汽車で、東京の近郊に行く。麦の黄熟したさま、里川のたぷたぷと新芽をたゝえて流れてゐるさま、杜の上に晴れやかに簇むらがり立つた雲のさま、すべて心を惹かないものはない。﹃麦ははや刈り取るべくもなれる野にをりをり白し夏蕎麦の花﹄歌は平凡だが実景である。 香川景樹の歌に、﹃夜半の風麦の穂ほだ立ちにおとづれて蛍とぶべく野はなりにけり﹄といふのがあるが、いつでも今頃になると思ひ出されて来る。夜半の風と初句に切つて、麦の穂立におとづれてとつゞけた形が何とも言はれない芸術的な感じを私に誘つた。 曾て、関ヶ原を通つた時、﹃新しき若木若葉に日影さし埋れ果てたるいにしへのあと﹄と口くち吟ずさんだが、此間通つた時にもさうした感が再び繰返された。何うしてか、此頃は跡といふことが頻りに私の心を惹くやうになつた。 京都から大阪に行く間の野には、けしの花の白いのが、麦畠や水田のところどころに際立つて見えてゐた。いかにも印象的で好かつた。 大阪の江戸堀の旅舎では、秋声君に京都から来た近松秋江君と三人して、床を並べて敷いて遅くまで話した。﹃こんなことはめづらしいね。それが、温泉場とか海水浴場とかなら、かういふこともあるかも知れないけれども、かうした都会の旅舎だけに、一層めづらしいやうな気がするね﹄秋江君はこんなことを言つた。 昼間見ては汚ない堀割にも、夜は灯が美しく映つて、成ほど昔から水の都と言はれただけあると思つた。 大阪時事の船越君が来た。話の次手に、熊谷直好翁の墓のことを私は持ち出した。﹃あ、さうですか。よう御座んす。わけはありません。調べて見ませう。……そして、わかつたら、明日の朝、お伴しませう﹄ かう言つて、船越君は、親切に、直好翁の墓を調べて呉れた。 なつかしい﹃浦のしほ貝﹄の作者! 私は、何方かと言ふと、景樹翁の﹃桂園一枝﹄よりもこの﹃浦のしほ貝﹄の方に、より多く共鳴したのであつた。私は旅に行く時には、いつもその横綴の小さな拾遺の方を持つて行つた。不思議にも、﹃浦のしほ貝﹄はぴたりと私の心にも気分にも合つた。﹃おそくとく皆なわがやどにきこゆなりところ〳〵の人相の鐘﹄﹃とふ人もなきわがやどの柴の戸は風ぞひらきて風ぞ閉ぢける﹄﹃里の子か沢にしぎわな張りしより心はかゝり夜こそねられね﹄かうした歌がそれからそれへと思ひ出された。船越君はいろいろなことを調べて来て呉れた。墓が山小橋の西念寺にあるといふこと、その寺が昔の富豪平野屋五兵衛の創建であるといふこと、直好翁はその平野屋の番頭であつたといふこと、平生主家に忠実であつたがために、死んでから、平野屋の一族に準じて、その西念寺に葬つたのであるといふこと、さうしたことをいろいろと話してきかせて呉れた。曾て見た翁の肖像が、いかにも堅い商人らしい風をしてゐたことなどが、それとなく私の心に蘇つて来た。 高津宮の址には、大きな石碑が立つてゐた。私達はそこから中学校の傍を通つて細い道を谷のやうなところへと下り、それから、真直に通の方へと出て行つた。 ﹃この近所ですか?﹄ かう私は船越君に訊いた。 ﹃え、もう、そこは山小橋です。……その先きのところでせう﹄ で、私はその通りに出て、その寺をそちこちと探した。 ぢきその寺は見出された。私達は庫裡に行つて案内を乞うた。 古い御影石の墓の前に私は立つた。 何とも言はれないなつかしさを私は感じた。唯、本の上のみで見てゐる人とは何うしても思はれずに、自分の身内のものの墓――たとへば、叔父とか、祖父とか言ふものの墓の前に来たやうな気がして、ひとり手に心持が墓の方へと引寄せられて行つた。 それに、そこから見た谷地、新緑で蔽はれた谷地、そこには下に馬場があつて、騎兵が頻りに馬を乗り廻してゐるのが午後の日影にはつきりと手に取るやうに見わたされた。私はじつと立尽した。 寺の上さんが、手桶に水を汲んで来て呉れたり、樒しきみを持つて来て呉れたり、香炉を持つて来て呉れたりした。私は長い間墓の前に立つて手を合せた。 ﹃これなら、本当の愛読者と言つても好いですな﹄ 此方に来ながら、私はこんなことを船越君に言つた。 帰りに、誓願寺に、西鶴の墓をたづねた。書生時代にお詣りした時とは変つて、その寺の前の路も広くなり、電車も走り、ちよつと見てはわからないやうになつて了つたけれども、寺に入ると、流石にその時分のさまはまだはつきりと残つてゐるのを私は見た。墓は本堂について、ぐるりと廻つて行つたやうなところにあつた。 仙せん皓かう西鶴と書いてあるその字のうまさ――﹃実際、うまいですな、団水か才磨か何方かが書いたんですかな……﹄こんなことを言ひながら、私達は長い間そこから離れなかつた。 有名な富田屋では、その庭の幽ゆう邃すいなのに感心した。その賑やかな都会の真中に、さうした山の中のやうな静かな庭があらうとは! またあゝした大きな深く茂つた樹があらうとは――。 ある日は、午前に、住吉公園に行つた。そしてそこに佐藤紅緑氏を訪うた。四面悉く野のやうな清々した二階の一室で、私達は劇の話や、絵の話などをした。紅緑氏は此頃、熱心に洋画をやつてゐた。静物を書いたものや、近所の野を描いたものなどを見せて貰つた。 欲する心の多いことよ。何処に行つてもさうした心の影の躍つてゐないものはない。また、私にしても、その欲する心の幽霊に到るところで邂逅する。しかし、この欲する心を何うすることも出来ない……。――もう少し反省したら好いだらう――と言つて好いかわるいかもわからない。 物質の平等は遂に遂に期することが出来ない。さうかと言つて、心の平等も、また容易に得ることが出来ない。こゝにも、物と心との密接に絡みつき纏まとはりついてゐるのを私は見る。 若い心よ、失望するな。いつかは思ひのまゝになる時が来るであらう。いつかは本当に人生の巴渦の中に浸つたといふ気のする時が来るであらう。本当に、生いき効がひがあるといふ時が来るであらう。しかし、その時、その時が何れほど好いか。何れほど満足であるか。また何れほど予想に異つてあらはれて来るか。それはその時になつて、てんでにそれを判断するより他為方がない。しかし、失望するな。おのづから、そこには路があつて、丸で反対に思はれたことが少しの不自然もなしに、ひとり手に融和されて行く時が来るものであるから……。 掃いても掃いても尽きない常磐木の落葉――。 私はある人に言つた。﹃説法になるからいけないのだ。自分が一段上に立つて、そして人を教へるやうな態度に出るからいけないのだ。人は唯、自分で感得しさへすれば好い。謙虚にして、いつも後に退いてゐるやうにするが好い。さうすれば、おのづから光明が放たれて来るものだ……。自分から求めずに、人が却つて自分を求めて来るやうになつて、そして始めて、その言ふべきところを言ひ、行ふべきところを行ふやうにするが好い﹄ 仏教で言ふ因果の理法は、単に自己の感得にとゞめて置く時にのみ、その価値を生じて来る。一度、それが第三者の口に上つては、もう駄目だ……。 宇宙への同化、永遠の生命への同化、これより他に、私達の行く道はない。しかし、実際の上から言つては、この同化は甚だ空疎な、実際に遠い、一種の空想のやうに思はれてゐる場合が多い。何故と言ふに、人間は多くはその深い神秘の底まで入つて行くことが出来ずに、単に、目前の現象にのみ捕へられてゐるからである。現象から一歩も奥に入つて行かうとはしないからである。惜しむべきことである。 頭脳が先にあつたか、思想が先きにあつたか。これはメイテルリンクの提唱した講演の眼目ださうだが、これも﹃大乗起信論﹄などに共通したところがあるやうな気がして面白い。誰でも、深く入つて行けば、さう考へて来るより他為方がないのである。唯、心のみ。心のみに縁よつてあらゆることが起つて来る。その心が果して宇宙の心につゞいてゐるか、何うか。永遠の生命につゞいてゐるか、何うか。その心が私達に、頭脳なく肉体がない以前からあつたか、何うか。私達の今の考へでは、無論、その心が以前からあつた方に傾いてゐるやうに思はれるが、しかし、それはもつともつと深く入つて行つて、十分に考へて見なければならないものだと思ふ。 突然に来たやうに見えても、死は、実は突然に来たのではないといふやうなことが、往々にして私の眼の前にある。 築き上げて行くといふことは、誰にでも大切だ。築き上げられたものは、築き上げたといふことの上に、ひとり手に独立性を持つて来て、その築き上げた人の為めにいつまでも働いて呉れるものである。従つて、長い間の堆積といふことは、私達に取つて、最も貴ばなければならないものである。 実際に触れない中は、すべてのものは皆な空想だ。その癖、一度実際に触れると、あらゆる空想が皆な実際になつて来る。 口に出せば、荒誕きはまるやうなことでも、ひとりで、胸に蓄えてゐる中は、甚だ合理的で、決して、不自然に思はれないものがある。そしてこの内と外との細かい区別の中に、現象と現象の底に深く隠れた不可思議さの区別があるやうな気がした。