あさぢ沼

田山録弥






 
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婿婿

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  ()() ※(「風にょう+(犬/(犬+犬))」、第4水準2-92-41)
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 一時間ほどした後には、私は病妻の埋られてある寺の墓場の中へと私の姿を見出した。私はYの城址から丘つだひに、松の林の中の道をずつと此方へと歩いて来た。これも私に取つてはなつかしい道だつた。何遍私はそこを歩いたか知れなかつた。病妻がまだ生きてあそこに寝てゐる頃から、まだ本家の娘であるかの女と恋に落ちない頃から。否、あつく灼熱した頭の中に病妻とかの女との二つの姿が混乱して巴渦うづを巻いてゐる時にも、いろ/\の思ひを抱いて――時にはその身の不徳を責め、また時には恋の有頂天に心も魂も乱るゝばかりに狂つて、何遍このあたりを歩いたか知れないのであつた。私は何遍病妻の死を思つたらう。また何遍その後にやつて来る新しい恋の舞台の花やかさを思つたらう。しかし今はあらゆるものが過去つた。さうした恋も、心も、熱も、何も彼も過ぎ去つた。病妻の死と共にその恋もすぎ去つた。
 私はまた病妻が野を歩くことが出来る時分に、一緒にこのあたりを歩いて、ドイツのフエルランドの歌を口吟くちずさんだことを思起すことが出来た。それはかうした長い静かなメロデイで始まつてゐる小曲だつた。
おくつきの前に二人たちぬ
にはとこの花は香ににほひて
夕暮の風に草葉そよぐ……
 それを思ひ出しただけでも私の心は震えた。何うして私は過ぎ去つたかの女の灼熱した恋と一緒に、このさびしい病妻を思ひ出すのだらう。その小曲はかう言つてゐる。『私はこの世を去るだらう。それに疑ひはないだらう。私のよんだ歌だけがこの世にながらへ、君はひとり誰も慰めるものもない世に取残されるだらう。その時はさびしいだらう。たまらない孤独を感ずるだらう。私のことも夢に見るやうになるだらう。その時は私の墓をたづねていらつしやい。にはとこの花とさうびの花とで囲んだ墓を訪ねていらつしやい。そしてそこに生えてゐる緑の草葉をしとねにして、匂ひよき花の一束を私に手向けて下さい……。さうすれば、私は……』
なれし足音に眼をさまして
静かにしのびてなれなれしく
心を隔てずさゝやかまし、
共に世にありし時のごとく。
すぎ行く人々思ふならん、
にはとこの花をいとしづかに、
ゆるやかにそよぐ夕風ぞと……
 私は静かにその小曲を口ずさんだ。曾て病妻と一緒に口吟んだと同じやうに。『その時は世にあつた時と同じやうに、いろいろと浮世のことをきかせて下さるでせうね。そしたら何んなにかうれしいでせうね。そして私は私でよみのことをいろいろとお話ししませうね……』
その時互ひに心おちゐ、
目をさます星に力づきて
さらばと言はまし、いと静かに、
君は力づき夕まぐれに、
かへり給ふらんおのが家に、
おのれは再び花のそこに……
 私は病妻の埋められてあるつかの前で、向うにさびしい沼の一部を眺めながら、そのフエルランドの小曲を低声に誦した。『おのれは再び花の底に』かう歌ひ終つた時、私の眼には涙が一杯になつて来た。Immortal love がはつきりと浮んで来たやうな気がした。


 せめて半日をそこで過さうとしてやつて来た私は、いろいろと昔のことをさがすやうにした。私は松原の中の路を縦横に歩いた。恋のあとといふことをさがした。私に取つては、その銀色をした沼は、私の恋のあとではないか。そこに折れ伏してゐる蘆荻も、またそこにある浮草も、土の中に次第に深く埋れて行く石垣も、すべて私の恋のあとではないか。あの私の病妻の嫉妬も――あの眼で見るすら心で考へるにすら堪へられなかつたほどのあのすさまじい嫉妬すら、いつかあの灼熱した恋の心と一つになつて、絵の静かさとやさしさとの中に溶け合つて行つてゐるではないか。そしてそれがこのあたりの日影だの、松の林の中の道だの、墓への小道だの、沼ぞひの吹井ふきゐのある茶屋だの、音ばかりきこえてその形は見えない丘の上の荷車だの、あやつり人形でもあるかのやうに遠く野の畠に動いてゐる百姓の男だの、こんなところまで来てゐるのかしらと思はせるほどそれほど深く折れ曲つて入つて来てゐる不思議な錆びた沼だの、そこにさびしく一つただよつてゐる舟だのとひとつになつて来てゐるのではないか。
 夕暮近い頃になつて、私はやつと沼に添つてゐる吹井のある茶店の腰かけから身を起した。
『N駅の方へ行くのには、これを真直に行つて好いのかね?』
『さやうで御座います』
 病妻ともかの女とも来たことのある茶店の主人は、かう言つて奥から立つて来て、『N駅よりはT駅の方がお近いですが、あ、さうですか。N駅ならこれを何処までも真直に――松の中の道をさへ行らつしやればひとり手にそこにまゐりますから』
『難有う』
 私はかう言つて歩き出した。夕暮近く凩が起つた。丘の上の松の音が私と私の恋とを全く埋め尽した。





底本:「定本 花袋全集 第二十二巻」臨川書店
   1995(平成7)年2月10日発行
底本の親本:「草みち」宝文館
   1926(大正15)年5月10日
初出:「令女界 第五巻第一号」
   1926(大正15)年1月1日
入力:tatsuki
校正:津村田悟
2018年4月26日作成
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