一
フロラが飼つてゐる鸚鵡は、好く人に慣れてゐて籠から出してやると、あちこちの部屋をヨタヨタと散歩したり、階段を滑稽な脚どりで昇り降りしたりするが、 ﹁お早う﹂も、 ﹁今日は――﹂も知らなかつた。せめて二つや三つの言葉位は教へようと、はじめのうちは皆がかはるがはる努力したが、まるで教師を馬鹿にしてゐる見たいにキヨトンとしてゐるばかりで、決して何んな簡単な言葉でも覚えなかつたから、今では皆あきらめてしまつて、 ﹁彼女は唖である。﹂とか、 ﹁シヽリイ産のなまけ者だよ。﹂とか、 ﹁変りものなんだらう。﹂など、軽蔑して相手にされなくなつてゐた。――が彼女はかへつてそれを幸福にでも思つてゐるかのやうに、ぼんやりと陽なたで居眠りをしてゐたりしてゐることが多かつた。 気が向くと籠から飛び降りて、あちこちを散歩し廻るのが癖だつた。愛されてゐない猫のやうに何処に彼女が現れても、振り向く者もなかつた。 ﹁騎士がその森を通り抜けて広い野原の中の一筋道を歩いて行くと遥かの山の麓にいかめしい城がそば立つてゐるのを認めた。﹂ フロラの家庭に︵アメリカ人である。フロラは其家の一人娘である。︶寄宿して横浜から東京の学校に通つてゐる大学生であつた彼は、お伽噺の本などをフロラに示されて、それを日本語で説明することなどを日課のやうに、フロラから夕食後の時間が来ると求められることが多かつた。 ﹁ナイト――は軍人である。﹂ ﹁グンジン?﹂ ﹁イエス――。或ひは武士――この場合はブシと訳した方が適当である、何故ならばナイトが古典語である如く、武士は。﹂ フロラの日本語は、尋常二年の読本が辛うじて読み得る程度であつた。そして彼は英会話が完全に自由でなく、それを顧慮して話すフロラの家族の者とだけ稍やゝ自由に話し得る程度であつたから――英語を持つて様々な日本語の解釈をするのは難儀であつた。 ︵こゝに誌されてゐる彼等の会話は、英語で話されてゐるのを、筆者が和文に書き換へたものと想像されたい。︶ ﹁これらのチヤムピオン・ストーリイは、どうも二人にとつて煩雑過ぎるやうであるから、寧ろ僕等の国の尋常読本をテキストに選ばうか――そして、今迄の本では僕が君に依つて発音法を習ふテキスト・ブツクとしようではないか。﹂ などと彼は申し出た。彼は、フロラの椅子の片端に凭りかゝつて、フロラの膝に翻つてゐるフエアリイ・ブツクの画を見てゐた。――城は七つの窓を持つてゐる。騎士はそのうちの一つの窓に、間もなく点ともるであらうランプの光りを待たなければならなかつた。ブラツク・キングと称する化物に囚はれの身になつてゐる恋人を、騎士は救たすけ出しに来たのである。ランプが点る部屋に恋人が閉されてゐる筈であつた。 ﹁では、あたしが読み続けよう。――そして、今度はあたしが先生なのよ。だからあたしの生徒は先生の音読に従つて忠実に発音法を練習しなければならないよ。﹂ ﹁よろしい。﹂ 生徒は、先生の肩に腕をかけて教科書を眺めてゐた。二
ゆうべ思はず夜更しをしてしまつて彼は眼醒時計が鳴つたのも知らなかつた。 ﹁起きあがらないと、入つて行くかも知れないよ。お起きなさいよ、――オートミールが冷えてしまふ――﹂ フロラの烈しいノツクで彼は、漸く目を醒した。 ﹁今、顔を洗つてゐるところなのさ。――五分間待つてお呉れな。﹂ ﹁その猶予が惜しまれるのよ、だつて突然の事件が起つたんですもの。﹂ ﹁…………﹂ ﹁では扉ドアー越しに云ふわ――。グリツプが――ね。﹂ とフロラは叫んだ。グリツプといふのは、あの唖鸚鵡の綽名である。﹁グリツプが今朝あたしの枕もとで、突然一つの言葉を発したのよ!﹂ 学生は慌てゝ身じまひをして、廊下へ飛び出した。そして、 ﹁ほんとうなの! 何んな?﹂ と、驚きの意味でフロラの両肩を握んで、 ﹁それは、たしかに一事件に違ひないな!﹂ と唸つた。 ﹁…………﹂ フロラは、何故かあかい顔をして学生の顔を見返してゐたが、切なさを辛こらへるぎごちなさを振り切るやうにして、 ﹁あたしの部屋へ行かう――﹂ と叫びながら、学生の部屋と反対側にある東向きの自分のアパートへ駈け込んだ。 フロラの部屋の窓には爽すが々〳〵しい朝陽が綺麗に当つてゐた。グリツプは、窓台の上の籠で陽を浴びてゐた。 ﹁あなたが来るまでと思つてグリツプを閉ぢ込めておいたのよ。﹂ ﹁どんな言葉を発したの?﹂ ﹁グリツプから、それを聞くことにしませうよ!﹂ とフロラは微笑んで、卓テー子ブルの上に鳥籠を置き換へた。 だが、待つても〳〵グリツプは決して発言しないのである。 ﹁何うしたんだらう。今朝あたしが眼を醒すと、突然に言葉を発したのに……﹂ ﹁で――お母さん達にさう云つたの?﹂ ﹁いゝえ――。誰よりも先にあなたを驚ろかせてやらうと思つてゐたから……﹂ ﹁――それにしても、一向何とも云はないではないか。――模範の言葉を示して見たら何うなの?﹂ それには答へずにフロラは、 ﹁グリツプの声は、大変に太い声で、まるでブラツク・キングの寝言のやうに凄く、あたしは夢ではないか――と驚いたわ。﹂ ﹁フロラ、それは夢だつたのだよ、あの物語をあまり熱心に音読した前ゆう夜べの労つかれで――﹂ ﹁あたし達は気づかなかつたけれど、昨夜音読の練習をしてゐた間中、グリツプはこの卓子の下で、聞いてゐたものと思はれるのね。――さつきは、炉台の上にとまつて、ちやんと、あたしの顔を見降してゐたわよ。閉され続けてゐた扉なんだから、今朝になつてグリツプが此処に忍び込むといふ筈は有り得なからう――﹂ ﹁それはさうだ。――だが、もうグリツプは発言しても好さゝうなものだね。﹂ ﹁では――若しあなたが学校へ行くまでの間にグリツプが発言しなかつたら――今夜は、あなたの部屋に鳥籠と一処に彼女を移して置かうではありませんか。未だ発音法に慣れない彼女は、不図したハズミでなければ発言出来ないのでせう。明日の朝お前は、屹度グリツプの言葉で、眼を醒すに相違ないでせうよ。﹂ そんなことを云ひながらフロラが鳥籠の扉を開けると、グリツプは床に飛び降りて羽ばたいた。そしてフロラが空の鳥籠をぶらさげて彼の部屋に行かうとすると、続いて廊下に歩き出したグリツプは二人の部屋の中間にある階段のところに来ると、あの奇妙に臆病気な、そして勿体振つた一足飛でのろのろと段を降つて行つた。――二人は何時になくグリツプの姿を好意を持つて見送りながら学生の部屋に引き返し、そこの窓台に鳥籠を置いた。 ﹁グリツプだつて、朝御飯に降りて来たといふのに他の二人は何を愚図々々してゐるのだらう。――ハリヤツプ、ハリヤツプ。﹂ グリツプが食卓の片隅に、椅子をつたつてよぢのぼつてゐるのを眺めながらフロラの母親が、卓子を叩きながら、 ﹁ヘンリー!﹂ と学生の異名を呼んだ。 ﹁フロラが、未だ起き出て来ないのだつたら、遠慮なしに彼女の部屋の扉ドアを叩いてお呉れ、ブラツク・キングの夢にでも呪はれてゐるに違ひないのだから……﹂ フロラは、彼よりも先に起きてゐたにも関はらず未だ一度も階下へ降りなかつたと見える。三
その晩は、学生の部屋で二人は新しいテキストを囲んで日本語の練習をした。グリツプは籠の中で眠つてゐた。
﹁アイウエオ・カキクケコ――五つの母音を第一行として、凡てゞ四十八文字が吾等の言葉の、アルフアベツトである。﹂
などと彼は説明した。物語がない為に以外な興味が涌かずに、規定の一時間で終了にして、
﹁お寝やすみ、君の健やかな眠りを希望する。﹂
﹁お寝み、グリツプの声で――あなたが輝やかしい朝を迎へるであらうことを祈るよ。﹂
こんなことを云ひ合つて別れた。
それから彼は、自分の読書に耽つたり、ブラツク・キングのテキストで発音法を練習したり、体操を試みたり、また書棚の整理などをして事更に夜を更して、グリツプの声を待つたが一向応へがなかつた。
﹁馬鹿鸚鵡、何とか云つて見ろ。﹂
彼は、フロラと教へ合ふ時のやうに最も簡単な一句を飽かずに繰り返したが、さつぱり験が現れぬので癪にさはつて思はず、
﹁バカツ! ゴツデム!﹂などと叫んだ。
﹁ぢや、せめて、これでも覚えろ――バカ、バカ、バカ!﹂
一切不成功に終つて彼は、寝た。
翌朝彼は、目醒時計の気たゝましいベルで飛び起きた。あんなことで夜更しをしてしまつたので、無闇に眠かつたが、そのベルを夢うつゝで聞いた瞬間に――おや、グリツプの声かな! といふやうな夢で、起きあがつたのであるが、相変らずぼんやり止り木にとまつてゐる鳥を見出すと、眠さのあまり無性に遣瀬なくなつたりして、嗽ひの水を口にふくむと憎むべき鳥を眼がけて、その頭にポンプのやうに浴せてやつた。グリツプは、止り木から滑り落ちて仰山な羽ばたきを立て、翼を拡げたまま格子につかまつて憾めし気に此方を眺めてゐた。
﹁バカ――腹下しの丸薬を服のませるぞ。﹂
彼は、鸚鵡の脚を手荒くねぢつたり、羽毛をつたりした。グリツプは鴉のやうな声をたてゝ苦悶した。彼は、続けざまに水を打ちかけた。
その騒ぎを聞いたかしてフロラが彼の扉を叩いた。斯んな唖鳥でもフロラは非常に可愛がつてゐるので、彼は、
﹁グリツプが喉が乾いたやうな声を出したので今水を与へたところだよ。﹂
と急に親切さうな眼で唖鳥を見直した。
﹁グリツプの言葉を聞いた?﹂
﹁おゝ、聞いたとも――﹂
と彼は肩をいからせて返事した。
﹁何んな言葉だつたの?﹂
﹁……今夜また鳥籠を君の部屋に戻さう、君が明朝彼女の声で眼醒めるために――そして僕等は、彼女の言葉を一日置きに夫々の部屋で聞くとしよう。﹂
などと彼は咄嗟の間に云ひ放つた。
﹁お前を愛する――と云はなかつた?﹂
フロラが彼の胸に顔を埋めて呟いた。
﹁お前を愛する――と云つた。あのテキストの中に同じ言葉があつて、あの晩その発音法を余りに多く吾々が繰り反したのでグリツプが覚えたと見える――お前を愛する。﹂
二人は抱き合つたまゝ、何の言葉もなかつた。
階下の母親が昨日の朝と同じやうなことを食卓で呟いてゐた。いつの間にかグリツプは脱け出したと見える。
そのことがあつてから二人は、愛する! といふ言葉を何時も臆面なく取り換すことが出来るやうになつた。
グリツプは、何時までも完全な唖の鳥であつた。
﹁二人が結婚をしたら、二人のグリツプを吾う家ちのマスコツトにしよう。﹂
などといふことも二人は約束した。