演技指導論草案

伊丹万作





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※(「口+它」、第3水準1-14-88)
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一、その日の撮影プランの説明。(これは実際的な理由から大概省略したが向後はなるべく実行したい。)
一、そのカットの演技の手順の説明。
一、右の説明に沿って俳優を実際に動かせ、しゃべらせてみる。(むろん大略でよろしい。)
一、次に俳優はいったんその位置を去り、付近の自由なる場所において任意にせりふの暗誦その他練習をする。
一、右がほぼ終ったころを見はからって俳優を既定の位置に着かせる。本格的な演技指導がそれから始まり、進むにつれて指導は次第に細部におよんで行く。
一、大体の見当がついたら綜合的テスト。
一、十分に見当がついたら本意気のテスト。

一、シュート。


○古くさい芸術家きどりの「気分主義」くらいこっけいで、えてがってで野蛮なものはない。
 我々の仕事は一面には芸術の貌を持っているが、他の一面には純粋に工場労働的な貌をも持っていることを忘れてはならない。
 自分の書斎でひとりお山の大将になっていればいい文士の仕事と我々の仕事とは違う。かびの生えた「気分」などという言葉は蹂躙しても、「時間」を尊重することに我々は光栄を感ずべきだ。
 芸術家もセザンヌくらいの巨人になると、その日課は時計のごとく正確で平凡であった。

○私は自分の周囲にある後進者たちに対し、いまだかつて演出あるいは演技指導について何事をも説いたことがない。そのわけはこんなにも行動の形で見せる以上の教え方はどこにもないにもかかわらず、もしも彼らがそこから必要なことを学び取り得なかったとしたら、それは最も手近にころがっている最上の機会を彼らが取り逃がしたことであり、それを補うに足る方法はもはや一つとして存在しないからである。

○俳優に信頼せられぬ場合、演出者はその力を十分に出せるものではない。
 また演出者を信頼せぬ場合、俳優はその力を十分に出せるものではない。

○「信頼」が飽和的な状態にあるときは、たとえば演出者が黙って出てきて椅子に坐っただけで既にある程度の効果を挙げ得るものだと私は信じている。
 そして私が心の中に描いている理想的な演出、もしくは完成されつくした演技指導の型といったようなものの特色は、著しく静かでほとんど無為に似た形式をとりながら、その実、当事者間には激しい精神の交渉、切磋、琢磨がつづけられ、無言のうちに指導効果が刻々上昇して行くといった形において想像される。
 このことは一見わらうべき精神主義的迷妄のごとくに誤解されるおそれがないでもないが、たとえば我々が実生活における幾多の経験を想い出してみても、我々が真に深い理解に到達したり、新しい真実を発見したりするのは、言葉のある瞬間よりも言葉のない瞬間におけるほうが比較にならぬくらい多くはなかったか。あるいはまた、最もすぐれた説明は、何も説明しないことであるような例が決して少なくない事実に気がつくならば、私の意図している方向が、まんざら荒唐無稽でないことだけはわかるはずである。
 こうはいっても、私はそのために別項で強調した説明技術の重要性に関する主張をいささかでも緩和する気持ちはない。むしろそこを通らずして一躍私の意図する方向に進む方法はないといってもまちがいではない。
 しかしいずれにしてもよき演技指導の最初の出発点は指導者に対する「信頼」であることを銘記すべきである。

○「信頼」の上に立たない演技指導は無効である。

(『映画演出学読本』一九四〇年十二月)






底本:「現代日本思想大系 14 芸術の思想」筑摩書房
   1964(昭和39)年8月15日発行
初出:「映画演出学読本」
   1940(昭和15)年12月
入力:土屋隆
校正:染川隆俊
2008年4月15日作成
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