正宗君について

田山録弥







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 世間に重きを置く心持が死に重きを置く心持と続いてゐるのなども面白い。それは誰でも孤独に住すれば死を怖れる。死ほど醜悪なものはないと思ふ。しかし正宗君の死に対する心持は、人一倍鋭いやうに思はれる。かれには死が一番問題になるやうである。※(始め二重括弧、1-2-54)そんなことを言つたつて何うせ死ぬのではないか※(終わり二重括弧、1-2-55)※(始め二重括弧、1-2-54)何うせあと十年か二十年の命ぢやないか※(終わり二重括弧、1-2-55)かう言つて常に齷齪と暮してゐる人間を罵つたり笑つたり苦々しく思つたりしてゐるが――そこにかれの死に対する考へ方がはつきりと出てゐるが、一歩を進めて、さういふ風に死を怖れ人生をはかなむと同時に、刹那の充実といふことをもつと深く考へることは肝心ではないか。生きてゐる間は、いくら老いても、まだ死ではない。その刹那々々に於いての充実は誰でも同じやうでなければならない。死にぴたりと面してこそ死のことも考へなければならないが、それ以前に死に対して畏怖を抱くといふことは、ある程度までは空想化で、むしろそれはロマンチツクであると言つても好いくらゐである。老ゆるといふ心が起ればこそ年を取るので、刹那的に考へて来れば、青年の中にも無常があるのであるから、別に老ゆるとかいふことはない筈である。矢張、私達は生きてゐる中は、この刹那に生きて、若い時も今も同じやうな熱意と真面目とを保持しなければならないのではあるまいか。しかし、正宗君に取つては、岩野のやうな死は、想像するだに堪へないやうなものであるかも知れなかつた。
 曾つて二三年前、大磯に正宗君を訪問したことがあつたが、その時夫人が、『あれで中々神経が強う御座いましてね、ちよつとでも病気など致しますと、すぐにでも死ぬやうに思ふと見えまして、わしはもう死ぬかも知れん! などゝお国訛まで出て参るので御座いますから、それはいかにも心細さうなんですから――』かう言はれたことがあつたが、そのさびしさが、その芸術的虚無の保持のさびしさが、染々と自分にも感じられて何とも言はれない気がしたことが思ひ出された。子供のないのも、正宗君に取つては、さびしい原因のひとつであらう。





底本:「定本 花袋全集 第二十三巻」臨川書店
   1995(平成7)年3月10日発行
底本の親本:「花袋随筆」博文館
   1928(昭和3)年5月30日
初出:「新潮 第四十一巻第六号」
   1924(大正13)年12月1日
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:津村田悟
2021年2月26日作成
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