一
﹁マダムの御気嫌はどう? 今日は?﹂ 山崎の顔を見るなり私は、部屋の入口に突立つたまゝ凝つと、訊ねた。――﹁君の顔色には何だか生気がない、病的といふほどのことではなしに……。眼つきが何となく悸おど々〳〵としてゐる、今日も!﹂ ﹁さうだらう、俺は――﹂と山崎は、私がもつとさういふ風な彼に関する批評を続けるであらうことを、別段に何の不安を持つこともなく待ち構えるやうに、ぼんやりとして、 ﹁どうも忙しい。﹂と素気なく呟いだ。 私は続けなかつた。――﹁俺は?﹂ ﹁君は何時もの通りだ。余ツ程急いでゞも来たのか、赤味を帯びてゐる。健康さうだ、変に――﹂ 山崎は、さう云つてゐたが、隣室の気はひをでも窺つてゐるかのやうに眼に落つきがなかつた。 私たちは、挨拶の代りに斯んなことを云ひ合ふことが屡々だつた。尤も夫人のことを訊ねるのは私の方が何時も主だつた。――﹁どう? 今日は、マダム?﹂ ﹁うむ、まあ……﹂山崎の返事や態度は何時も決つてゐた。彼は、浮かぬ様子で煙草を喫してゐた。 ﹁俺は、この儘直ぐに帰つても好いんだよ。たゞこの辺まで当のない散歩に来たまでのことなんだから……﹂ ﹁この頃の君は、余程散歩が好きになつたらしいね、俺とは反対だ。﹂ 訪ねられて迷惑なのか、と思ふとさうでもないらしく山崎は、不器用な手つきで煙草をすゝめながら、 ﹁まあ、掛けろよ。どうせ君は退屈で弱つてゐるんだらう。散歩なんて如何でも好いぢやないか。﹂ さう云つて、この前私が彼に会つたのは何日位前か忘れたが半月とは経つてゐないその時もさうだつたが、あれが未だ治らないのかしら、それにしては治りが馬鹿に遅い――などゝ私に訝しがらせた、頬の猫の爪にでも引つかゝれたやうな鮮やかな傷痕を物憂気に撫で回してゐた。――長居の客があつて、つい山崎が夫人をないがしろにして陽気に騒いだところ、客が居る間に彼は、突然夫人に飛びつかれて酷い目に合されたのだ。 ﹁この前のあれが、未だ治らないのか?﹂と私は、山崎の頬を指差して訊ねた。 ﹁あれは治つたが――﹂ ﹁また?﹂ ﹁この前君が来た時は、お互ひに大分酔つ払つたな。君は、吾う家ちへ着いたら夜が明けやしなかつたか?﹂ 山崎は、悲し気にさう云つて、それ以上は何か口のうちでブツブツと小言を云つてゐた。 実際の私は、別段散歩好きになつたといふわけではなかつた。当なしに外出するといふ習慣は私には未だ無かつた。この日にしろ私は、山崎を訪れる目的だけで外出したのである。この前の時は、実際散歩に出かけたのであるが、そして山崎は訪れまいと思つたのであるが、ふら〳〵と夢でも追ふ程の心の遣り場を失つて、つい彼を訪れた。そして、今日と同じことを弁解した。 ﹁君の都合で俺は、直ぐにこの儘引き返しても好いんだ。たゞ当のない散歩に来たゞけのことなんだから。﹂ ﹁俺は酒を止めやうと思つてゐるよ、どうも酒を飲むと女房の気嫌が悪くつていけない。その代りこれも酒は止めたよ。﹂ 山崎は、せわし気に食事をしてゐる細君を眼で指しながら、 ﹁これ可成りのホーム・シツクにかゝつてゐるらしい。﹂と云つた。 ﹁ホーム・シツクを紛らす為に酒を飲むんだと云つてゐたぢやないか、細君は?﹂ ﹁二人でだけならば好いんだ。友達と一処に飲むと気嫌が悪いんだ。﹂ ﹁未だ一言も日本語は解らないの?﹂ ﹁うむ。――解らせたくもないよ。﹂ ﹁では君は、仕事が忙しいなんて云つて不平も滾せないわけだぞ。他ひ人とに向つて――﹂ 山崎の仕事といふのは、半年程前に彼に伴れられて始めて日本に来たイタリー人である細君の気嫌を取ることが主だつた。細君の意志は、山崎の翻訳を通さずには、彼女が愛育してゐる猫と山羊とにより他通じなかつた。 ﹁だが忙しいことは確かなんだもの。﹂と山崎は、私に対して不気嫌さうに云つた。――﹁それに、新しい友達こそないが吾う家ちには相変らず以前の連中が好く来るよ。それが大抵酒飲みでね、どうも……﹂ 私たちは、そんなことを云ひ合ひながら、しぶしぶと盃を傾けてゐたが、山崎の顔もだんだん赤くなり、私も次第に、常々口だけは気分的に余裕あり気なことを放言するものゝ、千遍一律に酒に負ける性質である私は、口で云ふが如く場所を選ばなかつた。君に御馳走をする位ひ張り合ひのないことはない。と、私は屡々云はれたことがある。私は、内心、さういふ自分の単純な酔ひ方などを、動きのない貧しい生活をしてゐる己れの心域に律して、ひたすら嘆き悲しんでゐた。飛躍に憧れながら不知の間に退屈に倦んでゐた。これも他ひ人とに云はれて、始めて成程と思つて秘かに冷汗を浮べたのであるが、自分の芸術上の制作の上に何らの発展も見出されないことを省みて、時には、それを、酒の酔ひ振りにまで結びつけて痛く致命的に思つた。年を重ねるに伴れて、単に若気の亢奮に駆られてゐるらしい空々しい血気が消え失せたならば、これも屡々他人から云はれた通り、阿呆な空殻になつてしまふであらうと、臆病な私は怖れてゐた。私は、自分に関する他人の云ふことは、それが如何程価値なきいたづらな放言であらうとも、一時はカツと胸を打たれる性質を持つてゐた。どんなに当ずつぽうに出鱈目な罵倒や皮肉を浴せられても、暫くそれを思つてゐると、何となく新たに享け容れてしまつて酷く気をくさらせる性質があつた。だから私は、往々虚勢的な夫婦喧嘩を演じた。五歳の子供と不思議な喧嘩をした。そして喧嘩の途中で、急に私は収縮してしまふのが常だつた。 ﹁あの地震を知らなかつた君は幸福だ。﹂ 私は、突然そんなことを云つた。 ﹁さうだ、未だ君からは地震の話は一度も訊かなかつたね。あの時は、勿論君は死んだと思つたよ。地震からは急に手紙も来なくなつたんでね。﹂ ﹁変だね。﹂と私は云つた。﹁あれこそ素晴しい致命的な出来事だ。﹂ 睡眠不足の頭で私は、稍々妄想に駆られ過ぎてゐた。﹁僕の田舎の友達で、あれ以来夜中に突然飛び起きるといふ新しい習慣が出来て、それが為に始終睡眠不足で、到々店を失敗してしまつたBといふ男があるよ。﹂ ﹁それは君ぢやないか?﹂ ﹁俺はね、臆病な癖に、あらゆる外界からの刺激に対しては大変に鈍感なのだ。直ぐに忘れてしまふ癖を持つてゐる。﹂ ﹁地震は別だらう。﹂ ﹁あれは別だ。﹂と私は、漠然と矛盾を感じながら重々しくうなつた。﹁思ひ切り好く突然消え去つたら爽々しからう、あのやうに、予感なしに、――俺がゐた隣り村の山崩れのやうに、一瞬間で君、村が、何百尺の赤土の下になつてしまつたんだぜ。﹂ ﹁ほう!﹂と山崎は、蒼くなつた。 ﹁あれは素晴しい致命的な出来事だ。﹂と私は、口癖のやうに繰り返した。﹁そして俺が通つた時には、赤土の原の真中に一条の小流がさらさらと流れてゐた。﹂ 私は、厳かに身震ひした。山崎は、首垂れた。 ﹁ところがその村の村長は――﹂と私は、云ひかけて、独りで思ひ出してゐた。村長は、海辺にある別宅で午飯中だつた。山崩れと一緒に海嘯が来た。同時に村長の家は舟になつて、沖に運ばれたが、二度目の波で板のやうな赤土の陸に伴れ戻された。村長は、行きの儘の姿で、箸と茶碗を持つたまゝ食卓の前に坐つてゐたから無事だつた。 ﹁村長は?﹂ ﹁村長は、海水浴をしてゐて救かつたさうだ。﹂ どつちの噂が真実なのか私は知らなかつた。今度帰郷したらあの村長を訪れて、遭難談を訊ねて見ようなどゝ私は思つた。 好く晴れた暑い日であつた。地震で波打ぎわだけに海嘯が二度ほど起つたが、あとは遊泳でも出来さうに凪いだ海原だつた。崖の中腹の家から逃れ出て、やはり崖の中腹にある畑の中から私は、青い海を見渡してゐた。崖ばかりの村で、村民達は蒼くなつて此処に集り、震えてゐた。私の村の後ろ山は崩れなかつた。 ﹁然しあの村長は、もうあの村にはゐまいな、村民が悉く消えてしまつたのでは――﹂ ﹁気の毒な村長だね、寧ろ。﹂ ――別の話題に移つてから私は、また暫く黙つてゐた。 ﹁何だ。﹂と山崎は、細君が横を向いて読書してゐるのを見定めながら、何といふことなしに私の肩を握つて、云つた。私は、暗闇で悸された時のやうに、思はず、 ﹁ギヤツ!﹂と叫んだ。﹁悸しては厭だよ。俺は臆病なんだから――﹂ ﹁何を六ヶ敷い顔つきをしてゐるんだ。酒が廻らないと見えるな。﹂ ﹁……うん、どうも。﹂ ﹁大分君の仕事も悪評されてゐるね。俺、いろいろ見たよ。――それよりも君は自分自身に自分で参つてゐるらしいね。﹂ ﹁うむ、それは生れてこのかた。﹂ 私は、横腹のあたりでギヨツとした。すき通らない弱さが、飛んだところに腫れ出る不快を感じた。﹁だが、君が見たといふのにはどんなことがあつた。﹂と私は追求した。 ﹁肉親の悪口を公けに演説した作家――といふのがあつた。﹂ ﹁――さうか。俺は、身内の者に向つては腹では涙を滾して謝まつてゐるんだがな。仕方がない、作家的素質に欠陥がある……﹂と私は、ムツとして、不貞な表情を保つた。 ﹁厭味な青二才の酔ツ払ひ! といふのもあつたぞ。﹂ ﹁それは参つた、一言もない。﹂ ﹁だらしなし! ともあつた。﹂ ﹁……うむ。﹂と私は、喘ぐやうな吐息を衝いてうなつた。 ﹁他合もない末梢神経を、一人好がりに囀つてゐる――﹂ ﹁それは、だけど、人それ〴〵……﹂と私は、極く低い声でブツブツと小言を呟いだ。 ﹁駄々ツ子だ。﹂ ﹁まさか、三十一才の男が……﹂と私は、心細気な苦笑を浮べて返答した。 ﹁自己否定的なことを云ひながら、結局自己を承認してゐるからいけない――﹂ ﹁何云つてゐやがるんだい。﹂と私は、云ひ放つた。 ﹁馬鹿々々しいところが望みと云へば望みと云へる……﹂ ﹁…………﹂ 私は、涙でも堪へてゐる者のやうに唇を噛んで、シュンと鼻をすゝつた。 ﹁狡い男だ。﹂ ﹁そいつは痛い!﹂と私は、真ツ赤になつて叫んだ。そして、また低声で呟いた。﹁怖ろしいことを見破られた。あゝ、これこそ汗顔の至りだ。あゝ、俺は他ひ人とに合せる顔はない、あゝゝゝゝツ!﹂ 私は、観念の眼を閉ぢて食卓に突ツ伏してしまつた。体中が火のやうに熱かつた。胸の鼓動が近火を報ずる鐘のやうに、乱打された。息もつまりさうだつた。 山崎は、一息いれた後に尚も続けた。﹁噂に依ればあゝだ、こうだ、タキノは夜を極めて酒を飲むさうだが、それは小説家である誰々の影響だらう。こんなことを書くタキノの顔も解る気がする――などゝいふ出所は公にせずに噂と称して吹聴してゐる者もある。﹂――﹁然し﹂と此処で山崎は、自分の言葉をはさんだ。﹁この人は君の顔を解ると云つてゐながら、冒頭では君の小説は解らないと云つてゐる。君交際してゐる人か?﹂ 私は漸く顔をあげて、始めて平然として返事した。﹁それは、俗の悪い厭がらせだ。ヘッポコ皮肉といふものだ。人は、何年か前に牛込区で隣りに俺が間借をしてゐたことがあるので、顔は知つてゐるが、何年にも親しく会つたことはない。――一体それらの批評は何に出てゐるのだ?﹂と私は、聞き返した。だが私は、嘗てそれらの批評は読んだことがあるのだ。私は、自分に関する他ひ人との言葉を胸をときめかせながら見る習慣が、日増しに色濃くなつてゐた。身近にあるものならば決して見逃さなかつた。――そして、その時は、今山崎の前で表現した通りに、独りで、赤くなつたり白くなつたりした験しがあるのだが、斯う、わざと知らん振りをして聞き返したのである。山崎の話し方が大分に誇張的に走つてゐることゝ、好いあんばいに悉く忘れてゐたところなのに、今新たに山崎の言葉に操られて思はぬ醜態を示してしまつたのが業腹だつたからである。 ﹁△新聞の文芸面と△雑誌の月評章と△△パンフレットの寸鉄欄といふところ――どれも余程注意深い読手でなければ見出せないところ。﹂ ﹁さうか。ぢや、後で見せて呉れ。――もう好いや、何となく清々としてしまつた。﹂ ﹁君は、余程野蛮な人間として一笑の許に取り扱かはれてゐるらしいな。﹂ ﹁さうかしら? 困つたな。﹂ ﹁君は君の夫人に対して不親切だといふ評判を聞いたぞ。﹂ ﹁君は洋行帰りだから思ひ過すんだよ。﹂ ﹁まさか――。親父のへンリーがゐたら君にそんなことは云はせまい。﹂ ﹁だから俺は、ヘンリーとは趣味が合はなかつたよ。阿母とは趣味だけは合ふんだが……﹂ ﹁君はけしからん。親を相手に趣味云々だなどゝ、――それは、たしかに野蛮性だ。﹂ ﹁俺は、厭世思想に欠けてゐるね。臆病なばかりで――。嘆きは知つてゐる。好く云ふ通り俺は、心底から自分を怖ろしい Foolish だと思つてゐる。﹂ ﹁さうらしいね、気の毒だが。――俺は、日増しに厭世的になつて来る。憂鬱だ。﹂ ﹁そんなに忙しいのに!﹂ ﹁だから退屈はしてゐない。君のやうに。﹂ ――﹁この酒は、大変に不味い酒だな。実は、それが先さつ程きから一番気がゝりでならなかつたんだ。それが云ひ出せなかつたので、他のことを喋舌つてゐたんだ、苦々しく。……さつき悲鳴をあげて食テー卓ブルに突ツ伏したのも、実は、この酒が不味くて、何うしても胸を落ちないので、一思ひにウノミにするために、あんな挙動をしたんだぞ。……変だ、斯んな綺麗な徳利に斯んな中味を入れて出すなんて!﹂ 稍ともすると山崎は、私が、つまらなさうに苦い顔をする〳〵、何といふ退屈がりやだらう、口でばかり虚勢を張つてゐるが、腹には何もないんで心細いんだらう、加けに悪い鬱屈を蔵してゐるらしい、一寸話が止絶えると君は孤独気に、実に妙な顔を保つてゐるので、気になつてならない――などゝ、私が私の文章の中に嘗て書いたことがあり、私は飽きてゐる、こと見たいな言葉を、何となく面白気に放言するのが、私は面倒になつて、この酒は――と答へたのである。 ところが私の言葉が、もう少し続かうとしてゐるところに、 ﹁おツ!﹂と山崎は、酷く驚いたやうに眼を視張つた。愕然として色を変へた、と云ふべきであらう。恰も私が、一刻前に山崎からの批評の報告を聞いて、﹁それは痛い!﹂と叫んだ時の仰天さと変りがなかつたのである。寧ろ私の方が、一瞬間唖然としてしまつた。――﹁君は、いつの間にか酒の味が解るようになつたのか! しまつた。﹂と山崎は、自暴気味にうなつた。そして、悲し気に眼を視張つて私の顔を凝つと打ち眺めた。 私は何だか気の毒な気がしたので、 ﹁どうして?﹂と親切気に云はずには居られなかつた。﹁昨夜も飲み過ぎてゐる俺で、胸の具合が大分悪いんだ。だから、俺の舌が悪いのかも知れないと思つて、いろいろ試験をしてゐたんだよ。﹂ ﹁いや、参つた。﹂と山崎は、全く一刻前の私のやうに真ツ赤になつて、極く低い声で、弁明した。――﹁これは非常に安い値段の酒なんだ。値段だけに賛成して、違い田舎の或る友達から秘密に譲りうけたんだ。吾う家ちに来る友達は皆なこれを飲まされてゐるんだ。君のやうなガブ飲家には、勿論大丈夫だと思つて、安心してゐたんだ。……それで、俺も、厭だから、今日だつて成るべく飲まないやうにしてゐたんだ。一人の時は、他のを秘かに飲んでゐるよ。﹂ ﹁道理で君は、今日は大変強いと思つた。外国へ行つたので強くなつて帰つて来たのかと云ふ気がしてゐたんだよ。﹂ ﹁実際これは不味いね。――それにしても、しまつたことが持ち上つたといふものだ。……不味い〳〵、君、もう酒は止さうよ、吾家には日本酒は他にはないんだ。洋酒は、君は嫌ひだし……まア、失敬した。﹂山崎は、何となく気嫌を回復したやうな愛嬌を示して﹁飯を食はう、飯を食はう、ビールを少しつき合つても好い。﹂と云つた。﹁僕は経済生活を主眼とし始めたんだ。その方が君、人生は幸福だよ。――おい、君は△△といふ男を知つてゐるかね、俺と一緒の船で帰つて来た男、近頃非常にハイカラな作品を発表して、新時代の男女から大変な人気を博してゐる男、ギンザ・パーラーへ行くと好くあいつに会ふよ、洋装の女房なんて伴れて鼻高々と文学々生相手に洋行談を吹聴してゐる――だが君あいつの家には行かない方が好いよ。驚いたことにはあいつも秘かにこの酒が仕入れてあるんだ、あの有名な美食家が。俺が、田舎のその酒屋の友達と知り合ひであることをあいつは知らないのさ、あいつもそれとは学生時分の友達なんだが……。あの時は俺は全く驚いたよ。また、あいつも止せば好いのに、この酒は君、わざわざ何処そこから取り寄せた自慢の酒なんだよ、どうも東京の酒はいくら吟味しても吾々の口には合はんのでね、なんて勿体振つたことを云ふんで、俺は悦んで盃を取りあげると、プーンと。﹂山崎は、鼻をしかめて私の盃を指差しながら﹁これさ。俺も家にでもなかつたら紛ごまかされたかも知れないが、家でさんざん嗅ぎ慣れてゐる香りだからな、俺は、ハツと思つた。だが俺は、礼儀を知つてゐるから我慢してしまつたがね。つい此間その田舎の友達が来たから訊ねて見たら、案の条だ。その男も△△から黙つてゐて呉れと頼まれてゐたらしかつたが、つひ俺に吹聴してしまつたわけさ。二三日うちに△△が来るさうだが、俺は困つてゐるよ……さて、飯にしようか。﹂ ﹁まだ好い、俺も斯ういふ酒を飲み慣れたい、君の家で練習をしてから、そつと仕入れを頼まうかしら。俺など、ほんとうに贅沢を云つてゐられる状態ぢやないんだが、酒はどうも――﹂ ﹁さうだ、容易には飲めないよ。もう止さう。﹂ ﹁これから、いろ〳〵な生活をしようとするにはそれぢや駄目だらう。﹂ ﹁何だ、酒の話を何かに結びつけてゐやあがるな。それは止せ――。そして斯んな酒も止さう。﹂――﹁だが、悪く思はないで呉れ、吾う家ちの女房は俺に、不規律な損をかけまいと思つて心配してゐるんだ。彼女は戦後の苦しさを知つてゐるから……﹂ ﹁余程気嫌が悪いらしいね。﹂と私は、細君の方を決して見ることなくに云つた。 ﹁おゝ、非常に悪い!﹂ ﹁何時頃寝るの? 先に寝ても好いだらう。﹂ ﹁彼女は宵ツ張りなんだ。客が居れば明方までゞもあゝしてゐる。礼儀は正しい。﹂ ﹁そして、この頃は一滴も酒は飲まないの?﹂ ﹁うむ。﹂と山崎は、何故か慌てゝ妙に眼を白黒させて点頭いた。 ﹁いつか君は非常な酒家だと云つたぢやないか。﹂と私は、一刻前の私と山崎の位置があまりに見事に転倒されたのを感じながら愉快な余裕をもつて意地悪る気に疑ひの眼を視張つた。 ﹁飲まないことにしたんだ……﹂ ﹁ホーム・シツクは治つたの、君の愛情のおかげで。﹂ ﹁まあ。﹂と山崎は、しどろもどろな返事をした。さつき彼は、彼女のホーム・シツクが日増しに酷くなつて、気嫌の取り方が一段と六ヶ敷くなつたと滾してゐたのだ。 ﹁それは好かつた。――だが俺は、少し苦痛だな、白々しい細君から睨まれてゐるやうな気ばかりして! 一体俺は、異人は苦手なんだ。十年も前頃へンリーの友達であるアメリカ人の娘と余儀なく交際させられて以来……﹂ ﹁解る。――好い加減に切りあげよう。俺は、あいつが怖い。﹂ ――﹁あれを飲まう!﹂ 私は、山崎の背後の飾り棚に見出した焼物の酒壜を指差して、突如として叫んだ。 ﹁えツ!﹂と山崎は、思はず神経的に頤を引いた。﹁君は洋酒は嫌ひだらう。チヨツ! チヨツ! あれは彼女の酒だ。﹂ ﹁あれは好きだ。あれはうまい酒だ。俺には親しみのある酒なんだ。﹂ ﹁毒になりはしないか、混合的に飲んでは?﹂ ﹁極夜の記といふ俺の小説で、二十歳の俺が夜中に親爺の酒を盗みに行つてゐるが、その酒が実にあれと同一であつたことを俺は、さつきから気づいて、感傷に走つてゐたんだ。俺は、そも〳〵あれで酒の味を覚えたのだ。﹂ ﹁そんな君の小説は俺は読んだこともない。嘘をつけ!﹂と山崎は、ほき出した。 ﹁ヘンリーはあれを朝飯の時に二三杯位ゐづゝ飲む習慣だつたよ。その時分には、田舎などにはあれがなくつて親ヘン爺リーは、横浜に居たフロラの家から送つて貰つてゐたんだ。﹂ ﹁こいつ、フロラに嫌はれやがつたくせに。﹂ 暫く云ひ争つた後に私達は、把手のついた土製の洋壜を代る代る夫々のグラスに傾けてゐた。 ﹁えゝ、もう斯うなれば仕方がない、タキノ! 俺はがつくりと酔が廻り始めた、急に!﹂ ﹁君は兵隊にも行つたことがあるな。たしか陸軍々曹だつたと思ふが。﹂私は、そんなことを云つた。 ﹁強いぞう、俺は! さあ、どうだ、俺の腕をねぢつて見ろ。﹂ ﹁夜を極めて飲まう。漸く俺は落つきが出て来た。――Bの病気がうつツたのかしら、シラフの時は大変に心細い、今にも息の音が止まりさうになる、そんな思ひが多い、例へば何時あの大地震が来るかも知れない、そんな怖れに襲はれながら、何となくギゴチなく脚をふまへてゞも居なければ居られないと云ふ風な心持の上に変な癖が出来てしまつた。﹂ ﹁俺にも何処かにそれに似た心持が強い。ウワーだ。お互ひにオトナになるのは厭だなあ……つまらないことを云つてゐらあ!﹂ ﹁Bは、それが心持の上ではなしに挙動に現はれるやうになつてしまつたんだ、地震以来。﹂ ﹁あの話は止して呉れ、B君の――﹂ ﹁バツカスお前の酒樽に――だ。﹂ 私は、グラスを高く差しあげて、面白気に歌つた。﹁アタマニ、ブドウノ、フサカブリ――か。﹂ この時、凝ツと身動ぎもせずに熱心な眼を書物に落してゐた山崎の細君が、憤ツとした表情を挙げたかと思ふと夫に向つて、二三言吠えるやうに力強く云ひ放つた。 ﹁おい、山崎! 何と云つたんだ?﹂細君に返答してゐる山崎の言葉が止絶えると同時に私は、慌てゝ彼の通訳を求めた。 ﹁――馬鹿奴! その騒ぎをもつて地獄へ行け! だつてさ。こいつ、俺のことを!﹂ ﹁…………﹂ 私は、ガンと胸を打たれて蒼くなつた。さつき山崎が私へ伝へた批評などは、これに比べれば末梢的なものに過ぎなかつた。私の日頃の怖れは、そんな妄想であるらしかつた。私には、返つて、絶望的に、安易さへ想像される言葉であつた。 山崎は、苦し気な微笑を浮べて﹁こいつは短気なんだよ。だから俺は、今あやまつて置いた。だけど、好いよ、斯うして……なるべく、寛やかな微笑を浮べながら、静かさうに、呑気さうに、話してさへゐれば、少し位ゐあいつの悪口を云つたつて、あいつは、俺達が明日の天気のことに就いて話してゐるのだと思つてゐるから――いや俺は今さう断つて置いたから。﹂と云ひながら山崎は、窓から首を出して空の具合を眺めた。――﹁だが、タキノ、俺も驚いた。君も怖ろしいだらう、彼女の言葉だつてプリントにしたら批評として通用するぜ。現に君、さつき俺は云ひ落したが、俺の仕事に対しても、消えてなくなれ! なんて云ふ凄い批評もあつたぜ。さう云はれて返答の出来る筈はないよ、誰だつて――。おい、好い月夜だ。﹂ ﹁…………﹂ 私はフラ〳〵と立ちあがると、船酔に悩んでゐる者のやうに、からつぽの頭をかゝえて、よろめいた。更に私は、脳貧血の発作に打たれたみたいに、力なく眼を閉ぢ、右の掌で額をおさへ、片方の柳のやうな腕で虚空をさぐりながら、よた〳〵と窓辺へたどりついた。 * ﹁遠方の友吾に双鯉魚を贈る、童を呼び鯉魚を烹る、中に尺素の書あり、長跪して素書を読む﹂昔、双魚と書いて之を手紙と読ませたといふ話を私は或時、或る友達から聞いて、趣味深く思つたことがある。 * わが親愛なるミセス・フロラ・H――よ 私は、君や私の母から私の文芸作品を望まれてゐながら何れも約を果してゐない。加へて私は、大地震の時の私の遭難談と現在の情況を報ずべく君より求められてゐながら共に怠つてゐた。どうぞ、この部厚な小包を、私のこの平信を、それら二つの約に代へさせて貰ひたい。君の最も閑な時間のみを選んで、シヲリをはさみながら読んで呉れゝば幸ひである。――素てが書みでは書きゝれない。私の作品は時々、この都で発行されてゐる二三の月刊雑誌に載せられる短篇小説のみで、未だ私は単独のノベルを持たない、勿論君が望んで寄した英訳本などは持たない。この前後の二章で律して呉れゝば解る程度の貧しいものばかりしか書いてゐない。そして私は、斯様な文章を今日も書いたのである。たゞの素書では何ういふ風に報じて好いか解らなかつたから。これでも、私はこの頃創作生活のみに没頭してゐるのだ。そして元気だから安心してお呉れ。前後の章は私の創作だと思つて呉れゝば幸せだ。﹁山崎﹂は、名前だけは君も知つてゐる筈だ。君が日本にゐた頃からの私の親友であつたから。だが、﹁山崎﹂が前章に於けるやうな性格ばかりだと思つては困る、山崎の夫人も同様に。私が勝手にペンの上で彼を能弁にさせた傾きが多いのだから。だが、私がこの頃屡々﹁山崎﹂の家を訪れることは真実だ。彼の夫人は君のやうに愛嬌が好い。君以来毛フオ唐レナーの知人を知らない私は、まことに汗顔の至りだが、﹁山崎﹂を訪れると第一に君を連想するのだ。﹁山崎﹂も私から、時々君の噂を聞きたがる。私は嘗て﹁或る五月の朝の話﹂といふ小品文を書いた。君が、吾家に滞在中の挿話をヒントにして。私が、酒を飲み過ぎて君の不気嫌を買つた話さ。 これでも、この素書が私のこの夏中の唯一の仕事だ、六月から今日まで、これから田舎へ帰つて新しい仕事に取りかゝる決心だ。秋にでもなつたら君は、私から愉快な素書を受けとるかも知れない。この次には屹度あたり前の素書を書く。天井の低い、トタン張りの家根の下に二つしかない部屋に、七八人もごろごろしてゐる。夥しい暑さだ――私の頭はかなり怪しい。これから田舎へ帰ると云つたが、あちらへ行つても今は自分の書斎もないし、震後のバラツクだし、そして相変らず旅行には慣れないし、何とまあ憐れな私は﹁新しい仕事﹂を抱へて、宙に迷つてゐる仕末だ。﹁山崎﹂が若し避暑にでも出かけるならば彼の書斎を借りるであらうが、彼は、沢山に仕入れた酒がこの近年稀なる温気のために悉く完全な酢に化してしまつたので、その損害を補ふために避暑の計画を放擲した。海嘯で命を拾つた村長は、今では遠い県に移住して税吏になつたさうだ。だから訪れようもない。私も、あれでは命だけは止りとめて細々と生きてはゐるものゝ、斯んな生活で宙にばかり迷つてゐると、折角長日月を費して採集した﹁新しい仕事﹂の素材を、﹁山崎﹂の所謂酢に化せしめてしまひさうな危惧を感じてゐるのだ。そしたらいつそ私は、君の国を訪れる。――ともかく、私達の都へは十何年振りと云はれる素晴らしい酷暑が訪れてゐる。二
﹁では、今度の君のその頬の傷は、まるで俺が手を降したやうなものだね――さうだ、あの晩俺が吾家にたどりついたときには、夜が白々と明けるところだつた。﹂
﹁みつともなくつて外にも出られない。﹂
山崎は、夫人にひつかゝれたといふ額の傷を気にしながら眠さうに呟いだ。﹁今日こそ君、早く帰つて呉れね。……え? 女房は今昼寝をしてゐるよ。――君の細君なんかは爪はどんな風に切つてゐる? 三角にとがらせてゐるんぢやないのか?﹂
﹁生活が許さないよ。﹂と私は、眼を視張つて、否と強くかぶりを振つた。﹁あの爪は怖い、俺にも古い記憶がある。﹂
﹁何故君は、田舎に帰らないのだ?﹂
﹁阿母が未だしつかりしてゐるから好いんだ、俺は俺で――﹂
﹁俺は俺で……か! ふん! ……だつて君だつて、何も自ら不幸な生活を求めてゐるわけでもあるまい?﹂
﹁さうだ――だが俺は、もう余ツ程慣れて来たよ。﹂
﹁君の所謂長い学生々活にか! それでもちつたあ勉強をするのか?﹂
惨めなとか、不幸なとかといふ代りに山崎は、私は一度だつてそんな風に自認したことも自称した筈もない学生々活といふ風に云ひ廻して、つまらなく私の心を明るくさせようとしたらしかつた。――﹁古い友達といふものには、一面困つた仕末の悪さがあるものだな。﹂
さう云つて私は、苦い顔をした。何かに悸おどされたやうな気がしたのである。﹁女房は俺の不甲斐なさを切りに嘆いてゐる。あいつは此頃になつて漸く俺と結婚したことをほんとうに後悔し始めたらしい。﹂
﹁それあさうだらう。﹂と山崎は、驚く気色もなくうなつた。﹁女は君、女は君……﹂
﹁あいつは怖ろしく安価な不平家だ。﹂と私は、口走らうとして、年中同じことばかり云つてゐる自分の愚に滅入つた。
常々私は、さういふ種類の感想は他ひ人とに向つては慎しまふと念じてゐた筈だ。一寸した家庭生活上の逆境で、もう自分の心は途方もなく歪んでしまつたらしい。出遇ふもの、出遇ふものが私には悪く新しく驚異であつた。﹁仕末が悪い、いつそ君のところのやうに細君の言葉なんぞが周囲の者に通じない方が好さゝうだ。あいつは此頃俺の仕事の邪魔をする、余程軽蔑してゐるらしい。﹂
﹁遊びでもしたらどうだ。﹂
﹁あいつこそ遊びでもしやあがれ。﹂と私は、変に興奮して叫んだ。そして私は、丸木橋を渡る臆病な人のやうに両腕を翼にして、愚痴ツぽいことを説明した。﹁俺のこの姿を見給へ、君だつて見覚えがあるだらう、この服は学生時代の一張羅だ。これは不思議と残つてゐたんだ。これは、その頃廃物にしてゐたので、焼け残つた祖母の家の古つゞらの中から偶然探し出したんだ、つい一ト月ばかり前のことだ……そして、何年かの後に思ひがけなくも、再び俺の一張羅となつたわけさ。随分見すぼらしいだらう、これ御覧! こんなところは斯んなにも虫が食つてゐる。﹂
﹁打撃だね、見得坊だつた君に取つては! だが、それぢや大丈夫だらう、質屋にも持つて行くまい。失敬、噂に依ると君はもうへンリーのお古は着物までも売り飛してしまつたさうぢやないか。﹂と山崎は、深い同情の念を露はにして私を慰めた。﹁俺は、君のそのネクタイ・ピンには見覚えがある。昔から君は、主にそればかりを用ひてゐたやうに思ふ。余程気に入つてゐるらしいな?﹂
私はふと、何か体裁の好い無造作気な法螺を吹かうと思案したが、言葉が見つからなかつたので、酷く因循な口調で自分のネクタイを眺めながら呟いだ。私は、ほんとうのことを続けて答へるのが気恥しかつたのだが、道がなかつた。
﹁これも、この服について残つてゐたんだよ。チヨツ、こんなもの! チヨツ、たつた一本しかありあしない。これぢあ、どうも……﹂などゝ呟きながら私は、物欲しさうな眼つきをして、胸の、くすぶつた銀色をした自由女神の握り拳の飾針をつまぐつてゐた。︵あゝ、あの時何故俺は、せめてあの宝石を鏤めた王冠型の方を望まなかつたんだらう、フロラに! あれは俺が幾歳の誕生日の彼女の送り物だつたか忘れたが、あれもまた悪い見得だつたに相違ない!︶
手持ぶさたから私は、山崎に地震の時の遭難談を語つた。海外にゐてそれに出遇はなかつたばかしでなしに山崎は、私の話に熱心な耳を傾けた。
﹁同じことを繰り返して云ふが俺は、たしかに君達は死んだと思つたよ、場所が場所なんで。それに地震以来君は、ハタと手紙を寄さなくなつてしまつたんでね。……地震は怖ろしい。吾々は噴火口の傍に坐つてゐるやうなものなんだつてね。思へば凝つとしてもゐられない。﹂
﹁さうだ。﹂と云つて私は、下唇を噛んだ。
私は、詳細な遭難談を終へた後に次のやうな挿話を附け加へた。
﹁その大地震をだね、僕と同じ村で俺の隣りに住んでゐたBは知らずに眠つてゐたんだ。断つておくがBは俺のやうな酒飲みではなかつたんだ、その後は別だが。﹂
私は崖ふちの畑に逃れてからBの居ないのに気づいたから慌てゝ彼の独房へ走つた。彼は、その四五日前から私を訪れ旁々その村に湯治に来てゐた。――見るとBは、茶室めいた室の軽い屋根が、虫籠を踏んだやうにねぢれた下で、口を歪めてグツスリと眠つてゐた。
﹁夢だ〳〵! 夢の中で俺は夢を見てゐる。あゝ君か、俺は今怖ろしい夢を見てゐるのだ。あゝ、大変だあ――﹂
醒されて惨状を一べつした瞬間にBは、斯う云つて私に抱きついた。私は、始めから一言も云はずに、甲斐々々しい蟻のやうに、歩けない大きなBを肩にして畑まで逃れた。
Bは、恰で狂ひだつた。夢ではないといふことを私は、畑に来てから声をからして納得させやうとした。
﹁そ――ら来たあ!﹂
絶間もない余震の小ゆるぎに打たれる毎にBは、地ゆるぎと同じ長さを持つて、叫んで、飛びあがつた。附近の村民達は悉くそこの崖の中腹の畑に一団となつて立つてゐた。Bの叫声に打たれる毎に、一同は手を握り合せた。
﹁あそこに木が積んである、あれを運べ!﹂とBが号令した。村の産物が木地物細工で、その工場の裏だつた。六尺ばかりの長さの厚い板が山のやうに積んであるのをBが指差した。地が裂けるといふのだ。人々には妄想的な理性より他はなかつた。他ひ人との大きな言葉に雷同して盲信するより他に力がなかつた。一時間後の回想ですら想像し憎い。
村民達は子を背おひ、老者の手をとつて一勢に駆け出した。Bが先頭で、私が最後のランナーだつた。手を挙げて叫びつゞけるBは、戦線の少尉のやうだつた。――﹁早く〳〵〳〵!﹂
村人達は、それが今にも橋になるであらうことを想像しながら、持ち帰つた各自の板の上に夫々立ち尽した。
﹁皆な棒を離すな。﹂とBが叫んだ。皆な丈よりも高い厳丈な青竹の棒を、籔へ駆け込んで急造した。籔の中は戦場のやうな騒ぎだつた。籔は斜面だつたから避難所にはならなかつた。中には吾家へ引き返して天秤棒を持ち出して来た者もあつた。
﹁そ――ら来たあ!﹂とBは、叫んで、六尺棒で、舟をおすやうに地を突き、両脚を四角に踏ン張つて五体を支えた。老若男女は一勢にこの号令を守つて、粛として見事にBを摸した。街道が畑から見上げると二間ばかり高さの処に台になつて横たはつてゐる。Bは、さうだ! と独り言つやいなや、しつかりと私と私の妻の手を順に握つた後に、猛然と、その一段高い道路に駆けあがつた。
﹁棒を離すな! 板を踏み外すな!﹂
群衆に向つてBは、悲愴な命令を放つた。
﹁……そオ――ら来たア!﹂
そして彼は、鮮やかな模範を示して、飛鳥の如く身を翻がへした。Bの五体は、私はそれが何んな形ちの物か見たことはないが、まさしく一個の地震計だつた。微妙な震度に応じて彼の姿体は、様々な姿制を活人画として人々に感知させた。その動作の適格さは、或る時は六法を踏む弁慶であつた。出発点に立つたオリンピツクの勇士であつた。山月にうそぶく虎になつたかと見ると、虎を射した加藤清正にも増した満身の力を込めて地に逆つた。激流を降る錬達の船頭となつて、縦横に棹さした。恰も金箍棒を打ち振ふ決死の孫悟空の凄まじさだつた。――︵Bは、ずつと後までこれを夢だと信じてゐた。︶
﹁そオ――ら来たあ!﹂
Bに応じて、村民達も呼応した。彼等はスパルタの兵士達よりも厳しい訓練をうけた体操家となつて、呼い吸きを一つにした。――あゝ、私だつてあんな怖ろしい命がけの体操が、嘗てこの地上で演ぜられたことを思ふと、夢としか思はれない。あゝ、私は、あんな不思議な体操家を、お伽噺の作家になつても空想することは出来ない。
﹁それ以来Bは、哀れな神経衰弱患者になつてしまつた。﹂と私は、眼を伏せて祈るやうに呟いだ。﹁結婚をしたが、二タ月目には夫人の方から出て行つてしまつた。Bは、少くとも二回、夜中に夢にうなされて、バネのやうに飛びあがるのであつた、そして、あらん限りの声を挙げて、あの号令を絶叫するのであつた。彼の町もあの村と同じく地震に怯やかされた町で、近隣の人々は屡々真夜中に総立ちになつた。到々彼は、町を追はれなければならなかつた。夜と昼とが完全に転換してゐるBには、家業も出来なかつたのだ。﹂
﹁B君を俺に紹介しないやうに頼むよ、タキノ。﹂と山崎は、不安な眼を輝かせて﹁俺だつて、それをやられては飛びあがるよ。﹂と云つて、凝つと空に耳を傾けた。
﹁いくらか快方には向いてゐる。吾家に来るまで彼は、諸国の滝めぐりをして来たさうだ。だが俺だつて怖いので、二人で生体なくなるまで飲むことにして救はれてゐる。今では彼は、俺の三倍も酒を飲むよ。俺こそ、それをやられては堪らんからな。﹂
﹁君と一緒にゐては反つてB君の病状のために悪くはないのか?﹂
﹁二人は決して地震の話はしない。――Bは、もう行く処がないんだ。吾家と同様に、あいつの家も地震と同時に破産してゐるのだ。Bのために何か仕事はないだらうか?﹂
﹁考へておかう。﹂
﹁夜の勤めが好い、そして周囲が騒々しいところでなければいけない。﹂
﹁新しい劇団に入る気はないだらうか?﹂
﹁声はたしかだ。だが、あいつには一役しか勤まるまい。牧場の花嫁といふ表現派の芝居をあいつと見たが、あいつはあの絶叫ばかりしてゐる花嫁を、怖ろしい眼つきで見てゐたよ。帰つてから実に巧みにあれの模倣をしたぜ……あの男の科白も――﹂
私達は、額をあつめてBの仕事について考へたが、どうしても適当な思案が浮ばなかつた。終ひには、山崎は、私の異様な熱心さに疑念を抱いて、
﹁君は、B君に事よせて、自分を語つてゐるのぢやないか?﹂と云つた。――﹁君こそ、B君の例の言葉の真似が巧い、厭に、真に迫つてゐるところがある。殊に、この頃の君は、自己を三人称で称んで話したがるやうな、それで小説的とは云へない――妙な弱さが増長してゐる!﹂
﹁おやツ!﹂と私は、窓を眺めて驚嘆した。窓硝子が水底のやうにぼんやりと仄白んでゐた。﹁夜が明けたのかしら……?﹂
﹁さあ大変だ!﹂
山崎は、がばと椅子から立ちあがらうとあせりながら連呼した。﹁また飲み明してしまつたんぢやないかしら。女房が何処かへ行つてしまつた! あいつは何処へ行つたんだらう、さつきは、たしかに此処に居たのだつたが! さあ、困つた! 時計〳〵! 時計は何処だ? タキノ、大急ぎで時計を探して呉れ。﹂
﹁おい、まあ少し気を落つけて呉れ、ヤマザキ! 俺が今! 俺が今!﹂と私は、息を切つて狂つたやうな友達を静めようとした。気がつかずにゐたが、私は酷く酔つてゐることに、初めて気づいた。私は珍らしい酔ひ方だつた、首だけは自意識を感じてゐたが、やをら立ちあがらうとすると脚が利かなかつた、思つたところを手がつかめなかつた。
﹁俺は、歩けない。﹂と山崎が云つた。﹁斯んなに酔つてゐたことに気がつかなかつた! あゝ、あゝ!﹂
﹁君もか!﹂と私は、断末魔に似た声でうなつた。
﹁あゝ、俺は急に眼がグラ〳〵して来た。﹂
﹁しつかりして呉れ……俺が今……﹂
さう云つて私は、椅子の肘掛けに腕を立てようとしたが直ぐに尻もちをついた。私も、何時かチカチカとする眼であつた、見ると、卓子の上には、半ば装飾の為めに壁側の棚に並んでゐた種々な貴重な酒の壜が、何時誰が取り降ろしたものか、空になつて倒れたり、封を切つて栓が失はれてゐたりされて、三本も五本もキヨトンとして、静物画のやうに永遠の沈黙を湛えてゐた。
﹁時計はあそこにあるが見えない――俺が今、俺が今。﹂と私は繰り反した。﹁俺が今、ほんとうに夜明けなのか? それとも月夜に欺かれたのか? たしかめて来るから暫く凝つと落着いて待つてゐろよ。﹂
私は、満身の力を振ひ起して、四ツん這ひになつて、この前こゝで手さぐりでたどりついた時の同じ窓に向つて、ジリジリと忍び寄つた。
――﹁タキノ、解らないか? 間違へて呉れるなよ! 朝と月夜ぢや影が違ふぞ、空ばかり眺めてゐても埒は明かないよ。チヨツ! 鈍い奴だなあ! よしツ俺が見る!﹂と山崎は、舌打ちして、椅子から滑り落ちた。
*
こゝまで書いた、夏の真夜中で私は、ペンを止めて考へた。――これを読むフロラの表情を想像した。
止めなければならないと私は怖れた。誤解されるに決つてゐる。――だがこの他に、彼女の要求に答ふべき何を自分は持つてゐるだらうか?
春の終りの頃に自分は、この東京郊外に移つてから初めての夏を迎へたのである。森の蔭にある、書斎もない家である。
私は、小説執筆に取りかゝるやうな心持で、また別に――手紙らしい手紙を考へ始めた。形ちは違つても結局以上のやうなものになるに決つてゐた。
眠る時の用意に出来てゐる酒卓を私は、顧ることなく、明方を過した。明方になるとあたりの木々で蜩ひぐらしがかまびすしい。この虫が明方にも鳴くといふことを私は、この夏初めて知つた。――私は、頬杖をして坐り続けた。
私は、最も簡単な書簡文を書かうと、あせりながら、一行書いては駄目にし、三行書いては破棄して、午までに、書簡箋を一冊費した。私は、飯にも立たなかつた。もう一冊箱の中から取り出して、夕方、近頃としては稀な地震に出遇つて、ギヤツ! と叫んで机の前から飛びのいたまで、額にあぶら汗を滲ませながら私は、﹁余の親愛なる――﹂﹁余の親愛なる――﹂といふ書き出しばかりを、書き潰してゐた。盛夏、八月三日である。