彼は徳利を倒さかさにして、細君の顔を見返つた。 ﹁未だ!﹂周子はわざとらしく眼を丸くした。 ﹁早く! それでもうお終ひだ。﹂特別な事情がある為に、それで余計に飲むのだ、と察しられたりしてはつらかつたので、彼は殊更に放胆らしく﹁馬鹿に今晩は寒いな。さつぱり暖まらないや。﹂と附け足した。だが事実はもう余程酔つてゐたので、嘘でもそんな言葉を吐いて見ると、心もそれに伴つれて、もつと何か徒いたづらなことでも云つて見たい気がした。だけど、母も周子も、手際よく顔付きだけはごまかしては居たが――それは一層彼にしては堪らない同情のされ方で、普段ならばもう大概母が断わる頃なのにも関はらず、 ﹁全く今晩は寒い、ひよつとすると雪かも知れない。﹂などゝ云ひ乍ら母は酒の燗をした。 ﹁もう今日で五日位ゐになるかしら、お父さん?﹂と周子は彼に云つた。彼と母ではこれ位ゐのことでも口には出せなかつた。 ﹁さつきの電話の様子ぢや黒川さん達はゆうべお帰りになつたらしいぢやないか。﹂斯う答へただけで彼は、母に間まが悪かつた。﹁それとも、また別の用でも出来たのかしら!﹂ ﹁丁度五日目になる。﹂と云つて母は横を向いた。 母も彼も、父か何をしてゐるか知つてゐた。だが二人の間では父を非難するには﹁仕事﹂にかこつけるより他はなかつた。﹁大損をしやアしないかしら。﹂とか﹁何処の男とも知らない人間などゝイヽ気になつてつき合つてゐて、後で欺されるんぢやないかしら。﹂などゝ云ふ言葉を用ひるのだつたが、時には彼ですら母が余り言葉を妙な処に避けてゐるのに擽つたくも思つた。﹁私の手前もはゞからず……余り口惜しいことだ。﹂一層斯う云つて了ふ方が正直で清々しやアしないかなどゝ思ふこともあつた。だが周子の云ひ方は、母や彼の顔をあかくさせることが多かつた。 ﹁此頃忙しいことは確かだ。だけど斯う家をあけるのはよくない。﹂彼は、いかにも分別あり気にそんなことを云つた。 ﹁あなただつて此間、日帰りだと云つて東京へ行つて五日も帰らなかつたぢやないの。﹂ ﹁俺とはわけが違ふ。﹂と彼は苦々しく云つた。 ﹁違はないわ。同じわけよ。﹂ ﹁俺は、そんなこと……﹂彼は、母の前であることが堪らず、唇を噛んだ。﹁俺は……馬鹿ツ……﹂と彼は周子を睨めた。 皆なが暫く黙つた時、彼は赫ツとして、 ﹁親父の馬鹿ア!﹂と怒鳴つた。皆な驚いて彼の顔を視詰めた。﹁よしツ、俺がこれから迎ひに行く、お客様なんてあつたつて何だつて関ふもんか。﹂ ﹁あなたのお迎ひは駄目!﹂母が云ふのだつたら未だしも彼は好かつたが、周子が﹁自分が一処になつて遊びたいもので、駄目〳〵〳〵。﹂と云つた。 ﹁何てエ馬鹿だらう此奴は、……誰がそんな呑気な気でゐられる、ほんとに拳固だぞ。﹂と彼は無気になつて怒つたが、一ちよ寸つと周子の懸念が自分でも感ぜられた。 ﹁あんなに酔つてゐる。﹂と周子は云つた。尤も彼は、母の前で斯んな酔態を示したことはなかつた。 ﹁迎ひに行きますよ。﹂彼は一寸開き直つて半分は周子を圧迫するつもりで母に云つた。 ﹁今になつて斯んな苦労をするなんて……﹂と母は下を向いて口のうちで呟いた。彼は、わけもなくゾツとした。 ﹁ハハハ……何も苦労ツてエ程のことぢやありやアしない、……別に……苦労なんて……﹂彼は鷹揚な手つきで切しきりに盃を口に運んだ。さうして彼がそつと母を窺つて見ると、明るい電灯の光りに遮られて自分の眼もイヤにチカチカとまぶしかつたが、確かに母の睫毛に光つたものを見とゞけた。彼は、また慌てゝ今度は無茶苦茶に盃を傾けた。 彼の酔態が緒口になつて他の者の感情がほころび始めたらしかつた。だが、彼はさう思はなかつたので、相手のしぐさばかりを冷いつもりの眼で眺めるのだつた。﹁これはちよつと堪らない、泣くなんて酷い、これでは周子と大した差異はありやしない。﹂彼はそんなことを想ひながら、ぼんやり母と周子を見くらべたりした。 ﹁お母さん、もう一杯飲まない。﹂彼は何も気にしてゐないことを見せかけた。すると母は、袖で軽く眼と鼻とを圧へてから、両方の手の先で盃をおさへて差し出した。芝居沁みてゐる、などゝ思ひながらも彼は妙にホツとした気易さを覚えた。――一層斯うなれば、此方も……そんなことが考へられた。 ﹁あなたもう酔つてるわよ、もうお終ひになすつたら――﹂さすがに周子も気詰りを覚えたらしかつた。 お前から見たらさぞ可笑しい情景だらう、だがもう関はない、遠慮なく笑つて呉れ、うんと皮肉な眼で此のだらしのない母と子を観察して呉れ、これから俺がもつと際どい芝居を演じて見せてやるぞ――彼は、益々酔つて来る自分の頭を感じながら、ひとりひどく六ヶ敷い顔で、何か感慨に堪へぬやうな格好をしてゐたが、腹ではそんなおろかな考へにふけつてゐた。 ﹁俺どうしても迎ひに行つて来る。﹂彼は、ひとつは自分のテレかくしで、如何にも如才なく母の気持を察してゐる者のやうに云つた。 ﹁駄目、そんなに酔つて。﹂周子が云つた。母は黙つてはゐるが、彼の見たところでは明らかに肯定の気色だつた。 彼は、まつたく涙ぐましくなつた。さうして自分で自分を煽動して、勝手に勇ましい義憤を抱いた。――反つて気軽さを覚ゆる程の、興奮を感じた。 ﹁お父さんのだらしのないのにはあきれた。お前だつて此頃こそ――﹂と云ひかけた母は傍に周子が居るのに気が附いたもので、此頃こそおとなしくしてゐるが、と云はうとしたのを遠慮して﹁お前もお父さんに気質がそつくりなんだから、しつかりしなければ――﹂と云つた。 自分のことは棚にあげて、母にのみ媚びるが如き、丁度自分の嫌ひな友達を他の友達の前で悪あし態ざまに非難して、甘い同感を購ひ、卑怯な満足を覚ゆるといふやうな、内容の伴はぬ彼の自惚れを母は彼に感じたのかも知れない、彼はこの時ピシリと鞭打たるゝ痛さと恥しさとを覚えた。それにしても彼は、もう母が此方を訓めることに依つて自らの鬱憤のはけ口にしたのかもしれない――などゝ邪よこしまな考へを抱いて苦く思つたりした。 ﹁そんなにいけなかつたんですか?﹂周子は直ぐに淫蕩的な眼を輝かせて母に詰つた。母は、たゞ苦笑してゐた。その苦笑で周子が何れ位ゐな程度の想像を廻らしたらうか――彼は斯んなに考へて一寸迷惑した。 その時突然奥の部屋で古い蓄音機が甲高い声を張りあげたので、皆なが一斉に言葉と気持とを圧へられた瞬間、その蓄音機の干からびたやうな音は﹁ひイるもよウるもだいてねて――﹂とイヤに気味悪くも鋭く家中に鳴り響いた。正月で遊びに来てゐる子供達の悪戯だつた。 ﹁あんなものやつてゐる!﹂と周子が云つた。 ﹁誰があんなのを買つたんだらう!﹂母は首をかしげた。 周子は、あかい顔をしてゐる彼を指差した。周子は彼に何か憤懣でもあるやうに洒々として、さうして今の蓄音機の音のやうにヒステリックな調子で、 ﹁鍵の掛つてゐる本箱の抽出しを妾が此間あけて見ましたらね、あんな風な歌とか浪花節とか云つたやうな下品なものばかしが一杯蔵しまつてありますのよ。大切さうに蔵つてあるので、妾は屹度大事な外国の音楽のかなんぞと思つたら――﹂と云つた。 ﹁何云ツてやがるんだい、馬鹿ア。﹂彼は嶮しく怒鳴つた。周子に限らず彼が怒つてその威厳の通つた験ためしは一度もなかつたが、この時は一層周子は平気だつた。 ﹁何です、その口の利き方は――﹂厳格がりの母は、直ぐに彼を叱つた。――厳格もいゝが今度のやうな場合には困ることが多からう――彼はそんなに思ひながらフラフラと後架へ行つた。 ﹁いつでしたか、彼方の家へ勉強に行くんだと云つて行つてゐた時にね、妾が何か用事が出来て行きましたのよ。行つて見ると蓄音機なんて鳴つてゐるので妾障子の隙からそつと覗いて見ましたら、さうすると、まアどうでせう……!﹂と尚も周子は続けた。﹁独りでお酒なんてチビチビ飲みながら、何だか妙な歌をかけて、それをまア繰り返し〳〵かけて、加おまけにね、変に首なんて振りながら自分もそつと口のうちで歌に合せたりしてゐるんですよ。屹度遊びに行つた時に歌はうと思つて習つてゐたに違ひありませんわ。﹂ ﹁まア!﹂と母は顔を顰めた。﹁それから?﹂ そこに彼はだらしなく胸をはだけて、フウフウと荒い息を吐きながら入つて来た。奥では﹁軍艦マーチ﹂が鳴つてゐた。母は父の事が気に懸つてゐる為か、周子が何と告げ口してもそれ程動かぬらしかつた。 ﹁ともかく出かけるよ。﹂ ﹁止した方が好い。﹂と母は云つた。 ﹁遠慮することはない。なアに、僕が行けば――﹂今度は殊更に彼は﹁僕﹂と云つた。﹁僕は大丈夫だ、ほんとうに嫌ひだ、あゝいふ処は。周子も何もない。全く嫌ひなんだ。馬鹿な……チエツ! そんな閑ひまがあるもんか。﹂ 彼がわけの解らない事を喋り始めたので、母と周子は堅く彼を視守つた。 ﹁あんなに閑な癖に、何云ツてるんだらう。﹂と周子が云つた。威勢好く立ちあがつた彼は何か口のうちでブツブツ小言を云ひながら胡坐に返ると、﹁ふざけるない。﹂とか ﹁ヘツ! 馬鹿らしいや。﹂とか﹁何も彼も滅茶滅茶がいゝ、そんならそれで俺も好きだ。﹂などゝいふ断れ断れな文句が彼の脣から洩れてゐた。 ﹁ほんとだ。滅茶滅茶が好い、皆なで勝手気儘に面白いことばかしゝた方が好い。﹂と彼の耳に聞えたのは、たしかに母の声だつた。 ﹁ハッハッハ……﹂彼は一刻前と同じやうに仰山に笑つた。﹁滅茶滅茶は困る、やりきれないよ。第一、ねお母さん、自分勝手に面白いことをするツて、一体それは如何いふ事なんですか。たゞ面白い事だけぢや解らない、具体的に説明して貰ひたいものだ。﹂ ﹁あなたは何をツ!﹂周子は疳癪を起して彼の背中を強く打つた。 ﹁酔ツぱらひは駄目!﹂と母は云つた。 ﹁いや駄目ぢやない。俺は決して無むか稽んがへな事は云はん、変な興奮もしないよ。﹂ 母と周子は倚り添うて何か内証話を始めた。彼は未だ切しきりに何か呟いてゐたが、不意に電話口に立つた、彼を止めようとした周子は彼に突き飛ばされて、唐紙にドンと当つた。 ﹁何? 居るツ! 居るなら居るで好い、一寸お待ち下さいとは何だい、狸奴! 俺がこれから行つてウント酒を飲むからツて親父にさう云ツておけ。﹂ ﹁あなた何云ツてるんですね、みつともないわよ、もうとつくに電話は切れてゐますよ。﹂ ﹁早く俥をお呼びよ、さうしてお前も一処に行つておくれ。﹂母は慌てゝ周子に云つた。 翌朝、彼は十時頃眼を醒した。 ﹁七草で今朝はお粥よ。﹂と周子が云つた。縁側には飴色の陽が深くさしてゐた。其処に座蒲団を二枚敷いて、一枚を二ツ折りの枕にして父は、口をあけてぐつすりと鼾をかいて眠つてゐた。 其処を避けて、彼が通つた時周子は﹁あらあら、お父さんはまア、こんな処で日和ぼつこ?﹂と云ひながら毛布を掛けてゐた。﹁可哀想に、昨晩のお疲れ!﹂ 彼が顔を洗つてゐる傍に周子は来て、 ﹁あたま痛くない?﹂と訊いた。 ﹁痛くない。﹂ ﹁大丈夫だわね。﹂ ﹁あれはどうしたんだ。﹂庭の隅の物干に彼の羽織と着物が干してあるので、彼は訊ねた。 ﹁ゲロ!﹂と云つて周子は顔を顰めた。 ﹁ほう!﹂彼は、つまらなささうに、でも一寸眼を丸くした。 ﹁お父さんも――﹂と周子は云つた。もう少し此方を見て見ろ、と云はれたので彼は窓から首を出して見ると、彼の羽織に並んで、父の羽織、着物、袴、メリヤスの股引、白足袋などがズラリと干してあつた。 ﹁あなたが悪いからよ。﹂周子はにがわらひした。﹁あなたが行くまでお父さんは余りお酔ひになつてはゐなかつたのよ。それをまア、あなたツてば無理に――あなたが無理に飲ませたやうなものだわ、よくお父さんはおこらないと思つて妾感心した。﹂ 殆ど記憶もなかつたが、さう云はれて見ると、彼はだんだんに顔がほてつて来た。 ﹁お父さんがお妾めかけを置かうとどうしようと、それにあなたが出しやばるなんて、全く鼻持のならない事だわ、妾が堪らなかつた。﹂ ﹁よせ、よせ。﹂彼は鏡を眺めながらせツせツと歯を磨いた。 ﹁お母さんは今朝早く松を伴れて熱海へいらしツてよ。﹂ ﹁ほう!﹂ ﹁お母さんにだつて、さうだわ。あなたが悪いのよ、何でも変な風にばかしお父さんのことを云ふんですもの。﹂ ﹁お母さんが気が早いんだよ。﹂ ﹁嘘! あなたがたきつけるんだ。﹂ ﹁止せばいゝのに、熱海なんてつまらない。﹂ ﹁具体的にしたのよ。﹂周子は斯う云ひ棄てゝ行つて了つた。彼は、自分が前の晩に喋つたことは忘れてしまつて、 ﹁変な奴だなア!﹂と呟いた。 彼が茶の間に入つて来た時には、父は火鉢の前に憤つてゞも居るやうに口を尖らせて、かしこまつて座つてゐた。 彼は、黙つて膳の前に座つた。一体父と彼とは酒に酔つた時でない限り殆ど言葉を交さないのが習慣だつた。少し位ゐ用があつてもお互に母か周子を通して済した。面とぶつかつては彼は﹁お父さん﹂などゝ呼び掛けたことも無い位ゐだつた。互ひに憤むツとした顔をして、決して視線を合せなかつた。――それが酔つた場合になると恰まるで親しい友達か何かのやうに盛んに喋り出すのだつた。さうして翌日になるとガラリと打つて変り何も知らぬ顔をしてゐるのだつた。﹁随分珍らしい親子だ、こんなのが他所にもあるかしら。﹂周子などは驚いて彼に云ふのだつた。 彼が黙つて茶を啜つてゐるのを見て周子が、 ﹁御飯直ぐあがる?﹂と云つた。 祖父の代には七草の朝は、皆な揃つて早朝に起きて元日のやうに祝儀を述べた。それから代る代る神棚の下に座つて、称へ言を云ひながら台の上の七草をしやもぢで叩いた。――彼がうまれて間もなく父は外国に行き、彼が十三の時かへつた。 祖父は彼が十の時死んだ。 ﹁お父さんは如何? 七草粥。﹂彼が黙つてゐるうちに周子がまた云つた。 ﹁御免だ。﹂ ﹁少しでもあげなければいけないツて、お母さんがおつしやつて行きましたわ。﹂ ﹁まア、いゝよ。﹂と云つて父は腕組をした。 ﹁それから七草を爪につけないと指の怪我をするんですつて。﹂ ﹁お酒を持つてお出で。﹂と父が云つた。 ﹁あなたは?﹂周子は彼に訊ねた。 ﹁今朝は厭だ。﹂彼は新聞を眺めた儘で云つた。 ﹁一杯飲むと反つて気持が好くなるものだ。﹂父も新聞を眺めた儘、独白のやうに慌てゝ云つた。彼は、聞えぬ振をしてゐた。 周子が三本目の酒を持つて来た頃には、父と彼はいつの間にか火鉢を挟んで大胡座で、大きな口をあけて笑つたりしてゐた。 ﹁お父さん大丈夫なの。﹂と周子が訊ねた。 ﹁阿母か居ねエとせいせいといゝ。﹂と云つて父は笑つた。 彼もたしかにそんな気がした。 ﹁厭なお父さん! だけど此間中から余りお酒が続くから、またお体が――﹂ ﹁つまらねエ心配するない。お前だつて阿母が居ない方がいゝんだらう、えゝ! おい?﹂ ﹁妾、お母さんの方が好きよ。﹂ ﹁アッハ……、嘘をつけ! お行儀もへつたくれもあるもんか。﹂ ﹁俺、ゆうべそんなに酔つたかしら。﹂うつかり彼は周子に訊ねた。いつの場合でも父と彼とは斯う云ふ回想的な言葉を出した験ためしがなかつたので、父は大変間まが悪さうな顔になつて、 ﹁そんなこともなからう。﹂と云つた。 ﹁二人とも可成りだらしがなかつたわよ、だつて……﹂と周子が続けやうとすると、 ﹁いゝよ、もう止せ。﹂と彼は一寸真面目な顔をして手を振つた。廻り舞台のやうに他愛もなく、一刻前の態度と反対になつて了ふのを思ふと、いつでも彼は一寸恥しさを覚えた、さうしてそれを紛らす為にまた飲んだ。 ﹁俺が道楽でもすると思ふのは、厭になつて了ふ。阿母の奴、第一みつともなくつて堪らない。えゝ、おい、さうぢやないか。﹂ ﹁さうだね。﹂と彼は云つた。 ﹁まつたくだよ。俺のやうな爺がさ、五十一歳だぜ。そりや俺が家をあけるのはよくない、だが仕事となれば仕方がないよ、さうだらう?﹂ ﹁それにしても此頃はまた馬鹿に仕事が忙しいんだね。五十一歳で年寄がるのは少し狡いね。﹂ ﹁ハッハ……。まアいゝさ。だが此頃仕事が忙しいのは確かなんだぜ、そりやアお前だつて解つてゐるぢやないか。﹂ ﹁無論解つてゐる。﹂ ﹁ちつとは大眼に見て貰ひたいもんだ。﹂ ﹁俺は別に何とも思ひはしない、少しは困る場合もあるが、なアに、それだつて別に――﹂ 周子は彼を憎々しさうに睨んだ。 ﹁阿母は一寸ヒスだね。﹂ ﹁少し……﹂と彼は云つた。 ﹁そんな馬鹿なことはありませんよ。お父さんとあなたがいけないのよ。第一それぢやあなたは卑怯だわ。﹂ ﹁憤おこらないでもいゝよ。でも周子、お前昨ゆう夜べはよく来たな。どうだい、お父さんが芸者に惚のろけてゐたところは、どうだ。……驚いたか。﹂ ﹁お父さんはしつかりしてゐたわ。お迎ひの人の方がいけなかつたのよ。妾もうあそこにゐた芸者さん達に気の毒で堪らなかつた。だつてさ、入つて行くといきなり腕をまくつて、やい不みず見て転ん芸者! なんて怒鳴るんですもの。﹂ ﹁そんなことを云つたかしら。﹂と彼は云つた。 ﹁それからが酷いのよ。真似も出来ないわ、あんな下品な……お尻をまくつて胡座なんてかいて、――やい俺は親孝行なんだぞ、芸者なんてまごまごしてゐると張り飛すぞ――だつて。﹂ 彼は、ゾツとして思はず首を縮めた。 父は下を向いて苦笑しながら切しきりに飲み続けた。 ﹁それが、もつと体格でもいゝんなら兎も角、ちんちくりんの痩ツぽちでさ、加おまけにだぶだぶに延びちやツてる股引がイヤにずりこけて、あんなものはいて行かないがいゝのに。﹂ ﹁格好は兎も角、そんなことをしては――﹂彼は小さな声で云つた。 ﹁当り前さ、威張ツたりすればする程可笑しかつた。﹂ ﹁当り前だ。﹂と彼も云つた。 ﹁お父さんの顔に触るわね。﹂と周子は父の方を向いて云つた。 ﹁顔もくそもないさ、関ふもんか。﹂と父は云つた。 ﹁それにあなたは一寸泣き上じや戸うごぢやないかしら、昨夜も終ひに其処で泣いたわよ。﹂ ﹁嘘をつけ! 誰が泣いたりなんかするもんか。﹂出来ることなら彼はその身を蝋燭の灯かなんぞを吹き消すやうにして了ひたかつた。﹁何しろ酷く酔つて了つて、何も知らん。﹂ ﹁昨ゆう夜べの芸者をひとつ皆なこれから家に招よばうか。﹂突然父がさう云つた。 ﹁冗談ぢやない。﹂彼は慌てゝ口走つた。 ﹁なアに阿母の居ねエ時は何をしたつて関ふもんか、家ンなかでぶツ騒げ!﹂ ﹁俺、芸者は嫌ひだ。お父さんのさういふ趣味も嫌ひだア!﹂ ﹁趣味もくそもあつたもんぢやない。――俺だつて勿論芸者なんて嫌ひだが――﹂ ﹁さう一概に嫌つたものでもないが――﹂ ﹁もう酔つて! あなた何云ツてるのよ。﹂ ﹁おい、周子しつかりしろ、此奴は口でこそ何だか訳のわからないことを云ふが、なかなかうつかりしてゐられないんだよ。﹂ ﹁それより俺は金を少し貰ひ度い、もう一ト月ばかり一文なしだ。﹂ ﹁うん、やるよ〳〵。くよくよするねエ。﹂ ﹁今すぐに貰ひたい。﹂縦令父が承知してゐても酔が醒めた時になると、お互に金のやりとりが気拙くなつて、其儘お流れになることは屡々なので、それを慮つて彼は斯う云つた。 ﹁弱味を付け込みやアがつたな、チョツ、まあ仕方がない。﹂さう云ひながら父は、鞄を取り寄せて、急に冷たく落着き払つて小切手に判だけ捺すと、お前書いて呉れと云つてそれを周子に渡した。 ﹁周子に着物を買つてやつて呉れ。﹂父は、一寸傲然として云つた。 彼は、何どれ位ゐ金を呉れたのか気に懸つたが、努めて白々しい態度を取つてゐると、だんだんに心がイヂけて来るやうな不快を覚えた。 ﹁周子も一処に伴れて飯でも食ひに行かうか。﹂ ﹁家の方が好い。﹂と彼は云つた。 ﹁家で飲んでるのも好い、周子、お前に何か御馳走しようぢやないか。﹂ ﹁何も欲しくありませんわ。﹂ ﹁おい、純一! 芸者を呼べよ、家ン中で踊りを踊らせて見ようぢやないか。﹂ ﹁お止めなさい、あなた。﹂彼に一寸動きが見えると周子は強く遮つた。﹁お父さん、家ン中だつて斯んなに散らかつてゐるし、それに皆な斯んな風つきで――第一近所が……﹂ 寒いもので毛糸のシャツを二枚重ねて、何を間違へたものか羽織なしで、彼の木綿の綿入を着込んでゐる父は、 ﹁散らかつてゐたつて何だつてかまふもんか。﹂威勢よく腕を挙げた時自分の着物でないのに気付いたらしかつた。 ﹁お父さんシカゴ大学は立派?﹂話題でも変へさせるつもりか周子は突然そんなことを訊いた。 ﹁どうして知つてる。﹂父が困つたらしい顔をしたので彼が云つた。 ﹁此間、履歴書を見たわ。だけどお父さんは何故もつとハイカラぢやないんでせう?﹂ ﹁古い事は駄目だあよ。﹂父は笑つて云つた。 ﹁だけどお父さんは随分酷い人ね、この人が三つの時ひとりで行つたんですツてね。お母さんから聞いたわ。﹂ ﹁だから今もつて阿母に頭があがらない。ほんとは俺日本には帰らないつもりだつたんだよ。……﹂ 彼は、寂しいイヤな気がした。グロテスクな不愉快を覚えた。つい此頃になつて初めて彼だけが知つた未だ見たこともない混血児の妹のことなぞ考へた。 ﹁ハーンとパツサノは今年も僕にクリスマスのハガキを呉れましたよ。﹂さう彼は云つた。 父は、テレたやうになつて後架へ立つて行つた。彼は冷く父の後姿を眺めた。どんな意味でゞも小説のやうな事柄は自分の周囲には決して無い如く思つてゐたのに、滑稽な程様々な然も不快な事があるらしい。――彼は斯んな風にぼんやり考へたりした。そのうちに彼は、斯うして座つて、何かいろいろなことを考へたりしてゐる自分自身の存在といふものが、極めて不気味な存在のやうな気になつて、終ひには妙な恥しさを覚えた。 ﹁今日は酔つては厭よ。﹂と周子は彼に云つてゐた。 障子をすつて何か拙い歌を歌ひながら戻つて来た父は座りながら﹁正月だからいくら酔つたつて近所だつて何とも思やしないよ。﹂と云つた。 ﹁うんと酔ふ。﹂と彼は憤つたやうな調子で云つた。 ﹁阿母だつていゝだらう。熱海へ行つて湯にでもつかつてゐれば――﹂ ﹁余りよくもないだらう、あんな処に独りで行つて居たつて面白い筈はない。﹂彼は云つた。 父はもう酔ひ過したらしく横になりかゝつた。 ﹁一本宛ぢや面倒だから、五六本かためてお酒を持つて来こウよう。﹂と彼は怒鳴つた。 ﹁出掛けベエ〳〵、皆なでおしかけろ。おい周子! 山崎の為吉さんも呼べ。﹂父は起き上つて云つた。 ﹁駄目です、あんな酔つぱらひ。﹂ ﹁何云つてやあがるんだい。阿母の云ふやうなことを云ふない――ハッハ……﹂ ﹁いや、もうお父さんは止めた方がいゝ。また体に悪い。――俺が独りで飲むんだ、俺独りで酔つぱらひたいんだ。何だい〳〵。﹂彼は急に大きな声を出して、力み始めた。さうすると頬のあたりがムヅ痒くなつて、危く涙がこぼれさうな気がした。 ﹁また始つた。﹂周子は唇を噛んだ。――が努めて静かな調子で﹁いくらお酒を飲んでも関ひませんよ、だけど静かにして下さい。妾ひとりで困るわ。﹂と涙声をした。そして再び気を取り直して﹁いくら飲めたつてちつとも偉くはありませんよ。ね。また昨ゆう夜べの二代目ぢやお父さんも困るし、妾も困る。お酒を飲んだら永島さんのやうに琵琶でもやるとか、三郎さん達のやうに歌でも歌ふとか、踊つてもいゝ――尤もあなたには何も出来ないんだからお気の毒だけれど、憤るのは駄目々々。﹂ 彼よりも五つも年の若い周子が、一生懸命になると仲々の能弁で、こんこんと彼に云ひ聞かせた。彼は、顔をあげては涙の落ちるのが気遣はれたので、子供のやうに下を向いてゐた。 ﹁周子、いゝよ〳〵、関はないよ。酔つてくれば誰だつて同じものだ。何を云つたつて差支へないさ。酒飲みはそれが楽しみなんだ。﹂さう云ふ父の声が微かに彼に聞えた。 ﹁別に楽しみでもない。﹂ 彼はうつ向いたまゝで云つた。――父が家をあけると家中が陰惨でいけない。自分としても実は不愉快で堪まらないんだ、兎も角、家にだけは帰つてもらはないといろ〳〵な意味で困ることが多い――斯う云ふ意味のことを彼は云はうとしてゐるのだつたが︵前の晩もさうだつた。︶どうしても言葉のきつかけが出て来ないのだつた。無暗と胸が迫つて来るばかりだつた。 ﹁何処かへ出掛けよう。家に座つてばかりゐたつて仕様がないから。今日一ン日お前達につきあふよ。明あし日たからはまた客が来る筈になつてゐるんだから。﹂ ﹁それぢやお父さん、活動写真へ行きませうか。﹂ ﹁活動か? 行つてもいゝ。﹂ ﹁俺は厭だ。﹂と彼は強く云つた。 ﹁活動も馬鹿げてるな。﹂ ﹁だつて他に行くとこ無いわ。序でに妾は、パーロウのレコードが誂へてあるからそれを取つて来たいの。﹂ ﹁熱海へ行かう。﹂ 突然思ひついたやうに彼が云つた。 ﹁お母さんとこ?﹂ 周子は意外らしく眼を視張つた。 ﹁うむ、さうだ。﹂ ﹁お父さんは?﹂ ﹁無論行くさ〳〵。﹂彼は、父が返答をしないうちに、おしつけるやうに云つた。﹁用があれば明日お父さんだけ帰ればいゝでせう、だが稀たまにはお客をすつぽかしたつていゝさ、お正月だもの。﹂斯う云ふ場合だと、何んなことでも厭だと云へない父の性質を彼は知つてゐた。 ﹁さあ行かう〳〵、支度だ〳〵。﹂彼は云ひながら元気よく立ちあがつた。――たつた今の興奮の切なさが、一層堅く胸の真中にジツとたゞずんでゐた。――周子の云つた通り、此奴は若しかすると泣き上じや戸うごとかいふ病ひかも知れないぞ――彼は、さう思つた。 ︵十二年五月︶