読書法

戸坂潤








  

  ※(ローマ数字1、1-13-21) 
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  ※(ローマ数字2、1-13-22) 
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  ※(ローマ数字3、1-13-23) 
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  ※(ローマ数字4、1-13-24) 
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  ※(ローマ数字5、1-13-25) 
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稿稿
 
 
 
 
 
 




 ※(ローマ数字1、1-13-21) 




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 稿使稿稿
 



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便
 
 
 



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 Mysterious Universe
 Into the Deep Waters
 
 



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調



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 使
 
 



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 便調
 調
 退



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 E. S. Russell  The Behaviour of Animals, London 
 
 
 



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 調
 



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 西
 
 
 



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 調
 



 ※(ローマ数字2、1-13-22) 




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 稿
 
 
 
 
 



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 調
 ※(「日+向」、第3水準1-85-25)
 
 便
 



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 廿
 
 
 調



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 5 


 
 辿
 調調
 調便調調調
 調調
 調※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)調調
 調調
 



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 西
 

 使
 西西
 退
 



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 便使
 
 
 
 



 9 


  Discours de la M※(アキュートアクセント付きE小文字)thode 
 使
 
 使
 使使
 
 
 稿
 
 
 使
 
 



 ※(ローマ数字3、1-13-23) 




 1 


 
 
 
 



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 3  

L. L. Schucking 



 姿
 使
 



 4  
     


 
 Geneonomie
 
 



 5  


 
 
 
 
 
 
 
(一九三六年・ナウカ社版・四六判二一二頁・定価八〇銭・スミット女史論文集『ソヴェート統計学の理論と実践』の中の第一編)



 6   


 
 麿便調
 使調
  
 



 7  


 稿
 
 
 
 
  dry hardness 
 
 
(一九三六年十月・芝書店版・四六判函入三三〇頁・定価一円六〇銭)(Thomas Ernest Hulme; Essays on Humanism and the Philosophy of Art, 1924 Ed. by H. Read の全訳)



 8 


 

 西
 調
 
 調
 



 9 西


 西
 西
 
 
 
 
 
 



 10 


 
 便※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)
 
(一九三五年十月・三笠書房版・第一次『唯物論全書』の内、新四六判二八六頁・定価八〇銭)
[#改段]


 11 安部三郎著『時間意識の心理』


 この著書をブック・レヴューの材料として選んだ理由の一つは、日本に於て時間に関する独立な研究が極度に乏しいという事情である。物理学関係からする研究も乏しいし、心理学関係からするのも乏しい。比較的眼につくのは田辺元博士や高橋里美教授による哲学的研究であるが、之もまだ包括的なものでない。処が時間の問題は哲学的に最も重大な意義を有っている。実在の史的転化の形式が時間であり、又意識そのものの形式が時間である。時間問題は空間問題と並んで、唯物論的に最も重要なテーマなのだ。唯物論的研究を一応ここに集中することさえ必要だと思われる位いだ。
 東北帝大心理学教室で編集しているこの叢書は恐らくどれも尊重されてよい著述的アルバイトだろう。本書も亦そうだ。著者は千葉胤成教授の実験的で且つ内省的な心理学的方法をうけついでいるようである。「対象意識としての時間意識」と「固有意識としての時間体験」との区別に夫はよく現われている。それから時間の哲学的分析に於て功績のある高橋教授の影響も大変よく取入れている。知覚的時間と情意的時間との区別などがそれだ。著者が最も得意とする業績の部分は、「二時程比較判断」を中心とする時間評価の実験的研究であるらしいが、之を包括している哲学的省察力は相当力量があると思われる。
 本書は大体に於いて「時間意識」に関する科学的入門書として必要な観念と知識との整理を与えたものと見てよい。時間概念の分類、固有意識としての時間体験、知覚的時間・時間感覚・時間直観・の問題、時間領域・時間閾・時間評価・過現未(時間のモーディー)、等の問題、睡眠時や変態条件下に於ける時間意識等、が検討されて一応の整頓を与えられている(病態心理学的な時間研究を示唆しているのも教えられる点だ)。この包括的な取り扱い方では、殆んど日本に於ける唯一の著書かも知れない。
 併し著者の眼界は心理学的関心によって可なり制限されているようだ。つまり時間意識を一般的な時間問題解決の尺度にし過ぎてはいないだろうか。著者は哲学的想定として、大体現象学(フッセルルの)の立場に立つと思われるが、そこらから時間というカテゴリーを観念論化して所有するかのような観を呈している。「客観的時間従って物理学的時間は如何なる意味に於ても体験時間でないであろうか。著書は客観的時間も亦一種の体験時間であると思うものである」云々。「人はいつしか吾々の心中の構成物であることを忘れて、それを意識とは独立に存在するものとするに至った。」併しこういう見方によっては実在の歴史転化の形式としての時間は遂に理解出来ないだろう。時間は時間意識だけでは片づかないのである。――巻末に文献がつけてある。文筆的には地味であるが、理論上の必要から正当に注目されるべき書物だ。
(一九三六年九月・『生活と精神の科学』叢書・二十八巻・東宛書房版・菊判二六〇頁・定価二円六〇銭)



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沿
 
 
 
 



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姿
 
 
 



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 麿
 
 
 
 



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 稿沿
 
 
 
 調調
 



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(一九三七年七月・岩波書店版・四六判・三四八頁・定価一円八〇銭)



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 Regis Michaud, Modern Thought and Literature in France, 1934 
 
 
(一九三七年八月・第一書房版・四六判・四一六頁・定価一円五〇銭)



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 使調調
 
 
 
(一九三七年十月・科学主義工業社版・四六判一四三頁・定価九〇銭)



  


 
 

 
 
 
 
 
 調調
 
 
 
 

(一九三七・一一)



 
       


 
 
 
 
 
 
 
 


 

 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 使調調
 
 
 
 
 

 
 
 
(博士は雑誌『科学主義工業』十二月号から、「資本主義工業と科学主義工業」という論文を執筆している。今の処まだ要点に触れる処まで議論が進行していない。だがすでに気になるのは、産業革命を単に科学の発達の功績に帰しようとし勝ちな点の見えることだ。その科学の発達自身が、却って技術的社会的な要求に基いて行なわれたという、より根本的な関係にあまり注意を払わないらしいことだ。科学から第一テーゼを出発させるという意味で、ここでも氏が科学主義的な工学者であることを、吾々は忘れてはならぬ。)



 ※(ローマ数字4、1-13-24) 




 1 





 
 ※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)
 鹿
 
 
 
 
 
 
 
 沿
 
 
 



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 西使使
 
 
 
 
 
 
 
 
 退



 3 


 
 
 姿
 辿
 
 
 
 
 
 
 
 姿
 
 



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 ※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)
 
 
 使
 便



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 便



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 使
 
 
 
 
 
 
 



 7 


 
 Vierkandt  Handw※(ダイエレシス付きO小文字)rterbuch der Soziologie 
 
 
 
 ※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)



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 調
 
 
 
 
 



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 調
 
 



 10 寿


 
 
 
 
 西
 
 
 



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 調
 
 
 
 
 退
 ()退
 
 



 ※(ローマ数字5、1-13-25) 




 1 


 
 
 稿稿 
 使



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 使
 
 
 鹿使
 鹿
 使
 



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 使
 
 
 
 
 
 
 
 



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 退
 
 
 使
 使使使便
 



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 使稿
 使
 
 稿
 

 稿稿



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 ※(「日+向」、第3水準1-85-25)
 調
 



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 ※(「「日+向」、第3水準1-85-25)
 
 西



  
     


中村 本日は雨中を態々お集り下さいまして誠に有難う御座います。「何を読むべきか」について、色々お気付の事をうかがいたいと思いまして、此の様にお集りを願った次第であります。
A 今夜は主として最近のドイツの哲学界の情勢とそれの日本の思想界への反映について戸坂氏のお話をうかがい度いと思います。
戸坂 独逸の哲学に就いてですが、それも新刊は此の頃余り手にしませんからよくわかりませんが、少しお話致します。
 大体、最近の独逸の哲学の傾向と云うのは、恐らく広い意味で生の哲学と云う特色を持って居ると思います。
 生の哲学には、いろんな通俗哲学もある様ですが例えばシュペングラーとか云った連中が非常によく読まれているそうですが、アカデミカルな方面ではハイデッガーの哲学が全盛の様に思われます。ハイデッガーの哲学は、一体ディルタイとフッセルルを結合したものにあたるわけで、フッセルルはよく知られて居るように、非常に科学的な研究方法を採っています。云わば数学的な特色を持っている哲学であって、ディルタイの方は歴史的生活という問題を中心にしているだけに、可なり文学的な、詩的な特色を持っている。ですけれども、此の二つの相反した哲学は、最近の代表的なものとして一般の注目を惹いて居る。
 狭い意味での所謂生の哲学、これはディルタイの方を含むわけですが、しかしフッセルルの哲学と雖も、矢張り体験とか意識とか云う問題が中心になって居るものであって、広い意味では之も生の哲学に入れることが出来ます。
 フランスの生の哲学者として有名なベルグソンの問題の領域と、フッセルルのそれとは非常に似たものを持っているようです。
 ハイデッガーは此の二つの近代哲学の対立物を、両方が生の哲学である点を媒介として結び付け、そして更に其の上「生」と云う概念に特別な色調を与える。其の色調と云うのは、「生」即ち生命、人間の存在と云うものが、本来宗教的な生活を真面目とする筈のところ世俗の生活としては日常的な生活態度として、宗教的な生活態度から離れ落ちてる。そういう生活の分裂を通して、人々が再び真の宗教的生活態度に帰って行かねばならぬという風に人間生活を規定した。そういう風に規定された宗教的人間存在の何よりの特色は、人間の生活が有限である、死が待っているという点で条件づけられている。斯ういう風にライフが死によって条件づけられているのです。ハイデッガーの哲学が現在に於ける最も代表的な、世界を通じて代表的な、生の哲学であることは前に述べた。そして此のハイデッガーの哲学の思想的背景は明らかにカトリックのものであって、其の先生であるフッセルルの哲学は、スコラ哲学の現代的形態とも云うことが出来るでしょう。
 しかし、ハイデッガー哲学の持つもう一つの要素である所のディルタイは、云う迄もなくプロテスタントであり、嘗てのプロテスタントの驍将シュライエルマッハーの後を継ぐものである。従ってそれだけハイデッガーの哲学は、プロテスタント的特色をも兼ね備えていると云われています。
 所がハイデッガーが言わば発見したと云ってよいキールケゴール、此のキールケゴールこそ、ハイデッガーが自分の哲学のやり方の先駆者として見出したのでありますが、恰も、其のキールケゴールは今日の弁証法的神学者達の拠り所となっている。弁証法的神学は言う迄もなく、プロテスタントの甦生運動であるけれども、シュライエルマッハー風のプロテスタンティズムに反対して、もっと古典的なものに帰ろうとして、其の為めにキールケゴールを持ち出す。そういう具合に、一方弁証法的神学が、従来のプロテスタント主義から離れると同時に、他方ハイデッガーは、従来のカトリック主義から多少ずれて来て、其所で、ハイデッガーの哲学と、弁証法的神学とが、例えばキールケゴールと言うようなものによって、一つづきの関係に這入るわけです。ところで最近九州帝大の今中次麿氏などが指摘しているように、弁証法的神学が、全くファシストの哲学体系であるとすれば、ハイデッガーの哲学も亦、ファシスト的哲学への密接なる連絡を持っているということを想像するのは難くない。噂によると、ハイデッガーが最近ナチスに入ったということも耳にしないではない。
 ハイデッガーの哲学をいろいろな方面に使って見ようという運動が方々に行なわれている。そういうものから出て来た一つとして社会哲学というものも既にある。詳しい内容は見ないがレーヴィトの社会哲学は、ハイデッガーの根本概念を使って書かれたものであるのです。
 大体、独逸の最近の哲学がそれであるとして、それが日本の思想界に如何に反映したかの問題に這入ろうと思います。
 第一にハイデッガーを担いだのは、色々ある中でも京都の和辻哲郎博士である。氏の倫理学は、ハイデッガーが人間の存在は日常的な生活としては世の中に於ける存在即ち世間的存在であるという点を借りて来て、之を倫理学の根柢に置こうと考えているのです。之がハイデッガーを真正面から利用したという例で、他の一方は先き程ちょっと触れたハイデッガーに連関のあると考えられる弁証法的神学(危機神学)の思想は、西田幾多郎博士によって自分の哲学体系の相当重大な場所に位置づけられた。西田博士は其の自分の弁証法を、ヘーゲルの観念論的な弁証法であるとか、又、マルクス主義の唯物論的弁証法に対して、自覚の弁証法(即ち自己意識の弁証法)として主張するのであるが、此の場合に持って来られるのが、危機神学の弁証法なのです。西田博士は最近自分の哲学を恰も生の哲学として特色づけて居られるが、それは我々にとって非常に意味のあることです。
B ヘーゲル復興の運動とハイデッガーとの連関については……
 
 我国にもそのままの二つの形が発見される。例えば、国際ヘーゲル連盟の支部は、ヘーゲル復興に属するし、また今日の学生其の他が研究しているヘーゲル研究は左翼に属している。
 先日偶然独逸の雑誌で見かけたのですが、それに日本に於けるヘーゲル連盟日本支部からの報告が載っている。勿論、日本に於けるヘーゲル研究の形の一つとして、左翼側からの研究を見逃がしてはいないが、それよりも興味のあるのは、他の一つの形のヘーゲル研究をヘーゲル哲学と東洋精神との合致に原因していると説明している点です。そういうことは実際には我々から見れば云えないことですが、其の報告者は其の一例として、日本大学に於けるヘーゲル百年忌を指示している。これは噂によるとヘーゲル百年忌として、お経を読んだ由。報告者の説明に拠ると、日大は仏教的な大学であるとある。之は非常はヨタですが。
 話が逆になるが、独逸の国際ヘーゲル連盟に於ける国際的講演会に於て、ソヴェートの学者達が出場を拒まれたことは注目に値いする。
A 独逸でマルクス主義哲学者として重きをなす人々は……
戸坂 ウィットフォーゲルとか『バンナー』〔『マルクス主義の旗の下に』誌〕に書く連中でしょうか。……いろいろマルキストにはあるが、……カント主義マルキストなどまで数えれば数は少なくないでしょう。
A ザウエルランドの唯物弁証法が最近日本に於て注目され、近く其の第一巻が白揚社から発行されるそうですが、之については……
中村 ザウエルランドの唯物弁証法の中にはハイデッガーに対する批判は扱われていましょうか。
 
 そのハイデッガーが言う所の形而上学的実在が、人間にひらかれるところの感情は不安の感情である、そういうことを『形而上学とは何ぞや』と言う本の中で述べている。
 斯う云う風に大体にハイデッガーの根本思想とでも言うものは、一方に於て科学を否定し、不安の感情といった様なものを強調し、これによって結局は宗教に逃れている……
戸坂 なぜ科学の否定が今日必要であると考えられているかが問題でしょう。
C 人間の根本的な存在が不安だというような斯ういう哲学が、現代の社会情勢に、どういう連関を持っているか……そういうことがなお重要問題として残されていると思います。
 
 
 ところが欧州のブルジョア哲学者達によると、そういう形而上学的認識は、最早欧州其のものの中には求めることが出来ず、東洋其の他の文化の中から拾い上げられねばならないと考えられる。
 シェーラーの如きも、形而上学的乃至宗教的な知識というものを……欧州を救う新しい観念的武器だと考えている。
 シェーラーの如きに依れば、飽くまでも自然科学的認識即ち科学的認識に立とうとする態度が、一般に実証主義だというので、マルクス主義なども実証主義と同じに取扱われて居る。
C そこで、ドイツのブルジョア哲学と、それの自然科学との問題が戸坂さんによって触れられたと思います。
 なおB君の方からハイデッガーの哲学の社会的基礎として、資本主義の一般的危機という問題が提出されたようです。ハイデッガーの哲学は単に自然科学との連関からばかり説明出来ないと思います。実際、現在の資本主義制度其のものが全く行きつまって、如何にしても逃れ路がない、そういう事実が、直接に感情的に一般に感じられたもの、それがハイデッガーの様な不安の感情というものを神秘的に祭り上げる様な哲学を生んだということが云われると思います。
 
C しかしハイデッガーが一般に受け入れられた理由は次のような方面からも強調されねばならないと思います。
 それは小ブルジョアの生活の窮迫が一方に於ては小ブルジョアを積極的なファッショ運動へと駆り立てる。
 又、一方には小ブルジョアを非常に絶望的気分に陥れます、だからウィットフォーゲルが指摘して居るように、ハイデッガー哲学は、シュパンなどが真正面からファッショを弁護するものとはいくらか異っていますが、結局、小ブルジョアの不安の根源を現実的に説明することなく、超越的な形而上学の問題に祭り上げて、ファッショの御用を勤めるのだと思います。
 なおハイデッガー哲学が非常に宗教的、特にカトリック的な色彩が強いことは、一方に於ては現在ドイツに於て、政党方面ではカトリック中央党の進出なんかを思い合わせることが出来る。また現在ドイツのパーペン政府自身が大体次の様に言っています。
我々はあらゆる私的な世界観を斥ける、そしてキリスト教の永遠の真理を擁護する。
 そう云ってるのでもよくわかる通りに、現在のドイツに於けるファシズムの発展と共に、宗教の役割が非常に重要になって来る。これらはハイデッガー哲学が一般に受け入れられる理由だと思います。
戸坂 ハイデッガーの受け入れられるのは、カトリックの哲学としてよりも、むしろ、資本主義の行詰りの小ブルジョアへの反映として説明された方が一般的ではありませんか。
 
戸坂 異議ない。
 
 戸坂氏の言われたように、自然科学に対するブルジョア哲学の多少とも肯定的な態度が新カント主義を以て終ってることは強調さるべきだと思います。
 ブルジョアジーが自然科学や技術を発展させる力がなくなって来た場合に、そうした情勢の下で、ハイデッガー哲学が現われたのは必然的現象であるという点、この点が強調されなければならぬでしょう。
C D君も同様なことを寸時いわれましたが、もっとよく説明して下さい。
 
 農本主義イデオロギーに対しても、山川氏達はそれが農村の独立小生産者のイデオロギーだと言って居る。しかし僕等の考えでは、農本主義イデオロギーは没落過程にある寄生地主のイデオロギーであると思う。一般にファシズム・イデオロギーを評価する場合に、そのイデオロギーに引きずられる階級層というものと、そのイデオロギーを生産し指導する階級層とを区別しなければならない。その意味で、例えばドイツでも人民革命が問題であって、従って小ブルジョアの不安ということから、直ちに反動的な哲学が引き出される様にいうことは疑問と思う。
戸坂 僕もそう思う。
C D君によって、その点は明らかにされたと思います。
中村 ハイデッガーを知るに、何を読むのが近道でしょうか。

戸坂 ハイデッガーの『存在と時間』です。また簡単に知ろうとするには、ハイデッガーの『形而上学とは何ぞや』であります。湯浅氏によって訳されたものが理想社から出版されています。


   結語

戸坂 要するにハイデッガーの哲学は、自然及び社会に対する科学的認識の否定を意味する。
 それは一方ブルジョア社会の技術的発展の行詰りを言い表わすと共に、他方自然及び社会をば、いよいよ技術的に把握して行こうとしつつあるマルクス主義に対する反抗を意味する。
 その意味に於て、ハイデッガーの哲学は反ソヴェート・イデオロギーの一つの代表者と見做されるべきだ。
 一つというのは、それ自身には明確にファシズム・イデオロギーを標榜しないが、それにも拘らず、ファシズム・イデオロギーへの準備を与えるという形を言う。

B なおハイデッガー等の哲学が、現実に対する科学的認識の代りに、感情、気分と云った様なものによる非合理的な把握の仕方を強調している点も、政治的アヴァンチュリズムを特色とするファシズムに対して、理論的連関があると云えるでしょう。






底本:「戸坂潤全集 第五巻」勁草書房
   1967(昭和42)年2月25日第1刷発行
   1968(昭和43)年12月10日第3刷発行
入力:矢野正人
校正:土屋隆
2007年1月5日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について