一
これらの連中がみんな東を指して去ってから後、十日ほどして、一人の虚こむ無そ僧うが大おお湊みなとを朝の早立ちにして、やがて東を指して歩いて行きます。これは机竜之助でありました。
竜之助の父弾だん正じょうは尺八を好んで、病にかからぬ前は、自らもよく吹いたものです。子供の時分から、それを見習い聞き習った竜之助は、自分も尺八が吹けるのでありました。
眼の悪い旅には陸よりも船の方がよかろうと言ったのを聞かずに、やはりこれで東海道を下ると言い切って竜之助はこの旅に就きましたのです。
旅の仕度や路用――それは与兵衛の骨折りもあるが、お豊の実家亀山は相当の家であったから、事情を聞いてそれとなく万事の世話をしてくれたものであります。
尺八は持ったけれども別に門かど附づけをして歩くのでもありませんでした。天てん蓋がいの中から足あし許もとにはよく気をつけて歩いて行くと、それでも三日目に桑名の宿しゅくへ着きました。ここから宮まで七里の渡し。
竜之助は、渡しにかかる前に食事をしておこうと思って、とある焼やき蛤はまぐりの店先に立寄りました。
名物の焼蛤で飯を食おうとして腰をかけたが、つい気がつかなかった、店の前に犬が一ぴき寝ていました。
大きなムク犬、痩せて眼が光る、蓆むしろを敷いた上に行儀よく両足を揃えて、眼を据えて海の方を見ています。
﹁これは家の犬か﹂
﹁いいえ、まぐれ犬でござんす﹂
女中がいう。
﹁それを、お前のところで飼っておくのか﹂
﹁そういうわけでもございませんが、ここに居ついて動きませんので﹂
﹁そうか、これはなかなかよい犬じゃ、大事にしてやるがよい﹂
﹁ほんとによい犬でございます、見たところはずいぶん強そうでございますが、温おと和なしい犬で、それで怜りこ悧うなこと、一度しかられたことは決して二度とは致しません、まるで人間の言葉を聞き分け人間の心持までわかるようでございます﹂
﹁そうか﹂
﹁それですから、近所でもみんな可愛がりまして、御ごぜ膳んの残りやお肴さかなの余りなどをこの犬にやっておりますし、犬もここを宿として居ついてますから、こうしておきますので、もし飼主でも出ましたら返してやりたいと思いますのでございますが﹂
﹁これこれ、お前の名はクロか、ムクか、こっちへ来い﹂
竜之助は天てん蓋がい越ごしに犬の姿をよく見ていると、犬もまた竜之助の方をじっと見ています。
竜之助がこの店を立つと、犬がそれについて来ます。
渡わた場しばまで来ても犬は去りません。竜之助もまた追おうともしません。竜之助が船に乗ると、犬もそれについて船に乗ろうとして船頭どもの怒りに触れました。
﹁こん畜生、あっちへ行け﹂
棹さおを振り上げて追い払おうとしたが逃げません。
﹁乗せてやってくれ、船頭殿﹂
竜之助はなぜかこの犬のためにとりなしてやりました。
﹁これはお前さんの犬でございますかい﹂
﹁そうだ﹂
船頭が不ふし承ょう不ぶし承ょうに棹を下ろすと、犬はヒラリと舟の中へ飛んで乗りました。
桑名から宮まで七里の渡し。犬は竜之助の傍へつききりで、竜之助が舟から上ると犬もつづいて陸おかへ上る。
﹁これ犬﹂
高たか櫓やぐらの神みあ燈かしの下で竜之助は、犬を呼んで物を言う。
﹁おれと一緒にどこまでも行くか﹂
犬が尾を振る。
﹁よし、おれの眼の見える間は跟ついて来い、眼が悪くなった時は、先に立っておれの導きをしろ﹂
犬は竜之助の面かおを天蓋の下から覗のぞき込んでいます。
﹁江戸へ八十六里二十丁、京へ三十六里半と書いてあるな﹂
太く書かれた道みち標しるべの文字を読んで、
﹁鳴なる海みへ二里半﹂
竜之助が歩き出すと、犬もやっぱり尾を振って跟ついて来ます。
犬が竜之助を慕うのか、竜之助が犬を愛するのか、桑名の城下、他たし生ょうの縁で犬と人とに好よしみが出来ました。この二つがどこまで行って、どこで別れることであるやら。
﹁桔きき梗ょう屋やでございます、桔梗屋喜七は手前共でございます﹂
宿やど引ひきの声。それには用がない。竜之助は神宮の方へは行かないで、浜の鳥居から右に寝ねざ覚めの里。
花もうつろふ仇人 の
浮気 も恋といはしろの
結 び帛紗 の解きほどき
ハリサ、コリャサ、
よいよいよい、よいとなア
ツテチン、ツテチン
ハリサ、コリャサ、
よいよいよい、よいとなア
ツテチン、ツテチン
心なき門かど附づけの女の歌。それに興を催してか竜之助も、与兵衛が心づくしで贈られた別べつ笛ぶえの袋を抜く、氏うじ秀ひで切ぎり。伽きゃ羅らの歌うた口ぐちを湿しめして吹く﹁虚きょ鈴れい﹂の本手。明みょ頭うと来うらいも暗あん頭とう打だも知ったことではないけれど、父から無心に習い覚えた伝来の三曲。
呼よび続つぎ浜はまから裁さい断だん橋ばしにかかる。
こうして見れば、机竜之助もまた一箇の風流人であります。
それから浜松へ来るまでは別条がありませんでした。
浜松へ入って、ふと気がつくと、いつのまにかムク犬がいないのです。竜之助は名を呼んでみましたが、姿を見せません。立って暫らく待っていたが、どこから来る様子も見えません。
さすがに物淋しくてなりませんでしたが、尋ぬる術すべもありませんから、一人で浜松の城下へ入りました。浜松は井上河内守六万石の城下。
﹁おい、虚こむ無そ僧う﹂
横おう柄へいな声で呼びかけた武士。振返ったところは五社明神の社前。
﹁おい、虚無僧、こっちへ入れ﹂
社前の広場に多くの武士が群っている。その中から、いま通りかかる机竜之助を呼び止めたものです。
﹁何か御用でござるかな﹂
竜之助は立ち止まって返事。
﹁ここへ来て一つ吹いてくれ﹂
﹁せっかくながらお気に召すようなものが吹け申すまい﹂
竜之助は五社明神の鳥居の中へ入って行きました。
見るとここで武術の催しがあったもの。それが済んで、庭の広場で武士たちが大勢、莚むしろを敷いて茶を飲んでいたところでした。
﹁さあ、そこでまずその方の得意なものを吹いて聞かせろ﹂
﹁別に得意というてもござらぬが、覚えた伝来の一曲を﹂
竜之助は、吹口をしめして﹁鶴の巣すご籠もり﹂を吹きました。誰も吹く一曲、竜之助のが大してうまいというのでもありません。
﹁それは鶴の巣籠、何かほかに﹂
﹁ほかには何も知らぬ﹂
﹁ナニー﹂
﹁ほかに虚きょ鈴れいというのがあるが、これは、おのおの方にはわかるまい﹂
﹁何を!﹂
﹁いや、駆かけ出だしの虚無僧で、そのほかには何も吹け申さぬ故、これで御免﹂
﹁ハハハ、鶴の巣籠を吹いて虚無僧で候そうろうも虫がよい、そのくらいならば我々でも吹く、何か面白いものをやれ、俗曲を一つやれ﹂
﹁…………﹂
﹁追おい分わけか、越後獅子が聞きたい﹂
なんと言われても事実、竜之助には本手の三四曲しか吹けないのだから仕方がない。
﹁なるほど、これは駆出しの虚無僧じゃ、まんざら遠慮をしているとも見えぬわい﹂
一座は興が冷めてしまいました。せっかく呼び込んだ男は一座の手前に多少の面目を失したらしく、
﹁よしよし、それでは代って拙者が吹いてお聞きに入れよう。虚無僧、その尺八を貸せ、こう吹くものじゃ﹂
竜之助の手から尺八を借りて、節ふし面おも白しろく越後獅子を吹き出した。なるほど自慢だけに、竜之助よりは器用で巧うまいから、一座の連中はやんやと喝かっ采さいします。
﹁今度は追分を一つ、それから春雨﹂
調子に乗って、竜之助の尺八を借りっぱなしで盛んに吹き立てると、それで興の冷めた一座が陽気になってしまいました。
さんざん吹きまくった上で、抛ほうり出すようにしてその尺八を竜之助に突返して、
﹁さあ、これがそのお礼だ、その方へのお礼ではない、尺八の借賃じゃ、取っておけ﹂
いくらかのお捻ひねりを拵こしらえて竜之助の前に突き出しながら、わざと竜之助の天蓋へ手をかけて面かおを覗き込もうとする、その手を竜之助は払いました。
竜之助のは正式に允いん可かを受けた虚無僧ではないのです。虚無僧となって歩くことが便利であったからそうしたので、これはその前から流は行やったことで、その真似をしていたのに過ぎないのだから、気の向いた時は吹き鳴らし、気の向かぬ時は吹かず、今までも町道場や田いな舎かの豪家で剣術の好きな人の家に一晩二晩の厄介になったことはあるが、まだ路用に事は欠かないし、尺八の流しによって人の報謝を受けたことはなかったのです。それに今こういう取扱いを受けた竜之助は、
﹁いや、お礼には及び申さぬよ、尺八をお貸し申した代りに、こっちにもちっとお借り申したいものがある、お聞入れ下さるまいか﹂
﹁煙草の火でも欲しいのか﹂
﹁あの竹しな刀いを一本お借り申したい﹂
﹁竹刀を? それは異いな望み、虚無僧が竹刀を持って何をする﹂
﹁お前の頭を打ってみたい﹂
ああいけない、こんなことを言い出さねばよかった。ここで堪かん忍にんしたところが竜之助の器量が下るわけでもあるまい、またこの人々相手に腕立てをしてみたところで、その器量が上るわけでもあるまいに。さりとて竜之助のは、なにも彼等の挙動が癪しゃくにさわったから、それで恨みを含んでいる体ていにも見えません。
思うに武術の庭に入ったために、竹刀を見るにつけ、道具を見るにつけ、その天成の性癖が勃ぼっ発ぱつして、ツイこんなことになったのでしょう。
﹁ナニ、頭を打ってみたい? あの竹刀でこの拙者の頭を? おのおの方、面白いではござらぬか﹂
﹁それは面白い、望み通り竹刀を貸して遣つかわしたがよかろう﹂
﹁それ、望み通り竹刀を一本﹂
﹁かたじけない﹂
竜之助は貸してくれた竹刀を受取って少し退いて、
﹁これは軽い﹂
洗みた水ら盤しの石を発はっ止しと打つと、竹刀の中なか革がわと先さき革がわの物もの打うちのあたりがポッキと折れる。
﹁やあ!﹂
﹁これは役に立たぬ、もう一本貸してもらいたい﹂
折れた竹刀をポンと投げ出す。
﹁無礼な仕方﹂
尺八を吹いた武士は怒る。
﹁おのれ!﹂
木剣を拾って、机竜之助の天蓋の上から、脳のう骨こつ微みじ塵んと打ち蒐かかる。
鳥居の台石へ腰をかけた竜之助、体たいを横にして、やや折おり敷しきの形にすると、鳥居側わきを流れて石畳の上へのめって起き上れなかった男。
﹁憎にっくき振ふる舞まい﹂
一座の連中のなかには老巧の人もいたけれど、こっちにも落おち度どがあるとはいうものの竜之助の仕しう打ちがあまりに面つら憎にくく思えるから、血気の連中の立ちかかるのを敢あえて止めなかったから、勢込んでバラバラと竜之助に飛び蒐かかる。
鳥居の台石からツト立った竜之助は、いま後ろへ流れた男の投げ飛ばした木剣を拾い取ると、それを久しぶりで音無しの構え。
社の玉たま垣がきを後ろに取って、天蓋は取らず。
五社明神の境内はにわかに大きな騒ぎになってしまって、参詣の人、往来の人、罵ののしり噪さわいで立ち迷う。
そこへ仲ちゅ人うにんに割って出でたものがあります。何者かと見ればそれは女。
﹁まあまあ皆様、お待ち下さいませ﹂
思いがけないこと、それは妻恋坂の花の師匠のお絹でありました。
お絹の仕えた神尾の先せん殿との様さまの墓はこの浜松の西さい来らい院いんにあって、そうしてこの浜松の城下はお絹の故郷でありました。
伊勢参りから帰り、お絹はそのお墓参りをしてここに逗とう留りゅうすることも久しくなりました。
﹁危ない、女の身で、引込んでいさっしゃれ﹂
﹁そんなことをおっしゃらないで、お待ち下さいまし﹂
お絹は竜之助と浜松藩の武士の間へ身を以て入り込んでしまいました。
﹁さきほどから拝見致しておりますれば、ほんに詰つまらない行きがかり、殿方が命のやりとりをなさるほどのことでもござんすまい、女の身で出過ぎたことでござんすが、ただ通りがかりの御縁、どうぞこの場はお任せ下さいまし。それとも喧嘩をなさるなら、このわたくしをお斬りあそばして、それから後になさいまし。女をお斬りあそばしたところでお手柄にもなりますまい、どうかお任せ下さいまし﹂
そこへ一座のうちの老巧連が飛んで来て、
﹁いや、おのおの方も大人げない、旅の者一人を相手にして、勝っても負けても手柄にはなるまい、あとは拙者共に任せるがよい﹂
そこでこの喧嘩は、無事に引分けとなってしまいました。
竜之助はそのうちに、消えてなくなるようにさっさと明神の社内を出てしまいました。
続いて社前を出たお絹、しばらく竜之助の後ろ姿を見送っていましたが、伴ともの女中を呼んで、
﹁お前、あの虚無僧さんを追いかけて、わたしの家へ来るように言っておいで、丁てい寧ねいにそう言って、一緒にお連れ申しておいで、もし聞かなかったら、どちらへおいでなさるのですかといって、その行先を尋ねてごらん、それも言わなかったら、どこへ泊るかそれを見届けておいで﹂
二
その晩、机竜之助とお絹とは、西来院の傍かたわらなる侘わび住ずま居いで話をするのが縁となりました。
﹁どちらかでお見かけ申したように思いますよ﹂
二人の間には火鉢があって、引ひく馬ま野のを渡って来る夜風が肌寒いから、竜之助は藍あい木もめ綿んの着衣の上に大おお柄がらな丹たん前ぜんを引っかけていました。
﹁江戸へ帰ろうと思う﹂
まぶしそうな眼をして、独ひと言りごとのように言う。
﹁お急ぎではござんすまい﹂
﹁別段に急ぎもせぬが﹂
﹁それでは、こちらに御逗留なさいませ、わたしも江戸へ帰ろうか、それともこちらで暮そうかと考えているところでございます﹂
﹁急ぐ旅でもないが……﹂
﹁そうなさいまし……江戸から来てみると、どうも淋しいこと、御覧の通り。ここは浜松も城下を西北に外はずれておりまして、わけてこの近所はお寺が多いものですから、夜などは墓場の中にいるようなもので、自分ながら、たとえ三日でも、よくこんなところに辛抱ができるようになったかと感心しているのでございます、もう女も、こうして淋しいところが住みよくなるようでは廃すたりでございますね﹂
吉田通れば二階から招く、しかも鹿かの子この振袖で……というのは小唄にあるが、これは鹿の子の振袖ではない、切髪の被ひ布ふの、まだ残んの色あでやかな女に招かれたこと。
竜之助は、不思議な女だとも思い、旅の一興とも思う。
その夜はこの女と共にさまざまの物語をして後、十畳の一間へ床を展のべてもらって竜之助は寝る。
その夜、どうしたものか竜之助の頭がクラクラとする。ガバと褥しとねを蹴けって起き上る。
秋草を描いた襖ふすまが廻り舞台のように動き出す、襖の引手が口をあく、柱の釘くぎ隠かくしが眼をむく。
蒲ふと団んの上に坐り直した竜之助は、声を立てようとして舌が縺もつれる。
﹁まあ、どうかなさいましたの﹂
その声で竜之助は眼を見開いてホーッという息。
﹁大へんな魘うなされ方ではありませんか﹂
再び眼を見開いたつもりであったが眼に力がありません。蒲団の上から差さし覗のぞいていたのはお絹でありました。
﹁夢でもごらんになったのですか、お冷ひ水やでもあがって、気をお鎮めなさいまし﹂
枕まく許らもとにあった水みず指さしから、湯呑に水をさしてお絹が竜之助の手に渡しました。顫ふるえた手で竜之助はその湯呑を受取ろうとして取落す。
﹁おやおや、水をこぼして﹂
お絹は困って、片手で何か拭ふくものを探そうとしました。竜之助は、またその湯呑を取り直そうとしました。その二人の手が重なり合った時に、ハッとしてそれを引込ませました。
﹁気が落着いたら、ゆっくりお休みなさい、まだおかげんが悪ければ女中を起しましょう﹂
﹁いや、もう大丈夫、お世話になって相済まぬ﹂
お絹は竜之助が落着いたのを見て、自分の寝床へ帰ってしまいました。
竜之助の感はいよいよ冴さえて眠れません。
眠れないでいると、一間隔てた次の間で、すやすやとお絹の寝息が聞えます。軽い寝息、吐いて吸う軟やわらかな女の寝息、すういすういと竜之助の魂に糸をつけて引いて行くようです。ややあって寝返りの音。
髪の毛が枕まく紙らがみに触さわる。中なか指ざしが落ちたような、畳に物の音、上になり下になり軟らかい寝息。
﹁眠れぬ、眠れぬ、由よしないところへ泊った﹂
竜之助は反側する。にわかに寝息が低くなって、そして聞えなくなる。枕許の水を、手さぐりにしてまた一口飲んでみる。
途と絶だえた寝息がまたすやすやと聞える。
﹁ああ﹂
懊おう悩のうした竜之助は、太い息を吐いて仰向けに寝返ると、お絹の寝間で軽い咳せきがする。
﹁眼が覚めたのかな﹂
枕許へ何か掻き寄せるような畳ざわりの音。お絹も、どうやら眼が覚めたらしい。
夜具を掻きのけたかと思われる様子で、やがてキューキューと帯を手た繰ぐるような音。竜之助の頭は氷のように透きとおる。
襖が開く、衣きぬずれの音。
﹁眠れますか。眠れますまいねえ﹂
襖の蔭から半身が見える、白しろ羽はぶ二た重えに紗しゃ綾あや形がた、下には色めいた着流し。お絹は莞にっ爾ことしてこっちを見ながら、
﹁わたしも眠れないから、お邪魔に来ましたよ、こんな永い秋の夜を一人で寝飽きるのもつまりませんからねえ。わたしの方へおいでなさいまし、面白いお話を致しましょうよ﹂
竜之助は悽せい然ぜんとして、この女の大胆なのに驚いたが、驚いて見れば何のこと、それはやっぱりあらぬ妄想、感が納まって夢に入りかけた瞬時の幻覚に過ぎないで、一間へだてた次の間では、お絹の寝息がいよいよ軟らかく波を打つ。
その夜は明けて、翌朝になると、竜之助の眼が見えなくなりました。
三
机竜之助が東海道を下る時、裏うら宿じゅ七くし兵ちべ衛えはまた上かみ方がたへ行くと見えて、駿する河がの国薩さっ峠たとうげの麓の倉沢という立たて場ばの茶屋で休んでいました。ここの名物は栄さざ螺えの壺つぼ焼やき。
﹁お婆さん、栄螺の壺焼を一つくんな﹂
蜑あまが捕りたての壺焼﹇#ママ﹈を焼かせて、それをうまそうに食べていると、
﹁御免よ、婆さん、壺焼を一つくんな﹂
七兵衛と向い合いに腰をかけた人。銀ごしらえの脇わき差ざしを打ぶっ込こんだ具合、笠の紐の結び様から着物の端はし折ょりあんばい、これもなかなか旅慣れた人らしいが、入って来ると笠の中から七兵衛をジロリと見ました。
﹁婆さん、いくらだね﹂
七兵衛は壺焼の代を払おうとします。
﹁六十文いただきます﹂
﹁ここへ置くよ﹂
七兵衛は百文ばかりの銭ぜにを抛ほうり出して出ると、
﹁婆さん、いくらだえ﹂
銀ごしらえの脇差も同じように壺焼の価あたいを聞く。
﹁四十文でよろしゅうございます﹂
﹁ここへ置くよ﹂
同じく百文ばかりの金を投げ出してこの男が出たのは、七兵衛がもう薩峠の上りにかかろうとする時分でありました。
幸いに晴れていて、富士も見えれば愛あし鷹たかも見える。伊豆の岬、三保の松原、手に取るようでありますが、七兵衛は海道第一の景色にも頓着なく、例の早足で、すっすと風を切って上って行く。
七兵衛をやり過ごして、同じ栄さざ螺えの壺焼屋から出た旅の男は、これもすっすと風を切って上って行く。七兵衛も足が早いがこの男も足が早い。みるみる七兵衛に追いついてしまいました。
﹁どうも結構なお天気でよろしゅうございますな﹂
お愛あい想そうを言って、つと七兵衛を通り抜いてしまう。
﹁へえ、よいお天気で……﹂
と七兵衛は返事をしたものの、さっさと自分を抜いて行く銀ごしらえの男の歩きぶりを見ると癪しゃくに触さわりました。この俺を抜いて歩く奴、小こづ面らの憎い振舞をしたものかな、よしそれならばこっちにも了りょ簡うけんがあると、七兵衛は足に速力を加えて歩くと、見るまにまた銀ごしらえの脇差を追い抜いてしまいます。
﹁どうもお天気がようがすな﹂
七兵衛は、銀ごしらえの脇差を尻しり目めにかけて通ると、
﹁へい、よいお天気で……﹂
その男もまた、負けない気で足に馬力をかけました。
二人は、ついに雁がん行こうして歩き出してしまいました。
七兵衛は、妙な奴だと思うから別に言葉もかけず、そうかと言ってこうなると抜かれるのも癪だから、ずんずん歩いて行くと、その男もまた口を結んで七兵衛と押並ぶようにして歩いて行く。
はて、今まで旅をしたが、こんな奴に会ったことがない、別に怖こわいことも気味の悪いこともないが、足の早いのが癪だ、そうして、自分に足で戦いを挑いどむような仕打ちがいよいよ癪だ。
しかし、いよいよ峠を下り切るまでこの男は、七兵衛より後にもならず先にもならず、ほとんど相並んで歩いて来たが、ほら村へ出ると身みの延ぶみ道ち。
﹁旦那、私はここで失礼を致しますよ、はい、身延へ参詣に参りますもので﹂
七兵衛に挨拶して法ほっ華けだ題いも目くど堂うから右、身延道へ切れてしまいました。
七兵衛は、興おき津つの題目堂で変な男と別れてから、東海道を少し南へ廻って、清しみ水ずみ港なとへ立寄り、そこで小こは半んと時きも暇をつぶしたが、今度は久くの能うざ山んみ道ちを駿すん府ぷへ出て、駿府から一里半、鞠まり子この宿しゅくもさっさと素すど通おりをして上へ上へとのぼって行くのでしたが、ちょうど、鞠子の宿の池田屋源八という休み茶屋の前を通りかかると、
﹁もしもし、それへおいでなさる旅の旦那へ﹂
茶屋の中から言葉をかけたものがあります。
﹁エエ、お呼びなさいましたのは?﹂
七兵衛ふりかえると、店先でとろろ汁を食べているのは、薩さっ峠たとうげで競争をしかけた、銀ごしらえの変な男。
﹁これはこれは﹂
さすがの七兵衛も、少し面めん喰くらって立ち止まると、
﹁まあ、おかけなさい、ここは名物のとろろ汁、一つ召し上っておいでなさいまし﹂
﹁お前さんは身延へ行くとお言いなすったが……﹂
﹁ええ、身延へお参詣をすましてその帰り路なんでございます﹂
﹁冗じょ談うだんじゃねえ﹂
﹁へへ、それは冗談でございます、身延へ行くつもりでしたけれども、途中でまた気が変ったものでございますから﹂
﹁そうだろう、それでは俺わしもひとつ、とろろ汁をいただきましょう﹂
身延へ切れたのは嘘うそ、やっぱりこの変な男も上かみへのぼって行くものでありました。それにしても早い、自分がちょっと清水港で用を足している間に、本街道を早くもかけ抜いて、ここでとろろ汁を食っているのだから、七兵衛もなんだか一杯食わされたような気持がするのでありました。
﹁これから名なだ代いの宇うつ都のや谷とう峠げへかかるのでございますから、草わら鞋じでも穿はき換えようじゃあございませんか﹂
﹁そうしましょうかな﹂
二人はとろろ汁を食べて、草鞋を穿き換えて、いざ、とこの茶店を出立しました。
﹁ずいぶんお達者な足でございますな﹂
﹁お前さんもかなり達者なことですね﹂
﹁どちらからおいでなさいました﹂
﹁俺わしは甲州からやって参りました﹂
﹁今晩はどちらへお泊りで﹂
﹁いえ、その、まだ……﹂
﹁浜松あたりはいかがで﹂
﹁なるほど、浜松までエエと﹂
﹁浜松まで、これからざっと二十里でございますな﹂
﹁二十里、なるほど﹂
﹁大井川と天竜川の渡し、こいつが、ちっと手間が取れましょう﹂
﹁なるほど﹂
﹁なあに、手間が取れたら、徒かちでやっつけるんですな、雲助が追っかけたら逃げる分のことで﹂
旅には慣れきったような男であります。七兵衛は、こいつ人を呑んでかかっていると思ったから、
﹁時に、お前さんは何御商売ですね﹂
﹁ハハハハ﹂
銀ごしらえの男は、ワザとらしい高笑いをして、
﹁まず、お前さんと同商売かね﹂
﹁なに、俺と同商売?﹂
﹁ハハハハハ、まあ急ぎましょう﹂
ハハハと笑って口をあいて見せた歯はな並みが、ばかに細かくて白い。歳としは、そうさ、七兵衛よりも十と歳おも若いか、笠を取って見たら、もっとずっと若いかも知れない。
いよいよ変な奴と七兵衛は思いました。
こうして二人は、鞠まり子この本ほん宿じゅくから二にけ軒ん家や、立たて場ばへは休まずに宇うつ都のや谷とう峠げの上りにかかりました。
﹁旦那、ここらで一ぷくやって参りましょうかね﹂
銀ごしらえの脇差が腰をかけたのは名代の猫石、木ぶりの面白い松があたりに七八本。
﹁どうも大変なところへ連れ込まれた﹂
七兵衛もまた大きな石へ腰をかける。
﹁これが古いにしえの蔦つたの細ほそ道みち、この石が猫石で、それ猫の形をしていましょう、あれが神じん社じゃ平だいら﹂
﹁なるほど、本街道はたびたび通るが、蔦の細道というのはこれが初めてだ﹂
﹁時に親方﹂
銀ごしらえは改まった言葉つき、旦那と呼んでいたのが親方になりました。
﹁何だ﹂
﹁仕事が一つあるんだが、付合ってもらいてえ﹂
﹁仕事? 品によりゃ付合わねえもんでもねえ、言ってみねえ﹂
銀ごしらえの眼と七兵衛の眼がピッタリ合う。
﹁こういうわけなんだ﹂
銀ごしらえは、吸いかけた煙草を掌てのひらではたいて、それを筒つつに納めながら、
﹁小こて天んり竜ゅうを渡るとそれ、中の町というのがある﹂
﹁うむ﹂
﹁京と江戸とのちょうどあそこが真中で、ドチラへも六十里というところよ﹂
﹁そんなことも聞いている﹂
﹁その小天竜と中の町の間に大きな寺があらあ﹂
﹁なるほど﹂
﹁天竜寺という名前だけは知っていらあ、宗しゅ旨うしは何だか知らねえ﹂
﹁それがどうしたんだ﹂
﹁その寺へ今夜仕事に入りてえと、こういうわけなんだ﹂
﹁ケチな仕事じゃあねえか、寺を荒すくれえなら……﹂
﹁まあ待てよ、そこにはまた種たねと仕しか掛けがあるんだ。その天竜寺という寺へよ、この三日ばかり前から遊ゆぎ行ょう上しょ人うにんが来ているんだ﹂
﹁ゆぎょう上人ていのは何だい﹂
﹁藤沢の遊行上人よ﹂
﹁なるほど﹂
﹁そいつをひとつおどかしてみてえと、こういうわけなんだ﹂
﹁遊行上人をかい。お前、遊行上人というのは大したものじゃねえか、小おぐ栗りは判んが官んのカラクリで俺もうすうす知っている。しかし、どっちにしたところで坊さんは坊さんだ、逆さに振ってみたところで知れたものじゃねえか﹂
﹁それはそうよ、なにもこちとらが遊行上人を逆さに振ってみようとは言わねえ、その上人をめあてに集まる近国の有うぞ象うむ無ぞ象うども、そこに一つの仕組みがあるんだ、上人は上人でお十じゅ念うねんを授けている間に、こちとらはこちとらで自分の宗旨を弘める分のことよ﹂
﹁なるほど﹂
﹁まあ、来てみねえ、仕事がいやならいやでいい、おたがいに足並みはわかったから、これからお手並み拝見というところだ。俺おいらのお手並みが見てもれえてえから、それでわざわざお前さんに毒を吹っかけたのだ。さあ、日のあるうちに浜松泊り、それからゆっくり天竜へ逆戻りをして一仕事﹂
七兵衛は承知をしたともしないとも言わずに、直ぐまた変な男に連立って、蔦つたの細道を下って湯谷口から本街道へ出て西を指して急ぐ。変な男に名を聞くと、﹁がんりき﹂と呼んでもらいたいと言う。二人はあまり口を利きかずに急いだが、金かな谷やざ坂かあたりでがんりきが、
﹁鼠小僧という奴は面白い奴よ、姫路の殿様の近所にやっぱり大きな殿様のお邸があって、そこでお能舞台が始まっている時のことだ、殿様がこっちから見ていると、舞台の真中に、年のころ十八九ばかりで月さか代やきの長く生えた男が伊だて達も模よ様うの単ひと衣えも物のを着て、脇差を一本差して立っているのを殿様が見みと咎がめて、あれは何者だ、ついに見かけない奴、不届きな奴、追い出せとお沙汰がある、家来たちが見ると、お能役者のほかに人はいない、殿様はなお頻しきりに逐おい出せ逐い出せとおっしゃる、仕方がないから舞台へ上って追う真似をしてみたがなんにもいやしない、そのうちに舞台の上を見ると紙かみ片きれが落ちている、拾って見るとそれに﹃鼠小僧御能拝見﹄と書いてあった、殿様の眼にだけはその姿がちらついたんだが、ほかの者には誰も見えなかった。悪いた戯ずらをしたものよ﹂
こんなことを話し出しているうちに、金かな谷やから新しん坂ざかへ二里、新坂から掛かけ川がわへ一里二十九町、掛川から袋ふく井ろいへ二里十六町。
そこでまたがんりきが、
﹁松まつ平だい周らす防おう守のかみというのは大阪のお奉行様であったかな、その周防守のお邸が江戸にあって残っているのは女ばかり、そこへ附け込んだ鼠小僧、女ばかりのところを二度荒したってね。一ぺんは、長なが局つぼねの部屋という部屋の障子へ一寸ぐらいずつの穴があけてあった、そこからいちいち覗いて見たもんだね。一人の女中の部屋では鼈べっ甲こうの笄こうがいや簪かんざしをみんな取り出して綺麗に並べて置いて、銀簪なんぞは折り曲げて並べて行ったとね。周防守のお妾さんの部屋では箪たん笥すから紫むら縮さき緬ちりめんの小袖を取り出して、それを局つぼ境ねざかいの塀の返しへ持って行って押おっ拡ぴろげて張っておいたそうだが、それで金銀は一つも盗られなかったとやら。いや、何を取られたか知れたものじゃない、ハハハハ﹂
白い細かい歯並を見せて笑う。七兵衛をして、こいつがその鼠小僧ではあるまいかと思わせるくらいに、ちょっと凄すご味みの利く代しろ物もの。
袋井から見みつ附けへ四里四町、見附から池田の宿、大天竜、小天竜の舟ふな渡わたしも予定通り日の中に渡って中の町。
﹁あれが天竜寺﹂
横目に睨んで浜松の町へ入る。
﹁いよいよ浜松だ、日にっ本ぽん左ざえ衛も門んで売れたところよ。日本左衛門という奴は、また鼠小僧とは貫かん禄ろくが違う、あの大将は手下に働かせて自分は働かず、床しょ几うぎに腰をかけて指さし図ずをしていたもんだ。平ふだ常ん、黒羽二重の紋付を着て、雑ぞう色しきは身に着けなかったという気象だ。鼠小僧はこちとらに毛の生えた質たちの奴で、子分を持たずに一人で鼠のように駈け廻った男だが、日本左衛門は虎になりそこなった大おお物ものだ、乱世ならば一国一城の大名になり兼ねねえ奴だ﹂
こんなことを言いながら浜松の町を真直ぐに通って、
﹁広いようで狭いというのがこの土地だが、それでも町の長さは二十八丁あって、家やか数ずは三千からある。さあ、ここらで泊るとやらかそう﹂
てんま町へ来て大おお米ごめ屋や一郎右衛門とある宿屋へ着く。
牛に曳ひかれて浜松まで来た七兵衛。さて数えてみれば、薩峠の前を別にして、あれからでも約三十里の道。
湯から上った七兵衛、
﹁がんりきさん、天竜寺の一件はどうしたい﹂
腰を落着けて飲んでいたがんりき、
﹁今夜は駄目駄目、明日のことだ﹂
七兵衛も坐り込んで二人飲みながらの話。どこの部屋に、どんなのがいて、あれは景気は好さそうだがその実懐ふと中ころに金はあるまいとか、こちらの方に燻くすぶっている商人体ていの一人者は、あれでなかなか持っていそうだとか、あの夫婦者は実は駈かけ落おち者ものだろうとか、この宿屋の客の値ね踏ぶみをがんりきと七兵衛がする、どちらも商売柄、その見るところがたんとは違わない。最後にがんりきが、
﹁そのなかで、俺の眼の届かねえのがたった一つあるが、お前はどう思う﹂
﹁うむ、二階の二番のあれだろう﹂
七兵衛の返事、おたがいの合がっ点てん。
﹁どうもあいつはわからねえ﹂
﹁俺にもわからねえ﹂
﹁よし、もう一ぺん確めて来る﹂
がんりきは便所へ行くようなふりをして、いま噂うわさに上った二階の二番の前をなにげなく通って前後を見廻してから、そーっと障子の傍へ立寄ると、持っていた太い針のようなものを嘗なめて些ささやかな穴を障子の隅へあけて、部屋の中を覗のぞきます。
十畳の間、真中に紙しち張ょうが吊ってあって、紙張の傍に朱しゅ漆うるし、井いげ桁たの紋をつけた葛つづ籠らが一つ、その向うに行あん燈どんが置いてある。
やがてまたもとの部屋へ立戻ったがんりき。七兵衛が待っている。
﹁どうだ、当りがついたか﹂
﹁駄目だ、やっぱりわからねえ、紙張の中に人がいるのかいねえのか、その見当もむずかしい﹂
﹁そりゃいる、人はいるにはいるがな﹂
﹁さあ、その人が男か女か、若い奴かまた老人か、それがわかるか﹂
﹁そりゃ男だ﹂
﹁男なら幾いく歳つぐらいで、侍か町人か、または百姓か職人か﹂
﹁そりゃ侍よ﹂
﹁はてな、それではあの葛つづ籠らを何と了りょ簡うけんした、井桁の朱漆の葛籠よ﹂
﹁あの中か、ありゃあ女物よ、あの中には女物が入っている﹂
﹁えらい! よく届いた。葛籠の中には女物で金かね目めの物が入ってる、そうしてみると、いよいよわからなくなる﹂
﹁それを今、俺も考えているところだ、紙張の中に武士がいて、紙張の外には女物の葛籠ということになると、この判じ物がむずかしい﹂
﹁第一、わざわざ紙張を吊らせて寝るということからがおかしいけれど、あの寝ねざ様まを見るがいい、ああして壁へも障子へも寄らず真中へ寝たところが心得のある証拠だ、ただものでは無ねえ﹂
﹁どうだ一番、あの紙張の中と、葛籠の中、鬼が出るか蛇じゃが出るか、俺とお前の初はつのお目め見み得えにはいい腕比べだ、天竜寺の前まえ芸げいにひとつこなしてみようじゃねえか﹂
﹁そいつもよかろう﹂
﹁それでは籤くじだ﹂
がんりきは早速、紙で籤をこしらえる。七兵衛が短いのを引いて、がんりきが長いのを引く。それでがんりきがニッと笑って、
﹁兄貴、それじゃお先へ御免を蒙こうむるよ﹂
﹁しっかりやってくれ﹂
﹁まだ早いな﹂
また一口飲んで、蒲ふと団んを敷いてもらって、二人は寝込んで夜の更ふけるのを待っています。
がんりきが夜更けて再び忍んで行った時に、かの部屋の燈あか火りは消えていました。障子の外で暫らく動よう静すを窺うかがっていたがんりき。暫らくすると音もなく障子があいて、がんりきは部屋の中へ入ってしまいます。
身を畳の上に平ひら蜘ぐ蛛ものようにして、耳を澄まして寝息を窺ったが、紙張の中に人ありやなしや。
がんりきの眼は闇の中でもよく物が見えます。それはがんりきに限ったことはない、盗みをなす人は大抵は皆そうであるはずです。
畳の上に吸いついて紙張の中を見ていることやや暫く、どうしてもがんりきに判断がつかぬ、合がて点んがゆかぬ。
彼も七兵衛との話の模様では、一ぱしの盗人であろうけれど、紙張の中が何者であるか、起きているか醒めているかさえ、どうしても合点がゆかない。それを知るべく小こは半んと時きを費ついやしてしまったのですがついに解決がつかないで、そのまま蟻ありの這うように井いげ桁たの葛つづ籠らの方へ寄って、やっと片手をその葛籠へかけました。
がんりきは腹はら這ばいながら、左の片手を井桁の葛籠の一端へかけたが、かけたなりで、また暫くじっとして紙張の中の動静を窺うかがう。
紙張の中は、やはり静かであって、ウンともスウとも言わぬ。
それからまた身から体だをずっと乗り出して、葛籠の紐ひもへ手をかける。蟻が芋いも虫むしをひきずるように、二寸ばかりこっちへ引き出しました。
﹁占めた﹂
紙張の中には誰もいないのだ、いるにしても死んでいるか眠っている。がんりきは、モウ占めたとばかり、ずいと葛籠を引き寄せること一尺。この時、紙張の裾が、扱しごいたようにグッと鳴る。
がんりきは、ついと飛び退のいた。一尺余りの白刃が、紙張の裾から飛び出して、がんりきの眼と鼻の上を筋すじ違かいに走って、そうしてその切きっ尖さきはガッシと葛籠の一端に当る。
ついと飛び退いたがんりき。その時は、もう白刃は紙張の裾に隠れてしまって、紙張の中は前と同じように音もなければ声もない。
二尺ばかり飛び退いたがんりきはそこで脇差の柄つかに手をかけて、いま白刃の飛び出した紙張の裾と、葛籠の間を見ていること半時ばかり。いつまで見ていても紙張のうちは前と少しも変らない。がんりきの方もまた、最初から終しまいまで一ひと言ことも立てないのであります。
紙張と葛籠を相手に妙な暗闘、とうとうがんりきの精せい根こんが尽きたと見えて、ジリジリと退却、紙張と葛籠を睨めながら、脇差に手をかけたなりで、あとじさりに敷居を越えて、ついに部屋の外へ出てしまいました。それでも感心に障子は元通りに締めておいて、
﹁降参、降参﹂
﹁どうした﹂
狸たぬ寝きね入いりをして待っていた七兵衛の枕許へ来たがんりき、そこで兜かぶとを脱ぐ。
﹁とても俺の手には合わぬ、兄貴いくなら行ってみろ﹂
﹁弱い音ねを吹くじゃねえか﹂
七兵衛は起き上る。七兵衛も寝ながら後ごづ詰めの身ごしらえしていたが、がんりきからいま忍び込んだ様子の首尾を逐ちく一いちきいて、
﹁なるほど、そりゃいけねえ、こっちよりたしかに一枚上だ、せっかくだが、俺もやめる﹂
七兵衛は身仕度を解ほぐしはじめる。
﹁チェッ﹂
がんりきは舌を鳴らして、
﹁このままで引込むのも業ごう腹はらだ、明日になったらひとつ正体を見届けての上で、物にしなくちゃならねえ﹂
﹁天竜寺の方は、どうする﹂
﹁そりゃ後廻し﹂
二人はこうして寝込んでしまう。今度はほんとうによく眠りつづけて、翌朝、ほかの客よりもおそくまで眼が覚めませんでした。
その翌朝、大米屋の前へ二挺の駕か籠ごが止まると、主人や番頭が飛んで出て頭を下げました。
ほどなく二階の二番の部屋から女中に手を引かれて静かに出て来た人、がんりきと七兵衛が多年の老巧を以てしてついに何者であったか見抜けなかった人。
女中に手を引かれて歩いて来ても、やっぱり何人であるかはわからない。それは黒の井いげ桁たの紋付の羽織と着物を重ねていたが、面かおと頭は黒くろ縮ちり緬めんの頭ずき巾んで隠していたから。
女中に手を引かれたのは眼が不自由なためらしい。そうして、脇差を差して刀を提げて、悠々と店先まで出て来ると、駕籠の垂たれが上ってその中から姿を見せたのはお絹。
駕籠につづいて馬が来る、その馬には明あけ荷にが二つ、いずれも井桁の紋がついている。そうすると、二階から下ろされたのは、ゆうべ問題になった朱漆の井桁の葛つづ籠ら。
二つの駕籠が勢いよく乗り出すと、つづいて葛籠を載せた馬の鈴の音。
﹁見たかい﹂
﹁見た﹂
﹁あやつは盲めく目らだぜ﹂
﹁盲目だ﹂
﹁後ろの駕籠を見たかい、後ろのを、あの女を﹂
﹁その女が、俺の知っている女だから不思議だ﹂
七兵衛はこう言う。
﹁兄貴、あの切髪の女をお前が知っているのかい﹂
がんりきが不審がる。
﹁知っている、たしかに知っている、言葉をかけようと思ったが、かけちゃあ悪かろうと思ってかけなかった﹂
﹁そりゃ乙おつだ。してみりゃあ、前の駕籠へ乗った奴の当りもついたろうな﹂
﹁そりゃ、やっぱりわからねえが﹂
﹁なんしろ近ごろ好い鳥がかかった、おおかた今夜は掛川泊りだろう。兄貴、仕度は出来たかい﹂
二人は、もうすっかり旅の用意が出来た上に朝食まで済んでいるのでした。
四
それと同じ日の夕方のこと。
どこから来たか西の方から来て、浜松の町を歩んで行く一人の子供がありました。
﹁かわいそうに、あの子供は跛びっ足こだね﹂
それは撞しゅ木もく杖づえを左の脇の下にあてがって、頭には竹たけ笠がさを被かぶって、身には盲めく目らじ縞まの筒つつ袖そでの袷あわせ一枚ひっかけたきりで、風呂敷包を一つ首ねっこに結ゆわいつけて、それで長の道中をして来た一人旅の子供と見えるから、それで町のおかみさんたちも、おのずから同情の眼を以て見るようになったものと見えます。
しかし悪太郎どもは悪太郎どもで、
﹁やい、跛びっ足こが来た、あれ見ろ、跛足のチビが来やがった﹂
古ふる草わら鞋じを投げたり、石を抛ほうったりして、
﹁こっちを向いて睨みやがった、おい、あの面つらを見ろ、ありゃ子供じゃねえんだぜ﹂
なるほど、悪いた戯ずらをしかけた悪太郎どもの方を睨みつけた旅の子供の面かおを見れば、決して子供ではありませんでした。
﹁かわいそうに、あの子供は跛足だね﹂とせっかく同情を寄せた町のおかみさんたちまでが、笠の下からその面を見た時には呆あきれてしまって、
﹁おやおや、あれは子供じゃなかったんですね﹂
と言いました。
笠を被﹇#﹁被﹂は底本では﹁破﹂﹈ったなりで見れば子供に違いないけれど、笠の下からその面を見れば、子供ではないのです。
﹁なんだか河かっ童ぱみたような、気味の悪い﹂
これは子供でもなし、また河童でもなし、宇治山田の米よね友ともでありました。
通るところの人々から同情されたり侮ぶべ蔑つされたりしながら、米友は伊勢の国から、ともかくもここまで、その一本足で歩いて来たものであります。一本の足が折れて使えなくなったけれども、米友の敏びん捷しょうな性質は変ることはなく、かえって他の一本の足の精力が、他の一本へ集まって来たかと思われるほどで、撞しゅ木もく杖づえを上手に使ってピョンピョン飛んで歩くと、普通の人の足並には負けないくらいの早さで歩いて行かれるようであります。
﹁帯屋七郎左衛門、なんだか御ごた大いそ層うな家だ、俺おいらの泊る家じゃねえや﹂
米友は今夜泊るべき宿屋を探しているものと見えます。
﹁鍋屋三郎兵衛、こいつも俺おいらの歯には合わねえ﹂
大きな宿屋の看板を見てはいちいち排斥して歩いて行く。
﹁大米屋一郎右衛門﹂
これはがんりきや七兵衛が、駕籠と馬のあとを追うて今朝出て行った宿屋。
﹁これもいけねえ﹂
米友は身分相応な木きち賃んや宿どかなにかを求めているのだが、それに合格するのがついに見出せないで、浜松の城下をほとんど通りつくしてしまいました。
広いようで狭い浜松の町はここで尽きて、米友の身は馬まご込めが川わの板橋の上に立っていました。振返ると、浜名の方に落ちた夕ゆう陽ひが赤々として、お城の方の森蔭にうつっています。
﹁ああ、今夜も野のじ宿ゅくかな。これからまもなく天竜川の渡し、そこへ行くまでの間で、社やしろかお寺の庇ひさしの下をお借り申さなくちゃあならねえ。それとも夜通し突っ走って、行けるところまで行こうかしら﹂
米友は思案しながら松並木を歩き出して、天神町の立たて場ばから畷なわ道てみちを、宿になりそうなところもがなと見廻しながら行くと、ほどなくやぐら新田というところあたりへ来てしまいました。
﹁何だい、あそこで大へんな燈あか火りがする、御ごえ縁んに日ちでもあるのかな﹂
東へ向って左手の方、五六町も離れて少し小高くなったところに、大きな屋根が見えてあって、その周囲に町が立っています。
﹁行ってみよう﹂
米友はそこへ杖を枉まげて、
﹁なるほど、大きなお寺だ。御縁日なんだな。よしよし、このお寺の裏の方にどこか寝るところがあるだろう﹂
表の方は人が雑ざっ沓とうしているけれども裏の方は誰もいない。表の方は昼のような明るさであったが、裏の方は真まっ闇くら。
米友は裏から廻ってこっそりと本堂の縁の下へもぐり込んでしまいました。蜘く蛛もの巣を分けながらちょうど須しゅ弥みだ壇んの下あたりのところへ来て見ると、いいあんばいに囲いになって身を置くようなところが出来ていましたから、そこへ荷物を卸おろして、
﹁やれ安心、これでようやく今日の旅はた籠ごがきまった﹂
米友はそこに納まったが、頭の上は本堂の広間、いっぱいに人で埋まっているような様子。階段から庭、庭から海道筋の方へかけては、人の足音がしきりなく聞える。
本堂の中にはいっぱいの人が集まっているようだけれども、そのわりあいに静かであります。そうして時々、南なむ無あ阿み弥だ陀ぶ仏つ、南無阿弥陀仏という声が海つな嘯みのように縁の下まで響いて来ます。
このお寺は、がんりきや七兵衛がめざして来た天竜寺でありました。いま本尊の側わきの高いところで説教をしている六十ばかりの、至極痩やせた老体がすなわち遊ゆぎ行ょう上しょ人うにんなのでありました。
鼠色の、ずいぶん雨風を浴びた袈けさ裟ごろ衣もをかけて、帽子を被り珠じゅ数ずを手首にかけながら、少しく前こごみになって、あまり高い音声ではないが、よく透とおる声で、
﹁さいぜんも申す通り、我等が境きょ界うがいは跣はだ足しこ乞じ食きと同じ身分じゃ。それにまたこんなに紫の幕を張って、御朱印つきで旅をするというのは我等の心ではない、お役人がそうしてくれるから、そうしている分のことよ。決して我々を、上人だの名僧だのといって有難がってはいけぬ。こうして旅をして歩いて、どこでバッタリと倒れて死ぬかわからぬ身じゃ、なんの我等に貴いところがありましょうぞ、ただただ念仏往生の道を守るのみじゃ。さあさあ、お望みとあらばこれから名みょ号うごうを授けて上げる。それじゃというて、これだけの人数が一度に押しかけられたのではわしがたまらぬ、そこへ木戸を拵こしらえておいたから、先に来たものから争わずに、こちらへ一人ずつ入って来なさるがよい﹂
遊行上人はこういって、座ざ右うの箱に入れてあった名号の小札を一ひと掴つかみ無むぞ造う作さに取っておしいただくと、肩かた衣ぎぬ袴ばかまを附けた世話人が、
﹁さあさあ、皆さんや、これから上人様がお手ずからお名号をお授け下さる、結けち縁えんのお方はこれより一人ずつお通り下さい、お受けになったお方は、あちらからもとのお席へお直りなさるように﹂
静粛なもので、三尺ほどの入口から順々に上人の前へ出て名号をおしいただいて、一廻りしてもとの席へ戻って来るのに、みんな一応お先へお先へと言って辞じ儀ぎをしました。
﹁さあさあ、お持ちなさい、お持ちなさい﹂
上人の言葉つきからお授けぶりが、いかにも気軽であります。
名号を受ける人は、老ろう若にゃ貧くひ富んぷをおしなべて少ない数ではありませんでした。一生に一度こんな貴い上人のお手ずからの名号をいただく冥みょ加うがの嬉しさ、これが罪ざい障しょ消うし滅ょうめつ、後ごし生ょう安あん楽らくと随喜の涙にくれているものばかりであります。
﹁お前は少しお待ち﹂
いま上人の前に出た五十ぐらいの頑がん丈じょうな男、その男には上人が容たや易すく名号を渡すことをしませんでした。
﹁お前は、もと船乗をしていたろうな﹂
﹁はい、左様でございます﹂
頑丈な男は額へ手を当ててお辞儀をしました。集まった人は何事かと思いました。
﹁その船乗をしていた時に、難船に逢って死んだ者がある、その金をお前は取って遣つかったろうな﹂
﹁へへへ、へえ﹂
五十男はしどろもどろになりました。
﹁そうしてお前はまだついぞ、その人の菩ぼだ提いをとむろうたことがない、その罪があるによって、お前にはこの名号を授けたところで往生は覚おぼ束つかない﹂
一座はこの時に、しーんとしてしまいました。
五十男は慙はじ入って下を向いてしまっているのを上人は、
﹁さだめて今お前の身には、骨ほね節ぶしがところどころ痛むであろうな、終いには身から体だが腐ってしまうぞ。それが怖ろしいからここへ来たものであろうが、まだまだ罪が消えてはいないによって、あちらへ行っているがよい﹂
この時、当人のほかに一人、この席の一隅へ紛まぎれ込んで様子を見ていた男が、きまり悪そうに肩をすぼめました。それはがんりきでありました。
がんりきは、席の隅に小さくなっていたが、上人の船乗に言った言葉が、なんだか自分に当るように思われて肩をすぼめ、横を向いてしまいました。
がんりきが胸を打たれた次に、
﹁お前さんには二枚上げる﹂
上人は、その次に来た若い婦人には名みょ号うごうの札を二枚やったのであります。
﹁有難うございます、有難うございます﹂
女はおしいただいて次へ通って行く。がんりきの傍で人の話、
﹁あれは身持ちなんだよ、あの女は身持ちのおかみさんだ、上人様にはどうしておわかりになるか、わたしどもが見たんでは、まだ様子ではわからないうちに、上人様はちゃんとお見分けなされて、身持ちの女には必ず二枚ずつをお授けなさる﹂
がんりきはそれと聞いて、いよいよ煙けむそうな面かお。
その次には、おそろしく衣いし裳ょうを飾ってお化粧をした町ちょ家うかの年とし増ま。
﹁おやおや、あれは浜松の酒屋のお妾さんだが、どうして信心ごころが起ったろう、大へんにめかし込んで来たが﹂
その女が上人の前へ出ると上人が、
﹁ああ、お前の身には不ふじ浄ょうがある。それを洗って来なければお札は上げられない﹂
女は真赤になって俯うつ向むいてしまいましたが、やがて何か気がついたらしく、
﹁ああ、どうも済みませんでございました﹂
気軽に上人の前を辞して、暫くたって庫く裡りの方へ引返しながら、
﹁ほんとうにどうも、上人様の前へはうっかり出ることはできません。わたし今日、何の気なしにいつもの通り白おし粉ろいを塗る時、鶏たま卵ごの白味を使ったものですから、それで上人様が不浄があるとおっしゃいました。それ故、お湯に入ってこの通り素すが面おになって参りました﹂
どこで湯に入って来たか白粉をすっかり洗い落して、再び上人様の前へ出ると、上人はなんとも言わずに札を授けてやりました。
それから何人もずんずんと進行していきましたが、あとからあとからと詰めかける人で、いくら静かにしても自然、押合いの気味になります。上人は、また一人の男に向って、
﹁これこれお前は、どうも穀こく物もつ渡とせ世いをしているようだが、桝ます目めを削けずって金銭を貪むさぼるような様子が見える。その日その日の暮しを立てる食物の、量を削って己おのれを肥こやそうとするような者には往生はできぬ、心を改めて出直しなさい、今日はお札は上げられぬ﹂
その男は苦にがい面をして恐れ入りました。
﹁そらごらんなさい、あれは中の町で松屋といって、饑きき饉んど年しから太らせた米屋だ、心を改めて出直しなさいと言われっちまった、そうなくちゃあならねえ﹂
﹁えらいもんですな、上人様がなにもこの土地に居ついておいでなさるわけじゃなし、当人がそれを喋しゃべるわけじゃなし、それでちゃあんと掌てのひらを指すように言い当てておしまいなさる、あれが仏ぶつ眼がんというものでございますな。ああなると神じん通ずう力りきを得ておいでなさるから、とても外うわ面べだけを飾って出たところで仕方がありませんな﹂
﹁そうですとも、ああいうところへは馬鹿は馬鹿なりに、悪人は悪人なりに、正しょうのまま持って行ってお目にかけるよりほかは仕方がござんせんな﹂
﹁どうです、おたがいがまあ、ああ言って人の前でスパスパすっぱぬきをやろうものなら忽たちまち大事が持ち上ってしまいますな、白粉を薄くつけようと厚くつけようと大きなお世話だ、なんて啖たん呵かを切られた日には納まりがつきませんな。それをどうです、大勢の前でスパスパとやられて一いち言ごんもなく恐れ入っちまうなんぞは、人にん徳とくというものは大したものですな﹂
﹁心の出来た人ほど怖ろしいのはござんせん。あれでお前さん、上人様は御自分では跣はだ足しこ乞じ食きと同じ身分だとおっしゃって、ほんとうに乞食同様な暮らしをしておいでなさるんだが、将軍様であろうとも公く卿げさまであろうとも、私共と附合うのと同じようにしておいでなさる、ああなると貴賤貧富がみんな同じことにお見えなさるんだね﹂
﹁さあ参りましょう。私共なぞもお札がいただけるかいただけないか、とにかく正しょうのままをお目にかけてお願い致してみましょうでございます﹂
隠居さんのようなのが一人立ちかけて、ふと懐中へ手を入れてみましたが、
﹁おや﹂
﹁どうかなさいましたか﹂
﹁たしかに持って参った懐中物が﹂
﹁お懐中物が? それはそれは﹂
﹁おやおや、私も大事な紙入が……﹂
﹁あなたも?﹂
﹁あれ、わたくしの簪かんざしがどこぞに落ちておりは致しませんでしょうか﹂
がんりきの周まわ囲りで、あちらにもこちらにも紛失物の声がありましたので、四あた辺りがにわかに物ぶっ騒そうになります。
坐っていたものまでが総立ちで騒ぐと、事がいよいよ穏おだやかでなくなって、おたがいの眼つきになんとなく疑いの色がかかるから、皆々いやな気持がしてしまいました。
﹁御用心をなさいまし、よくない奴が入り込んでいるようですから﹂
﹁何です何です、泥棒ですか、早く掴つかまえておしまいなさい﹂
それでいよいよ騒ぎが大きくなると遊行上人が、
﹁ああ、これこれ静かに。何かまたよくないことをするものがこの席へ入り込んだと見える、わしがよく見て上げるから静かになさい﹂
この一ひと言ことで騒ぎが静まると、上人は一座をずうっと見廻したが、その眼ががんりきの面の上へ来てハタと止りました。
上人の眼は眼光爛らん々らんというような眼ではありません。眉まゆ毛げの下から細く見えるくらいの眼でしたが、ずっと席を見廻すと、がんりきのところへ来て上人の眼がハタと留まりましたものですから、がんりきはまたギクッとしました。
そこで上人はこう言いました、
﹁人の欲しいと思うものを取ったところで、それは己おのれの福ふく分ぶんにはならぬものじゃぞ。金が欲しいならば、この集まりが済んでから、わしのところへ相談に来てみるがよい、多分のことはできまいが、いくらかの都つご合うはして上げる、人の物を盗むというのはよろしくない。さあ、この席のことはこの席限り、昔犯おかした罪でも、神妙に懺ざん悔げをすれば仏様が許して下さる。今日はこれおたがいが、後ごし生ょう往おう生じょうのためというて集まったこの席で、人の物を盗ろうというものは、よくよくお気の毒な性しょうに生れついたものじゃ。盗った品はここへ出しておしまいなさい、今も申す通り、この席のことはこの席限り、盗られた人も許して下さるであろうし、盗った方もたちどころに罪が消えるのじゃ﹂
こう言って、しーんとした席を見渡す、見渡すのではない、がんりき一人の面だけを、じっと見詰めておられるようにしか思われませんから、さしものがんりきは、なんとなくまぶしくなって、面を上げていられないで俯うつ向むいてしまいました。
上人からこう言われて、誰か名乗って出るだろうと、一座はいよいよ静かになっているが、いっこう名乗って出るものもありません。
そのうちにがんりきは、そーっと後ずさりをして人ひと混ごみに紛まぎれて扉の側わきからこの席を抜け出でようとすると、上人が、
﹁世話人衆﹂
と世話人を呼びました。
﹁へえ﹂
肩かた衣ぎぬ袴ばかまをつけた世話人が上人の前へ出て頭を下げると、
﹁今あの扉の外へ出ようとする男、あの男をちょっと呼び止めてこれへつれておいでなさい﹂
﹁へえ﹂
世話人と警衛の者三四名、人を分けてバラバラとがんりきの傍へ寄って来る。それと見て近くにいた人も立ち上ってがんりきの袖そでを控えて、
﹁まあお待ちなさい﹂
﹁何をしやがる﹂
がんりきはその男を突き飛ばすと四あた辺りはまた総立ち。
﹁盗どろ賊ぼう!﹂
がんりきを取押えようとかかるのを、
﹁ええ、小こし癪ゃくな真似をしやがる﹂
二三人を手玉に取ったがんりき、扉から欄らん干かんを一足飛びに縁の敷石の下まで飛び下りた身の軽さ。どこといって逃げ場所がないから、がんりきは縁の下へ逃げ込んでしまいました。
警護の侍たちや参詣の群衆は直ぐに縁の下へ追いかけましたが、それに捉つかまったのは運悪く、がんりきでなくて米友でありました。
米友は旅の疲れで、ついうとうとと眠りかけているところを、遮しゃ二に無む二に折重なって、
﹁いた、いた﹂
﹁な、な、なにをするんだい﹂
寄ってたかって米友を縁の下から引張り出したのであります。
別に悪いことをしたわけでもないからと思って米友は、別に抵抗もせずに引き出されて来たのでありました。明るい所へ出して見ると、
﹁おやおや﹂
取とっ捉つかまえた連中も少し呆あきれ面がおです。いま追いかけたのは、もっと身のこなしが人間らしい男であったが、これは子供、子供のように見える大人、大人のように見える子供。
﹁こりゃ違う﹂
誰が見ても米友とほかの人とは一見して区別がつくのであります。
﹁同類の者であろう﹂
違ったとはわかったけれども、それでも厳きびしく押えて逃がそうとはしません。
﹁それ、遠く逃げないうちに、もう一度探してみろ﹂
米友は米友で押えておいて、またがんりきを探しにかかる。いつまでまごまごしているものではない、がんりきの姿はどこを尋ねても見えるものではありませんでした。
﹁とにかく、そいつを引ひっ括くくれ﹂
役人は米友を縄なわにかけようとする。
﹁おや、俺おいらを縛るのかい、なんで俺らを縛るんだ﹂
引き出される時は尋常に引き出されて来た、ともかくも、黙って縁の下へ寝たのは悪い、悪いところはあやまった方がよかろうと思うから、尋常に引張り出されて来たのであるが、言いわけも聞かないで縄にかけるというのはいかにも了りょ簡うけんがなり兼ねる、それはひどい、無理だ、と思ったから米友はムキになりました。
﹁なんで俺らに縄をかけるんだか、それを言ってもらいてえ﹂
﹁貴様はこの下で何をしていた﹂
﹁ここで寝ていたんだ﹂
﹁嘘うそを言え、もう一人の仲間はどうした、白状しろ﹂
﹁仲間? 仲間がどうしたんだ、俺らは一人きりなんだ、一人で旅をして来てここへ寝たんだ、仲間なんぞはありやしねえ﹂
﹁嘘を言うな、太い奴だ﹂
警衛の役人が米友の横よこ面つらをピシャリと一つ撲なぐりました。
﹁おや、撲ったな﹂
さあ米友が承知しない、両の腕に力を籠こめてうんと振りもぎると、押さえていた二三人がよろよろとよろけて手を放す。
﹁ナゼ俺おいらを打ぶった!﹂
米友はそこいらにいるのを二三人まとめて抛ほうり投げてしまって、お堂の欄干の上へ飛び上りました。
﹁それ荒あばれ出した、怪我をするな﹂
六尺棒だとか、刺さす棒ぼう、突つく叉またなんという飾り道具を持ち出して、米友を押えようという騒ぎになってしまいました。
﹁どうして俺らはこんなに人に間違えられるんだ、悪いことをしねえのに悪者にしてしまやがる、ほんとに口く惜やしいなあ﹂
ほんとに口惜しい、米友は無邪気で痛烈な歯は噛がみをする、米友の身にとればほんとに口惜しいに違いないのです。
﹁仕方がねえから逃げちまえ﹂
逃げちまえといっても、下へは逃げられない、本堂は人がいっぱい。
﹁和尚様﹂
米友は素すば早やく人の中を潜くぐり抜け、人の頭を飛び越すようにして遊行上人の膝のところへ来てかじりつきました。
﹁和尚様、助けておくんなさい﹂
この一場の騒ぎで席が乱れても遊行上人は、もとの座に坐っていましたが、
﹁どうしたのだ、お前は﹂
﹁どうしたって和尚様、ほんとに口惜しくってたまらねえや、人を見ると悪者にばかりしてしまやがる。和尚様、お前は出家だから人助けをしてくれるだろう、俺らが悪者か悪者でないか、お前の眼で見たらわかりそうなものだ﹂
米友は遊行上人に噛かじりついてこう言ってしまいました。
﹁わかるわかる、お前は悪者ではない﹂
﹁そうだろう、それ見ろ﹂
米友は遊行上人を唯一の味方に取った気でいる。
﹁まあまあ静まってくれ、この男は決して悪者ではないから勘かん弁べんしてやってくれ﹂
遊行上人が手を挙げてなだめると、それでまた騒ぎが静まってしまいました。
﹁それ見ろ、この坊さんが知ってらあ、見る人が見りゃあ、ちゃあんとわかるんだ、お前たちは盲めく目らだ、この坊さんはなかなかえらい﹂
﹁お前はどこから来たのじゃ﹂
﹁伊勢の国から来て、江戸の下谷の長者町の道庵先生というところまで行くんだが、たびたびこんな目に会ってぶん撲なぐられたりふん縛じばられたりしたんじゃあ、ほんとにやりきれねえ。それに和尚様、おらあ、この通り片足が悪いんですからね。この片足でお前様、東海道を江戸まで、ひょこひょこ歩いて行こうというんですからね。不かた具わも者のだから世間が不ふび憫んをかけてくれてもいいんだろう、それをお前、あっちでも粗末にしたり、こっちでもぶん撲ったり、俺らの身にもなってみねえな、ずいぶん辛いよ﹂
聞いている者は、無邪気な米友の憤慨を聞いて吹き出したうちにも、なんとなく眼に涙を持ってきて、なるほどこれは悪人ではないという気になりました。
遊行上人も米友の言いぶりを聞いて微笑しました。
五
いつか天竜を渡って秋あき葉ばさ山んみ道ちの淋しい辻堂の中。
﹁昨ゆう夜べくれえドジを踏んだことは無ねえ、めざして来た乗物を天竜寺へ追い込んで、こいつは鴨が葱ねぎを背負って来たようなものだと思ったら、なあーんのこと、向うの方が上うわ手てで、天竜寺へ参詣と見せて籠かご抜ぬけだ、それにあの坊さんに腹ん中まで見透かされて、命からがら逃げ出して来たなんぞは、近来に無え図の失しく敗じりだ﹂
がんりきが愚ぐ痴ちをこぼすと七兵衛が笑いながら、
﹁俺もおかしいと思ったよ、裏で、いま合図があるか、いま合図があるかと待っていたが、いつまでたっても音沙汰が無え、そのうちに泥棒! という騒ぎになったから、こいつ失しく敗じったなと思って逃げ出したが、自分ながらばかばかしい﹂
﹁兄貴の前へも面目が無え。それにしても、あの遊行上人という坊主は只ただ者ものじゃねえな﹂
﹁そりゃあそうさ。いったい、遊行上人に食ってかかろうというお前の了りょ簡うけ方んかたがわからねえ、ほかに仕事がねえじゃあるめえし﹂
﹁それにゃ兄貴、仔わ細けがあるんだ、あの坊さんに意趣も遺恨もあるわけじゃあねえが、頼まれたことが一つあるんだ、それは名前は言わねえが、ほかの宗旨の奴から頼まれたというのは、これがんりき、貴様も忍びと盗ぬす人っとにかけちゃかなりの腕だそうだが、どうだ一番、遊行上人のものを盗んでみろと、こういうのだ﹂
﹁なるほど﹂
﹁遊行上人であろうとも、弘法大師であろうとも、盗もうと思ったらきっと盗むと、まあこんなふうに啖たん呵かを切ってみたものよ﹂
﹁なるほど﹂
﹁ところがその頼んだ奴の言うことには、がんりき、そう易く言うが、この相手はちいーと違うぞ、なんしろそれ、仏ぶつ眼がんとやら神じん通ずう力りきとやらで、人の心をちゃあんと見抜いてしまう坊さんだから、いくらお前が忍びや盗人が上手でも、うっかり傍へも寄れめえとこう言うんだ﹂
﹁なるほど﹂
﹁そう言われるとこっちも癪しゃくだあな、よし、向うが仏眼なら、こっちもがんりきだ、一番その遊行上人とやらを遣やっ付つけましょうと、こう両もろ肌はだを脱いじまった﹂
﹁なるほど﹂
﹁よし、お前がその意地なら腕に撚よりをかけてやってみろ、幸い、あの遊行上人は、天てん竺じくから来たという黄き金んの曼まん陀だ羅らの香こう盒ごうというものを持っている、それをしじゅう懐ふと中ころへ入れているからそれを盗んでみろと、こう言うのだ﹂
﹁なるほど﹂
﹁ようがす、その香盒とやらの形はどんなものだと聞くと、直さし径わたし三寸ぐらいの丸い小ちっぽけなもので、黄き金んで出来ていて、曼陀羅とかお題目とか、むずかしいものが彫ってあるんだそうだ﹂
﹁なるほど﹂
﹁そこでまあ意地と二人で、よしと請うけ合あって来てみるとあの始末だ。なあに、これは仕しか掛けがあって、誰か上人の方へ筒抜けをする機から関くりだとこう思ったから、小手調べに二つ三つ手近なやつを引ん抜いてみたら驚くじゃねえか、ちゃあんとあの上人が見抜いてしまやがった。あの人混みの中で、どうしてまあこっちの業わざがわかるんだか、実際あの坊主の眼がん力りきには、このがんりきも降参したよ﹂
﹁なるほど﹂
﹁けれどもこのままじゃ引込めねえ、あの上人も、こちとらを出し抜いた乗物も、みんなあと先になって東へ下るんだ、仕事はまだこれからよ。兄貴、お前もここで外はずすのは惜しかろう、盗ぬす人っと冥みょ利うりだ、行くところまで行きねえな﹂
﹁いいとも﹂
この日、遊行上人もまた天竜寺を出でて東へ下りました。
一行六人、それに米友を加えて七人の旅でありました。
この一行のために船賃も橋賃も御免でありました。わざわざ出て来て拝む者もありました。宿しゅくへ着くと羽織袴の人が迎えに来て、紫の幕が張ってある本陣へ案内するのでありました。
それがために米友の旅は非常に楽なものでした。一文も自じば腹らを切らずに、到るところ大だい切じにされて通ります。
駿する河がの府中まで来ると遊行上人の一行は、世の常の托たく鉢はつ僧そうのような具合にして、伝馬町の万よろ屋ずやというのへ草わら鞋じを脱いでしまいます。
今こよ宵いは紫の幕もなければ領主からの待遇も避けて、ただあたりまえの旅客として泊り合っただけです。
風呂にも入り、夕飯も済んで、挟はさ箱みば担こかつぎはどこへか用足しに行ってしまい、米友はまだ寝るには早いから坐っていると、長なげ押しに槍がかけてあります。
﹁槍、ヘヘン、槍がありやがる﹂
米友は槍を見てニコニコ笑い。
﹁久しぶりだから、ひとつ使ってみてやろうかな﹂
部屋の隅にあった碁盤と将棋盤を持って来て、それでやっと取り下ろしたのが九尺柄の素すや槍り。
ちょうどこの日に、机竜之助もまたこの宿に泊っていたのであります。
竜之助がひとりで酒を飲んでいるところへ、お絹が風呂から上って来ました。
﹁またいやな奴がついて来ましたよ﹂
﹁誰が?﹂
﹁浜松の大米屋でお前さんを覘ねらったという奴﹂
﹁うむ、あれか﹂
﹁あれがまたこの宿へ入り込みましたよ、執しゅ念うね深んぶかいやつらったら﹂
﹁放ほうっておけ、今夜来たらば……﹂
竜之助がグッと一口飲む、燈ともしびの光で青白い面かおが熱ほてる、今夜来たらば……叩き切ってしまうというものと見えます。
﹁まあ、およしなさい、道中は無事に限りますから、またひとつ裏を掻かいて、出し抜いてやりましょう﹂
お絹は竜之助の面を見て笑う。こうして見れば、二人は夫婦気取りで旅をしているようです。
お絹が竜之助をたよるのか、竜之助がお絹をたよるのか。お絹は浜松へ引込んでしまおうかと思ったのを、ふと、竜之助が来たので、また一緒に江戸へ出ることになったらしい。竜之助もまたお絹によって、難儀なるべき道中をともかくも心安く江戸へ下ることができるというものらしい。
机竜之助のいたところと、遊行上人の泊っていた一間とは襖ふすま一重の隔たりでありました。
眠れないでいた竜之助には、その夜更けて、不ふ夜やの念仏をしていた上人の許もとへ忍び寄った二人の盗ぬす賊っとと、それに驚かなかった上人の問答をよく聞くことができました。
初めはこう思っていました――これは自分のところへ来るつもりの盗賊が、間違って隣りへ来て僧侶を驚かしたものらしいと。
ところが問答を聞いていると、盗賊は別にこの僧侶に望みをかけて来たものらしいのであります。
事起らばと、竜之助は枕許の刀を取って待っていたが、何事も起らずに、盗賊共は帰ってしまって、僧侶があとで人を呼んで騒ぎでもするかと思えば、そんな様子は更にありませんでした。
こんなふうにして、駿河の府中から出た竜之助とお絹の駕籠、それをまた後になり先になって跟つけて行くがんりきと七兵衛。
本道を行かずに久くの能うざ山んへ廻って、一の鳥居に近いところで駕籠を卸すのを見定めた七兵衛が、がんりきへ耳打ちをしました。
久能山の鳥居の前で、
﹁もしもし、そこへおいでになる奥様﹂
がんりきが呼びかけたので振向いたお絹、
﹁どなた﹂
﹁へえ、お初にお目にかかります、私でございます、あなた様のよく御存じの七兵衛の友達でございます﹂
がんりきが小腰をかがめて笠の紐を解く。
﹁七兵衛のお友達? そうしてわたしに何か御用が……﹂
﹁へえ、別に用もございませんが、少しばかりお話し申し上げたいことがありまして﹂
﹁何のお話ですか﹂
﹁ここじゃお話しにくいんで……﹂
﹁なにもそんなに話し悪にくいことはありやしますまい、ここでお聞き申しましょう、歩きながらお聞き申しましょう﹂
﹁左様でございますか、そんならそれでよろしゅうございます。いったい、あなた様はあの七兵衛という男が、今どこへ何しに行ったと思おぼ召しめしなさいますか﹂
﹁七兵衛がどうしました﹂
﹁お前様はすっかりあの七兵衛に出し抜かれておしまいなすった、ここでお話しにくいと申し上げたのは、それなんで。私共は、いちいち七兵衛の魂こん胆たんを喋しゃべってしまいたいと思いますが、こんなところでひょっとして人の耳に入っても大事はございませんか﹂
﹁ようござんすとも、誰に聞かれたってちっとも苦しいことはありません、言ってごらん﹂
﹁なに、大したことじゃございません、あなた様とお連れのお乗物、あの中のは、たしか、なんと言ったけな、机竜之助か、そんな名前の剣術の出来る先生でしょう﹂
﹁それがどうしたというの﹂
﹁どうもしませんけれど、お気の毒なことにはあの先生も今頃は、首になっていらっしゃることでしょう。それを知らずに、こんなところをブラブラしておいでなさるあなた様の気が知れませんね﹂
﹁何ですと、あの人が首になる? そりゃまた、どうしたわけでしょう﹂
﹁どうしたわけだか、そりゃお前様の方が胸に覚えがおありなさるでしょうから、申し上げるまでもありませんが、まあ勿もっ体たいをつけずに底を割ってお話し申し上げれば、こういうわけなんでございます。七兵衛と私とが、お前様とあの盲めく目らの先生とをつけ覘ねらったのは昨日や今日の話じゃあございません、浜松の大米屋以来のことで。私の方は初しょ手てからの他人だが、七兵衛の方はお前様にお近づきがある、その上もう一人の盲目の剣術の先生、あれが大変なもので、七兵衛はあの先生を尋ねるためにこの東海道は幾度歩いたか知れねえと言うんで。そういうわけでございますから、道中こっちの方にはちゃんと仕組みが出来ていたんで。巧うまく企たくらんで、あの先生をこっちのものにしてしまう、細工は隆りゅ々うりゅう、今日という今日は、きれいに生いけ捕どってしまって、さいぜん駕籠にお乗りなすったままそっくりお連れ申して、そこで今頃は三保の松原へ連れて行かれて、首になっているだろうと、こういうわけなんで﹂
﹁わたしにも似合わない、すっかり老おや爺じに引っかけられてしまった﹂
お絹は駈け出して、前さきの茶店の方へ行こうとすると、
﹁まあ、待ちなさいまし﹂
がんりきはその袖を控えて、
﹁まだ、お話し申し上げることがあるんでございます、それだけでは、まだほんの序じょの口くちで、盲目の剣術の先生や七兵衛が今どこにいるか、それもおわかりになりますまい﹂
﹁三保の松原だと言ったじゃないか﹂
﹁三保の松原には違いありませんが、三保の松原も広うございますから。なあに、まだ大丈夫でございます、首になるような気きづ遣かいはございません、とにかく一通りお聴きなすって﹂
﹁早く話してごらん﹂
﹁ここまでは私も七兵衛の方へついて片かた棒ぼうを担かついでやりましたが、これから一番、裏切りをして、お前様の方へ忠義を尽してみてえんで﹂
がんりきは、お絹を人通りの少ない木立の方へ引張り込むように並んで歩いて、
﹁ナニ、七兵衛の友達といったからって通り一遍の仲なんですから、どっちへ転んだって、大した義理が欠けるわけじゃございません、あの野郎にこれだけ尽しておけば、これからまた持もち役やくを替えて踊ってみてえんで……その机竜之助という剣術の先生、それは敵かた持きもちのお方でござんしたね、敵と覘ねらう相手がちょうど船で清水の港へ来ているんで。そうして七兵衛と打合せがしてあって、江えじ尻りの宿の外はずれで名乗りかけることにしておいたのを、お前様方が久能山道へお廻りなすったものですから、趣が変って三保の松原という段取りになったので……それで鶴屋へ送り込むようにおっしゃったあの乗物を、途中から七兵衛が行って折おり戸どの方へ曲げて、三保の松原へ連れ込んだところなので。そこには敵かたきの相手の、なんと言いましたか、まだ若い人だそうで、その人が待っている、その上に荒っぽい船のやつらが網を張って逃げられねえようにしている、そこのところへ、あのお乗物がすっぽりと陥はまり込んだというわけですから、いい気なのは待ちぼけを食わされたお前様だ、その魂胆を一通り御注進に参ったので。いやどうも、頼まれもせぬに、飛んだ御苦労な役目でございます﹂
六
伊勢の国大おお湊みなとから出た若山丸は無事に伊勢の海を出て、東海の航路を駛はしって行ったのでありましたが、乗手の中にただ一人、無事でなかったのはお玉でありました。お玉はこの舟に乗ってから、芸名のお玉を改めて本名のお君に返りました。慣れぬ船の中で、船ふな暈よいに悩まされ通しであったのがこのお君でありました。
伊勢を出る時から頭が上らなかったのが、遠えん州しゅ灘うなだへ来ると、もう死人のようになってしまいました。このまま船を進めれば、お君は船の中で死んでしまうよりほかはないと思い、
﹁お松様、どうも苦しゅうございます、わたしはモウこの辺で船から卸おろしてもらいとうございます、とても船でわたしの身体は江戸まで持ちそうもありませぬ、こんな身体をしてお世話をかけては皆様にも申しわけがありませぬ、どこでもようございますから卸して下さいませ﹂
苦しさのあまりにお君はこう言って訴えました。船で悩む人には土よりほかに薬はない、お君の苦痛を救うには願い通りに船から卸して、土を踏ませるに越したことはないのです。そこでちょうど、船頭のなかに知合いのものがあって、遠州の三みは浜まというところへ船をつけて、そこで一行からお君だけを卸してしまったのであります。船から卸して、そこの漁師の家で暫らく保養をさせておいて、ほかの連中は先を急ぐのですから、後日を約して、ここでひとまず袂を別わかつことになりました。
﹁お君さん、それではお大だい切じになさいまし、私共はひとまず駿河の清水港というところへ船やどりをすることになっていますから、そこからお迎えをよこします故、どうか安心して待っていて下さい﹂
お松はこう言って慰めました。それを頼りにしてお松とお君とは、泣きの涙でしばしの別れを惜しんだのであります。
僅かの間でしたけれども、二人は姉妹のような仲になっていたのでした。
海で悩んだ病気は陸おかへ上ると、横おう着ちゃ者くものみたように癒なおってしまいました。二日も床に親しんだお君は、もうほとんど常の身から体だと言ってもよいくらいになってしまいました。
厄介になっている漁師夫婦、べつだん悪者ではないが、亭主は酒が好きで、よく夫婦喧嘩をする。身体が癒ってみると、いつまでもこんなところに厄介になっていることは心苦しい上に、漁師夫婦は、若山丸の船頭からお君のためといって相当の手当を貰っているくせに、それは遣つかい果して今度は、お君の持っているいくらかの用意に眼をつけ出し、それにまた酒の上で、この亭主が年とし甲が斐いもなくお君の仇あだな姿を見て、へんなことを言い出し、それを山の神が疑ぐり出して、喧嘩が始まる、子供が泣き出す、近所隣りが仲裁に来るという騒ぎですから、お君はとうとう五日目に、居いた堪たまらなくなってここを逃げ出しました。
お君の心では、お松に言われた通り駿河の国清しみ水ずの港まで尋ねて行く覚悟でありました。
家の者が寝静まった頃を見計らって、宵よいのうちから用意しておいた手荷物を取とり纏まとめ、草ぞう履り穿ばきでこの漁師の家の裏口から首尾よく忍び出てしまいました。
家を駈け出すと浜辺の広い原、宵の明みょ星うじょうが高く天神山というのから東へ外はずれて光っている。まばらに見える漁師の家の屋根、どこでもまだ竈かまどの烟けむりを上げているところもありません。暁とは言いながら、星をたよる闇やみ夜よと同じことで、お君はそこを一生懸命で、順路はここから北へ国くに安やす川がわというのに沿うて行き、掛かけ川がわの宿へ出て、東海道本道に合するということを聞いていましたから、その心持で北を指して出かけました。
無むふ分んべ別つで出て来たお君。生れ土地から尾おべ上や山まの外へ出たことのないお君。東の空に光る宵の明星をめあてに、只ひた管すらに二里ばかり歩きつづけましたが、そこで一筋の広い道が東から来て筋すじ違かいになるところの庚こう申しん塔とうの前に立って、行先に迷うていました。めざして行く掛川はどの辺で、出て来た三浜の漁村はどこであったか、それさえ見当がつきません。
掛川へ出て、清水港へ行くつもり。旅芸人の中に入ってなりとも、その目的を果すにさして困難はあるまいと思っていたが、どうして、僅かに浜からここまで来てさえこの足、もう右へ行ってよいのか左へ行ってよいのかわからなくなってしまったものを、二十里三十里の清水港までどうしてこれで旅がし通せよう。お君は自分の足が覚おぼ束つかなくなるにつれて心細さが増してきました。
ちょうどその時分、東がようやく白しらんで、いずこの里かで鶏の鳴くのが聞えました。空の明るくなることは、人の心をも明るい方へ持って行く、鶏の鳴く音は、人里懐しい響を伝えるので、お君も気が引立ちました。そうしていま眼の前へ出た広い道を取って一里ほど行って、とある百姓家の裏で水を汲んでいた百姓のおかみさんに、
﹁もしもし、あの、掛川へ行くには、この道を行ってよろしゅうございましょうか﹂
お君がたずねると、水汲み女房は訝いぶかしそうな眼をして、
﹁掛川へおいでなさる? そりゃ違いますよ、掛川へ行くには、これから一里ほど戻って街道がありますから、それを真直ぐに行くのですよ﹂
こう教えられてお君はガッカリしました。それでは最初きた道を真直ぐに行けばよいのであったものを。といって、これからまた一里の道を引返す勇気は更にありません。
﹁そうでございますか、どうも有難うございます、そうして、この道を行けばどこへ出るのでございましょう﹂
﹁この道を行けばお前さん、中なか泉いずみの宿の方へ出てしまいますよ、掛川は東、中泉は西ですから、まるっきり方角が違いますね﹂
﹁そうですか、それでは﹂
こうなるとお君の頭が混乱してしまって、無むや暗みに向いた方の道へさっさと歩き出しました。
東へ行くつもりで西へ来た、ここでお君は考えてしまいました。東の方はまだ知らない空、西の方が故郷に近い。東から遠ざけられて西へ行く自分は、やっぱりそちらの方に縁があるのではあるまいか。いっそそれでは東へ行くことをやめて、西へ帰ってしまおうかしら。
一時のはかない心休めに、いっそ故郷へ帰ってしまおうかと思ってみたが、﹁自分の身はお尋ねになっている身であった﹂ということを考え出して、
﹁そうそう、わたしは盗人という濡ぬれ衣ぎぬがまだ乾いていない身であった、古ふる市いちへ姿を見せれば、直ぐに縄目にかかる身であった、さあ故郷へは帰れない﹂
今になって、そのことが急に思い出されてきました。
﹁米友さんはどうしたろう、ムクはどうしたろう、わたしは、やっぱり帰れやしない﹂
お君は、そこでまた呆ぼう然ぜんとして立ち尽してしまいました。
さまざまに思い乱れつつも、お君は西を指して歩きました。
日がだんだんに昇る。日は昇っても人の通りは尠すくない秋の野路、それを半日も歩いていると、饑うえと疲つかれで足が動かない。何というところか、田舎の外はずれ、馬ま子ごなどの休みそうな一ぜん飯屋の隅で辛からくも、朝あさ餉げと昼飯とを一度に済ませて、それから中泉と聞いて歩いて行きましたが、少したって中泉はと尋ねてみたら、また横道へ入ったと言われて、もう気を落してしまって、それからは足が動かず、ちょうど見つけたのが八はち幡まんの森。その森蔭で休もうとすると、小さいながら人一人を容いれて余りある祠ほこら。お君はその中へ入って、風呂敷包を抛ほうり出してほっと息をついたのでありました。
﹁お母さん、お母さん﹂
お君は悲しさと懐しさで、母を慕うて声をあげた時に、仮かり寝ねの夢が破れました。夢が破れて見ると、いつのまにか日は暮れかかって、祠の外から、西の海へ沈む夕焼けが赤々として本堂を洩れて、格こう子しの透すき間まからお君の面おもてにまで射し込んでいるので、夢よりはいっそう切せつないわが身に返りました。
旅寝の疲れで夢を見て、母を恋い慕うて覚めて見れば、身はひとり寝の祠の中で、外は日暮れの物淋しい夕焼けの色です。
眼が覚めてもお君は、もうここを立ち去る気にはなりませんでした。荒こう涼りょうたる心の中、さすらい尽した魂に射し込む夕焼けの色は、西の空に故ふる郷さとありと思う身にとって、死んでその安楽の故郷に帰れと教えぬばかりの色でありました。
鳥は古巣へ帰れども
行きて帰らぬ死出の旅
行きて帰らぬ死出の旅
今まで無心で歌っていた歌。
﹁ああ、死んでしまおう﹂
お君はここに初めて死の決心を起しました。
死の決心がひとたび定まったために、生の重荷がことごとく振い落されてしまいました。
お君は祠の隅を見廻して破れた太鼓に眼をつけて、それを梁はりの下まで転ころがして来ました。
その太鼓を、梁にかけた下した締じめの下へ置いて、そうして身みづ繕くろいをして、その紐ひもへ両手をかけた時には、なにかしら涙が溢あふれて来ました。
その時ちょうど、祠の裏で颯さっと藪やぶをくぐるような物の音。
﹁あ、誰か来て見つけ出されては恥の上の恥﹂
お君は結んだ紐を梁へかけ直して、太鼓の上へ身を載せると、前の扉がガタガタと激しく動いて、地鳴りをするほどに、
﹁ワン!﹂
と一声。生いの命ちを忘れたお君の身にも、どうして、この声は聞き忘れられない声でありました。
﹁ムクではないか﹂
祠の扉を押し開いて飛んで出たお君。
﹁ムクだ、ムクだ、ムクに違いない﹂
何もかも忘れて犬にかじりついてしまいました。
ここに来たのはムクであります。机竜之助と共に、七里の渡しを渡って熱田から浜松のとっつきまでついて来たムク犬であります。浜松でムクを失った机竜之助は、そこでお絹という女を得て、同時にまた両眼の明めいを失いました。
すでに命を失おうとしたお君は、ここでムクと命とを取り返してしまいました。
﹁ムクや、お前どうしてここへ来たのだい、どこに今まで何をしていたのだい、よくわたしがここにいることがわかりましたねえ﹂
お君はムクの首を抱いてしまって、犬の顔と自分の面かおとをピッタリくっつけて嬉うれ泣しなき、ムクは何も言わず、咽の喉どを鳴らし尾を振ってお君のする通りになっています。
﹁わたしは、お前が古市でお役人につかまって、あの時にもう殺されてしまったものとばかり思っていたのよ、よく逃げられたねえ。それでお前、わたしがこっちへ来たということがわかって、そうしてわたしの後を追って来たのだね、ほんとにお前は神様のような犬だよ。そうしてお前、あの米友さんはどうしたい、あの人の行ゆく方えを知ってるでしょう、話してお聞かせ、いえ、連れてっておくれ﹂
ムクが犬でなかったら、この場合に語りつくせぬ物語があるのでしょうけれども、いかに聡明であっても人でない悲しさには、あれから後の話を一ひと言ことも語って聞かせることができません。
﹁お前が来てくれれば、もうわたしは死ななくてもよい、もう一足お前が遅かろうものなら、わたしは死んでしまっていたのだよ、きっとわたしのお母さんが、まだわたしを死なしたくないと思って、そうしてお前を助けによこしたんだね。お前は陸おかを来る、わたしは海を来て、この辺で下りようとは思わなかったのに、それをお前が尋ね当てて来るなんて、ほんとうに切っても切れない因いん縁ねんがあればこそでしょう、やっぱりお母さんのことを考えていたから、その引合せに違いない﹂
お君はやっとムクの頸くびから手を離して、そうして沈み行く夕陽の海の彼方を見て掌を合せて拝みました。
お君は暫らく西の空を拝んでいましたが、またムクの頸を抱いて、一人で二人分の話をしていました。
暫らくして、夕焼けも消えてしまい、夜の色が、波の音と一緒に深く押寄せて来るのに気がついたお君は、
﹁ああ、あんまり嬉しいので、日が暮れたのも忘れてしまった、これから出かけるといったって仕方がないから、今夜はここのお社やしろへ泊めてもらいましょう。ムクや、よく神様にお礼を申し上げて、今夜はここへわたしと一緒に泊めてもらうんだよ﹂
命を捨てるはずであった神前で、この不思議なる主従は、相抱いて一夜を明かすことになりました。
七
それからのち程ほど経へて、東海道の駅々を、どこで手に入れたか一挺ちょうの三味線を抱えて、東へ下るお君の姿を見ることになりました。そのあとには例のムク犬がついています。
いつでも問題になるのはお君の容きり色ょう。雲助、馬方、道どう中ちゅ師うしの連中、これらが遠くから見て悪口を言う分には差支えないけれども、もしいささかでも悪意を持って近寄ろうものならば、眠っていたようなムク犬の眼が鏡のように光ります。垂れていた全身の毛が逆さに立ちます。そうして猛然として唸うなりつけます。それですから、さすが荒っぽい者共がお君の傍へ近寄れませんでした。
朝顔日記もどきの風流な客人が、お君を招よんで歌をうたわせる、お君は以前備前屋でしたように、席へは上らないで、庭でうたいます。
﹁どうかこの犬も一緒に入れて下さいまし﹂
お君が歌をうたう傍へ、ムク犬が来て跪かしこまる。こんなわけで、誰人もついにお君に指一本加えることができない上に、相当の収みい入りがあって、お君は旅に不自由することなくして東へ下って行くことができました。
日ひか数ずいくつか重ねて駿すん府ぷの町へ入りました。お君は駿府の二丁目を流して歩くと案外にも多くの収みい入りがありましたから、これから二三日は稼かせがなくてもよいと思いました。
﹁清水港というのへは、これから何里ございましょう﹂
駿府の町を出る時に、お君は人にたずねてみました。
﹁清水へ行かっしゃるなら、本道を行かずに久くの能うざ山んみ道ちというのへおいでなさい、左様、久能山の下まで二里、それから清水港まで一里半もあるかね、通して三里にはきついと思えば間違いはありませんよ﹂
お君は、それを聞いて喜びました。もうたった三里行きさえすれば清水港、そこに姉きょ妹うだいのようにしていたお松さんが待っている。
ようやく清水港の近くへ来た時に、お君はその景色のめざましいことに驚かされてしまいました。
右の方へは三保の松原が海の中へ伸びている、左の方は薩さっ峠たとうげから甲州の方へ山が続いている。前は清水港、檣ほば柱しらの先から興おき津つ、蒲かん原ばら、田た子ごの浦うら々うら。その正面には富士山が雪の衣をかぶって立っています。
﹁まあ、なんという眺めのよいところでしょう﹂
お君は立って風景に見とれていました。
秋の日が右に落ちて、今で言えば四時頃の時でした。船をたずねて波は止と場ばへ行く道を人に尋ねると、人はよく教えてくれましたから、お君は、その通りに行こうとする時分に、後ろから喧けたたましい蹄ひづめの音。振返って見ると、砂すな烟けむりを立てて一頭の駄馬が人を乗せて驀まっ然しぐらに走って来ます。お君は驚いてその馬を道みち傍ばたに避けると、馬は人を乗せた上に、また一人の旅人がその轡くつ面わづらを取って駆けて来るのです。轡面を取っている男は、逸はやる馬を引き止めるつもりではなく、それと一緒に走るつもりのように見えました。それはなんとなく穏かでない光景ですからお君は、ムクと一緒に道傍に立って馬の過ぐるのを避けました。それを避けながら、なんの気なしに馬の上を見るとその乗った人。
﹁あれ、あのお方は﹂
お君は眼の前を過ぎて行く馬を見送って、その乗っている人の後ろ姿を伸び上って見ました。黒い着物に黒い頭ずき巾んを被っていて、面かおの全部を認めるわけにはゆきませんでしたが、それでも通り過ぐる途とた端んの印象で思い起したのは、伊勢の大湊の船大工与兵衛の宅で会った盲めく目らの武士、幽霊のような冷たい人。
お君はこう思って馬上の人を見送っておりましたが、あの晩のことを考えると、今でもぞっと水をかけられるようで。今も眼の前を通ったのが、どうもこの世の人ではなくて、やっぱり幽霊が飛んで行ったように思われてなりません。
この時にムク犬は何を見たかキリリと尾を捲まき上げて、三保の松原の方を向いて前足を揃えました。
﹁どうしたの、ムク﹂
その時、また同じく三保の松原の方から風を切って飛んで来る旅人。その旅人を見ると、ムクが一声吠えて飛びかかります。
﹁これ、どうしたんだね、人様に飛びかかって﹂
お君は身を以てムクの前に立ち塞がる。その隙すきを見て旅人は、燕のように急速力で駈け抜けてしまう。これはすなわち七兵衛。
ムクの力として、お君の抑おさえた手を振り切るのは雑ぞう作さはあるまいが、それでも抑えられた手が主人の手と思ってか、身みぶ振るいをしつつ七兵衛の駈けて行ったあとを睨んで立っていました。
﹁なんでお前は、そんなに見ず知らずの人を吠えるのです、今までそんなことはなかったじゃありませんか﹂
ムクを促うながして立とうとすると、
﹁三保の松原で大おお喧げん嘩かがある、早く行って見ろ﹂
街道で物もの騒さわがしい声。
喧嘩喧嘩、という人波と一緒に、お君はムクに引かれて三保の松原へと来てしまいました。
﹁ムクや、危ないから、あまり近くへ行ってはいけないよ﹂
そう言いながらも、お君は逸はやるムク犬に連れられて人混みの中へ行く。
八
ムクが逸るから、それに逐おわれてお君も人混みの中へ潜もぐり込んでしまいますと、
﹁おや﹂
お君の驚いたのも道理、この人混みの中で槍を構えている人こそ、わが無二の友、宇治山田の米友でありました。もしやと思ったけれども、米友の面かおと姿ばかりは見違えようと思っても見違えるわけにゆきません。
﹁友さんではないか、友さん﹂
お君は人を掻き分けて飛び出しました。ムク犬はそれより先に勢いよく米友の傍へ飛んで行きます。その人が米友であったればこそ、お君は白刃の中を頓着する余裕がありませんでした。武士でさえ立入り兼ねる白刃の中へ。
﹁米友さん、危ない!﹂
米友は今、一人の若い武士を相手にして一心不乱に槍を構えているところでありました。その横合いから、お君は米友の身体に飛びついてしまいました。
﹁や、危ねえ﹂
お君に飛びつかれた米友の驚いたおかしな顔。
﹁米友さん、何をするのだよ。危ないじゃないか、お侍と斬合いなんぞして、怪け我がでもしたらどうするんだい、早く謝あや罪まっておしまい﹂
﹁君ちゃん、どいていな、この侍は若いくせに悪い奴なんだから﹂
﹁いけない、お侍様に手向いなぞをしてはいけません﹂
お君は躍やっ起きになって米友の槍先を遮さえぎりながら、その相手になっている若い侍の面を見てまた驚き、
﹁まあ、これは宇津木兵馬様……どうしたことか存じませぬが、どうぞ御勘弁下さいまし、この人は気が早くて口が悪い人ですけれども、決して悪い人ではありません、わたしの友達でございますから、どうぞ堪かん忍にんしてあげて下さいまし﹂
宇津木兵馬は船の中でお君がよく知合いの人でありました。お君は米友に代って謝あや罪まってしまいました。
宇津木兵馬は、ここでお君に返答を与える隙もなく、抜いた太刀は鞘さやへ納める余裕もなく、その場を飛んで出でました。
兵馬が走はせ出すと、群集は兵馬のために道を開いて通しました。
あとに残ったのが米友とお君。
﹁米友さん、お前、どうしてまあ、こんなところに来ていたの﹂
﹁それよりか君ちゃん、お前がまたどうしてこんなところへ来たんだい﹂
﹁それにはずいぶん永い話があるんだから、どこかでゆっくり話しましょうよ﹂
﹁ここで話そう、この松の木の下がいいや﹂
羽はご衣ろも松まつの下。米友は槍を提さげたなり歩いて行って坐る。お君は置放しにした三味線を取って来て坐る。ムクはその前に両足を揃えて蹲しゃがむ。
﹁友さん、あれからどうしたの﹂
﹁どうしたのって、お前﹂
米友は何から話してよいかわからないように、目をクルクルさせて、
﹁ずいぶん俺おいらもひどい目にあったよ﹂
﹁わたしもずいぶん心配しちまった﹂
﹁それ、あの晩、お前を大湊の船大工の与兵衛さんのところへ送り届けてよ、それから俺らは一人でムクの様子を見に山田の方へ行ったろう、そうすると、町の入口で直ぐにお役人の網にひっかかっちまったんだ、それからお役人が八方から出て来て俺らを追おっ蒐かけやがったんだよ、よそへ逃げりゃよかったんだが、それ、君ちゃん、お前の方が心配になるだろう、それだもんだから俺らは大湊へ逃げたんだね、そうすると山田奉行の方からも人が出て両方から取捲いてしまったんだよ、けれども俺らはそこんところをひょいひょいと飛び抜けて、与兵衛さんの家の裏口へ行って船ふな倉ぐらの方へ廻って、それから歌をうたってみたんだよ、もし君ちゃんにその声が聞えるかと思ってね﹂
﹁ああ、よく聞えたよ、十七姫ひめ御ごが旅に立つというお前のおハコの歌だろう、海の方からよく聞えたけれども、わたしはどうしてもあのとき出て行けなかったのだよ﹂
﹁出て来ない方がよかったよ、出て来れば捉つかまっちまうんだからね。そうするとね、もうその時はお役人に追い詰められていたんだから、仕方がないから俺おいらは海へ飛び込んじゃった、海へ飛びこんでね、時々頭をぽかりぽかりと出して様子を見ながら泳いでいたんだよ。そうするとね、伝馬船に乗せられてお前がやって来るじゃないか。こりゃよかった、与兵衛さんがお前を舟で逃がしてくれたのだと思ったから、俺らはうれしまぎれにその舟へ飛び上って、君ちゃんと言って抱きついたら、それが大違い﹂
﹁ああ、それでわかった、その人はわたしじゃなかったけれど、わたしがいま姉妹のようにしているお松さんという人なのよ﹂
﹁そうか、なんしろ暗いところで、年頃の似た娘が一人乗っていたんだから、嬉しまぎれにお前だとばかり思っちゃった﹂
﹁それをね、お松さんと船頭さんがね、大船へ帰って来て一つ話にしているのですよ、舟で河かっ童ぱに出で会あったって﹂
﹁河童じゃねえ、俺おいらなんだよ﹂
﹁でも舟では今でも河童にしてしまっているよ﹂
﹁ナニ、河童じゃねえ、俺おいらだ﹂
﹁それでわかった﹂
﹁人違いだったから俺らも吃びっ驚くりする、乗手の方でも腹を立って、櫂かいでぶん撲なぐろうとするから、俺らはまた海へ飛び込んで、時々頭をぽかりぽかりと出して、もしもどこかの舟にお前がいるかと思って、様子を見ながら岸の方へ泳いで行ったんだよ﹂
夕ゆう陽ひはようやく沈みかかるのに、二人は話に夢中になってしまって、今のさき、槍を振りひらめかしたことも米友は忘れてしまって、例の眼をクルクルさせながら、怪しげな手つきの仕しか方たば話なし。
﹁岸へ泳ぎ着いたところを、その近所の舟小屋に隠れていたお役人が御用と来たもんだ、俺らも二三人投げ飛ばしてやったけれど、竿を持たねえと思うように働きができねえで、それでとうとう捕まって縄をかけられてしまったんだ、口惜しいと思ったよ﹂
﹁さぞ口惜しかったろうね﹂
﹁それでお役所へ連れて行かれて、さあ白状しろ白状しろって、ギュウギュウ苛いじめられ通しなんだ。だってお前、白状しろたって、盗みもしねえものは白状もできめえじゃねえか﹂
﹁ずいぶんひどいねえ﹂
﹁口惜しいから口を利いてやらなかった、そうするとね、証拠があるから是非に及ばねえと、役人の方で勝手にきめてしまったんだよ。証拠というのは、お前のところにあったあの印いん籠ろうと、それから二十両のお金さ﹂
﹁あの印籠とお金が、どうしてまあそんなに祟たたるんだろう﹂
﹁俺おいらが口惜しいから口を利かねえでいるとお役人が、その二品を俺らの前へ突きつけて、さあこれを見たら文句はあるめえと言って、俺らを死罪に行うときめてしまったんだ。死罪というのは、お前、俺らを殺してしまうことなんだよ﹂
﹁まあ、お前が打うち首くびになることにきまったのかい﹂
﹁ところがね、大神宮様の御領内はね、それ守しゅ護ごふ不にゅ入うといって、世間並みの土地とは違うんだ。死罪にしてもね、首を斬ったり磔はり刑つけにしたりして、血を見せることはできねえ規則なんだ、不浄を見せては神様へ恐れ多いというんで、死罪の仕方が変ってるんだよ。それで俺らは、隠かくれヶ岡おかの上から地獄谷へ突き落されることにきまったんだ﹂
﹁隠ヶ岡から? あそこからお前、地獄谷へ突き落されてはたまるまい﹂
﹁昔はみんなそうして死罪に行なったものなんだよ、それが久しく絶えていたのを、俺らがそれでやられることになったんだ﹂
﹁危ないことだねえ、それをどうしてお前、助かったの﹂
﹁助からなかったんだ、俺らも突き落されて一ぺんは死んじまったのだよ﹂
﹁突き落されたの?﹂
﹁ああ、身体中へ縄をかけられてね、それで突き落されて死んじまったんだ、一旦は死んじまったんだけれど、与兵衛さんがその晩、そーっと死しが骸いを拾いに来てくれたんだよ﹂
﹁与兵衛さんが?﹂
﹁与兵衛さんは、せめて死骸でも拾って、仮かり葬とむらいでもしてやろうという御親切なんだね。それで俺らの死骸を担かついで来ると、その途中にお医者様が寝ていたんだよ﹂
﹁お医者様が寝ているというのはおかしいじゃないか﹂
﹁よっぽどおかしいよ、酔っ払って堤どての上に寝ていたんだがね、そのお医者様を与兵衛さんと俺らと二人で踏みつけてしまったんだよ、暗いもんだからね﹂
﹁乱暴なことをしてしまったね﹂
﹁ところが、それでもってお医者様が眼をさまして、二人を見てね、病人ならここへ出せ、十八文で診みてやるなんて、おかしなことを言ったんだそうだよ。なんしろ仮りにもお医者さんだから、与兵衛さんがそこで俺らを診てもらったんだね、ところがそのお医者さんが、大変な名人でね、死んだ俺らを生かしちゃったんだよ﹂
﹁まあ、よかったねえ﹂
﹁そしてお前、与兵衛さんのところまで毎日のように療治に来てくれたんだ、それで俺らはこの通り丈夫になってしまった﹂
﹁ずいぶん感心なお医者さんだね﹂
﹁そりゃお前、感心にもなんにも﹂
米友はまた眼をクリクリさせながら、
﹁それからお前、与兵衛さんに聞いてみるとね、お前は大丈夫、親船へ頼んだからというわけなんだろう、それでまあ、ひとまずお前の方は安心して、俺らも身体が丈夫になってみると、それでは一番お江戸へ出てやろう、今いうお世話になったお医者様が江戸にいるのだから、それを頼ってお江戸へ行くことにきめて、こうして出て来たんだよ﹂
﹁まあ、それでも、よかったねえ、わたしもあれから舟で東の方へ出たのですけれど、途中で舟に酔わされてしまって……﹂
お君は、それから後の物語をする。米友は眼を円くしたり面かおをしかめたり、拳こぶしを握ったりしてそれを聞いていたが、
﹁やっぱり俺おいらたちが悪いことをしねえから、天てん道とう様さまが見通しておいでなさるんだ﹂
米友は胸を叩いて喜んだが、
﹁ちょうど、お前が首をくくりかけた時にムクが行って助けたように、俺らも浜松のこっちの方で危ないところを坊さんに助けられて、それから一緒に歩いてるんだ﹂
﹁その坊さんというのは?﹂
﹁その坊さんというのは、あんまり金持の坊さんじゃあねえのだけれど、不思議なことにその坊さんと一緒に歩いていると、銭を出さなくっても人が大だい切じにしてくれる﹂
﹁今その坊さんはどこにいるの﹂
﹁今この先の信しん心じん者ものの家にいるんだがね﹂
﹁そうしてお前、その坊さんの槍持をして歩いて来たのかえ﹂
﹁ううん、そうじゃねえ、この槍は俺おいらの槍なんだ﹂
﹁お前、槍を持って歩いてるのかい﹂
﹁そういうわけじゃねえ、府中の宿屋でこの槍を捻ひねくっているとね、亭主が来て見て、お前さん槍が使えるのかいと言うから、たんとも使えねえが、ちっとばかりは使えると言うとね、それじゃあ使って見せてくれというから、よし来たと言って、ちょうど部屋へ飛んで来た蝶々を一羽、突いて見せてやった﹂
﹁蝶々を突いたのかい﹂
﹁そこの亭主がね、俺らが蝶々を突き落すと、それを見てすっかり感心しちまったんだ、それで、お前さんにこの槍を上げましょうというから、それじゃ貰って行くといって、こうして担かついで来たんだ﹂
﹁えらいねえ友さん、お前は槍一筋で東海道が歩ける身分になったんだねえ﹂
﹁冷かしちゃいけねえ。そうすると、ここでもってこの槍が役に立って、あの悪い侍をおどかしてやった﹂
﹁何かあのお方が悪いことをしたの﹂
﹁悪いことと言ったって、お前、品の好い切下げ髪の奥様を捉まえてね、あの若いくせに狼ろう藉ぜきをしようというんだから呆あきれ返けえっちゃった﹂
﹁お待ちよ、あのお方がそんなことを……そんなばかなことをするお方ではありませんよ、何かお前、勘違いをしたんだろう﹂
﹁ナニ、そうでねえ、見ていられねえから俺らが飛び出したんだ、ところがあいつは、いつか古市の町で、俺らの竿を叩き落した奴なんだ、その時の覚えがあるからね、今日は仕返しのつもりで、ギュウと言わせてやろうと思ってるところへお前が飛び出したんだ﹂
﹁お前は勘違いをしているよ、あのお方は決して、女をつかまえて無礼なことをなさるようなお方ではありませんよ、何かそこには間違いがあるのだろう﹂
﹁俺らもおかしいとは思うが﹂
﹁その切下げ髪の奥様というのはどこへ行ったの﹂
﹁それはどこへ行ったか﹂
米友が四あた辺りを見廻す時、四辺はようやく黄たそ昏がれる。
﹁やあ、日が暮れるといけねえ、歩き出そう、歩き話とやらかそう﹂
米友は黄昏の色を見て、槍を取りながら立ち上る。お君もまた三味線を取って立ち上る。ムクもまた起き上って腰を伸ばす。
﹁おや、友さん、怪我をしたの、足をどうかしたの﹂
﹁足? これか、これは跛びっ足こだ、ハハハ﹂
米友は、笑いながら腰のあたりを撫なでて、
﹁隠ヶ岡から突き落された時、ほかの方はもとの通りになったけれど、右の足の骨だけが折れてしまったから、それでこの通り跛足を引いて歩くようになった、なあに、痛くもなんともねえ、慣れてしまったから歩くのも楽なものさ、もとは撞しゅ木もく杖づえを突いて歩いていたんだが、この槍を貰ってから、撞木杖をよしてこれを突いて調子を取って歩くと、並みの人よりは早く歩けるくれえだ﹂
と言いながら米友は、松の木の下を離れて、そこらを探し廻り、裂けて落ち散っていた槍の鞘さやを拾って、これを穂の上へかぶせ、紙こよ撚りをこしらえて裂さけ目めを結ぶ。
米友は竜りゅ華うげ寺じの方へ足を向けて、
﹁それにしても、俺おいらたち二人を泥棒の罪に落した奴は誰だろう、きっとほかに泥棒があるんだぜ、そいつが盗んで、俺らたちに罪をなすりつけたんだな﹂
﹁きっと泥棒がほかにあるんだよ、どんな奴だか知らないけれど憎らしいねえ﹂
﹁二人をこんな目に会わせて、故郷を立退かせるようにしたのもそいつの仕しわ業ざなんだ、早く捜さがし出して明あかりを立ててみてえものだ﹂
﹁ほんとうに早くその悪者を捉まえてやりたい﹂
﹁ムクは知っているんだろうよ、備前屋へ入った泥棒をムクは知っているに違いない﹂
お君はムクに話しかけるように言ったが、ムクは、やはり黙って歩いていました。
﹁そうよ、ムクはきっと知っている﹂
九
庵いお原はら村の無住同様な法ほっ華けで寺ら。竜之助を乗せた馬の轡くつわを取ったがんりきの百蔵は、そこへ机竜之助を連れて来ました。
﹁先生、どうかここんところへお坐りなすって下さいまし﹂
竜之助の手を引いて坐らせたのは大きな囲い炉ろ裡りの横よこ座ざ。
煤すすだらけになった自じざ在いか鍵ぎ、仁王様の頭ほどある大おお薬やか鑵ん、それも念入りに黒くなったのを中にして、竜之助とがんりきとは炉を囲んで坐りました。
﹁もう大丈夫でございます、先生、ここまで来れば﹂
がんりきは頻しきりに焚たき火びをする、その焚火が燈あか火りの代用をするのであります。
﹁今、坊様に頼みましたから、ほどなくお夜食が来るでござんしょう、どうも御覧の通りの荒れ寺でございます……と言って、先生にはおわかりになりますまいが、本堂も庫く裡りも山門も納なっ所しょもごっちゃなんで。そうしてこの坊主というのが、引導も渡せば穴掘りもやろうというんでございます﹂
竜之助は例の通り頭ずき巾んを被ったなりで、刀は側わきに置いて、焚火に手をかざしています。その様は、がんりきがなぜ自分を引張って来たかもわからず、どうするつもりだか知らないようでしたが、
﹁お前さんは、どういうお人だい﹂
竜之助はこう言って、はじめてがんりきに問いかけました。
﹁わっしでございますか﹂
がんりきは、焚火にうつる竜之助の蒼白い面をジロジロと見て、
﹁先生の方からは初めてのお声がかりだが、わっしの方ではとうからお近づきなんで﹂
﹁どこで会ったかな﹂
﹁浜松で、お近づきになったのでございます﹂
﹁浜松のどこで﹂
﹁へへ、あの大米屋という宿屋でございます﹂
﹁ははあ﹂
竜之助は頷うなずいた。
﹁お心当りがございましょう﹂
﹁あるある﹂
﹁へへ、どうもその節は飛んだ失礼を致しました﹂
﹁二つに斬ってやろうかと思った﹂
﹁おっかないこと――しかし先生﹂
がんりきは胡あぐ坐らを組み直して、
﹁本当のことを申し上げれば、今までに先生のようなお方に出会ったのは初めてでございます、あの晩こそ兜かぶとを脱いでしまいました、出て行けば斬られる、へたに引込めば、やっぱり斬られる、五尺の間を引上げるに夜明けまでかかるなんぞは、今までに例のなかったことでございます﹂
﹁それでも感心によく逃げた﹂
﹁命からがら引上げて来ましたが、いや今度という今度は失しく敗じりつづき、先生のところで失しく敗じって、それから坊さんでまた失敗りました。こうなっちゃ、がんりきも焼やきが廻って、少々心細くなりました﹂
﹁あれは遊ゆぎ行ょう上しょ人うにんだというではないか﹂
﹁左様でございます、遊行上人。先生には斬られ損ぞこない、坊さんには丸められちまい、せっかく磨みがいたがんりきの面かおもつぶれそうでございますから、なんとか眼鼻のあくようにしようと思って、執念深くもしょっちゅうあれから、お後をつき通しでございました﹂
﹁後を跟ついても跟つき栄ばえもすまいな﹂
﹁ところがいいあんばいに、こんな風向きになりましたから、ここでまたどうやらがんりきの目が出そうでございます﹂
﹁そうして、お前はどうするつもりで拙者をここまで連れて来た﹂
﹁どうするつもり? そうおっしゃられると、ちと御返事に困りますが、あっしどもの仕事は、こうすればこうなるというような算そろ盤ばんでやるんではございません、出たとこ勝負で、いたずらがしてみてえんで﹂
がんりきは皮肉な薄笑いをして竜之助の面を横から見て、
﹁まず第一には、七兵衛の野郎を出し抜いたのが面白いんでございます、その次には、あの切髪の御ごし新ん造ぞを烟けむに捲いてやったのが面白いんでございます、それから先生――先生を馬に乗せてこっちの方へお連れ申すと、あとから七兵衛と、それから先生を仇かたきだといっている若い侍と、それからもう一人、あの艶あでやかな御新造が追おっ蒐かけて来るにきまっている、そこでまた面白い一仕事があるんでございます﹂
がんりきは、自分が筋すじ書がきを書いて役者に踊らすような気取り。
﹁がんりき﹂
竜之助の声が、少しばかりひやりとする。
﹁何でございます﹂
﹁いたずらも仕様がある、へたなことをすると命がないぞ﹂
﹁へへ﹂
がんりきは、これまた少しばかり退さがり気味で、
﹁そりゃもう承知でございます﹂
竜之助は左へ置いた刀を引く、斬るつもりでもなく嚇おどすつもりでもないらしい。
﹁先生、まだお斬りなすっちゃいけません﹂
がんりきは片手を出して押えるような真ま似ねをして、
﹁先生の前にはこうして兜かぶとを脱いでいるんでございます、とても腕ずくで先生に勝つことができませんから、それでツイいたずらがしてみたくなるんでございます、そのいたずらがやり損なった時は、立派に斬られて死にましょう、まだ板にかけねえんでございますから、もう少しどうか御辛抱なすって下さいまし﹂
竜之助は膝まで引いて来た刀。いつもこの辺まで来れば大抵は人を斬っているのです。がんりきは、前よりもまた少し後ずさり気味で、
﹁先生﹂
竜之助の横よこ面がおをじっと見込んで、
﹁どうも、先生の形が気味が悪くっていけませんな、いつその長いのがヒヤリと飛んで来て、わっしの身から体だが二つになるんだか見当がつきませんからな。どうか刀をお置きなすって下さいまし、そうでなければ近いところでお話をすることができませんから――そのいたずらというのはでございますな、先生﹂
がんりきは、やや遠くから用心をしいしい、それでも人を食ったような物の言いぶりで、
﹁先生――折入ってひとつ先生にお願い申してえことがあるんでございます、それはほかでもございませんが、あの年増の御新造、お絹様とやらおっしゃいましたな、あの御新造をがんりきがいただきてえんでございます﹂
﹁ナニ?﹂
﹁お恥かしい話だが、先生が、あんな御新造に侍かしずかれて道みち行ゆきをなさるのを見ると、疳かんの虫がうずうずしてたまりませんや。もとより金銀に望みはねえ、腕ずくでは敵かなわねえから、ここは一番、色気を出し、先生とあの御新造を張り合ってみてえというのが、このがんりきのやまなんでございます。なんと、どうでございましょう、きれいにあの御ごし新ん造ぞをがんりきにくれてやっておくんなさるか、それとも、女にかけてはどっちの腕が強いか、思うさま張り合ってみようではございませんか﹂
これを聞いて竜之助は、
﹁あの女が欲しいのか﹂
竜之助は刀を差置きながら、
﹁女というものは水みず物ものだから、欲しければ取るがよかろう。しかしあの女は、感心に拙者を江戸まで送ってくれようという女だから、向うで捨てぬ限りは、こちらでも捨てられぬ。それはそうと、もはやここへ尋ねて来るはずではないか﹂
﹁ええ、もうやがて尋ねておいでなさるはずでございます、迎えの者を村はずれまで出しておきましてございますから﹂
﹁そうか、それからながんりき、あの女が来たらば……﹂
竜之助は、まだ刀を膝から下へは卸おろしきらないで、言葉が少しく改まる。
﹁へえ、何でございますか﹂
がんりきはやはり用心をしながら返事。
﹁幸いのこと、お前に頼みがある﹂
﹁頼みとおっしゃいますのは﹂
﹁お前に望みがあるならば幸いのこと、これからあの女を連れて江戸まで下ってもらいたいのじゃ﹂
﹁何とおっしゃいます、わっしにあの御新造様をお江戸までお連れ申せとおっしゃるのでございますか。そうしてあなた様は?﹂
﹁拙者は、ひとりで行きたい方へ行く﹂
﹁こりゃ驚きました、そういうことはできません、そんな不人情なことはできませんな﹂
﹁不人情?﹂
竜之助は苦にが笑わらいしながら、
﹁お前は、あの女が欲しいと言うたではないか、それだによってあの女を連れて江戸へ行くことがなんで不人情だ﹂
﹁だって先生、先生はお目が御不自由なんでございましょう、それを見捨てて、二人で駈かけ落おちをするなんぞということは、このがんりきにはできませんな﹂
逃げ腰になっていたがんりきが、腰を落着けて言葉に力を入れる。
﹁いや、拙者は拙者で別にまた道がある、実はふとした縁であの女の世話になったが、心苦しいことがある、それで離れようと思うていたが、ちょうど幸い、お前が横合いから欲しいというによって、お前に任せたい﹂
﹁そりゃいけません﹂
がんりきは首を左右に振り、
﹁それじゃあ事に面白味がありません、からっきり張合いにもなんにもなるもんじゃあございません、人のお余り物をいただくような心で、女をものにしてみようというような、そんながんりきとはがんりきが違います﹂
がんりきは力りきみ返る。竜之助は苦にが笑わらい。この小こざ賢かしい小泥棒め、おれに張り合ってみようというのでさえ片腹痛いのに、死んだ肉は食わないというような一ぱしの口くち吻ぶり。刀の錆さびにするにも足らない奴だがよい折おり柄からの端はや役く、こいつに女のいきさつをすっかり任せてしまえば、女の絆ほだしから解かれることができる。竜之助はこうも思っているらしい。
がんりきはそれと知るや知らずや、
﹁女というものは、上手に拵こしらえるよりも上手に捨てるのが本当の色師だ、いい幸いでお譲りを受けて、持もて余あまし物ものをおっつけられて、それで色男で候そうろうと脂やに下さがっているには、がんりきは、こう見えても少し年をとり過ぎた、そんな役廻りは御免を蒙こうむりてえ﹂
少しく声こわ高だかになって、ふいと気がついたように、
﹁やれやれ、根っから詰らねえ痴ち話わでたあいもねえ、それは冗談でございますが先生、こんなことも他たし生ょうの縁とやらでございましょうから、これからわっしどもも先生と御新造のお伴ともをして、江戸まで参りましょう、道中ずいぶん忠義を尽しますぜ﹂
この時、破こわれた扉がガタリという。
扉がガタガタと動いたかと思うと、そこへ身を現わしたのはお絹でありました。
﹁やあ、これは御新造様﹂
がんりきは迎えに出る。
﹁どうもたいへん遅くなってしまいました﹂
お絹の髪も衣裳もかなり崩れている、それを程よくつくろって来たものらしい。
﹁心配していました﹂
がんりきは、お絹の手を取って、やはり囲い炉ろ裡りの一端に坐らせる。
﹁ひどい目に遭あってしまいました、あの宇津木兵馬という若い人のために取押えられて虜とりこになるところでしたが、折よく変な男が出て来て助けてくれましたから、やっとこっちへ逃げて来ました﹂
﹁村はずれまで迎えの者を出しておきましたはずでしたが﹂
﹁その人に、そこまで連れられて来ました。ああ、飛んでもない目に遇ってしまった﹂
お絹は炉の傍に坐りかけてこの内の模様を見ると、荒れ果てた古寺。
﹁お寺ですね﹂
﹁こんなところでございますが、今晩はここで御ごし辛んぼ抱うなすって下さいまし﹂
﹁お寺とは知らなかった﹂
﹁こんなわけでございますから﹂
がんりきは何かと言いわけをする。
﹁ここへ泊めてもらうのですか﹂
﹁へえ、ただいま夜や具ぐ蒲ふと団んを里まで借りにやりましたから﹂
﹁ここへ三人で……﹂
お絹は、なんとなく呆あきれたような面かお色いろです。
﹁いいえ、わっしだけは御免を蒙って……ついこの近所に泊るところがございますから﹂
﹁それでは、この方とわたしと二人でこのお寺の中へ……﹂
﹁左様でございます、御災難とは申しながら、お気の毒でございます、その代り明朝になりますれば、早速わっしが出向いて参りまして……﹂
﹁どうも、こんなところへ泊りつけないから気味が悪いね﹂
﹁今夜一晩だけの御辛抱でございます、明日からわっしが御案内を致しまして、やつらを出し抜いて、危なげのない道筋をお連れ申しますから、どうか御安心下さいまし﹂
﹁お前さんのためにいろいろお世話になって災難を逃れたのだから、我わが儘ままを言っては済みません、それでは今晩はここへ泊めてもらうことに致しましょう﹂
﹁そうあそばして下さいまし﹂
この時、机竜之助は横になって炉辺に仮うた睡たねをしていました。
お絹は横になった竜之助の姿をしげしげと見ている。その横顔をがんりきは盗むようにして見る。
﹁燈あか火りはないのですかねえ﹂
お絹は襟をすぼめるようにして、ちょいと後ろをふりかえる。
﹁お燈とう明みょ皿うざらぐらいありそうなものだ﹂
がんりきは燃えさしの木きぎ片れを松たい明まつのようにして本堂の方へ行ってみる、畳の破れへ足がひっかかって転びそうになった途端に、代用の松明が消えかかる。
﹁おっと危ねえ﹂
また足を踏み締めて、やっと須しゅ弥みだ壇んの方へ行くと、幸いなことに百ひゃ匁くめ蝋ろう燭そくのつけ残りが真しん鍮ちゅうの高い燭台に残っていたから、
﹁有難え、南な無むお祖師様﹂
がんりきはその蝋燭へ火をつけて帰って来ると、お絹はその光で寺の中を今更のように見廻します。
﹁それでは、夜具蒲団と、お凌しのぎになるようなものを、そう言っていま持たしてよこしますから﹂
﹁どうも御苦労さま﹂
がんりきはお絹の横顔を見ながら、扉をガタビシさせて出て行く。あとは寂ひっ然そりとして百匁蝋燭の炎ほのおがのんのんと立ちのぼる。
﹁もし竜之助さん﹂
お絹は仮うた睡たねをしていた竜之助の肩へ手をかけて揺ゆする。
﹁お起きなさいまし、わたし一人じゃ淋しいから﹂
﹁がんりきは帰ったか﹂
﹁いま出て行きました﹂
竜之助はまた起き直って柱を背にして坐る。
﹁飛んだところへ引張り込まれてしまいましたねえ﹂
﹁法ほっ華けで寺らだということだが﹂
﹁法華だか門徒だか知らないが、こんなに荒れたお寺も珍らしい﹂
﹁拙者故に飛んだ御迷惑をかけて相済まぬ﹂
﹁どう致しまして、旅は道づれですから、かえってこんなこともあった方が面白いのですよ﹂
﹁がんりきが言うには、明日は無事安全な別べつ道みちを案内するとのことだ﹂
﹁夜が明けさえすれば大丈夫。今あの男が夜具蒲団を届けてくれると言いましたが、とてもこんなところで、帯を解いて寝られやしませんから、ここで焚火をしながら今夜は夜通し語り明かしましょうよ﹂
﹁それもよかろうが、少しでも休まぬと身体のために悪かろう、拙者にかまわずお休み下さい﹂
﹁なあに、一晩や二晩は寝ないでいたって、苦しいことはありません﹂
お絹は、慣れない手つきをして、炉のあたりに夥おびただしく積まれた木こっ端ぱや薪を取って火の中へくべました。
柱に凭もたれて、うつらうつらとしている竜之助の面かお色いろを見ると、痛々しいほどに悄しおれている。いつも悄れているような人で、それで弱い人でもないのだが、今宵は一層悄れているように見える。それでお絹は力をつけてやる気になったのか、またはこの人に滅め入いられては、自分が淋しくてたまらないからであるか、つとめて元気らしくして話をしかけます。
﹁あの宇津木兵馬という人は、年は若いけれども、なかなか腕は出来る人ですね﹂
﹁ふむ﹂
竜之助は軽い返事。
﹁あの人のお師匠さんが豪えらい人ですってね﹂
﹁それは豪い﹂
竜之助の面が上る。
﹁御存じですか﹂
﹁知っている﹂
﹁島田虎之助という……﹂
﹁そうそう、島田虎之助﹂
﹁その先生とお立合をなすったことがおありなさるの﹂
﹁ない﹂
﹁あなたよりお強いのですか﹂
﹁…………﹂
﹁あなたの剣術のお流儀は、たしか甲源一刀流でございましたね﹂
﹁もとはそうであったが﹂
﹁島田先生は直じき心しん陰かげだということではありませんか﹂
﹁そう、直心陰﹂
こう話しかけていると竜之助の面に、ありありと幾筋かの苦くも悶んが現われるのであります。
﹁けれども、その島田先生もかわいそうなことをなさいました﹂
﹁かわいそうなこととは?﹂
竜之助は聞き耳を立てる。
﹁まだお聞きになりませんか﹂
﹁まだ聞かない﹂
竜之助は、我知らず声がはずむ。
いろいろの人にも会い、いろいろの目にも遭ったけれど、要するに竜之助の眼中に残り、脳裏に留まって去らざるはただその人あるのみ。その人が斯かよ様うな女から同情の言葉を受けるような身になろうとは――竜之助は、それを聞きたい。
この時また、壊こわれかけた扉がガタリビシリ。
﹁夜かぶりを持って来ましたが、はあ、御免下せえまし﹂
男が一人、夜具蒲団と竹の皮包とを持って来てくれたのはそのままにして、話は島田虎之助最さい期ごのことにつながりました。
﹁島田先生は毒で殺されたのでございます、ただの死に様ではございません﹂
﹁毒で殺された?﹂
﹁病気で亡くなられたように、表面はそうしてありますが、毒殺なのでございます﹂
竜之助は愕がく然ぜんとして驚く。
﹁誰が殺した、誰が島田を﹂
﹁それは誰だか存じませんが……あまり技わざが出来過ぎますると、自分はそのつもりでなくても、人の恨みが重なりますからね﹂
﹁お絹どの、どうして島田がそうなったか、それをそなたがどうして知っている、よく話してもらいたい﹂
﹁ちょうどよい折ですから、お話し申しましょう、知っているだけをお話し申しましょう﹂
お絹は柴しばを折りくべて、それを火ひば箸しで掻き立てながら、
﹁あの先生が、或る時、旗本のお邸へ招かれたと思おぼ召しめせ、そのお邸で、いろいろ武芸の話が出て、それからお夕飯の御馳走になったのでございます﹂
﹁その旗本というのは誰の邸﹂
﹁それは申し上げられませぬ、あとで申し上げる時節があるかも知れませぬが、今は申し上げられませぬ﹂
﹁それから?﹂
﹁島田先生も、大へん御ごき機げ嫌んがよくて、常よりは御ごし酒ゅも過ごしなされ、御料理もよくいただいて、さてその帰りでございます﹂
﹁その帰りに?﹂
﹁そのお邸でお乗物をと申されたのを、お断わりなすって、今宵はなんとなく心持が面白いから歩いて帰ると、いくらか微ほろ酔よい機きげ嫌んでもあったのでございましょう、伴ともをつれずに、たった一人で下谷の御おか徒ちま町ちの方へお帰りになったのでございますよ﹂
﹁御徒町の道場へな﹂
﹁ちょうどその日に、わたしもまた同じお邸へ上ったものと思召せ、お女中にお花を教えたりしているところへ、島田先生が見えられたのでございます﹂
﹁なるほど﹂
﹁その日の正しょ客うきゃくは島田先生で、お相あい客きゃくも五六人ほどございました、女中たちはなかなか忙いそがしそうだから、わたしのことゆえ、台所の方までも出向いて、差さし図ずのようなことやお手伝いのようなことをしていますと、お女中がお膳ぜん部ぶを次の間まで持って行った時、そこの御主人が、まだ座敷へ出してはいかぬ、そこへ置けと女中たちに言いつけて、それから、島田の膳部はどれだどれだと念を押して尋ねていたのを、わたしが聞きましたが、やはりその時は何の気もつきませんでした﹂
﹁はて﹂
﹁それから、わたしは奥へ行って、また台所の方へ出ようとして、そのお膳部を差置いた間まの外を通りますと、誰も女中がいないのに御主人が一人でいらっしゃる、その時も、やっぱり何の気もつかなかったのでございますが、わたしが通りかかるとその御主人が、あわてたような素そぶ振りでついと立ったのが、そのとき少しおかしいとは思いましたが、それとても大して気には留めませんでした﹂
﹁うむ﹂
﹁それからお座敷では武芸のお話で持ち切りのようでした、料理が運ばれたりお酒が運ばれたりして、大へん陽気になりましたが、それでもほかのお客の時よりは、静かな席でありました。それから、わたしが廊下を渡ってお池の傍を通りますと、お池の中の金魚が三つばかり死んでいて、緋ひご鯉いが一つ死にかけて腹を上にしておりました﹂
﹁…………﹂
﹁それも別に深く気にしたわけでもありませんが、あれ金魚が死んでいると、ちょうど通りかかりの女中に言いますと、女中たちは物もの見みだ高かいから、忽たちまち二三人集まって、金魚評ひょ定うじょうが始まりました、猫にひっかかれたんだろうというものや、いいえ烏が飛んで来ていたずらをしたのに違いないというもの、そうではない狆ちんがお池を掻かき廻したからだというもの、なかには、毒を飲まされたんだ、金魚が毒を飲まされたと言い出したものさえありましたが、それは笑い物にされてしまって、毒なんてそんなものがこのお邸のどこにあるの、お嗜たしなみなさいよと言われて、毒と言い出した女中は、面を真赤にして文句に詰ってしまいましたのを、後でわたしは思い出してゾッとしました﹂
﹁…………﹂
﹁そうしているうちに、そのお池ではいちばん大きな真まご鯉い、二尺もあろうというのが、眼の前で、ピンと水を切って飛び上りましたから、女中たちもみんな驚きました、わたしも驚きました﹂
﹁…………﹂
﹁鯉の跳はねるのはなにも不思議はないが、常の跳ね様とは違って、一跳ね跳ねてから、それがクルクルと水の中を舞ってもがき苦しむのです、そりゃ見ていても凄すごいほどでございました。なんしろ鯉はほかの魚と違って、俎まないたの上へ載せられても、三十六鱗りんビクともせぬという、人間で言えば男の中の男、それが苦しがって器量いっぱいもがき苦しむのですから、そりゃ見ていても凄くなります﹂
棚を走る鼠としては温おと和なしいと思うと、外ではこの時分から、時しぐ雨れが古寺の屋根を濡らしている。
古寺の軒のき端ばからも玉たま雫だれが落ちて瓔よう珞らくの音をたてる。外はしめやかな時雨。柴の乾きがよいので、炉では焚火の色が珊さん瑚ごを見るよう。お絹は飽かずに語りつづける。
﹁どうして、烏がいじめたり、狆ちんがちょっかいを出したりするくらいのことで、こんなことになるものですか、これは毒……恐ろしい毒と思っているうちに金魚がブクブクと死んで浮き出して来ます、その中を尾おひ鰭れを打ってその大鯉が苦しみもがいてもがいて、とうとうもがき死じにをしてしまいました。女中たちはみんな面かおを見合せて、人の色はありませんでしたが、わたしは今の真鯉の死しに態ざまから、そのお邸の御主人が膳部の廻りを一人で見ていたこと、なんだかその奥に怖ろしいものがあるような気がしてたまりませんでした。そのうちに日が暮れました﹂
﹁…………﹂
﹁わたしが出て行く、その前を島田先生がブラリブラリと歩いていらっしゃる、ちょうどお月様が出ていました。先生を先に立てて行けば夜道をしても怖くないからと、ちょうど帰り道も同じ方へ行くのですからあとをお慕い申して行ったのですね。そうして行くと、その時わたしの後から来てすれ違って通り抜ける侍、見たような人でありました。ところは聖堂の森に近いお濠ほり端ばたでございました。平ふだ素んから淋しいところであるのに、この頃は物取りがあったり辻斬りがあったりして、宵のうちから人通りはないようなところなんですね、そこを島田先生が一人で、謡うたいをうたって、我なまじいに弓馬の家に生れ、世上に隠れなき身とて……中ちゅ音うおんでうたっておいでなすったが、よく徹とおる声でした。わたしも前にあの先生がおいでなさると思うから、一人であんな淋しいところを湯島まで帰る気になったのでございます﹂
﹁後ろから来てすれ違ったというのはそりゃ何者﹂
﹁それが、頭巾を目まぶ深かにかぶっていたものだから面かおはしかとわかりませんでしたけれど、小こわ腋きに槍をこう抱かかえて、すうっと、わたしを抜いて行く後ろ姿に見覚えがある。名前は申し上げませんが大島流の槍の遣つかい手で、やはり旗本のうちの一人なんでございます。はて、あの人が槍を抱えて島田先生のあとを覘ねらって行くなと思うと、さきの毒一件から、またわたしの胸が噪さわぎ出しました﹂
﹁…………﹂
﹁それとは知らずに島田先生は、跡あと白しら河かわを行く波の、いつ帰るべき旅ならん……ここまで来ると謡の節が立消えて、先生の足あし許もとが右の方へよろよろとしました。わたしがハッと思うと、先生のうんと唸うなる声、かっと地面へ何かお吐きなされたようで――あとで思えばそれは血でした。先生はその時に夥おびただしい血を吐いておしまいなすったのでしたが、わたしはそんなことは知りませんから、それと一緒に先生の足許がよろよろよろ、右へ左へよろけるのを、踏み締め踏み締めしておいでなさる様子が、おかしいと思いました。まさかあのお邸で飲んだ酒が、ここまで来て急に酔いが出たわけでもあるまいし、そうかといって謡の興に乗って、往おう来らい中なかで舞をなさるような先生ではなし、これはと思っていますところへ、ようござんすか、いま申しました大島流の槍の一筋――先生の背うし後ろから楯たても透とおれと――あたしはもう、先生が殺されてしまったと思いました、さすが名人でも、こういうところを突かれたのでは駄目だと思って、身ぶるいをして眼をつぶってしまいました﹂
﹁…………﹂
﹁毒が廻ったんだなと、わたしは直ぐその時、そう思ってしまいました。いかに強い先生だって、毒を盛られて、中から五ごぞ臓うろ六っ腑ぷを絞しぼられたんではたまりません、ああお気の毒な、あれほどの先生が、こんなことで暗やみ々やみと……わたしはお気の毒なのと口惜しいのと怖ろしいのとで、目をつぶってしまいました﹂
﹁…………﹂
﹁それでも少したって目をあけて見ると、先生は殺されやしないんです、突かれてもいないのですね、一方は槍をこう構えているのに先生は向うを向いて、やはりよろよろとした足許で歩いているのです。もしわたしが男なら、女でも薙なぎ刀なたの一手も心得ていようものなら、あとから助すけ太だ刀ちと出るところなんですが、悲しいことにわたしは花はな鋏ばさみよりほかに刃物を扱ったことがない女でございますから、怖こわい思いをしながら、むざむざとそれを見殺し……ただ見ているよりほかは仕方がなかったのですねえ﹂
﹁…………﹂
﹁そうしますと、二度目に突っかけて行った大島流の槍、今度こそはと思うと、それがひょいと外はずされちまったんですね、よろよろして足の定まらない島田先生のことですから、直ぐにも突けそうなものですが、それが突けないのですね、突き出すと外されて、突いた人が前へ流れるところを、島田先生がその槍の千せん段だん巻まきのところ……あの辺を押えてしまったのですから、突いた人が動きが取れなくなってしまったのですね。ああよかったとわたしは思いました、先生のことだから、直ぐにその槍を奪い取って、反対に突き殺しておしまいなさるか、または刀を抜いて斬っておしまいなさるだろうと思っていますと、先生は槍を押えたままで、自分の腰のものへは手もかけず、振返って後ろに向いた面の色。その時に月がどの辺にあったか、よく気がつきませんでしたが、わたしの目には今でもありありとそのお面かお付つきが残っているのでございます、眼からも鼻からも口からも、血が滝のように――血の管くだが破裂して、それからみんな吹き出したものでしょうよ、凄いともなんとも……﹂
﹁…………﹂
お絹はその時の光景が思い出されて、そぞろに怖ろしくなったようでありましたが、
﹁そうすると、突っかけた槍の人は濠の中へ転げ落ちてしまいました、水音がしないのが変だと思ったら、なんでも堤どてを伝って逃げてしまったのですね。槍は島田先生の手に残っています。先生、お怪我はございませんかと言って駈け出せばよかったのですけれど、あの時に、わたしは竦すくんでしまって、どうしても飛び出すことができませんでしたよ。そうすると島田先生は、その槍をこう杖について、よろよろ、よろよろと濠端道をよろめき歩いて、駕籠屋駕籠屋と通りかかる辻駕籠を呼び留めました﹂
﹁…………﹂
﹁そこで槍を投げ捨てて、御徒町へ行けと駕籠屋へ言いつけたままで、垂たれを上げて駕籠の中へ身を隠してしまわれました。そうして駕籠が飛んで行くのを見送った時に、ようやっとわたしは歩けるようになりました。その翌日、島田先生が急病で亡くなられたという噂を聞きましたから、それとなくその御最期の模様を人からたずねてみますと、あれからお家へお帰りになり、床の間の前に坐って香を焚たいて、座禅とやらを組んだままで亡くなっておられたということでありました﹂