一
私は卓子の上に飛びあがると、コップを持つた腕を勢ひ好く振りあげた――酒は天井にはねあがつた。 そして私は、 ﹁花ブラ鬘ンブ酒シウムの栓を抜け!﹂ と叫んだ。――﹁踊子達よ、一斉に盃をとつて、あの舞踏酒の歓喜に酔へ。俺は、ピピヤスの傍らへ走つて、あの花籠を買つて来る、あれらの花が凋まぬ間にあの壺をあけて、ストーロナ産の花を盛らなければならない。飲め〳〵〳〵、そしてイダーリアの冠にブランブシウムの雨を降らさう。﹂ ﹁虻色の翼をもつた God Honsu がナイルの上流で探し索めた Osiris の花をくはへてオリンピアの上空に現れた時のやうに、俺達は愉快だ。﹂ と私は満腔の想ひを空に向つて次々に追放するかのやうに腕を張り、胸を拡いて、続けるのであつた。 誰も気がつかなかつたが私は、喜びのあまり、近頃私が創作した最も得意な小説のうちで、最も愚かな一エピキュール学徒が街角のタバンで見得を切つてゐる騒ぎで、その口真似をしたのである。 酒をのむのは私ひとりであつたが、私の伴れ達は、酒に酔つて斯んなに騒ぐ私と同じ程度に﹁勝利の快感﹂に酔ひ痴れて自己を忘れてゐた。――一同は凄じい早稲田大学贔負であつた。この日、野球戦に私達の早稲田が勝つたからである。 こゝは都に程近い海辺の小さな村である。――村境ひの、ブルウカノタバンといふ居酒屋である。私は彼等に胴あげをされたまゝ我家から此処まで拉し去られて来たのである。私は、早稲田大学文学士といふ理由で常々彼等から絶大な信望を担うてゐたからである。 私は、面白く、浮れて、やはりその創作の中に現れる酒の名前を叫び、エピキュール学徒と、ストア学徒の声色をつかつて、浮れ抜いた。 ﹁ブラボー――ピピヤスよ、歌つて呉れ、お前が歌へばロールッヒ先生の嘆きの歌であらうと、ヨハンの樽の歌であらうと、何の見境ひもなく俺達一同は五月の朝風に撫でられる孔雀歯朶のやうに従順になびいて陶酔の無呵有に眠るであらうよ――ウルノビノ生れの愛いとしきピピヤスよ……﹂ ﹁シッダルよ、俺のカップに、シラキウス産の﹁南方の魔術師﹂を注いで呉れ。Y村の七郎丸の盃には、﹁イダーリアの灌奠酒﹂を――お前の思ひ人である、あの貌みめ麗うるはしい美術学生にはヴエネトの﹁ロータス﹂を――都から遊びに来てゐる、この俺の友人には、ロンバルデイの﹁ファティアの夢﹂を……﹂ 私が斯んなことを云つて、カップをつきつけると、酒や毒薬よりも怖れてゐる彼等はギョツ! として眼を視張つた。 ﹁友よ、驚くなかれ! Aは、ヴェネトのキャンデイであり、Bはシラキウスのベルモ、そしてCはロンバルデイのマルサラだよ――﹂ が、それでも彼等は不安な眼をしばたゝいてゐるので、 ﹁おゝ、気の毒な友よ。﹂ と私は、更に説明した。 ﹁では、もう一度称よび代へようか。それらの酒といふのは、村の甘酒なんだ。名称は、では、諸君が自由につけて、晴れの乾盃を続けようではないか。 シッダルよ――やあ間違つたか、テルちやんだ! おい、テルちやん、甘酒の盃を……﹂ ﹁そして、ピピヤスよ、歌へよ!﹂ 歌へピピヤスなんていふ美しい娘が、居る筈はなかつたが、私は歓喜の夢を見つゞけたまゝ、あの得意の作である﹁狂騒街﹂の世界に引き戻つてゐたのである。 私は、卓子の上に突き立つたまゝ、コルネツトを口にあてた。私の妻は、私の脚元で手風琴を取りあげた。 そして、一同は声をそろへて、早稲田の歌をうたつた。二
一隊は真夜中の田甫道を、河童のやうに身軽く浮れながら私の家に引きあげる途中であつた。
昼のやうな月夜だつた。
﹁……ワセダ〳〵!﹂
﹁凄い……月夜だ。﹂
﹁…………﹂
一同は口々に、間断なく喋舌り続けてゐるのであつたが、何を云つてゐるのか解る筈もなく、また私も何か祈りごとめいたことでも口吟みたくなつて、
︵私は、﹁山上の館﹂で万物流転の法則を研究するよりも、一杯の﹁ファティアの夢﹂に酔つて健康な己れを感じたい唯物至上派でございます。私は、私の倅をストア大学に入れたくありません。御校の舞踏科へ入学させたく思ひます。︶
︵いゝえ私はピザの物理学者の助手として、球拾ひの研究でもさせてやつた方が望ましいのであります。︶
などゝ呟いてゐると、﹁ファティアの夢﹂だけを聞きとらへて、
﹁まあ、あなたが甘酒を飲むツて?﹂
と妻が嬉しさうに云つた。彼女は常々私の和酒好みを嫌つて、せめてカクテールの調合位ゐには興味を持つて呉れ、そして、いろ〳〵な酒罎を本棚にでも並べて、殺風景な部屋の飾りにでもしてお呉れ――などゝ云つてゐたのである。
﹁…………﹂
私は説明するわけにも行かなかつたので、妻の顔を近くのぞき込んで、
﹁何うもエピキュリアンであるらしい自分を俺は悲しみながらも――﹂
云ひながら私は、その手をとつてキスを与へようとしたら、背後から、
﹁馬鹿!﹂
――の叫び声と一緒に凄い平手が私の頬で鳴つた。私が、妻のつもりで手をとつたのはブルウカノのテルちやんで、それを認めた妻が私を打つたのである。
﹁しまつた!﹂
と叫んで私は逃げ出した。ずツと先へ進んでゐるエールの連中に追ひついて救ひを求めなければならなかつた。
﹁妾が、うしろにゐるのも知らないで、馬鹿ね。つかまへて、もつと〳〵打つてやらう。﹂
妻は追ひついて来た。
男も女も差別なく、海老茶のネクタイを結び、Wのセータを着そろへてゐるのだが、その上に同じやうな大きさの妻とテル子――私は逃げながら時々振りかへつて見るのだが、昼の通りに明るい月夜であるにもかゝはらず何うしても二人の差別がつかないので、また間違へる不安に戦き、弁明の言葉を胸に秘めたまゝ、ピョン〳〵と白い堤を逃げて行つた。
﹁妻よ、ファティアを陶酔境と訳してお呉れ! お前の夫が、エピキュリアンでなかつた代りに――﹂