上州沼田より日光へ

大町桂月





 


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 宿
 
次の馬車待つ山驛の秋しめり
 
 
 使
 宿※(二の字点、1-2-22)


 


宿
 宿※(二の字点、1-2-22)宿宿宿
 




 


明くれば晴天也。二三日は雨降りさうにもなし。例の澁川の傘を宿にやりて、始めて重荷をおろす。午前七時發足す。千明氏蓑を著け、「ビク」を背負ひて導を爲す。會津街道と別れて、小川を溯る。八時半、白根温泉に達して、小憩す。菊目石とて、菊形の紋理ある石、この溪谷より出づ。『持つて行かれずや』とて、主人の出す石、可成り大にして重し。標本にとて、碎いて小片として持ちかへることとせり。主人紙を展べて、揮毫を乞ふに、十口坊は、
紅葉する谷の出湯の一二軒
裸男は、
温泉や紅葉の底の山の奧
夜光命も負けぬ氣になりて、
薄く濃く山の紅葉の色づきて
  ゆはたさらせる小川邊の里
 上れば上るほど、紅葉の美觀加はる。樹梢に「あけび」のぶらさがれるを見て千明氏つる/\と登り、もぎとり來りて、一行の口に分つ。いと甘し。千明氏曰く、『我村の少年は、「あけび狩り」とて、辨當も持たずに山に入り、「あけび」を取りて食ひつゝ日を暮らすことあり』と。山いよ/\幽になると共に、溪川はいよ/\小となる。大尻沼に至りて、光景忽ち一變す。長さ十町、幅二三町、長瓢の形を成す。沼盡きて、平らなる溪流に沿ふかと思へば、やがて又一の山湖あり。丸沼と稱す。四五町四方もありて、ほゞ圓形を成す。湖の北畔は平地也。清水流れ、温泉湧く。千明森藏氏の別莊あり。水産講習所の孵化場もあり。千明森藏氏は、片品村第一の財産家なりとの事也。千明由松といふ老人夫婦、その別莊の番を爲せるが、この由松氏は、豪氣人に絶し、産業を治むるを屑しとせず、劍術に長じ、銃獵を好み、常に山に入りて猛獸と鬪ふ。或時野津將軍の案内して、金精峠を越えしことあり。將軍その謝禮として鐵砲を贈る。由松氏大いに光榮として、常に野津將軍を説く。村人は千明由松とは云はずに、野津由といふに至れりとかや。亦一種の快男子也。午食せむとて、別莊に立寄りしに、たま/\出張し居りたる川村久次郎氏、裸男の顏を知る。大いに喜びて、一同を孵化場に導き、いろ/\説明す。水産講習所にては、五年前、この湖に姫鱒を放養せしが、今や正にその産卵に際す。雌鱒産卵せむとて、細流を溯る。雄鱒之に尾す。共に捉へて、雌の卵を絞り出し、雄の精液を絞り出して之に注ぎて孵化す。絞られたる雌も雄も共に死して、人の食となる。果敢なき鱒の一生哉。雌の産卵期になれば、雄の頭凹みて、口尖る。これ雄と雄が雌を爭うて、相鬪ふに由るとかや。魚類にても、雄は鬪ふ爲に生れたるかと、いとゞ感慨に堪へず。
 別莊の二階に請ぜられて午食す。今日は握飯を持參せり。千明林藏氏は蕎麥饅頭を饗す。中に桑の實のジヤムあり、みな自家製也。林藏氏更に酒を饗す。番人の野津由氏は、鱒の燻製と新しき鱒を燒きたるものとを饗す。湖水の景色、幽にして雅也。この湖、海拔五千尺、高きだけに、紅葉を見むには時機少しおそし。紅葉は多く落ちたるが、黄葉はなほ殘れり。白根山雪を帶びて、その頭だけを連山の上に露はす。明年よりこゝに温泉を引きて旅館を設くといふ。眞に塵外の別天地也。野津由氏の乞ふまゝに、裸男先づ書きなぐりて曰く、




 



 西
 
 


 


鹿鹿鹿鹿
 西
 西調
 彿
 







底本:「桂月全集 第二卷 紀行一」興文社内桂月全集刊行會
   1922(大正11)年7月9日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:H.YAM
校正:雪森
2019年8月30日作成
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