一
﹁そんなにして遊んでゐて好いのかね?﹂
﹁大丈夫よ﹂
Bは笑つて、﹁旦那に見られては困るんぢやないか?﹂
﹁そんなこと心配ないの……見つかつて、いやだつて言つたら、よして了ふばかりですもの﹂
飽きも飽かれもせずに別れた時子とハルピンのホテルでさうした一夜を送らうとはBは思ひもかけなかつた。それはそこにゐるのは聞いて知つてゐた。大連で女から手紙も受取るには受取つた。しかもかういふ風に自由に、簡単に逢ふことが出来るとはBも思つてゐなかつた。せめて顔だけでも見られゝば満足であると思つて居た。であるのに、昨夜電話をかけると女はすぐやつて来て、それからの恋心の復活、何処にもさうした自由な歓楽はあり得まいと思はれるほどの恋のエクスタシイ――今朝目覚めた時には二人は顔を見合せずには居られなかつたことを、Bは繰返した。
﹁でもあとで困るといけないよ﹂
﹁心配なさらなくつて好いのよ……。それよりも、私、東京に帰りたくなつちやつた!﹂
﹁馬鹿な!﹂
Bは笑つて見せた。
﹁伴れてつて下さい! ね? ね?﹂
とても出来ないのをちやんと承知してゐて、しかもわざと甘へるやうに時子は言つた。時子はベツドの傍そばにある洗面所で顔を洗つて髪を梳いて、白おし粉ろいをさつと刷毛で刷いて綺麗になつてゐた。
﹁……………………﹂
﹁駄目?﹂
男の顔をじつと見て、
﹁どうしてかう人間と云ふものは思ひのまゝにならないものなんでせうね!﹂
﹁…………﹂
﹁だつて、さうぢやないの? こんなに思合つてゐるものが何な故ぜ一緒になれずに、こんなに遠く離れて暮さなけりやならないの? それがこの世の義理?﹂
﹁…………﹂
﹁男ツてのんきね。何とも思つてゐないんですものね?﹂
﹁…………﹂
﹁ね? 伴れて行つて下さい!﹂
Bが猶ほ真面目な顔で沈黙を続けてゐるのを見て、時子は溜息をついて、﹁私だつて旦那がいやぢやないんです。いやではとてもこんなにしてはゐられはしません。しかし本当にはそれより矢張貴方の方が好いんですものね…………。貴方だつてさうでせう? 奥さんがいやぢやないんでせう。しかし奥様よりも私の方が好いんですもの……。何故、好い同志がかうして離れてゐなくつてはならないんでせう。二人一緒になれば、眼に見えて好いことがちやんとわかつて居りながら――﹂
﹁…………﹂
Bは答への代りに、二三歩近寄つていきなり女をかき抱いた。時子も強くBを抱き緊めた。いつか男の眼からは涙が流れた。女は低い欷すゝ歔りなきの音を立てた。
二
﹁それで、そのアンナといふ女はこのハルピンにゐるの?﹂
﹁さう――﹂
﹁ハルピンの何処に?﹂
﹁何でも郊外ださうだ。エスカスとかいふところがあるかね?﹂
﹁あるわ﹂
﹁何処だえ、それは?﹂
﹁川の向うですがね。避難民などがゐるところですがね……。そこにゐるんですか?﹂
﹁さうだ。それを是非訪ねなければならないのだ……。このハルピンに来るについて、二つの目的――ひとつはお前に逢ふといふこと、それはかうして思ひ通りになつたが、もうひとつはそのアンナに是非逢つて行かなければならない﹂
﹁それで貴方のお友達から手紙でもことづかつていらつしやつたの?﹂
﹁手紙ばかりぢやない、金も少し許ばかり頼まれて来た――そのアンナといふ女がね、それは不思議な女でね。何うしても、僕の友人を忘れないんだ。東京にも一度来たことがあるんだがね。何と言つたつて外国人だからね。友達も負けずに深くは思つてゐるにはゐるのだけれども、周囲が喧やかましくつてね。それで半年ほどゐてウラジホに帰つたんだがね? いくらなだめても、賺すかしても、友達でなくちやいやなんださうだ。女といふものは、思ひ込むと、あゝいふ風になるもんかも知れないな……。多少その恋が宗教的になつてゐるんだからね……﹂
﹁そんな人なの? それで矢張商売をしてゐる人?﹂
﹁何でも、ウラジホではアンナつて言へば、大したもんだつたさうだ……。踊りも唄も非常に旨いつていふ話だよ。一度、東京でも新聞に大々的に書いたことがあつたよ﹂
﹁それで、今でもその友達ツていふ人から、お金が来てるの?﹂
﹁はつきりは知らんが、いくらかは来てるらしいね? ウラジホにゐる中うちは、友人も一年に二度や三度は、行つたらしいからね?﹂
﹁此こつ方ちにはいつから来てるの!﹂
﹁何でも向うがすつかり赤せき化くわしちやつて、ゐられなくなつて、それで此こつ方ちへ来たんだが、去年の冬あたりから来てるんぢやないかな……﹂
﹁へえ……そんな女がゐるの? それは私ちつとも知らなかつた――。矢張私と同じね?﹂
﹁だつて、旦那なんかありやしない――﹂
﹁それはあるわよ……。屹きつ度とあるわよ。でなくつちや生きてゐられないもの……。私と同じね……。それで、明あ日す貴方行くの?﹂
﹁是非行かなくつては――﹂
﹁ぢや、私も伴れて行つて下さいね?﹂
﹁それは伴れて行つてやつても好いけれども。ロシアの女なんかに逢つたつてしやうがないぢやないか?﹂
﹁さうぢやないのよ……。私、身につまされたんですもの……。女ツていふものは皆なさうですが、さうと思ひ込むと、忘れやしませんわね。一緒にゐたツてゐなくつたツて、同じことになるのね。旦那だつて、何だつて、皆なその人になつて了ふんですもの……。いゝことをきいたわ、妾わたし。私、そのロシア人と友達になりたいわ﹂
﹁相変らず空想家だな?﹂
﹁だつて貴方にだつて、私の心はわかつたでせう? 二年、三年経つても、私の心は少しも変つてゐなかつたといふことが――? 矢張、私の心の中には、貴方ツきりゐないんですもの……。でも、さびしい時がありますのよ、つく〴〵さびしくなつて、ひとりでゐることが悲しくつて、心細くつて、いくらかヤケになつて、悪酔ひなんかすることがありますけども……あゝさう云へば、かういふことがあります。それはさう去年の冬でした、ハルピンにはめづらしく雪が積つて――此こち方らは雪が降つても灰のやうにサラ〳〵して皆な吹き飛ばされて積ることなんかないんですけども、いくらか暖かだつたのでそれで積つたんですね。酔ぱらつてお座敷から帰る途中でしたがね、私は悲しくつて悲しくつて、涙が出て涙が出て仕方がないんです。もう此の世もなにもないやうな気がして、夢中で雪の中を歩いてゐたんです。ところが、そこに明るい灯ひが一杯に輝いて、ロシア人の大勢集つてゐる教会堂があるのが眼に入つたぢやありませんか。私はいきなりそこに入つて行つて手を合せましたが、あの時のことは今でも忘れずにゐます。その時はさうも思ひませんでしたけれども、矢張貴方に向つて手を合せたやうなものだつたんです――だから、そのアンナつていふ人の心持もよくわかりますの……。ね、いゝでせう。是非、一緒に伴れて行つて下さい――﹂
﹁でもね……行くのは好いけれどもね。一緒に歩いて、旦那に見られたり何かして、問題になると困るよ﹂
﹁私の旦那は、そんな旦那ぢやないの。一緒に歩いてゐるところを見られたつて、怒つたり何かする人ぢやないの――もつと思ひやりの深い人なのよ……。一緒に歩いたつて、三日か四日ぢやありませんか。あとはまたいつ逢はれるかわからないんですもの……大目に見て呉れますの……﹂
﹁…………﹂
三
朝飯も幅はゞで下のレストランに入つて二人並んで食ひ、ホテルのマネイジヤアや番頭などにも平気で話し、あたり前の事でもするやうにして、B達は二人乗の軽快な馬車に乗つて出掛けた。
それでも時子はその前に宅へ電話をかけて来た。﹁叔母さん心配はしてゐたけれども……何アに構ひやしないのよ。好い叔母ですからね。本当の叔母だつてあんなには行きませんからね。あの叔母がわかつてゐるから、私、かうしてゐるのよ。でなきやこんなところに落附いてゐるもんですか﹂並んで馬車に乗りながら時子は言つた。ほんの今日だけのことであるけれども、それでも夫めを婦とにでもなつたやうな喜悦を時子もBも感じた。
﹁かうして馬車に乗つて、ハルピンの町を行かうとは思はなかつたのねえ? 去年の雪に教会堂で手を合せた時分にも、こんな時が来るとは思はなかつた!﹂
かう時子は喜ばしさうにBの耳に囁いた。
﹁エスカス? エスカス? 川まで?﹂
ロシヤ人の馭者は振返つてBに言つた。
﹁川まで?﹂
時子も合せた。
これでロシア人と支那人とが混つて歩いてさへゐなかつたなら、B達はこゝを日本橋の大通かと思つたかも知れないほどそれほどあたりの建物はよく似てゐた。漸く咲き始めた六月のアカシヤの花がをり〳〵強いかをりを街頭に漲らせた。
途中で時子はかねて知つてゐるらしい日本人に三人ほど逢つて挨拶した。一番最後に逢つたのは、脊広を着た、若いハイカラな会社員らしい男であつたが、少しこつちに来てから、﹁あの人、満鉄に出てゐるんですけれどもね。宅の抱への小春といふのに惚れて大変なんですの? お宝も随分使ふの? 叔母も好いお客にはしてゐるけれども、心配もしてゐるんですの……。相手の女ですか。いくらかは惚れてゐるんですけども、何と言つたつて、まだ若いんですからねえ。私なども覚えがありますけども、二十や二十一では本当のことはわかりませんからね? 一度や二度は男を捨てたり男に捨てられたりしなければ、本当のことはわかりませんからねえ……﹂こんなことを時子は言つたが、しかも二人してかうして馬車で走つてゐるのを見られても、少しも困つたり狼あ狽わてたりしたやうな態度をかの女は面おもてにあらはさなかつた。町はやがて尽きて、その向うには、次第に大きな川の流れてゐるらしい濶い地平線を眼の前にするやうになつて行つた。
石ころの多い小さな坂を登つたと思ふと、新しい天地でも開けたやうに、忽ち右に大きな鉄橋を跨らせた大河が、雲を浮べ日を溶して洋々としてゐるのをBは眼にした。馬車はやがてその土手の上で留つた。
﹁これが松スン花ガリ江イだね?﹂
﹁さう――﹂
﹁大きいね?﹂
逸早く女が下りるのをBは眼にして、
﹁こゝで下りるのかえ?﹂
﹁え……こゝで下りて、川を渡らなくては?﹂
﹁川を渡るのかえ? この川を?﹂
Bはいくらか驚いたやうにして言つた。
﹁だつて、エスカスは、向うですもの? ……川を渡らなくつちや……?﹂時子はかう言つたが、続いて下りて来るBを土手の向うへ――ボウトやベカの沢山に集まつてゐる方へ伴れて行きながら、﹁そら、向うに見えるでせう? ロシア人の住んでる家が?﹂
﹁あゝ……﹂
﹁あれがエスカスですの﹂
﹁大変だね﹂
﹁何アに、わけはありません。だつてボートですぐ行けるんですもの……。今でこそまだやつと春になつたばかりなので川はこんなにさびしいですけれども、これから夏になると、それは賑かですよ。ロシヤ人は皆な川に出て来ますからね……。そらあそこに、若い二人連がベカを漕いでゐるでせう? あゝいふのが沢山に出て来るんですから――﹂いつか時子はボートの沢山並んでゐる土手の所へ行つて、さういふことにはつねに十分馴れてゐるものゝやうに、そこにゐる支那人の船顔に何か二言こと三言こと話しかけたが、話しはすぐきまつて、かれ等は船頭に導かれて、そのまゝ土手の下にたぷ〳〵水に漂つてゐるベカにしてはいくらか大きい舟に二人さし向ひになつて乗つた。
﹁あぶないね? 大丈夫かね?﹂
﹁大丈夫ですとも……﹂
﹁深いんだらう?﹂
﹁それは深いですけれども、そんな心配はありませんの……﹂
﹁是でひつくりかへれば、それこそ本望には本望だけども――﹂Bはいくらか軽い調子で言つた。
﹁本当ね﹂
時子も片頬を笑ませた。
支那人の船頭が櫂を操つるにつれて、ボートは静かに川の上へ浮んで行つた。静かな波が日影と共にキラ〳〵と櫂に砕けた。
次第に離れて行く岸には、支那人やロシア人が大勢集まつて此こち方らを見てゐた。中には此こち方らを指して何か言つてゐる者などもあつた。埠頭に立てられてある赤い旗のあたりには、ロシアの主席達が二組も三組も手を組んで歩いて行くのが見えた。
﹁私も、夏になると、抱への妓などゝ一緒に来るんですの……﹂
﹁漕げるのかね?﹂
﹁え、漕げますとも――よくひとりで漕いで行くこともあるんですもの――でもかうしてこの舟に貴方と一緒に乗らうなどゝはいつ考へたでせうね? それを想ふと、もうこれで十分だ! ツて云ふ気がしますねえ。矢張、あの雪の夜の十字架のお蔭ね?﹂
﹁矢張、お互ひに心をなくさずに持つてゐたからだね?﹂
﹁本当ですね﹂
二人は恋の極致にでも達したやうな涙ぐましさを感ぜずにはゐられなかつた。お互ひに――本当にお互ひに心をなくさずに持つて来た。そのためにかうした心が開かれた。櫂に砕ける水の音が静かにあたりに響いた。
四
二人はやがて向うの岸に上陸した。
かれ等の眼には荒れ果てた部落――曾てそのベランダに、またはそのバルコニイに、さぞさま〴〵の美しい裾スカートを曳いたであらうと思はれる二階建の瀟洒な別荘風の建物や、白い赤いペンキ塗りの色の褪せて尖つた教会堂のやうな家屋や、柵のやうにぐるりと取巻いて居る垣の中にすつかり捨て去られた花壇や、硝子張りの所々破れて今は何の花の色彩もなくなつて了つたやうな温室や、さうかと思ふと、白い髯のロシア人がいかにも物淋しげにひとり立つてあたりを眺めてゐる庭などがそれからそれへとあらはれて来た。
﹁こゝは平生はハルピンでも好い人が住んでゐたところなんですけど、今はすつかりこんな風になつて了つたんです。でも、王党の人はまだこゝに来てかくれてゐるものがあるんださうですよ﹂時子はこんなことを言ひながら、それでも自分が案内しなければならないといふやうに、そこにゐるロシア人の子供をつかまへて、簡単なロシア語で、アンナ・パブロオナといふ女の住宅を訊いた。
始めは容易にわからなかつたが、三度目に訊いた子供が運好く知つてゐたので、そのまゝ迷ひもせずに、かれ等はその裏道の方へと入つて行つた。
小さな門のところへと行つて子供は立留つた。
見ると、果して、アンナ・パブロオナとその名が記してあつた。
時子が先に立つて、あとからBが続いた。と見ると、入口の処に中年のロシアの女がゐて、けゞんな顔をして此こな方たを見てゐたが、Watanabe――といふ言葉を一言時子が発音すると、内にゐてそれを聞きつけたらしい美しい、三十ぐらゐの女が急にそこにその半身をあらはした。アンナであることがすぐわかつた。
Tokio―Watanabe―唯それだけでアンナにはすべていろ〳〵なことがわかつたらしく、慌たゞしげに且つ喜ばしげに急いでB達をその家いへの中に請じた。
それは小さな宅うちではあつたが――その一室とその向うにもう一つ室があるだけで、仔細に見れば、その貧しさが、また其惨めさがそれと察せらるゝほどであつたが、否これと見ただけでも、そのアンナがハルピンの普通の踊をど妓りこのやうな生活をしてゐないといふことが、さつき想像したやうにきまつた保護者すらこの人にはないといふことが、それとはつきり時子にも呑み込めて来たのであつたが、アンナに取つても、B達がかうして揃つて訪問して来て呉れたことに対しては非常に感謝したらしく、頻しきりにチヤホヤとかれ等を待した。B達は東京からの言こと伝つてを述べたり、託されて来た手紙と金とを其処に出したりして、アンナを喜ばせたが、その室へやの壁に接して十字架に並べてその Watanabe のカビネの写真像の置かれてあるのを眼にしたときには、彼等は思はず感激の声を立てた。