者ならば、意識現象として我々の意識の上に現われ来る者でなければならぬ。然るに意識の事実として現われきたる者はことごとく主観的であって、純客観的なる物質とはいわれない、純物質というのは何らの捕捉すべき積極的性質もない、単に空間時間運動という如き純数量的性質のみを有する者で、数学上の概念の如く全く抽象的概念にすぎないのである。
 物質は空間を充す者として恰もこれを直覚しうるかのように考えているが、しかし我々が具体的に考えうる物の延長ということは、触覚および視覚の意識現象にすぎない。我々の感覚に大きく見えるとも必ずしも物質が多いとはいわれぬ。物理学上物質の多少はつまりその力の大小に由りて定まるので、即ち彼此ひしの作用的関係より推理するのである、決して直覚的事実ではない。
 また右の如く自然を純物質的に考えれば動物、植物、生物の区別もなく、すべて同一なる機械力の作用というの外なく、自然現象は何らの特殊なる性質および意義を有せぬものとなる。人間も土塊も何の異なる所もない。然るに我々が実際に経験する真の自然は決して右にいったような抽象的概念でなく、従って単に同一なる機械力の作用でもない。動物は動物、植物は植物、金石は金石、それぞれ特色と意義とを具えた具体的事実である。我々のいわゆる山川草木虫魚禽獣というものは、皆斯の如くそれぞれの個性を具えた者で、これを説明するには種々の立脚地より、種々に説明することもできるが、この直接に与えられたる直覚的事実の自然は到底動かすことのできない者である。
 我々が普通に純機械的自然を真に客観的実在となし、直接経験における具体的自然を主観的現象となすのは、凡て意識現象は自己の主観的現象であるという仮定より推理した考である。しかし幾度もいったように、我々は全然意識現象より離れた実在を考えることはできぬ。もし意識現象に関係あるが故に主観的であるというならば、純機械的自然も主観的である、空間、時間、運動という如きも我々の意識現象を離れては考えることはできない。ただ比較的に客観的であるので絶対的に客観的であるのではない。
 真に具体的実在としての自然は、全く統一作用なくして成立するものではない。自然もやはり一種の自己を具えているのである。一本の植物、一匹の動物もその発現する種々の形態変化および運動は、単に無意義なる物質の結合および機械的運動ではなく、一々その全体と離すべからざる関係をもっているので、つまり一の統一的自己の発現と看做みなすべきものである。たとえば動物の手足鼻口等凡て一々動物生存の目的と密接なる関係があって、これを離れてその意義を解することはできぬ。少くとも動植物の現象を説明するには、かくの如き自然の統一力を仮定せねばならぬ。生物学者は凡て生活本能を以て生物の現象を説明するのである。ただに生物にのみ此の如き統一作用があるのではなく、無機物の結晶においてもすでに多少この作用が現われている。即ち凡ての鉱物は皆特有の結晶形を具えているのである。自然の自己即ち統一作用は此の如く無機物の結晶より動植物の有機体に至ってますますあきらかとなるのである(真の自己は精神に至って始めて現われる)。
 現今科学の厳密なる機械的説明の立脚地より見れば、有機体の合目的発達も畢竟ひっきょう物理および化学の法則より説明されねばならぬ。即ち単に偶然の結果にすぎないこととなる。しかし斯の如き考はあまり事実を無視することになるから、科学者は潜勢力という仮定をもってこれを説明しようとする。即ち生物の卵または種にはそれぞれの生物を発生する潜勢力をもっているという、この潜勢力が即ち今のいわゆる自然の統一力に相当するのである。
 自然の説明の上において、機械力の外に斯の如き統一力の作用を許すとするも、この二つの説明が衝突する必要はない。かえって両者相待って完全なる自然の説明ができるのである。たとえばここに一の銅像があるとせよ、その材料たる銅としては物理化学の法則に従うでもあろうが、こは単に銅の一塊と見るべき者ではなく、我々の理想を現わしたる美術品である。即ち我々の理想の統一力に由りて現われたるものである。しかしこの理想の統一作用と材料其者そのものを支配する物理化学の法則とは自ら別範囲に属し、決して相犯すはずのものではない。
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 ゲーテは生物の研究に潜心し、今日の進化論の先駆者であった。氏の説に由ると自然現象の背後には本源的現象 Urph※(ダイエレシス付きA小文字)nomen なる者がある。詩人はこれを直覚するのである。種々の動物植物はこの本源的現象たる本源的動物、本源的植物の変化せる者であるという。現に今日の動植物の中に一定不変の典型がある。氏はこの説に基づいて、凡て生物は進化し来ったものであることを論じたのである。
 然らば自然の背後に潜める統一的自己とは如何なる者であるか。我々は自然現象をば我々の主観と関係なき純客観的現象であると考えているが故に、この自然の統一力も我々の知り得べからざる不可知的或者と考えられている。しかし已に論じたように、真実在は主観客観の分離しないものである、実際の自然は単に客観的一方という如き抽象的概念ではなく、主客を具したる意識の具体的事実である。従ってその統一的自己は我々の意識と何らの関係のない不可知的或者ではなく、実に我々の意識の統一作用その者である。この故に我々が自然の意義目的を理会するのは、自己の理想および情意の主観的統一に由るのである。たとえば我々が能く動物の種々の機関および動作の本によこたわれる根本的意義を理会するのは、自分の情意を以て直にこれを直覚するので、自分に情意がなかったならば到底動物の根本的意義を理会する事はできぬ。我々の理想および情意が深遠博大となるに従って、いよいよ自然の真意義を理会することができる。これを要するに我々の主観的統一と自然の客観的統一力とはもと同一である。これを客観的に見れば自然の統一力となり、これを主観的に見れば自己の知情意の統一となるのである。
 物力という如き者は全く吾人の主観的統一に関係がないと信ぜられている。勿論これは最も無意義の統一でもあろう、しかしこれとても全然主観的統一を離れたものではない、我々が物体の中に力あり、種々の作用をなすということは、つまり自己の意志作用を客観的に見たのである。
 普通には、我々が自己の理想または情意を以て自然の意義を推断するというのは単に類推であって、確固たる真理でないと考えられている。しかしこは主観客観を独立に考え、精神と自然とを二種の実在となすより起るのである。純粋経験の上からいえば直にこれを同一と見るのが至当である。
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第九章 精神


 自然は一見我々の精神より独立せる純客観的実在であるかのように見ゆるが、その実は主観を離れた実在ではない。いわゆる自然現象をばその主観的方面即ち統一作用の方より見ればすべて意識現象となる。たとえばここに一個の石がある、この石を我々の主観より独立せる或不可知的実在の力に由りて現じた者とすれば自然となる。しかしこの石なる者を直接経験の事実としてただちにこれを見れば、単に客観的に独立せる実在ではなく、我々の視覚触覚等の結合であって、即ち我々の意識統一に由って成立する意識現象である。それでいわゆる自然現象をば直接経験の本に立ち返って見ると、凡て主観的統一に由って成立する自己の意識現象となる。唯心論者が世界は余の観念なりというのはこの立脚地より見たのである。
 我々が同一の石を見るという時、各人が同一の観念をっていると信じている。しかしその実は各人の性質経験に由って異なっているのである。故に具体的実在は凡て主観的個人的であって、客観的実在という者はなくなる。客観的実在というのは各人に共通なる抽象的概念にすぎない。
 然らば我々が通常自然に対して精神といっている者は何であるか。即ち主観的意識現象とは如何なる者であるか、いわゆる精神現象とはただ実在の統一的方面、即ち活動的方面を抽象的に考えたものである。前にいったように、実在の真景においては主観、客観、精神、物体の区別はない、しかし実在の成立には凡て統一作用が必要である。この統一作用なる者はもとより実在を離れて特別に存在するものではないが、我々がこの統一作用を抽象して、統一せらるる客観に対立せしめて考えた時、いわゆる精神現象となるのである。たとえばここに一つの感覚がある、しかしこの一つの感覚は独立に存在するものではない、必ず他と対立の上において成立するのである、即ち他と比較し区別せられて成立するのである。この比較区別の作用即ち統一的作用が我々のいわゆる精神なる者である。それでこの作用が進むと共に、精神と物体との区別が益々著しくなってくる。子供の時には我々の精神は自然的である、従って主観の作用が微弱である。然るに成長するに従って統一的作用が盛になり、客観的自然より区別せられた自己の心なる者を自覚するようになるのである。
 普通には我々の精神なる者は、客観的自然と区別せられたる独立の実在であると考えている。しかし精神の主観的統一を離れた純客観的自然が抽象的概念であるように、客観的自然を離れた純主観的精神も抽象的概念である。統一せらるる者があって、統一する作用があるのである。仮に外界における物の作用を感受する精神の本体があるとするも、働く物があって、感ずる心があるのである。働かない精神その者は、働かない物その者の如く不可知的である。
 然らば何故に実在の統一作用が特にその内容即ち統一せらるべき者より区別せられて、恰も独立の実在であるかのように現わるるのであるか。そは疑もなく実在における種々の統一の矛盾衝突より起るのである。実在には種々の体系がある、即ち種々の統一がある、この体系的統一が相衝突し相矛盾した時、この統一があきらかに意識の上に現われてくるのである。衝突矛盾のある処に精神あり、精神のある処には矛盾衝突がある。たとえば我々の意志活動について見ても、動機の衝突のない時には無意識である、即ちいわゆる客観的自然に近いのである。しかし動機の衝突が著しくなるに従って意志が明瞭に意識せられ、自己の心なる者を自覚することができる。然らばどこよりこの体系の矛盾衝突が起るか、こは実在その物の性質より起るのである。かつていったように、実在は一方において無限の衝突であると共に、一方においてまた無限の統一である。衝突は統一に欠くべからざる半面である。衝突に由って我々は更に一層大なる統一に進むのである。実在の統一作用なる我々の精神が自分を意識するのは、その統一が活動し居る時ではなく、この衝突の際においてである。
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 我々の精神とは実在の統一作用であるとして見ると、実在には凡て統一がある、即ち実在には凡て精神があるといわねばならぬ。然るに我々は無生物と生物とを分ち、精神のある者と無い物とを区別するのは何に由るのであるか。厳密にいえば、凡ての実在には精神があるといってよい、前にいったように自然においても統一的自己がある、これが即ち我々の精神と同一なる統一力である。たとえばここに一本の樹という意識現象が現われたとすれば、普通にはこれを客観的実在として自然力に由りて成立する者と考えるのであるが、意識現象の一体系をなせる者と見れば、意識の統一作用によりて成立するのである。しかしいわゆる無心物においては、この統一的自己が未だ直接経験の事実として現実に現われていない。樹其者そのものは自己の統一作用を自覚していない、その統一的自己は他の意識の中にあって樹其者の中にはない、即ち単に外面より統一せられた者で、未だ内面的に統一せる者ではない。この故に未だ独立自全の実在とはいわれぬ。動物ではこれに反し、内面的統一即ち自己なる者が現実に現われている、動物の種々なる現象(たとえばその形態動作)は皆この内面的統一の発表と見ることができる。実在は凡て統一に由って成立するが、精神においてその統一が明瞭なる事実として現われるのである。実在は精神において始めて完全なる実在となるのである、即ち独立自全の実在となるのである。
 いわゆる精神なき者にあっては、その統一は外より与えられたので、自己の内面的統一でない。それ故に見る人によりてその統一を変ずることができる。たとえば普通には樹という統一せられたる一実在があると思うているが、化学者の眼から見れば一の有機的化合物であって、元素の集合にすぎない、別に樹という実在は無いともいいうる。しかし動物の精神はかくることができぬ、動物の肉体は植物と同じく化合物と看ることもできるであろうが、精神其者は見る人の随意にこれを変ずることはできない、これをいかに解釈するにしても、とにかく事実上動かすべからざる一の統一を現わしているのである。
 今日の進化論において無機物、植物、動物、人間というように進化するというのは、実在が漸々その隠れたる本質を現実として現わしきたるのであるということができる。精神の発展において始めて実在成立の根本的性質が現われてくるのである。ライプニッツのいったように発展 evolution は内展 involution である。
 精神の統一者である我々の自己なる者は元来実在の統一作用である。一派の心理学では我々の自己は観念および感情の結合にすぎない、これらの者を除いて外に自己はないというが、こは単に分析の方面のみより見て統一の方面を忘れているのである。凡て物を分析して考えて見れば、統一作用を認むることはできない、しかしこの故に統一作用を無視することはできぬ。物は統一に由りて成立するのである、観念感情も、これをして具体的実在たらしむるのは統一的自己の力によるのである。この統一力即ち自己は何処より来るかというに、つまり実在統一力の発現であって、即ち永久不変の力である。我々の自己は常に創造的で自由で無限の活動と感ぜらるるのはこの為である。前にいったように、我々が内に省みて何だか自己という一種の感情あるが如くに感ずるのは真の自己でない。此の如き自己は何の活動もできないのである。ただ実在の統一が内に働く時において、我々は自己の理想の如く実在を支配し、自己が自由の活動をなしつつあると感ずるのである。しかしてこの実在の統一作用は無限であるから、我々の自己は無限であって宇宙を包容するかのように感ぜられるのである。
 余がさきに出立した純粋経験の立場より見れば、ここにいうような実在の統一作用なる者は単に抽象的観念であって、直接経験の事実ではないように思われるかも知れない。しかし我々の直接経験の事実は観念や感情ではなくて意志活動である、この統一作用は直接経験に欠くべからざる要素である。
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 普通には精神現象と物体現象とを内外に由りて区別し、前者は内に後者は外にあると考えている。しかしかくの如き考は、精神が肉体の中にあるという独断より起るので、直接経験より見れば凡て同一の意識現象であって、内外の区別があるのではない。我々が単に内面的なる主観的精神といって居る者は極めて表面的なる微弱なる精神である、即ち個人的空想である。これに反して大なる深き精神は宇宙の真理に合したる宇宙の活動その者である。それでかくの如き精神には自ら外界の活動を伴うのである、活動すまいと思うてもできないのである。美術家の神来の如きはその一例である。
 最後に人心の苦楽について一言しよう。一言にていえば、我々の精神が完全の状態即ち統一の状態にある時が快楽であって、不完全の状態即ち分裂の状態にある時が苦痛である。右にいった如く精神は実在の統一作用であるが、統一の裏面には必ず矛盾衝突を伴う。この矛盾衝突の場合には常に苦痛である、無限なる統一的活動は直にこの矛盾衝突を脱して更に一層大なる統一に達せんとするのである。この時我々の心に種々の欲望を生じ理想を生ずる。而してこの一層大なる統一に達し得たる時即ち我々の欲望または理想を満足し得た時は快楽となるのである。故に快楽の一面には必ず苦痛あり、苦痛の一面には必ず快楽が伴う、かくして人心は絶対に快楽に達することはできまいが、ただ努めて客観的となり自然と一致する時には無限の幸福を保つことができる。
 心理学者は我々の生活を助くる者が快楽であって、これを妨ぐる者が苦痛であるという。生活とは生物の本性の発展であって、即ち自己の統一の維持である、やはり統一を助くる者が快楽で、これを害する者が苦痛であるというのと同一である。
 前にいったように精神は実在の統一作用であって、大なる精神は自然と一致するのであるから、我々は小なる自己を以て自己となす時には苦痛多く、自己が大きくなり客観的自然と一致するに従って幸福となるのである。
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第十章 実在としての神


 これまで論じた所に由って見ると、我々が自然と名づけている所の者も、精神といっている所の者も、全く種類を異にした二種の実在ではない。つまり同一実在を見る見方の相違に由って起る区別である。自然を深く理解せば、その根柢において精神的統一を認めねばならず、また完全なる真の精神とは自然と合一した精神でなければならぬ、即ち宇宙にはただ一つの実在のみ存在するのである。而してこの唯一実在はかつていったように、一方においては無限の対立衝突であると共に、一方においては無限の統一である、一言にていえば独立自全なる無限の活動である。この無限なる活動の根本をば我々はこれを神と名づけるのである。神とは決してこの実在の外に超越せる者ではない、実在の根柢がただちに神である、主観客観の区別を没し、精神と自然とを合一した者が神である。
 いずれの時代でも、いずれの人民でも、神という語をもたない者はない。しかし知識の程度および要求の差異に由って種々の意義に解せられている。いわゆる宗教家の多くは神は宇宙の外に立ちてしかもこの宇宙を支配する偉大なる人間の如き者と考えている。しかしかくの如き神の考は甚だ幼稚であって、ただに今日の学問知識と衝突するばかりでなく、宗教上においても此の如き神と我々人間とは内心における親密なる一致を得ることはできぬと考える。しかし今日の極端なる科学者のように、物体が唯一の実在であって物力が宇宙の根本であると考えることもできぬ。上にいったように、実在の根柢には精神的原理があって、この原理が即ち神である。印度インド宗教の根本義であるようにアートマンとブラマンとは同一である。神は宇宙の大精神である。
 古来神の存在を証明するに種々の議論がある。或者はこの世界は無より始まることはできぬ、何者かこの世界を作った者がなければならぬ、かくの如き世界の創造者が神であるという。即ち因果律に基づいてこの世界の原因を神であるとするのである。或者はこの世界は偶然に存在する者ではなくして一々意味をもった者である、即ち或一定の目的に向って組織せられたものであるという事実を根拠として、何者かかくの如き組織を与えた者がなければならぬと推論し、此の如き宇宙の指導者が即ち神であるという、即ち世界と神との関係を芸術の作品と芸術家の如くに考えるのである。これらは皆知識の方より神の存在を証明し、かつその性質を定めんとする者であるが、そのほか全く知識を離れて、道徳的要求の上より神の存在を証明せんとする者がある。これらの人のいう所に由れば、我々人間には道徳的要求なる者がある、即ち良心なる者がある、然るにもしこの宇宙に勧善懲悪の大主宰者が無かったならば、我々の道徳は無意義のものとなる、道徳の維持者として是非、神の存在を認めねばならぬというのである、カントの如きはこの種の論者である。しかしこれらの議論は果して真の神の存在を証明し得るであろうか。世界に原因がなければならぬから、神の存在を認めねばならぬというが、もし因果律を根拠としてかくの如くいうならば、何故に更に一歩を進んで神の原因を尋ぬることはできないか。神は無始無終であって原因なくして存在するというならば、この世界も何故にそのように存在するということはできないか。また世界が或目的に従うて都合よく組織せられてあるという事実から、全智なる支配者がなければならぬと推理するには、事実上宇宙の万物がことごとく合目的に出来て居るということを証明せねばならぬ、しかしこはすこぶる難事である。もしかくの如きことが証明せられねば、神の存在が証明できぬというならば、神の存在は甚だ不確実となる。或人はこれを信ずるであろうが、或人はこれを信ぜぬであろう。且つこの事が証明せられたとしても我々はこの世界が偶然に斯く合目的に出来たものと考えることを得るのである。道徳的要求より神の存在を証明せんとするのは、尚更に薄弱である。全知全能の神なる者があって我々の道徳を維持するとすれば、我々の道徳に偉大なる力を与えるには相違ないが、我々の実行上かく考えた方が有益であるからといって、かかる者がなければならぬという証明にはならぬ。此の如き考は単に方便と見ることもできる。これらの説はすべて神を間接に外より証明せんとするので、神その者を自己の直接経験において直にこれを証明したのではない。
 然らば我々の直接経験の事実上において如何に神の存在を求むることができるか。時間空間の間に束縛せられたる小さき我々の胸の中にも無限の力が潜んでいる。即ち無限なる実在の統一力が潜んでいる、我々はこの力を有するが故に学問において宇宙の真理を探ることができ、芸術において実在の真意を現わすことができる、我々は自己の心底において宇宙を構成する実在の根本を知ることができる、即ち神の面目を捕捉することができる。人心の無限に自在なる活動は直に神その者を証明するのである。ヤコブ・ベーメのいったようにひるがえされたる眼 umgewandtes Auge を以て神を見るのである。
 神を外界の事実の上に求めたならば、神は到底仮定の神たるを免れない。また宇宙の外に立てる宇宙の創造者とか指導者とかいう神は真に絶対無限なる神とはいわれない。上古における印度の宗教および欧州の十五、六世紀の時代に盛であった神秘学派は神を内心における直覚に求めている、これが最も深き神の知識であると考える。
 神は如何なる形において存在するか、一方より見れば神はニコラウス・クザヌスなどのいったようにすべての否定である、これといって肯定すべき者即ち捕捉すべき者は神でない、もしこれといって捕捉すべき者ならばすでに有限であって、宇宙を統一する無限の作用をなすことはできないのである(De docta ignorantia, Cap. 24)。この点より見て神は全く無である。然らば神は単に無であるかというに決してそうではない。実在成立の根柢には歴々として動かすべからざる統一の作用が働いている。実在は実にこれに由って成立するのである。たとえば三角形の凡ての角の和は二直角であるというの理は何処にあるのであるか、我々は理その者を見ることも聞くこともできない、しかもここに厳然として動かすべからざる理が存在するではないか。また一幅の名画に対するとせよ、我々はその全体において神韻縹渺しんいんひょうびょうとして霊気人を襲う者あるを見る、而もその中の一物一景についてその然る所以ゆえんの者を見出さんとしても到底これを求むることはできない。神はこれらの意味における宇宙の統一者である、実在の根本である、ただそのく無なるが故に、有らざる所なく働かざる所がないのである。
 数理を解し得ざる者には、いかに深遠なる数理も何らの知識を与えず、美を解せざる者には、いかに巧妙なる名画も何らの感動を与えぬように、平凡にして浅薄なる人間には神の存在は空想の如くに思われ、何らの意味もないように感ぜられる、従って宗教などを無用視している。真正の神を知らんと欲する者は是非自己をそれだけに修錬して、これを知り得るの眼を具えねばならぬ。かくの如き人には宇宙全体の上に神の力なる者が、名画の中における画家の精神の如くに活躍し、直接経験の事実として感ぜられるのである。これを見神の事実というのである。
 上来述べたる所を以て見ると、神は実在統一の根本という如き冷静なる哲学上の存在であって、我々の暖き情意の活動と何らの関係もないように感ぜらるるかも知らぬが、その実は決してそうではない。さきにいったように、我々の欲望は大なる統一を求むるより起るので、この統一が達せられた時が喜悦である。いわゆる個人の自愛というも畢竟ひっきょう此の如き統一的要求にすぎないのである。然るに元来無限なる我々の精神は決して個人的自己の統一を以て満足するものではない。更に進んで一層大なる統一を求めねばならぬ。我々の大なる自己は他人と自己とを包含したものであるから、他人に同情を表わし他人と自己との一致統一を求むるようになる。我々の他愛とはかくの如くして起ってくる超個人的統一の要求である。故に我々は他愛において、自愛におけるよりも一層大なる平安と喜悦とを感ずるのである。而して宇宙の統一なる神は実にかかる統一的活動の根本である。我々の愛の根本、喜びの根本である。神は無限の愛、無限の喜悦、平安である。
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 意識の根柢たる理想的要素、換言すれば統一作用なる者は、かつて実在の編に論じたように、自然の産物ではなくして、かえって自然はこの統一に由りて成立するのである。こは実に実在の根本たる無限の力であって、これを数量的に限定することはできない。全然自然の必然的法則以外に存する者である。我々の意志はこの力の発現なるが故に自由である、自然的法則の支配は受けない。
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 ()()()西
 
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 西



 

 

 
  dianoetic ethics ()()()
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 さきには合理説の代表者としてクラークをあげたが、クラークはこの説の理論的方面の代表者であって、実行的方面を代表する者はいわゆる犬儒学派であろう。この派はソクラテースが善と知とを同一視するに基づき、凡ての情欲快楽を悪となし、これに打って純理に従うのを唯一の善となした、しかもそのいわゆる理なる者は単に情欲に反するのみにて、何らの内容なき消極的の理である。道徳の目的は単に情欲快楽に克ちて精神の自由を保つということのみであった。有名なるディオゲネスの如きがその好模範である。その学派の後またストア学派なる者があって、同一の主義を唱道した。ストア学派に従えば、宇宙は唯一の理に由りて支配せらるる者で、人間の本質もこの理性の外にいでぬ、理に従うのは即ち自然の法則に従うのであって、これが人間において唯一の善である、生命、健康、財産も善ではなく、貧苦、病死も悪ではない、ただ内心の自由と平静とが最上の善であると考えた。その結果犬儒学派と同じく、凡ての情欲を排斥して単に無欲 Apathie たらんことを務むるようになった。エピクテートの如きはその好例である。
 右の学派の如く、全然情欲に反対する純理を以て人性の目的となす時には、理論上においても何らの道徳的動機を与うることができぬように、実行上においても何らの積極的善の内容を与うることはできぬ。シニックスやストアがいったように、単に情欲に打克つということが唯一の善と考うるより外はない。しかし我々が情欲に打克たねばならぬというのは、更に何か大なる目的の求むべき者がある故である。単に情欲を制する為に制するのが善であるといえば、これより不合理なることはあるまい。
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 ()()()() tranquility of mind ()()()()()() λ※(鋭アクセント付きα、1-11-39)θε βιωU+1F7D169-2σσ※(ギリシア小文字ファイナルSIGMA、1-6-57) 
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 () sense of dignity ()()
 ()()()()穿()()()()()
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 ()()()()()()() energetism 
 この説はプラトー、アリストテレースに始まる。特にアリストテレースはこれに基づいて一つの倫理を組織したのである。氏に従えば人生の目的は幸福 eudaimonia である。しかしこれに達するには快楽を求むるに由るにあらずして、完全なる活動に由るのである。
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 ()() self-realization  entelechie ()
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 ()()()() omne ens est bonum 



 


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 ()調調
 調和が善であるというのはプラトーの考であった。氏は善を音楽の調和にたとえておる。英のシャフツベリなどもこの考を取っている。また中庸が善であるというのはアリストテレースの説であって、東洋においては『中庸』の書にも現われて居る。アリストテレースはすべて徳は中庸にあるとなし、たとえば勇気は粗暴と怯弱きょうじゃくとの中庸で、節倹は吝嗇りんしょくと浪費との中庸であるといった。能く子思ししの考に似ている。また進化論の倫理学者スペンサーの如きが、善は種々なる能力の平均であるといっているのも、つまり同一の意味である。
 しかし、単に調和であるとか中庸であるとかいったのでは未だ意味が明瞭でない。調和とは如何なる意味においての調和であるか、中庸とは如何なる意味においての中庸であるか。意識は同列なる活動の集合ではなくして統一せられたる一体系である。その調和または中庸ということは、数量的の意味ではなくして体系的秩序の意味でなければならぬ。然らば我々の精神の種々なる活動における固有の秩序は如何なるものであるか。我々の精神もその低き程度においては動物の精神と同じく単に本能活動である。即ち目前の対象に対して衝動的に働くので、全く肉欲に由りて動かされるのである。しかし意識現象はいかに単純であっても必ず観念の要求を具えて居る。それで意識活動がいかに本能的といっても、その背後に観念活動が潜んで居らねばならぬ(動物でも高等なる者は必ずそうであろうと思う)。いかなる人間でも白痴の如き者にあらざる以上は、決して純粋に肉体的欲望を以て満足する者ではない、必ずその心の底には観念的欲望が働いている。即ちいかなる人も何らかの理想を抱いて居る。守銭奴の利をむさぼるのも一種の理想より来るのである。つまり人間は肉体の上において生存しているのではなく、観念の上において生命を有して居るのである。ゲーテのすみれという詩に、野の菫がわかき牧女に踏まれながら愛の満足を得たというようなことがある。これが凡ての人間の真情であると思う。そこで観念活動というのは精神の根本的作用であって、我々の意識はこれに由りて支配せらるべき者である。即ちこれより起る要求を満足するのが我々の真の善であるといわねばならぬ。然らば更に一歩を進んで、観念活動の根本的法則とは如何なる者であるかといえば、即ち理性の法則ということとなる。理性の法則というのは観念と観念との間の最も一般的なる且つ最も根本的なる関係を言い現わした者で、観念活動を支配する最上の法則である。そこでまた理性という者が我々の精神を支配すべき根本的能力で、理性の満足が我々の最上の善である。何でも理に従うのが人間の善であるということになる。シニックやストイックはこの考を極端に主張した者で、これが為に凡て人心の他の要求を悪として排斥し、理にのみ従うのが一の善であるとまでにいった。しかしプラトーの晩年の考やアリストテレースでは理性の活動より起るのが最上の善であるが、またこれより他の活動を支配し統御するのも善であるといった。
 プラトーは有名なる『共和国』において人心の組織を国家の組織と同一視し、理性に統御せられた状態が国家においても個人においても最上の善といっている。
 もし我々の意識が種々なる能力の綜合より成っていて、その一が他を支配すべきように構成せられてある者ならば、活動説における善とは右にいった如く理性に従うて他を制御するにあるといわねばならぬ。しかし我々の意識は元来一の活動である。その根柢にはいつでも唯一の力が働いている。知覚とか衝動とかいう瞬間的意識活動にも已にこの力が現われて居る。更に進んで思惟、想像、意志という如き意識的活動に至れば、この力が一層深遠なる形において現われてくる。我々が理性に従うというのも、つまりこの深遠なる統一力に従うの意に外ならない。然らずして抽象的に考えた単に理性というものは、かつて合理説を評した処に述べたように、何らの内容なき形式的関係を与うるにすぎないのである。この意識の統一力なる者は決して意識の内容を離れて存するのではない、かえって意識内容はこの力に由って成立するものである。勿論意識の内容を個々に分析して考うる時は、この統一力を見出すことはできぬ。しかしその綜合の上に厳然として動かすべからざる一事実として現われるのである。たとえば画面に現われたる一種の理想、音楽に現われたる一種の感情の如き者で、分析理解すべき者ではなく、直覚自得すべき者である。而して斯の如き統一力をここに各人の人格と名づくるならば、善は斯の如き人格即ち統一力の維持発展にあるのである。
 ここにいわゆる人格の力とは単に動植物の生活力という如き自然的物力をさすのではない。また本能という如き無意識の能力をさすのでもない。本能作用とは有機作用より起る一種の物力である。人格とはこれに反し意識の統一力である。しかしかくいえばとて、人格とは各人の表面的意識の中心として極めて主観的なる種々の希望の如き者をいうのではない。これらの希望は幾分かその人の人格を現わす者であろうが、かえってこれらの希望を没し自己を忘れたる所に真の人格は現われるのである。さらばとてカントのいったような全く経験的内容を離れ、各人に一般なる純理の作用という如き者でもない。人格はその人その人に由りて特殊の意味をもった者でなければならぬ。真の意識統一というのは我々を知らずして自然に現われ来る純一無雑の作用であって、知情意の分別なく主客の隔離なく独立自全なる意識本来の状態である。我々の真人格はかくの如き時にその全体を現わすのである。故に人格は単に理性にあらず欲望にあらずいわんや無意識衝動にあらず、恰も天才の神来の如く各人の内より直接に自発的に活動する無限の統一力である(古人も道は知、不知に属せずといった)。而してかつて実在の論に述べたように意識現象が唯一の実在であるとすれば、我々の人格とはただちに宇宙統一力の発動である。即ち物心の別を打破せる唯一実在が事情に応じ或特殊なる形において現われたものである。
 我々の善とは斯の如き偉大なる力の実現であるから、その要求は極めて厳粛である。カントも「我々が常に無限の歎美と畏敬いけいとを以て見る者が二つある、一は上にかかる星斗爛漫らんまんなる天と、一は心内における道徳的法則である」といった。
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第十一章 善行為の動機

(善の形式)


 上来論じた所を総括していえば、善とは自己の内面的要求を満足する者をいうので、自己の最大なる要求とは意識の根本的統一力即ち人格の要求であるから、これを満足する事即ち人格の実現というのが我々に取りて絶対的善である。しかしてこの人格の要求とは意識の統一力であると共に実在の根柢における無限なる統一力の発現である、我々の人格を実現するというはこの力に合一するのいいである。善はかくの如き者であるとすれば、これより善行為とは如何なる行為であるかを定めることができると思う。
 右の考よりして先ず善行為とはすべて人格を目的とした行為であるということはあきらかである。人格は凡ての価値の根本であって、宇宙間においてただ人格のみ絶対的価値をもっているのである。我々には固より種々の要求がある、肉体的欲求もあれば精神的欲求もある、従って富、力、知識、芸術等種々貴ぶべき者があるに相違ない。しかしいかに強大なる要求でも高尚なる要求でも、人格の要求を離れては何らの価値を有しない、ただ人格的要求の一部または手段としてのみ価値を有するのである。富貴、権力、健康、技能、学識もそれ自身において善なるのではない、もし人格的要求に反した時にはかえって悪となる。そこで絶対的善行とは人格の実現其者そのものを目的とした即ち意識統一其者の為に働いた行為でなければならぬ。
 カントに従えば、物は外よりその価値を定めらるるのでその価値は相対的であるが、ただ我々の意志は自ら価値を定むるもので、即ち人格は絶対的価値を有している。氏の教は誰も知る如く汝および他人の人格を敬し、目的其者 end in itself として取扱えよ、決して手段として用うるなかれということであった。
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 プラトーは有名な『シムポジューム』において「愛は欠けたる者が元の全き状態に還らんとする情である」といっている。
 ()() Tat twam asi ()()()()()()()()



 



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 個人的善に最も必要なる徳は強盛なる意志である。イブセンのブラントの如き者が個人的道徳の理想である。これに反し意志の薄弱と虚栄心とは最も嫌うべき悪である(共に自重の念を失うより起るのである)。また個人に対し最大なる罪を犯したる者は失望の極自殺する者である。
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 ()H※(ダイエレシス付きO小文字)ffding, Ethik, S. 157()()()()
 
 ()
 調()()
 ()()()
 使



 


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 アウグスチヌスに従えば元来世の中に悪という者はない、神より造られたる自然はすべて善である、ただ本質の欠乏が悪である。また神は美しき詩の如くに対立を以て世界を飾った、影が画の美を増すが如く、もし達観する時は世界は罪を持ちながらに美である。
 ()()()()()()()()()()Goethe, Faust, Erster Teil, Studierzimmer()
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 ()()()()()()()()()()()()()()()
  theism  pantheism ()()()() modes 調
 ()()()()()()() moral unity  vital unity 
  die innerste Geburt 



 


 () manifestation ()()()
 西()()()()
 ()()()()()
 ()Royce, The World and the Individual, Second Series, Lect. IV()()
 ()()
 Spinoza, Ethica, I Pr. 17 Schol. ()()()()()
 ()()()()Conf. XII. 15()
 ()()()Storz, Die Philosophie des HL. Augstinus, §20 Gottheit  Stille ohne Wesen ()()()Morgenr※(ダイエレシス付きO小文字)te
  Erskine of Linlathen bestimmte Allgemeinheit () self-determination () ratio singularitatis frustra quaeritur 
 ()() J. A. Symonds James, The Varieties of Religious Experience, Lect. XVI, XVII()()



 


  Dionysius  Ungrund  Wille ohne Gegenstand ()
 () attributes ()
  Natur hat weder Kern noch Schale, alles ist sie mit einem Male. ()()()()()()()()()()()()()()
 ()()()使 end in itself Illingworth, Personality human and divine()()
 ()()()()()()()()() De Profundis ()()()()()()()()()



 


この一篇はこの書の続として書いたものではない。しかしこの書の思想と連絡を有すると思うからここに附加することとした。

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 便()
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   1950251101
   197954101648
   199911102586

   193712

   19114426


nns

2000727
202219

https://www.aozora.gr.jp/







 W3C  XHTML1.1 



JIS X 0213



JIS X 0213-


鋭アクセント付きω、U+1F7D    169-2


●図書カード