1
﹁いや彼は隴ろう西せいの産だ﹂
﹁いや彼は蜀しょくの産だ﹂
﹁とんでもないことで、巴はせ西いの産だよ﹂
﹁冗談を云うな山さん東とうの産を﹂
﹁李りこ広う﹇#﹁李りこ広う﹂は底本では﹁季りこ広う﹂﹈の後裔だということだね﹂
﹁涼りょ武うぶ昭しょ王うおの末だよ﹂
――青せい蓮れん居こじ士たく謫せん仙に人ん、李太白の素性なるものは、はっきり解わかっていないらしい。
金持が死ぬと相続問題が起こり、偉人が死ぬと素性争いが起こる。
偉人や金持になることも、ちょっとどうも考えものらしい。
李白十歳の初秋であった。県令の下もとに小奴となった。
ある日牛を追って堂前を通った。
県令の夫人が欄干に倚より、四あた方りの景色を眺めていた。
穢らしい子供が、穢らしい牛を、臆面もなく追って行くのが、彼女の審美性を傷付けたらしい。
﹁無作法ではないか、外よそをお廻り﹂
すると李白は声に応じて賦ふした。
﹁素面欄らん鉤こうニ倚リ、嬌声外がい頭とうニ出ヅ、若シ是織女ニ非ズンバ、何ゾ必シモ牽牛ヲ問ハン﹂
これに驚いたのは夫人でなくて、その良おっ人との県令であった。
早速引き上げて小姓とした。そうして硯席に侍はべらせた。
ある夜素晴らしい山火事があった。
﹁野火山ヲ焼クノ後、人帰レドモ火帰ラズ﹂
県令は苦心してここまで作った。後を附けることが出来なかった。
﹁おい、お前附けてみろ﹂
県令は李白へこう云った。
十歳の李白は声に応じて云った。
﹁焔ハ紅こう日じつニ隨ツテ遠ク、煙ハ暮雲ヲ逐おツテ飛ブ﹂
県令は苦々しい顔をした。それは自分よりも旨いからであった。
五歳にして六甲を誦し、八歳にして詩書に通じ、百家を観たという寧ねい馨けい児じであった。田舎役人の県知事などが、李白に敵うべき道理がなかった。
ある日美人の溺死人があった。
で、県令は苦吟した。
﹁二八誰ガ家ノ女、飄トシテ来リ岸がん蘆ろニ倚ル、鳥ハ眉びじ上ょうノ翆すいヲ窺ヒ、魚ハ口こう傍ぼうノ朱ヲ弄ろうス﹂
すると李白が後を継いだ。
﹁緑髪ハ波ニ隨したがツテ散リ、紅顔ハ浪ヲ逐おツテ無シ、何ニ因よツテ伍ごし相ょうニ逢フ、応まさニ是秋しゅ胡うこヲ想フベシ﹂
また県令は厭な顔をした。
で李白は危険を感じ、事を設けて仕つかえを辞した。
詩的小人というものは、俗物よりも嫉妬深いもので、それが嵩ずると偉いことをする。
李白の逃げたのは利口であった。
剣を好み諸侯を干かんして奇書を読み賦ふを作る。――十五歳迄の彼の生活は、まずザッとこんなものであった。
年二十性儻てきとう、縦横の術を喜び任侠を事とす。――これがその時代の彼であった。
財を軽んじ施しを重んじ、産業を事とせず豪嘯す。――こんなようにも記されてある。
ある日喧嘩をして数人を切った。
土地にいることが出来なかった。
このころ東とう巖がん子しという仙人が、岷みん山ざんの南に隠棲していた。
で、李白はそこへ走った。
聖フランシスは野禽を相手に、説教をしたということであるが、東巖子も小鳥に説教した。彼は道教の道士であった。
彼が山中を彷さま徨よっていると、数百の小鳥が集まって来た。頭に止まり肩に止まり、手に止まり指先へ止まった。そうして盛んに啼き立てた。
それへ説教するのであった。
李白はそこへかくまわれることになった。
ある日李白が不思議そうに訊いた。
﹁小鳥に説教が解わかりましょうか?﹂
﹁馬鹿なことを云うな、解るものか。あんなに無むや暗みと啼き立てられては、第一声が通りゃアしない﹂
﹁何故集まって来るのでしょうか?﹂
﹁俺が毎日餌をやるからさ。小鳥にもてるのもいいけれど、糞を掛けられるのは閉口だ﹂
一度彼が外出すると、彼の道服は鳥の糞で、穢ならしい飛かす白りを織るのであった。
﹁一体道教の目的は、どこにあるのでございましょう?﹂
ある時李白がこう訊いた。
﹁つまりなんだ、幸福さ﹂
﹁幸福を得る方法は?﹂
﹁長なが命いきすることと金を溜めることさ﹂
洵まことにあっさりした答えであった。
2
﹁どうしたら金が溜まりましょう?﹂
﹁働いて溜めるより仕方がない﹂
﹁その癖先生はお見受けする所、ちっとも働かないじゃありませんか﹂
﹁うん、どうやらそんな格好だな﹂
﹁働かないで溜める方法は?﹂
﹁よくこの次までに考えて置こう﹂
一向張り合いのない挨拶であった。
﹁どうしたら長命が出来ましょう﹂
﹁いろいろ方法があるらしい﹂
﹁それをお教え下さいませんか﹂
﹁俺には解っていないのだよ﹂
﹁物の本で読みました所、内丹説、外丹説、いろいろあるようでございますね。枹ほう木ぼく子しなどを読みますと﹂
﹁ほほう、それではお前の方が学者だ。ひとつ俺へ話してくれ﹂
李白これには閉口してしまった。
ある日東巖子が李白へ云った。
﹁天とは一体どんなものだろう?﹂
﹁ははあこの俺を験ためす気だな﹂
すぐに李白はこう思った。
﹁道教の方で申しますと、天は百神の君だそうで、上帝、旻びん天てん、皇天などとも、皇天上帝、旻天上帝、維皇上帝、天帝などとも、名付けるそうでございますが、意味は同じだと存じます。天は唯一絶対ですが、その功用は水火木金土、その気候は春夏秋冬、日じつ月げつ星せい辰しんを引き連れて、風ふう師し雨う師しを支配するものと、私はこんなように承うけたまわって居ります﹂
﹁ふうん、大変むずかしいんだな。俺にはそんなようには思われないよ。色が蒼くて真まん丸まるで、その端が地の上へ垂れ下っている。こんなようにしか思われないがな﹂
これには李白もギャフンと参った。
﹁地についてはどう思うな?﹂
これは浮あぶ雲ないと思いながらも、真面目に答えざるを得なかった。
﹁地は万物の母であって、人畜魚虫山川草木、これに産れこれに死し、王者の最も尊敬するもの、冬至の日をもって方ほう沢たくに祭ると、こう書物で読みましたが﹂
﹁お前の云うことはむずかしいなあ。俺にはそんなようには見えないよ。変な色の、変に凸凹した、穢ならしいものにしか見えないがね﹂
これにも李白は一言もなかった。
﹁お前は人の性をどう思うね?﹂
﹁はい、孔子に由る時は、﹃人ひと之のせ性いち直ょく。罔これ之をく生らま也すはせいなり。幸さい而わい免にまぬかれよ﹄こうあったように思われます。しかし孟子は性善を唱え、荀子は性悪を唱えました。だが告子は性可能説を唱え、又楊よう雄ゆう、韓かん兪ゆ等は、混合説を唱えましたそうで﹂
﹁だがそいつは他人の説で、お前の説ではないじゃアないか﹂
﹁あっ、さようでございましたね﹂
﹁で、お前はどう思うのだ?﹂
﹁さあ、私には解わかりません﹂
﹁解るように考えるがいい﹂
﹁あの、先生にはどう思われますので?﹂
﹁俺か、俺はな、そんなつまらない事は、考えない方がいいと思うのさ。形而上学的思弁といって、浮世を小うるさくするものだからな﹂
これには李白は何となく、教えられたような気持がした。
﹁不ま味ず﹇#ルビの﹁まず﹂は底本では﹁まづ﹂﹈い物ばかり食っていると、肉放れがして痩せてしまう。美うま味い物を食え美味物を﹂
こう口では云いながら、稗ひえだの粟あわだの黍きびだのを、東巖子は平気で食うのであった。
﹁綺麗な衣きも裳のを着るがいい。そうでないと他ひ人とに馬鹿にされる﹂
こう云いながら東巖子は、一年を通してたった一枚の、穢い道服を着通すのであった。
﹁出世をしろよ、出世をしろよ、いい主人を目つけてな﹂
こう云いながら東巖子は、山から出ようとはしないのであった。
彼は言行不一致であった。
それがかえって偉かった。
彼は盛んに逆理を用いた。
李白は次第に感化された。儻てき不とう羈ふきの精神が、軽快洒脱﹇#﹁洒脱﹂は底本では﹁酒脱﹂﹈の精神に変った。
ある日突然東巖子が云った。
﹁お前は山川をどう思うな?﹂
﹁山は土の盛り上ったもの、川は水の流れるもの、私にはこんなように思われます﹂
﹁さあさあお前は卒業した。山を出て世の中へ行くがいい﹂
――で、翌日岷みん山ざんを出た。
3
開元十二年のことであった。
李白は出でて襄じょ漢うかんに遊んだ。まず南洞どう庭ていに行き、西にし金きん陵りょう揚よう州に至り、さらに汝じょ海かいに客となった。それから帰って雲うん夢ぽうに憩った。
この時彼は結婚した。妻は許きょ相そう公こうの孫娘であった。
数年間同棲した。
さらに開元二十三年、太たい原げん方面に悠遊した。
哥かじ舒ょか翰んなどと酒を飲んだ。
また郡しょうぐんの元げん参さん軍ぐんなどと、美妓を携えて晋しん祠しなどに遊んだ。
やがて去って斉せい魯ろへ行き、任にん城じょうという所へ家を持った。孔こう巣そう父ほ、裴はい政せい、張ちょ叔うし明ゅくめい、陶とう、韓かん準じゅんというような人と、徂そら徠いざ山んに集って酒を飲み、竹渓の六逸と自称したりした。
こうして天てん宝ほう元年となった。
この時李白四十二歳、詩藻全く熟しきっていた。
会かい稽けいの方へ出かけて行った。
中えんちゅうに呉ごいという道士がいた。
二人はひどくウマが合った。共同生活をやることにした。
東とう巖がん子しに比べると呉の方は、ちょっと俗物の所があった。それだけにその名は喧伝されていた。
時の皇帝は玄宗であった。
﹁中の呉を見たいものだ﹂
こんなことを侍臣に洩らした。
呉の許へ勅使が立った。
出て行かなければならなかった。
﹁おい、お前も一緒に行きな﹂
﹁うん、よし来た、一緒に行こう﹂
李白は早速行くことにした。
やがて二人は長安へ着いた。
長安で賀がち知しょ章うと懇意になった。
賀知章は李白を一見すると、驚いたようにこう云った。
﹁君は人間なのか仙人なのか?﹂
﹁どうもね、やはり人間らしい﹂
﹁仙人が誤って人間になると、君のような風采になるだろう。君は謫たく﹇#ルビの﹁たく﹂は底本では﹁てき﹂﹈せられた仙人だよ﹂
﹁まあさ、見てくれ、謫仙人の詩を﹂
李白は旧稿を取り出して見せた。
賀知章はすっかり参ってしまった。
﹁素晴らしい物を作りゃアがる。こいつちょっと人間業じゃアねえ。君のような人間に出られると、僕の人気なんかガタ落ちだ。だがマアマア結構なことだ。御世万歳、文運隆盛、大いに友達に紹介しよう﹂
﹁話せる奴でもいるのかい?﹂
﹁杜甫という奴がちょっと話せる﹂
﹁聞かないね、そんな野郎は﹂
﹁だが会って見な、面白い奴だ。だがちっとばかり神経質だ﹂
﹁そんな野郎は嫌いだよ﹂
﹁まあまあそういわずに会って見なよ。君とは話が合うかもしれない。ひょっとかすると好敵手かもしれない﹂
﹁幾いく歳つぐらいの野郎だい?﹂
﹁そうさな、君よりは十二ほど若い﹂
﹁面白くもねえ、青二才じゃアないか﹂
﹁止めたり止めたり食わず嫌いはな﹂
﹁どうも仕方がねえ、会うだけは会おう﹂
杜甫は名門の出であった。
左さで伝んへ癖きをもって称された、晋の杜預の後胤であった。曾祖の依いげ芸いは鞏きょ県うけんの令、祖父の審しん言げんは膳部員外郎であった。審言は一流の大詩人で、沈ちん期せんき、宋そう之しも門んと名を争い、初唐の詩壇の花形であった。
父の閑かんは奉ほう天てんの令で、公平の人物として名高かった。
杜甫は随分傲慢であった。弱い癖に豪傑を気取り、不良青年の素質もあった。ひどく愛憎が劇しかった。それに肺病の初期でもあった。立身出世を心掛けた。その顔色は蒼白く、その唇は鉛色であった。いつもその唇を食いしばっていた。人を見る眼が物騒であった。相手の弱点を見透しては、喰い付いて行くぞというような、変に物騒な眼付であった。威嚇的な物の云い方をした。その癖すぐに泣事を云った。
決して感かんじのいい人間ではなかった。
体質から云えば貧血性であったが、気質から云えば多血質であった。
いつも不平ばかり洩らしていた。
だが意外にも義理堅く、他人の恩を強く感じた。
忠義心が深かった。
義理堅いのをのぞきさえすれば、彼は実に完全に、近代芸術家型に嵌まった。
彼の幼時は不明であった。
が、彼の詩を信じてよいなら――又信じてもよいのであるが――七歳頃から詩作したらしい。
﹁往昔十四五、出デテ遊ブ翰かん墨ぼく場、斯しぶ文んさ崔い魏ぎノ徒、我ヲ以テ班揚ニ比ス、七齡思ヒ即チ壮、九齡大字ヲ書シ、作有ツテ一襄のうニ満ツ﹂
すなわちこれが証拠である。
﹁七歳ヨリ綴ル所ノ詩筆、四十載さい、向フ矣い、約千有余篇﹂
こんなことも書いてある。
開元十九年二十歳の時、呉越方面へ放浪した。
四年の間を放浪に暮らし、開元二十三年の頃、京兆の貢こう拳きょに応じたものである。
だが旨うま々うま落第してしまった。
4
彼はすっかり落胆した。
奉天の父の許へ帰って行った。泰たい山ざんを望んで不平を洩らした。
二年の間ブラブラした。
それから斉せいや趙ちょう﹇#ルビの﹁ちょう﹂は底本では﹁しょう﹂﹈に遊んだ。
それから長安へ遣って来たのであった。
李白と杜甫との会見は、賀知章が心配したほどにもなく、非常に円滑に行なわれた。
会後李白が賀知章へ云った。
﹁彼は頗すこぶる人間臭い。それが又彼のよい所だ。詩人として当代第一﹂
また杜甫はこう云った。
﹁なるほどあの人は謫仙人だ。僕はすっかり面喰ってしまった。詩人としては第一流、とても僕など追っ付けそうもない﹂
互いに推重をしあったのであった。
李りて適き之し、汝じょ陽よう、崔さい宗そう之し、蘇そし晋ん、張ちょ旭うぎょく、賀がち知しょ章う、焦しょ遂うすい、それが杜甫と李白とを入れ、八人の団体が出来上ってしまった。
飲んで飲んで飲み廻った。
いわゆる飲中の八仙人であった。
酒はあんまりやらなかったが、一世の詩宗高適などとも、李白や杜甫は親しくした。
三人で吹台や琴台へ登り、各めい自めい感慨に耽ったりした。
※﹇#﹁りっしんべん+更﹂、662-15﹈慨するのは杜甫であり、物を云わないのは高適であり、笑ってばかりいるのは李白であった。
高適の年五十歳、李白の年四十四歳、杜甫の年三十二歳であった。
だがこの時代は李太白が、誰よりも詩名が高かった。
玄宗皇帝が会いたいと云った。
で、李白は御前へ召された。
誰が李白を推薦したかは、今日に至っても疑問とされている。
ある人は道士呉﹇#﹁﹂は底本では﹁※﹇#﹁くさかんむり/均﹂、662-下-1﹈﹂﹈だと云い、ある人は玉真公主だと云い、又ある人は賀知章だと云った。
すべて人間が出世すると、俺が推薦した俺が推薦したと、推薦争いをするものであるが、これも将しくその一例であった。
金きん鑾らん殿という立派な御殿で、玄宗は李白を引見した。
帝、食を賜い、羹あつものを調し、詔あり翰かん林りんに供ぐ奉ぶせしむ。――これがその時の光景であった。非常に優待されたことが、寸言の中に窺われるではないか。
彼は翰林供奉となっても、出勤しようとはしなかった。長安の旗亭に酒を飲み、いう所の管ばかりを巻いていた。
﹁李白に会いたいと思ったら、長安中の旗亭を訪ね、一番酔っぱらっている人間に、話しかけるのが手取早い。間違いなくそれが李白なのだからな﹂
人々は互いにこんなことを云った。
その時唐の朝廷に一大事件が勃発した。
渤ぼっ海かい国の使者が来て、国書を奉呈したのであった。
国書は渤海語で書かれてあった。満廷読むことが出来なかった。
玄宗皇帝は怒ってしまった。
﹁蕃書を読むことが出来なければ、返事をすることが出来ないではないか。渤海の奴らに笑われるだろう。彼きゃ奴つら兵を起こすかもしれない。国境を犯すに相違ない。誰か読め誰か読め!﹂
百官戦慄して言なし矣いであった。
そこへ遣やって来たのが李白であった。
飄々乎ことして遣って来た。
﹁おお李白か、いい所へ来た。……お前、渤海語が解わかるかな?﹂
﹁私、日本語でも解ります。まして謂んや渤海語など﹂
﹁それは有難い。これを読んでくれ﹂
渤海の国書を突き出した。
李白は一通り眼を通した。
﹁では唐音に訳しましょう﹂
そこで彼は声高く読んだ。
﹁渤海奇きど毒くの書、唐朝官家に達す。爾なんじ、高こう麗らいを占領せしより、吾国の近辺に迫り、兵屡しばしば吾界さかいを犯す。おもうに官家の意に出でむ。俺われ如じょ今こん耐たうべからず。官を差し来り講じ、高麗一百七十六城を将もって、俺に讓与せよ。俺好物事あり、相送らむ。太白山の兎、南海の昆布、柵城の鼓、扶ふ余よの鹿、鄭てい頡きつの豚、率そつ賓びんの馬、沃よう州しゅ綿うめん﹇#ルビの﹁ようしゅうめん﹂は底本では﹁ようしうめん﹂﹈、泌びん河ひつがの鮒、九都の杏、楽がく遊ゆうの梨、爾、官家すべて分あり。若もし高麗を還かえすことを肯んぜずば、俺、兵を起こし来たって厮殺せむ。且かつ那いず家れが勝敗するかを看よ﹂
皇帝はじめ文武百官は、すっかり顔色を変えてしまった。
﹁いま辺境に騒がせられては、ちょっと防ぐに策はない。一体どうしたらいいだろう﹂
風流皇帝の顔色には、憂が深く織り込まれた。
誰一人献策する者がなかった。
5
すると李白が笑いながら云った。
﹁文章で嚇おどして来たのです、文章で嚇して帰しましょう。蕃使をお招きなさりませ、私、面前で蕃書を認め、嚇しつけてやることに致します﹂
翌日蕃使を入朝せしめた。
皇帝を真中に顯官が竝んだ。
紗さぼ帽うを冠り、白はく紫し衣いを着け、飄々と李白が現われた。勿論微醺を帯びていた。
座に就つくと筆を握り、一揮して蕃書を完成した。
まず唐音で読み上げた。
﹁大唐天宝皇帝、渤海の奇毒に詔諭す。むかしより石卵は敵せず、蛇龍は闘わず。本朝運に応じ、天を開き四海を撫有し、将は勇、卒は精、甲は堅、兵は鋭なり。頡きつ利りは盟に背いて擒とりこにせられ、普ふさ賛んは鵞を鑄って誓を入れ、新しら羅ぎは繊錦の頌を奏し、天てん竺じくは能言の鳥を致し、沈ちん斯しは捕鼠の蛇を献じ、払ふつ林りんは曳馬の狗を進め、白鸚鵡は訶かり陵ょうより来り、夜光珠は林りん邑ゆうより貢し、骨こつ利りか幹んに名馬の納あり、沈ちん婆ば羅らに良酢の献あり。威を畏れ徳に懐なずき、静を買い安を求めざるなし、高麗命を拒ふせぎ、天討再び加う。伝世百一朝にして殄滅す。豈あに逆天の咎徴、衝大の明鑒に非ずや。況いわんや爾は海外の小邦、高麗の附国、之を中国に比すれば一郡のみ。士馬芻糧万分に過ぎず。螳怒是れ逞たくましうし、鵝驕不遜なるが若ごときだに及ばず。天兵一下、千里流血、君は頡利の俘とりこに同じく、国は高麗の続とならむ。方今聖度汪洋、爾が狂悖を恕す。急に宣しく﹇#﹁宣しく﹂はママ﹈過を悔い、歳事を勤修し、誅戮を取りて四夷いの笑となる毋なかれ。爾其れ三思せよ。故に諭す﹂
実にどうどうたるものであった。
皇帝はすっかり喜んでしまった。
そこで李白は階を下り、蕃使の前へ出て行った。文字通り蕃音で読み上げた。
蕃使面色土のごとく、山呼拝舞し退いたというが、これはありそうなことである。
奇毒、すなわち渤海の王も、驚愕来帰したということである。
﹁俺は長安の酒にも飽きた﹂
で、李白は暇いとまを乞うた。
皇帝は金を李白に賜った。
李白の放浪は始まった。北は趙ちょう魏ぎ燕えん晋しん﹇#ルビの﹁しん﹂は底本では﹁し﹂﹈から、西は※ぶん岐き﹇#﹁分+おおざと﹂、664-上-20﹈まで足を延ばした。商しょ於うおを歴へて洛陽に至った。南は淮わい泗しから会かい稽けいに入り、時に魯ろち中ゅうに家を持ったりした。斉や魯の間を往来した。梁宋には永く滞在した。
天てん宝ほう十三年広陵に遊び、王屋山人魏ぎま万んと遇い、舟を浮かべて秦しん淮わいへ入ったり、金陵の方へ行ったりした。
魏万と別れて宣せん城じょうへも行った。
こうして天宝十四年になった。
ひっくり返るような事件が起こった。
安祿山が叛したのであった。
十二月洛陽を陥いれた。
天宝十五年玄宗皇帝は、長安を豪塵して蜀に入った。
李白の身辺も危険であった。宣城から漂陽にゆき、更に中えんちゅうに行き廬山に入った。
玄宋皇帝の十六番目の子、永王というのは野心家であったが、李白の才を非常に愛し、進めて自分の幕僚にした。
安祿山と呼応して、永王は叛旗を飜えした。弟の襄じょ成うせ王いおうと舟しゅ師うしを率い、江こう淮わい﹇#ルビの﹁こうわい﹂は底本では﹁こうれい﹂﹈に向かって東下した。
李白は素敵に愉快だった。
﹁うん、天下は廻り持ちだ。天子になれないものでもない﹂
こんな事を考えた。
詩人特有の白昼夢とも云えれば、儻てき不とう羈ふきの本性が、仙骨を破って迸しったとも云えた。
意気頗すこぶる軒昂であった。自分を安あん石せきに譬えたりした。二十歳代に人を斬った、その李白の真骨頭﹇#﹁真骨頭﹂はママ﹈が、この時躍如としておどり出たのであった。
﹁三川北虜乱レテ麻ノ如シ、四海南なん奔ぽん﹇#ルビの﹁なんぽん﹂は底本では﹁なんぱん﹂﹈シテ永嘉ニ似タリ、但東山ノ謝しゃ安あん石せきヲ用ヒヨ、君ガ為メ談笑シテ胡こ沙さヲ静メン﹂
などとウンと威張ったりした。
﹁試ミニ君王ノ玉ぎょ馬くば鞭べんヲ借リ、戎じゅ虜うりょヲ指揮シテ瓊けい筵えんニ坐ス、南風一掃胡こじ塵ん静ニ、西長安ニ入ッテ日延ニ到ル﹂
凱旋の日を空想したりした。
ところが河南の招討判官、李りせ銑んというのが広陵に居た。永王の舟師を迎え﹇#﹁迎え﹂は底本では﹁迎へ﹂﹈討った。
永王軍は脆く破れた。
永王は箭やに中あたって捕えられ、ある寒駅で斬殺された。そうして弟の襄成王は、乱兵の兇刄に斃たおされた。
李白は逃げて豊沢に隠れたが、目つかって牢屋へぶち込まれた。
﹁どうも不い可けねえ、夢だったよ﹂
憮然として彼は呟いた。
﹁兵を指揮するということは、韻をふむよりむずかしい。そうすると俺より安石の方が、人殺しとしては偉いらしい。もう君王の玉馬鞭なんか、仮にも空想しないことにしよう……。ひょっとかすると殺されるかもしれねえ。何と云っても謀反人だからなあ、もう一度洞どう庭ていへ行って見たいものだ。松江の鱸すずきを食ってみたい。女房や子供はどうしたかな? 幾人女房があったかしら? あっ、そうだ、四人あったはずだ﹂
李白はちょっと感傷的になった。
無理もないことだ、五十七歳であった。
李白は皆に好かれていた。
新皇帝粛しゅ宗くそうに向かって、いろいろの人が命乞いをした。
宣せん慰いた大い使し崔さい渙かんや、御ぎょ史しち中ゅう丞じょう宋そう若じゃ思くしや、武勲赫々たる郭かく子し儀ぎなどは、その最たるものであった。
そこで李白は死を許され、夜郎へ流されることになった。
道々洞庭や三峡や、巫ふざ山んなどで悠遊した。
李白はあくまでも李白であった。竄さん逐つい﹇#﹁竄さん逐つい﹂はママ﹈されても悲しまなかった。いや一層仙人じみて来た。人間社会の功業なるものが全然自分に向かないことを、今度の事件で知ってからは、人間社会その物をまで、無視するようになってしまった。
乾かん元げん二年に大赦があった。
まだ夜郎へ行き着かない中に、李白は罪を許された。
そこで江夏岳陽に憩い、それから潯じん陽ようへ行き金陵へ行った。この頃李白は六十一歳であった。また宣城や歴陽へも行った。
あっちこっち歩き廻った。
到る所で借金をした。九割までは酒代であった。
のべつに客が集まって来た。
やがて宝応元年になった。
ある県令に招かれて、釆石江で舟遊びをした。
すばらしく派手やかな宮錦袍を着、明月に向かって酒気を吐いた。
波がピチャピチャと船縁を叩いた。
十一月の月が水に映った。
﹁ひとつ、あの月を捕えてやろう﹂
人の止めるのを振り払い、李白は水の中へ下りて行った。
水は随分冷たかった。
彼の考えはにわかに変わった。
どう変わったかは解らない。
李白は水中をズンズン歩いた。
やがて姿が見えなくなった。
それっきり人の世へ現われなかった。
﹁李白らしい死に方だ﹂
人々は愉快そうに手を拍った。
東とう巖がん子しは岷みん山ざんにいた。
相変わらず小鳥の糞にまみれ、相変らずぼんやりと暮らしていた。
ある日薄穢い老人が、東巖子を訪れて来た。
﹁先生しばらくでございます﹂
﹁誰だったかね、見忘れてしまった﹂
老人は黙って優しく笑った。
なるほどまさしく薄穢くはあったが、底に玲瓏たる品位があった。人間界のものであり、同時に神仙のものである、完成されたる品位であった。
で、東巖子は思わず云った。
﹁おお貴あな郎たは老子様で?﹂
﹁いえ私は李白ですよ﹂
﹁いえ貴郎は老子様です﹂
東巖子は云い張った。
﹁どうぞ上座へお直り下さい﹂
李白は平気で上座へ直った。
数百羽の小鳥が飛んで来た。音を立てて庵の中へ入った。
そうして東巖子の頭や肩へ……いや小鳥は東巖子へは行かずに、李白の頭や肩へ止まった。すぐに李白は糞まみれになった。
今でも岷山のどの辺りかに、李白とそうして東巖子とが、小鳥を相手に日ひな向たぼっこをして、住んでいる事は確かである。