若しも貴方が妾に裏切るやうな事があれば、妾は屹度貴方を殺さずには置きませんよ、と常に云つてゐた女が、いざとなつたら他愛もなく此方を棄てゝ行つた。此方こそかうして未練がましくも折に触れては女の事を思ひ出して居るが向うでは……妾は自分の将来を考へなければなりません。貴方のやうな全く取得のない不真面目なさうして涙を持たぬ人はつくづく愛想が尽きたのです。貴方のやうな人と将来を共にするなどゝいふことは、あゝ、考へても怖ろしい……と云つてさつぱりと行つてしまつた程なのだから無論此方のことなどを思ひ出すことなどはいつになつたつてありやあしまい――。 ある夏の夕暮私は店先の縁台に腰を掛けて煙草を喫しながら往来を眺めて居た時、ふと去年別れた照子の事を想ひ出しました。どうしてもあきらめ切れないとあの当座は何れ程悲しんで居たか知れなかつたのですが、何と云つても月日には勝てないもので、此頃ではまあいゝあんばいに殆ど照子の事は忘れてしまつたのでしたが、又想ひ出したのです。私は悲しくなりました。然し此頃の私の悲しみは、照子はもう再び帰らない絶対的のものになつて居りましたから、たゞこんな場合にふと感ずる感傷的なものになつて居りました。で私の心は照子からは離れていつか自分自身の心を悲しんで居るやうに見えました。﹁貴方は涙のない不真面目な人間だ。貴方は永久に孤独だ。﹂と照子が残した言葉が、ほんとに当つてゐるらしい気がして、と思ふと私は、でありながら孤独に堪へられない自分を情けなく思はずには居られないのです。だから私はいつもこんな事を想ひ出した時には屹度照子の言葉に対する反抗心を起します。がそれが意識しての反抗心であるといふことは直ぐに明かになつてしまひますので、結局私は自分のどの感情が強いものでどれが弱いものであるかといふ事が解らなくなつて――やはり心細い気持で照子の幻を追ふより他はないのです。 ﹁暑かつた為せゐか随分出ますね。家の子供達も今帰つて来ましたが折角買つた紅提灯を圧しつぶされてしまつたてえんで、どうも泣いたり笑つたり、うるさくつてやり切れねえんで――﹂隣りの紙屋の主人が私の傍へ来て団扇でぱたぱたと足をたゝきながら腰掛けました。 ﹁さうさう今日は五日でしたね。水天宮様を忘れるなんて……﹂と私は何気なく答へた時、割合に真実性をこめて自分の心を叱つて居たのに気が附きました。﹁ぢや私が秀ちやんを伴れてもう一度提灯を買ひに行きませうか。﹂ ﹁どうして、もうかう人が出ちやとても子供なんて伴れちや歩けませんや。涼みながらまあ行つてらつしやいな。﹂ 私は可成り熱心に、伴れて行かうと云ふ事を云ひましたが、紙屋さんは終ひに、でもあぶなう御座んすから、と断りました。 紙屋さんが帰つた後、私は物足りない寂しさを感じました。子供の時分あの赤い小さな提灯に豆蝋燭を入れた時の喜びがはつきりと想像されました。 私は袂から煙草を出して、行儀悪く坐り直りました。私はぼんやりと煙草の火を瞶めながら――偶然にも幼い時の記憶にふけり始めました。 天気の好い日曜の朝だつた。五六人の友達が遊びに来て、﹁芝居ごつこをやらないか。﹂と云つた。自分は直ぐ春ちやんの綺麗な顔を想つた。﹁ウン、やらう。﹂と即座に答へた。 先づ見物人を集めに出掛けた。直ぐに集つた。大部分は女の子で、其外は自分達よりはるかに幼い鼻垂れの子供ばかりだつた。 てんでが強い大将にばかりなつたから、芝居は関ヶ原の戦ひばかりが二幕も三慕も続いて――戦死する者などは決してない。 なるべく乱暴な立廻りをして、春ちやんをハラハラさせてやり度いと思つてゐた自分は豆腐屋の三公に大将のお面を三枚もやつて﹁あたいに殺されないか。﹂と頼んだ。 呉服屋の玄坊は我儘放題の一人ツ子で、家の者が見てゐると小指で触つても直ぐに大声を挙げて泣く、それで六つか七つの癖にして妙にこましやくれた口をきくので、自分は普段から憎くて堪らなかつた。だから勿論玄坊は見物の仲間には誘はなかつた。 ﹁玄坊がどうしても皆と一緒に芝居がしたい、と云つて諾かないから是非お仲間へ入れて下さいな。﹂と小母さんは菓子を持つて頼みに来た。玄坊は母親の背中で、母親だけにその罪があるもののやうに――決して此方に顔を向けずに、激しく暴れてゐた。自分は﹁いゝ気味だ、ざまあ見ろ、いくら泣いたつて、いくら小母さんを伴れて来たつて仲間には入れないよ。﹂といふ清々とした気がして、それを知らぬ振をしてゐるのが愉快でならなかつた。 ﹁玄坊なんて! 怪我をするよ、大きい者ばかりなんだぜ。﹂皆が一様に感じたある威厳に対する不満を饒舌の三公が、傍の自分が見てさへ憎態な口吻で云つた。で、自分達はその提言を相手にしないことで、この不満を充して、皆な舞台へ走つてしまつた。玄坊が母親の髪の毛にかぶりついて泣いてゐるのを、自分はチラリと見た。﹁玄坊の奴いゝ気になつて、人を馬鹿にしてゐやがる。﹂と三公が呟いた。 また、関ヶ原の合戦でも、然し一幕毎にその乱暴の度が強まるので見物は雨の如き拍手を、で満足する自分達に浴せた。﹁ヤアヤア﹂と閃いた白刃を﹁何を小癪なツ。﹂と、自分は春ちやんの眼の先で受け止めた。それから自分は三公と組打ちをして、――見物の中にドーンと倒れ込んだ。﹁危ないわよ。アラッ!﹂と自分の頬の傍で春ちやんの声がした。自分はその時三公に殺される役目を引受けようとした。――。 突然、見物席に割れるやうな笑ひ声が起つた。﹁アラ、面白いわ〳〵。﹂と云つて春ちやんも立ち上つた。自分はそつと舞台の方を見ると、素晴しい合戦の間を馬鹿面を被つた小さな坊主が踊り出した。矢張り威厳に係はる事だから役者達は、内心驚いたが少しも頓着せず益々激しく戦つた。自分も新しい勇気を出して三公をはねのけて、合戦の中へ交り込んだ。ところが小坊主ばかりが見物の視線の焦点となつて、武士の面々は余程テレてしまつた。 ﹁大将のお面でなけりや厭だと云つてどうしても諾かなかつたのですが、生憎馬鹿面がたつた一枚しか残つてゐないので、やつとあれを被せて騙したんですよ。﹂ ﹁まあ……。でもまあ、ほんとに玄坊の剽軽たらありやしない。﹂玄坊の母親と家の母親とが遠くの方で面白さうに腹を抱へて笑つてゐるのを、ひよいと自分は見た。﹁けしからん。﹂と自分は思つた。玄坊はすつかりいゝ気になつて、誰が見ても笑はずには居られない手振をして踊つた。 玄坊の頭がゴツンと鳴つて、玄坊がワツと泣いたので、自分は急いで面を脱いだ。自分の、皆の中で一番太い槍の柄が玄坊の頭を殴つたのだつた。﹁玄坊泣くんぢやないよ。強い軍人が、﹂と云ひかけて自分は、馬鹿面の下で火のつくやうに泣いてゐる玄坊の顔を想ふと、もう少しで噴き出しさうになつた。と、自分は、もしこれが嘘泣であつても面の下なら誰にでも同情されるんだな、と思つた。玄坊の滑稽な悲惨な姿を見て、見物は笑ひを禁ずることが出来なかつた。その時自分は﹁玄坊が羨ましい﹂やうな気がした。 自分が玄坊の面を取つてやらうとしても、玄坊はどうしても取らせなかつた。さうして思ふ様泣くのであつた。無台の合戦は未だしきりに続けられてゐたが、自分は玄坊に構かまつてゐる方が見物に認められるので――自分は虚偽と羨望とを感じながら、深切に玄坊をだました。 多少手荒い行動で、自分は玄坊の面を漸く取つた。玄坊の顔中は涙だらけだつた。今更のやうに自分は、玄坊はほんとに泣いてゐたんだな、と思つた時何となく予期に反したやうな不満を感じた。 人気役者の素顔に始めて接した見物は、好奇と賞讚の余り、ドツと笑つた。と、どうしたことなのか玄坊は、 ﹁アーイ﹂と涙声を震はせて勢一杯に叫んだかと見るとニヤニヤと笑つた。 安心して帰つた母親が迎へに来て﹁玄坊や。﹂と云ふと、玄坊はまたワツと泣いて其方へ駈けて行つた、悉くの者の重い視線に送られて。 ﹁新ちやんまた遊ばう。﹂と云つて春ちやんが帰ると﹁これからいよいよ大合戦になりまあす。﹂と三公が声を挙げて叫んで居るにも係はらず大抵の女は帰つてしまつた。 ﹁お春を捕へろ、帰つた奴は泣かすぞ。﹂と三公が楽屋から飛び出すと他の者もワツと云つて続いた。 ﹁新公の奴はお春ちやんに惚れてるもんで捕へに来ないや。﹂誰かが遠くで、自分の悪口を云つたのが聞えた。――悪い事は出来ないもんだな、といふ気がして堪らなく恥しさを感じた。 ﹁春ちやんなんか嫌ひになつた。﹂と自分は呟いた。と、急に寂しくなつて泣きたくなつた。莚の上に独りしよんぼり残された自分は、涙が眼眦に滲んで来るのを感じた。 ――誰か居やしないかな、と周囲を振りむいた。幸ひに︵といふ気持がした。︶誰も居なかつた。自分はそれでも明るい処ではとても泣けないやうな気がした。どこで泣けるか、と思つた。女といふ怖ろしい者、絶体に秘密にしなければならない者の為めに泣かうとする怖ろしい自分は、どうしても明るい処では泣けぬ、と思つた。 その時自分の足許を見たら、玄坊が棄てゝ行つた馬鹿面が落ちて居た。ふと、自分は﹁泣ける場処﹂を発見したやうに思つた。で、急いでその面を拾つて被つた。しつかりと被つた。 泣けると思つたら泣けなかつた。自分は面の下でペロリと舌を出した。 一番立派な大将の面を二枚程持つて玄坊へ遣りに行つた。玄坊の喜ぶ顔が見度かつた。 ﹁いらないやい、そんなもの。﹂と玄坊は憎々しく云つた。 私の想ひはふとそんな昔に走つて居りましたが、二本目の煙草を喫ひ終へてポンと投げ棄てた時にはもうそんな事は考へて居りませんでした。可成り女にも出会つたのだが一度も恋らしい恋を仕終せた事のない自分を顧みて大変に淋しく思ひました。一体自分が悪いのかそれとも相手が悪いのか、といふ疑念も持つて見ました。さうすると割合に晴れやかな気持になりました。 いつの間にか長い夕暮がすつかり暮れてしまひました。 蚊が一匹私の腕に止つてゐるのに、チクリとしたので気が附きました。私は﹁畜生め。﹂と下唇をそつと噛んで、たゝき潰さうと平手を挙げた時、だんだんに腹のふくれて行くところを見てゐたいやうな気がして、その儘ぢつと、専念に、蚊を見詰めました。