一 山間のがたくり馬車
秋の雨しめやかに降る日、夜よび光かり命のみこと飄然來りて裸男を訪ひ、﹃久しく旅行せざりき。今や紅葉正に好し。何處かへ出掛けずや﹄といふ。﹃我れとても近來髀肉の歎に堪へざるが、例の軍用金なきを如何んせむ﹄と云へば、﹃其儀は心配に及ばず﹄といふ。﹃さらば、善は急げ。今日雨を衝いて程に上らむ﹄と云へば、﹃何處へ行く﹄と問ふ。﹃何處でも好けれど、利根川を溯りて沼田に至り、會津街道を取り、白根温泉を經て金精峠を越え、湯本温泉に浴し、中禪寺湖を繞りて日光に達し、それより汽車にて歸途に就くやうにしては如何にぞや。日光に遊ぶ者は、大抵中禪寺湖より引返す、湯本まで行くものは稀れ也。金精峠を越ゆるは、異數也。今、裏口より金精峠を越えゆくは、また快ならずや﹄と云へば、﹃好からむ﹄といふ。﹃十とく口ちば坊うは誘ふか、誘ふまいか、どうしたものにや﹄と云ふ折しも、噂をすれば影とやら、旅運強き十口坊、偶然來り會す。固より厭な筈なし。午後三時を期して上野驛を發す。 高崎驛にて電車に乘換へて、澁川町に著きしは、夜の八時半也。饑ゑては食を擇ばず、夜更けては宿屋を擇ばずと悟り顏して、車掌の勸むるまゝに、一旅店に投じたるが、女中までも浴したる後の風呂、白く濁りて、ぬるく、而も垢臭く、通されたる前二階の六疊の部屋、三人には、ちと窮屈也。酌する女中の蒼くて血の氣なきに、酒もうまからず。よい加減に切上げて寢に就く。 明くれば、雨なほ止まず。沼田行の鐵道馬車の一番發に乘らむとて、停車場に駈けつくれば、馬車は早や十分前に發したり。やれ〳〵次の發車までは、一時間も待たざるべからず。十口坊駄句りて曰く、次の馬車待つ山驛の秋しめり
裸男は傘をさゝぬつもりにて、ゴム引きのマントを被りたるが、古びたる事とて、雨漏る。馬車を待つ餘裕あるにつれて、傘を買ふか、買ふまいかと思案し、遂に買ふと決心して、番傘を買ひたるが、果敢なや、人間の智慧の一寸先は闇、馬車未だ沼田に著かざる前に、天氣は快晴となりたり。失策つたりと天を仰げば、太陽人を笑ふに似たり。
右に赤城山、左に榛名山、自然の關門を成して、利根の本流中を貫くといふ天下無比の壯觀も、馬車の中にては十分に賞玩するに由なし。利根の支流なる吾妻川を渡るに、大いに濁れり。右に利根の本流を見る。吾妻川よりは少し澄めり。その利根の本流に會する片品川を見れば、全く澄み切れり。裸男曰く、﹃われら三人を川に比すれば、十口坊は吾妻川、夜光命は利根の本流、僕は片品川に非ずや﹄と。夜光命苦笑し、十口坊むツとす。裸男言を改めて曰く、ともかくも我等三人を世上一般の人に比すれば、世上一般の人は吾妻川若しくは利根の本流にして、われらは片品川に非ずや﹄と。十口坊も、夜光命も始めて破顏す。
鐵道馬車は、沼田の入口にて終點となれり。會津街道を取りて、がたくり馬車に乘る。われら三人の外には、乘客なし。御者も別當も少年也。御者に向つて、其年を問へば、﹃十六歳なり﹄といふ。﹃別當の年は﹄と問へば、﹃二十五歳なり﹄といふ。年齡より云へば、御者と別當とあべこべ也。御者の顏付は利發、別當の顏付はのろま也。身體は別當の方が少し大なれども、二十歳以上とは見えず。吹かでもよきに、喇叭を吹きて、御者に叱らる。馬車の前を走るかと思へば、忽ち立ち止まり、又思ひ出したるやうにして走る。池を見れば、立ち寄りて石を投ぐ。察するに、腦膜炎でも病みて、低能となりたるにや。御者曰く、﹃あの男は、別當より外には何も使ひ道なし。然るに感心なことには、月給は一切自から遣はずして、親父に渡す﹄と。世にも氣の毒なる親子哉。試みに御者に向つて、﹃あの別當が二十五歳とは意外也。もう色氣があるか﹄と問へば、﹃そんな事は知らず﹄とて微笑す。
高平といふ處にて、馬車を下る。是れ、がたくり馬車の終點也。一旅店に午食を頼めば、始めて米をとぐといふ次第にて、凡そ一時間も待たされたり。今朝澁川の宿にて、﹃握飮をこしらへて貰はむか﹄と裸男の云ふに、他の二人は、あざ笑つて取りあはざりき。﹃そら見給へ﹄と、裸男低き鼻うごめかす。十口坊も夜光命も、唯苦笑するばかり也。
二 山間の夜路
徒歩して、栗生峠を越ゆ。天氣となりて、邪魔になるは、澁川にて買ひたる傘也。されど棄つるも惜しければ、いや〳〵ながら持ちゆく。いよ〳〵進むに從つて、黄に紅に、山はいよ〳〵明か也。他所には見難き桑竝木の中を通りて、千歳橋に至る。橋の下は例の澄める片品川也。數町の間、兩岸は絶壁にして、水急湍を成し、虎踞し、龍躍るの概あり。一同立ちどまりて、これは〳〵とばかりに感歎す。橋を渡れば、追貝村にて、物賣る店あり。旅店も三つ四つあり。裸男數年前、こゝの一旅店にやどりしことありけるが、今來て見れば、主人もかはりて、木賃宿となり居れり。滄桑の感なしとせず。追貝に名高き﹃龍宮の椀﹄は閑却して、吹割の瀧を見る。利根の一支流なる片品川とは云へ、餘程の水量あり。幅四五十間、全石を底となし、水其上を蓋うて流る。その底一落し、乙字形を成して、瀧之に懸る。中央は瀧と瀧と相鬪ふ。水力電氣の工事の爲に、少し風致を損したれども、なほ天下無類の奇景也。 日は暮れむとす。追貝に宿らむか、明日金精峠を越ゆる能はざるべし。明日金精峠を越えむか、今日、もそつと進みおかざるべからず。終に、進むことに決し、途に提燈と蝋燭とを買ふ。その提燈は、小兒の玩具にするものにて、極めて小にして、赤く色どりたり。蝋燭の大きさは、紙卷の煙草ぐらゐに過ぎず。最も年若き十口坊、提燈持となり、先に立ちて行く。四面暗黒にして、唯左方に片品川の水音を聞く。追貝より一里半なる須賀川村に宿屋ありといふを當にして、須賀川村に著きたるに、宿屋はありたり。されど﹃部屋ふさがり居れり﹄とて斷らる。仕方なし、進まむ、進まむと、失望してぐずつく夜光命を促して行く。鎌田村にて、やつと乞ひて、物賣る家に宿るを得たり。 草鞋を脱いで、店先に上れば、折しも買物に來れる一紳士。じろ〳〵裸男の顏を眺めしが、圖らずも裸男の名を稱す。﹃明日金精峠を越ゆ﹄と云へば、﹃御案内申さむ﹄といふ。座に請じて共に飮む。千明林藏といふ人にて、豫備の陸軍少尉、在郷軍人會の片品村支部長なるが、四五年間米國に遊歴せりとて、詳かに米國の事を説く。山村には思ひもかけぬこと也。扇持ち來りて揮毫を乞ふまゝに、裸男惡筆を揮ひて、 米國を語る山家の夜寒かな三 鱒の採卵
明くれば晴天也。二三日は雨降りさうにもなし。例の澁川の傘を宿にやりて、始めて重荷をおろす。午前七時發足す。千明氏蓑を著け、「ビク」を背負ひて導を爲す。會津街道と別れて、小川を溯る。八時半、白根温泉に達して、小憩す。菊目石とて、菊形の紋理ある石、この溪谷より出づ。『持つて行かれずや』とて、主人の出す石、可成り大にして重し。標本にとて、碎いて小片として持ちかへることとせり。主人紙を展べて、揮毫を乞ふに、十口坊は、
紅葉する谷の出湯の一二軒
裸男は、温泉や紅葉の底の山の奧
夜光命も負けぬ氣になりて、
薄く濃く山の紅葉の色づきて
ゆはたさらせる小川邊の里
上れば上るほど、紅葉の美觀加はる。樹梢に「あけび」のぶらさがれるを見て千明氏つる/\と登り、もぎとり來りて、一行の口に分つ。いと甘し。千明氏曰く、『我村の少年は、「あけび狩り」とて、辨當も持たずに山に入り、「あけび」を取りて食ひつゝ日を暮らすことあり』と。山いよ/\幽になると共に、溪川はいよ/\小となる。大尻沼に至りて、光景忽ち一變す。長さ十町、幅二三町、長瓢の形を成す。沼盡きて、平らなる溪流に沿ふかと思へば、やがて又一の山湖あり。丸沼と稱す。四五町四方もありて、ほゞ圓形を成す。湖の北畔は平地也。清水流れ、温泉湧く。千明森藏氏の別莊あり。水産講習所の孵化場もあり。千明森藏氏は、片品村第一の財産家なりとの事也。千明由松といふ老人夫婦、その別莊の番を爲せるが、この由松氏は、豪氣人に絶し、産業を治むるを屑しとせず、劍術に長じ、銃獵を好み、常に山に入りて猛獸と鬪ふ。或時野津將軍の案内して、金精峠を越えしことあり。將軍その謝禮として鐵砲を贈る。由松氏大いに光榮として、常に野津將軍を説く。村人は千明由松とは云はずに、野津由といふに至れりとかや。亦一種の快男子也。午食せむとて、別莊に立寄りしに、たま/\出張し居りたる川村久次郎氏、裸男の顏を知る。大いに喜びて、一同を孵化場に導き、いろ/\説明す。水産講習所にては、五年前、この湖に姫鱒を放養せしが、今や正にその産卵に際す。雌鱒産卵せむとて、細流を溯る。雄鱒之に尾す。共に捉へて、雌の卵を絞り出し、雄の精液を絞り出して之に注ぎて孵化す。絞られたる雌も雄も共に死して、人の食となる。果敢なき鱒の一生哉。雌の産卵期になれば、雄の頭凹みて、口尖る。これ雄と雄が雌を爭うて、相鬪ふに由るとかや。魚類にても、雄は鬪ふ爲に生れたるかと、いとゞ感慨に堪へず。ゆはたさらせる小川邊の里
別莊の二階に請ぜられて午食す。今日は握飯を持參せり。千明林藏氏は蕎麥饅頭を饗す。中に桑の實のジヤムあり、みな自家製也。林藏氏更に酒を饗す。番人の野津由氏は、鱒の燻製と新しき鱒を燒きたるものとを饗す。湖水の景色、幽にして雅也。この湖、海拔五千尺、高きだけに、紅葉を見むには時機少しおそし。紅葉は多く落ちたるが、黄葉はなほ殘れり。白根山雪を帶びて、その頭だけを連山の上に露はす。明年よりこゝに温泉を引きて旅館を設くといふ。眞に塵外の別天地也。野津由氏の乞ふまゝに、裸男先づ書きなぐりて曰く、
紅葉鱒温泉高さ五千尺