本篇は、大津事件に端を発した社会や世相の動きに題材を取ったものである。周知のように、大津事件は、1891年(明治24年)5月11日、訪問中のロシア帝国皇太子・ニコライ(後の皇帝ニコライ2世)が、滋賀県滋賀郡大津町(現大津市)を人力車で通行中、警備の警察官・津田三蔵から襲撃され頭部を負傷した事件である。天皇も見舞いのためニコライ皇太子が滞在する京都を訪問、謝罪。政府も動揺し、日露関係が緊張する中、津田の裁判も政府・行政の介入とわが国の司法権の独立の問題とともに、大きな話題となった。 大津事件で負傷したロシア皇太子ニコライは、日露関係が緊張したまま、日本訪問を切り上げて神戸港から帰途につくが、その5月20日に、畠山勇子(慶応元・1865年 - 明治24・1891年)は謝罪の遺書を残して自死した。この事件も新聞紙などで大きく取り上げられ、また追悼式も催された。日露関係の緊張緩和や態度軟化に資したとする見方もある。本篇は、事件をめぐる庶民の間での世相、心情などの記録としても参考になろう。 末慶寺(京都市下京区万寿寺櫛筍上ル)に墓(「烈女畠山勇子之墓」)があり、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が1895年、またその後にはポルトガル領事・モラエスも訪れている。ハーンは、当時の住職から話を聞き、のち自著『仏の畠の落穂集』(「京都紀行」に言及あり。Gleanings in Buddha-fields, 1897)を贈呈した。 このほか、石川淳「ゆう女始末」同全集8巻(筑摩書房、1989)などがある。(林田清明) |