降ふり続きたる卯の花くだしようようはれて、かき曇りたる天もところどころ雲の切間を、朧なる五日の月は西へ西へと急ぐなり。千載茲ここ許もとに寄せては返す女めな浪み男おな浪みは、例の如く渚を這はい上る浪頭の彼方に、唯形かたばかりなる一軒立だちの苫とま屋やあり。暮方より同じ漁師仲間の誰だれ彼かれ寄り集いて、端午の祝酒に酔うて唄う者、踊る者、跂はねる者、根太も踏抜かんばかりなる騒ぎに紛れて、密そつ﹇#ルビの﹁そつ﹂はママ﹈と汀みぎわに抜出でたる若き男女あり。 ﹁何か用なの? え、仙太様さん。﹂ と女は美はなやかなる声の優しくまず問とい懸けたり。されど仙太は応こた答えもなさで、首をたれたるまま、時々思い出したらんように苫屋の方を振返りつつ、的あてもなく真まさ砂ごの間をざくざくと踏ふみ行きぬ。 ﹁このまあ真まっ黯くらなのにどこへ行こうての? え、仙太様、仙太様。﹂ 重ねて女は声懸けけるが、応答はおろか、見も返らざるに思おもい絶ちけん、そのまま口を噤つぐみて、男の後ろに従いぬ。 月はいよいよ西に傾きて、遥かの沖の方には、綿わたの如く、襤ぼ褸ろの如き怪しげなる雲のしきりに動くを見たり。 二人は岬を廻りて、苫屋の火影も今は見えずなりける時、つと立停まりて、 ﹁お照様さん。﹂ と始めて口を開きたる仙太の声は、怪あやしとも戦おののきたり。 ﹁お前めえは何も知るまいが、俺おらは毎日ここへ来て立っているぜ。真ほんの事だ、毎日来て立っている!﹂ ﹁何故さ。﹂ とお照は訝いぶかしげに問返しぬ。 ﹁何故って、ここはお前……お前が何時か腓こむらを返して沈しずみ懸った時に、俺おらがその柔かい真白な体を引ひん抱だいて助たすけ揚げたとこだ。その時お前が一生この恩は忘れないって、片息になって、しっかり俺の頸くびったまへしがみついたあの時から、俺は、俺はお前を……。﹂ と言いいさして、しばし辞ことばは途切れしが、 ﹁真によ、女てえものはどこまで気強いか知れねえものだ!﹂ と仙太は投出すように言いはなてり。聞くとひとしくお照は思わず後あと退すさりて、朧なる月影にじっと男の顔を透すかし見つつ。 ﹁仙太様!﹂ とばかりひたと寄添いしが、にわかに心着きて、我が家の方を振返りつ、 ﹁だって、私は源げん様さんという歴とした亭主があるんだもの、よしんばどうしようたってしょうがないじゃないか。﹂ ﹁ないかあるかそんな事は俺の知った事じゃねえ。俺は唯お前を思って思って、俺の思おもいがお前に届くまで思おも凝いつめようと思って、思おも凝いづめに思おも凝いつめているのだけれど、それがお前に届かねえとこを見りゃ、まだ俺の思いようが足りねえのかも知れねえ。お前が源様を思うその倍も、俺がお前を思ったら、なんぼ亭主持もちだって、ちっとは俺の切ない思おもいも酌んでくれそうなものだけれど、それがないとこを見ると、俺のお前を思うよりか、お前が源様を思う方が深いと見える。﹂ と辞こと半ばなかばにそっと睚まぶたを推おし拭ぬぐえり。 ﹁だが、俺はもうこの上お前を思いようはない。真によ、俺はお前の事を思凝に思凝めて、気が狂いそうだ! 命も奪とられそうだ! いっそ一ひと思おもいに死んでのけたら、この苦しいのが失なくなるだろうと思って、毎日ここへ来ては飛込もうかと思うけれど、さて死のうとすると、どうもお前を遺おいて死ぬのが残念で、お前と一緒でなくては死ぬにも死なれねえ。歴とした亭主のあるお前に、俺もまあ何という因果な事だか、自分ながら訳が解らねえ!﹂ ﹁もうもう、そんなことは云わないで……。﹂ とお照は聞くに堪えざる如く、湿うるめる声を顫ふるわして、 ﹁それでなくても、私ゃ、真に私ゃ……。﹂ ﹁え!﹂ 仙太は目をりて、我にもあらでひしと握にぎ緊りしむる手を、女は慌てて振払い、 ﹁お止よしよ! 亭主のあるものをそんな事して、もし私が何して御覧、それこそ私もお前も怖しい……二人が二人、生いきちゃいられないような罪とが人にんになるじゃないか。﹂ ﹁その時は、死んでしまうまでの事さ!﹂ と仙太は事もなげに言捨てつ。 ﹁死ぬたって、私は亭主持だもの。好いてるにしろ、不すか好ぬにしろ、とにかく源様に任せた体で見れば、自分の勝手に他よそのお前様と死ぬ訳には行かない。﹂ 断きっ然ぱりとお照の言いい消したる時、遠く小銃のようなる音の何いず処くともなく聞えて、そが響ひびきにや微かすかに大地の震うを覚えぬ。 折から月は全く西の端はに落ちて、水や天そら、黒白も分かぬ沖の方に、さながら砂すな塵ぼこりのごとき赭土色のもうもうと立ち迷うを見たり。されど仙太は只ひた管すらこなたに心を奪われて、そを怪しと考うる遑いとまもなかりき。 ﹁諦めた! とてもこの世じゃどうする事も出来ねえと諦めたから、お照様、お前死んでからはきっと、きっと!﹂ と反くり復かえしつつ、しっかと女の肩に手を懸けて、 ﹁きっと! 死んでからは俺にの。え、お照様、きっとだよ、え、きっと?﹂ 応答を迫られて、ようようお照は男の顔を見挙げて、何やらむ言いい出いだてんとする途端、たちまち大地のゆらゆらと動ゆる出ぎいだせしに、あれ! と叫びて思わず仙太の体に縋すがりも着かせず、さながら百雷一時に落つる如き響とともに、闇を衝ついて鼕どと押寄せたる千丈の大おお濤なみ! * * * * * 乾けん坤こん漠ばく々ばく、唯墨を流したらんようなる闇の中に、とうとうたる濁だく浪ろう天を摩まして、人も、獣も、家も、樹も、有情非情の差別なく、世界の所あら有ゆる物ものはことごとく水に漂いて、叫喚地獄の大だい苦くげ患んもかくや、子は親を助くるの暇なく、夫は妻を救うの道なく、子を捨て、夫を見殺しに、唯身一つをさえ生きかねて、黒白も分かぬ間に悲鳴を揚げて哭なき叫ぶが中に、わずかに一枚の戸板に乗りて、いずれ藻屑と消きえ行ゆくしばしの命を、ここに繋つな留ぎとむる男女あり。例の仙太とお照なり。二人はひしと抱合いたるまま、互いに辞ことばもなく、ひたぶる運を天に任す折から、何者とも知れず、やにわに戸板に取附きて、 ﹁た、助けてくれ!﹂ 苦しきを絞りて辛くも呼びたる男の声こわ音ねを、仙太は何とか聞きけん、お照は聞くとひとしく抱合いたる手を振ふり放ちて、思わず後うしろを見返りたる時、取附きたる男のあせりて這上らんとする重おも量みに、戸板は斜ななめに傾きてなかば沈まんとしたり。端はしなる仙太は不意の傾かた斜むきに身を支うる暇なく、あ! と叫びたるまま水の中に陥りしが、辛くも戸板の角に取とり縋りて。 ﹁手、手、手を引張ってくれ! 手を!﹂ 戸板はしばしも一所に停まらず。 矢の如く闇を衝いて流なが行れゆくなり。 女ながらも一念力! お照は声を便たよりにしっかと仙太の手を執りて、引揚げんとする時、後より這上らんとする男の、必死ともがく手てさ頭きにむずと袂を掴まれたり。 ﹁お照様、ごご後生だ! この、この手を……。﹂ と次第に細り行く仙太の声に、お照は狂気の如く身を悶えて、執られし袂を振放たんとあせれば、闇に面おもては見えねど、 ﹁こ、殺すのか! 俺を、お、俺を殺すのか!﹂ と怨うらみ籠めたる男の声に、お照はさながら電気に打たれたらん如く、全身ぶるぶると顫わせしが、ついに思おも切いきりて握りし仙太の手を放しつ。後なる男を引揚ぐると共に、己は身を躍らしてざんぶと逆捲く水に飛入り様、流ながれ行く仙太の頸うなじに両手を搦みて、二人は濁に濁れる千丈の浪の底の底へと沈しず行みゆきけり。 翌日虫の息なる一人の男を乗せて、とある小島の頂いただきに流寄りたる一枚の戸板あり。乗りたるはお照が夫の源造なりき。