一
停車場へ小包を出しに行き、私は帰りを、裏山へ向ふ野良路をたどり、待ち構へてゐた者のやうにふところから﹁シノン物語﹂といふ作者不明の絵本をとり出すと、それらの壮烈な戦争絵を見て吾を忘れ、誰はゞかることも要らぬ大きな声を張りあげて朗読しながら歩いてゐた。歩く――と云つても朗読の方へ大方の注意を込めてゐたから、一間すゝむと其処に五分間も立ちどまつて、神妙に首をひねつたり、また、思はず胸先に拳を擬し、何時までゝも空を仰いだまゝ、恰も琴の音に仰いで秣まぐさ喰はむ馬のやうに恍惚として、口をあけてゐたりするのであつたから――この﹁歩いてゐた!﹂には、形容詞や副詞に余程誇張した言葉を選ばなければならないのであるが、私は﹁私﹂を﹁彼﹂とでも書き変へぬ限り、その亢奮状態を客観視しなければならぬ時になつて見ると、私自身にさへ不自然を感ずる位ひであるから、ほんとうはその亢奮状態を仔細に写すべきが必要なのであるが、止むを得ず省略せずには居られない。何故なら、そんな亢奮状態といふものは、得て客観者にとつて意味なき滑稽感を強ひるではないか? ましてや、私自身が、自身の、あまりに生真面目なあまりに終に滑稽化された己れの姿を、回想し、再び眼の前に踊り現すなどといふ残酷な業が堪へ得るであらうか! たゞ一途なる情熱家である自分自身に、あはれみ以外のものを感じたくない――のは人情であらうよ。 それはそれとして、あゝ私は、常に、何といふ哀れな情熱家であることよ! ﹁シノン! シノン! シノン!﹂ 私は、彼の兵士の名前を声を限りに呼びあげてゐた。呼べば応へがある――かのやうに私は夢を忘れ、時を忘れ、忽ち作中の人物等と共に同じ空気を呼吸してしまふのが病ひであつた。――だから私は、滅多に本を読まぬことに努めてゐたのであるが、愛する子供のために東京に注文しておいた騎士物語の一部が駅留便で着いたので、さて、これを、何んな風に面白気に翻訳して、読み聞かせてやらうか? と思つて、早速歩きながら封を切つて、下験べをはじめて見ると忽ち自分自身が囚はれの身になつてしまひ、思はず力んで剣を振る、眼を据ゑて不思議な唸り声を挙げる……何うにも仕方がなくなつたので私は、慌てゝ道を変へて人通りの無い、裏山へ向ふ野良路に走つたのである。 ﹁今度の本も亦戦争かい、小父さん?﹂ ﹁ちよつと絵だけを先に見せてお呉れよ。﹂ ﹁やあ! 大きな馬だな、腹の真ン中に窓があいてゐるぜ、兵隊が入つてゐるな。﹂ 常々私の朗読のファンである学校通ひの小学生が、口々に呼びながら私の両腕にもたれかゝつて来たのであるが私は、 ﹁待つて呉れ〳〵、今度のは大分翻訳が六ヶしさうだ、余ツ程丹念に辞書を引いて、はつきりと、とりまとめて置かなければ話は出来さうもないよ。待つて呉れ、晩までかゝつて何うにかまとまつたら、いつものやうに納ナイ屋ヤのサイレンを鳴すから、そしたら皆な集つて来いよ――﹂ と辛うじて弁明して、野良路へ逃げ込んだのである。 ﹁シノン!﹂ と私は呼んだ。﹁僕等の納屋生活なんて、恰度君の木馬の腹の中の、決死の一夜にも似てゐるではないか!﹂ シノンといふのは、云ひおくれたが、斯の有名なるトロヤ戦争の殊勲者である。一兵卒のシノンが何うして、不意に、あの木馬の計謀を発明したか? シノン等は決死隊を組織して、木馬の腹の中で、何んな夜々を送つたか? シノンは木馬の腹の扉を、極度に細く、そつと開くと、折からの一条の月光が箭のやうな光りを送り、その光りで見ると同志の顔は何んな輝やかしさに充ちてゐたか、その時何日目で同志の顔に接したか、何んな祈りを彼等はあげたか、木馬が出発する前の晩にシノンは故郷の恋人と母親に何んな手紙を書きおくつたか――。 何どの一頁を瞥見しても私は、夥しく強く胸を打たれて息詰つた。そして私は、絵本を胸におしあてたまゝ、馬頭観音の祠の前に来かゝると、思はず其処に膝まづいて深い黙祷に沈んだ。賽銭をあげ、鈴を振り鳴し、言葉なく合掌した。二
そして私の迷信的気分は忽ち爽やかに晴れ渡つてゐた。私は、断然書物を閉ぢて、ふところに収めると、 ﹁あゝ、カルデャの牧人が――﹂ と、和やかな朝の空を仰いで、星の歌をうたひながら歩いてゐた。キャベツ畑の上を白い蝶々が舞ひ廻り、猫やなぎなどが伸びてゐる小流れの向ひ側の堤を、牛車がごろ〳〵といふ音をたてゝ通つてゐた。 すると牛車の男が、私に向つて手をあげて、 ﹁納屋に帰りますか?﹂ と呼びかけた。納屋といふのは、魚場の従業員の合宿所の謂である。――私は別段それに答へようともせずに、大きな、間の抜けた声を挙げて、 ﹁お早う、G――、凄い働き振りぢやないか! 昨夜は、あれから真ツすぐに帰つたと見えるね。﹂ などと問ひ返した。牛車の御者は納屋の従業員でゞもあるG――と呼ぶ親孝行で評判の若者であつた。 この頃来る日も〳〵、風であつたり、雨が続いたり、晴れたかと思へば潮流が定まらなかつたりしてゐるので網をあげてからもう十日あまりも経つのであつたが、未だに一向潮模様が収まらなかつた。納屋の広場には網の塁が築かれ、浮標に使ふ貝殻のついた四斗樽が幾十となく其処に転がつてゐた。そして、多くの従業員達の――賢者は野良へ戻つて田を耕し、馬鹿は町の廓へ通ひ詰め、飲酒者は居酒屋で夜を更し、孝行者は父母の許へ帰宅して森や林へ薪を拾ひに行つてゐる――といふことになつて、納屋に完全に居続けてゐるのは気象係りのHと呼ぶ農学士と、そして其処の参観者とも食客ともつかぬ立場の私達夫妻だけであつた。だが、Hも二日ばかり前の晩に、性急な舌打ちを繰り返しながら、掲揚旗とサイレンとに関する配慮だけを私達に任せて置いて、隣県の妻の許へ帰つて行つた。 ﹁何うして?﹂ ﹁午から納屋の連中が、マメイドの二階に寄り合ふんです。﹂ 村にたゞ一軒の居酒屋である。 ﹁それは、また何うして?﹂ ﹁何うして……ツて! 何とかして網が入れられるやうな相談をしなければならないぢやありませんか、斯う毎日々々私達は陸で、居候を続けてゐるんぢや全く何うも情けないぢやありませんかね……﹂ 漁業を――﹁一枚の板子の下は地獄である﹂と称してゐる海の仕事を天命の職と心得てゐる彼等は、田や畑の仕事にたづさはつてゐる境涯を、居候! と云つて、丁度屯所の天幕の中で戦ひの来るのを待つて腕をこまねいてゐる兵士等と同じやうに、花々しく猛り狂ふ夢をおさへてゐるのであつた。 ﹁寄り合ひ――をね……﹂ と云つて私は、眼を細くしてぼんやりと空を見あげた。好く晴れ渡つた朗らかな晩春の空である。斯んなに麗らかな空でありながら、何うして海ばかりがそんなに荒れつゞけてゐるのだらう。いや、その海だつて、この丘のあたりから遥かに見降すと全く紺碧に澄み渡つてゐて、何処に何んな風波が渦巻き、何処に何んな悪潮が流れ込んでゐるのか決して想像もつきはしない、不思議に綺麗な海洋である。遥か彼方の水平線の上を細い煙りをたてゝ、進んでゐるらしい汽船が一つ、たゞ後ろに悠やかになびいてゐる煙りの具合だけで、走つてゐることが解るどこまでも長閑気な、のたり〳〵の春の海原ではないか。 ――だが、再び、何んなに私達が多くの思慮深い額をあつめて、事を謀らうが、長夜の寄合ひを続けようが、相手が深淵極りなき大海原であり、大ネプチューンの支配下である限り――嗚呼! 私達は、如何なる議を廻らし、何んな寄り合ひを開かうとするのか、嗚呼、蟷螂の斧とも喩へられぬではないか……だが、吾等は、事を謀らずには居られぬ、円陣をつくつて長夜の議会を開かずには居られぬ、それが空しき業と解つてゐればゐるだけ、炎ゆる血の止め度なき竜巻の、天に沖する気焔を挙げずには居られなかつたのである。――で彼等は、稍ともすれば納屋の櫓に集つたり、居酒屋の二階に寄り集つたりして、﹁事を議す﹂――﹁論を提出する﹂――﹁賛成する﹂――﹁反対する﹂――果は、罵り合ひ、つかみ合ひ、﹁仲裁﹂――﹁和議﹂――﹁仲直り﹂――﹁乾盃﹂……そんなことでも繰り返さずして、何うして、計り知れざるネプチューンの御気嫌を、おめ〳〵と待つてゐられるものではないのである。 私は、自分が作家である故に斯んな説明詞を付け加へるが、恰もそれは、私達が一つの作に取りかゝるであらう前の、理窟や、情実や、知識や、哲学では何うすることも出来ないきらびやかな烈風との戦ひ、捉へどころを知らぬ無限の寂莫、涯しなき虚空へ向つての反抗、そして、止め度もなき寂しさを抱いて、さ迷ひ廻り、はしやぎ廻り、偉さうな議論を喋舌り廻り、恥も知らず、誉れもなく、たゞ、ひたすらに命かぎりの祈りを挙げる、﹁あの蟷螂の斧﹂﹁あの嘆きの寄り合ひ﹂――あの芸術至上感と、何んな隔てもない情景であつた。 ﹁ぢや僕は、このまゝ出かけて行つても関ひませんよ。﹂ ﹁いゝえ、若し納屋へ帰つてHさんがゐたら、Hさんを誘つて来て貰ひたいと思つて……﹂ ﹁オーライ――﹂ 私は、何か気分が颯爽と翻るのを覚えて返事するやいなや、すた〳〵と歩き出してゐた。――流れが迂回する角まで来ると、其処の水門にせかれた水が、さん〳〵といふ音をたてゝ滝になつてゐるのに気づき、不図振り返つて見ると、Gは未だ牛車を止めて此方に向つて、わけもなく帽子を振つてゐた。 春で――皆な感傷的になつてゐるな! などゝ思つて、私はドンと一つ自分の胸を打ち、 ﹁好い天気だね――G君!﹂ と突調子もない大きな声をおくつた。三
次に私は、 ﹁気分でも悪いのですか?﹂ と優しい声に呼ばれた。 ﹁あツ、清子さんか?﹂ ﹁斯んな真ツ直ぐな道を、両方から歩いてくるのに、あなたツてば、突き当らなければ気がつかないんですもの!﹂ 漁場主の娘である。――﹁何を考へながら歩いていらつしやるの?﹂ ﹁いゝえ、陽がまぶしいからさ……﹂ ﹁あたしもね、あし音をわざとたてないやうに、そうツと歩いて来たのよ。何時まで気がつかないだらうツか――と思つて?﹂ ﹁そうツと歩かなくつたつて、こんなやはらかな草の上を、加おまけにそんな草履で歩いて来られゝば解りつこないさ。﹂ ﹁だから危いことよ、真ツ直ぐ前を見て来なければ――。ワツ! と驚かしてゞもあげれば好かつたわね。﹂ ﹁冗談ぢやない。﹂ ﹁あたし今迄納屋で、あなたを待つてゐたのよ。何か本を借りたいと思つて……﹂ ﹁何もなかつたでせう。﹂ ﹁探したりなんてしやしませんわ。﹂ ﹁――。Hさん居た?﹂ ﹁いゝえ――誰も……。――そしてね、もう一つ聞きたいことがあるの? あなた、何時頃東京へいらつしやるの?﹂ ﹁漁期中は此処で働いてゐるつもりなんだけれど……﹂ ﹁寄り合ひばかりで厭になつた?﹂ ﹁別段――﹂ と私はかぶりを振つた。何時東京へ行くか? と問はれると、私は都会生活が慕はしくなつて来て、ほんとうに、あんな﹁寄り合ひ﹂ばかりが続いてゐる漁場に、就中殆んど役立ずに居ることも顧慮され、一層直ぐにでも引きあげてしまはうか知ら? などゝ思ひ出してゐたが、それきり清子はそれに就いては訊ねもしないので、黙つてゐると、 ﹁若し、当分此方にゐるのなら、あたしもこれから納屋に入りたいのよ、気象課に――。行くのなら、あたしも東京へ一緒に行きたいの――﹂ ﹁…………﹂ 私は答へる言葉を知らなかつた。斯んな類ひの真面目な質問に出遭ふと私は、変に事大的に考へ過ぎて唖になるのが癖だつた。……が、直ぐに娘は軽やかに話頭を転じてゐた。私が小脇にしてゐる三冊ばかりの書物を指差して、 ﹁取り寄せたばかりのでは悪いけれど、その中にあたしに適当なのあるかしら?﹂ と云つた。彼女は何時も私の言葉を強ひて、それに依つて次々に読書するのが習ひであつた。 ﹁これは、何うも――﹂ と私は、書物を示して、笑ひ顔をせずには居られなかつた。 ﹁生憎く今日のは、何れも皆な昔も昔も、大昔の――お伽噺ばかりさ。村の幼い友達のために仕入れたのであるが、何うも僕は此頃、僕自身斯ういふ類ひのものゝ方に、読んで豊かな情熱を感じられるといふ風な傾向でもあるんだよ。﹂ ﹁昔のでも好いのよ、此間貰つた――マルシァス河の悲歌のやうなものなら。﹂ ﹁これは、トロヤ戦争余聞、シノン物語――これは、クリステンダムの七勇士――そして、この綺麗な本は、フェニキァの海賊物語……﹂ ﹁ぢや、またにして戴くわ。――あたしね、何でも関はないから、滅茶苦茶に悲しい文章を読みたいのよ――何故かと云ふとね、何だかあたしは、この頃いろ〳〵と身の廻りに起つて来る当然悲しさを感じなければならないやうな事件に出遇つても、さつぱり悲しくもなんともなくつて、反つて、何だか可笑しくなつて来るのよ、それが何だか女の癖に図々しい見たいな、無神経みたいな風に思はれて、焦れツたくなつたりするのよ。――それで、……と思つて、此間、マルシァス河を丹念に読んだら、悲しくなつたので、ほんとうに安心したわ。――ほんとうの悲しいこと――とか、或ひは、その反対のことなどゝいふものは、この現世に在るものではなくつて、人の想像の中にだけ在るのぢやないかしら――﹂ ﹁……さて、それは何ういふものかね?﹂ ﹁厭あよ、上の空で聞いてゐては……﹂ ﹁決して上の空ぢやないよ。――何うして吾々の世界に、芸術の世界に、悲劇や喜劇が生ずるに至つたかといふ歴史を回想すれば自づとそれは自明になつて来る問題ぢやなからうかね。その古い〳〵歴史を遡るには、こんな春の陽ひかりを浴びながらでは、呼べば直ちに応へる――といふ風には、何事も返答出来なからうぢやないか。﹂ 二人は、斯んな問答をとり交しながら、腕をとり合つたまま小川に添うて歩みを運んでゐた。 ﹁やあ! Gさんの牛車も堤の向方側で、此方と平行に進んでゐるぜ。﹂ 私は、また片手を挙げて、 ﹁おーい、Gーさん、H君は納屋に居ないツてさ。だから僕は、この儘納屋には帰らないよ。﹂ と言葉を送つた。 ﹁さうやつて、二人が歩いてゐるところを、此方から見ると、まるで恋人同志が春の野原を散歩してゐる見たいだア!﹂ とGは車を止めて、掌をメガホンにして呼ばつたりした。 ﹁たゞに生物の問題のみでなく、森羅万象の姿に於て――その表面の和やかさが直ちにその全容を語るものではないのだね。月夜の庭に引き出されたトロヤの木馬の腹の中に、決死隊の一群が潜んでゐたかのやうに――嵐は何処にでも潜んでゐる――悲しむべきことだつて、様々な仮面をかむつて、其処にも此処にも幾らだつて転つてゐる筈だよ――清ちやん!﹂ 私は重々しく自信あり気な口調で、そんなことを唸り、今更のやうに娘の首を傾げさせたりした。 ﹁納屋の人達の遣場のない鬱憤を思つたつて、忽ち僕は息苦しいペーソスに打たれるよ。斯んな時に一人の悪人でもが現れたら僕等の鬱憤は忽ち其処に向つて集中し、見る間に退治してしまふだらうがな。﹂ ﹁N村の作次見たいな人、悪人かしら?﹂ ﹁人の軽蔑感を誘ふものは、それ自体悪である――といふのは古来のギリシャ思想にあるが作次の行為なんて軽蔑に価するね、未だ鬱憤を向けるべき緒口が現れぬから彼自身無事であるが――﹂ ﹁あたし幸福だつたのね。……あの儘だつたら作次と結婚したかも知れなかつたのね。﹂ ﹁結婚したかも知れない? だつて! 馬鹿な――。呑気なこと云つてやがら……﹂ ﹁だつて、あの時、あのまゝなら仕方がないぢやないの?﹂ ﹁煩いな。……早く帰つて、マルシァス河の悲歌でも朗読した方が好いのぢやないのかね――その驚くべき呑気な心境を、悲しみをもつて充すために――﹂ ﹁御免なさい。もう、その話しないわ。﹂ 娘の父親が漁場主であつたが、失敗を重ねて破産したので、R漁場は近々新しい主権者を迎へる筈だつた。村で、たつた一人だけ、東京の大学を出たといふ理由で、隣りのN村では青年会の団長などを務め、いろ〳〵と威張つてゐる作次の一族が、その候補者にならうといふ運動があつたが、はじめからそれには納屋の連中がをさまらぬのであつた。作次といふ男は、自分のN村では謹厳さうな態度を保つて稍ともすれば訓話会などを開いて、修身の道を講ずる程の勢ひでありながら、一度自分の村を遠ざかると、若い身空でありながら町の金融界に出没して巧みに詐欺を働いたり、婦女を欺すかの如き業を寧ろ得々としてゐるかの如き輩であつたから、何んなに彼が得意さうに、俺の家は近郷近在での分限家であるぞ、俺の家は斯んな大きな金庫があるぞ、財産は幾万だ――などゝいふやうなことをマメイドなどに現れて高言してゐるのを聞いても私は、聞えぬ振りを示し、一切の会話を取り交さぬのが慣ひであつた。――その作次が、私の可憐な、小さな友達である清子に結婚を申し込んでゐたといふ話を私は、ついこの頃清子の口から聞いたのである、盛んな申込みを続けてゐたが、清子の家が破産をしたといふことが公になつたら、それきり何とも云はぬやうになつた――といふ結末と一処に――。 ﹁でもね、はじめ、うちのお父さんは、あの男は仲々真面目さうな男ぢやないか……なんて云つてゐたのよ。﹂ ﹁そんなら何うして、はじめそんな話を聞いた時に直ぐと僕に云はなかつたのさ。﹂ ﹁……さつき、あんなことを云つて御免なさい。あたし勿論、結婚なんてする意志はありはしないわよ。意地悪だつたのよ、あたしの方が――﹂ ﹁さつき、君が云つた――あの時若しもあのまゝだつたら――といふのは、何んな風だつたの?﹂ ﹁あの人の、あの頃の熱情振り! ――だけど、あれが嘘だつたとすると、あの芝居振り――はちよつと尊敬出来るやうだわ。﹂ ﹁そんなに凄まじかつたの!﹂ 私は、その詳細の説明を聞きたかつたので、何んなことを云つた? 何んな手紙を寄したの? 道で出遇ふと何んな様子をした? ――などゝ矢つぎ早な質問を提出して、腕を執つたまゝ娘の顔を改めて覗き込んだ。私は、さういふ場合に男が女に云ひ寄る物腰態度に就いて、深い好奇心が動いたのである。 ――と、前の方を凝つと眺めてゐた清子が、不図指先きをあげて、 ﹁あれ作次ぢやない? 彼処に立つてゐるの――。そら〳〵、あんな仰山な手真似なんてして何か話してゐるぢやないの――﹂ ﹁さうだ、彼奴だ!﹂ と私は、思はず敵の姿でも発見した者のやうに声を忍ばせて立ちどまつた。――二人の女が堤の草原に腰を降して、釣糸を垂してゐる。その傍らで、一人の男が、様々なジェスチュアをもつて何事かを物語つてゐる。 ﹁あの釣りをしてゐる女は、僕の細君とマメイドのメイ子だよ。﹂ と私が云ひ終るのも待たずに清子は、矢庭に声を張りあげて、 ﹁奥さん――﹂ と叫んだ。澄明な音声が、春霞みの中を走つて行くのが窺はれるかのやうな、小川とその三個の点景人物と、そして麦畑だけの広い、平らな風景であつた。 その声で、彼方の人物は一勢に此方を振り返つた。――そして、メイ子と細君は立ちあがつて、夫々の魚籠を提灯のやうに頭の上に振りあげた。――そして、振り降した時分になつて、声が伝つて来た。 ﹁釣れたわよ――﹂ ﹁早くいらつしやい……﹂ ――それと同時に彼女等の背後になつてゐる男は、此方が誰であるか? といふのを認めて、たしかに、ハツ! と気拙さを覚えたらしく、ぎこちなく肩をそびやかしたかと思ふと忽ち後ろを向いて、反対の方角へ、すたこらと歩き出した様子を、私達は発見した。 ﹁逃げてしまふわ、あたし、彼の人に直接に会つて云はなければ困ることがあるのだけれど――呼び返して頂戴よ。﹂ と清子が私にさゝやいた。――で、私は、あらん限りの声を振り絞つて、 ﹁待て――ツ!﹂﹁待て――ツ!﹂ と三度も叫んだ。 が、聞えぬ風に彼の姿はその儘次第に遠のいて行く。聞えぬ筈はないのだ、婦人達がたつた今あれほど明らかに言葉を交し合つてゐるではないか――その上私は、それを叫ぶためには、思はず其処に立ちどまつて、両脇腹をおさへて、声の続く限り、上半身が伏して直角に曲るまでに叫んだのであるから、おそらく婦人達の声の倍の高さに違ひないのだ、たとへ、澄まぬ濁音であらうとも――。 ﹁あたしの友達として、あなたは彼の人を敵視しても関はないわ、それには充分な理由があるんですもの。遠慮なんて要らないことよ……﹂ 更に、そんなことを清子がさゝやいたので私は、よしツ、失敬な男だ! と呟き、明らかな喧嘩腰となり、 ﹁馬鹿野郎!﹂――﹁意久地なし!﹂――﹁女蕩し!﹂ などゝ続けざまに物凄い挑戦の言葉を叫んだ。 すると、さすがに向方も癪に触つたと見えて、ちよつと振り返るや、拳を空に突き示した。 私は、宙に飛んで、拳を振り示し、なほも、猛烈な挑戦の言葉を叫んだが、相手の姿は見る間に麦畑の中に消へてしまつた。黒い頭が、ひよい〳〵と浮き沈んで行つたが、忽ちそれも影をひそめてしまつた。 ﹁残念だな!﹂ と私は、行手を凝つと睨めながら唸つた。﹁たつた一言でも好いから、誰かゞ聞いてゐるところで、云つてやりたいことがあるのよ、あの慾深男に――﹂ ﹁ね、今ね、彼の人つたらね……﹂ と私の細君は私の手と清子の手を同時に取りあげて、 ﹁この二人がね、恋を語りながら今、向方の堤の蔭を歩いてゐるから、皆なで、そつと廻り道をして、後をつけてつてやらうぢやないか――なんて、あたし達を誘ふのよ。﹂ と、悲し気な表情を露はにして苦笑ひした。 ﹁それで、お前は何んな心地がしたの?﹂ と私も憂ひ顔をして、憐れな細君を胸近く引き寄せて訊ねずには居られなかつた。 ﹁何云つてんのよ、馬鹿ツ!﹂ 細君は私の胸を払ひのけて、その代りに清子を引き寄せて、 ﹁お前は何んな心地がしたの? だつて!﹂ などゝ私の口真似をして、肚をかゝへた。 ﹁ほんとうにね――変に真面目さうな顔になつたりして……﹂ などゝ清子も続けて笑つた。 私は、酷くてれて頭を掻きながら、にはかに空々しくメイ子と細君の魚籠を覗き込んで、 ﹁獲れた〳〵! 此処ばかりは大漁だ、両方合すと五尾もあるぞ――納屋に帰つて、午飯としよう〳〵!﹂ と、わざとへうきんな口調ではしやいだ。四
納屋の三階にある展望室は、三方が硝子張であつたが、漁場が休んで以来帷を引きまはして沈黙を保つてゐた。尤も、この室は私自身が、プライベェトに借り、私が勝手に展望室と名づけてゐるのであつたから、漁場の休みにも営業にも関はりのあるわけではなかつたが、私の春愁の夢が恰も四囲に暗緑の深い帷を降して、幻想の昼寝に閉ぢ込るにふさはしい日々なのであつた。 部屋の真ン中の大卓子の上には、漁場の忙しかつた時分に矢つ張り私も共々にシャツの腕まくりをして、誰に頼まれたわけでもないのに大汗をしぼつて模写などをした幾枚かの海洋図が散乱したり、作りかけの星座表が投げ出してあり、床には、つい此間まで有り難さうに部屋隅の書棚に飾り立てゝあつた古典ギリシャの芸術、科学、哲学に関する種々様々な書物が、くづれた煉瓦のやうに投げ棄てられ、三脚の上の望遠鏡は、直角に、古ぼけた天井を指差し、覆ひの布が被せられて有つた。 私は、暗い片隅の固いベツドに横たはつて、ぼんやりと薄眼をあいてゐた。もう、とうに夜になつてゐたにも関はらず、私はランプを点さう――ともしなかつた。 私は、時々カーテンの合せ目を細く開いて感慨深気な眼まなこを傾げて、ひとり悦に入つてゐるかのやうな有様であつた。――﹁シノン物語﹂に、うつゝを抜かしはじめて以来私にとつて一つの新しい心癖が生じてゐた。私は、この展望室にゐる時は云ふまでもなく、細君と共に食卓を囲んでも、納屋の連中と共に会議に列席しても、村の酒飲連とマメイドで乾盃してゐる時でも――たゞ、其処が室内でさへあれば、それが木馬の腹の中のやうに、はつきりと、そのやうに思はれ、﹁シノン物語﹂の中の数々の木馬の腹の中の場面が聯想され、恍惚状態が次第に激情の煙りに巻き込まれて、何時か自身が兵士シノンにその身を変へてしまふのであつた。――私は、つい此間まで、この部屋うちで、恰も厳冬のギムナジウムで石の彫像を抱くストア派の学生であつた。エレア哲学の実有論を噛み砕いて、拳を固めて吾と吾が胸を叩きながら絶対唯物論の橋を渡り、汎神の彼岸に身を翻さうといきまくスパルテストであつた。 私は、妄想に逆上すると突然はね上つて、 ﹁あゝ、この思ひを吾がベイコン博士に告げて、今や不幸なる偶像観念を脱却した、科学々生のために、その額を花蔓酒の雫をもつて霑ほして貰はう――ハツハツハ! 兵士だ、兵士だ、兵士だ、今日からは――﹂ などゝ哄笑した。 私は、壁にかゝつてゐる剣︵フェンシング︶をとりおろして、大空︵私が自分でつくつた星座表がピンで止めてある天井︶に向つて肩をそびやかし、地︵種々様々な書籍が転がつてゐる床︶を省みて、朗らかなモッキングを示した。 不図、その時帷の外から、 ﹁博士、博士――﹂ と呼ぶ太い男の声が響いた。 ﹁博士と呼ばるゝのは、私ですか?﹂ と私は地をモッケする構へのまゝで訊ね返した。 ﹁さうです、貴方を私がモッケする嘲りの尊称です。――古典芝居の科白を真似るわけではございませんが、滾々として湧沸る熱情より他に、貴方を幸福にさせる何物もないといふことにお気づきになりましたか。万巻の書は結局、たゞ貴方の心を悲しめ、憂鬱にさせるためだけに存在するといふことにお気づきになりましたか、先生?﹂ ﹁違ふ――﹂ と私は、思はず﹁モッケ﹂から翻つて﹁突き﹂の構へで帷に向つた。――﹁違ふ、――私は人間としての最も不幸なる四つの偶像観念から開放されて、冷い研究所の扉を排して突入するための亢奮で、立つて、希望に充ちたオーミング・アップを試みてゐるところなんだよ。﹂ ﹁笑はせるな――劇場偶像の奴隷奴! 種属偶像の旗持奴! ――酒場へ行かう、仕度をしたまへよ。お金の仕度は入らないよ、此方はとうに気を利かせて、お前の在庫書物を抵当にして町の金持から金貨を三枚貰つて来ましたよ。﹂ ﹁……おい〳〵、お前は一体誰なんだ。何だか変だと思つて考へて見ると、お前の云つてゐることは、俺が今書きかけてゐる戯曲の科白ぢやないか――。迂参な奴だ、そこを動くな――何時この部屋に忍び込んで、そんな原稿を読みあがつた?﹂ ﹁あら、まあ、憤おこつたの?﹂ 男の声が、突然娘の声に変つた。そしてカーテンの蔭から私の﹁アウエルバッハ騒動﹂といふ書きかけの芝居に出て来る雉子の羽根を斜めにさした頭巾を被つた小柄の学生が現れた。で私は、その芝居のために先づ取りそろへてある幾つかの衣裳が帷の蔭の衣桁にかけてある筈なので、慌てゝ、其処を験べて見ると、悉く盗まれてゐる。 ﹁何だ! メイ子……﹂ ﹁折角だから、もう少し芝居を続けるのよ。――途中を飛ばして――云ふわよ。ねえ、先生、酒場へ行くか、厭だとあらば、お手なみを拝見……で、斯う――これで好いの。﹂ と学生は腰の剣に手をかけた。 そこで私は、あの芝居の中の愚かな博士である私は、科白を続けた。 ﹁斯んな月夜の晩に君と肩を組んで出かけるのならば、酒場と云はず、山向ふの森までゝも、悲劇出生論を講釈しながら、今直ぐ行かう――といふのは、内証でお前にだけ伝へるが、学生に扮してゐるものゝ、お前は俺の可愛いゝ小鳩、アウエルバッハのマーガレットであるのが解つてゐるからなんだよ――お前の望みならば何でも聞く、望みとあらば、あの森蔭へ行つて闘グラ剣ジエートの相手にもならう、そしてお前の突き出す鋭い剣に射抜かれて、死んでしまつても、存外悔もなさゝうだわい。﹂ そこで、芝居では、博士が学生の奇智を賞讚して、抱擁する場面になるのであつたから、私も、腕を延して娘を引き寄せようとする途端、 ﹁ストップ!﹂ と、また帷の向方で声がして、同じく学生に扮した清子と、そして、冬の外套を着てゐる細君が現れた。 ﹁さあ、貴方出かけませう、此方の支度はすつかり出来てゐるのよ。馬車も来て待つてゐるのよ。――着物を著換へて……﹂ ﹁…………﹂ さうだ、私達は此晩村を出発して、町に赴き、翌朝早く東京へ旅立つ筈であつたのを私は、うつかり忘れてゐた。 R漁場が、結局作次の一族の経営に移るかも知れなかつたし、常々私は、都の友達から、そんな田舎へくすぶつてゐないで、君は一日も早く、芸術同志の友達がゐる都へ移つて来なければならない! とすゝめられ、自身の心も大いに動いてゐたところなのだつた。 ﹁そして、その二人の恰好は何の意味なのよ?﹂ と私は娘達を指差して、細君に訊ねた。 ﹁写真を撮るのだつて――この部屋の思ひ出のために――そして、あなたの、あの芝居が円満に成就することを祈る! といふしるしのために――だつてさ。﹂ ﹁チエツ! 笑はせやがる、――﹂ と私は呟いたが、まんざら悪い心地からではなかつた。 ﹁Gさんが迎へに行つた写真屋が、もう間もなく町から到着する時分よ。﹂ 近い都へ行くのであるが、送る! といふのは何だか悲しい、で、斯んな芝居を考へたのである……。 ﹁笑ひたければ、たんと笑ひなさい。﹂ ﹁決して笑はぬ。有りがたう!﹂ と私は、厳かに剣を振つて挙礼した。 ﹁好い思ひつきだつたでせう?﹂ ﹁隣りの町の酒場へ行く時と、そんなに変らない気持で行きなさいね。﹂ 二人の娘が次々に得意の風を吹かせて、 ﹁行つていらつしやい!﹂ ﹁御気嫌よう――何処まで一緒に送つて行きませうか。﹂ などゝ云ひながら、左右から甘い眼差をあげて私に凭りかかつたので、私は、切なさうに喉を鳴し、あの芝居の中の、 ﹁斯んな月夜の晩に君等と一緒に出かけるならば――﹂ ……の科白を、発声して、二人の学生の奇智を賞讚するのあまりに博士が彼等を抱きあげて接吻する劇中の場面と同様のクライマックスで、交々に二人を引き寄せて感激の情を露はにした。五
﹁僕は、そんな戯曲を半分ばかり書いたゞけで、R漁場の半年あまりの生活を引きあげたのであるが……﹂ ﹁道具建が変つて、書けなくでもなつたといふのか――。早速メイちやんにでも清さんにでも来て貰つたら何うなのさ。﹂ と都の酒場で会ふ私の友達が、彼女等の来京を促した。それは私の生活が幾分でも落ついたら先づ清子が都に来て、職業婦人か或ひは再び学生々活を続けたいから――といふやうなことを、私は娘に頼まれてゐたので、そんなことを時々私が更に友達に告げたりすることがあるからなのだつた。然し、私の﹁生活﹂はさつぱり﹁落着く﹂段にはならなくつて、その上私は久し振りの東京生活が面白くて始終ふは〳〵と飛び歩いてゐるばかりだつたので、 ﹁否ノー――﹂ と云はずには居られなかつた。――﹁メイや清さんのことは忘れなければならない、僕は――。斯んな酒場に現れて斯んな風に酔つ払つてゐると、戯曲も何もあつたものぢやない、俺は何だか夢のやうだ、R漁場の俺の展望室が装ひを凝して、太平のトロヤとなり、凱旋をした木馬が、その腹の中の部屋を兵士の饗宴場として夜に日をついだ――そんな、有頂天を覚ゆる……おゝ、此処には斯んな綺麗なメイちやんがゐる、斯んな素晴しいマーガレットがゐる!﹂ 私は、兵士の歌を口吟み、凱旋の踊りを誇示して従順な酌女の傍らに寄り添ふと、その美しいみめかたちに見惚れて陶然とするのであつた。 そして稍ともすれば、常に侍女として従へてゐる細君に、 ﹁何ですね、あなたは!﹂とか、 ﹁あまり、あの人達の傍に寄り過ぎて、でれ〳〵なんてすると酷い目に会せるよ。﹂ などゝ白眼をもつてたしなめられ、漸く吾に返るやうなことが屡々だつた。私は、驚いて、 ﹁悪く思はないで呉れ。突如この煌めかしい街に現れて、何うして心踊らずに居られよう。――さあ皆なで、踊りに行かうではないか。﹂ ﹁おい〳〵、凱旋気分ぢや困るよ。――出陣なのだ。――会議だ。﹂ と友達は私を制御した。彼等は、新しい雑誌の許に、花々しい芸術運動を興し、その同人会を夜毎に繰り返し、私もその一員に加へられたのであつた。 ――会議だ! といふ言葉を聞くと私の胸には、あのR漁場の生活が猛々しく回想されて不思議な力を覚えた。 私は、 ﹁では、酔を醒さう、そして頭を冷たくしよう。﹂と呟きながら、その酒場の片隅の小窓をあけた。大きなビルヂングの地下室にある酒場で、辛うじて窓から首を出して空を仰ぐと、黒い建物と建物に挟まれた細い空が、青い巨大な帯のやうに望まれた。 ﹁星月夜だよ。叱ツ、木馬はトロヤ城の近くに進んでゐる。﹂ ﹁さうだ、その意気で俺達同人は新しい雑誌を盛りたてながら、新作にとりかゝらう。﹂六
ある日私と細君は東京駅で、メイ子を迎へた。
﹁昨ゆう夜べの電話では、清さんも一緒の筈ぢやなかつたの?﹂
﹁えゝ、……でも急に……﹂
メイ子が云ひ渋つたので私は別段諾きもしなかつた。
﹁ね、先に、踵の高い靴を買つてよ。﹂
﹁ぢや、二人で二時間ばかりの間で、メイの仕度をして来ると好い。――僕は、いつもの地下室のタバンで待つて居るから――。それにYのオフィスは、あの建物の六階にあるんだから恰度好い。﹂
Yといふのは商業に従事してゐる私の友達で、私は清子を其処のタイピストに頼み込んだのである。メイ子は清子の代りに、その返事を聞きに来たらしい。
﹁ぢや大忙ぎで行つて来るわ。﹂
細君が娘の手をとつて立ちあがると、メイ子は、腰掛の隅に立てかけてある変に細長い箱を指差して、
﹁これを持つて来て上げましたわよ。﹂
と云ひ残して出て行つた。注意して見るとそれは私が村を出て来る時にメイの家に残して来たフェンシング・スォウルドだつた。村にゐる間私は、運動と称し、稍ともすれば是を振り廻してゐた。
私はメイ子の親切気と、そして現在の下宿の四畳半とを思つて、困つた顔で、その箱を取りあげ、鉄砲のやうに担いで外に出た。
間もなくメイ子は、白いベレイを斜めにかむり、白い踵の高い靴でコツ〳〵といふ音をたてながら細君に伴れられて私が待つてゐる酒場に現れた。
Yに、私はメイ子を紹介した。
﹁タイプライターなら、あたしも打てるんですけれど、二人は使つて戴けないでせうか?﹂
メイ子は突然Yに訊ねた。メイだつて清子だつて、同程度にタイピストとしての資格はある。彼女等はR漁場の私の展望室で充分な練習をしてゐたから――。
﹁だつてメイは!﹂
と私は思はず口を出した。――﹁メイは自分の家で働かなければならないのは解りきつてゐるのに?﹂
﹁それがね、さつきメイちやんから聞いて驚いてしまつたんだけれど……﹂
﹁云つては、厭――何だか……﹂
とメイ子は赤い顔をして横を向いた。――﹁屋上に伴れてつて……景色が見たいわ、あんな高い処から見たら――まるでRの展望台から海を見るやうぢやないかしら……﹂
﹁綺麗だよ。ぢや行つて見よう。――そして、Yの方だが、此方は何うも一人のタイピストでも要るか、要らないか――といふところで、清ちやんのためには他を訊ねて貰はうと思つてゐるのだ。﹂
﹁ぢや、あたしのも他を聞いて……﹂
﹁ほんとうに、そんな決心なの?﹂
私は腑に落ちぬ心地で問ひ返してゐると、傍らから再び細君が口添へした、低く私の耳に囁いた。
﹁ね、結婚の申込が、日増にさかんになつて、家にゐられないんですつて!﹂
﹁結婚なら当然ぢやないか、何も家に居られないなんて……﹂
私は応揚に打消しながら、今更のやうにぼんやりメイ子の姿を見直して見たりした。――つい此間までは、あんな芝居を行つたり、また、マメイドで酒に酔ふと娘を引き寄せて﹁体は離れても魂は離れはせぬよ、マーガレットの口唇が――﹂といふファウストの科白の一個所を、マメイドと呼び代へて、
﹁マメイドの口唇が神体に触れても嫉ましいわい。﹂
などゝ唸つて酒場の常連の前で愉快な戯れに吾を忘れたりしたが、もうあんな真似は出来さうもない――不図そんな馬鹿な思ひに走つたりした。そして急に性急な調子に立ち返つて、
﹁誰だ〳〵! その結婚の申込者といふのは僕の知つてゐる男か。そんな素晴しい申込みを決行して、若しもメイ子が承諾したならば、そいつは天下の幸福者だぞ、一体それは何処の伊ダン達デ者イだ?﹂――などゝ息をはずませた。私が、此頃一寸でも物事に亢奮すると決つて、その口調が科白のやうになる! と云つて、細君とメイ子は慣れぬ周囲のために苦笑を浮べたが、細君は更に私の耳に、そつと、だが颯爽たる力の籠つたかすれ声で、
﹁それが作次さんなんですつてさ!﹂
と囁いた。
﹁馬鹿野郎!﹂
と私は思はず叫んで、ドンと卓子を叩いた。――﹁ふざけるな! ……馬鹿にするな……大馬鹿奴!﹂
細君とメイ子は困惑して酒場から逃げ出した。私は、悪漢のやうに二人の女の後を追つて、階段を昇つた。
﹁厭だわ、あんなところで、あんな大きな憤り声なんて出して! 見つともなくて凝つとしてゐられやしない。……屋上まで、段々を昇つて行きませう……八階あるから…… Count ten! その間には、その怒りの発作が鎮まるだらう。﹂
寂とした鉄の階段で、私の頭上を昇つて行く婦人の靴の音が、慌たゞしくカン〳〵とあたりに綺麗に響き渡りながら、細君かメイか私には判別もつかなかつたが、それらの言葉が途切れ〳〵に伝つた。
﹁何といふことだ!﹂
﹁だから、メイちやんが、それに困つて、相談に来たんぢやないのよ。﹂
﹁相談もくそもあるものか――待つて呉れ、苦しい、俺の手を引ツ張れ!﹂
私は、よろめいて窓に凭り、
﹁これは何階だ?﹂
と訊ねた。
﹁三階!﹂
︵これ位ひ大きな木馬があつたら愉快だらうな。︶……私は、斯んな激情の頂点で、不図そんな空想に走り、窓から外に顔を出した自身を可笑しく思つた。
メイが悲しさうに云つた。――﹁うちの父さんが、あの人のお父さんにお金を沢山借りてゐるんだつて!﹂
﹁何云つてやがるんだい。それが何うしたと云ふんだい?﹂
私は、怒鳴つて、立どまつた。
﹁四階よ……そして、うちの店は何時の間にかあの人のうちの……﹂
﹁待つて呉れ!﹂
私は窓から大空に向つて太い息を衝いた。そして、これが巨大な木馬の腹の中での騒ぎであるやうに想像して、義憤の血に炎えた。
﹁エレベイターに乗らう。﹂
﹁此方の方が好いわ。――そしてうちの父さんに向つて……﹂
﹁あの男は、そんなことを君に向つて露骨に云ふのか?﹂
﹁吾う家ちは、それほどの金持だから、僕と結婚すれば幸福になるよ――といふやうな意味で……﹂
﹁嘘をつけ! それにしても、何とまあ厭な野郎なんだらう。﹂
﹁五階――ほうら、もう五階よ。﹂
﹁……それぢや、まるで新派悲劇の芝居のやうぢやないか! ――ほんとうに、あんな芝居のやうな出来事なんて云ふものが、公然と、あるのかな! でも、まさか、芝居のやうに――娘を呉れなければ、金の借を何うするなんていふほどではあるまいね?﹂
﹁いゝえ、それも芝居の通りなの……﹂
﹁よしツ! 俺が今夜にでも一緒に帰つてやらう、そんなべら棒な話になんて驚されてゐて堪るものか! ――喧嘩だ。﹂
と私は、思はず堅い拳固を鋭く眼の前に突き出した。――そして、側らの窓から顔を空中に曝して、ハーツと熱い息を吐き出し、暫く眼を瞑つて頭を冷さうとした。が、何うしても疳癪の虫は収まりさうもないのである。……馬を飛せて、あの卑劣な男の館へ飛び込む、彼奴の眉間を目がけて猛烈な拳固が飛ぶ、乱闘――そんな光景ばかりが、パラ〳〵と目眩しくフラッシュするだけであつた。
﹁七階よ――もう一つでせう。﹂
﹁夢も理屈もない――たゞ、この憤激の血潮……。真に芝居のやうだ。﹂
﹁何、云つてるの、ひとりで? ――あツ、八階ぢやないの――﹂
﹁おゝ、綺麗だ、街の灯! ――早く、いらつしやいよ。﹂
細君とメイ子が口をそろへて賞讚し、一歩おくれて階段を昇つて来る私をせきたてた。
﹁デパートでは、近頃女のエレベイター係りを使つてゐるんですつてね?﹂
﹁えゝ、さうよ。﹂
﹁あたし応募して見ようかしら?﹂
……何うしても俺はメイを送つて今夜にでもR村へ行かずには居られない――などゝ呟きながら凝つと夜空を眺めてゐた私の耳に、二人のそんな会話の一片が聞えた。