技術の哲学

戸坂潤




 
 
一九三三・一二・六
戸坂潤
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 使

 Dr. E. D※(ダイエレシス付きU小文字)biWissenschaft. Technik. Kultur  Der Weg aus der geistigen Krise, 1932

 

 TechnikPolytechnikBucharin, Die Sozialistische Rekonstruktion und der Kampf um die Technik Technologie 

 
 

 
 
 使
 
* Max Eyth, Lebendige Kr※(ダイエレシス付きA小文字)fte.
** O. Spengler, Der Mensch und Technik.

 Reuleaux  F. Dessauer  Dessauer, Philosophie d. Technik 

 
* Dessauer 前掲書。
** Spengler 前掲書。

 Eyth 

 
 
 

 使

 
 

 Jevons, Pure Logic and Other Minor Works 

 
 

 Dessauer  S. 67, 36, 91ff. 

 
 

 
 
* 機械が決して単なる自然科学的範疇ではあり得ないことをマルクスは最も鮮かに指摘している。「数学者や機械論者は、道具は単純な機械で、機械は合成された複雑な道具だと説明している(イギリスの経済学者達もよくこれを真似ている)。彼等は両者の間に何等本質的な区別を見ず、剰え、槓杆・鉋・螺旋・楔等の単純な機械力を機械と呼んでいるのである。なる程どんな機械でも、そうした単純な機械力が仮装したり結合したりして、出来上っているには違いない。併し経済学の見地からはこの説明は何の役にも立たない。この説明は歴史的要素を欠いているからである」(『資本論』カウツキー大衆版第一巻三一六頁)。――マルクス自身は発達した機械を本質的に三つの部分に分析する、発動機・配力機・並びに道具機乃至作業機。そして十八世紀の産業革命の出発点となったものがこの最後の機械部分であったことを述べている。このようなものが機械の歴史的な説明であり、機械の本質が社会科学的範疇によって捉えられねばならぬ証拠である。
 使
 Reuleaux, Mechanik, Bd. ※(ローマ数字1、1-13-21)Dessauer 
 技術学の第一の対象であった機械自身が、決して単なる自然科学的範疇のものではなく社会科学的範疇にぞくする。客観的存在様式に於ける技術――それこそ本来の技術である――は技術学の対象であるが、その技術学が自然科学の応用(?)であるに拘らず、否それであるが故に、経済学的・社会学的・政治学的・本質のものなのでなければならぬ。で技術(客観的)の本質は社会的なものでなければなるまい。ではどう社会的であるか。
* 「技術学は自然に対する人間の能動的関係を、即ち人間生活の直接の生産過程を、従って又人間の社会的生活諸関係とそれから来る精神上の諸観念との直接な生産過程を、明らかにするものである」(『資本論』三一七頁)。――即ちこうした社会的なもの(客観的技術)及び観念的なもの(主観的技術)までが、技術学の対象――技術――だと云うのである。
 
 
 
 
 

 


 退

 G. Dunn,ScienceNo. 1837

 そこで手近かから云って、現代の資本主義社会に於て、技術はどういう制約を受けているか。これは今日至る処に於て見られる事実であり、又聞かされる説明であるが、結論を云えば現代資本制生産関係は技術に対して全く否定的な決定をしか与え得ない。それは技術という現在では最も重大な生産力の一つが、如何に現在の生産関係と矛盾しているかを、最も雄弁に物語っているものに外ならない。
 元来技術自身が資本主義の発達に決定的な役割を果して来たのであったが、この発達の結果は、現段階に於ける世界経済を、古今未曾有の不況につき落して了った。その結果として、技術だけに就いて云うのであるが、操業短縮・工場閉鎖・等々の手段によって、すでに形成されてあった技術の基体――機械・工場設備・其の他――は無益に荒廃にゆだねられねばならず、社会が一旦すでに獲得していた技術の適用実施の限度は拡張されるどころではなく却ってマイナスの方向に向って拡張されて行きつつある。技術の量的質的発達はかくて、単に抑止されるばかりでなく量的に引きもどされ従って又やがては質的に引きもどされることにならざるを得ない。のみならず会社・工場に付属している各種の研究所の活動は一般的に云って活動をそれだけ鈍らされざるを得ないのであり、それが国家の財政に基く研究機関であるならば、一般的失業による歳入減・所謂匡救費支出・警察費の拡張・軍備費の超越的膨脹・等々の結果から、それだけ「経費節減」を受けねばならぬ。研究所や工場に於ける技術家が出来るだけ整理されるのは当然であろう。かくて技術は、単に不況という一現象――之は現代資本主義のほんの表面的な一現象に過ぎない――だけから云っても、その幸運な発達を阻止されつつあるのが事実である。
 
 使
* モノポリーは十六世紀にイングランドに於て初めて行なわれたと記憶するが、フランシス・ベーコンが恰もこの時期の哲学者であり政治家であったことは無意味ではない。ベーコンは外でもない発明術(それが彼の「新しい論理」である)の提唱者で、技術の理想国 Nova Atlantis の幸福な空想家だった。

 西M. Rubinstein, Science, Technology and Economics under Capitalism and in the Soviet Union, 1932 

 
 
 使

 

 技術の本質・発達の問題に就いても、他の諸国家と全く異った対蹠的な材料を提供しているものはソヴェート同盟である。そこではプロレタリアの社会主義革命は政治的変革の時期を過ぎて今や、技術的革命の段階に這入って来た、それは人々の知る通りである。ソヴェート同盟の新しい生産関係が如何に技術の発達を益々需めつつあるか、又逆に技術がこの生産関係を如何に急速に完成しつつあるか(五ヵ年計画・第二次五ヵ年計画・其の他)、それを今更喋々する必要はあるまい
* ソヴェート同盟に於ける技術の発達に関する一般的解明及び夫と資本主義国に於ける技術との比較は甚だ多い。ルービンシュタイン前掲書、同じく「サヴェート同盟に於ける技術的再建の基礎としての電化」(『新興自然科学論叢』――“Science at the Crossroads”の邦訳――の内)、ブハーリン前掲書、岡邦雄氏「科学と技術との計画的結合」(『唯物論研究』創刊号・第二号)等々。断片的なものでは J. Stalin, On Technology, 1932 など。
 西
 




 
 
 Historia Animalium 
 
 Form
 
 
 
 vie industrielle
 

 

 
 
 調調
* カントは自分の哲学を実験的方法に基くものだと考える。丁度コペルニクスが実験に基いて天動説を覆したように、彼も亦実験(但し思考の上の実験だが)に基いて形而上を覆すのだと主張する。――カントの所謂コペルニクス的転回とは、実は実験的転回のことであって、中心を対象から主観に移した点から云えば、寧ろ、コペルニクス自身の転回とは反対な態度だったろう(この点に就いてはすでに高坂正顕氏の所説がある)。
 
 
 
 
 
 
 

 便
 Beobachtung
 SurveyingMessung
 Experiment
 
 
 
 
 
 使使
 
 
 

 
 
 宿
 
 
 F. Simiand, De l'exp※(アキュートアクセント付きE小文字)rimentation en science ※(アキュートアクセント付きE小文字)conomique positive.  Revue Philosophique, 1931 

 宿






 使
 それから相川氏は私が「観念的」=「主観的」、「客観的」=「物質的」と決めて了っていると云うが、それは多分部分的な説明を全般へ押して広め受け取ったことから来る誤解だろう。私は技術をまず主観的なものと客観的なものとに分ち、前者を観念的なものと物質的なものに分ち、後者を物質的なものにだけ振りあてた。つまり物質的技術には主観的技術と客観的技術とがあるわけである。で、ここからなぜ「観念的技術」という範疇が「観念論的」な規定になるのかは、私には理解出来ない。
 又、物質的「技術の主観的モメントの本質」が、「道具又は機械という物質的で客観的な存在物との結合点」に見出される、と私が云ったのは不当で、本当の生きた「結合」は主観的要因たる労働力と労働手段との結合でしかないのだ、と相川氏は云うが、氏の主張の後の半分は私自身賛成で問題でないのであるが、併し私の問題にした「結合」はそういうことを云い表わすためでない。技術の主観的モメントと客観的存在(労働手段)との結合点に於て、技術の主観的モメントが初めて、相川氏の所謂主体的要因としての労働力の内容になるということを、私はあそこで云っているのである。尤も相川氏自身は、労働力に、技術の主観的モメントというような規定を有った内容を許すこと自身に反対らしいから、相川氏自身にとっては、私の問題としたものが問題にならなかったわけである。
 最後に、諸観念の「論理的」整理に当って、概念の唯物論的取り扱いが、その歴史性によって充分に貫かれていないという批評は、一つの忠告として承認する。
 
 
 
 
* 馬場敬治氏『技術と経済』はわが国に於ける殆んど唯一の技術論の著者だろう。だが博学な氏は、ドイツの現象学(?)的ブルジョア哲学に倣って、技術の本質の問題を事実としての技術の「社会学」の問題から絶縁する。こうした「社会学」と「哲学」との区別乃至分類が如何に「方法論」的に不幸であるかに就いては、私は専らこれまで解説に力めて来た(例えば或る「客観主義者」――これこそ今はデボーリン主義者と呼ばれている――は科学の階級性を単に社会学的なものとしてしか考えることを知らず、真理の客観性と無関係だと主張するのだが、そういうブルジョア科学的誤謬に対して、私は少なくともこの三四年来反覆抗議して来た)。――で馬場氏は、本質としての技術にとって単に最も密接な関係あるものとして、経済という本質を選び出す。これ等の本質の本質的な又事実的な結合が氏の所謂 Technik und Wirtschaft という問題であるように見える。――吾々はこういう行き方に対して、例としてグラノスキーの優れた分析、「資本主義の下に於ける技術発展の諸矛盾」を対立させて見ることが出来る(『資本論研究』の内)。之は無論技術の「本質」の研究でもなければ、技術の「社会学」でもない。而も技術の本質的な分析なのである。
 
 
 沿
 
 
 
 
 
 

 

 

  Science at the Cross-roads 

 

 
 
 
※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)
 
  Gedankenexperiment 
 
* マルクスは『資本論』に於て技術学の対象を、即ち技術を、一般的にそう説明している。
 併しここで「技術的」範疇と呼んだものは、必ずしも「技術学的」範疇、即ち技術学にのみぞくする範疇のことではない。なる程自然科学と技術学との不可分な連関は前に述べたが、従って自然科学的範疇と技術学的範疇とが又不可分な連関になければならぬのは当然だが、問題はそこにあるのではない。自然科学的範疇――この真に実証的な範疇――は、単に技術学にぞくする範疇であるばかりでなく、より一般的な意味に於て、技術に対して、正の(ポジチブな)・即ち実証的な・連関を持つ一連の「技術的範疇」にぞくし、その代表的な一部分をなしている、ということが云いたいのである。
 私は嘗て、諸科学の範疇が自然科学の範疇と共軛関係に立たねばならぬ所以を説明したが、自然科学と共軛関係に立つそうした諸範疇及び範疇体系を今一般に技術的範疇と呼ぼうと思う。自然科学的範疇と、例えば社会科学的範疇(生産力・生産関係・商品・資本・階級・国家・其の他)とが共軛関係に立つということを保証するものは、この範疇が云い表わす処の存在自身の客観的な連関そのものの外にないことは、断わるまでもない。自然が自然史的に発展することによって社会の歴史の段階にまで上昇して来たという現実の歴史的運動そのものから、自然史的範疇も人間史的範疇も取り出されたのだとすれば、この二群の範疇の間には、自然史と人間史との間の存在史上の統一に対応して、一種の論理学上の統一が出て来なくてはならぬ。この論理学上の統一が共軛関係――又連帯関係と呼んでもいい――に外ならない。
* 範疇の共軛性に就いては拙著『現代のための哲学』の初めの章を見よ。――なお同著の内「社会科学に於ける実験と統計」及び本書の「技術と実験」の項に於ける実験の説明も亦今の場合の役に立つ。
 

 vie industrielle使

  E. Kapp 

 沿
 沿

  richtende National※(ダイエレシス付きO小文字)konomie, ordnende N-O  verstehende N-OW. Sombart, Die drei National※(ダイエレシス付きO小文字)konomie, S. 277

 
 
 
  Selbstauslegung 
 VersuchKritik d. r. Vernunft, 18264--1122264--11調
 非(又反)実験的な哲学の代表者は、同時に現代解釈哲学の代表者である。ハイデッガーの『形而上学』に於ては、実証的・技術的な実験も検証も問題になり得ない。そればかりではなく現象学に固有であるべき直観的・感性的な明証さえがそこでは欠けているのである。
 
 
 
 
 
 
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 das NuminoseR. Otto, Das Heilige, S. 7

 
 H. Jebens, Die Philosophie des Fortschritts 
 Antitechnismus
 
 退
 
 




 
 
 
 
 
 
  
 
 

 
 
 
 
 使
 
 

 

 224
 
 
 
 
 
 

 Kunst und Natur
* 本書「技術とイデオロギー」参照。
 処でこの生産技術が経済組織と不離な関係にあるということ、従って歴史的に与えられた経済組織に対して「純粋」であるような技術自体・「技術の本質」などというものは観念上の迷妄の外ではないということ、生産技術は事実、資本主義下に於けるものと社会主義下に於けるものとでは、その本質的な条件を全く異にしていること、その意味に於て技術乃至技術学は、階級性によって又イデオロギー性によって貫かれているということ、之はこの頃詳しく報告されている事実である

 Bucharin, Die sozialistische Rekonstruktion und der Kampf um die Technik, Der Kampf zweier Welten und die Aufgabe der Wissenschaften.  Krshishanowski, Die Grundlagen des technisch-※(ダイエレシス付きO小文字)konomischen Rekonstruktions-Plans der Sowjetunion.  Rubinstein, Science, Technology and Economics under Capitalism and in the Soviet Union.  Druschinin, Wie der Arbeiter in der Sowjetunion Ingenieur wird 

 
 
 
 
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 Virtual unemployment

 
 
 
  Matschoss 

 

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 使
 
 

 
 worker's koculties
 
 
* ア・ルイコフ「技術家・専門家の問題」参照(時国氏訳・クロウサー『ソヴェトロシアの科学』付録)。
 

 
 
 
* 天才が社会的には、即ち人為的には、生産され得ない神秘的な偶然なものだという思想は、可なり広く行なわれている。そして発明乃至発見というものはそうした天才のものだという考えも決して珍しくはない。例えば「発明の才能は偶発物であり偶然の性質を有っている云々」(Ch. Nicolle, Biologie de L'Invention 1932)。――だがそうすれば発明には何等の合理的な規則的な方法もあり得なくなる。処が実際には、吾々は今日まで多くの発明方法の理論を有っているという事実を忘れることは出来ない(この点に就いては J. Picard, Essai sur la Logique de L'Invention dans les Sciences を見よ)。
 実際には併し、このような非合理主義的発明観乃至発見説と無関係に、一切の発明や発見は社会的必要に逼られて、必然的に発生して来ている。アメリカは何も、コロンブスの冒険的創意によって発見されたわけではなかったし、ワットが鉄瓶の蓋の上るのを見て蒸気汽罐の原理をフト思い付いたということも、完全な近代神話に外ならぬ。で、発明や発見は社会的な客観的必然性によって発生するのであればこそ、一つの社会施設として、発明乃至発見の奨励ということにも初めて意味が生じるわけである。
* J・ワットが蒸気汽罐を「発明」した時には、すでにイギリスではパピンの考案になる蒸気汽罐が、鉱山で技術的に経済的に使われていたのである。ワットの「発明」の主なものは、この蒸気汽罐のコンデンサーをシリンダーの外に装置するように改良しようというパテントに過ぎなかった。それを非合理主義的な発明観や天才説が、鉄瓶神話にまで盛り立てて了ったのである。
 
 Laissez-faire 
 
* 無論こう云っても、発明はどのような条件の下にでも多少とも自然発生的な展開を見せるということを忘れてはならぬ。特に今日のような軍需上の必要が喧伝されているような時代に在っては最も手近かな発明が続々として現われることも可能である。曰く無電飛行機・白粉から鋼鉄を取る発明・強力磁鋼・アルミニウムの銀メッキ・金属性織物・其の他其の他。だが注意すべきは、之等のものが多くは技術の跛行的な発達に寄与する処のものであって、必ずしも技術の正常な発達の因子だとは限らないという点である。
 
 
 
 沿

  The Soviet Patent Law, 1931 

 





 
 
 
 
 
 
 
 
 
 The Soviet Patent Law, 1931, Moscow 
 
 




     



 
 
 
 
 
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 調
 
 
 

 
 
 
 
 
 

 
 使
 
 Burschenschaft

 





 
   1966415251
   1967425153

   193381213

Juki
2011815
20131028

http://www.aozora.gr.jp/







 W3C  XHTML1.1 



JIS X 0213



JIS X 0213-


ローマ数字18    264-上-11
ローマ数字22    264-上-11


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