春来頻リニ到ル宋家の東 袖ヲ垂レ懐ヲ開キテ好風ヲ待ツ 艪を漕ぐのには川底が浅すぎる、棹をさすのには流れが速すぎる――そのやうな川を渡るために、岸から岸へ綱を引き、乗手は綱を手繰つて舟をすすめる、これを繰くり舟ふねの渡しと称いふ。 その娘の家の裏門は川ふちに開いて、繰舟で向ふ岸の街道に渡つた。橋は見霞む川下の村境ひのはてであつたから、その繰舟はあたりの人々にとつてもこのうへもない近みちであつた。 ﹁春しゆ来んら頻いし到きりにいたる――﹂ 離はな室れの書院のに読める雄揮な文字を指差して娘は、わらひ、 ﹁こんな言葉までが苦しくなるわ、とり換へてしまはうかしら――﹂ と、もう涙をためてゐた。﹁こんど来る時には、メンデルスゾンのものを買つて来てね、いつそ愁かなしい方が慰めだわ、新しい、騒々しいのは厭……﹂ ﹁袖ヲ垂レ……か。﹂ 青年も口吟んで、胸が溢れた。学生時分の洋服姿を止めさせられて、田舎に戻つてゐる娘は島田を結はされ、紫地に大矢羽根絣の長袖を着て、画に見る御殿女中のやうに立矢ノ字に帯を結んでゐた。青年が訪れると、その書斎の、竹筒のラムプを二つにして、二人は夜更まで語らつた。――彼が思はず頬をおしつけようとすると、 ﹁駄目、未だ駄目……﹂ と唇を結んで、痙攣的に全身を縮めながら彼の膝に突つ伏した。――﹁だつて、苦しくなるんですもの。許してよ、許してよ。﹂ ﹁左うだ、僕だつて左うだ。御免よ、ね、妙ちやん……﹂ ﹁三月になつて――お雛見の晩……﹂ ﹁迷信的だね。﹂ ﹁だつて、その方が綺麗ぢやないの、一生の思ひ出になるんだもの――大事にしておきたいわ。﹂ 春になれば東京の郊外に家を借りる筈だつた。支障が生ずれば娘は家出を決心してゐた。青年は三月まで学生だつたが、務めぐちはもう決つてゐた。娘は東京へ移つたら、髪を切つて、もう一度洋服が着たかつた。 ﹁お雛様はこの部屋に飾るんだつたかしら?﹂ ﹁いいえ、今年だけはお名残りに、この自分の部屋に飾つて、誰にも見せたくないのよ――キミにだけ、泣き顔を見せたいのよ。雪洞を灯けるのよ――夜更けたら、廊下の扉に錠を降してしまふわ。川上のね、滝のある村から桃の花が届く筈なのよ。花を活けて、香水を撒かう。姿見の曇りを綺麗に拭つて、あたしはね、あたしは、ほんとうに……どんな顔をするものか、自分の容子を、はつきりと見覚えておきたいのよ。……まあ、変なことを言つてるわ、そんなことばかり考へてゐるので――嫌ひになりはしない?﹂ ﹁苛めないで呉れよ。琴でも聞せて貰ふことにしよう。﹂ 窓の下は深い池だつた。 三月のはじめに丁度、二日続きの休日に出遇つた。彼は休みがなくても、勿論夢中で、眠れもせぬ夜がつゞき、幾日も前から土産のレコードをあつめたり、はじめて結ぶネクタイを選んだりした。継母との折合が次第に悪く、どうせもう家を棄てる覚悟がついてゐるから――そんな意味の娘の手紙を見ると、彼の胸は一層赫々として、此度こそは、もう、相見る刹那に力一杯抱き合ふであらう、などといふ娘の言葉を見るまでもなく、噎返る悸きの嵐に巻かれて幾度となく虚空に抱きついて昏倒しさうであつた。 ﹁汀に出て、綱を手繰つてあげるわ、幸ひあたりに誰も見てゐなかつたら、キミの脚が岸を踏むといつしよに、あたしは屹度キミの胸に倒れて泣き出すでせう、口惜しいことだつて沢山あるんだけど、何も彼も忘れて、嬉しさだけで……﹂ 彼は、娘の手紙を汽車の窓でも幾度か繰り返して、科白のやうに口吟んだ。――二晩大雨が続いた後の、空は瑠璃色に光つて、遥かの山々の肌がまばらな雪の間から艶々しい青黛を輝かせてゐた。 ﹁何しろ、この大雨で、山の雪がいちどきに溶け出したんだから堪りはしない。﹂ ﹁しかし、もう、まるつきり陽気は春ぢやないか、大分、気狂ひ沁みた……﹂ ﹁俺たちの桃の花は、いつぺんに咲いてしまつたよ。﹂ バスの中では狂ひ陽気の話に花が咲き、又、大雨と雪溶けのために水が溢れて、河添ひの村落の被害やら橋の流失のことなどが交されてゐた。バスが山やま毛ぶ欅なの林に這入つて、螺線型の道がおもむろに急勾配に移らうとする崖の中腹で、彼はあわただしく車を棄てた。蔓じく苦ば菜りや蔓つる茘れい枝しが逼ひ出してゐる竹籔の間の崖径を降つて、葦よしの穂が伸びかかつてゐる川ふちに、彼は一散に駆け降りた。 向岸の舟着場を見降ろす裏門の扉に、花びらの散る退とき紅い色ろの被コー布トを来た娘が、胸の上に袖を重ねてぐつたりと凭りかかつてゐた。――彼は小指を口にふくんで、笛を鳴らした。娘は、からだもろともに激しく首を振つた。紅い袂が炎えるやうに翻へり、銀色の簪が飛んでも、拾はうともせずに、水際に駈け降りて来ると、 ﹁向方の橋もこはれてしまつたのよ。舟はね、橋の仕事の方へ持つて行かれちやつた!﹂ と叫んだ。もう水は引いて、両岸は乾いてゐたが、鮠はえや石う斑ぐ魚ひの泳ぐさまが見えるほど、いつもは澄んでゐる流れが、黄色く濁つて、駸々と底深さうにながれてゐた。その上を、両岸の棒杭に結ばれた繰舟の綱が一筋たよりなく横切つてゐた。川幅は凡そ二十間あまりであつた。二人は綱の両端に手をかけて、こんな言葉をおくり合つた。 ﹁橋は、今日いつぱい経たないと、渡れないんだつて。﹂ 娘は川下を指さした。胸先の桜結びの双つの房が、ゆらゆらと振れてゐるのが彼の眼に映つた。 ﹁他には舟はなかつたかしら?﹂ ﹁みんな向うへ行つてゐるの……﹂ ﹁晩まで、斯うしてゐるより他は――何うすることも出来ないかね。﹂ 彼の力一杯綱を握つてゐる腕が震えると、波動が娘の手にも達した。 ﹁厭々々……そんなに待つてなんか居られやしない……﹂ 娘も激しく綱をゆすつた。そして、黒塗の木履の先でこんこんと棒杭を蹴つた。言葉が止絶えると、溢れる光のまどろみのなかに、ゆらゆらと陽炎が萌え立ち、娘の履物の下に鳴る鈴の音が、猫が狂つてゐるやうに聞えるだけだつた。 ﹁上の方へ向つて、歩かう……﹂ と、彼はレコードの包をさげてゐる腕を挙げて、流れがゆるやかに迂回して来る明るい毛ぶ欅なの林の方を睨んだ。――﹁昇るに伴れて、屹度川の幅が狭くなるだらう――案外、丸木橋ぐらゐ見つけられるかも知れないよ。﹂ ﹁橋なんて見つかるもんですか、でも、滝のあるちかくまで行つたら、岩を飛んで渉れるところがあるかも知れないわ――でも、凝つとしては居られないから歩き出しませうよ。﹂ ﹁ぢや、君は上の堤にあがると好い。そんな格構で水際は歩けなからう。﹂ ﹁顔が見えなくなるから、厭――﹂ ――部屋の仕度はすつかり出来あがつて、昼間から雪洞を点けたり消したりしてゐたのに……と彼女は、折々母家の方を振り返つた。槙や海棠の老木が折重つてゐる門の傍らに土蔵の白壁が見えた。娘の書斎は倉と母屋の間にはさまつて、昼間でも薄暗く、縁の下まで伸びてゐる泉水に鯉の跳ねる音が寂しゞまを破るだけの静けさだつた。 遡つても遡つても川幅は、狭せばまらなかつた。錦絵の人形のやうに扮つくつて、鯉の跳ねる音より他にない深く薄暗い窓の中に粛粛と見出してこそ艶かしい娘の姿が、炎える陽に曝されて石に躓いたり、荊を避けたりしながら、いらいらとして歩いてゐるのを見ると、彼は却つて不思議な亢奮に襲はれた。彼女は、足袋も穿いてゐなかつた足の先を木たらのきに突つかけて、悲鳴をあげたりした。 ﹁靴でなければ、無理だらう――待つてゐるから、着換へて来ない。﹂ ﹁関やしない。誰か通りかかる人があつたら鞄を持つて来て貰はう、散歩着をそろへておいたんだから。﹂ あゝ焦れつたい〳〵! と彼女は震えて、髪かたちをバラバラにこわしてしまつた。一年前まで短くしてゐたのを、かもぢをつかつて結ひあげてゐたので、他易くこわれた。 ﹁着換へに戻つたりする間だつて惜しいのよ。あゝツ、憎らしい水出だつたわね。﹂ ﹁天災だ。酷い罹災民になつたものだ。﹂ 彼は応へた。それでも、いく分川幅は細くなつて、呼びかけないでも声はとゞいた。 ﹁この分ぢや、もう少し遡つたら、超えられさうぢやないか。ところ〴〵に岩が見えはじめた。﹂ ﹁元気つけて遡らう、大丈夫よ。――ああ、向方から知つた人が来るわ。﹂ 彼女は腕にかけてゐた被コー布トを投げ棄てて、堤に駈けあがると、水浴でも済ませたらしい裸馬を曳いて来る人を呼び止めて切りと頼んでゐた。 ﹁靴さへ穿けば、もう何里だつて平気よ。こゝで一休みしませう。﹂ 彼女は汀の石の上に、横に倒れて、彼と向ひあつた。雨にでも濡れたやうにぐつたりとした着物が、細長い脚の、からだなりにまつはつてゐた。手ハン布ケチを裂いて指先の傷を二たところも結へた。 ﹁着物、着換へられる――外でなんか――﹂ ﹁大丈夫よ、もう少し奥へ行けば、ラウデンデライン……ほつほつほ、でも、ほんとうに、そんな森の娘でも現れさうな、それこそ昼なほ暗い綺麗な森で、決して他ひ人とになんか見られつこない……﹂ ﹁その辺まで行けば渉れるかしら?﹂ ﹁それが解らないのよ、普段なら好いんだけど、こんな雪溶けで、余つ程川のかたちが変つてゐるんですもの――﹂ 二人は、思はず川上の水音に耳をたてて、吐息を衝きながら森の彼方を視詰めた。連翹なのか、白い花が森にさしかからうとする行手の栗林の堤のあたりにちらちらと見へ、莱畑の向うには桃の花が、砂日傘をひろげたやうに霞むでゐた。――鞄がとゞくと、彼女は重い帯を解き、長襦袢の上に被布を着て、ひとまづ体裁をつくろつてから、脱いだものは鞄のものと入れ換へて持ち返らせた。 そして、靴とジヤムパアと向日葵色の軽やかなジヤーヂのスカートなどを下着をくるめて一包みにすると、運動帰りの時のやうにベルトで絞めて、ぶらさげて、そしてセルロイドの日よけのひさしを、指先でくる〳〵回しながら、﹁さあ、出発よ。変な弁天小僧……﹂ と笑つた。 ﹁何処まで歩いて行つても駄目だつたら……?﹂ ﹁そんなこと考へないでよ。楽しい瞬間だけを、この径の尽きるまで胸一杯に空想しながら、歩いて行くのよ。﹂ ﹁滝のあるところまでは、何れ位だつたかね?﹂ ﹁一里ぐらゐ、あるかも知れないよ。﹂ 堤の向う側から、時たま聞える鶯の声を耳にしながら、二人はなるべく長閑さうな会話を選んで歩を速めてゐたが、森に踏み入るに伴れて、次第に深い沈黙に陥入つた。そして、立止つては凝つと顔を見合はせて吐息を衝くばかりで、微笑を浮べる余地もなかつた。 流れの中には岩の姿が、遡るに伴れてあちこちに現れ、鶺せき鴒れいが飛び交はしてゐたりしたが、勾配が増して行くに随つて水勢は滝のやうな音をたてて、花々しい水煙りを挙げてゐた。 鋸歯朶や孔雀歯朶が露を含んで、脛のあたりまでを沾ほした。いつか、まばらな日射も夢のやうに止絶えて、常緑樹の天蓋が翼を垂れて、あたりは恰も娘の部屋のやうに薄暗かつた。そして、へら歯朶やまんねん草の類ひの隠花植物が絨氈のやうに蔓つてゐた。 ﹁ねえ、もう、あたし、とても、これぢや歩けないわ、そこの岩の蔭で、穿き換へるわ……﹂ ﹁寒くはないの?﹂ ﹁汗びつしよりよ……。この辺、夏になると、こつそりうちを抜け出して、水浴びに来たことがあるわ……﹂ ﹁ひとりで?﹂ ﹁いいえ、ばあやを見張番に立たせて――﹂ そのうちに彼女は鏡のやうに大きな岩の蔭に隠れると、 ﹁とゞかなかつたら棄ててしまはう、とゞいたら、キミ持つてつてね。﹂ と言ひながら、白い半身をのぞかせると、腕を伸してひとつ宛づつ、鈴のついた履物から先に投げ棄てた。 ﹁みんなとゞいたら、今日の運が素晴しいものといふ占ひよ。﹂ 彼女は襦袢などを固く結えて、籠ボー球ルを投げ渡すやうに颯つとほうつた。久寿玉のやうな包みは彼の胸に命中して、首尾好く両腕に抱へられたが、何処まで遡つても渡れさうな気色もなく、奔湍は岩に砕けて、目くるめくばかりの水煙りをあげてゐた。