私が探偵小説を書いて見ようという気を起したのは疑いもなくコナン・ドイルのシャーロック・ホームズ物語の示唆である。中学生だった私には、ホームズの推理は驚異であった。最初に読んだのは佐川春水氏が﹁銀行盗賊﹂と改題して訳述した﹁赤髪組合﹂か、それでなければ訳者を失念したが、太陽か又は太陽と同型の雑誌に発表された﹁青い宝石﹂で、どっちが先だったか確かな記憶はない。次いで﹁ナポレオン偶像﹂﹁バスコムベリイの惨劇﹂﹁黄色い顔﹂﹁斑らの紐﹂等を、或いは原文で講義を聞き、邦訳対照のものを読み、或いは未熟の力で直接原文を読んだりした。そのいずれもが次々に異った驚異と昂奮とを与えて呉れたのだった。上述の諸作に現われたトリックや推理の過程は、私の初期の作品より引続き随所にアダプトされている。
学校を出て勤めの身になってから、甚しく私の興味を刺戟したのは、森下雨村君訳の﹁月長石﹂と、小酒井不木君訳の﹁夜の冒険﹂の二長篇だった。就なか中んずく後者は探偵小説構成の定石本として深い感銘を受けたものであった。この二長篇が発表されて間もなく私が探偵小説を書いたという事は偶然でないような気がする。保篠龍緒君訳する所の﹁虎の牙﹂も私には大きな驚異だった。多少の影響を受けているかも知れぬ。
探偵小説以外の小説の影響を受けている事は甚だ僅少だと思う。それは、探偵小説はコンストラクションの文学であって、他の小説と全く別箇の存在であるという私の持論の結果であるというよりも、反かえってそういう事実が、私の結論を導き出したのであるといえる。
最近では新青年に訳載された﹁鼻欠け三重殺人﹂で、作そのものより作者のいっている言葉﹁解決は只たゞ一つあり、而しかしてそれのみが可能なり﹂という一節に敬服した。この一事こそ探偵小説の精髄であり、卑しくも探偵作家を以って任ずるものの、起稿第一に考えなければならない事だと思う。
︵昭和十二年、︿新青年﹀特別増刊探偵小説傑作集に発表︶