あまり暖いので、翌日は雨かと思って寝たが、朝になってみると、珍らしくも一面の銀世界である。鵞がち鳥ょうの羽毛を千ち切ぎって落すかと思うようなのが静かに音をも立てず落ちている。 私はこういう日には心がいつになく落着く。そうして勤めのない者も仕合せだなと思うことがある。私たちは門を閉めて今日は打うち寛くつろいで、置おき炬ごた燵つに差向かった。そうしてこういう話をした。 ﹁お前は何かね、私とこうしていっしょになる前に、本当に自分の方から思っていたというような男があったかね﹂ ﹁ええそれはないことはありませんでした。本当に私がお嫁に行くんなら、あんな人の処に行きたいと思ったのが一人ありました。それがしばしば小説なんかに言ってある初恋というんでしょう。それは一人ありましたよ。あったといってどうもしやしない。それこそただ腹の中で思っていただけですが、あんな罪もなく思ってたようなことは、あれっきりありませんね。ちょうどあの、それ一葉女史の書いた﹃十三夜﹄という小説の中に、お関という女が録之助という車くる夫まやになっている、幼おさ馴なな染じみの煙たば草こ屋やの息子と出会すところがあるでしょう、ちょっとあれみたようなものです。 私の家、その時分はまだ米屋をしていたころです、ですからもう十年にもなります、すると問屋から二十ばかりの手代が三日置きくらいに廻ってくるんです。それがいかにもシャンとした、普通な口数しか聞かない、おとなしい男で、私は﹃ああ嫁にゆくならこういう人の処に行っていっしょに稼かせぎたい﹄と思って――その時分は、米屋の娘だからやっぱし米屋か酒屋かへ嫁に行くものとただ、普通のことしか思っていなかったのです。何でもあの時分が大事なんですねえ。 そりゃ縁不縁ということもあり、運不運ということもありますが、やっぱしそれ相応な処へ、いい加減な時分に、サッサと嫁かたづいてしまわねばとんだことになってしまう。どうしたって私とあなたとは相応な縁じゃないんですものねえ。――そうして私、その手代が三日置きに廻ってくるような気がしましたよ。すると、米こめ搗つきの男なんかが、もう私の心持を知っていて、その男が来ると、姉さん来ましたよと言ってからかうんです。からかわれてもこっちは何だか嬉うれしいような気がしました﹂ ﹁フウ。それからどうなったの﹂ ﹁別にどうもなりゃしません。ただそれだけのことで、――そうしているうちに兄さんにあの嫁が来て、それから、私は自う家ちを飛びだすようになったのが失敗の初りになったんです。 それから先の連つれ合あいに嫁いでさんざん苦労もするし、そりゃおもしろいことも最はじ初めのうちはありましたさ。けれど罪もなく、どうしようなんという、そんなにはしたない考えもなく、﹃あんな人がいい﹄と、本当に私が思ったのは、その時ばかりです。先の連つれ合あいに嫁いたのだって、傍の者や、向うがヤイヤイ言ってくるし、そこへもってきて、自分は、もう、あんな女房を取るとすぐ女房に巻まかれて、妹を袖そでにするような、あんな兄の世話には一生ならぬ。自分は自分で早く身を固めようと思っていた矢先だったから、それほどにいうものならと、ついあんな処へ嫁ゆくようになったんです。けれどもその時は、何もこっちから思ったんじゃない。私の思ったのはその手代きりです――どうしましたか、私は自う家ちを飛びだしてから妙な方に外それてしまったから、ただそれだけのことです﹂ ﹁フウ、……そうだろう、お前にはそんなだらしのないこともなかったろう。他人の腹の中は割ってみなければ何とも言えないというけれど、――そりゃそうだろう。お前が本当に男の肌を知っているのは、私と先の亭主とだけだろう。こうして長くいればたいてい察しられるものだよ。……私には男だけにだいぶあるよ﹂ ﹁ああ、そうそうそれからこんなことがまだありました﹂ 女はだんだん往むか昔しの追憶が起ってくるというように、自分の心の底に想い沈んでいるというようであったが、自分の話に興を感ずるといったようにこう言った。 ﹁私は別に縹きり致ょうといっては、そりゃよくないけれど、十七八から二十ごろまでは皮膚の細かい――お湯などに行って鏡の処に行って自分でもどうしてこう色が白いだろうと、鏡に向いて自分でも嬉しいようで、ツト振返ってお湯に来ている人を見廻すと、皆な自分より色は黒い。そう思うと――若い女というものはおかしなものですねえ。――そう思うと自うぬ惚ぼれるんです。その時分は、私はそりゃお洒しゃ落れでしたから。――皆なしばしばスマちゃんくらいお洒落はないと言い言いしたくらいです。 すると、――あれはいつでしたか、何でもお母さんと私と神楽坂の傍の軽子坂の処に隠居していた時分です。 あれはちょうど私が二十歳の時分でした。春の宵の口に、私独ひとりでお湯から帰ってくると、街の角の処で、どこの男か、若い男が突立っている。こっちは誰か知らないのに、先は私の名を知ってて﹃おスマさんおスマさん﹄と言って呼び留める。 私はギョッとして、こんな時、なまなか逃げたり走ったりするのはよくないと思ったから、じっと立ち止って、﹃何か御用ですか﹄って落着いて、そう言った。落着いているようでも、こっちはもう一生懸命で、足がブルブルして動どう悸きがして、何を言ったか自分の声が分らない。……そりゃ私、幼い時分からちょっとしたことにも吃びっ驚くりする性た質ちでしたから。……一遍十六七の時分に、お勝手をしていたら、内庭の米俵の蔭に、大きな蛙がいるのを知らずに踏み蹴って、私その時くらい吃驚したことはなかった。﹃キャッ﹄と言って飛び上って、胸がドキドキしていつまでも止まない、私あんまり吃驚させられて悔しかったから、いじいじして大きな火ひば箸しを持って行って、遠くの方から火箸の尖さきで打ってやった。さんざんぱら打ったらようやくのことで俵の奥の方に、ノソノソ逃げて入った。そうすると、夜になってあんなにひどく蛙を打った。怨うらんで出やしないだろうか、火箸で焼やけ傷どをして困っていやしないだろうか、枕の所にあの何とも言えない色をした蛙が来ているようで、私蒲ふと団んを頭からすっぽり被かぶって明朝は早く起きて、米搗つきの男を頼んで、積み俵を取り除けてもらってみよう。そうしようと思って、一晩寝られなかったことがありました﹂ 私は﹁ウムウム﹂と言って聞きながら、十年も経ってから、十六七の時分に蛙を火箸で打ったことをよく覚えていたり、それよりも蛙を踏み蹴ったくらいを、さも大事のように思ったり、それを火箸で打ったのを、夜じゅう苦に病やんだりする性情をじっと黙って解釈しながら、気楽な、落着いた淡い興味を感じて、そんな女の性質が気に入った。そうして、 ﹁それからその男の話はどうした﹂と前の話の続きを促うながした。 ﹁別にどうと言うことはない。それだけの話ですが、﹃何か御用ですか﹄と言うと、男の方でも何でだか極りの悪るそうに先方だって声が顫ふるえていました。 ﹃あなたは私を知らないでしょうけれど、私はよくあなたを知っています。どうぞ私の言うことを聞いてくれないでしょうか﹄って言うんです。私は﹃そうですか、どういう御用か知りませんが、御用があるなら、私にはお母さんがあるから、お母さんにそう言ってください﹄って、そう言ってやったんです。そうすると、男は何とも言いえませんでした。 けれども私はどうなるかと思って恐かった。そうしているところへちょうど都合よく道を通る者が来合わしたから、私はそれからいっさんに駆かけて戻りました﹂ ﹁フウ、そんなことがあったのか﹂ 私はこう簡単に言った。 私が女といっしょになったのは、言うまでもなく、普通の手続きでこうなったのではない。妙な仲から今のようになったのである。女はその時、もうさんざん苦労を仕抜いて所しょ帯たい崩しであった。私とこうなったについても、それからいっしょになってからも、四年越の今日になるまでには、一口にも二口にも言うことのできない――つまり主として私の性格境遇から由ゆら来いした種々雑多な悲しい思い、味気ない思いもした。もとよりおもしろい思いもした。また不思議な嫉しっ妬ともした。それがためには私は身体が痩やせるまでに悲み悶もだえた。しかしながら、それがどういうことであったか、ここではそれを言うまい。――あるいは一生言わない方がいいかもしれない。いや、言うべきことでないかもしれぬ。断じて断じて言うべきことでない。何となれば自己の私生活を衆人環視の前に暴露して、それで飯を食うということが、どうして堪えられよう! 私は、まだこの口を糊のりするがために貴重なる自己を売り物にせねばならぬまでにあさましくなりはてたとは、自分でも信じられない。 この創き痍ず多き胸は、それを想うてだに堪えられない。この焼け爛ただれた感情は、微かに指先を触れただけでも飛び上るように痛ましい。 で、私は前もって言ったようにただ﹁フム、そんなことがあったのか﹂と言った。 こう言って、私は、その自分の言葉をふと想ってみた。私は、女が、淡い、無むじ邪ゃ気きな恋をしたこともあったかと思ったが、私は、それを嫉ねたましいとは想えなかった。 私は、女といっしょになってから今では何でもない先の夫との仲をひどく嫉んだ。現在不義せられているもののごとく嫉んだ。私はそれがために嫉妬の焔に全身を燃した。それがために絶えず喧けん嘩かをした、そうして喧嘩をしながらも熱く愛していた。愛しながら喧嘩をした、反感と熱愛と互に相表裏して長くつづいた。その時分、女はしばしばこういうことを言った。﹁あなたくらいおかしな人はない。自分で出戻りだってかまわない、と言っていっしょになっていながら、いっしょになれば、出戻りは厭だというんですもの。これが仲に立つ人でもあっていっしょになったのならば話の持って行き場もあるが、二人で勝手にいっしょになっていて、あなたにそんなことを言われて、私は――立つ瀬がない﹂ 私はこの道理にむりはないと思った。そう思ったけれどもいっしょになる前には邪魔にならなかった先の夫の幻影が、今は盛さかんに私をして嫉妬の焔に悶えしめたのであった。 ﹁フム、そんなことがあったか﹂ と言う私の言葉は、どうしてももう、たいした感興から発せられたものとは思えなかった。そうして私は女に向ってこう言った。 ﹁お前とはよく喧嘩をしたり、嫉やき妬もちを焼いたりしたもんだなア。あれっきりだんだんあんなことはなくなったねえ﹂ ﹁ええ、あのころは、あなたが先の連つれ合あいと私との事についてよくいろんなことをほじって聞いた、前の事を気味悪がり悪がり聞いた﹂ ﹁ウム。いろんなことを執しつ固こく聞いては、それを焼き焼きしたねえ。それでもあの年三月家うちを持って、半はん歳としばかりそうであった、が秋になって、蒲がも生うさんの借う家ちに行った時分から止んだねえ﹂ ﹁ええ、あの時分はあなたがもうどうせ、私とは分れるものと思って、前のことなんぞはどうでもいいと諦あきらめてしまったから﹂ ﹁だって、またこうしていっしょになっているじゃないか﹂ ﹁………﹂女は不思議のように、またこの先きどうなるのであろう? と思っているもののようにしばらく黙っていた。 すると、そんなことは考えていたくないというように、 ﹁私、あの時分のように、もう一遍あなたの泣くのが見たい﹂ ﹁俺はよく泣いたねえ。一度お前を横抱きにして、お前の顔の上にハラハラ涙を落して泣いたことがあったねえ、別れなければならない、と思ったから……﹂ ﹁ええ﹂ こう言って、二人はいくらかその時分のことの追憶の興に促うながされたように、じっと互に顔を見合わした。 ﹁俺はもう、あんなに泣けないよ﹂ ﹁そうですとも、もう私をどうでもいいと思っているから﹂ ﹁そうじゃない。もう何もそんなにしいて泣く必要がなくなったからじゃないか﹂ と、言ったが、私は女の言うとおりに、はたして女に対して熱愛が薄くなったために、二人のこれから先の関係について泣けそうになくなったのか、それとも歳月を経ている間に知らず識らず二人の仲がもうどうしても離すことのできない、たとえばランプとか飯茶碗とかいったような日常必ひっ須すの所帯道具のように馴れっこになってしまったのかもしれぬ。私はそれがいずれとも分らなかった。 ﹁お前先の人と別れた時には泣いたと言ったねえ﹂ ﹁ええ、それゃ泣きましたさ﹂ ﹁私ともし別れたって泣いてはくれまい﹂ ﹁そりゃそうですとも。あなたと私とはもしそんなことがあればあなたが私を棄てるんだもの。……私はもうたいした慾はありません。一生どうかこうかその日に困らぬようになりさえすればいい。あなたも本当に、早くも少し気楽にならなけりゃいけません。仕事を精出してくださいよ﹂ ﹁まあ、そんなことは、今言わなくったっていい。……先の別れる時に泣いた。……お前いったん戻ってからも、後になって、お前が患わずらっているのを聞いたとかいって、見舞に来て、今までのとおりになってくれって、向うでまたそう言って頼んだんだろう﹂ 私はこれまでにもう何度も聞き古したことを聞いた。 ﹁ええ、そう言って、たって頼みましたけれど、私どうしても聞かなかった。そりゃあなたと違って親切にゃあった。つまり親切に引かれて辛抱したようなものの、最初嫁いで行き早々﹃ああこれはよくない処へ来た﹄と自分で思ったくらいだから、何と言ったって、もう帰りゃしません﹂ ﹁私も、もういつかのように、お前の先せんの連つれ合あいのことを、私とお前とがするように、﹃ああもしたろう、こうもしたろう﹄と思い沈んで嫉くようなことはしない、……けれどもお前だって少しは思いだすこともあるだろう﹂ ﹁不断は、そりゃ忘れていますさ。けれどもこんな話をすると、思いださないことはないけれど、七年にも八年にもなることだから忘れてしまった。もうそんなおさらい話を廃よしにしましょう﹂ ﹁まあまあ。いいじゃないか。して聞かしてくれ。……たまには、それでも会ってみたいという好奇心は起らないものかねえ﹂ 女は黙ってじっと考えていたが、少し感興を生じたような顔をして、 ﹁ああ、そうそう、一度こういうことがありました。あれは何でもあなたが函はこ根ねに行っていた時分か、それとも国に行ってらしった時分か、たしか去年の春だったろうと思う。私、買い物に×町の通りに行って、姉といっしょに歩いてたんです。 そうして呉服屋であったか、八百屋であったかの店みせ前さきに、街の方を背にして立っていると、傍に立っていた姉が、﹃あれあれ﹄って不意に私の横腹の処を突くから私、何かと思って﹃えッ、何ッ﹄って背うし後ろを向くと、姉がそっちじゃない。あっちあっちってまだ一間か一間半ばかしも行っていない方を頤あごで指し﹃間抜けだねえ。お前、あれが分らないか﹄と言うんです、それが先の連つれ合あいなの。――ですから姉が初め私の横腹を突いた時分に、ちょうど背後のところを通っていたくらいでしょう。それでもまだ先さ方きの横顔だけは見えました。――それが自分の兄さんの嫁と二人連れなの。――私より兄さんの嫁は遅く来て私が戻ってくる時分には、以前は商売人であったとかいって病身でひどく瘻やつれていたが顔立ちはいい女だから、病気も直ったとみえて、私の知っている時分より若くなって綺きれ麗いになっているの。お召めしかなんかのいい着物を着て、私の連合の方はやっぱし結ゆう城きかなんか渋いものを着ていました。そうして二人連れだって行くんでしょう。――牛込の奥に菩ぼだ提い寺じがあるんですから、きっとお寺てら詣まいりにでも行ったんでしょうが、変なものですねえ。そうして二人並んで歩いて行くのを見ると、もう、縁もゆかりもないんだが、ああして二人でいっしょに歩いたりなんかするようではどうかなっているのじゃないかと思われてそれが何だか腹が立つような、こう憎いような気がしましたよ﹂ 別れて戻る時だって、﹃私は牛込には先祖の寺があるから時々寺てら詣まいりには行く。そのほかどこで出会わぬとも言わぬ。会ったら悪い顔をしないで、普通に挨拶くらいは互にしよう。けれどお前が今度持つ夫といっしょであったら、会ってもその人に気の毒だから見ても見ぬ振りをしておろう。私の方でもしこんどいつか持つ家内といっしょであっても、そのつもりでいてくれ﹄と言っていたんでしょう。それが、ああして兄さんの神さんといっしょに私のすぐ傍を通りながら黙って行くなんてことがあるものか。人を三年も四年も苦労をさしておきながら、……と思って、姉にどうだった? 私を見たようであった? と聞くと、﹃姉は、ああ知っていたようであったよ。二人でお前の方を見い見い何かひそひそ話しながら行ったから﹄と言うし、私は悔しくって悔しくってじっと向の方に行くのをいつまでも見送っている。と、よほど行ってから二人で私の方を振返ってみていました。 ﹁私はそれから気分が変になって、すぐ近処の姉の家に寄って――姉が餅菓子か何か買って行って茶を入れたりなどしたけれど――私は茶も菓子も欲しくない。少し心持が悪いからと言うと、姉もそれを察して、﹃じゃ少し横になって休んだらいいだろう﹄と言って枕を出したりなどしてくれました﹂ ﹁フム、それからどうした?﹂私も何だか古い焼やけ疵どを触られるような心持がして、少し呼い吸きが詰るようになった。 ﹁ナニ、それからどうということはない。少し休んでいるとだんだん落着いてきたから﹃も少し休んで行ったらいいだろう﹄と姉が言うのを、ナニもういいよと言って自う家ちに戻ってきたけれど、私その日、一日あなたは留守だし、お母さんに、私今日少し心持が悪いから寝るよと言って寝ました。……私、このことはけっしてあなたには言うまいと思っていたけれど、まあこういういろんな話が出たからと言うんです。それは変な何とも言えない気分になりましたよ﹂ 女はこう言って、罪深いような、私にすまないというような顔をして私の顔を見た。 私も、それを聞いていくらか身体が固く縛しばられたような感じがしてきた。そうして、 ﹁いつの事だえ? それは﹂と聞いてもつまらないことを聞きなおした。 ﹁ですからさ、去年ですよ。――去年の春ですよ。――それからこれはその後でしたが、あなたが国から帰ってきてから、一度姉の処に行くと、姉の処の新さんが﹃どうです、おスマさん。雪岡さん今度国に帰って、おスマさんの話しでも定きめてきたのですか﹄って聞いたから、﹃いえそんな話は少しもなかったようでした﹄って言うと、新さんのことだから﹃雪岡という人は恐ろしい薄情の人だ。あんな薄情な人はない。私はまたおスマさんといっしょになって、始めて国に行ったんだからそんな話でもあったかと思っていた。どうですおスマさん、いっそまた初めの人に戻ってはどうです。あの人の方が雪岡さんよりどれくらい親切だったかしれやしない﹄って、新さんも、姉から、先せん達だってその先の連合が通った時の私の様子を後で聞いていたもんだから、……それに引き更えてあなたがいつまでも、他人の娘を蛇の生殺しのようにしているという腹で、ついそう言ってみたんでしょう。新さんだって本当にそんなことができるものじゃないと知っていますが﹂ 私は、女が、情に脆もろいが、堅いしっかりした気質だということを信じている、そうしてこう言ってみた。 ﹁姦かん通つうなんてできるものかね?﹂ ﹁そうそう、それから一遍こういうことがありました。先の時分に、もうどうしても花は牌なの道楽が止まないから、いよいよ出て戻ろうかどうしようかとさんざん思いあぐんで、頭か髪みも何も脱けてしまって、私は自う家ちで肩で呼い吸きをしている。それでも五日も十日も自家へ寄りつかない。それを知っているある男があって、私が一人で裁縫をしているところへ入ってきて、 ﹃私は前からあなたのことは思っている。どうしてお宅ではあんなにいつまでも道楽が止まないんでしょう。あなたがお気の毒だ﹄というようなこと言ってうまく持ちかけてくるから、﹃私にはいくら道楽をしても何をしても亭主があるのですから、たってそうおっしゃれば、宿にも話しましょう﹄とそう言ってやったら、その男は、それっきり顔を見せませんでしたよ﹂ 私は、女のいわゆる、気味を悪がり悪がりほじっては嫉やいていた時分に、聞き洩もらしたことやまた自分といっしょになってからの女の心持の――その一部分をこうして聞いた。けれども私はもう以前のように胸のわくわくすることはなかった。それはどういう理由であろう? 愛が薄くなったのであろうか。それともまた愛のためにそんなやくざな思いがいつしか二人の仲に融とけて流れてしまったのでもあろうか。分らない。 戸そ外との雪は、まだハタハタと静かに降って、積っていた。 ﹁やあ、だいぶいろんな話を聞いたね﹂ と、言って一つ大きな欠あく伸びをした。そうして、 ﹁今日はひとつ鰻うなぎでも食おうか﹂ ﹁ええ、食べましょう﹂ ﹁じゃ私がそう言ってくるよ﹂と、私は出て行った。