一
百合子は雪解のあとのわるい路を拾ひながら、徐かに墓地から寺の門の方へと出て来た。 もしそこに誰かゞゐたならば、若い娘の低うつ頭むき勝に歩を運んでゐるのを見たばかりではなく、思ふさま泣いて泣いて泣腫らした眼と、いくらか腫れぼつたくなつてゐる眼頭と、乱れ勝になつてゐる髪とを見たであらう。また大きな牡丹の模様の出た腹合せの帯に午後の日影の線をなしてさしてゐるのを見たであらう。そしてどこの娘だらう? ここ等にはあまり見かけない娘だがと首を捻つたであらう。かの女ぢよがここに来たのは、今から一時間も前であるが、その時にも線香に火をつけてやりながら寺の上さんは、野上さんの墓をお詣りに来たにしてはどこの娘かしら? あんな娘が親類にあるといふ事は聞いたことがないのに――かう言つて不思議さうにじつとその後姿を見送つた。 その野上の墓といふのは、墓地の入口から、秋は木もく槿げなどの紅く白く咲く傍を通つて、ずつと奥深く進んで行つたところにあるのであるが――周囲を花みか崗げい石しの塀で囲まれて、大きなまたは古く苔蒸した石塔が五つも六つも並んで立つてゐるのが外からも見えるやうになつてゐるのであるが、その新しいひとつの墓の前に手を合せて、今は人目も憚らないといふやうにして、彼女は泣いて泣いて泣き尽したのであつた。しかし幸にもこの残雪の泥濘の路を墓参にやつてくるものもなく、あたりはしんとして、唯欷すゝ歔りなきの声のみが何物にもさまたげられずに微かに野に近い空気に雑り合つた。 どこか遠くで汽車の通る音がした。野には春を知らせた静けさが漲りわたつて、野蒜、なづ菜、芹などが、榛の林の縁を縫ふやうに添つて流れてゐる小川の岸を青く彩つた。二
百合子には自分ながら自分の心が解らなかつた。何うして今日墓に詣づる気になつたのか? とてもとてもさうした気持はなかつたのに――深くその秘密を胸に蔵をさめて、楽しいにつけ苦しいにつけ、それを表に出さうなどとはゆめ想像もしてゐなかつたのに――それなのに、何うして今日はかうして出て来たのか? 麗らかな日影に誘はれたのか、静かな春らしい空気にそゝのかされたのか。それともまた――百合子はこゝまで考へて来て、思はず自分の心の底の底が解つたやうな気がした。恐ろしくなつた。 そんなことはない。 かの女は急に打消した。 勿論かれ等の間には、男としての、また女としての交際があつたのではない。否たとへあつたとしても、それは別に問題ではないが、それは咲き出した花はな片びらの上を風が微かに吹いて行つたにとゞまるくらゐのものであるが、しかも彼等の恋は輝かしいものであつたには相違なかつた。百合子は今でも互ひに恋の珠玉を取交した時のことを思ひ出すことが出来た。野の道。静かな野の道。でなければ川添ひの土手の道。そこには篠笹と萱とがガサ〳〵して、時には矢張今日のやうに雪がたまつて残つてゐることもあれば、夕日がさびしく葉はう末らにさしわたつてゐることもあつた。土手を上のぼると川が流れてゐた。色刷毛でサツと薄く群青に刷はいたやうに流れてゐた。 かの女は去年の秋深く、かれに贈るために、その河岸の叢くさむらの中に咲いてゐるいろいろな花を探しあつめたことを思ひ起した。美しい小さな桔梗! それの早く萎んだのと同じやうに、かれ等の恋も矢張儚なくしをれて行つてしまつたではないか。 二人の間は不思議にも誰にも知られずに過ぎた。親達にも兄妹達にも知られずに過ぎた。この世の中では誰も二人のことを知つてゐるものはないのであつた。恐ろしいことでも何ともなかつたのだ。却つてそれは喜ばれたに相違なかつたのだ。それほど輝かしい恋であつたのに、世に知れれば世に羨まれ、人に知れれば人に妬まれる恋であつたのに――それが矢張いけなかつたのか、それが不運のもととなつたのか。 だしぬけに、何の予告もなしに、三時間の中に、もはやかれはこの世にゐないといふことを耳にした時の驚きと悲しみ――否それよりもその輝かしかつた恋を、睦しかつた恋を、楽しかつた恋を、誰にも打明けることが出来なくなつた苦しみを百合子は今でもをりをり繰返した。かの女はその屍なきがらをさへ見ることが出来なかつた。その葬式にすらその姿をあらはすことが出来なかつた。打明けることが出来なくなつたくらゐなら、いつそ心の底から心の底へ! かの女は雄々しくも歯をくひしばるやうにしてその秘密をひとりで処分した。母親すらそれを知らなかつた。百合子は床の中でのみ欷すゝ歔りあげた。 こんな悲しい悲哀がこの世の中にあり得るかといふやうな日が続いた。 かの女は茫ぼん然やりとしてゐた。墓に行く気も起らなければ、野の道を歩いて見る気にもなれなかつた。母親からはよく叱られた。 ﹃百合は此の頃どうかしたのかえ? いやにぐじ〳〵してゐるね? 何か悲しいことがあるなら、隠さずにお話しな?﹄ かう言つて母親は穴のあくほどかの女の顔を眺めた。それに比べては、父親はのんきであつた。 ﹃なアにそんなこと心配するものではないよ。性慾だよ。あゝめそめそするのは皆性慾だよ。早く婿がねをさがしてやれば好いんだよ。﹄ 晩酌に機嫌よく酔つた父親はこんなことを言つてあはゝと笑つた。 裁たち板いたを前にして坐つてゐると、そこに静かな夕暮が来た。何んとも言へない微かな悲しみを雑ぜた夕暮が。日を経るにつれてその悲哀も次第に薄く微かになつて行くやうな夕暮の空気が。そしてその悲哀が縫ひかけた衣の縞の中に、こつそりひそんで沈んで行つてしまふやうな気がした。 ﹃カア、カア、カア――カア。﹄ 鴉が向うの樹の梢で鳴いた。百合子はじつとそれを睨めた。 ある日は百合子は驚いたやうにして自分の心を眺めた。 これが自分の心だらうか。本当の心だらうか。この心が底にあつたために、この身はその秘密を自分ひとりで処分する気になつたのだらうか。そんなことはない。そんなことはない。かうかの女はそれを打消した。 しかもその打消しは十分ではなかつた。かの女はこの恋が誰にも知れなかつたといふことについて泣いた。知れてゐたならば、少しでも知れてゐたならば、さうした心は芽めざす余裕もなかつたであらう。かう思つて百合子はしたゝかに泣いた。三
かれが死んでから、その話の起るまでの間に尠くとも一年は経つた。野芹、梅の花、春の雨、鶯、杜若、蛍の飛び交ふのを見ても、蛙かはづの喧しく啼くのを見ても、人が海辺川辺に避暑に出かけて行く噂を耳にしても、時の間に過去になつたその恋がいろ〳〵に思ひ出されて容易にそこから離れて来ることは出来なかつた。しかし過ぎ行くものをして静かに過ぎ行かしめよ。野の墓に横つたものをして静かにそこに横はらしめよ。さうした考へがある日胸を衝いて起つて来た時には、百合子はしたゝかに泣いた。悲壮と言つても好いやうに、または自然に対する大きな犠牲と言つても好いやうにしてかの女は泣いた。 いくら考へたつてしやうがないこと。もうこの世にはゐないのだ。さうして静かに野に横よこたはつたものの上に、そのやうな心を抱くといふことは却つて死んだものゝ心を浮ばせぬことになる。罪になる。この罪になるといふ言葉に出会つて、かの女はまた欷すゝ歔りなきした。 自分ひとりしか知つてゐないといふ心持の周囲から、いろ〳〵な新しい芽が日増に長じて行つた。悲しい芽。生々とした芽。自然の力にはどうしても抵抗することは出来ないと言つたやうな心の芽。その恋心をすつかり別なものに移してしまふことが出来るやうで出来ぬやうな心の微かな芽。それを敏感な母親の眼は決して見そこないはしなかつた。母親は此頃娘が次第に憂欝から浮び上つて来るのを見た。時には晴やかな顔をして縁に立つてゐるのを見た。ともすると以前の歌の声が静かにその口から洩れた。 母親が静かな低い声でその話を百合子の耳に囁いたのは、今年になつてからであるが、それは頗る自然に且つ滑かにかの女にはきかれた。 それは先づ此方の心に一条すぢの滑かな平らな路が出来て、それによつてその微かな母親の囁きが静かに百合子に近寄つて来たやうにも思へた。それを聞いた時には、かの女は思はず顔を赤くした。 しかも誰もかの女の心の変遷を、無操持を、場合によつては無節操を咎めるものはなかつた。今まで漲つてゐた悲哀さへ、愛着さへ、少しの叛逆をそこにしめして来なかつた。それは流さす石がにかの女にとつても意想外であつた。かの女はじつとその心を眺めた。眼をるやうにして。四
さうだ。それで好いのだ。この心をそのまゝ持つて行けば好いのだ……かう百合子は何遍となくその心に囁いた。かの女はひとつのものからひとつのものへと大きく動いて行つてゐるその身を感じた。それは非常に悲しいものでありまた楽しいものであつた。善いもわるいもなければ節操も無節操もなかつた。さうなつて行かなければならないためにのみさうなつて行つたやうな気がした。五
かの女が野の墓へと思ひ立つたのは、その目出度い結納が取交されて、結婚の日どりが双方の人達の口に上るやうになつたその翌日であつた。
かの女はひとつのものからひとつのものへと大きく動いて行く自然の道程の一いつ齣くとして是非ともその墓に詣でなければならないのを感じたのであつた。
知らせずにそつと家を出て来た百合子は、一時間近くもその墓石の前に蹲うづ踞くまつて袖を顔に当てゝゐたが、雪後の泥ぬか濘るみを拾ひつゝ寺の山門の方へと出て来た時には、あらゆる悲哀が涙となつて解けて流れて行つたやうな気がした。何なにも彼もそれで許されて貰へたやうにも思へた。身も心も非常に軽くなつた。
墓石の前で欷歔してゐた間のその悲しみも、あの突然の死を耳にした時のやうな鉛のやうな重苦しいものではなく、むしろ明るい快感を伴つたものであつたことを百合子は繰返した。恋と涙と喜よろ悦こびと楽しみとが、一つになつてかの女のかよわい全身を浸したすやうにした。
百合子は山門のところに来て、足駄に溜つた泥をその傍にある扉の角に当てゝ落した。
ところどころにかたまつて雪は残つてゐたけれども、それでも明るい午後の日影のさしわたつた路が長くかの女の前に展ひらけた。
少し此方に来たところで、向うからかねて仲好くしてゐるこの町の照子といふ娘が、莞にこ爾〳〵しながら歩いて来るのにぱつたり出会した。
﹃まア、百合子さん!﹄
﹃まア!﹄
百合子は少し具合がわるいと思つたけれども、つとめてそれを押しかくすやうにして元気よく言つた。
﹃何処へ行らしつたの?﹄
﹃ちよつとそこ?﹄
﹃お寺から出ていらしつたわねえ? 貴女?﹄
図星をさゝれて狼どぎ狽まぎして、
﹃え、ちよつと?﹄
﹃何方か知つてゐる方がいらつしやるの?﹄
﹃いゝえ、お墓参りよ。﹄
﹃お墓参り? めづらしいのね。どなたのお墓?﹄
﹃親類のよ。﹄
﹃それはさうと、お目出度いんですつてね? 結構ね。私、是非近い中にお祝に行かうと思つてゐるのよ。﹄
﹃そんなこと――﹄
泣き腫した顔の真赤になつて行くのを百合子は感じた。
﹃もう日はおきまりになつたの?﹄
﹃いやよ、牧山さん。そんなにひやかしちや――﹄
﹃だつて……﹄
二人はそこで暫く立つて話した。それは溝に添つたやうなところで、蘆だの蒲だのの枯れて折伏した上に雪がところどころにかたまつて残つてゐるのをかれ等は眼にした。午後の日影が黒みがかつた溝どぶの水の上に佗さびしくさした。