一
﹁肌身付けの金を分ける﹂
と、内蔵之助が云った。大高源吾が、風呂敷包の中から、紙に包んだ物を出して、自分の左右へ
﹁順に﹂
と、いって渡した。人々は、手から手へ、金を取次いだ。源吾が
﹁四十四、四十五、四十六っ﹂
と、いって、その最後の一つも自分の右に置いた。内蔵之助の後方に、坐っていた寺坂吉右衛門はさっと、顔を赤くして、俯いた。と、同時に、内蔵之助が
﹁これで、有金、残らず始末した﹂
と、いった。吉右衛門は、口惜しさに、爆発しそうだった。
士分以外の、唯一人の下郎として、今まで従ってきたが――
︵この間際になっても、俺を、身分ちがいにするのか?︶
と、思った。悲しさよりも、憤りが、熱風のように、頭の中を吹き廻った。
︵俺の心が判らないのか?――そんなら、もう仇討は、よしだ。――それとも、判っておるか? 太夫。判っているなら、何故、士分と、同じに取扱ってはくれん。今日までは、下郎でいい。俺は、下郎にちがい無いんだから――然し、今夜は、討うち入いりだ。討入ったなら、下郎の俺は、士分の人のように、武芸は上手でないし、一番に、やられると、覚悟しなくてはならん。そんなこと位、お利口な太夫さん、判らないことはなかろう、人間最後の時だ。せめて、金位、士分並に、分配してくれたなら、何うだ――止めだ、俺は、討入はやめだ。誰が、そんな奴に、忠義をするもんか、人を馬鹿にしてやがる︶
吉右衛門が、俯いて、心の底から、怒りに顫ふるえていると
﹁では、支度に﹂
と、内蔵之助がいった。そして
﹁吉﹂
と、振向いて、紙包を、膝の前へ投げた。それは、小判でなく、小粒らしく、小さい紙包であった。吉右衛門は、俯いたまま、お叩頭をして
︵くそっ、もう要らねえ、もう要るもんか︶
と、思ったが、押頂いて、懐へ入れた。富森助右衛門が、帯に入れる鎖、呼笛、鎖鉢巻、合印の布などの一ひと纒まとめにしたのを、配って歩いた。そして、吉右衛門の前へくると
﹁吉は、要るまい﹂
と、いった。内蔵之助が
﹁吉は、わしに、ついておればいい﹂
と、いった。
二
月は、走る雲の中に、薄く姿を現していた。何の物音も――それは、空にも、地にも、人々の間にも、起っていなかった。もう話をすることも無かったし、吉良の邸の前であった。槍の尖を、きらきらさせて、黒い影の人々は、二手に別れた。
﹁父上﹂
主税が、こういうと、内蔵之助は、頷うなずいただけで、すぐ、側の者に、指で、何か指図しながら、門の方へ歩いて行った。吉右衛門は
︵これが一世の別れだのに、何んて、冷淡な――︶
と、思った。
︵自分の遊ゆう蕩とうは、人の倍もする癖に、主税の嫁さえとってやらずに――厳格な家庭で――家庭と、遊里とで、丸でちがった人になるように、この人の表面と、腹の中とは、全くちがうんだ。女は好きだが――いいや、女だって、祇園の妓に暇をやるのに、紙屑をすてるようだった。奥さんを、但馬へ帰すのも、今みたいだった。肚は、冷たい人なんだ。坊ちゃんが泣くのに父の情一つ見せないんだ。俺を、下郎扱いにする位、不思議じゃない︶
寺坂は雪を泥ど溝ぶの中へ蹴落しながら、逃亡するのに、いい機を考えていた。一人が梯子を伝って、屋根へ上った。梯子には、次々に人が伝って登りかけていた。門の所に、微かな音がして、木が軋ると、門内の白い雪が、くっきりと両扉の間に現れて、すぐ、広々とした玄関先が、展開した。人々は、静かに入って行った。一人が、玄関先の雪の中へ、竹に、書類を挟んだものを突立てた。
﹁お前、ここにおれ﹂
と、内蔵之助が、寺坂にいった。そして、人々と一緒に門内へ入ると――たあーんと、長屋の戸へ、矢を射立てて、そこにいる人々を、威嚇するのが合図であった。正面の玄関の板戸が、掛矢の一撃で凄じい音の下に折れ砕けた。とん、たーあんと、矢の戸へ立つ音、庭へ走って廻る人々の足音、板戸の裂け、砕け、敷居が外れる音――一時に、そんな物音が起り、人々の働きが始まった。そして、それと同時に、表門が、軋って閉まりかけた。
︵これだっ――︶
と、吉右衛門は、脣を噛んだ。
︵何処まで、俺を辱かしめるのだ? 何処まで、馬鹿にしやがるのか? 下郎には、人間の魂が無いと思ってやがる――誰が、お前等について行くものか。皆、殺されてしまえ。附人に、斬られてしまえ――畜生っ︶
吉右衛門は、暫しばらく、門の閉まったのを、睨みつけていたが、俯いて、歩きかけた。そして、両袖に縫つけてあった合印の布を、力任せに剥はぎとって、泥溝の中へ、叩き込んでしまった。
三
邸内に、幅の広い、どよめき、それから、部屋の中でらしい、鋭い懸声、喚声、板の踏鳴らされる音、障子にぶつかる音――それと一緒に、隣家の邸内にも、物音が、あちこちに起ってきた。吉右衛門は、
︵見付かったら、大変だ︶
と、思った。そして、鎖鉢巻を懐から出して、泥溝へ投込み、羽織の下の方に縫つけてある合印を手早く剥がして、雪の中へ棄ててしまった。そして物音に、気を配りながら、吉良邸の側を離れた。
︵今時分、うろうろしていて、見廻りにでも怪しまれたら大変だ︶
と、思って、暗い、軒下へ入って
︵その内、大騒ぎとなりゃ、それにまぎれて逃出しゃいい︶
手も、足も凍えてきた。手を、懐中へ入れると、内蔵之助のくれた金包に触った。吉右衛門は、紙の上から掴んでみて、
︵小粒なら相当にある︶
と、思った。そして、掌へ乗せて、重さを考えてみた。
︵金にすりゃ十両ほどがとこ、重みがあるぞ︶
そう感じると同時に、左右を注意して包を開いてみた。白い銀子が光っていた。十両以上あるらしかった。
︵十両くれたって有難くねえや――︶
反抗的に、そう考えてみたが、内蔵之助が何故自分にだけ、こんなに別にして多くくれたのか判らなかった。
︵人間、金よりは、気持だ。俺ら、一両だっていいから、皆と同じように分けて欲しかったんだ、大高め、四十六といやがった。俺だけ頭数に入ってねえんだ。人を、馬鹿にしてやがる――︶
微かに、どよめきが、聞えてきて、だんだん高くなってきた。
︵やってやがらあ、吉良にだって、うんと、附人がいるんだ。斬られてしまえ、皆斬られろ――俺は、国へ戻って、後生楽に暮らすんだ。もう士は懲り懲りだ――︶
人の走ってくる、足音がした。吉右衛門は、身体を引いて、小さくなった。吉良の隣りらしく、少し離れた塀の上に、大提灯が立って、人声がしていた。ちらっと、掠かすめて、提灯が走った。話声が、走って行った。
︵さあ、この間に――︶
と、思って、吉右衛門は、雪の中へ出ると
﹁大変だ、大変だ﹂
と、呟きつつ、小走りに歩き出した。行く手から、横町から、時々、人が走り出してきた。誰も、吉右衛門を怪しまなかった。川の上の、広々とした空が見える所まで出ると、何んの物音も聞えないし、人の走りもなかった。
︵今夜は、宵から、死ぬことばかり考えていたが――こうして、江戸を見ると、人間、こんな面白い世の中に、生きてなけりゃ損だ。俺は、ここ一二年、侍の化物に憑つかれていたんだろ。下郎の癖に、仇討などと――そして、お仕舞いまで、下郎扱いにされて――大損したぞ、畜生。――それでも、醒めてよかった。馬鹿馬鹿しい。仇討をしたところで、又、俺は、下積みにされてしまうか、それとも下郎なんか入っていては恥だと、あの安兵衛など、斬りやがるかも知れない――悪い夢を見ていたものだ。人を恨もうよりも、下郎の分際で、士の仲へ入ろうとしたのがいけなかったんだ。下郎の手まで、借りたといわれちゃ、恥だからな。そうなんだろう。俺に、こんなに、小粒をくれるのは、逃げろって、謎だったのかも知れねえ――いい景色だ。これで、からっと晴れりゃ、いいお正月がくるんだ。仇討よりゃ、お正月の方が、余っぽど景気がいいや︶
吉右衛門は、暫く、橋に凭れて、ぼんやりと、考え込んでいた。
︵もう、そろそろ早立ちの旅人の通る時分だろう︶
吉右衛門は、橋番所から怪しまれないように、人通りのあるのを、待とうと思って、人家の軒下へ入ってしまった。
四
﹁爺とっつぁん、寒いの﹂
吉右衛門は、煮売屋へ入った。薄暗い土間に立って、竈かまどの火に、顔を照らしている老人が
﹁これは、お寒いのに、お早くから﹂
﹁何んでもいいから、一本つけて――﹂
吉右衛門は、鍋の下から、運び出してきた火に手をかざしてから、濡れた草鞋を、脱いで、店の間へ上った。
﹁奴さん、お一人かえ﹂
﹁うむ――葛西まで、お使の、戻りだ﹂
﹁この雪にのう﹂
吉右衛門は、鰊と、味噌汁と、酒とを前にして
︵うまい――ああうまい。久し振りで、しみじみと、打解けて味わえる。酒を飲んでいても仇討。飯を食っていても仇討――一体、仇討をして、何んに成るんだ。士ならとにかく、こんな下郎が?――人の真似をした、猿の物真似だ、と、そういわれたって仕方がない。実際、物の役にも、何んにも立たないんだから――附人に斬られてしまうか、吉良の小者と、囓かじりっこをして、鼻の頭でも、食いちぎられるか?――下郎は、下郎らしく――︶
快く、胃へ通って、血の中へめぐっている酒を、微笑して、首を傾けて
﹁うめえ﹂
と、いった時
﹁爺さん﹂
と叫んで、一人の若い者が、軒下へ立った。そして、口早に
﹁えらい者が、通る、早く、見に行けよう﹂
﹁何がさ﹂
﹁何がって、そら、播州浅野の刃にん傷じょうがあったろう﹂
﹁ううん、あった﹂
﹁その家来が、昨ゆう夜べ、吉良上野を討ちに行って、今引揚げてくるんだ﹂
﹁婆あ、店頼むぞ﹂
﹁何んじゃ、爺さん﹂
﹁上杉から人数が出て、お前、その辺で一戦、やろうてんだが、二度と、見られねえぜ﹂
若者が、走り出した。
﹁婆あ、早はよせんか﹂
と、爺が叫んで、雪の中を、走って出てしまった。
︵討ったのか――︶
吉右衛門は、溜息をして、
︵皆殺されてもいいし、吉良を討ってもいいし、そっちはそっち、こっちはこっちだ。士は士、下郎は下郎――︶
吉右衛門は、一息に、酒をのんだが、ちっともうまくなくなっていた。
︵一寸見に行きたいが――いいや、見付けられでもしたら――︶
﹁お早う御座ります﹂
と、婆が出てきた。吉右衛門は頷いただけであった。
﹁爺は何しに出ましたえ﹂
﹁さあ﹂
と、いった時、表の雪の中を、一人、二人――走って行く人々が、見る見る増えてきた。口々に何かいいつつ、眼を前方へ、じっとすえて、一生懸命に走って行った。
﹁何んぞえな﹂
と、呟いて、婆が、表へ出た、そして、右を見て
﹁おやおや、槍の穂が光ってるぞな。貴あな下た、出て見なさらんか? こりゃ、えらいことじゃぞ。貴下﹂
吉右衛門は、立上って、表へ出た。人はどんどん走っていた。右手を見ると、人垣が、重合っていて、その頭の上、肩の上に、引揚げて行く人々の頭、槍が動いていた。
︵随分、残っている。三十人もいるかな――うまく討取ったらしいが――もう、俺には関係のないことだ︶
吉右衛門は
﹁婆さん、もう一本﹂
と、いって、内へ入ってしまった。
五
神奈川まできた時、冬の陽は、薄暗くなっていた。それに雪解けの道を、戸塚までのすのは、骨であった。吉右衛門は、松屋へ泊った。
柱に、二本の燈とう芯しんの油皿の灯があるっきりで、湯気と、暗さとが一緒になっていた。狭い、汚い、風呂場であった。吉右衛門が入って行って
﹁はい、御免よ﹂
といったが、誰も答えないで
﹁えらいことを、やるもんだのう、忠義の士だよ﹂
と、一人が大声を出していた。
﹁何んしろ吉良の附人ってのが七八十人もいたが、一人も斬られずに、無事にお前さん上野を討取ってきたってのだから、何んと、凄い腕じゃ御座んせんか――ねえ、貴下﹂
﹁全く――﹂
﹁然もさ、その四十七人の中にゃあ、お前さん何んとかって、下郎が入っているって話ですぜ﹂
吉右衛門は、はっとした。そして、小さくなって、湯ゆぶ槽ねの隅へ入った。朧おぼ気ろげに、四人の男の影が見えていた。
﹁年二両しか貰わねえのに、命をすてて尽そうってんだから、こいつが、先ず、忠義の大将だね﹂
﹁大将は誰だ﹂
﹁大石って、国家老だってことだ﹂
﹁ふうん、どっしりして、大将みたいな名だのう。四十七人って、本当に、四十七人なのかい﹂
﹁吉良の邸の玄関に、ちゃんと、討入の口上と名を書いたのとが残っているんだ。江戸じゃあ、もう瓦版が出て、姓名から、石高まで判ってるそうだ。明日になりゃあ、判るだろう。それとも、遅く着く人が、持っているかも知れねえ﹂
﹁吉き良られ上野、首無しの段、あわわわわ、話をして、うだっちまった。頭がふらふらすらあ﹂
一人が、勢いよく、湯をはねて飛出した。そして、吉右衛門に
﹁御免よ﹂
と、声をかけて
﹁貴下、瓦版を、お持ちじゃ無いかな﹂
﹁持っちゃいませんが、少しは、知っていますよ﹂
﹁知ってなさるか。ふうん、大石、何んて方ですえ、大将は?﹂
﹁大石内蔵之助良雄――﹂
﹁そうそう、そうだ、そうだ。大石内蔵之助良雄ってんだ﹂
﹁それから、忠義の下郎は?﹂
﹁下郎?――下郎は――寺坂﹂
﹁ふうん、寺坂裏之助良雄か。成る程、いい名だ。しっかりした下郎らしい名だ。それから――﹂
四人が、吉右衛門の周囲へ集ってきた。吉右衛門は、手拭で、顔ばかり拭いていた。
六
吉右衛門は、江戸へ引返してきた。宿でも湯屋でも、髪結床でも、討入の話ばかりであった。瓦版の読売屋は、次々に、新らしく聞いた材料、創り上げた話を刷出して、町中を呼んで歩いていた。
﹁番町の、堀内源太左衛門正春先生のところでは、門人から、六人まで、義士を出したって、今日、大酒盛だって――﹂
﹁そうだろうな。嬉しいだろうよ﹂
髪結床で、小者が、話をしていた。吉右衛門は、髪をすかせながら、眼を閉じて聞いていた。
﹁あの、寺坂吉右衛門って、仲ちゅ間うげんは、お前、何どうおもう?﹂
﹁えらいじゃねえか﹂
﹁手前たあ、ちっとばかしちがうの﹂
﹁何を――手前なんぞ、安夜鷹ばかり買やがって、討入と聞いたら、腰の抜ける方だろう﹂
﹁何うだ﹂
﹁ちげえねえ。所で、その寺坂め、泉岳寺の人数の中にゃ、いないんだってのう﹂
﹁そこが、遠慮――何んとかってんだ。国許へ知らせの役に、行ったんだろうって、邸の御用人が仰しゃってたが、そうだろうよ。下郎は士じゃねえから、お上でも大目に見らあな。それに、侍が一人いなくなったといや、命を惜しんでと噂されるだろうし、誰も国許へなど行く人は無いだろう。何んしろ、えらい人ばかりだからのう、そこで、寺坂、頼むってなことになって――お前、生残って寺坂で御座い、品川へでも行きゃあ、女にもてるぜ﹂
﹁ところが、そんな奴に限って、余り男振りはよくねえにきまってらあ﹂
﹁手前の面あ、何んだ。よく、鏡を見て、熱を出さねえのう﹂
﹁お前なあまた、化物がびっくりしたって面だ。河岸のお玉がぬかしてたぞ。甚内の面を見ると、ぶるぶるとするって﹂
﹁へん、ぶるぶると。嬉しがるんだ。このとんちき﹂
﹁一生、とんちきかなあ。俺でも、お前、主人が殺されりゃあ、討入に行くぜ﹂
﹁夜鷹の所へか﹂
﹁本当に、と思や、殺してみな。人間、男と生れたからにゃ、末代まで名を残してえや、瓦版になって、鈴木金作、本所の仇討、さあ上下二冊揃って十文、女が喜んで、妾も殺されたいよう――﹂
﹁よしやがれ、それで、敵が討てるけえ﹂
﹁これが、敵を欺く計画だ﹂
﹁同じ下郎でも大ちげえだ。なあ、海老床﹂
床屋の主人が、髭を剃りながら
﹁俺ら一生、人の頭をいじって、お飯まんまを頂戴しなくっちゃならんし、人間さまざまだ。寺坂なんて人あ、百年に一人だ、羨むにゃあ当らねえ﹂
﹁そうだそうだ、下郎は下郎らしく、身分相応にしてりゃいいんだ﹂
﹁お玉を、嬶かかあにしようなんて、諦めろよ﹂
吉右衛門は
︵俺が、門前から、消えてしまったことを、誰か、喋しゃべるかしら?――喋るだろうな――いいや、もしかしたなら、喋らんかもしれん。太夫は喋るまい。第一に俺は下郎だ。士分の奴でさえ、間際に、逃出した者が、四五人もいるんだ。何が卑怯なもんか。喋らないとすれば――一思案だ――国へ、討入の顛てん末まつを知らせるため、一人抜けて出た? 成る程うまい口実だ――もし、皆が助命されたとしたなら? 何うせ、役に立たんから、討入を見届けて、国許へ知らせに参りました、と、こういってもいいし、もし、皆が切腹か、打首にでも成ったなら、しめたものだ。誰が、何をいおうと、俺の口先一つで何んとでもなる。ちゃんと、名の入っている書付が、お上の手にあるんだからな――助命か、切腹か。それを見届けてから国へ走るか? 先に走るか?︶
寺坂は、自分を、同志の中へ加えたくなってきた。
︵四十六人、皆無事だ。そうと知ったなら、討入っておくのだった。いいや、討入っていたなら、一緒に、切腹かもしれん――誰も、あの時、俺の逃げるのを見てはいなかったんだ。口実は、何んとでもつく――よし、俺は、仲間へ入ってやろう。入れることにしてやろう。そうでもしなけりゃ、埋合せがつかん。人を、虫けらみたいにしやがって、その虫けらが、一番いい籤くじを引きそうだ︶
吉右衛門は、明るい心になって、微笑していた。
七
﹁まあ、吉右衛門――何うしたえ、上るがよい、さ﹂
と、玄関へ、出てきた、大石の妻が、嬉しそうにいった。
﹁未だ、お知らせは?﹂
﹁何の?﹂
﹁首尾よく、吉良を、お討取りになりまして御座ります、これが、その――﹂
﹁ええ? 吉良上野を――﹂
吉右衛門は、瓦版を、三通取出して
﹁所々、字がまちがっておりますが、太夫様、以下四十七人、一人残らず無事で――﹂
妻は、薄く涙をためて、蒼あお白ざめた顔になっていた。吉右衛門は
︵俺の逃げたことがばれても、一番先に、こうして知らせておけば、罪亡ぼしになる︶
と、思った。
﹁お前も、この中へ入っていなさるのう﹂
﹁いいえ、手前は、ほんのお供で――﹂
﹁詳しい話を聞きましょう、さ、上って――これ、すすぎを早う﹂
﹁いいえ、これから、華岳寺へ参りまして、また江戸へ﹂
﹁江戸へ?﹂
﹁何う処置がきまりますか、皆様の御先途を見届けたいと、存じまして﹂
﹁それにしても、一寸上って、そして、主税は、働きましたかえ﹂
﹁ええ﹂
吉右衛門は、頷いて
﹁何んしろ、皆様御無事で、こんな目出度いことは御座りませぬ。江戸は、もうこの噂で持切りで、日本一の忠義の士だと、奥様、追々、ここへも知れて参りましょう。随分、御苦労を為さいましたが――﹂
吉右衛門は、そういいながら
︵この人も、下郎も、丁度同じだ。どっちも、人間扱いにされずに――そして、されなかったから、一番いい籤を引くことになるんだ。妙な廻り合せになるものだな、人間っていう奴は――︶
と、思っていた。いつの間にか、妻は、手を突いて、顔を伏せて、袖で涙をぬぐっていた。それを見ていると、吉右衛門は、何故か、自分も、悲しくなってきた。
八
﹁吉右衛門、切腹と、きまった﹂
と、いって、方丈が、入ってきた。
﹁はい﹂
﹁今、知らせが入ったからと、使がきた。お経でも、上げよう﹂
方丈が、そういっていると、村の庄屋の声で
﹁これを一つ吉右衛門さんに﹂
と、庫裡で、いっているのが聞えた。
﹁切腹に、な﹂
吉右衛門は首うな垂だれてしまった。
﹁吉右衛門、短慮を起すでないぞ。この上は諸士の後生を、よく弔うのが、何よりの務じゃ。追おい腹ばら切ろうより、何をしようより、弔って上げなさい。他人の百遍の念仏より、お前の一度の念仏の方がよい功徳になる﹂
吉右衛門は心の中で
︵これで、安心した︶
と、すっかり、落ちつくと共に
︵何んだか、済まんような︶
とも、感じた。
︵俺のことは喋っていないだろう。喋ったって、対手は死んだのだし、俺は生きているんだ、他の奴が、何をいったって、太夫が、人に話さずに、俺にだけ話をして、国許の女房へ知らせてくれと、いっておられたから、といえば、それでいいんだ――だが、切腹ときまれば、俺の名も連ねてある以上、俺へのお咎めは――︶
そう思うと、不安になってきた。
﹁さあ、吉右衛門、同道しよう﹂
﹁手前――﹂
﹁何か、吉右衛門、短気なことをしたなら﹂
﹁いいえ、これから、江戸へ参って、後始末をすることが御座ります。太夫と二人で、話をしておきましたことで。只今から、すぐ出立して――﹂
﹁そんな――それは余り――﹂
﹁いえ﹂
吉右衛門は、立上った。
﹁それでは止めもせんが――行ったり、来たり遠い所を﹂
﹁すぐ戻って参ります﹂
﹁頼む、この村の名誉だでのう﹂
吉右衛門は、小さい行李から脚絆を出して当てながら
︵これで、咎めさえ無いときまったなら、俺のものだ。村の奴らあ、家まで建ててやるといってくれるし、忠義無類の下郎には成るし――そうだ。士分では無いし、討入には、ついて行ったが、門も入らないのだから、罪にはなるまい。徒党を組んだ罪――そうだ、そいつがある。とにかく、俺を召捕るか、捕らぬか、噂を聞いて――金はあるし――旅へ出て噂を聞いた上での、分別と――︶
吉右衛門は、支度をして、立上った。
﹁何処へ、今時分から﹂
と、村の人が、声をかけた。
﹁江戸へ行って参ります﹂
吉右衛門は、丁寧に答えて、お叩じ頭ぎをした。
﹁まあ﹂
村の人々は、それ以上に、物をいわなかった。
︵この村の人を丸めるのは訳は無いが、江戸の役人は、俺の逃げたのを聞いているだろう。逃げたから? 罪にはならんか? 逃げたことが奉行所から、江戸中へ洩れているか?――今度、江戸へ行っての噂が、俺の運命をきめるんだ――余り称ほめられすぎているから、逃げたことが洩れた時、その逆がきたなら?――いいや、俺は生きている。物が書ける。何んなことをいっておいた所で、何もかも知っているんだから、俺から、何んとでも、弁解することが出来る。心配することはない。士分が、切腹だから、俺は切腹せんでいい。切腹でない?――そうだ、江戸お構い――その辺の所だ。そうだ︶
吉右衛門は、一切が、明らかになったように思えた。微笑しながら、早足に、江戸の方角へ歩み出した。
︵義士、寺坂吉右衛門――俺を、散々下郎扱いにしたが、そいつらが、四十六人で、俺を一番幸福な人間にしてくれたんだ。だから、義士だ。あはははは。そうだ。俺にとってこそ、本当の義士だ︶
吉右衛門は、声を立てて笑った。
この一篇は、作者の空想では無い。寺坂吉右衛門が、討入当夜、逃亡したということは、明らかな事実であるが、俗説として四十七人の中へ加えられているのである。簡単に、その証拠を、拠あげるが、徳富蘇峰氏の﹁近世日本国民史﹂元禄時代中篇、三百十一頁に﹁寺坂の使命と称すべきものは一も是れない。さらばその仔細といふは到底不可解だ。併し、強ひてその解釈を求むれば、彼の仔細は、毛利小平太の仔細と同一だ、即ち臆病風に襲はれて、一命が惜しき許ばかりに逃亡したといふことだ﹂
その外、いろいろの信ずべき書に出ているが、詳しく書く必要は、ないとおもう。