一
﹁はいっ。﹂
﹁はいっ。﹂
﹁ほらきた!﹂
﹁よいとこら!﹂
﹁はっ。﹂
﹁はっ。﹂
庄屋よ狐よ猟師よと拳にさざめく夕涼み。本八丁堀三丁目、海えび老ど床この縁台では、今宵、後の月を賞めるほどの風みや雅びはなくとも、お定きま例りの芋、栗、枝豆、薄すすきの類の供くも物つを中に近所の若い衆が寄り合って、秋立つ夜の露っぽく早や四つ過ぎたのさえ忘れていた。
親分藤吉を始めいつもは早寝の合がっ点てん長なが屋やの二人までが、こう気を揃えてこの群に潜んでいるのも、なにがなし珍ちんと言えば珍だったが、残暑の寝苦しさはまた格別、これも御用筋を離れての徒つれ然づれと見ればそこに涼意も沸こうというもの。夢のような夜気に行かん燈ばんの灯が流れて、三助すけ奴やっこを呼ぶ紅葉湯の拍ひょ子うし木ぎが手に取るよう――。
軒下の竹台に釘抜のように曲った両脚を投げ出した目明し藤吉、蚊か遣やりの煙を団うち扇わで追いながら、先さっ刻きから、それとなく聴耳を立てている。天水桶の陰に、しゃがんで、指先でなにかしきりに地面へ書いているのは、頬ほお冠かむりでよくはわからないが乾こぶ児んの勘かん弁べん勘かん次じ。十三夜の月は出でて間もない。
どっと起る笑い。髪床の親方甚八とに組の頭常吉との向い拳で、甚八が鉄砲と庄屋の構えを取り違えたという。それがおかしいとあってやんやと囃はやす。その騒ぎの鎮まったころ、片岡町の方から、あるかなしかの風に乗って不思議な唄声が聞えてきた。銀の伸の板べをびいどろの棒で叩くような、それは現この世よのものとも思えない女の咽の喉ど。拳の連中は気がつかないが、藤吉はぐいと一つ顎をしゃくって、
﹁来たな!﹂
という意こころ。勘次は頷うな首ずく。
﹁彦の野郎うまくやってくれりゃあ好えがのう。﹂乗り出す藤吉の足許から、
﹁なあに親分、﹂勘次が答えた。﹁彦のこった、大丈夫鉄かねの脇差し――即つかず離れず見え隠れ、通う千鳥の淡路島、忍ぶこの身は――。﹂
﹁しいっ!﹂
声は近着いてくる。唄の文句は明はっ瞭きりとは聞き取れないが、狂女お艶から出てこの界隈では近ごろ誰でも承知の狂きち気がい節ぶしはお茶漬音頭、文政末年都どど々いつ逸ぼう坊せ仙ん歌かが都々逸を作あみ出だすまでのその前身よしこの節の直流を受けて、摺すり竹だけの振り面白い江戸の遊すさびであった。歌こと詞ばに棘とげがあるといえばあるものの、根が狂きち気がい女おんなの口ずさむ俗曲、聞く人びとも笑いこそすれ、別に気に留める者とてはなかった。
片岡町を左へ松屋町へ出たと見えて、お艶の美音は正しょ覚うが橋くばしのあたりから、転がるように途切れ途ぎれて尾を引いてくる――。
「うらみ数え日
薬かゆすりか
気ぐすりゃ知らねど
あたきゃ
あれ、よしこの何だえ
お茶漬さらさら」
お茶漬さらさら」
一つ文句のこの小唄、明暮れこれを歌いながら、お艶は今も夜の巷を行く。白じらとした月明りに罩こもって、それはさながら冥府の妓うた女いめの座興のよう――藤吉勘次は思わず顔を見合せた。拳にも倦あきてか、もう縁台の人影もいつとはなしに薄れていた。
お江戸京橋は亀島町を中な心かにして、狂女のお艶が姿を現わしたのはこの年も春の初め、まだ門松が取れたか取れないころだった。鳥追笠を紅べに緒おで締めて荒い黄八に緋ひが鹿の子この猫じゃらしという思い切った扮いで装たちも、狂気なりゃこそそれで通って、往きずりの人もちと調子の外れた門かど付づけだわいと振り返るまでのこと、当座はたいして物見評判の的にもならずに過ぎたのだったが、ある好もの奇ず家きがひょいと笠の下を覗き込んで、﹁稀代の逸品でげす、拝むだけで眼の保養でげす﹂などと大おお仰ぎょうに頭を叩いてからというものは、お艶の名はその唄うお茶漬音頭とともに売り出して、こんな莫ばか迦さ騒わぎの好きな下町の人びとの間に、声を聞かざるは三代の恥、姿を見ざるは七代の不運なぞと言い囃はやされ、美人番付の小結どころに挙げられるほどの持て方となった。
正月のある夕ぐれ、ふらっと亀島町の薬種問屋近江屋の前に立って、鈴を振るような声で例のよしこのくずしを唄い出したというだけで、はたしてどこから来てどこへ帰るのか、またはどういう身分の女がなにが動も機とでこうも浅間しく気が狂ったのか、それらのことはいっさいわからなかった。わからないから謎とされ、謎となっては頼まれもしないに解いて見しょうという者の飛び出してくるのは、これは当あた然りまえ。それかあらぬか、地の女好きにこの探さぐ索りの心が手伝って、町内の若い者が三、四人、毎夜のように交かわ替りあって近江屋の前からお艶の後を尾つけつけしたが、本八丁堀を戌いぬ亥いへ突っ切って正覚橋を渡り終ると、先へ行くお艶の姿が掻き消すように消えて失くなるという怪談じみた報しら告せを齎して、皆しょんぼり空から手てで帰るのが落ちだった。
するとまた、あの正覚橋の彼むこ方うづ詰めには寝呆け稲荷という祠ほこらがあるから、ことによるとあのお艶という女は眷けん属ぞく様さまのお一人がかりに人にん体たいをとってお徒しの歩びに出られるのではあるまいかなどと物もの識しり顔に並べ立てる者も出て来て、この説はかなりに有力になり、今までき印だのきの字だのと呼んでいたものが、急に膝を正してお艶様さまと奉たてまつる始末。なんのことはない、裏京橋の一帯が今きょ日う日びはお茶漬お艶の話で持切りの形であった。
お艶が名高くなるにつけ、いっそう困り出したのが亀島町の近江屋であった。
風に混って粉雪の踊る一月から、鐘に桜さく花らの散る弥やよ生い、青葉若葉の皐さつ月きも過ぎて鰹の走る梅雨晴れ時、夏に入って夏も老い、九月も今日で十三日という声を聞いては、永いようで短いのが蜉かげ蝣ろうの命と暑さ盛り、戸一重まで秋は湿やかに這い寄っているが、半歳にもあまるこの期あい間だ、降っても照っても近江屋の前にお艶の姿を見ない日はなかった。陽もそぼそぼと暮方になると、どこからともなく蹣よろ跚ばい出てくるお艶は、毎日決まって近江屋の門近く立って、さて、天の成せる音の声どに習練の枯れを見せて、往きし昔むか日しの節珍しく声高々と唄い出でる。
「うらみ数え日
仇敵におうみや
くすりかゆすりか
気ぐすりゃ知らねど
あたきゃ窶れてゆくわいな
あれ、よしこのなんだえ
お茶漬さらさら」
お茶漬さらさら」
あれ、よしこのなんだえ、お茶漬さらさら――浮いた調子の弾はずむにつれて、お艶の頬に紅も上れば道行く人の足も停まる、近江屋はじつに気が気でなかった。
﹁家蔵取られた仇敵におうみや﹂の近江屋は、権現様と一緒に近江の国から東下して十三代、亀島町に伝わるれっきとした生きぐ薬すりの老しに舗せである。高がいささか羽は目めの緩んだ流し者風ふぜ情いの小唄、取り上げてかれこれ言うがものもあるまいと、近江屋では初めのうちは相手にならずに居はいたもののこっちはこれですむとしても、それではすまないという理わ由けはそこに世間の口の端はと申すうるさい扉と無なしの関所がある。近江屋はあわて出した。
慌てて追っても去りはしない、お捻ひねりを献ずれば、じろりと流なが眄しめに見るばかり、また一段と声張り揚げて、
「うらみ数え日
家蔵とられた
仇敵に近江屋――
仇敵に近江屋――
あれ、よしこの何だえ
お茶漬さらさら」
お茶漬さらさら」
近江屋はほとほと困こうじ果ててしまった。
これが毎日のことだった。お艶の唄うのはお茶漬音頭のこの文句にきまっていた。立つところは近江屋の前に限られていた。そして、それが物の十月近くも続いたのである。
上り込んで動かないというのでもないし、それに狂気女の根無し言だから、表沙汰にするのも大人気ないとあって、近江屋は出るところへも出られず、見て見ぬ振り、聞いて聞かぬ心で持てあましているうちに、お艶は誰彼の差別なく行人の袂を押えてはこんなことを口走るようになった。
﹁あれ、見しゃんせ。この近江屋さんは妾あたきの店でござんす。なに、証文? そんな物は知りんせんが、家屋敷なら三つ並ぶ土蔵の構え、暖のれ簾んから地所まで全そっ部くり抜いて奪とられました。はあ、妾あたきの爺様の代に此こ店この先代という人にうまうま一杯欺はめられて――ああ口惜しい、口惜しいっ! お返し! お寄越し! 盗人! 詐か偽た師りっ! お返しったらお返し! お店からお顧とく客いまでそのままつけて返すがいいのさ。あれ、よしこのなんだえ、お茶漬さらさら、ほほほほほ。﹂
後は朗かな唄声に変って、うらみ数え日、とまたも始める――。
こうなると抛擲ってはおかれない。まず最まっ初さきに騒ぎ出したのが、お艶の話に出て来る当の先代なる近江屋の隠居であった。さんざん考えあぐんだ末生易しい兵法ではいけないと見て、お艶の影を認め次第飛つぶ礫ての雨を降らせるようにと番頭小僧へ厳命を下しておいたが、その結果は、小石の集まる真ん中でお艶をして唯一得意の﹁お茶漬さらさら﹂をやらせるに止まり、顕げんの見えないことおびただしかった。
近江屋にしたところで商売仇もあれば憎み手もある。この、根も葉もない狂女の言い草にさえ、火のないところに煙は立たぬとかなんとか取り立てて、早はやくもけちをつけにかからんず模様、さらぬだに口くち性さがない江戸の雀、近江屋はやっきになり出したが、それにもましてお艶は腕、いや、口に縒よりをかけてあらぬ鬱憤を洩らし始めるという、茲ここ元もと片かたや近江屋片やお艶のまたとない取組となったある日のこと――。
そのある日、湯島の方へ用よう達たしに行った帰かえ途りを近江屋の前へ差しかかったのが、八丁堀に朱総を預る合点長屋の釘抜藤吉、いきなり横合から飛び出して藍あい微みじ塵んの袖を掴んだのは、言わずと知れたお茶漬音頭で時めくお艶、
﹁あれ見しゃんせ。この近江屋さんは妾あたきの店でござんす――。﹂
言いかけたお艶の顔を、藤吉は笠を撥ね上げてじいっと見据えた。と、どうしたものかお艶は後を濁して藤吉の袖を放すと、折柄来かかったお店者らしい一人へ歩を寄せて、
﹁あれ、見しゃんせ――。﹂
と始めたが、このことあって以来、藤吉親分はお艶の狂気ぶりへそれとなく眼を光らせるようになって行った。
あれから旬日、その間に勘弁勘次に葬式彦兵衛の二人の乾児が尾けたり巻かれたり叩いたり、洗えるだけのことは洗って来たが、今宵の名月を機しおに今度こそは居所なりと突き留めようと、さてこそ、彦兵衛が奥の手は﹁お後嗅ぎ嗅ぎ﹂流の忍びの尾行となったのだった。
明けを急ぐか、夏の夜は早く更ける。お茶漬音頭の流しも消えて、どこかの軒に入れ忘れた風鈴が鳴るころ、河を距てた寝呆け稲荷の方に当ってけんとん売りの呼び声が微風に靡いていた。
﹁親分え――お、勘兄哥もか。﹂
彦兵衛が帰って来た。縁台を離れて藤吉も溝板の上にうずくまった。三人首を鳩あつめて低声の話に移った。その話がすんだ時、
﹁やるべえ!﹂
藤吉が立ち上った。
﹁おうさ、当るだきゃあ当って見やしょう。﹂
二人も起った。十三夜は満ちて間もない。その月が澄めば澄むほど、物の陰は暗くもなろう。真黒な三つの塊りが川の字形に跡を踏んで丑うし寅とらの角へ動いて行ったのは、あれで、かれこれ九つに近かった。
﹁通う千鳥の淡路島、忍ぶこの身の夜を込めて――。﹂
背うし後ろの影が唸った。前なる影が振り向いた。
﹁勘、われあ常から口が多いぞ。﹂
﹁へい。﹂
二
鮨町を細川越中の下屋敷へ抜けようとする一廓が神田代地、そこにいかにも富限者らしい造つく作りがあって近所の人は一口に因いん業ごう御ごて殿んと呼んでいるが、これこそ因業家主が通名の大家久兵衛が住すま宅い。此こ家こへお茶漬お艶が、近江屋を虐めた帰り毎夜のように立廻ることを見極めたのは、たしかに葬式彦兵衛が紙屑買いの拾ひろ物いものであった。だから、因業が祟っていまだに独身の五十男久兵衛が、女の狂っているのをいいことにして、それこそお茶漬一杯で釣っておき、明日にも自分が表から乗り込んで行って近江屋の身上を取返してやると言いながらあわよくばお艶の肉から体だを物にしようと企んでいることは、八丁堀にはとうの昔にわかっていた。この久兵衛とお艶とどういう関かか係りあいにあるのか、などと改めて四角張るのは野暮の骨頂で、片方が気違いのことだ、順序も系統もあったものではない。ただ、近江屋攻めに油の乗り出した二月ほど前に、近江屋の門口に現れた時と同じようにお艶のほうからぶらりと因業御殿へ舞い込んだというだけのこと。
有名な美人の狂女がこう思いがけなく飛びこんで来たばかりかあなたの口から近江屋へ全資産引渡しの件を交かけ渉あってくれと泣いて頼んで動かないのだから、因業久兵衛、食指むらむらと動いて悦に入ってしまった。二つ返事で承うけ知がってお茶漬を出すとじつによく食べた。その後で手を出すと、どっこいこの方はそう容易くは参らなかった。が、逃げられるほど追いたくなるのがこの道の人情とやら、ことにはなにしろきの字のこと、まあ急せいては事を仕損じる。気永に待って取とっ締ちめようと、それからというもの、久兵衛は毎晩お艶を引き入れてお茶漬を食わせて口説いてみるが、お艶は近江屋のことを頼む一方、狂気ながらも途どた端ん場ばへ来るとうまくさらりとかい潜るのが例つねだった。
﹁いけねえ。久てきまだお預けを食ってやがらあ。﹂
神田代地の忍びから帰って来ると、彦兵衛はこう言って舌を出した。鼻の頭を下から擦って勘次は我事のように焦やき慮もきしていた。
お艶の身元については二つの論があった。ありゃあお前、番町のさる旗本の一のお妾てかけさんだが、殿の乱行を苦に病んでああもお痛わしく気が触れなすったなどと真まこ実としやかに言い立てる者もあれば、何さ、札ふだの辻つじ辺りの煙草屋の看板娘が情おと夫こに瞞されたあげくの果てでげす、世の娘にはいい見せしめでげす、なんかと斜に片付けて納まり返るしったかぶりもあったが、そんな詮議は二の次としても、何からどうして近江屋へこんな因縁をつけるようになったのか、これも狂気の気紛れと断じてしまえばそれまでだが事まこ実と近江屋には背うしろめたい筋合は一つもないのだから、狂女の妄念というのほかはないものの、それにしてもこうしつこく立たれては仏の顔も三度まで、第一客足にも障ろうというもの――海老床の腰こ高し障だ子かへ隠居が蝦の跳ねている図を絵いてから、合点長屋と近江屋とは髪結甚八を通して相当昵じっ懇こんの仲、そこで近江屋から使つか者いが立って、藤吉親分へ事を分けての願掛けとなった次第、頼まれなくてもここは一つ釘抜の出幕だ、親分さっそく、
﹁ようがす。ほまちに白に眼らんどきやしょう。﹂
と大きく頷首いて、お艶を始め因業家主の身辺には、それからひとしお黒い影がつきまとうこととなったのである。
相も変らず近江屋の前でお艶は唄う。唄いながら行人の袖を惹く。袖を惹いてはこのごろではこんなことを言う。
﹁妾あたきには立派な背うし後ろ立だてがありますから、この近江屋を今に根こそぎ貰い返してくれますとさ。まま大きな眼で御覧じろ――。﹂
この背うし後ろ立てが大家久兵衛であることは、誰からともなく一時にぱっと拡がった。広い世間を狭く渡る身の上とはいえ、久兵衛の迷惑言わずもがなである。が、乗りかけた船、後へは引かれない。久兵衛、その代り前へ進んで一気に思いを遂げようとした。お茶漬を食べてひらりひらりと鉾ほこ先さきを交し、お艶はなおも近江屋一件を頼み込んで帰る。元もと来より証文も何もない夢のような話、色に絡んでおだてて見たものの、自業自得の久兵衛、とんだお荷物を背負い込んだ具合で今さら引込みもつかず、ただこの上は遮二無二言うことを聞かせようと胸を擦さすって今宵を待っていた今日というこの十三日――待てば海路の何とやらで、これはまたどえらい儲け口が、棚から牡丹餅に転げ込んで来た溢こぼれ果かほ報う。
昼のうち、それとなく因業御殿に張り込んでいた勘弁勘次は、何を聞いたか何を見たか、いつになくあわてふためいて合点長屋へ駈け戻ったが、それに何かの拠より所どころでもあったかして、この夜の彦兵衛の仕事にはぐっと念が入り、あのとおり近江屋から神田の代地、そこから正覚橋の向うへまでお艶を尾けて、引続き藤吉を先頭に、かくも闇黒を蹴っての釘抜部屋の総策動となったのだった。
町医らしい駕籠が一梃、青物町を指して急ぐ。供の持つぶら提灯、その灯が小さくぼやけて行くのは、さては狭さぎ霧りが降りたと見える。左手に聳える大屋根を望んで、藤吉は肩越しに囁いた。
﹁三つ巴の金瓦、九鬼様だ。野郎ども、近えぞ。﹂随う二つの黒法師、二つの頭が同時にぴょこりと前ま方えへ動いた。
三
水のような月の面に雲がかかって、子の刻の闇は墨よりも濃い。鎧よろ扉いどを下してひっそり寝鎮まった近江屋の前、そこまで来て三つの人影が三つに散った。犬の唸り、低く叱る勘次の声、続いて石を抛る音、後はまたことりともしない。八百八町の無むい韻んの鼾いびきが、耳に痛いほどの静しず寂けさであった。
この時、軒下伝いに来かかった一人の男、忍びやかに寄って近江屋の戸を叩いた。一つ、二つ、また三つ四つ――何の返事もない。時刻が時刻、これは返事がないはずだ。男は焦いら立だつ。戸を打つ音が大きくなる。
﹁近江屋さん、ええもし、近江屋さんえ。﹂
近あた辺りかまわず板戸を揺すぶったのがこの時初めてきいたとみえて、
﹁誰だい? なんだい今ごろ。﹂
と内な部かから不服らしい小僧の寝呆け声。
﹁儂わしだ。約束だ、開けてくれ。﹂
﹁約束? 約束なんかあるわけはないよ。﹂
戸を距へだてての押問答。
﹁お前じゃわからない。御主人と約束があるんだ。待ってなさるだろ、奥へそ言って此こ戸こ開あけてくれ。﹂
﹁駄目だよ、世間様が物騒だから閉たてたが最後大戸だけは火事があっても開けちゃあいけないって、今夜も寝る前に大番頭さんに言われたんだ。何てったって開けるこっちゃないよ。お帰り。朝おいで、へん、一昨日おいでだ! 誰だいいったいお前さんは?﹂
﹁誰でもいい。御主人か大番頭に会やあ解るこった。お前は小僧だろう、ただ取次ぎゃいいんだ。﹂
﹁馬鹿にしてやがる。お前は小僧だろってやがらあ。へへへのへん、だ。誰が取次ぐもんか。﹂
小僧しきりに家の中で威張っていると、
﹁何だ、騒々しい、何だ!﹂
と番頭でも起きて来た様子。
﹁あ、大番頭さんだ。﹂と小僧はたちまち閉へ口こんで、﹁だって、いとも怪しの野郎が襲って来てここを開けろ、開けなきゃどんどん――。﹂
﹁やかましい。怪しの野郎とはなんです。お前はあっちへ引っ込んでなさい――はいはい、ええ、どなた様かまた何の御用か存じませぬが、このとおり夜更けでございますから明朝改めて御お来い店でを願いたいんで、へい。﹂
﹁あんたは大番頭の元七さん――。﹂
戸外の男の息は喘ぐ。
﹁へえ、さようでして、あなた様は?﹂
﹁いや、今日はわざわざお越し下されて恐れ入りましたわい。で、早速ながら彼の一件物のこってすがの、今晩先方へこれこれこうと話をつけましたが、あんたの前だが儂もえらく骨を折らされましたて。が、まあ、とどの詰り、お申入れの一札を書かせましてな、はい、これこのとおりお約やく言げんの子ねに持って参じましたから――ま、ちょっとこの戸をお開けなすって。﹂
﹁何でございますか手前共にはいっこうお話がわかりませんですが――。﹂
﹁え?﹂
﹁何の事やら皆かい目もく、へい。﹂
﹁げ、元七どん、しらばくれちゃいけませんよ。老とし人よりは真にする。冗談は抜きだ。﹂
﹁ええ念のため申し上げます。当こち家らは生薬の近江屋でござい――。﹂
﹁ささ、その近江屋さんから今日の午下りに大番頭の元七さんが見えて――。﹂
﹁元七と言えば手前でございますが、お店たなに唐から着荷があって、今日は手前、朝から一歩も屋外へは踏み出しませんが。﹂
﹁えっ、それでは、あの――。﹂
﹁何かのお考え違いではございませんか。﹂
﹁あっ!﹂
と叫んで、男が地じだ団ん太だ踏んだその刹那、程近い闇や黒みの奥から太い声がした。
﹁元どん、開けてやんな。﹂
﹁だ、誰だっ?﹂
﹁どなた?﹂
内と外から番頭と男の声が重なる。
﹁八丁堀だ。﹂と出て来た藤吉。﹁釘抜だよ。元さん、お前が面あ出さずば納まりゃ着くめえ。俺がいるんだ、安心打って、入れてやれってことよ。﹂
この言葉が終らないうちに、男は何思ったかやにわに逃げ出した。こんなこともあろうかと待ち伏せしていた勘弁勘次、退路を取って抱き竦め、忌いや応おうなしに引き戻せば、男はじたばた暴れながら、
﹁儂はただ、頼まれただけ、両方に泣きつかれて板挾みになったばかり、苦しい、痛いっ、これさ、何をする!﹂
﹁合点長屋の親分さんで?﹂と中からは元七が戸を引き引き、
﹁どうもこの節は御浪人衆のお働きがいっち強きつうごわすから、戸を開ける一拍子に、これ町人、身共は尊王の志を立てて資金調達に腐心致す者じゃが、なんてことになっちゃあ実じつもっておたまり小こ法ぼ師しもありませんので、つい失礼――さあ、開きました。さ、ま、どうぞこれへ。﹂
早速の機転で小僧が点つけて出す裸か蝋燭、その光りを正まと面もに食って、勘次に押えられた因業家主の大家久兵衛、眼をぱちくりさせて我鳴り出した。
﹁違う、異う、この元七とは元七が違う!﹂
﹁何が何だか手前には解りませんが、私はたしかに近江屋の元七――。﹂
と言いかける番頭を手で黙らした藤吉は、一歩進んで久兵衛を睨ねめつけ、
﹁応さ、違わなくてか。お前さんとこへ出向いた元七は、寸の伸びた顔そっぽに切れ長の細え眼――。﹂
﹁大柄で色の黒い――。﹂
﹁それだ、それだ!﹂
勘次と彦兵衛が背うし後ろから合わせる。藤吉はにっこり笑って、
﹁まあさ、ええやな、それよりゃあ久兵衛さん、その証文てのをお出しなせえ。﹂
﹁でも、これと引換えに七百両――。﹂
﹁やいやい、まだ眼が覚めねえか。さ、出せと言ったら綺麗に出しな。﹂
出し渋るところをひったくった藤吉、燈に透かして眺めれば、これは見事なお家流の女文字。
﹁ええと、﹂と藤吉は読み上げた。﹁一いっ札さつ入いれ申もう候しそ証うろ文うし之ょう事もんのこと、私儀御当家様とは何の縁びきも無これ之なく、爾今門かど立だち小こう唄たその他御迷惑と相あい成なる可べき一いっ切さい事のこと堅く御遠慮申上候、若し破約に於ては御公儀へ出訴なされ候も夢々お恨申す間まじ敷く、後日のため覚書の事依よっ如てく件だんのごとし、近江屋さま、つや――とある。ふうん。﹂
久兵衛は死人のよう。思わず差し出す元七の掌へ藤吉は証文を押しつけて、
﹁穿せん鑿さく無むよ用う! 久兵衛さんはこれを届けに来なすったんだ。のう元さん、お前の方じゃあ文句はあるめえ。隠居へよろしく。締りを忘れめえぞ。﹂
言い捨てて矢のように走り出した。久兵衛を引き立てて勘次彦兵衛がそれに続く。小僧と元七、ぼんやり後を見送っていた。
その日の正午過ぎ、近江屋の大番頭元七と名乗る男が因業御殿を訪れて、狂女お艶へ七百両やるから縁切状を引換えに取ってくれと主人の言葉として伝えたことは、勘次の駈込みに依って逸早くわかっていたが、これで、にわかに色から慾へ鞍がえした久兵衛は、急遽自分で、家作を担か保たに五百両の現金を生み出し、夕方立寄ったお艶にその金を握らせて無理に﹁一札入申候証文之事﹂を書かせ、ここで二百両撥ねようと約束通り世間を忍んで子の刻に、証文を渡して七百両受け取るべく喜び勇んで近江屋へ来て見るとこの有様。猫婆どころか資もとも利こもない。
﹁これからその敵討ち。﹂松村町を飛びながら藤吉が呻いた。﹁久兵衛さん、お前は心掛けがよくねえから、このくれえの痛いた事はけえって気つけかもしれねえが、当こち方とらあその贋にせ元げんにちょっと心当りがあろうというもの――。﹂
﹁親分、ここだ!﹂
彦兵衛が立ち停まった。三十間堀へ出ようとする紀の国橋の畔、なるほど、寝呆け稲荷の裏に当って、見る影もない三軒長屋、端の流なが元しもとから損こわれ行燈の灯がちらちらと――。
御用の声が間もなく近隣の熟うま睡いを破った。やがて月光の下に引き出された男女二人、男は浪人者の居合抜き唐とう箕みの嘉か十郎ろう、額ひた部いへ受けた十手の傷から血が滴って、これが久兵衛に突き合わされた時、さすがの因業親爺、顫え上って元七に化けた男に相違ござりませぬと証言した。女は嘉十郎妻お高、と言うよりはお茶漬音頭で先刻馴染の狂女お艶、足拵えも厳重に今や二人は高飛びの間まぎ際わであった。五百両はそっくりそのまま久兵衛の手に返った。
﹁お茶漬さらさらか。てもうまく巧んだもんさのう。﹂
番屋へ揚げてから、藤吉はこう言ってお艶、いや、お高の顔を覗き込んだ。
﹁ほほほほ、まあ、親分さんのお人の悪い!﹂
お高は笑った。嘉十郎は苦い顔して黙りこくっていた。
さても長い芝居ではあった。見込まれた近江屋と因業久兵衛の弱り目はさることながら、狂気の真似をし通したお高の根こん気き、役者も下座も粒の揃った納すず涼みき狂ょう言げん、十両からは笠の台が飛ぶと言われたその当時、九カ月あまりに五百両は、もし最どん終じりまで漕ぎつけえたら、瘠浪人の書き下し、なにはさて措き、近ごろ見物の大舞台であった。
月は落ちて明けの七つ。
伊達若狭守殿の控邸について、帰かえ路りを急ぐ親分乾児、早い一番鶏の声が軽かる子こ河が岸しの朝焼けに吸われて行った。
突然、葬式彦が嗄かれ声ごえ揚あげて唄い出した。
「女だてらに
お茶漬け一杯
浮世さらさら
流そとしたが
お尻 が割れては
茶漬どころじゃないわいな」
浮世さらさら
流そとしたが
お
茶漬どころじゃないわいな」
先へ立つ釘抜藤吉、その顔が笑みに崩れた。と、とてつもない勘次の銅どら鑼ご声えが彦兵衛に和して、朝の街を揺るがすばかりに響き渡った。
「あれ、よしこの何だえ
お茶漬さらさら」