梅の吉野村

大町桂月




宿
 
 
 滿
 滿※(二の字点、1-2-22)
來ぬ友を惜む梅見の日和かな
 山を下れば、老樹最も繁き處に、掛茶屋あり。老婆客を呼ぶ。『櫻は遠く眺めても可也。梅は近く接して、其の枝ぶりを見ざるべからず、其の香を嗅がざるべからず。酒は此處にて飮むべかりき』と、裸男覺えず口走れば、『然り/\』と、槇園君相槌打つ。香雪を上に見つゝ行く程に、梅鶯軒に至る。赤毛布敷ける腰掛臺に腰掛けて、茶を飮む。見渡す限り、梅又梅、その盡くる所を知らず。櫻は吉野村、梅は月瀬、これ天下の公評也。この下村も市町村制布かれてより、櫻の吉野に取りて、吉野村の總稱を冠し、この頃また梅の月瀬に取りて、新月瀬と稱す。餘りに慾張りたる哉。されど、關東の梅と云へば、先づ指をこの村に屈せざるを得ず。立ち去らむとするに臨み、裸男幹事の槇園君に向ひ、『會費を』と云へば、槇園君嗔りて、『花の下に金錢を計算する沒風流あらむや』といふに、裸男閉口して頭を掻く。『今晩、三河屋會食の約あるを忘れたるか』と、天隨君に注意せられて、更に又頭を掻く。
 日向和田へとて、梅林を辭すれば、麥畑となる。麥畑盡きて杉林となるかと思へば、坂路となり、下りて多摩川に出づ。兩崖高くして、樹茂る。吉野村が既に山間の別世界なるに、こゝは別世界中の別世界也。『おうい』と呼べば、『おうい』と答へて、前岸の小屋の中より一老夫現れ出で、川を横斷せる一條の銅線に縁りて、舟をこなたに運び、また銅線に縁りて、一行を渡す。崖を攀ぢて、甲州裏街道に出で、日向和田驛より汽車に乘りて歸路に就きけるが、再び青梅驛に下りて、金剛寺に立寄る。平將門が植ゑたりと稱する一株の梅、堂前にあり。その實、秋に入りても青く、黄熟せざるより青梅の名を帶び、終に移りて町の名となれりと聞く。東京第一流の祠なる神田神社は、明治の世に至るまで、將門を祀りたりき。此處に又其の遺植の梅あり。思ふに將門の關東に於けるは、武田信玄の甲州に於けるが如きものありしならむか。而して一方には、信玄は不孝の子と嫌はれ、將門は叛逆の臣と憎まるゝ也。
 都に戻りて、約せし如く、四谷見附外の三河屋に入りて、牛肉を食ふ。東京第一流の牛肉店也。好文會の例會は、いつも此處に開く。裸男、肉を好まずして葱を好む。肉は半人前にて足り、葱と漬物とは二三人前にても足らず。而して好文會には、下戸多く、其の代りに健啖家多し。彼我相合して、始めて普通一人前の客也。

(大正五年)






底本:「桂月全集 第二卷 紀行一」興文社内桂月全集刊行會
   1922(大正11)年7月9日発行
入力:H.YAM
校正:門田裕志、小林繁雄
2008年11月28日作成
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