いや、まつたく、もう話には倦きてしまつた! あなた方はどうお考へかしらんが、ほんとにうんざりしてしまふ。あとからあとから話せ話せで、捉まつたが最後、とんと、逃げ出すことも出来はせぬ。ぢや、まあ、お話をするが、もう金輪際、これがほんとのおしまひですよ。さて、あなた方のお説では、人間の力で、いはゆる悪霊を制御することが出来る、と言はれるのぢやが、それあもう、無論のこと、よく考へてみれば、この世にはどんなこともあり得る……。だが、こればかりは、さう一概に片づけてしまふことは出来ませぬ。化けし生やうのものが一旦人を誑らかさうと見込んだからには、どこまでも誑らかさずには措かぬ。それあもう、金輪際誑らかさずに措くものぢやない!……さて、それに就いて、こんな話がある。私どもは兄弟、四人だつたが、私はその頃まだ、からたわいもない、やつと十一か……いや、十一にはなつてゐなかつたらうて。今もまざまざと憶えてゐる。私が四つん這ひになつて駈け出して、犬の真似をして吠えた。すると親爺が首を振りながら、私を呶鳴りつけたものだ。こりや、フォマ、フォマつたら! もう嫁を貰つてもええ齢としをして、お主はまるで驢馬の仔みてえな、阿房な真似をさらすだ! 祖父もまだその頃は健在で――ああ、どうか、今頃は、あの世で楽にしやつくりをしてござるやうに――しやんしやんしてをつた。さうさう、何でも、ある時のこと……。それはさて、何のためにこんな話をするのだらう? もうまる一時間も煖ペチ炉カの中を掻き立てて、煙草の火を探してゐる人があるかと思へば、何の用があるのか、納屋の後ろへ駈けこむ御仁がある。ほんとに、どうしたといふのだらう!……気随になさるもよいけれど、それにしても、そちらからせがんだのぢやないか……。聴くなら、ちやんとして聴いて貰ひ度い! まだ、春のはじめのころから、父は煙草を売り捌きに、クリミヤ地方へ出向いてゐて留守だつた。荷馬車を二台仕立てて行つたのか、三台仕立てて行つたのか、その辺のことははつきり憶えてゐないが、何でもその頃は煙草の値のいいころだつた。父は三つになる弟をいつしよに連れて行つた――早くから行商を見習はせておかうといふ下心だつたのだらう。で、我れ我れは、祖父に、母に、私に、兄に、それから弟の五人で家にのこつた。祖父は街道筋に瓜畑を拵らへて、そこの番小舎で寝とまりをしてゐたが、瓜畑から雀や鵲を追つぱらふ役目に、私たちをいつしよにそこへ連れて行つた。私たちにそれが悪からう筈はない。何しろ、日にどれだけといふことなく、胡瓜だの、甜瓜だの、蕪だの、葱だの、豌豆だのを、矢鱈に詰めこむものだから、始終、まつたく雄鶏の鳴き声そつくりの腹鳴りがしたものだ。さて、そのうへに旨いことは、相次いで街道をとほる人々が、つい一つ食つてみたくなつては、てんでに、西瓜だの甜瓜だのを買つてゆく。界隈の村々からは、鶏や玉子や七面鳥を持つて交易に来る、といつた塩梅で。日々の暮しは、なかなか悪いどころではなかつた。 しかし祖父には、街道筋を運送屋が毎日、五十台くらゐづつもとほるのが、何より嬉しかつた。馬車曳きどもといへば、御承知のやうに、世間のひろい連中だから、この手合が話をし始めたが最後、どうしてどうして、聴耳を立てずにゐられたものではない! 祖父にはそれがまた、空すきつ腹ぱらに団子と来てござる。それに、時には古い顔馴染に出喰はすこともある――祖父は随分よく人に知られてゐたから。――ところで、老人同士がいつしよに落ち合つた場合、何が持ちあがるかはたやすく判断がつくだらう。つべこべと、あの時はああだつた、それはかうだつたと……いやはやもう、何時のこととも分りもしない話を、思ひ出し思ひ出し、ならべ立てること、ならべ立てること。 さて、或る時のこと――いや、ほんの、まるで今の先きのことのやうに思へるが――ちやうど日の入り頃、祖父は瓜畑へ、日につ中ちゆう、西瓜の日蔽にかけておく、葉つぱを取りのけに出てゐた。 ﹁御覧よ、オスタップ﹂と、私が兄に対つて、﹁ほら、またあすこへ運送が来たよ!﹂ ﹁どこへ運送が来ただ?﹂と、祖父は、ひよつと若い衆連に取つて食はれるやうなことのないやうにと、大きい甜瓜に記しる号しをしながら、きき咎めた。 街道を、正に、荷馬車が六台ほどつながつてやつて来る。先頭に立つたのは、もう髭に胡麻塩のまじつた運送屋だ。それが、さうだ、ものの十歩あしばかり前まで来たところで、ピタリと足を停めてしまつた。 ﹁やあ、御機嫌さんで、マクシム! 不思議なところでお目にかかるもんだね!﹂ 祖父は眼をぱちくりさせて、﹁ああ! 御機嫌さん、御機嫌さん! いつたい、どちらから来なすつた? ボリャーチカもをるぢやないか? 御機嫌さん、御機嫌さん、兄弟! おや、これはどうぢや! みんながいつしよぢやないか、クルトゥイシチェンコも! ペチェルイツィヤも! コヴェリョークも! ステツィコも! みんな、御機嫌さん! あつはつはつ! おつほつほ!﹂ そして一同は接吻しあつたものだ。 去きん勢ぬ牛きどもは軛を外して草を食まされ、荷物は道路においてけぼりにされた。そして一同は番小舎の前に車座になつて煙草を喫み出した。だが、何の煙草どころか、つべこべと話に夢中で一服として満足に喫つた者はない始末。おやつの後で祖父が甜瓜を客人たちにすすめた。そこでめいめい甜瓜を一本づつ手に取ると、小刀できれいに皮を剥いた、︵どれもこれも、すれつからしの連中で、随分いろいろの生くら活しを経て、もう上流社会の食べ方もちやんと心得てゐて――今すぐにだつて貴人の食卓に侍ることも出来たくらゐだ︶で、きれいに剥いて、てんでに指を突きこんでそれに穴をあけると、先づそこから汁しるを啜つて、それから一と切れづつ切り取つては口へ放りこみ始めたものだ。 ﹁どうしたんだ、子供たち。﹂と、祖父が言つた。﹁何をぼんやり口を開けてをるのぢや? 踊りな、穀潰しども! オスタップや、お主の笛は何処にあるのぢや? さあさあ、カザーチカを踊るのぢや! フォマや、両手を腰にかつて! うん! さうぢや、さうぢや! ほら、サッサ! と。﹂ その頃の私はずゐぶん身のこなしが敏捷だつた。年を取るとから駄目で! 今ぢやもう、ああはいかん。脚を輪にさうとするたんびに躓いてばかりをる始末だから。さて、祖父は運送曳きの連中といつしよに長いこと私たちの踊りを見まもつてゐた。私は、祖父の足がまるで何かに引つぱられるやうに、ちよつとの間もじつと一と処に停つてゐないのに気がついた。 ﹁フォマ、御覧つたら。﹂と、オスタップが言つた。﹁きつとあの耄碌爺さんが踊りだすから!﹂ どうだらう! 兄がさう言ふか言はぬに、もう爺さん辛抱を切らしてしまつたのだ。運送屋たちを前において、ひとつ達者なところを見せてやらうと思ひついたわけだ。 ﹁かう、餓鬼ども! それが踊りぢやと思つとるのか? そうら、かういふ風に踊るもんぢやぞ!﹂祖父は踵で地面を蹴つて、両手をのばして、立ちあがりざま、さう言つた。 さあ、かうなつては何も言ふがものはない。踊りと来たら、祖父は総督夫人の相手だつて立派にやつてのける達人だつた。私たち兄弟は脇へのいた。すると爺さん、胡瓜畑の傍の平らなところで、足をぐるぐる旋させながら踊りだした。ところが、ちやうど半ばまで踊つて行つて、そこで一つうんと調子をつけて、旋風のやうに足をぱつぱつと投げ出しながら、得意のひと手を見せようとした時だ――足をあげようとしても、どうにも足があがらないではないか! 何といふ奇妙なことだらう! で、改めて踊り直しにかかつたが、まんなかまでゆくと、やつぱり駄目だ。どうしても、まるきり駄目なんだ! 両足が棒のやうに固くなつてしまふのだ。かう、魔性の地とこ点ろぢや! 悪魔のそそのかしだ! あの人間の敵、ヘロデめが絲を引いてゐくさるのぢや。 いやはや、運送屋たちの前で何といふ恥さらしなことだらう! そこで、また改めて踊り直しにかかつたが、まつたく、端から見てゐても気持よささうに、細かい達者なステップを踏んでゐる。ところが、中途まで来ると矢張り駄目だ! どうしても踊りぬくことが出来ない!ええい性悪な悪魔めが! 饐すえた甜瓜にでも咽喉を詰らせやがれ! もつと小さい中にくたばりくさるとよかつたんだ、畜生め! この老と齢しになつて何ちふ恥をかかされるこつた!……さう言へばまつたく、誰か後ろでくすくす笑つた。 で、爺さんが振りかへつて見ると、どうだらう、瓜畑もなければ、運送屋たちの姿も見えぬ。前後左右とも、がらんとした原つぱなのだ。うへつ! 南無三……これはどうぢや!さう言つて、眼をぱちくりやりだしたものだ。が――どうやら、まんざら初めての場とこ所ろでもなささうだ。片方には森があり、森の蔭から何か竿のやうなものが突き出て、ずつと空高く聳えてゐる。何といふ奇態なことだ? それは祭司の家の野菜畑にある鳩舎ぢやないか! 片つ方にも、何か、やつぱり灰色のものが見える。よく見れば、郡書記がとこの藁小屋だ。ほいほい、悪魔め、何処へ引つぱつて来をつたことだ! 暫らくの間、あたりをうろうろ歩きまはつた祖父は、ふと、小径へ出た。月は見えず、そのかはりに雨雲の間からぼうつと白い斑点がのぞいてゐる。明日は風が強いだらう。と、祖父は思つた。見ると径のかたわきに塚があつて、その上でトロトロと火が燃えあがつた。はあて、祖父は立ち停ると、両手を脇腹にかつたまま、じつとそれを見まもつた。と、その火は消えて、今度は少し離れたところで、また別の火がともつた。埋宝だぞ!と祖父は叫んだ。これあ、てつきり宝物がうづまつてをるに違ひない!で、早速、彼は発掘にかからうとして、もう手に唾を吐いたが、その時はじめて、自分が鋤もシャベルも持ち合はせてゐないことに、やつと気がついた。ええつ、残念ぢや! うむ、だが、わかつたものぢやないて、ひよつとすると、ほんの芝土を取り除けるだけで、そこに奴さん鎮坐ましますつてなことかも! まあ仕方がない。とにかく後で忘れないやうに、目めじ標るしだけでもつけて置かう! そこで、つむじ風に吹き折られたらしい手頃の枝をもぎ取つて、それを火のともつた塚の上へ載せておいて、小径について歩き出した。樫の若木の林はやがてまばらになつて、ちらほら籬が見え出した。そうら、どうぢや? 俺が言はんこつちやないて、と、祖父は心の中で呟やいた。これあ、祭をし司やうがとこの牧場ぢやないか。そうら、この籬も祭をし司やうんとこのぢや! もう、うちの瓜畑までは、ものの十町とはない筈ぢや。 だが、祖父が戻つたのはかなり夜更で、煮ガル団ーシ子ュキも欲しくないといつて食はなかつた。兄のオスタップを起して、ただ一言、運送屋たちはもう発たつて行つたかと訊ねたきり、毛皮外套にくるまつてしまつた。そして兄が、けふお祖父さんは、いつたい何処へ行つてたの?と訊くと、そんなことを訊くでねえ。と、祖父は、一層ひしと毛皮外套にくるまりながら答へた。きくでねえだよ、オスタップ、でねえとな――お主、頭の毛が白うなつてしまふだよ!それきり、恐ろしく大きな鼾きを立てはじめたので、瓜畑を塒にしてゐた雀どもが、驚ろいて空へたちあがつたくらゐだつた。だが、爺さん、何の眠つてなぞゐるものか! いふまでもないこと――あの狡い悪党つたら――神よ、希くば彼に天国を与へ給へ!――いつでも、うまく誤魔化してしまふのだ。でなきやあ、歯の浮くやうな唄をうたひ出して、取りあはうともしないのだ。 その翌る日、野良が、うつすら白みかけるが早いか、祖父は長スヰ上ート衣カを著て、帯をぎゆつと緊め、鋤とシャベルを小脇に、帽子を頭にかぶつてから、濁ク麦ワ酒スを一杯ひつかけると、その口を着物の裾で押し拭つて、真直ぐに祭司の野菜畑をさして出かけた。やがて籬も、長たけの低い樫の林もとほり過ぎた。木立のあひだを縫ふやうに小径がうねつて原へ通じてゐる。どうやら、くだんの小径らしい。果して原つぱへ出た。正しく昨日と同じ場所で、やはり鳩舎が頭を出してゐるが、しかし、藁小屋が見えぬ。いや、これは場所が異ふぞ。或は、もう少し先きぢやつたかもしれん。藁小屋の方へ曲らにやならなかつたのぢや!で、後へ引つ返して、もう一つの小径について歩き出した――と、藁小屋は見えるが、鳩舎が見えぬ! 向きをかへて再び鳩舎に近づくと――今度は藁小屋が無くなる。野良のまんなかで意地悪く雨がぽつぽつ落ちて来た。で、もう一度、藁小屋の方へ駈けつけると――鳩舎が見えなくなる、鳩舎の方へ行けば――藁小屋が消え失せる。 忌々しい悪魔めが、貴様なんざあ、我が子の顔も見られねえで、くたばつてしまやがるとええだ!やがて、雨は盆を覆へすやうな大降りになつた。 そこで爺さん、新らしい靴を脱ぐと、雨にあてて反へぞ曲らしてなるものかと、手拭にくるんで、まるで旦那衆の乗る足だくあしの馬そこのけの、韋駄天走りに駈け出した。ぐつしより雨に濡れそぼれたまま番小舎へ這ひ込むなり、皮外套ひとつ被つて、何かブツクサと、さも忌々しさうに、生まれてこのかた、私なんぞ一度も耳にしたこともないやうな、ひどい言葉で、悪魔を罵り立てたものだ。正直なところ、若しそれが真昼間のことだつたら、きつと私は顔を赧らめずにはゐられなかつただらう。 その翌あけの日、眼を醒して見ると、祖父は何事もなかつたやうな様子で、もう瓜畑の中を、西瓜に牛蒡の葉をかぶせて歩いてゐる。午ひる飯めしの時、又しても爺さん話に身が入つて、末の弟を、西瓜の代りに鶏ととりかへてしまふぞ、などと言つて嚇かしたりした。そして食後に木で鳥笛を拵らへて、それを自分で吹き鳴らしなどした。それから、ちやうど蛇のやうに三段にうねつた胡瓜を私たちの玩具に呉れた。それを祖父は土耳古瓜と呼んでゐたが、いま時、私はあんな胡瓜は、皆目見たことがない。実際、何でも遠方から種子を取り寄せたものらしかつた。 夕方、晩飯をすますが早いか、祖父は鋤を持つて、晩おそ播まき南かぼ瓜ちやの苗床を新規に拵らへようといつて外へ出た。例の呪まじ禁なひのかかつたところを通りかかると、つい歯の間から忌々しい場とこ所ろだ!と呟やかずにはゐられなかつた。そしてをととひ踊りきることの出来なかつた、まんなかの処へ踏みこむと、赫つとなつて、鋤でひとつ地面を打ぶつたものだ。するとどうだらう――彼のぐるりが又もやくだんの原つぱになつて、片方には鳩舎が頭を出してをり、他方には藁小屋があるのだ。うん、鋤を持つて来たのは、もつけの仕合せぢやつたわい。そら、あそこに小径があるぞ! ほら、塚もある! あそこに木の枝が載つとるぞ! それ、それ、火がとぼつとるぢやないか! どうか間違へまいもんぢやぞ! 彼は鋤を振りあげて、まるで瓜畑へ闖入した野豚に一撃を喰はせようとでもするやうに、こつそり走り寄つて、塚の前で立ちどまつた。火は消えて、塚の上には草に蔽はれた石が一つあるだけだ。この石を持ちあげにやならんて!さう考へた祖父は、四方からその石のまはりを掘りはじめた。それがまた、恐ろしく大きな石だ! しかし、うんと足を地面に突つ張つてそれを塚から押しこかした。と、その石はごろごろつと音を立てて谷底へ落ちて行つた。そこがお主の行くところだよ! さあ、これで仕事が楽になつたわい。 ここで祖父は手を休めて、嗅煙草入を取り出すと、拳の上へ煙草をばら撒いて、今しも鼻へ持つてゆかうとした時だつた、突然、彼の頭上に当つて、くしよつ!と、あたりの樹木が揺れ動いたくらゐ、ひどい嚔みをした奴がある。そして祖父の顔いつぱいに、鼻汁がひつかけられた。くしやめが出かかつたら、せめて、わきでも向きやがれ!さう言つて祖父は眼を拭つた。あたりを見まはしたが、誰もゐない! いや、悪魔の奴あ煙草が嫌ひぢやと見える!と、彼は嗅煙草入を懐ろへしまつて、鋤を手に執りながら言葉をつづけた。馬鹿な奴ぢやて、こんな良い煙草は、彼奴の親爺も祖ぢぢ父いも嗅いだことはなかつたらうに!そこで、また、彼は掘りにかかつた――土はやはらかで、鋤が楽にとほると、何かカチッと音がした。土をのけて見ると、そこに壺が一つあるのだ。 ﹁ああ、奴さんここにござつたのかい!﹂と、祖父は壺のしたへ鋤を突つこみながら叫んだ。 ﹁ああ、奴さんここにござつたのかい!﹂と、鳥の頭が嘴で壺をほつつきながら、ピイピイ声で口真似をした。 祖父は脇へ飛びさがるなり、鋤を取り落してしまつた。 ﹁ああ、奴さんここにござつたのかい!﹂と、木の頂てつ上ぺんから羊の頭が嘶ないた。 ﹁ああ、奴さんここにござつたのかい!﹂と、木のうしろから熊が鼻づらを突き出して吼えた。 祖父はぞつとした。 ﹁ここぢやあ、物をいふのも怖ろしいわい!﹂さう、彼はひとりごとをいつた。 ﹁ここぢやあ、物をいふのも怖ろしいわい!﹂と、鳥の頭がピイピイ声で口真似をした。 ﹁物を言ふのも怖ろしいわい!﹂と、羊の頭が嘶ないた。 ﹁物を言ふのも怖ろしいわい!﹂と、熊が吼えた。 ﹁ふうむ……﹂さう言つてから、祖父は自分でびつくりした。 ﹁ふうむ!﹂と、嘴が鳴いた。 ﹁ふうむ!﹂と、羊が嘶いた。 ﹁ふうむ!﹂と、熊が吼えた。 祖父は胆をつぶして、うしろを振りかへつた。いやはや、何といふ夜だらう! 星もなければ月もなく、ぐるりはとんでもない難所だ。足もとは底もしれない懸崖で、頭上には山がさし迫つてゐて、今にも彼の上へ崩れ落ちて来さうに思はれる! そして祖父には、その山の蔭からへんな醜い面つらがめくばせをしてゐるのが見える。おやおや、鼻がまるで鍛冶屋のそつくりで、鼻の孔へは手桶に一ぱいづつ水を注ぎ込むことが出来るくらゐ! 唇と来たら、まつたくの話が、二本の丸太だ! 真赤な眼は仰むけに飛び出し、そのうへ、ベロリと舌まで出して、そいつがおどかしてゐくさるのだ。勝手にしやがれ!と、祖父は壺から手をひいて呟やいた。お主の宝はお主にやるわい! 何といふ穢ならしい面つらぢや!そして、すんでのことに一目散に逃げ出さうとしたが、あたりを見まはすと、以前どほり、何事もないので、また足を停めた。これあ悪魔が嚇かしくさるだけぢやわい! で、またもや壺を掘りおこしにかかつたが、いけない、とても重くて駄目だ! どうしたものだらう! 今更手をひくことは出来ない! そこで、全身の力を籠めて、両手でその壺を掴んだ。そら、よいしよ、よいしよ! もう一つだ、もう一つだ!と、やつとのことで引きずり出した。ふーつ! 先づ一服やらかさう! 嗅煙草入を取り出した。だが、先づ煙草を振り撒くに先きだつて、誰かをりはせぬかと、よくよくあたりを見まはしたものだ。どうやら、誰もゐなささうだ。ところが、おつ魂消たことには、不意に木の切株が喘ぎながら、むくむくとむくれあがつて来ると、耳があらはれ、真赤な眼がかつと見開かれ、鼻孔がふくらみ、鼻柱に皺がよつて、今にもくしやみをしさうになつた。いや、煙草を嗅ぐのは止めておかう!と、彼は嗅煙草入をしまひ込みながら呟やいた。また、悪魔の野郎に唾をひつかけられにやならんから。そこで彼は手ばやく壺を手に取ると、息のつづくかぎり、一目散に駈け出したが、どうやら後ろから、何者かが木の枝で彼の足を擲つやうな気配がする……。はあ! はあ! はあ!と声を出すだけで、祖父はただもう、無我夢中に駈けた。そして祭司の家の野菜畑まで駈けつけて、やつと息を入れたものだ。 祖父さんはいつたい何処へ行つてるんだらう?と、もう三時間ばかりも待ちくたびれた私たちは、怪訝に思つた。もうとつくに、家からは、母が温い水団を壺に入れて持つて来てゐた。いつまで待つても祖父は帰つて来ない。で、私たちはまた、寂しく夜食をすました。夜食がすむと、母は壺を洗つて、さてその洗ひ水を何処へ棄てたものかとためらつた。何しろ辺りは、処きらはず畝になつてゐたものだから。すると、母のゐる方へ向つて桶が一つ、よちよち歩いて来るではないか。尤も空はかなり薄暗かつた。おほかた、誰か若い衆が巫山戯けて、うしろに隠れて桶を押して来るのだらう。ちやうどいい幸ひだ、この桶へ洗ひ水をぶちまけてやらう!母はさう呟やくと、熱い洗ひ水をザンブとぶちまけたものだ。 ﹁あつ!﹂と、だみごゑの悲鳴があがつた。と見れば――祖父だ。それが祖父だらうなどとは思ひも寄らぬことだつた! まつたく桶が這つて来たものとしか思はれなかつたんで! ありやうを言へば、少し罪な話だけれど、祖父の白髪頭がすつかり洗ひ水でずぶぬれになつて、西瓜や甜瓜の皮をいつぱい引つかけた態ざまは、まつたく滑稽だつた。 ﹁見ろやい、糞婆あ!﹂と、祖父は着物の裾で頭を拭きながら言つた。﹁まるで降誕祭まへの豚か何ぞのやうに、頭から煮え湯をぶつかけをつて! 時に子供たち、これからはな、お主たちも輪ブー麺ブリ麭キを飽くほど食ふことができるぞ! 金ピカのジュパーンだつて著てあるけるだよ! さあ、こつちを見ろ、そうら俺が持つて来てやつたものを見ろ!﹂さう言つて祖父は壺の蓋を取つた。 さあ、いつたい何がその中に入つてゐたと思し召す? まあ、何はともあれ、よく考へてから一つ言ひ当てて戴きたい。ええ? 黄金だと? それとはまるで大違ひ、黄金どころか、塵ちり芥あくたなんで……。いやはや、実に口にするのも穢らはしいものなんで。祖父はぺつと唾を吐いた。壺を投げ出すと、すぐその後で手を洗つた。 このことがあつてから、祖父は、どんなことがあつても悪魔のいふことなど信用しちやならんと、かたく私たちを戒めた。 ﹁どうしてどうして!﹂と彼はよく私たちに言つて聴かせたものだ。﹁あの基督の仇かた敵きが言ふことといへば、一つ残らず嘘偽りぢや! 奴のところにやあ、真実といふものは、一文がとこもあることぢやない!﹂そして、たまたま何処かで、何か穏やかならぬ噂でも立つことがあると、﹁さあさあ、子供たち、十字を切りな!﹂さう私どもに向つて喚くのだつた。﹁さあさあ、もつと! さあ、もういちど! ようく十字を切るのぢやぞ!﹂さう言つて、自分も十字を切りはじめるのだつた。ところで、くだんの、踊りの出来なかつた場とこ所ろには垣根をらして、そこへは何でも不用の物や、瓜畑から掻き出した雑草や芥ごみ屑くづなどを捨てさせたもので。 かういふ塩梅に、悪霊が人間を誑かしをつたのぢや! 私はその土地をよく知つてをる。その後、そこを隣りの哥薩克が瓜畑にすると言つて、私の父から借り受けた。非常によい土地で、いつも驚くほど物がよく出来たが、くだんの呪ひのかかつた場所にだけは、決して好いことがなかつた。ちやんと、するだけのことをして種た子ねをおろしても、似ても似つかぬ、変てこな物が生えて来るのぢや。西瓜でもなければ、南瓜でもなく、胡瓜でもなければ……いや、まつたく悪魔ででもなければ見分けのつかぬ代物がな! ――一八三二年――