一
﹁本当にそうか。﹂ と、聞かれると、そうで無いとは云え無い。く、とは確たしかに聞いたのだから、これは断言できる。然し次の、る、はそう云ったような、云わないような、何どうも明かで無いが、自分が唯一の証人で大勢の中で、美しい寡婦の悄しょ然うぜんとしている前で ﹁くる、と確に聞いた。﹂ と、云った言葉を ﹁本当か。﹂ と、念を押されると、今更、いや一ちょ寸っとまってくれ、もう一度、耳に聞いてみるからとも云え無い。それに死人に口無し ﹁くる、と確に聞いた。﹂ と、断言したって、それは一寸良心が二三分間疑を挟んでみるだけで、お俊しゅん始め、列座の面々はきっと自分の手柄に感謝するにちがい無い。だから ﹁本当ですとも。﹂ と、云い切ってしまった。 ﹁来くる馬までは無かろうか。﹂ と、一人が一人にこっそり耳打した。そしてその一人は頷うなずいた。 ﹁君が、何んと声をかけた時に、くる、と云ったのだ。﹂ と、もし聞く人があったなら、来馬への懸けん疑ぎはいくらか薄くなったかも知れぬが ﹁対あい手ては? 手懸りは?﹂ とばかりしか考えていない若侍共に、そうした探偵法は気がつかなかった。そして、耳打から、小声になり、一番思慮の無い男が ﹁来馬で無いか。﹂ と云うに到って事いささか重大となってきた。 ﹁来馬に限って。﹂ と、云う人もあったが ﹁一応は聞いてみてもよかろう。﹂ と云う説も甚だ尤もっともであって反対の余地はなかった。 ﹁お俊とは昔恋仲だったと云う噂も――いや事実もあるからな。﹂ と、多くの人は、自分の説に根拠を置いた。そして、三人の選ばれた人、お俊の弟と、親族の一人と、来馬の相弟子とが、来馬の家へ向った。二
もし、その夜、来馬が町へ出て酒を飲んでいなかったなら ﹁くる、のくるは苦しいのくるで、来馬のくるでない。﹂ で、突張れたし、家を出ないと証人に下僕も言ったであろうが、甚じん七しちは余り人に聞かしたくない家で遊んでいたから、三人が四角張って ﹁何ど処こへ、今頃――﹂ と云った時、むっ、ともしたし、冷ひやっともしたし――それに第一、三人の態度が気に入らなかったから ﹁何処へ?﹂ と、云ったまゝ、じろりと目をくれて ﹁水を持って来い。﹂ と云った。 ﹁少し、お尋ねしたい事があって――﹂ と、一人は、丁寧に云ったが、来馬の態度に、腹の中は不快である。 ﹁はゝあ、改まって――この深夜に。﹂ ﹁何処へ、今まで行っていたか、明はっ瞭きりと仰おっしゃって頂きたい。﹂ ﹁何故――妙な事を。﹂ ﹁実は――﹂ と、弟の云ったのを一人は目で抑えた。 ﹁お包みなく云って頂きたい。﹂ ﹁城下へ――﹂ ﹁城下の何どちらへ。﹂ ﹁一体、何を聞きに来られたのだ。君達から行方を聞かれるような――丸で罪人を問うような――﹂ 来馬は酒を飲んでいた。だから、そう云っている内に ﹁無礼な。﹂ と、頭の中にうろ〳〵していた言葉が、つい口を出てしまった。 ﹁無礼?﹂ ﹁無礼だ。﹂ 何も知らぬ来馬に対しては確に無礼であると共に、三人がこう聞くのも尤もな次第である。だが、勢こゝに来てはそのまゝで納らない。 ﹁無礼とは――﹂ ﹁帰れ。﹂ ﹁何をっ――﹂ ﹁馬鹿めっ――﹂ 甚七は二人を斬った。一人は死んだ。そして彼はそのまま出しゅ奔っぽんしてしまった。三
何者かに殺された佐々木左門の弟が桑名に居た。甚七は心易い仲であったから、その足で、その家を尋ねた。 ﹁詰らぬ事から、これ〳〵で――、わしはこれから江戸へ出ようと思うが、少しの旅費と、一夜の宿とを――﹂ ﹁何をまた、甥などが――﹂ と、云って夜更けまで語り、旅費を与えて立たせると、一足ちがいに急飛脚が来た。 ﹁父を討ったのは来馬らしく、その上、人を殺あやめて立退いたが、いろ〳〵相談もありすぐ来てくれ。又来馬立廻った節には召捕えて﹂ という文句である。主人はすぐ馬を呼んだ。そして、馬を走らせつゝ、五両も金を与えた事をいま〳〵しく思った。 甚七は午ひる餐めしを食べに茶店へ立寄った。馬上の主人は甚七が、徒歩でこの辺へまで来た頃と計っていたから、立たて場ばの前で馬を並足に一軒々々覗いてきた。甚七のいる茶店の前へきた時に、丁度甚七は、厠かわやへ上っていた。 ﹁こういう風の侍が通らなかったか。﹂ と子供に聞くと ﹁あの宿にいるよ。﹂ と子供が教えた。そして、其そ処こを尋ねている内に、甚七は、何も知らないで通りすぎてしまった。 この辺の地理をよく知っている、そして又甚七にうまく一杯かゝったと信じている彼はそのまゝ馬を返して、抜け道へ探しに行った。その間に甚七は渡しを渡り、村を越えて、東海道を下って行った。 ﹁図々しくも金五両をたばかり。﹂ という文句と共に、すぐ彦根へきた。そしてお俊と、左門の弟とが桑名へ立った。 甚七が江戸へつくと共に、厚情を感謝してきた手紙で、彼の居きょ所しょはすぐ知れた。そして三人は江戸へ下ったが、着いた夜、お俊は二人の弟を出し抜いて甚七の所へきた。 ﹁何どうして?﹂ ﹁貴あな下たは何も御存じないと思いますが、実はこれ〳〵﹂ 甚七は暫く飽あっ気けにとられていた。然し、そう云うと、自分の邸で斬合のあった時 ﹁敵かたきっ。﹂ というような言葉を夢中で聞いたが―― ﹁それで万事判った。﹂ だが、もう敵で無いにしても、人一人殺している以上、矢張り日蔭者である。 ﹁お俊さんは私が敵で無い事を信じていなさるか?﹂ ﹁はい。﹂ 左門へ嫁ぐ前、可成り親しかったお俊と甚七は、二人とも御互によく心を知合っていた。そして、嫁ぐ話のきまった時 ﹁それでは、一生嫁をもちますまい。﹂ と、戯じょ談うだん半分に云っていたが、口へ出さないがお俊も、甚七を惜しくなくはなかったのである。 ﹁明日は、弟達が参りますから、一時この場を――﹂ ﹁然し、士さむらいとして、この事情が判った上――﹂ ﹁私の頼みを聞いて下さい――それは、本当の敵を探して下さること。﹂ こう云って金包を出した。四
来馬は町人になって彦根へ入った。初めての変装に気がひけながら、馴染の料理屋ののれんをくゞった。そして ﹁お新は。﹂ と聞くと ﹁貴下に見せるものがあると云って狂人のように金の工面をし、こゝの借金を返したのが十日ばかり前、江戸へ行くと云って出ましたよ。﹂ そう聞くと、島田の辺で、夜やち中ゅうの流し三味線とその唄はお新によく似ていると、表の廊下へ出た事などが思出された。 ﹁あの夜、佐々木の旦那様もお越しになりまして――﹂ 甚七は少しずつ糸がほぐれて来たように感じたが、それと共に、人生は何うしてこう巧に食いちがって行くものか――いくら食いちがっても、お新を探すのが、何よりも第一だと思った。その時、主おか婦みが ﹁もしか、見えたらこれを渡してくれとのことで。﹂ と、手紙をもってきた。それには ﹁佐々木が、山田と口論して、山田が先に戻ったこと、その、山田が、お新、来馬も可哀そうにとんだぬれ衣ぎぬをきせて、と云ったこと、それでいろ〳〵と山田をさぐると、佐々木の金入をもっていた事、この金入を証拠としてあかりをお立てになったら、妾わたしは鳥追となって江戸へ下りますがその金入はもっておりますから、一日に一度はきっと浅草の観音へ行くことにして、こゝへ来て下さればお目にかゝります。﹂ 甚七は礼を云うと共に、再び足を東へ向けようとした。お俊もお新も、世の中の女というものは、男より何うしてこんなに――利口で、美しく――と、思って行く時 ﹁来馬。﹂ と、声がした。 ﹁誰だ。﹂ と云うと共に、引組まれた。だが、何うにか抜けてひた走りに、一刻でも早くお新に、それからお俊に――そう思ってもう大丈夫と信じていても猶なお走っていた。 ﹁真ほん実とうの下手人を探す為め、彦根へ立戻候。﹂ という貼紙を、甚七の隠れ家がでみた時、上の弟はじろりとお俊をみた。 ﹁何いずれにしても逃れぬ罪だに、女々しい奴だ。﹂ こう云ってすぐ三人は帰途についた。五
江尻の宿へ泊った夜
酔うて伏見の千両松
淀の川瀬の小車は
輪廻 々々と夜をこめて
淀の川瀬の小車は
と、上方の流はや行りう唄たを聞いたので、呼上げた。お俊は何どっかで見たような女だと思って、聞いてみると、お新であった。お新は三人が来馬を探していると聞くと共に、金入を出した。そして
﹁敵は山田で御座ります。﹂
と、主張した。お俊は勿論それを信じた。二人も一寸考えさせられた。然しその次には、お俊はお新と甚七との仲に嫉妬を感じるし、二人の男は
﹁来馬にも訊ただし山田にも聞かぬ上は軽々しく信じられぬ。﹂
と云った。お新は自分の苦心が、この人々に判らないかと思うと、自分の商売や、世の中が恨めしくなった。そして
﹁お先へ彦根へ。﹂
と云って立上った。お俊は、自分より先に甚七に逢わしたくなかったので
﹁彦根は、入れば召捕えられる所へ誰が参りましょう。﹂
と、云うと共に
﹁お俊、お身は甚七に内通したな。﹂
と、きっとやられた。それを聞くと同時にお新は表へ走り出た。
﹁内通?――そう仰っしゃれば、誰かに来馬様を下手人に――﹂
﹁黙れ、不義者。﹂
﹁不義は致しません。﹂
﹁不義も同然だ、現在夫の敵を――﹂
﹁敵で無い事は今の女も――﹂
﹁喧やかましい。お身と同道はお断りじゃ。﹂
﹁兄さん、それは余り――﹂
﹁いや、言語道断の女だ。許しておけぬ。﹂
お俊は仕方が無かったしお新に代って、山田の事も知らせたかった。そして淋しい懐中を心細く感じつゝ
﹁女の一念。﹂
と、思って二人に別れた。
六
網は可成りに張られていた。甚七の邸で殺された一人が郡こお奉りぶ行ぎょうの倅せがれであったからである。甚七が村外はずれへかゝった時、二人の手先が競いかゝった。それを倒して村へ入った時、大勢の者に取巻かれた。 大勢と云っても、大勢の八分は村の人間であった。近づけば避け、走ると追う連中にすぎなかった。然し半鐘の音と共に、近在から無数に繰出してくる百姓には、甚七も辟へき易えきしてしまった。そしてかくれるより外に道が無かったから、木立の茂りから大樹の上と巧に身を躍おどらして夜に入るのを待った。 丁度その最中、お新が通りかゝった。彼女は、それが甚七であると知ると共に、近づこうとしたが村人は押えて一足も動かさなかった。その内に甚七は山へ入ってしまった。お新は三味を抱いて山へ入った。そして、甚七のよく知っている
お前の袖とわしが袖
合せて唄の四つの袖
露地の細道駒下駄の
胸とゞろかす明けの鐘
合せて唄の四つの袖
露地の細道駒下駄の
胸とゞろかす明けの鐘
を弾き乍ながら山を彷さま徨ようた。勿論、この計はかりごとは成就した。山の夜更けの三味の音は、甚七の注意を牽ひくに充分であった。
お新の近くへ、礫つぶての落ちるのがつづくと共にお新は悟った。甚七の姿が、闇の中に立って、声が聞えると共に、このまゝ二人が捕えられてもいゝと思った。
﹁手紙をみた。有難いぞお新――お新、どうしてここへ、えゝ?﹂
そう聞かれると一番に浮ぶのは、美しいお俊の事である。
﹁お身は甚七に内通したな。﹂
と、云われた時の顔、女同士ですぐ判るお俊の心。
﹁江尻で皆さんに逢いました。﹂
﹁江尻で?――今日明日にはこゝら辺を通る筈だが――﹂
﹁お逢いなされても無駄で御座んす。﹂
﹁いや、身のあかりを立てさえすれば――﹂
﹁妾は何うなろうとも――﹂
途端に
﹁御用だ。﹂
躱かわして
﹁命は助けるぞ、道案内せい、お新、一まず京へ参ろう、話は道々。﹂
篝かが火りびをたいている山下の村々。
﹁お前の袖と、わしが袖か――﹂
﹁旦那いゝお声で――﹂
﹁黙って案内しろ。﹂