志摩から伊勢、紀伊と旅して行つた時のことが第一に思ひ出される。其時、私は糸いと立だてを着て、草わら鞋ぢを穿いて歩いて行つた。浜島から長島までの辛い長い山路、其処には桃の花の咲いてゐる畑はたもあれば、椿の花の緑みど葉りはの中に紅く簇むらがつてゐる漁村もあつた。五ヶ所を通つた時は、空のよく晴れた日で、渡つて行く舟の櫓の音が、湖水のやうな静かな入江に響き渡つた。 蒼い顔をした、真面目な、物に感じ易い一青年が、袂に手帳を入れて、村から村、海岸から海岸へと辿つて行つたさまが、絵のやうに眼の前に見えて来る。まだ其頃の私には、憧憬の悲哀と言つたものより他に、別に苦しい辛いものもなかつた。醜いもの、汚れたもの、正しくないものに眼を閉ふさぐことの出来た其頃の頭脳には、天然は唯美しいもの清いものとしてのみ映つた。 野を耕す農夫や、畑はた道に急ぐ娘や、濡れた帆を干して居る漁師の舟や、さういふものは総て絵のやうに平和で、そして美しいものであつた。贄にへといふ船着で、隣の室に若い男と女が戯れて終夜騒いで居ても、袂の手帳に歌をかきつける余裕を失はないやうなのが其時の私であつた。 十里、二十里、海岸の低い山は低い山へと続いて行つて、昇り降りの多い路は容易に尽きようともしない。山の間から思ひもかけない広い大洋が見えたり、一帆の影の危く欹そばたつて動いて行くのが見えたりした。谷間のさびしいところに世を離れて住んで居る人々の単純な生活は、何んなに深い印象を与へたか知れなかつた。 夕日に彩られた峠、其処を私は郵便脚夫をしてゐる敏捷な少年と路みち伴づれになつて越えて行つた。下に見える村をたしか錦浦と言つたと記憶して居る。少年は血の多い若々しい頬に夕日を受けて、其朝見つけて置いたといふステツキになる樹の枝を切つて、その皮を剥むきながら並んで行つた。此少年は此等あたりに、冬になると出る猪しゝの話を面白く話して聞かせた。﹃大きいのはあれ位ありますぜ﹄かう言つて、谷の流れに架つて終日米を舂ついてゐる野碓の小屋を指し示した。 峠の上からは、南伊勢から紀州に連る長い海岸線と高い複雑した山岳とが打渡して見られた。近い処は日を帯びて、明るい鼠色になつて居たが、遠い処はもう濃い影が出来て居た。弓のやうに連り渡つた海岸には白い波が立つた。 ﹃向うの岬が木の本もとの鼻でさ﹄ かう其少年は教へて呉れた。 紀州の海岸百十数里、其処には新しん宮ぐうの町もあれば、日本第一の称ある那智の瀑たきもある。熊野川の流、瀞とろ八町の谷、私の心は其海と其山とに向つて烈しく波打つた。 紀州は暖かい国であつた。行つて見ると、其処には菜の花が咲いて居た。蛙かはづが鳴き立てゝ居た。海岸の家畑には、夏蜜柑がその黄ろい大きな実を艶の好い緑みど葉りはの中に見せて居た。風の寒い伊勢志摩から比べると、かうも違ふかと思はれるほど気候が暖かであつた。此国の沖に近く、暖流が西から東へと流れて居た。 其処で私は春の雨中の旅の味をつく〴〵味つた。熊野川の谷を遡る時も、瀞八町の渓に船を泛べる時も、玉たま置きや山まに大おほ塔たふの宮の遺跡を偲ぶ時も、柔かな細こまかい雨が常に私の旅の衣を沾うるほして居た。それに山桜が到る処に咲いて散つて、それが雨にぬれたキヤラコの黒の三紋の羽織にいつまでも貼ついて居た。