﹁母危きと篤くすぐ帰れ﹂という電報を受取った私は、身仕度もそこそこに、郷里名古屋に帰るべく、東京駅にかけつけて、午後八時四十分発姫路行第二十九号列車に乗りこんだ。この列車は昨今﹁魔の列車﹂と呼ばれて盗難その他の犯罪に関する事件が頻々として起り、人々の恐怖の焦点となって居て、私も頗すこぶる気味が悪かったけれど、母の突然の病気が何であるのかわからず、或は母が既に死んだのではなかろうかとも思って気が気でなく、この列車が私の利用し得うる最初のものだったので、とりあえず、その三等席に陣取った訳である。 ﹁魔の列車﹂とはいえ乗客はすでに東京駅で一ぱいにつまった。私の席のすぐ前の腰ベン掛チは、黒い色眼鏡をかけ、麦稈帽をかぶって、洋服に夏マントを着た四十格好の人によって占領されたが、その顔が非常に蒼ざめていて、いわば人相がよくなかったので、私は時節柄一ちょ寸っと、気味の悪い思いをした。然しかし、靴をぬいで腰掛の上に坐り、車窓にもたれて眼をとじると、いつの間にか、人相の悪い人のことなど忘れてしまって、頭は母のことで一ぱいになった。 いつもならば、私は列車の響に眠気を催すのであるが、今夜はなかなか眠られそうになかった。後には、牛込の寓ぐう居きょに残して来た妻子のことや、半分なげやりにして来た会社の仕事のことなどが思い出されて、とりとめのない考えにふけっていたのである。 梅雨どきのこととて、国こ府う津づを過ぎる頃は、雨がしきりに降り出して、しとしとと窓を打ち、その音が、私の遣やる瀬せない思いを一層強めるのであった。列車内は煙草の煙が一ぱいで、旅客の中には眠っているものもあれば、まだ盛にはしゃいでいるものもあったが、薄暗い電灯の光に照された陰影の多い人々の顔には、何となく旅の悲愁といったようなものが漂っていた。そうして私の気のせいか、人々の顔には﹁魔の列車﹂であることを意識して警戒するような表情が読まれた。ふと、私の前の、人相の悪い人に眼をやると、その人は軽い鼾いびきをかいて眠っていた。 でも、そのうちに考え疲れたためか、私はいつの間にかうとうととしていた。列車が浜松を過ぎたころであったと思う。車内がにわかに騒々しくなったのに眼をさまして、何事か起きたのかと注意すると、車掌やその他の鉄道従業員があわただしく往来していた。私は妙な予感に襲われて、私の前の座席を見ると色眼鏡をかけた人相の悪い人はどこかへ行ったと見えてその場にいなかった。で、私の背後にいた人に何事が起きたのかときくと、今二等車で、乗客が大金を盗まれたため大騒動をしているのだということであった。私は﹁魔の列車﹂がその名にそむかなかったことを知って全身がぞっとするように思った。 それから私は手洗に行こうと思い、何気なく立ち上って、靴をはこうとすると、私の右の靴が紛失していることに気附いた。私ははっとした。腰掛の下を探しても見えないので、宵の口から想像力の旺盛になっていた私には、私の靴の紛失が、何だか、二等車の盗難事件と関係のあるように思えた。魔の列車――二等車の盗難――人相の悪い男の不在――私の靴の紛失。こう考えて来ると、私はもうじっとしていられないような気がした。 ﹁おい車掌さん、大変だ、僕の靴が片一方なくなった!﹂ 私は通りかかった車掌に向って、大声でこう叫んだ。乗客は一斉に私の方をながめ中には立ち上る者さえあった。 車掌は顔を曇らせながら、近づいて来て、先ず私の腰掛の下を捜したが、もとより有ろうはずがない。それから私の前のあいている腰掛の下を捜しにかかり、暫くの後、立ち上ったときには、その右手に一個の靴がつかまれていた。 ﹁ちゃんとここにあるじゃありませんか。あんなに大袈裟に仰しゃるものだから、びっくりしてしまった﹂ と、車掌は私を責めるようにいった。私は一寸恥かしい思いをしたが、ふと気がつくと、車掌のつかんでいるのは、私のとは少し格好がちがって、しかも不思議なことには左の靴であった。 ﹁車掌さん、それは僕のではないよ、第一僕のなくなった靴は右だのに、それは左の靴じゃないか﹂ こういわれて、こんどは車掌が変な表情をして、自分の持っている靴と、私の右の靴とを比く較らべて見た。 ﹁はてな、これはおかしい、ことによると……﹂ この時、留守にして居た色眼鏡の人が手ハン巾ケチで手を拭き拭き帰って来て、車掌の姿を見るなり怪けげ訝んな顔をして立ちどまった。車掌は早くもその人の足に眼を注ぎ、 ﹁おや、あなたは、両足とも右の靴をはいているじゃありませんか﹂といった。 その人はうつむいてしばらくの間足許をながめていたが、はじめて気のついたような表情をしていった。 ﹁や、これはどうも、ついその……﹂ ﹁この靴があなたのでしょう?﹂と車掌は手にしていた靴をその人の前に差出した。 ﹁いかにもそれが私のです﹂と、その人は顔を紅くして答えた。 車掌の顔には疑惑の色が浮んだ。こいつ怪しい人間だと思ったのであろう。急に真面目な態度になっていった。 ﹁でも、おかしいじゃありませんか、他ひ人との靴をはいて、それに気がつかぬとは?﹂ ﹁いや、全く申し訳がありません。何しろ……﹂ ﹁申し訳がないではすみませんよ、こういう間違いは、偶然な間違いとは考えられませぬから﹂ ﹁でも間違いにちがいないのだから勘弁して下さいよ。わたしは今手ちょ洗うずに行って来ただけです﹂ ﹁そりゃね、いつもなら、笑ってすまされますけれど、何しろ、今二等車にある事件が起きたのですから、御面倒でも一寸車掌室に来て下さい﹂ その人は急に顔を蒼くした。 ﹁それじゃ、納得の行くようにここで申し上げよう。実はわたしは、片眼が不自由なんです﹂ こういって、その人が色眼鏡を取ると、右の眼のつぶれた跡が悲惨な姿をしていたので、私は非常に気の毒な思いがした。 然し車掌はなおも得心しなかった。 ﹁けれど、他人の靴か自分の靴かは足の感じでわかるではありませんか﹂ ﹁それがその私の左足は義足なんです﹂ こういって、その人は、洋ズボ袴ンをまくって見せようとしたので、車掌は始めて顔を和げ、 ﹁もう、それには及びませんよ。いやどうも失礼しました﹂ こういって車掌は靴を置いて、逃げるようにして去った。しかしその人は別に怒った顔もせず、再び私の前に腰掛けていった。 ﹁あなたのを間違えたのでしょうか、大変失礼しました。何しろ不かた具わものですから、どうか御ゆるしを……﹂ ﹁どう致しまして﹂と、私はあわてて制していった。﹁さぞ御不自由で御座いましょう。とんだ御心配かけまして却かえって恐縮です﹂ それから私が手洗をすまして帰って来ると、その人は棚の上の信玄袋から、梨と小ナイ刀フを取り出し私にもすすめた。私はその好意を謝し、内心では、それまでその人の人相のよくないことに疑惑を抱いたことを恥じて、遠慮なく、御馳走になった。母や妻子のことで一ぱいになっていた頭に、この時はじめて余裕を生じ、それと同時に、私はその人に対して一種の興味を感じはじめた。というのは、私は、いわば直感的にその人が何か深い因縁で、不具者になったように思えたからである。 ﹁どちらまで、御越しで御座いますか﹂とその人は私に向ってたずねた。 ﹁母が危篤だという電報を受取ったので、名古屋まで帰るところです﹂ ﹁そうですか。それは御心配で御座いますな。いやもう、そういう時の御心持には十分同情が出来ますよ。私はいま家内の遺骨を携えて家内の郷里の大津まで行くところです﹂ 私はそれをきいて何となくぎくりとした。そうして思わずもその人の顔を見つめた。 ﹁御母さんの御病気のときに、こんな縁起のわるい御話をしては大へん失礼でしたな﹂ ﹁いいえ、私は縁起とか何とかを決して信じません﹂と私は笑いながら答えた。 するとその人は急に真面目な顔つきをして言った。 ﹁私も以前は、縁起だとか、物の祟りだとかを信じなかったのですが、こうして家内に死なれたり生れもつかぬ不かた具わも者のになったりしますと、やはり、そういうことを信じないではいられなくなりましたよ﹂ 私はこの言葉をきくと妙な感じに襲われた。というのは、平素私は迷信を一切排斥していたのであるが、今日母の危篤の電報を受取ってからというものは、何となく迷信を斥しりぞけることが出来ぬようになって、実をいうと先刻、この人から、妻の遺骨云々のことをきいたとき、何だか母が死んでしまいそうな気がしてならなかったからである。 ﹁奥さんは最近におなくなりになりましたか﹂と、私はしんみりした気持になってたずねた。 ﹁ちょうど五十日前ぜんになくなりました﹂といってその人は悲しい表情をした。私はこんなことをきかねばよかったと思い、話題をかえるつもりで、 ﹁失礼ですがあなたは戦争にでも御出になって負傷なさったので御座いますか﹂と、たずねた。 するとその人は更に一層悲しそうな表情をしていった。 ﹁妻のなくなった同じ日に眼と足に負傷したのですよ。ですから、まだ義足をはき馴れてもおらず先刻はとんだ失敗をしたのです﹂ 私はその時、その人の悲しみに同情するよりも、私の予想が当ったような気がして、その人の不具となった事情がききたくてならなかった。しかしまさか、その話をきかしてくれともいえぬのでそのまま口を噤つぐんで、窓の方に眼をやった。 雨はまだ頻に降っていて、窓を打つ水滴が砕けては流れた。汽車は私たちの気持を少しも知らぬ気に相変らず単調な音をたてて走った。私が再びその人の方を向くと、ちょうどその時二人の視線が打ぶつかった。すると、その人は、私の心の中を察したと見え、にこりとしながら、 ﹁まだ夜あけまでに間があるようですから、一つ私の身の上話を御耳に入れましょうか﹂といい出した。私は心の中で大おおいに喜んで、同意を表すると、その人は次のような恐しい物語りをはじめた。 私は日本橋に株式仲買店を持つ辻というもので御座います。御承知のとおり、株屋などというものは非常に迷信深いものですが、私は先刻も申しましたとおり、決して迷信などを意にかけませんでした。ところが最近私の身にふりかかって来た不幸と災難のために、すっかり私は迷信家になってしまいました。そうして、今では、物の祟りだとか縁起だとかを信じない人は、その人が平凡に暮して来て何の不幸にも逢わない証拠を示しているようなものだと信ずるようになりました。 私がここに持っているのは、実は私の後妻の骨で御座います。先妻は一年半ばかり前になくなりましたが、それ以後私の家には不幸が続き、とうとう後妻にも死なれ、私までがこうした不具になったので御座います。そうして、これらの不幸や災難はみんな先妻の亡霊の祟りだったのです。いや、こういうと、あなたは私の迷信を御笑いになるかも知れませんが、だんだん御話をすれば御わかり下さるだろうと思います。実は先妻は自然な死に方をしたのでなく、自殺して相果てたので御座います。 昔から女の執念は恐しいものだと思いましたが、こうも極端なものだということは過去四十二年間夢にも思わなかったので御座います。彼女の自殺の原因はやはり嫉妬に外なりませんでした。私が他に女を拵えたのを憤って日本刀で頸をかき切って死んだのです。私は彼女の家に養子に迎えられたものですが結婚後二年ほど過ぎると両親が相前後して死に、私たち二人きりの身うちとなりました。私たちの間に子供がありませんでしたが、それが彼女のヒステリーを一層重くならしめた原因だろうと思います。元来彼女は、一口にいえば醜婦といった方がよく、はじめ私は彼女との縁組に不服でしたが種いろ々いろの深い事情があってとうとう結婚したので御座います。それが抑そもそもの間違いのもとでした。即ち私が断然として養子に行きさえせねばよかったのです。つまり私の意志が薄弱であったことが、今こうした悲運を齎もたらしたといって差さし閊つかえありません。仲人は私に向って先方が容きり貌ょうが悪くても、ほかに美しい女を囲えばよいではないかといって私に頻にすすめました。そうして私は皮肉にも、仲人の言葉を実行してほかに女を囲うようになったのですが、そのために先妻は私とその女をうらんで自殺したので御座います。 容貌のみにくい女は残忍性を持つということを何かの書物で読んだことがありますが、私は私の経験によって、その残忍性が死後には一層強くなってあらわれるということを発見しました。私の囲ったのは芸者上りの女でしたが、一たびそのことが先妻の耳にはいりますと、私の家は実に暗あん澹たんたる空気に満たされました。彼女は泣いて私に訴えるばかりでなく、時には噛みついて私を責めるのでありました。その都度店のものが仲裁にはいってくれましたが、そうしたことが度重なった末ある夜、私が女の許へ行って居た留守中に、家に代々伝わる村正の刀で頸部をかき切って自殺を遂げたので御座います。 この村正の刀というのは、申すまでもなく、その家に不幸を齎すという言い伝えがあります。一旦鞘を出ると血を見ずにはおさまらぬというようなことも申します。何でも四代前の主人が発狂して同じ刀でその妻を斬ったということでしたが、先妻も、やはり発狂して、同じ刀で自分を切ったので御座います。いや、うっかりすると、私も共に斬られていたのかも知れません。佐野治郎左衛門の芝居を見ますと、﹁籠かご釣つる瓶べはよく切れるなあ﹂という科せり白ふがありますがあの刀もたしか村正だったと思います。私の家に伝わる村正も、その籠釣瓶のように実によく切れるので御座います。先妻はその村正を右手に持って、頸部を横に切ったのですが、創きずは脊椎骨に達するくらいで、検屍の人もびっくりしました。たった一刀で、しかも女の力であのような創の出来るというのは、刀がよく切れたからだと推定されました。後に私自身もその村正の切れ味を経験して、いかにもよく切れることをたしかめた訳ですが、私は従来、どんなによく切れる刀でも、これを使用する人の腕が達者でなくては、そんなに見ごとに物を切ることが出来るものでないと思っていました。ところが、後にその考えの根本的に誤っていたことがわかったのであります。 さて、先妻はその時に恐しい遺言状を残して行ったので御座います。その文句によると、幽霊になって私の女を取り殺し、並びに私を不具にするか、或は取り殺さねば置かぬというのでありました。果して私たちは、そのとおりの運命に出逢ったので御座います。 尤もっとも、その時は、嫉妬に駆られた女の常套語として、私は少しもそれを気に懸けませんでした。そうして、先妻の死後半ヶ年というものは私にも女にも何事も起りませんでした。で、私は身のまわりの不自由を感じて、とうとう、その女を家に引き入れて後妻としたのですが、それがいわば不幸を招く発端となったので御座います。 私の家には、祖母の代から飼いはじめたという三み毛けの雌めね猫こがおりました。可なりに大きな身体をしていましたが、この三毛を先妻はわが子のように可愛がりました。その可愛がり方は実に常軌を逸していたといってもよい程でした。先妻が自殺してその死骸が発見されたとき、三毛が死体の上に乗って蹲うずくまっていたので、店のものがびっくりして追おうとしても、暫くの間はどうしても動かなかったということでした。この三毛が、後妻に少しも馴染まなかったので御座います。後妻が抱き上げようとしますと、必ず引掻いて逃げて行きました。私は先妻の生きている時分からあまり三毛を好みませんでしたが、先妻が死んでから三毛は私に対しても、何かこう一種の敵意を持っておるかのような風をしました。そうして三毛は時折じっと立ちどまっては、私たちを凝視するのでしたが、その凝視に逢うと、私も後妻も肌に粟を生じないではいられませんでした。とうとう後妻はあの猫には先妻の死霊がついておるから、どこかへ捨てさせてくれと私に頼みましたので、はじめに私は店のものに牛込の方まで持って行かせて捨てさせたのでしたが、二日すぎるとちゃんと帰って来ておりました。いよいよ私たちは気味を悪がって、それから随分遠いところまで度々捨てさせたのですが、三四日過ぎると必ず帰って来るのでありました。後妻はいっそ毒殺してしまおうかなどとも申しましたが、何だか、後の祟りがおそろしいように思われたのでその儘まま毒殺を決行せずに過ぎました。 とかくするうちに、先妻の死後一年あまりを経ました。すると後妻は右の眼がかすんでよく物が見えなくなったといい出しました。私は早速眼科医に見て貰うようにすすめましたが、後妻は大の△△教信者でして、御祈りして貰えばなおるといって、医者へは行かずに近所にあった△△教支部に通うたのでした。然し眼はだんだん見えなくなるばかりでしたから、私はしきりに医師をたずねるように主張しましたが、後妻も中々頑固なところがあって、かえって意地になって反対しました。 ある日、後妻が△△教支部から帰って、私に向って申しますには、神様にうかがって貰ったところ、自分の眼病は先妻の祟りで三毛に先妻の死霊がのりうつっているから、三毛のいる間は眼病は治らぬ、それゆえ、これからは三毛のいなくなる御祈りをしてやるとのことだったと告げるのでありました。私はそんなことが果して出来るかどうかを内心大おおいに疑っておりました。 ところが、不思議にも、それから間もなく三毛がいなくなったのであります。十日経ち二十日経っても帰って来ませんでした。後妻はこれを知って大に喜び、いよいよ神様の不思議な力を信じ、自分の眼病も遠からずなおることと楽観しておりました。 ところが眼病はよくならないばかりか、いよいよ右の眼は見えなくなってしまいました。それでも後妻は△△教の力にたよって医師を訪ねようとはしませんでした。﹇#﹁しませんでした。﹂は底本では﹁しませんでした﹂﹈ ある夜私は可なりに遅く帰宅しました。いつも後妻は私より先に寝たことはありませんでしたがその夜は少し気分が悪いといって床の中にはいっておりました。そうして、いつも電灯をつけて寝るのでしたが、その夜は眼がちらつくといって電灯を消しておりました。私は何気なく、その寝室をあけますと、妻は私の声をきいて起き上りましたが、その時私は暗やみの中に猫の眼のようにぴかりと光るもののあるのを認めました。 ﹁三毛がいる!﹂と、私は思わず叫びました。 ﹁ひえーッ?﹂といって後妻はとび上って電灯をつけました。 ところが、その室には三毛の姿が見えませんでした。私たちは思わず顔を見合せましたが、お互いの顔には恐怖と安心との混合した表情が漲みなぎりました。 ﹁まあ、驚いた!﹂と後妻は申しました。 ﹁いや、俺の見違いだったんだ! 堪忍してくれ﹂ こういって私は、寝間着に着換え、彼女を寝かせて電灯を消し、いざ寝ようとすると後妻の枕もとのあたりに前と同じようなぴかりと光るものを見ました。私はがばとはね起きて、電灯をつけましたが、やっぱり猫はおりません。 ﹁まあ、どうしたというの?﹂と、彼女はびっくりしていいました。 ﹁なに、何でもないんだ﹂と答えた私の声はたしかに顫えておりました。 それから私は電灯を消して再び寝につきましたが、やがて私が彼女の方を向くと、再びぴかりとするものが見えました。私ははげしい興奮を辛うじて抑制しながら、徐おもむろに右手をのばして、その光るものの方へ近づけると、私は思わずも彼女の鼻をつかみました。 ﹁何をなさるの?﹂と、後妻は笑いながらいいました。私は笑うどころでなく、なおもその光る物の方へ指をのばして行きますと、彼女の右の眼の睫まつ毛げにさわりました。私はぎょっとして手を引きました。 猫の眼のように光るのは、まがいもなく彼女の右の眼でした。 私はその時心臓が胸の中から、抜け出るかと思うような感じをしました。 後妻が猫になった! 猫の祟り! 先妻の執念! こう考えると私は、もう恐しさに彼女にそのことを告げる元気がありませんでした。その夜は一晩中考えて寝られませんでしたが、あくる日になって、私は断然、彼女には告げないで置こうと決心しました。彼女がもしそれを知ったならば、発狂し兼ねはしないだろうと思ったからです。或は私の錯覚であったかも知れぬと思い、その後、くらやみの中でそれとなく彼女を観察しましたところ、まがいもなく彼女の眼は猫のように光りました。 私はその時はじめて、物の祟りということを信ずるに至りました。今になって見れば彼女の眼の光ったのは何も不思議なことではありませんが、しかし、物の祟りを信ずるの念は、もはや動かすことが出来なくなりました。 後妻は何も知らずに△△教に通いました。然し右眼は遂に完全に明めいを失ってしまいました。とかくするうちに、彼女の眼は暗やみの中で光らなくなりましたので私は一時内心で喜びましたが、明を恢復することが出来ぬばかりか、だんだん右の眼が前方に突出して来るようになり、それと同時に彼女ははげしい頭痛を訴えました。 ある日彼女は突然高熱を発してどっと床につきました。私はもう我慢が出来なくなって医師をよぶことにすると、さすがの彼女も同意を表しました。診察に来て下さったN博士は、彼女を診察し終るなり、私を別室に呼んで、 ﹁はじめ奥さんの右の眼は、猫のように暗やみの中で光りはしませぬでしたか?﹂ と、小声でたずねました。私はびっくりして答えました。 ﹁そうです﹂ ﹁あれはグリオームという病気で、網膜に出来る悪性の腫瘍なのです。子供に多いのですが、大人にもたまにあります、猫の眼のように光る時分に剔てき出しゅつするとよいのでしたが、今はもう手遅れです﹂ ﹁手遅れと申しますと、右の眼が助からぬということですか﹂と私は心配してたずねました。 ﹁いいえ、残念ながら腫瘍が脳を冒しまして、急性脳膜炎を併発しましたから、とても恢復は望めません﹂ 私は脳天に五寸釘を打こまれたように思いました。地だんだ踏んで後悔してももはや及びませんでした。 その夜から妻は高熱のために譫うわ語ごとをいうようになりました。 ﹁三毛が来た!﹂ ﹁三毛が来た!﹂ こう叫び続けて、三日目の午後、彼女は二十七歳を一期ごとして瞑目しました。 たとい、彼女の右眼の病気が不思議な原因でないとわかっても、私は、彼女が先妻の死霊の祟りのために死んだのだとかたく信じました。そうして、私は心の中で、先妻の死霊と、それの乗りうつっている三毛とを呪いました。若し三毛がその時家の中うちにいたならば、きっとたたき殺したにちがいないと思うほど憎悪の情に駆られました。 私は彼女の死体を八畳の室に運ばせました。この室は縁側がついていて前に可なりに広い庭を控え、彼女が生前一ばんすきな室であったからです。私は障子を取り払って彼女を庭の方へ向わせ、香を焚たきました。香の煙が流れて、庭の新緑の木の葉のまわりにただよった有様は、今でも忘れることの出来ぬ悲痛な印象を与えました。 それから私は親戚のものたちと葬式その他の準備の相談をすべく別室に集りました。すると程なく店のものがあわてて私のところへ飛んで来ました。 ﹁旦那大へんです、三毛が庭へ姿を見せましたよ﹂ これをきくと同時に、私の憤怒の血は一時に逆上しました。私は三毛に復讐するのはこの時だと思い、奥の間へ行って、村正の刀を取り出しました。そうして死人の室の襖ふすまをあけますと、驚いたことに三毛は死体の上に、どっしりと蹲まっておりました。 私はさっと刀を抜きました。三毛は私の殺気を認めたのか、ぱっと飛び出して、庭の上に走り降りました。私も続いて庭に降りました。その時、三毛は庭の杉の木にすらすらとのぼりかけましたので、私は追かけざまやっといって、三毛に斬りつけました。 果して手ごたえがありました。 はっと思う間に、私は左の足と右の眼に燃えるような痛さを覚えました。 三毛を斬ったと思いの外、三毛は逃げてしまって、直径五寸すんもあろうと思う杉の幹を、斜に真二つに切り放っておりました。そうしてその上の方の幹が手前へすべって下に落ちたとき、その尖端が私の左の足を芋刺しにしておりました。それと同時に、一本の枯枝の端が私の右の眼をずぶりとつき刺しておりました﹂ ここまで語って、色眼鏡の人はほっと一息ついた。汽車は相変らず同じような響を立てていたが私は何だか恐しい世界に引き摺り込まれて行くような思いがした。 ﹁いや、とんだ長話をしましたな﹂とその人は続けた。﹁私はそれからすぐ病院にかつぎ込まれ、右の眼はつぶれただけですみましたが、左の足が化膿してついに膝から下を切断するのやむなきに至りました。後妻の葬式は親戚や知人の手で営まれ、私は四十日間の入院の後、義足をつけて歩くことが出来るようになりました。三毛はその後姿を現さず、永久に行方不明になりましたが、私の不具になったのも、やはり先妻の祟りだと信じて疑わないのであります﹂ 話が終った時、雨はやんで夜は白々と明けかけていた。名古屋でその人に別れて、家に駈けつけると、母は脳溢血で重態に陥っていたが、四日の後、とうとう一度も意識を恢復しないで死亡した。私は汽車の中のあの恐しい話が、何となく、母の死の前兆であったような気がしてならないのである。