支那歴史的思想の起源

内藤湖南




 調調()()
 
 ※(二の字点、1-2-22)廿
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 ※(「爽」の二つの「爻」に代えて「百」、読みは「せき」、第3水準1-15-74)※(「爽」の二つの「爻」に代えて「百」、読みは「せき」、第3水準1-15-74)使使使使西1
 廿廿調鹿454-15鹿454-15※(「舟+余」、読みは「よ」、第4水準2-85-73)454-17※(「木+虎」、読みは「こう」、第4水準2-15-6)廿鹿455-1廿455-2
 西
 ※(二の字点、1-2-22)
我不可不監于有夏。亦不可不監于有殷。
といふ言葉が出て來て居ります(2)。前代のことに就て、それを手本とし、或は戒めとして考へる上に就て、この三代がだん/\に代つたといふことが、古代の思想上重大なことであつたらしく思はれます。召誥の外に、同じやうな考へは多士篇にも現はれて居ります(3)。それから全體の革命の上の考へではありませんけれども、無逸とか君※(「爽」の二つの「爻」に代えて「百」、読みは「せき」、第3水準1-15-74)とかの諸篇の中にも皆歴史的思想といふべきものは多少現はれて來て居りまして、それから多方、前に申しました立政の諸篇にまで、ますますそれが現はれて居ります。一つはこれは、今日尚書を読んで見ますといふと、勝利者である所の周が、失敗者であると言つてもまだ非常な實力を有つて居つた殷人に對して、お前の國の殷も、前代の夏の政が衰へたが爲に取つて代つたのでないか、お前の國が天命を失ふと吾が國が天命を得てそれに代るといふことは當り前のことだ、といふ風に因果を含めて聞かす爲の當時の政策とも見えますけれども、ともかくさういふ風に、三代變化があつたといふことは、それは歴史的思想としては當時餘程重要なことであつたらうと思ひます。それが先づ一つ比較的正確な古い記録の上に現はれる所の歴史的思想であります。
 それから第二に於きましては、古代に於てこの支那の國土を開いた人から、段々その時代迄の世の中の變化、王朝の變化といふことを考へる思想が現はれて來て居ると思ひます。古代に於て國土の開闢者として詩經若しくは書經の中に先づ出て來るのは夏の禹であります。夏の禹に關することは經書の中にも隨分澤山出て居りますが、詩經の大雅の蕩の篇に、これは有名な誰でも知つて居ることで
殷鑒不遠。在夏后之世。
といふ言葉が出て居ります。これは僅かに二句にして三代の移り變りを言ひ現はして居るのであります。それから大雅の文王有聲の篇に
豐水東注。維禹之績。
といふ言葉が出て居る。つまり禹が水土を平げたといふことの考へは、この頃現はれて居るのであります。又大雅の韓奕の篇に
奕奕梁山。維禹甸之。
※(「門+必」、読みは「ひ」、第3水準1-93-47)※(「糸+贊」、読みは「さん」、第4水準2-84-63)4西
陟禹之迹
この文句は大體詩經の中にある文句と餘程よく似て居ります。この「迹」の字が詩經の方では「績」の字になつて居りますけれども、ひよつとすると、かういふのは昔同じ音の字であつたので、同じ意味であつたのではないかと思ひます。同じやうな例は又魯頌の中に
※(「糸+贊」、読みは「さん」、第4水準2-84-63)禹之緒
といふ文句がありますが、これが金文の有名な齊侯※(「溥」の「さんずい」に代えて「かねへん」、読みは「はく」、第3水準1-93-32)と申します鐘の銘の中には
咸有九州。處禹之堵。
西
 ※(「溥」の「さんずい」に代えて「かねへん」、読みは「はく」、第3水準1-93-32)※(「溥」の「さんずい」に代えて「かねへん」、読みは「はく」、第3水準1-93-32)※(「溥」の「さんずい」に代えて「かねへん」、読みは「はく」、第3水準1-93-32)※(「溥」の「さんずい」に代えて「かねへん」、読みは「はく」、第3水準1-93-32)※(「女+原」、読みは「げん」、第3水準1-15-90)
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此れ世の人の所謂反矢かへしやむべしと云ふことのもとなり
と書いてあります。それから伊弉諾・伊弉册尊の所でありましたか
世の人いけるを以てまかれるひとに誤つことを惡む、此れ其のことのもとなり
と書いてあります。さういふことは日本紀に隨分澤山あります。神武天皇紀でも、機密を人に言ひ渡す爲に倒語さかことばを使つたといふことがありまして、倒語を用ゐることは始めて茲に起れりといふやうなことを書いてあります。それからこの日本紀の記事の多くは、色々の家柄のことを書きました時に、その家柄の大抵先祖を書くか、或は墓を書くか、それから又古い人のことを書いて、今日の何といふ家はその苗裔だと書くか、何か皆今日現在して居ることから遡つてその因縁を尋ねる話になつて居ります。それが即ち縁起譚でありますが、この縁起譚は支那の古書でも左傳などの中に隨分澤山あります。左傳ばかりでありません、春秋にはその外の公羊傳などにも出て居りますが、それに就て宋の王應麟は困學紀聞に於てその事を注意して居ります。困學紀聞の最終の雜識と申します篇にそのことを澤山擧げて居りまして、これは主に禮記とそれから左傳とに據つて書いたのでありますけれども、左傳に「始」といふ文字を用ゐてあるのは、必ず何か新しき事柄の始まつた時のことを現はしてあるので、この「始」といふことが大切なんで、「始」といふことが皆必ず書いてある。例へば隱公の五年に、祀りをする時の音樂に六※(「にんべん+(八/月)」、読みは「いつ」、第3水準1-14-20)を用ゐたといふ時に「始用六※(「にんべん+(八/月)」、読みは「いつ」、第3水準1-14-20)也」と書いてある。かういふ風に始めて何々するといふことは澤山左傳に出て居るが、それは皆「始」といふことが第一大切で、物の變化といふことのこれが證據しるしになるから、そこでこの「始」といふ文字を書いてあるのだといふことを困學紀聞の卷の二十に書いて居ります。左傳のみならず、禮記の中にそのことが澤山あることを先づ書いて居りまして、「禮記は禮の變化に於て皆始と曰ふ」といふことを書きまして、さうしてその次にずつとその例を擧げて居ります。主に禮記の檀弓・曾子問・玉藻・雜記・郊特牲、さういふ諸篇の中に、總て禮の變化に就て「何々のことは何々より始まつた」といふ風に皆書いてありますので、それを擧げて居りますが、先づ第一に檀弓に
孔氏之不喪出母。自子思始也。
5※(「にんべん+(八/月)」、読みは「いつ」、第3水準1-14-20)67使()
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 ※(二の字点、1-2-22)1011
 


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(周南)卷耳 漢廣
(召南)何彼※[#「衣+農」、読みは「じょう」、467-6]
※(「北+おおざと」、読みは「はい」、第4水準2-90-9)風)緑衣 雄雉 谷風
※(「庸+おおざと」、読みは「じょう」、第4水準2-90-24)風)桑中 定之方中
(衞風)氓 有狐
(王風)中谷有※[#「くさかんむり+推」、読みは「たい」、467-10]
(魏風)園有桃
(唐風)山有樞
(陳風)墓門
(小雅)常棣 伐木 天保 采薇 出車 魚麗 六月 ※(「眄」の「目」に代えて「さんずい」、読みは「べん」、第4水準2-78-28)水 斯干 無羊 節南山 正月 十月之交 小弁 巧言 蓼莪 小明 楚茨 瞻彼洛矣 裳裳者華 采菽 都人士 隰桑 漸漸之石 ※(「くさかんむり+召」、読みは「ちょう」、第3水準1-90-72)之華
(大雅)緜 皇矣 生民 卷阿 瞻※(「仰」から「にんべん」を取ったもの、読みは「ぎょう」、第4水準2-3-53) 召旻
(2)尚書召誥篇に云く



(3)尚書多士篇に云く
※(「さんずい+失」、読みは「いつ」、第3水準1-86-59)※(「さんずい+失」、読みは「いつ」、第3水準1-86-59)468-10

(4)毛詩魯頌に云く
※(「炯」の「ひへん」に代えて「うまへん」、読みは「けい」、第4水準2-92-82)※(「炯」の「ひへん」に代えて「つちへん」、読みは「けい」、第3水準1-15-39)
(5)困學紀聞卷二十、雜識に云く
※(「朱+おおざと」、読みは「ちゅ」、第3水準1-92-65)※(「經」の「いとへん」に代えて「こざとへん」、読みは「けい」、第3水準1-93-59)
便
(6)困學紀聞卷六に云く


(7)同書同卷に云く


(8)述學内篇卷二、左傳春秋釋疑の文を參照すべし。
(9)朱子語類卷八十三に云く
便
又云く
左傳是後來人做。爲見陳氏有齊。所以言八世之後。莫之與京。見三家分晉。所以言公侯子孫。必復其始。以三傳言之。左氏是史學。公穀是經學。
困學紀聞卷六に云く

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底本:「内藤湖南全集 第十一巻」筑摩書房
   1969(昭和44)年11月30日発行
   1976(昭和51)年10月10日第2刷
底本の親本:「支那史學史」京都大学支那史学史講義
   未刊
初出:支那学会大会講演
   1933(昭和8)年6月17日
   「史林」第十九巻第一号に講演録所収
入力:はまなかひとし
校正:菅野朋子
2001年5月29日公開
2004年2月4日修正
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JIS X 0213

調

JIS X 0213-


「てへん+(鹿/禾)」、読みは「くん」    454-15、454-15、455-1
「三/二」    454-17
「そうにょう+異」、読みは「ちょく」    455-2
「衣+農」、読みは「じょう」    467-6
「くさかんむり+推」、読みは「たい」    467-10
「田」の下に「兀」のようなもの、読みは「ひ」    468-10