應仁の亂に就て

内藤湖南




 私は應仁の亂に就て申上げることになつて居りますが、私がこんな事をお話するのは一體他流試合と申すもので、一寸も私の專門に關係のないことであります、が大分若い時に本を何といふことなしに無暗に讀んだ時分に、いろいろ此時代のものを讀んだ事がありますので、それを思ひ出して少しばかり申上げることに致しました。それももう少し調べてお話するといゝのですが、一寸も調べる時間がないので、頼りない記憶で申上げるんですから、間違があるかも知れませぬが、それは他流試合だけに御勘辨を願ひます。
 兎に角應仁の亂といふものは、日本の歴史に取つてよほど大切な時代であるといふことだけは間違のない事であります。而もそれは單に京都に居る人が最も關係があるといふだけでなく、即ち京都の町を燒かれ、寺々神社を燒かれたといふばかりではありませぬ。それらは寧ろ應仁の亂の關係としては極めて小さな事であります、應仁の亂の日本の歴史に最も大きな關係のあることはもつと外にあるのであります。
 大體歴史といふものは、或る一面から申しますると、いつでも下級人民がだん/″\向上發展して行く記録であると言つていゝのでありまして、日本の歴史も大部分此の下級人民がだん/\向上發展して行つた記録であります。其中で應仁の亂といふものは、今申しました意味において最も大きな記録であると言つてよからうと思ひます。一言にして蔽へば、應仁の亂といふものゝ日本歴史における最も大事な關係といふものはそこにあるのであります。
 それは單に一通り現はれた所から申しましてもすぐ分ることでありますが、元來日本の社會は、つい近頃まで、地方に多數の貴族、即ち大名があつて、其の各々を中心として作られた集團から成立つて居たのであります。そこで今日多數の華族の中、堂上華族即ち公卿華族を除いた外の大名華族の家といふものは、大部分此の應仁の亂以後に出て來たものであります。今日大名華族の内で、應仁の亂以前から存在した家といふものは至つて少く、割に邊鄙な所に少しばかりあります、例へば九州では島津家だとか、極く小つぽけな伊東家などいふのがそれであります。勿論肥後の細川は前からあつたのでありますが、あの土地に前から居つたのではない、其他秋月鍋島など少しばかり九州土着の大名がありますけれども、其土着の大名にしても、多くは應仁の亂以後に出たのであります。四國中國などは殆ど應仁の亂以前の大名はないと言つていゝ位です。それから東の方では、半分神主で半分大名といふのに信州の諏訪家といふのがずつと前からありましたが、關東ではまづないと言つていゝ位であります。東北に參りますると少しあります、伊達とか南部とか、上杉佐竹とかいふ樣な家は應仁の亂以前からあつた家でありますが、それでさへも應仁の亂以前から其土地に土着して居つたといふのは極く僅かであります。二百六十藩もあつた多數の大名の内でそれ位しか數へられませぬ。
 それと同時に、應仁の亂以前にありました家の多數は、皆應仁以後元龜天正の間の爭亂のため悉く滅亡して居ると言つてもいゝのです。昔、極く古くは氏族制度でありましたが、其時分には地方に神主のやうなものが多數ありまして、それらが土地人民を持つて居たのであります。それで今神主として殘つて居りますものに、出雲の千家、肥後の阿蘇、住吉の津守といふやうなのがありますが、皆小さなものになつて大名といふ程の力もなく、昔の面影はありませぬ。
 それから源平以後、守護地頭などになりました多くの家も、大抵は皆應仁の亂以後の長い間の爭亂のために潰れてしまひました。それで應仁の亂以後百年ばかりの間といふものは、日本全體の身代の入れ替りであります。其以前にあつた多數の家は殆ど悉く潰れて、それから以後今日迄繼續してゐる家は悉く新しく起つた家であります。斯ういふことから考へると、應仁の亂といふものは全く日本を新しくしてしまつたのであります。近頃改造といふ言葉が流行りますが、應仁の亂ほど大きな改造はありませぬ。この節の勞働爭議などは、あれが改造の緒論のやうに言つて居りますが、あんな事では到底駄目です、改造といふからには應仁の亂のやうに徹底した騷動がなければ問題になりませぬ。それで改造といふ事が結構なら應仁の亂位徹底した騷動を起すがよからうと思ひます。
 さういふ風で兎に角是は非常に大事な時代であります。大體今日の日本を知る爲に日本の歴史を研究するには、古代の歴史を研究する必要は殆どありませぬ、應仁の亂以後の歴史を知つて居つたらそれで澤山です。それ以前の事は外國の歴史と同じ位にしか感ぜられませぬが、應仁の亂以後は我々の眞の身體骨肉に直接觸れた歴史であつて、これを本當に知つて居れば、それで日本歴史は十分だと言つていゝのであります、さういふ大きな時代でありますので、それに就て私の感じたいろ/\な事を言つて見たいと思ひます。が併し私は澤山の本を讀んだといふ譯でありませぬから、僅かな材料でお話するのです、その材料も專門の側から見ると又胡散臭い材料があるかも知れませぬが、併しそれも構はぬと思ひます。事實が確かであつても無くても大體其時代においてさういふ風な考、さういふ風な氣分があつたといふ事が判れば澤山でありますから、強ひて事實を穿鑿する必要もありませぬ、唯だ其時分の氣分の判る材料でお話して見ようと思ひます。併し私の材料といふのは要するに是だけ(本を指示して)ですから、是を見ても如何に材料が貧弱であり、極めて平凡なものであるかといふ事が分ります。
 私はまづ應仁の亂といふものに就て、若い時分に本を讀み、今でも記憶してゐる事に就て述べます。それは其頃有名だつた一條禪閤兼良といふ人の事であります、此人は應仁の亂の時代の人でありまして、其位地は關白にまで上り、さうして其學才は當時の人に拔出て居りました、いや當時のみならず恐らく日本歴史の關白の内で最も學才のあつた一人であると思ひます。此人の書いたものに「日本紀纂疏」と言つて日本紀神代卷の注を漢文で書いた本があります、此人は又私共のやる支那の學問に就ても非常に博學でありましたが、是に依て、其當時まだ日本にも斯ういふ人々の間には漢籍の材料が隨分あつたといふ事が分るのであります。併しさういふ澤山の材料も應仁の亂と共に亡びたと言つていゝのであります、そこが日本の文明を全く新しくした所以であつて、多數の材料が皆なくなつて了つたといふ事は却て結構であつたかも知れませぬ。
 所が今日は此人の「日本紀纂疏」の事をお話するのではありませぬ、極く平凡な本の方をお話するのであります、それは「樵談治要」といふ本でありまして、群書類從に出てゐる本であります。是は應仁の亂の後、將軍でありました足利義尚のために治國の要道を説いたものだといふ事でありまして、極く簡單な本でありますが、併し是で其當時の事が頗るよく分るのであります。尤も此人が治國の要道として説いた議論――此人の經綸とも言ふべきものが偉いといふのではありませぬ。どちらかと言へば此人の經綸は一向詰らないものでありまして、夫程博識な人でありますけれども、此人の經綸といふものは、やはり昔からの貴族政治の習慣に囚はれて少しも新しい事を考へて居りませぬ。のみならず其當時の勢力あるものに幾らか阿附する傾きがあつて、眞に自分の意見を眞直ぐに言つたのではないと思はれる節もあります。其一つを申しますと、其本の中に女が政治を執ることが書いてあるのです、併しそれは今日の所謂女子參政權の問題ぢやありませんから御安心下さい(笑聲起る)、詰りそれは簾中より政治を行ふ事で、將軍家などの奧向から表の政治に喙を入れる事でありますが、それに就て兼良の言つてゐる事は、之に贊成をしてゐるやうな口調であります。即ち女が簾中から政治をするといふことは古來どこでも弊害が多いといふことを言はれて居るのでありますが、兼良は其人さへよければいゝといふやうな頗る曖昧な事を言つてお茶を濁して居ります。是は當時義政の御臺所が大分政令に干與していろ/\な事をし、應仁の亂も實は義政の御臺所が根本であると言はれる位に勢力のあるものであつたからして、其勢力に迎合してさういふことを書いたのではないかと思はれるのであります。さういふ點は此人の最も詰らない點であります。其他何れも舊來の習慣を維持する議論で、何にも新しい議論を考へて居りませぬ。其點になると南北朝時代の北畠親房などは、當時の政治に關して古今の史實を參考して、立派に批評し、且つ從來の政治の外に新しい政治のやり方を考へまして、公卿と武家と一致する、公卿が武家の事をもするといふ新しい意味の事を考へた經綸とは較べ物にならぬのであります。唯詰らない議論でも、又其中に當時の實状を非常によく現はしてゐるところが大切であります。
 私が始めて讀んだ時からいつも忘れずに居つた事は「足輕といふ者長く停止せらるべき事」といふ一ヶ條であります、足輕即ち武士サムラヒ以下にある所の歩卒が亂暴をするといふ事に就て非常に憤慨してゐるのであります。足輕といふものは舊記などにも書いてないと言ふことですが、塙檢校の調べによると、源平盛衰記、太平記などにも載つて居るさうであります。勿論其時代にはこれがまだ少しも重要な位置には居らなかつたのです、所がこの應仁の亂のため此足輕といふ階級が目立つやうになつたのです。それで
昔より天下の亂るゝことは侍れど、足輕といふことは舊記などにもしるさゞる名目也。平家のかぶろといふ事をことめづらしきためしに申侍れ。此たびはじめて出來たる足がるは、超過したる惡黨なり、其故に洛中洛外の諸社、諸寺、五山十刹、公家、門跡の滅亡はかれらが所行也。かたきのたて籠たらん所におきては力なし、さもなき所々を打やぶり、或は火をかけて財寶を見さぐる事は、ひとへにひる強盜といふべし、かゝるためしは先代未聞のこと也。
と斯う書いてあります。一體應仁の亂に實際京都で戰爭があつたのは僅か三四年の間であります。十年間も續いた亂であると申しましても、京都に戰爭のあつたのは三四年間でありますが、其三四年間ばかりの間に洛中洛外の公卿門跡が悉く燒き拂はれたのであります。而もそれが悉く足輕の所行でありましたので、其事が樵談治要に出てゐるのであります。そして敵の立て籠つた所は仕方がないにしても、さうでもない所を打ち壞し又は火を掛けて燒き拂ひ或は財寶を掠め歩くといふ事は偏へにひる強盜といふべしと言つて居ります。そして是を取締らないといふと政治が出來んといふ事を言つてゐますが、是は即ち貴族階級の人から見た最も痛切な感じであつたに違ひないのであります。當時應仁の亂を見て貴族階級の人が痛切に感じた事は實際さういふ事であつたのであります。
 さういふ風に足輕が亂妨し跋扈したといふ事に就てはまだ面白いことが書いてあります。私は此前に日本の肖像畫の事を話したことがありまして、それは「歴史と地理」の鎌倉時代の文化の所に出て居りますが、それに私は足利時代は亂世である、亂世の時には時々個人の能力あるものが非常に現はれるものであるが、足利時代は亂世であるに拘らず一向天才が現はれない、個人の能力のすぐれた者が頭を出さない時代であつたといふ事を申しました。勿論是は大體から考へて言つた事で、一々證據を擧げる段になると多少の取除を生ずることは勿論でありますが、しかしながら樵談治要を見ると、當時の人が又さういふ事を感じて居つたといふ事が分りまして非常に面白く思ふのであります。即ち足輕の事を説いて居る所に引きつづき、
是はしかしながら武藝のすたるゝ所に、かゝる事は出來れり。名ある侍の戰ふべき所を、かれらにぬきゝせたるゆへなるべし。されば隨分の人の足輕の一矢に命をおとして、當座の恥辱のみならず、末代までの瑕瑾を殘せるたぐひもありとぞ聞えし。

 ※(二の字点、1-2-22)
 祿()()殿殿殿殿
 
 ()()()()
 退退退
 ()
 
 ()()
 
 ()()
 ()()
 
 
 西
 使
ある時に孝庸玄旨法印に世間の便になる書は何をか第一と仕るべきと尋ねさせければ、源氏物語と答へたまひし。又歌學の博學に第一のものはと問はれば同じく源氏と答へさせたまふ。何もかも源氏にてすみぬる事と承りぬ、源氏を百遍つぶさに見たるものは歌學の成就なりとのたまふよし孝庸の説と云々

 
 調
 
 
 
 







底本:「内藤湖南全集 第九卷」筑摩書房
   1969(昭和44)年4月10日初版第1刷発行
   1976(昭和51)年10月10日初版第3刷発行
底本の親本:「増訂日本文化史研究」弘文堂
   1930(昭和5)年11月
初出:史學地理學同攻會講演
   1921(大正10)年8月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※踊り字(/\、/″\)の誤用は底本の通りとしました。
入力:はまなかひとし
校正:菅野朋子
2001年1月10日公開
2016年4月20日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード