安重根

――十四の場面――

林不忘











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       1







稿

姿()()()()()()()


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 ()()()()()()()()※(「金+今」、第3水準1-93-5)()
聴衆は無関心に、じっとしている。眠っている者もある。
安重根 でありますから、この条約に対して、韓国人はことごとくこれを否認し、ついには憤激のあまり――。
若い女が頭に水甕みずがめを載せて出て来る。地面に胡座あぐらをかいている青年一が呼び停める。
 
女 冗談じゃないよ。お炊事に使うんだから。
青年一 咽喉が乾いて焼けつきそうなんだ。
女 勝手に井戸へ行って飲んで来たらいいじゃないの。
青年一 ちっ! 面倒くせえや。わざわざ起って行くくらいなら我慢すらあ。
傍らから青年二が女の甕を奪って飲みはじめる。女は争う。
女 いけないったら、いけないよ、あらあら! こぼして――。
青年二 因業いんごうなこと言うなよ。新しいの汲んで来てやったら文句はないだろう。

安重根 (一段大声に)憤激のあまり、この事情を世界に発表しようとするくらいにまで覚悟しておりました。もともとわが韓国は四千年来武の国ではなく、文筆によって立ってきた国です。
子供が出て来て安重根の前に進む。
子供 (手を出して)小父ちゃん! 仁丹ある? ひとふくろ。
安重根 (子供を無視して)この国家的思想を鼓吹こすいするために――。
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遠くから声がする。
  
群集の中から、濡れた洗濯ものを持った女が逃げるように、塀にそって急ぎ足に去る。男の一人が見送る。
男 おい。貞さん、今夜行くぜ。
女 馬鹿お言いでないよ。
笑声。眠っている者はびっくりして眼を覚ます。
 
売薬の名を大きく墨書した白洋傘こうもりをさして、学童の鞄を下げた朝鮮服の男が、安重根と反対側に立って大声に言いはじめる。
   
群集はかすかに興味を示して、薬売りの周囲へ集まって行く。安重根は手持ち不沙汰に立っている。
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       2





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女一 (髪を束ね直しながら)さ、お神輿みこしを上げようかね、朝っぱらから据わり込んでいても、いい話もなさそうだし――。
女二 あああ、ゆうべは羽目を外しちゃった。
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男 へっ、日本人ヤポンスキイか。
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女一 あら、ほんと? 大変大変!
 
張首明 (安重根の顔を剃りながら)情夫いろおとこでも乗ってるというのかい。
奥へ通ずる正面のドアから張首明妻お光が出て来る。
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近所の男 どこがよくてそう日本人なんかに血道を上げるんだろう。気が知れねえ。
お光 おや、ここにも一人日本人がいますよ、ははは。
 
張首明 伊藤公爵って、この六月まで韓国統監をしていた伊藤さんかね。
女一 さよなら。
女二 あたしも行こう。油を売っちゃいられないわ。
近所の男 張さん、じゃまた、後で来るぜ。
張首明 そうかい。もうすぐだがね。
女三人と近所の男は、張首明夫婦に挨拶して去る。入れ違いに、よごれた朝鮮服に鳥打帽をかぶり、煙草の木箱を抱えた禹徳淳がはいって来て、安重根とちらと顔を見合って腰掛けに坐る。張首明は素早く二人を見較べる。
お光 (張首明へ)あら、煙草まだあったわね。
禹徳淳 煙草じゃありませんよ。髪刈りに来たんですよ。
髪を刈っている客 伊藤さんは今度帰ると、満洲太守という位につくんだという評判だよ。
 
客 そんなこともあるかもしれない。中村とかいう満鉄の総裁が一緒に来るそうだから。
金学甫 (客を済まして)一服おつけなさいまし。
張首明は安重根と禹徳淳へそれとなく注意している。
 
客 ここへ置きますよ。
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安重根 (低声に)手紙見たな。
禹徳淳 言って来たとおり調べてある。二十四日の晩の汽車らしい。
安重根 今もここにいた客がその話をしていたが、(考えて)夜か――。
 
 
 
 
 宿
  鹿 
禹徳淳 じゃあ、考えているって何を考えているんだ。
安重根 (半ば独り言のように)ハルビンへ行くよ。なあ、ハルビンへ行こう――。
 
 調
禹徳淳 そうだ。長い三年だった。
安重根 三年の間、おれは故郷くにの家族に一度も会わずに来た。
禹徳淳 (吐き出すように)何だ、そんなことを言ってるのか。
 
 
安重根 徳淳、君あ趙康英ちょうこうえいという人を知っているかね?
禹徳淳 趙康英? 聞いたことがある。煙秋エンチュウの田舎の下里で戸籍係をしている男だろう?
安重根 今じゃあ出世してねえ、ポグラニチナヤの税関の主事をしているよ。
禹徳淳 君、早く李剛主筆に会ったほうがいいぜ。一緒に行こう。
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禹徳淳 (驚いて)ほんとに君は、その用でハルビンへ行くのか。
安重根 そうさ。僕はハルビンで、三年振りに妻や子供に会うんだ。
禹徳淳 何を言ってるんだ――。
  
禹徳淳 (考えたのち笑い出して)ははははは、おれにまで、ははははは、おれにまでそんな用心をしなくてもいい。
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間が続く、禹徳淳は沈思している。急に憤然と椅子を起つ。
禹徳淳 安君――。
奥に大きな話し声とともに正面のドアがあいて、楊子をくわえた張首明が出て来る。立っている禹徳淳を見て驚く。
張首明 おや、お帰りですか。
禹徳淳 (狼狽して)急な用事を思い出したんです。後で来ます。
 

張首明 ははは、飯を食っててお客を逃がしちゃった。しかし、腹が減っちゃあ軍はできませんからね。
安重根 まったく。
張首明 旦那は鎮南浦の方ですね。
安重根 (ぎょっとして)どうしてわかる。
張首明 どうしてって、言葉の調子でわかりまさあ。
安重根 そうですよ。鎮南浦の安重根というんです。
張首明 ここの新聞社の社長さんも鎮南浦の方ですね。李剛先生っていう、御存じですか。
と表てに気を配る。戸外に、そっと金学甫が案内して、日本人のスパイが来ている。背広服、紳士体の男。安重根は張首明の様子でそれと気づき、何気なく装う。お光が正面の戸を細目に開けて覗いている。
スパイ (はいって来る)こんちわ。いてるかね?
安重根 (大声に)そうだ。その李先生に伝言ことづけを頼もう――。
スパイ ここへ坐るかな。
空き椅子に腰を下ろす。
  
金学甫が裏から廻って出て来る。安重根は続けている。
安重根 (なかばスパイに)たいした用じゃあないよ。ただ李って人はよく知らないでね、一つ僕を君の友達ということにして、紹介する意味で言っておいてもらいたいんだが――。




       3






()()()禿

西



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西

()


柳麗玉 (手で、書いている紙片を覆って)お止しなさいよ、覗くの――人の書いてるものや読んでるものを覗くのは、失礼よ。
  
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李剛 (歩きながら)そうだ。
  
 
卓連俊 待ってるのあ、仲間や先生だけじゃああるまいってね。
 ()
卓連俊はバケツを提げてドアの階段口から降りる。
李春華 (李剛へ)あなた、何をさっきからうろうろ歩き廻っているんです。また探し物ですか。
 
 
鄭吉炳 どこだったか、そこらへ置きましたよ。ありませんか。
李剛 見つからなくて弱ってるんだ。明日の新聞にちょいと書いといてやろうと思うんだが――。
 使
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稿()
同志一 安重根さんは来ていませんか。
同志二 たしかに今朝ウラジオへ着いたらしいんですが――。
鄭吉炳 (むっとして)何度来たって、いないものはいませんよ。こっちでも、あちこち心当りのところへ人をやって探してる最中なんです。
朴鳳錫 (戸口へ進みながら)君らは、今朝からそうやって入りかわり立ちかわり安君を探しに来るが、僕らが安君を隠しているとでも思ってるのか。
同志一 (鄭吉炳へ)そうですか。(独言のように)変だなあ――けさ着いたまではわかってるんだが、すると、それからどこへ廻ったんだろう?
 
二人は急いで降りて行く。
朴鳳錫 変だなあ実際。安君はいったいどうしたんだろう?
李剛 (気がついたように)白基竜はまだ帰らないか。朴君、窓から見てごらん。
 ()()
 ()()
 

柳麗玉 (書き物を続けながら)いいじゃあありませんか。何もできない人は、そんなことでもして、日本人からうんとお金をしぼってやるといいんだわ。
卓連俊が、水のはいっているバケツを提げて、あわただしく上って来る。
卓連俊 (戸口に立ち停って階下を見下ろす)どうもいけ図々しい野郎だ! 角の床屋です。いけねえって言うのに、どんどん上って来やあがる――。
朴鳳錫 (ドアへ走って)角の床屋? 角の床屋って、あの、スパイの張首明か。
 ()退()  
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李春華 燈火あかりをつけましょうか。
クラシノフ (不安げに立って)いやいや、暗いほうがいいです。
 
鄭吉炳 (李剛へ)僕も行ってみましょうか。
李剛 (苦笑して)そうしてくれたまえ。朴君は喧嘩っ早いから、ひとりじゃあ心配だよ。




       4









張首明 (階段の根に身を支えて)何をするんです。乱暴な! 李先生に用があるんですよ。
朴鳳錫の声 何だ。だから、何の用だと訊いてるじゃないか。
 
張首明 私も来たかありませんがね、伝言ことづけを頼まれたから、仕方なしに来たんです。
  ()()
 
張首明 (朴鳳錫へせせら笑って)おれの身体にさわると、大変なことになるのを知らねえか。おれは、ただの床屋の張さんじゃあねえぞ。
 退() 
鄭吉炳 朴君!
  
と鄭吉炳を振り払って掴みかかろうとする時、階段の上に薄い灯りがさして李剛の声がする。
李剛の声 (静かに)張さんですか。
 
李剛の声 張さんですね。
張首明 ちょっとお話ししたいことがあるんですが――。
李剛の声 何です。
朴鳳錫 (開け放しのドアを指して、張首明へ)二階へ上るなら、戸を閉めて来い。
 
朴鳳錫 (再び掴みかかろうしして鄭吉炳に停められる)嫌なやつだなあ、こいつ。
 
張首明 安重根という人に頼まれて来たんです。
裸か蝋燭を持って、李剛が跛足びっこを引きながら降りて来ている。
 
鄭吉炳 (急き込む)張さん、君はその安という人と以前から識り合いなのか。
李春華と柳麗玉が降りて来る。柳麗玉は蝋燭を持っていて、李剛のと二本で舞台すこしく明るくなる。
張首明 以前から識りあいというわけでもありませんが、まあ、そうです。安重根さんは私たちの仲間です。
鄭吉炳 君たちの仲間――と言うと、その人も床屋なんだね?
張首明 いえ。安さんは床屋じゃあありません。
鄭吉炳 同業ではないけれど、仲間だと言うのかい。すると――。
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柳麗玉 (鋭く)朴さん、何を言うんです。
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李剛は空箱に腰かけ、一同は張首明と李剛を取りまいて立っている。顔を見合って、しばらく間がつづく。
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張首明 そうです。なんだか皆さんのお話しの模様では、御存じの方らしいじゃありませんか。
朴鳳錫 そんなことは余計だ。用が済んだらさっさと帰れ。
張首明 帰れと言わなくたって帰りますよ。(独言のように)なんだか知らねえが、まるで支那祭りの爆竹みてえにぽんぽんしてやがる!
と帰りかけて、戸口からそとを覗く。
張首明 誰か来ましたよ、自転車で――あ、白さんだ。白基竜さんだ。

 
李剛 遅かったじゃないか。安重根君はどうした。
 
階段の上にクラシノフが現れて下を覗く。
クラシノフ どうしたい。だいぶ大きな声がしてたようだが、床屋のやつ、もう帰ったのか。
降りて来る。
白基竜 何かの都合で一日延びたんじゃないでしょうか。
朴鳳錫 なあに、こっちにはすっかりわかっているんだ。君のいないあいだに、今の床屋の口から大変なことがれたのだ。
白基竜 安さんのことでか? 何だ。どんなことだ。
 
李春華 (階段を上りながら)いま熱いお粥ができましたから、皆さんでちょっとすましてから――。
  
白基竜 僕にはさっぱり解らないが、安さんがどうかしたんですか。いったい何があったんです。
朴鳳錫が促して、二人は急いで出ていく。
李春華 では、あとの人だけで御飯にしましょうか。
李剛 (いらいらして)いや。二人が帰ってから、みんな一緒に食おう。
鄭吉炳 (ばつの悪い空気を感じて)今日は十七日でしたね。
誰も答えない。開け放したドアの外を行李を抱えた安重根が通って、すぐ物蔭に隠れる。
 ()××()
 
李剛 (ぼんやりと)そうだ。そうしてくれたまえ。
クラシノフ 救世軍の前でやろうじゃないか。やつらの楽隊を人寄せに利用するのだ。
   ()
クラシノフ 名案だ。卓さんはどこにいる。
李春華 二階に寝ていますわ。
鄭吉炳 相変らず要領がいいな。
駈け上って行く。間もなく寝呆けている卓連俊を引き立てて降りて来る。
 
卓連俊 (よろよろしながら)卜い者に自分の運命がわからねえように、あんたにゃあ民族の運命がわからねえ、皮肉ひにくだね。お互いに無駄なこった。
 ()
卓連俊は自分の寝床のそばへ売卜の道具のはいった小鞄を取りに行こうとして、上着の下から火酒の壜が転がり出る。
 ()
鄭吉炳とクラシノフは小冊子の束を抱えて出て行く。古ぼけた手鞄を提げて卓連俊が続く。李剛はパイプを吹かして、じっと洋燈の灯に見入っている。間。
李春華 (静かに李剛へ近づいて)あなた、みんな外へお出しになったのね。何かお考えがあるんでしょう?
 
李春華 そうね。そうしましょう――では、柳さん、このひまに一風呂浴びて来ましょうか。
柳麗玉 (物思いから呼び覚まされて快活を装い)え? ええ。お供しますわ。
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安重根 (微笑して)しばらくでした。
不安らしく階段の上に耳を澄ます。
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安重根 すぐ前の往来で奥さんと柳に会いましたが、二人とも気がつかないようでしたから、黙って擦れ違って来ました。
李剛は無言でうなずいて、起ってドアのほうへ歩き出しながら、そっとルバシカの下へ手を入れて財布に触ってみる。安重根も行李を抱えて続こうとする。
李剛 (戸口で振り返って)君、洋燈ランプを――。




       5






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李剛 朝鮮の着物には個性がないからねえ、忍術には持ってこいだよ。
安重根 何と言いましたっけね、あの角の床屋、来ましたか。
 
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 () 
安重根 (弁解的に)先生、私は家族を迎えにハルビンへ行くんです。
李剛 (笑う)それもいいだろう。
安重根 (懸命に)ほんとに家族を迎えに行くんです。
 ()()使()()
安重根 すると張首明は、頼んでとおりに、私と親しくしているような口振りだったんですね。
李剛 (心配そうに)朴鳳錫だの白基竜だの、言うなといっても言わずにはいられない人間だからねえ。
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 調使
  
 
 
  
李剛 (冷淡に)それもいいさ。だが、自分の名を美化するためには、人の純情を翻弄してもかまわないものかね。
 
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  鹿鹿
李剛 (笑い出して)それはどういう論理かね?
   
李剛 (微笑)まったくそのとおりだ――。(間)おお、君、飯はまだだろう?
 
 ()()
 
 
 
李剛 (低声に)人気者は気骨が折れると諦めるさ。
 ()
李剛 (不思議そうに)君は何を苦しんでいるのかね。
 ()
 ()()
安重根 (低く笑って)しかし先生、私はどういうものか、この計画は、何らかの形で最初あなたから暗示を受けたような気がしてならないんですがねえ。
李剛はぎょっとして起ち上る。安重根は草に寝たまま、感情を抑えた声で続けている。
 
  
 ※(「てへん+毟」、第4水準2-78-12)()()
  
安重根 (激昂して起ち上る)負債じゃあありませんか。僕は自由人を標榜ひょうぼうして伊藤公暗殺――。
李剛 安君! 君、そんなことを大きな声で言っていいのか。
  ※(「足へん+宛」、第3水準1-92-36)
李剛 (笑いながら)いったい君はどうしようというのだ。
安重根 同志が聞いて呆れる。あいつらはただ、私を追い詰めて騒いでいれば幸福なんです――。
  ()()
安重根 (機械的に受取って)御免です! 同志なんかというおめでたい集団力に動かされて――嫌なこってす。誰が他人ひとのお先棒になるもんか! 僕はそんなお人好しじゃあないんだ。
と手の札束に気がついて愕く。
安重根 (追いかけて)先生、これ、どうしたんです。こんなにたくさん――。
李剛 飯を食って、余ったら旅費のたしにするさ。
安重根 (警戒的に)旅費――?
李剛 (声を潜めて)安君、金は充分か。
安重根 (ぎょっとして飛び退く)金?――何の金です。
 
 
李剛 (強く)よろしい! 家族を迎えにハルビンへ行きたまえ。
二人は探るように顔を見合って立っている。長い間。
李剛 (低声で)今となっては同志が黙っていまいよ。こんなに知れていることだからねえ。
間。
 
李剛 (冷く)自首! それもいいだろう。いまさかんに日本の御機嫌を取っているロシアのことだから、警察は大よろこびだ。
 
安重根は革紐で行李を引きずり、俯向いて歩き出しながら、ゆっくり自分に言い続ける。
 




       6




綿



調


青年A (一隅から)韓国を踏台にして満洲へ伸びようとする日本の野心は、誰に指摘されなくたってわかっているんだ。
青年B (他の側から)おい、そう言えば、今度伊藤が来るのも、ハルビン寛城子間の東清鉄道を買収するためだと言うじゃないか。
青年C (起ち上って)今でさえ日本は、満洲から露領へかけてのさばり返っている。そんなことになろうものなら、俺たちの運動はいったいどうなるというんだ。
 
青年らはしきりに首肯く。
同志一 (ストウブの前から青年Aへ言っている)それは君、噂だけだよ。実際前にも一度そんな話があったけれど、条件が折合わないで廃棄されたんだ。
 使
青年C (大声に)そんなことはどうでもいい。おれはたった一つのことだけ知っている!
青年E (腰掛けに仰臥していたのがむっくり起き上って)そうだ! ぐずぐずしていると、おれたちの運動は眼も当てられないことになるんだ――。
 
青年E 安重根だ!
とドアへ走る。青年四五人が「安重根だ。安重根が来た!」と叫びながら続いて、青年Fを先頭に戸外へ駈け出る。
声 コレア・ウラア! コレア・ウラア!
家の前へ来かかる。室内でも皆足踏みに合わして、「コレア・ウラア」の合唱になる。同志一、二をはじめ多勢窓へ駈け寄って硝子戸を開ける。
同志一 安君! 安重根君!
いま出て行った青年Fらとともに禹徳淳と白基竜が下手の窓外を通り、すぐにドアからはいって来る。
同志二 (失望して)何だ、安重根じゃないのか。
禹徳淳 (昂然と)コレア・ウラア! やあ、みんな揃ってるな。
一同はがやがやはいって来て元の位置に戻る。白基竜は悄然と隅の腰掛けにつき、卓子に俯伏す。
同志一 (禹徳淳へ)いったい安重根さんはどうしたんです。どこにいるんです。
 
黄成鎬 徳淳さん、安さんはまだっかりませんかね。皆さんこうしてお待ちかねだが――。
上手、別室のドアがあいて、「ちょいと。」と黄成鎬を呼ぶ妻黄瑞露の声がする。
ドアの前の青年 (振り返って)おやじさんかい。(黄成鎬へ)おい、おかみさんが呼んでるぞ。

禹徳淳 (今の黄成鎬の問いを笑いに紛らして)ははははは、君たちはこの、火のないストウブを囲んでどうしようというんだ。
 
同志一 (ストウブのふたをあけて黄成鎬へ)おやじ! 火を入れろ。
同志二 石炭はどこにある。
 ()
 ()()
 
青年H はっはっは、あんなことを言う。
青年Eは倒れていた腰掛けを起して馬乗りになっている。
青年E しかし、さっきの話ですがねえ、僕あ伊藤がハルビンへやって来る真の目的は、鉄道買収などとそんなちっぽけなことではあるまいと思うんだ――。
禹徳淳 何の話だ。例の一件かい。
 
 ()()
この以前より禹徳淳は、電燈を覆っている赤い紙片を※(「てへん+毟」、第4水準2-78-12)り取って、青年たちの騒然たる会話の中で、声高に読み上げている。
 調
敵の汝に逢わんとて
水陸幾万里
千辛万苦を尽しつつ
輪船火車を乗り代えて
露清両地を過ぐるとき
行装のたびごとに
天道様に祈りをなし
イエス氏にも敬拝すらく
平常一度び逢うことの何ぞ遅きや
心し給え心し給え
東半島大韓帝国に心したまえ




       7


()



()








黄瑞露 柳さん、ちょっと手を貸して下さいよ。これ――。
安重根は病的に愕く。
黄瑞露 (びっくりして)何ですよ。何をあわててるんです。
 
 
柳麗玉 あら、もうおやすみになったんだろうと思っていましたわ。すみません。
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黄瑞露 (隣室の騒ぎに眉をひそめて)何でしょうねえ、夜中だというのに――。(柳麗玉へ)今夜は此室ここで我慢して下さいね。
柳麗玉 どこだって構いませんわ。
黄瑞露 (笑う)そんなどころじゃないんでしょう? 久しぶりですものね。
二人は床を敷き終る。安重根は疲れた態でぼんやり椅子に掛けている。
柳麗玉 (嬉し気に)嫌な小母さん! ちょっとお話しにならない?
 
柳麗玉は心配そうに安重根を凝視める。「安重根ウラア!」の声が隣室に起る。
 ()()
柳麗玉 (得意げに)先生の奥さまと一緒に、洪沢信さんのとこへお湯へはいりに行って、あたしだけ一足先に出て来ると、洪さんの横丁でばったり――。
黄瑞露 でも、よござんしたねえ。
  ()
 
黄瑞露去る。長い間。
安重根 (苦笑)そいつあありがたい。そんなに人相が変ったんなら、誰に会ってもわかるまい。
隣室では禹徳淳の歌の音読がはじまっている。柳麗玉は忍び笑いする。
 
柳麗玉の笑いは涕泣すすりなきに変っている。
安重根 (憮然と)何だ、泣いているのか。
 
安重根 (自嘲的に)ふん、おれは家族を迎えにハルビンへ行くんだ。
 

安重根 (陽気に独語)ハルビンは寒いからな。
最後に露人の羊皮外套パルナウルカを取り出す。
安重根 これだ。




       8







禹徳淳 (大声に)
かの奸悪なる老賊め
われわれ民族二千万人
滅種の後に三千里の錦綾江山を
無声の裡に奪わんと
青年らは凝然と聞き入っている。
青年J (突然叫ぶ)何でもいいや。やっつけりゃあいいんじゃねえか。(禹徳淳へ)なあ、小父さん!
黄成鎬 静かにしてもらいてえね。もう何時だと思う。
青年K 何時だってかまうもんか。安重根さんが来るまではけえらねえぞ。
  
青年M 誰が安さんのほかに、生命を投げ出して決行しようという者がある。(叫ぶ)コレア・ウラア! 安重根ウラア!
禹徳淳 (手の赤紙を読み続ける)
究凶究悪惨たる手段
十強国を欺きて
内臓を皆抜き取りながら
青年N それは誰の作だ。
 

同志二 (配り歩きながら)みんな持ってるだろうが――。
青年O いつ出したんだ。おれはもらわなかったぞ。
青年P 一枚下さい。
青年Q 長いんで、お終いのほう忘れちゃった。
禹徳淳 三節からだ。一緒に読もう。
黄成鎬 大きな声は困りますよ。ここいら露助の憲兵がちょいちょい廻って来てやかましいんでね。
青年R 何でえ。びくびくするねえ、おやじ。
禹徳淳 (つづけて)
十強国を欺きて
内臓を皆抜き取りながら
合唱 (はじめは低く、おいおい高く、後半は各人憤激の大声で統一を欠く)
何を不足に我慾を満たさんとて
鼠の子のごとくにここかしこを駈け歩き
誰をまた欺き何れの地を奪わんとするや
されど至仁至愛のわが上主は
大韓民族二千万口を
ひとしく愛憐せられなば
かの老賊に逢わしめ給え
逢いたりな逢いたりな
ついに伊藤に逢いたりな
汝の手段の奸猾は
世界に有名なるものを
わが同胞五六の後は
われらの江山は奪われて
行楽ともになし得ざりしを
甲午年の独立と
乙巳年の新条約後
ようよう自得下行の時に
今日あるを知らざりしか
犯すものは罪せられ
徳を磨けば徳到る
汝かくなるものと思いしや
ああ我等の同胞よ
一心団結したる上
外仇を皆滅して
わが国権を恢復し
富国強民図りなば
世界のうちに誰ありて
われらの自由を圧迫し
下等の冷遇なすべきや
いでいざ早く合心し
彼らの輩も伊藤の如く
ただ速かに誅せんのみ
立て勇敢の力持て
左側の台所へ通ずる扉に青年Gがりかかって、先ほどからドアの向うへ注意を凝らしている。
青年G (手を上げて一同を制する)しっ! 静かにしろ。話し声が聞える――。
ぴたりと音読が止む。
黄成鎬 (呆けながら不安げに)誰もいねえはずだが――。
 
   
青年L 怪しからん。おれたちがこんなに待っているのに、裏から忍び込んで知らん顔しているなんて――。
青年M 馬鹿! そこが安さんの好いところじゃないか。
禹徳淳 (冷然と読みつづけて)
国民たる義務を尽さずして
無為平安に坐せんには
青年たちは一斉に起ち上って「われらの安重根! 安重根ウラア!」と口ぐちに歓呼している。
黄成鎬 (知らぬふりで台所のドアへ歩き出す)安さんが裏から来た? どれ見て来ましょう。
白基竜 (卓子から顔を上げて呼び停める)おやじ、待て!(禹徳淳へ)言ったほうがいい。ほんとのことを――安が迷っているということを言うべきだ。
しんとして一同禹徳淳を凝視める。
禹徳淳 (読み終る)国本確立は自ら成ることなかるべし。
国民たる義務を尽さずして
無為平安に坐せんには
国本確立は自ら成ることなかるべし
一同呆然と、台所のドアと禹徳淳を交互に見守る時、硝子窓を荒々しく開けて朴鳳錫が顔を出す。
朴鳳錫 (大声に)スパイは来ていないか。(同志一、二ら多勢窓際に駈け寄る)
同志一 スパイ――?
朴鳳錫 安のやつだ。安重根はスパイなんだ。
とドアから駈け込んで来る。一同は罵り噪いで取り巻く。
 ()   
白基竜は無言で閉めきった台所の扉を指さす。
朴鳳錫 台所にいるのか。何故みんな――畜生!
一同激昂のうちに朴鳳錫はドアへ突進する。禹徳淳が抱き停める。
禹徳淳 こら、早まったことをするな。安君の真意を突き留めてから――おい、朴を抑えろ!




       9


()
安重根 (快活に)ルバシカの上から背広を着て、おまけにこのロシア人の大きな外套――とくると、考えものだぞ。日本人には見られないかもしれない。
柳麗玉 (一緒に考えて)今日お買いになったのね。この洋服や何か――でも、変装のことなんか、李剛先生は何ておっしゃって?
「国民たる義務を尽さずして、無為平安に坐せんには――。」禹徳淳の繰返しがはっきり聞えてくる。
 
跫音人声など突如隣室の騒ぎが激しくなり、境の扉へぶつかる音がする。
柳麗玉 (隣室に注意して不安げに起つ)安さん! 何でしょう――。
   使
隣室の騒擾が高まって、ドアが開かれそうになる。柳麗玉はドアへ走って背中で押し止めようとする。
柳麗玉 安さん!
   
柳麗玉 (必死にドアを押えながら)早く外套を脱いで、行李を――。

朴鳳錫 (柳麗玉を押し退けて)安重根! 貴様は――。

柳麗玉 (朴鳳錫を止めて)何をするの? 静かに話してわからないことなの?
背年C その女も食わせ物だぞ。一緒にっちまえ。
()
柳麗玉 (出て行って間もなく裏口から慌しく駈け込んでくる)憲兵ですよ! 憲兵ですよ!
露国憲兵五六人、佩剣を鳴らして裏口から走りこんでくる。
憲兵一 (大喝)何かあ、夜中に。
憲兵二 静かにしろっ! 騒ぐとぶっ放すぞ!

 
憲兵三 けろ、燈を!
退姿
 
 使使
上官 何? 博奕の喧嘩か。
 ()()
憲兵四 (上官へ)自分は知っておるであります。ここは有名な朝鮮人の博奕宿であります。
上官 ほほう、君もちょいちょい来ると見えるね。
憲兵四 違うであります。自分は――。
上官 黙っておれ! (倒れている安重根を軽く蹴りながら)こいつは死んでいるのか。

黄成鎬 (安重根を覗いて)へへへへへ、なに、ちょいと眠ってるだけでございますよ、眠ってるだけで。
自然らしく上官の傍を通る拍子に、そっとそのポケットへ紙幣を押し込む、憲兵ら一斉に咳払いをする。
 
退
  
よろめいて禹徳淳の手を握る。一同呆然と見守っている。
安重根 (力強く)夜が明けたな。(裏口のそとに空が白んで、暁の色が流れ込んでいる)汽車の時間は、調べてあるのか。
禹徳淳 (手を握り返してき込む)行ってくれるか。ハルビンへ行ってくれるか。
 




       10






調()()()()





()()()()()()314--1()()調()()


 ()
 鹿
老婆 おや、それじゃあきっと自家うちの若い人たちと一緒ですよ。安重根とかいう人が来たと言って、商売をおっぽり出して駈け出して行きましたから。
 ()
老婆 そうですともさ。
 
反対隣りの乾物屋に灯が点く。手風琴と唄声は消えようとして続いている。間。
 
と古着屋に入る。
劉任瞻 東は東、西は西。若い者は若い者、年寄りは年寄りだ。

劉東夏 (自宅を指して)ここです。ちょっと待っていて下さい。
家へはいろうとする。
禹徳淳 (追い止めて)君、大丈夫か。一人でお父さんをうんと言わせられる自信があるのか。
安重根 独立党の仕事で、僕らと一緒に行くなどと言ってはいけないぜ。
 ()()
 
 
 
劉東夏は家に入る。
安重根と禹徳淳は急ぎ下手へ歩き出す。
 
 ()()使
  

安重根 (やり過しておいて)柳さん!―― やっぱり君だったか。
  
 退
 
禹徳淳 (苦々し気に)とうしたんです。柳さんはよく理解して、あの朝、ウラジオの停車場で気持ちよく見送ってくれたじゃないですか。
柳麗玉 (安重根へ)すぐつぎの汽車でウラジオを発って、今着いたところですの。李剛先生が、きっとこのポグラニチナヤの劉任瞻というお薬屋に寄っているだろうとおっしゃって――。
安重根と禹徳淳は顔を見合わせる。
柳麗玉 (にこにこして)忘れ物をなすったんですってね。あたし李剛先生に頼まれて、その忘れものを届けにまいりましたのよ。
禹徳淳 忘れ物――って何だろう。
 
禹徳淳 どうして先生は、おれたちがここへ寄ったことを知ってるんだろう。
 使
包みを受け取って地面にしゃがみ、ひらく。紙箱が出る。
禹徳淳 (覗き込んで)何だい、ばかに厳重に包んであるじゃないか。
安重根は無言で箱の覆を取る。拳銃が二個はいっている。
安重根 (ぎょっとして覆をする。静かに柳麗玉を見上げる)李剛さんが、僕らがこれを忘れて行ったと言ったって?
  
安重根 そして李先生は、これを僕らに届けるために君を走らせた――。

安重根 (苦笑)二挺ある。何方でも採りたまえ。
 
 
禹徳淳 朝鮮人コレアントマス? 面白い。それを君の名前にするか。
二人はじっとめいめいの拳銃に見入っている。手風琴と唄声が聞こえて来る。
 
安重根は二挺の拳銃を箱に納めて、手早く元通りに包んでいる。
禹徳淳 そうだ。女づれだと、かえって警戒線を突破するのに便利かもしれないな。
夕刊売りの少年が上手から駈けて来る。
夕刊売り 夕刊! 夕刊! ハルビンウェストニック夕刊!
三人の様子に好奇気ものずきげに立ち停まる。禹徳淳が夕刊を買って下手へ追いやる。
 使使
柳麗玉 (勢い込んで、安重根へ)あたし其包それ持ってくわ。
  
禹徳淳 (紙面を白眼んで)うむ。逢いたりな逢いたりな、ついに伊藤に逢いたりな――。
安重根 二日早くなったな。曹道先は知ってるんだろうな。
 

劉任瞻 (戸口に立ち停まって)用が済んだらすぐ帰るんだぞ。ハルビンは若い者の長くおるところじゃない。
 




       11




湿










 ()()
柳麗玉 (寄り添って)そりゃそうだわ。徳淳さんなんかと、較べものにならないわ。
安重根 (独語)ほんとうに心の底を叩いてみると、おれはなぜ伊藤を殺そうとしているのかわからなくなったよ。
柳麗玉 (びっくりして離れる)まあ、安さん! あなた何をおっしゃるの――?
 
柳麗玉 (熱心に縋りついて)どうしたのよ、安さん! 今になってそんな――あたしそんな安さんじゃないと思って――。
安重根 (思いついたように)おい、こっそりどこかへ逃げよう。そっして二人で暮らそう!
柳麗玉 (強く)嫌です! こんな意気地のない人とは知らなかったわ。なんなの、伊藤ひとりっつけるぐらい――。
 ()()
 鹿
 
沈思する。間。
 
柳麗玉 いいえ。写真でなら何度も見たわ。
安重根 (急に少年のように快活に)ちょっと下品なところもあるけれど、こう髯を生やして、立派な老人だろう?
 
安重根 僕は三年間、あの顔をしっかり心に持っているうちに――さあ、何と言ったらいいか、個人的に親しみを感じ出したんだ。
柳麗玉 (かすかに口を動かして)まあ!
安重根 ははははは、やり方は憎らしいが、人間的に面白いところもあるよ。決して好きな性格じゃないが――。
柳麗玉は無言を続けている。
 ()()
柳麗玉 解るわ、その気持ち。
 
 ()()
 
柳麗玉 (気味悪そうに)安さん! あたし情けなくなるわ。
   
柳麗玉 (うっとりと顔を見上げて)そうやって一生懸命に何か言っている時、安さんは一番綺麗に見えるわね。
 
 
ニイナ・ラファロヴナが物乾しの台の上り口に現れる。
ニイナ まあ、お二人ともこんなところで何をしているの? 寒かないこと?
柳麗玉 (安重根から離れて)あら、うっかり話しこんでいましたのよ。
安重根 何か用ですか。曹君はどうしました。
ニイナ いいえね、今夜でなくてもいいんでしょうと思いましたけれど、これを持って来ましたの。
手に持っている鏡を差し出す。
安重根 あ、鏡ですね。
 
安重根 いいんです。ここでいいんです。
と鏡を受け取ろうとする。
ニイナ (驚いて)まあ、安さん、その手はどうしたんですの。
安重根 手? 僕の手がどうかしていますか。
ニイナ どうかしていますかって、顫えてるじゃないの、そんなに。
安重根はニイナへ背中を向けて、自分の手を凝視める。自嘲的に爆笑する。
 
 ()()
安重根はふっと沈思する。
 
安重根は手摺りに倚って空を仰いでいる。
 
安重根 (どきりとして顔を上げて、鋭く)何です。
 () 
 
 

柳麗玉 その鏡どうなさるの?
安重根 屋下したへ降りて、もう一度最後にあの変装をして鏡に映してみようと思って――。
あわただしい跫音とともに昂奮した禹徳淳が物乾し台へ駈け上って来る。
  調()()
安重根 (禹徳淳の手を振り放して、ぼんやりと)そうか――。
禹徳淳 (いらいらして)どうしたんだ君あ! (どなる)こんな素晴しいレポがはいったのに何をぽかんとしている。
  
禹徳淳 (勢い込んで)これからすぐ南へ発って――。
   
禹徳淳 どうせ明日一日ここにぶらぶらしていたってしようがない。
 
  曹道先を案内に劉東夏が駈け上って来る。
 ()()() 
安重根 (きびきびした口調)護照のほうはどうだ。大丈夫か。
禹徳淳 東夏君にすっかりやってもらってある。
安重根 汽車はまだあるな。
劉東夏 急げば間に合います。
禹徳淳 蔡家溝までか。
 鹿
と先に立って急ぎ物乾しを降りかける。
禹徳淳 (続いて)写真をうつしておけばよかったなあ、君と僕と――。
安重根 写真なんか、まだ撮せるよ、明日蔡家溝ででも。
金成白が駈け上って来て、上り口で衝突しそうになる。
金成白 (安重根へ)先生、いよいよ――。




       12




宿()()



()()


    
劉東夏は眼を覚ます。
  
劉東夏 いけないよ、そんなところから顔を出しちゃあ。叱られるぞ。
禹徳淳が寝台に起き上る。女はあわててドアを閉めて去る。
禹徳淳 また淫売かい。
劉東夏 (笑って)ええ、あいつとてもうるさいんです。
禹徳淳 何時だい。
劉東夏 さあ――今三時打ったようですよ。
禹徳淳 かわろうか。
劉東夏 いいんです。もう少ししたら――。
禹徳淳 起したまえ。かわるから。
禹徳淳が再び寝台に横になると同時に、弾かれたように安重根が起き上る。
安重根 ひどい汗だ。(腋の下へ手をやって)こんなに寝汗をかいている。
 
安重根もふたたび枕に就き、劉東夏は戸口の椅子で居眠りを続け、しんとなる。長い間。
 
禹徳淳は空寝入りをして鼾をかいている。長い間がつづく。
 ()()()()()
叩戸ノックといっしょにドアを蹴り開けて、蔡家溝駅駐在セミン軍曹と部下四五人が、支那人ボウイを案内に荒々しく踏み込んで来る。
軍曹 (大喝)起きろ! 検査だ!

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   ()()
 ()
軍曹 飴屋か。道具はどこにある、道具は。
禹徳淳 はい。道具は、預けてございます。
軍曹 どこに預けてあるのか。
禹徳淳 この町の親方のところに預けてございます。
 
禹徳淳 へ?
軍曹 飴屋は儲かるかと訊いているんだ。
軍曹は安重根を白眼みつけて、部下を纏めてさっさと出て行く。支那人のボウイが、その背ろ姿に顔をしかめながらドアを閉めて続く。
  
安重根 (寝台に腰掛けて)僕は徳淳が羨しいよ。明日にも、世界中がびっくりするようなことをやろうというのに、とっさに上手に飴屋に成り済ましたりなんか――神経が太いぞ。
  ××
安重根 ××戦争? 不思議なことを言うねえ。誰が戦争をするんだ。
 
安重根 (哄笑)笑わせないでくれ。だから僕は、君が羨しいと言うんだ。
  
安重根 (話題を外らすように、劉東夏へ)十二時ごろに汽車の音がしたねえ。夢心地に聞いていた。
禹徳淳 (激しく)安君! 君は同志を信じないのか。
劉東夏 (戸口の椅子から)あれは貨物です。
安重根 汽車はあれきり通らないようだねえ。(禹徳淳へ笑って)三夾河まで行った方がよかったかな。
禹徳淳 しかし、蔡家溝は小さな駅だが、列車の行き違うところで、停車時間が長いというから降りたんじゃないか。
安重根 (劉東夏へ)列車往復の回数はわかっていますね。
 便
先刻の支那人ボウイを従えて駅長オグネフがはいって来る。
駅長 (にこにこして)ちょっと調べさせて頂きます。
禹徳淳 (俯向けに寝台に寝転がる)またか――うんざりするなあ。
駅長 (劉東夏を見て)あなたはなぜそんなところに掛けているんですか。
劉東夏 ベッドが二つしかないもんですから――。
 
禹徳淳 はいはい、(元気よく起き上って肘を張る)答えますとも! さあ、何でも訊いて下さい。
駅長 なに、ほんの形式ですよ。
 ()
駅長 (とぼけて)さあ、何ですか、私どもは上司の命令で動いているだけですから――(禹徳淳へ)三人御一緒ですか。
禹徳淳 はい。そうです。
駅長 どちらからおいででした。
禹徳淳 旅の飴屋なんです。ハルビンから来ました。
駅長 これからどちらへ?
禹徳淳 明朝三夾河、寛城子の方へつつもりです。
駅長 ありがとう。お邪魔しました。
()
 ()××()
  
禹徳淳 (顔色を変える)おいおい、今になって君は何を言い出すんだ――。
 調()()()
()()  姿調
女一 (禹徳淳へ低声に)ちょっと此室ここを貸して下さいね。
侵入者一同は部屋の三人に頓着なくささやき続ける。
男一 いや、あわてた、あわてた。眼も当てられやしない。
女二 サアシャさんはやられたらしいわね。
男二 ざまったらないよ。今夜にかぎってばかに脅かしやがる。
女三 えらい人が汽車で通るからって、家の中で何をしようとかまわないじゃないのねえ。
男三 憲兵のやつ何か感違いしてるらしいんだ。とんだ災難だよ。
女一 (耳を澄まして)しっ!
口に指を当てる。ドアが細く開いてホテルの主人ヤアフネンコの禿頭が現れる。
女一 あら、ヤアフネンコのお父つぁん、もう大丈夫?
 
女たちは銘めいの男を伴って音を忍ばせて出て行く。
ヤアフネンコ (ドアから顔だけ入れて)お騒がせしましたな。はい、お休みなさい。
禹徳淳 (安重根が着がえしたのに気づいて愕く)なんだい、今からそんな物を着込んで。(駈け寄る)どこへ行くんだ?
安重根 (着がえを済まして)おれは嫌だよ。(戸口へ進む)ハルビンへ帰るんだ。
禹徳淳 (血相を変えて追い停めようとする)安重根! 君――なにを馬鹿な!
安重根 何をするんだ! (振り払う)
禹徳淳 (激昂して)貴様、貴様――変節したな。裏切るつもりか。
安重根 (ドアの前で振り返って、静かに)変節も裏切りもしない。おれはただ、もう伊藤を殺してしまったような気がするだけだ。
禹徳淳 (呆然と佇立していたが、気がついたように戸口ドアへよろめいて立ち塞がる)それは何のことだ。
安重根 (冷然と)伊藤を殺してしまったような気がして、淋しくて仕様がないんだ。僕はハルビンへ帰るよ。
   
  ()
禹徳淳 (じっと睨んで)詭弁を弄すな、詭弁を。
  
言い終って禹徳淳を突き放し、身を翻して室外に出るや否、ドアを閉める。
   
()
    




       13




()()()()()()()()

便

()()()


 
伊藤 自分がこのたびハルビンを訪問致すのは、なんら政治外交上の意味があるのではなく、ただ新しい土地を観、天下の名士ココフツォフ氏その他に偶然会見するのを楽しみにして行くに過ぎませぬ。
庄司が背後から椅子を奨めるが伊藤は掛けない。
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       14






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調

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「竹かんむり/瓜」    314-上-1