月評

牧野信一






 E()L() ()D()o()rado
 調使



 調
 



 ※(「彳+低のつくり」、第3水準1-84-31)※(「彳+低のつくり」、第3水準1-84-31)
 



 村山知義氏の「劇場」(中央公論)は、新鮮味に富んだ筆致をもつて、見るも爽快に書き進み、これらの事件的のことからはいろいろと僕は教へられるところが多いのであるが、一帯に傾向派の作品に対しては、今やそれが一般の常識になつてゐるのであらうが、僕には全く予備知識がないために、遅まきながら一通りのテキストを得た後でないと、かれこれ云ふ資格は無いのである。中野重治氏の「村の家」(経済往来)島木健作氏の「県会」(文藝)――村山氏と中野氏のものは、感覚や筆致がフレツシユなために、事件的なことは好く解らぬながらも退屈せずに読めたが、「県会」の渋りきつた沈うつな文章には、終ひにやりきれなくなつて中途で失敬した。平林たい子氏の「知識階級論の一素材」(行動)は、題名は物々しいが、普通の自然派風のもので、前半は素直に読め、面白い取材と思つたが、次第にいろいろな意味付けが多くなり、返つて空虚な感が湧くのであつた。尤も、流派から流派を追つて、終ひに虚無に達した男の姿が、可成りはつきりと描かれ、末尾の「私はその顔を見てゐるとそのむなしさに恐しくなつた。」と結ばれてゐるあたりは感慨を誘はれるものはあつた。窮屈な、陰気な世界だ。いさゝかなりとも詩情が欲しい。

          *

(経済往来)には、中野氏の力作の他に、久保田万太郎、小島政二郎、武者小路実篤諸氏の随筆が、創作と共に並び、尾崎士郎氏の「時間」なる、これも可成りの力作が配置され、一味清新なる文芸欄を作成してゐる。(文藝)に「白樺座談会」といふ記事があり、僕ら、齢は相当だが、まつたく知らなかつた時代の回顧談といふものは、抽象的には興味がありさうに見へるのだが、速記録などで見ると一向興趣を誘はれなかつたが、武者小路氏の随筆で読むと、興味が深く、同氏の文体に新しい奇抜な懐しみを覚えた。「白樺のことなど」といふ同氏の回顧章であるが消極的でない自然の滋味に富んでゐた。
 尾崎士郎氏の「時間」は随分と自由に手放しに書きまくつてゐるが筆勢には鮮やかなものがあり次第に特質といふべきものをはつきりと体得して、素質のうるはしさを発揮するさまが窺はれ、僕は不図、夏の月大なぎなたの光りかな――といふ子規の句を思ひ出したりした。それにしても何うして、斯んな題名を付けたのか意向が解らぬ。寧ろ内容とは不調和な感じであつた。坪田譲治氏の二作「善太の手品」(行動)「父と子」(新潮)は共にその一貫した純情味を汲むに足るべきものであり、一つ一つに就いて彼此れ云ふよりは、例へばその著作一巻に依つて纏めて通読する時には一層の雅味を得らるゝであらうと想像された。
 その他、滝井孝作氏の「彼の周囲」(文藝春秋)里見※(「弓+享」、第3水準1-84-22)氏の「回復期」(同上)久保田万太郎氏の戯曲「汐干潟」(中央公論)などは月評の場合でなくても読むであらうし、今度も前に読んでゐたのだつたがつい他のことが長くなつて感想を述べる余裕がなくなつた。その他のもの、また同人雑誌に及べなかつたのも遺憾である。尚今月「スバル」の復活号を手にしたことは全く偶然の悦びであつた。吉井勇氏の戯曲「一本腕と一本足」を見出したが、氏の近詠、物部川夕さりくれば水たぎつ音さらさらと聴え初めけり――と声を立てながら無断引用を為し、遥かに朝臣の盃の夢の健かを望みながら、意を尽し得なかつた禿筆を擱く。





底本:「牧野信一全集第六巻」筑摩書房
   2003(平成15)年5月10日初版第1刷
底本の親本:「読売新聞 第二〇九〇八号、第二〇九〇九号、第二〇九一〇号、第二〇九一二号」読売新聞社
   1935(昭和10)年4月26日、27日、28日、30日
初出:「読売新聞 第二〇九〇八号、第二〇九〇九号、第二〇九一〇号、第二〇九一二号」読売新聞社
   1935(昭和10)年4月26日、27日、28日、30日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2011年9月30日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード