一
土むす蔵めや破ぶりで江戸中を騒がし長い草鞋を穿いていた卍まんじの富五郎という荒あら事ごとの稼かせ人ぎて、相州鎌倉は扇おうぎが谷やつ在ざいの刀かた鍛なか冶じ不ふど動うぼ坊うす祐けさ貞だ方かたへ押し入って召捕られ、伝馬町へ差立てということになったのが、それが鶴見の夜泊りで獄ごく口ぐちを蹴って軍とう鶏ま籠る抜ぬけという早業を見せ、宿役人の三人も殺あやめた後、どうやらまたぞろお膝下へ舞い戻ったらしいとの噂とりどり。
その風うわ評さがいよいよ事実となって現れ、八百八町に散らばる御用の者が縁に潜り屋根を剥がさんばかりの探索を始めてからまる一月、天を翔かけるか地に這うか、たしかに江戸の水を使っているとの目安以外、富五郎の所在はそれこそ天狗の巣のように皆かい目もく当あたりが立たなかった。
人心噪そう然ぜんとしてたださえ物議の多い世の様、あらぬ流りゅ言うげ蜚んひ語ごを逞たくましうする者の尾に随いて脅ゆす迫り押おし込こみ家やじ尻りき切りが市しせ井いを横行する今日このごろ、卍の富五郎の突留めにはいっそうの力を致すようにと、八丁堀合点長屋へも吟味与力後藤達たつ馬まから特に差さし状じょうが廻っていた、それかあらぬか、ここしばらくは、釘抜藤吉も角の海老床の足すら抜いて、勘次彦兵衛の二人を放ち刻々拾ってくるその聞込みを台に一つの推量をつけようと、例になく焦あせる日が続いていたが――。
夕陽を避けて壁際に大の字形なりに仰臥した藤吉、傍に畏る葬式彦と緒ともに、いささか出鼻を挫くじかれた心持ちで、に組の頭常吉の言葉に先刻から耳を傾けている。
家路を急ぐ鳥追いの破れ三味線、早い夕ゆう餉げの支度でもあろうか、くさや焼く香がどこからともなく漂っていた。
三川島の浄正寺門前、田圃の中の俗に言う竹屋敷に卍の富五郎が女房と一緒に潜んでいることを嗅ぎ出したのが浅草馬道の目明し影かげ法ぼう師しの三吉、昨夜子の刻から丑へかけて、足拵えも厳重に同勢七人、鬨ときを作って踏み込んだまではいいが、奥の一間に、富五郎の屍なき骸がらに折り重なってよよとばかりに哭き崩れる女房を見出しては、さすがに気の立った三吉一味もこのところ尠からず拍子抜けの体だったという。
実もって容易ならぬ常吉の又聞き話。三吉が捕方に向う六時も前、午過ぎの九つ半に、富五郎は卒中ですでに鬼きせ籍きに入っていたのだとのこと。その十畳には死人の首かど途でが早や万端調ととのって、三吉が御用の声もろとも襖を蹴倒した時には、線香の煙りが縷る々るとして流れるなかに、女房一人が身も世もなく涙に咽むせんでいるばかり、肝心の富五郎は氷のように冷く石のように固くなって、北を枕に息を引き取った後だった。
捕とり吏ての中には三吉始め富五郎の顔を見知った者も多かったから、紛れもなくお探ね者の卍の遺むく骸ろとは皆が一眼で看て取ったものの、残念ながら天命とあっては致し方がない。いろいろと身体を調べたがたしかに死んでいる。いくら生前が兇状持ちでも仏を罪するわけには行かない。それに夜明けにも間がないので、富五郎の屍体はひとまずそのまま女房へ預けておき、朝、係役人を案内して表向き首実検に供えた後、今日の内にも小塚原あたりに打うっ捨ちゃりになり、江戸お構いの女房の拾いでも遅くも夕方までには隠おん亡ぼう小屋の煙りになろうという手筈――だったのが、それがどうだ!
﹁ささ、ここだて親分。﹂常吉は一人ではしゃいで、﹁これで鳧けりがつきゃあ、三尺高え木の空がお繩知らずに眼え瞑つむったんだからお天道様あねえも同然。ところがそれ、古いやつだがよくしたもんで、そうは問屋じゃ卸さねえ。﹂
今朝、旦那衆の伴をして改めて富五郎の死顔を見届けに出向いた影法師三吉は、昨夜の家が藻も脱ぬけの空、がらんどう、入れておいた早はや桶おけぐるみ死人も女房も影を消しているのに、二度びっくり蒸返しを味わった。住すみ人ては素より何一つ遺っていず、綺麗に掃除してあったとのこと。
﹁仏を背負って風食くらったのか。﹂
藤吉はむっくり起き上った。
﹁へえ、死んでもお上にゃあ渡さねえてんで。﹂
﹁なるほどな、ありそうなこった。﹂
つくねんと腕組した藤吉、
﹁だがしかし家財道具まで引っ浚えてのどろんたあ――?﹂
﹁ちと腑に落ちやせんね。﹂彦兵衛が引き取る。﹁なんぼ朱しゅ総ぶさが嫌えだっていわば蝉の脱殻だ、そいつを担いで突っ走るがものもあるめえに。﹂
﹁のう常さん。﹂藤吉はにやりと笑って、﹁死んだと見せて実のところ、なんて寸法じゃあるめえのう、え、おう?﹂
が、相応巧者な三吉が腕利きの乾児を励まして裏返したり小突いたり、長いこと心しんの臓ぞうに耳を当てたりしたあげく、とど遺骸と見極めたのだから、よもやそこらに抜かりはあるまい、常吉はこう言い張った。
﹁姐御ってのが食わせ物さね。しかし親分、いい女だったってますぜ。﹂と見て来たように、﹁お前さんの前だが、沈ちん魚ぎょ落らく雁がん閉へい月げつ羞しゅ花うか、へっへ、卍って野郎も考えて見りゃあ悪党冥みょ利うりの果報者――ほい、えらく油あ売りやした。﹂
しゃべるだけしゃべってしまうと、何ぞ用事でも思い出したか、ぴょこりと一つおじぎをしてに組はさっさと座を立った。
後に残った藤吉、彦兵衛と顔が会うと苦り切って呟いた。
﹁死くたばっても世話の焼ける畜生だのう。﹂
何か彦兵衛が言おうとする時、紅もみ葉じ湯ゆへ行っていた勘弁勘次が、常吉と入れ違いに濡手拭を提げてはいって来た。
﹁親分え。﹂
と立ったままで、
﹁変なことがありやすぜ。﹂
﹁何だ?﹂
﹁今日は十一日でがしょう。﹂
﹁うん。﹂
﹁明日は王子の槍やり祭まつり。﹂
﹁それがどうした?﹂
﹁あっしの友達に小太郎ってえ小こも物の師しがいてね――。﹂
﹁まあさ、据われよ、勘。﹂
勘次は坐った。すぐに続ける。
﹁神田の伯母んとこでの相しり識あいだから親分も彦も知るめえが、今そこでその小太郎に遭ったんだ。﹂
﹁なにも異なこたあねえじゃねえか。小物師だろとぼくだろと、二本脚がありゃあ出て歩かあな。﹂
ちょっと膨れた勘次はあわてて説明にかかった。この先の五丁目次郎兵衛店だなに同じく小物渡世で与よそ惣う次じという四や二く近い男おと鰥こやもめが住んでいて、たいして別懇でこそなけれ、藤吉も彦兵衛も勘次も朝夕顔を見れば天気の挨拶位は交す仲だった。
土地から蝋燭代を貰って景気を助すけに出る棟あた梁まか株ぶの縁日商人に五種あって、これを小物、三寸、転び、ぼく、引ひっ張ぱりとする。小物とは大傘を拡げかけてその下で駄菓子飴細工の類を売る者、三寸とは組立屋台を引いて来て帰りには畳んで行く者、転びとは大道へ蓙ござを敷いて商品を並べるもの、ぼくというのは植木屋、引張とあるは香や具し師のことである。与惣次はこの小物師であった。
今のさき、湯帰りの勘次がこの与惣次の家の前を通ると、神田の小太郎がしきりに雨戸を叩いている。立話しながら訊いてみると、明日の王子神社の槍祭を当て込み、今日の暮方に発足して夜通し徒て歩くろうという約束があって、仲間同士のよしみから廻り道して誘いに寄ったという。見ると板戸は閉たて切きってあるものの内う側ちから心しん張ばりがかかっている様子がまんざら無人とは思われない。朝ならともかく午下りも老いたころ、ついぞないことなばかりか、用意洩れなく準ととのえて待ち受けていべきはずの与惣次が――? 小太郎は首を捻って、勘次ともどもまた激しく戸を打ったが、何の応いらえもない。業ごうを煮やした小太郎は舌打ちして行ってしまった。ただこれだけの事こ件とではあるが、いそうで開けないのを不審と白に眼らめば臭くもある。
﹁ついそこだ、親分、ちょっと出張って検てやっておくんなせえ。あっしゃやに気になってね、どういうもんだかいても立ってもいられねえんだ。﹂
﹁莫迦っ。﹂藤吉が呶鳴った。﹁寝込んででもいるべえさ。が、奴、待てよ。﹂と思い返したらしく、
﹁どこでも叩きゃあちったあ埃りが立とうというもの。なにも胸むな晴ばらしだ、勘の字、われも来るか。﹂
勘弁勘次と並んでぶらりと合点小路を立出でた釘抜藤吉、先日来の富五郎捜しで元乾児の影法師三吉に今度ばかりは先手を打たれたこと、おまけに途どた端ん場ばへ来て死人に足でも生えたかしてまたしても御用筋が思わぬどじを踏んだこと、これらが種となって、一脈の穏やかならぬものがその胸底を往来していたのも無理ではなかった。
稲荷の小橋を右手に見て先が幸い水谷町、その手前の八丁堀五丁目を河岸縁へ切れて次郎兵衛店、小物師与惣次の家の前に立つと、ちゃあんと格子が開いて人の居る気けは勢い。藤吉が振り返ると勘次は眼をぱちくりさせて頭をかいた。
来たものだから念のため、
﹁御免なせえ、与惣さん宅かえ?﹂
﹁――――﹂
﹁与よ惣ささん。﹂
﹁は、はい。﹂
という籠った返事。藤吉は勘次を白に眼らむ。
﹁そら見ろ。﹂
勘次はまた頭をかいた。と、
﹁どなたですい?﹂と家な内かから。
﹁あっしだ、合点長屋だ。どうしたえ?﹂
﹁へ? へえ。﹂
﹁瘧おこりか。﹂
﹁へえ、いえ、その、なんです――。﹂
﹁何だ。上るぜ。﹂
﹁さ、ま、なにとぞ。﹂
ずいと通った藤吉、見廻すまでもなく一間きりの部屋に、油染みた煎餅蒲団を被って与惣次が寝ている。
﹁おうっ、この暑さになんだってそう潜ってるんだ?﹂
近寄って見下ろす枕もと、夜着の下からちらと覗いたは、これはまた青々とした坊主頭!
﹁ややっ、与惣、丸めたな、お前。﹂
聞くより早く掻かい巻まきを蹴って起き上った小物師与惣次、床の上から乗り出して藤吉の膝を抱かんばかりに、
﹁だ、旦那、聞いて下せえ!﹂
﹁なななんだ、何だよう。﹂
﹁聞いて下せえ。﹂
と叫びざま、眼の色変えた与惣次は押えるような手付きをした。
﹁落ち着け。何だ。﹂
戸外を背にして早口に話し出す与惣次、その前面に胡あぐ坐らをかいた藤吉親分、暮れやらぬ表の色を眺めながら、上あがり框がまちに腰掛けた勘弁勘次は、掌へ吹いた火玉を無心一心に転がしていた。
二
成田の祇ぎお園ん会えを八日で切上げ九日を大おお手てず住みの宿しゅくの親類方で遊び呆ほうけた小物師の与惣次が、商売道具を振ふり分わけにして掃かも部んの宿へかかったのは昨十日そぼそぼ暮れ、丑うし紅べにのような夕焼けが見渡すかぎりの田の面に映えて、くっきりと黒い影を投げる往還筋の松の梢に、油蝉の音が白ゆう雨だちのようだった。
朝までには八丁堀へ帰り着き中一日骨を休め、十一日にはまた家を出て十二日の王子の槍祭になんとしても一儲けしなくてはと、与惣次はひたすら路を急いでいた。
河原を過ぎて大川、山王権現の森を左に望むころから、一人の若い女が後になり前になり自分を尾けているのに、与惣次は気が付いたのである。町家の新造のような、それでいて寺侍の内ない所しょのようなちょっと為体の知れない風つく俗りだったが、どっちにしてもあまり裕福な生活の者とは踏めなかった。それが、さして気にも留めずに歩いていた与惣次も、中村町へはいろうとする月げっ桂けい寺じの前で背後から呼ぶ声に振り向いた時には、世にも稀なその女の美貌にまず驚いたのだった。
女は道に迷っていた。三川島へ出る道を中腰を屈めて訊く白い襟足、軽い浮気心も手伝ってか、与惣次はきさくに呑み込んで、
﹁ようがす。送って進ぜやしょう。﹂
とばかり、天王の生垣に沿うて金杉下町、真光寺の横から町屋村の方へ、彼は女を伴れて九つづ十ら九お折りに曲って行った。
水田続きに寮まがいの控屋敷が多い。石川日ひゅ向うが様は横に長くて、この一構が通りを距てて宗そう対つし馬まの守かみと大関信しな濃のの守かみの二棟に当る。出外れると加藤大おお蔵くら、それから先は畦のような一本路が観かん音のん浄じょ正うしょうの二山へ走って、三川島村の空遠く道灌山の杉が夜の幕とばりにこんもりと――。
野菊、夏菊、月見草、足にかかる早露を踏みしだいて、二人は黙って歩ほを拾った。
こうして肩を並べて行くところ、落おち人ゅうどめいた芝居気に与惣次はいい心持にしんみりしてしまったが、掃かも部んへ用達しに行った帰途だとのほか、女は口を緘とざして語らなかった。内気らしいその横顔見れば見るほどぞっとするような美しさに、独身の与惣次、われにもなく身顫いを禁じ得なかった。
浄正寺門前へ出ていた。
﹁三川島はこの裏でさあ。﹂
与惣次は女を返り見た。影も形もない。今の今までそこにいた女が、掻き消すように失くなったのである。
﹁おや!﹂
何かを落しでもしたように、与惣次は足許を見廻した。が、ぶるっと一つ身体を振って、
﹁狐か、悪わる戯さをしやあがる。﹂
ともと来た道へ取って返そうとした。その時、霧を通して見るようなほの赤い江戸の夜空に、大おお砲づつのように鳴り渡る遠とお雷なりの響を聞いたことだけを与惣次ははっきり記憶えている。
気を喪った与惣次の身柄は覆面の男と先刻の女の手に依って、竹藪深く一軒家の奥座敷へと運び込まれた。
くどくどと述べる女の言葉で与惣次はわれに返った。古びた十畳の間に、汚れてはいるが本ほん麻あさの夜具を着て寝ている。枕元の鉄かな網あみ行あん燈どんの灯影にほかならないあの女、道案内の礼事やら、悪わる漢ものに襲われて倒れたところを折よく良おっ人とが来合せてこの家へ助け入れた仔いき細さつをくり返しくり返し語り続ける。その良人というのも出て来てなにくれと懇切に見てくれた。たしかにどこかで見たような顔、そんなような気がするだけで、どこの誰か、果して真ほん個とに会ったことのある仁か、与惣次はいっこう思い出せなかった。咽喉が痙攣って物を言おうにも口が開かなかった。口は開いても声をだす術を忘れ果てていた。身体は鉛のように重かった。手の指一本が、とても与惣次には動かせないほどだった。
今夜は泊ってゆっくり休んで行くようにと、男も女も口を揃えて言っているらしかったが、その声音がまるで水の底からでも聞こえて来るようだった。こう大儀じゃ夜道どころか寝返り一つ打てやしめえし、と与惣次は肚を据えた。まあ何ど家こでもいいや、今晩はここに厄介になれ――。
﹁儂はいささか薬やく事じの心得があります。今、水薬を調じて上げるほどに、そいつを服してまずお気を鎮められい。よっく眠れることでござろう。﹂
主人は変な言葉遣いをした。どこかで見覚えのある顔、与惣次はしきりに考えたが、漸次にその力がなくなった。譬えば雪が解けるように、頭脳の働きが鈍くなってくるのである。それでも、主人の手が自分の口を割って冷茶のような水みず物ものを流し込んでくれたまでは、ぼんやりながら薄眼で見ていた。
与惣次は眠った。夏の夜の更け行くままに、昏々として彼は眠り続けた、底無しの泥沼へ沈むような、自力ではどうすることもできない熟睡であった。
暗や黒みの中にじいっとしているような心持だった。ときどき人声がした。枕頭を歩き廻る跫音も聞こえた。眼も少しは見えるようだった。と、そのうちに、泡が浮んで破こわれるように、与惣次はぽっかりと気がついた。
真夜中である。
油を吸う燈心の音、与惣次は首を廻めぐらした。身の自由も今は幾らか返ったらしい。が、起き上ることはできなかった。枕から見渡す畳の上、羽虫の影が点々としている下に、倒さか屏さび風ょうぶが立ててあるのが、第一に与惣次の眼に入った。寝ている敷物はいつしか荒あら筵むしろに変っている。瞳を凝らしてなおも窺えば、枕に近い小机に樒しきみが立ち、香を焚き、傍には守まも刀りがたなさえ置いてあり、すこし離れて、これは真新しい早桶、紙で作った六道どう銭せん形がたまで揃っている工合い。
﹁こりゃあひょっとすると知らねえ中に俺あ死んだのかな。﹂
与惣次は思った。﹁それにしてもいやに手廻しが早えこったが――。﹂
唐紙が開いて女がはいって来た。与惣次を見て驚いている。手を上げて何かの合図。続いて主人が現れた。湯呑を持っている。そしていきなり、馬乗りに股がったかと思うと、手早く煎薬のような物を与惣次の口へ注ぎ込んだ。
氷である。
氷の山、氷の原、氷の谷、空々漠々たる氷の野を、与惣次は目め的あてなく漂さす泊らい出した。時として多勢の人声がした。荒々しい物音もした。簀す巻まきのように転がされている感じがした。穴へはいるような感じもした。ただそれだけだった。
森である。林である。緑である。
氷が解けるとたちまち鬱蒼たる樹木だ。冬から真夏へ飛んだ気持ち、与惣次は草を分けて進んだ。木の間を縫って歩いた。行っても行っても一色のみどり、尽きずの森、果てしない草原、与惣次は悲しくなった。泣きながら駈け出した。子供のように涙が頬を伝わった。拭いても拭いても留途なく流れた。溜って溢れて淀んで、そこに一筋の川となった。泪なみだの河ではある。
満々たる大河だ。
向岸に茅かや葺ぶきの家が立っている。よく見ると小田原在の生家だ。三年前に死んだ白しら髪がの母が立っている。小手を翳かざして招いている。弟もいる。妹もいる。幼馴染みもいる。みんなで与惣次を呼んでいる。
与惣次は答えようとした。声が出なかった。自分と自分が哀れになって、彼は根限り哭なき喚わめいた。後からあとからと大粒な涙がこみ上げて来た。それが河へ落ちた。水みず量かさが増した。浪となってひたひたと与惣次の足を洗った。思いきって与惣次は跳び込んだ。
流れた。流れた。ただ流れた。
笹舟のように、落葉のように、与惣次は水面を押し流された。どこまでもどこまでも流れて行った。
仰向きに見る空は青かった。運命、そう言ったようなものを考えて、与惣次は水に身体を任せていた。
右手の岸には巍ぎ峨がたる氷山が聳えている。左は駘たい蕩とうたる晩春初夏の景色、冷い風と生暖い温気とがこもごも河づらを撫でる。川の水も真ん中で二つに分れて、左は湯のように熱く、右寄は雪ゆき解どけのようにひややかだった。その中央の一線に乗って、与惣次は矢のように走り下った。
早い。早い。早い人ひと筏いかだである
やがて左岸の土手に彼の女が立ち出でた。笑いながら綱を抛った。端が与惣次の首に絡んだ。与惣次は引き揚げられた。
女の姿は見えない。森の向うがぽうっと赤らんでいる。それを眼当てに与惣次は急いだ。近付くにつれ明るさは増してくる。与惣次は遮二無二突き進んだ。いつしか光りの中へ包まれた。
黎よあ明けだ!
縁えんの障子に朝日が踊る――と思った与惣次は、身の廻りの騒がしさにふと人心ついたのである。
商家の並ぶ街道に彼はひとり立っていた。眼隠していたものと見えて、足許に古手拭が落ちている。衣類荷物身体の工合い、何の異状もない。
魚売り担かつぎ八百屋、仕事に出るらしい大工左官、近所の女子供からさては店屋の番頭小僧まで、総出の形で遠く近く与惣次を取り巻いた。
鳥越へ一ひと伸のしという山谷の町であった。皆口々に囁き合って、与惣次の頭部を指して笑っていた。手をやってみると頭は栗々坊主だった、一夜のうちに綺麗に剃られていた。
恥かしくなった与惣次がやにわに駈け出そうとすると、重い袱ふく紗さ包みが懐中から抜け落ちた。拾って開けると小判が五両に添手紙一封。狂気のように真一文字に自家に帰った与惣次、何が何やらわからぬ中にも怪我と失うせ物もののないのを悦び、金子と手紙は枕の下へ押し込んで、今度こそは真ほん実とに死んだようにぐっすり眠り、ちょうど今眼が覚めて表戸を開けたところだという。――
与惣次は仮名すら読めなかった。
﹁旦那、ここにあります。金五両に件の状、へえ、このとおり。﹂
長話を済ました与惣次は、こう言って藤吉の前へ袱紗包みを投げ出した。戸口から洩れてくる夕陽の名残りへ手紙を向けて、藤吉は口の中で読み出した。
﹁与惣さん。﹂勘次が上あがり框がまちから声をかける。﹁先刻小太郎が見えてね、戸が締ってて、いねえようだからって先へ行きやしたよ。﹂
﹁あ、眠ってたもんだから、つい――。﹂
﹁お前さん槍祭あすっぽかしけえ?﹂
﹁へ?﹂
﹁槍祭よ。明日あ王子の槍祭じゃねえか。どうした。出ねえのかよ?﹂
﹁へえ――あそうそう、なに、これからでも遅かあげえせん。では一つ――。﹂
与惣次は腰を浮かした。すぐにも小太郎の跡を追う気と見える、その膝の上へ手を置いて、釘抜藤吉は冷やかに言った。
﹁まあさ、与惣公、待ちねえってことよ。これ、大枚の謝礼を受けたに、そう慌てくさって稼ぐがものもなかろうじゃねえか。おう、それよりゃあこの手紙だ、読んでやるから、さ、しっかり聞きな。﹂
三
﹁この文ふみ御覧のころはわたしども夫婦はおしりに帆上げたあとと思召し被下度以下御不審を晴さむとてかいつまみ申述候大おお手てず住みにてお前さんをお見かけ申しあまり夫と生うつしなるまま夫の窮場を救わんとの一芝居打ちお前さんをくわえこみ夫の手をかりて妖よう薬やくをあたえかみの毛をあたって死んだと見せ夫の身代に相立申候段重々不あい相すま済ずとは存候共これひとえに夫なる卍の富五郎を落しやらんわたしのこんたん必ずおうらみ被くだ下され間まじ敷くただただ合掌願上奉候金子些少には候えども一夜の悪夢の代としてなにとぞお納め被下度尚当夜あたりお手入のあるべきことはわたし共の先刻承知女房のわたしでさえ取違えそうなお前さんへお引合せ下すったは日頃信ずる五右衛門さまのれいけん夫の悪運のつよいところ今ごろ探したとて六日の菖あや蒲め十日の菊無用無用わたしゃ夫とふたり手に手をとり鳴く吾妻のそらをあとにして種明しは如よっ依てく件だんのごとしお前さんも生々無事息災に世渡りするよう昨夜のことを忘れずに末永く夫ともども祈上申候あらあらかしく――卍女房巴のお若より。﹂
読み終った藤吉、片膝立てて与惣次を見上げ、
﹁合点がいったか。お前は卍にそっくりだてんで、昨夜傀けえ儡れいに使われたんだ。﹂
﹁えっ!﹂
与惣次は眼を真んまるにして、
﹁どこかで見た面だたあ感ずりましたが、言われてみりゃあまさにしかり、なるほどあいつの雁がん首くびはあっしと瓜二つだった。して、旦那、昨夜あの家にお手入れでもありましたのかえ。﹂
﹁そりゃあお前がいっち御存知――。﹂
﹁へ? そう言やあ騒々しい音がしたのを夢か現うつつに聞きましたが。﹂
﹁与惣さん、お前その五両のうちから常さんの借銭を返したらどうだ?﹂
﹁へえ、さっそくそういうことに致しましょう。﹂
﹁勘!﹂
と戸口へ向いた藤吉は、
﹁大立廻りだ、手強えぞ。﹂
一言吐いて与惣次を見据え、太い低声で、
﹁与惣、丸坊主たあ化けたのう?﹂
﹁へ?﹂
﹁いやさ、富さん、卍の富、うまくやったぜ、おう。﹂
﹁旦那――。﹂
﹁待った! その旦那がよくねえ。真の与惣なら俺を知ってるはず、こうっ、素っ堅気じゃあるめえし皆さん俺を親分とこそ呼べ、旦那なんて糞面おもひろくもねえ。えこう、種あ割れたんだ、富、年貢を納めろっ、野郎っ、どうだっ!﹂
﹁だ、だ、誰だ手前は?﹂
﹁唐天竺の馬の骨。﹂
﹁う――む。﹂
面色蒼あお褪ざめて富五郎、壁を背負って仁王立ち。
﹁卍の富五郎。﹂にやりと笑った藤吉、﹁釘抜だ、藤吉だ、神妙に頂戴するか。﹂
ぱっと昇あがった灰はい神かぐ楽ら、富五郎が蹴った煙草盆を逃げて跳り上った釘抜藤吉、足の開きがそのまま適かなってお玉が池免許直伝は車くる返まがえしの構え。
﹁洒しゃ落らくせえ。﹂
﹁うぬ!﹂
どこに隠し持ったか、西さい京きょ達うだ磨るまの名なばかり正まさ宗むね、富五郎の手にぎらり鞘さやを走る。
﹁抜いたな。﹂
﹁応おうさ。﹂
呼吸と呼吸、眼配りと眼配り――面倒と見た勘弁勘次、物を打つければ中間へ飛んで邪魔になるから、かねての心得、空拳を振って抛る真似、逆あ上がっているから耐らない、卍の富五郎法ほうを忘れて切ってかかる。掻い潜った藤吉、
﹁御用だ!﹂
と一声、懐深く呑んだ十手がはっしと唸って肩を撃つ。よろめく富、畳に刺さった斬先を立て直そうとする間一髪、物をも言わず齧りついた鉄火の勘次、游およぐ体を取って腰で撥ねるのは関口流の岩がん石せき落おとしだ。卍の富五郎そこへ長くなってしまった。
長屋中の弥次馬の波を分けて、橋詰のお番屋へ富五郎を縛しょ引っぴいた藤吉と勘次、佃つくだにかかる新月の影を踏んで早くも今は合点小路へのその帰るさ。
﹁割方脆もれえ玉さのう。﹂
先に立った藤吉が言う。追いついた勘次、
﹁だが親分、器用な細工じゃごわせんか。あっしなんか切れへくるまで与惣公とばかり思い込んでた。﹂
﹁九きゅ仭うじんの功を一いっ簣きに虧かく。なあ、そのままずらかりゃ怪我あねえのに、凝っては思案に何とやら、与惣公と化ばけ込こんで一、二日日ひよ和り見みすべえとしゃれたのが破滅の因、のう勘、匹ひっ夫ぷの浅あさ智ぢ慧え、はっはっは。われから火に入る夏の虫だあな。﹂
﹁夏の虫あいいが、真まことの与惣あどうなりましたえ?﹂
﹁はあてね、大川筋から隅田の淀でも今ごろあせっせと流れていべえが、ぶるるっ、酷むげえこった。それにしても小物師どん、常じょ日うじつ口が軽すぎるわさ。﹂
万事が富五郎の白状ではっきりした。
卍の富五郎に似も似たところから女に眼をつけられたのが百年目、誘われるままその隠家へ行った与惣次は、酒に羽は目めを外はずしてさんざん自身のことをしゃべった後、一服盛られて宵の内にあの世へ行ったのだった。したがって、影法師三吉が検めた新しん仏ぼとけはいうまでもなく代かえ玉だまの与惣次であった。これで悪党夫婦が逐電してしまえば富五郎の死骸が見えずなったというだけのことで一件は忘れられたかもしれないが、そこは虎の尾を踏みたい妙な心持と、一つには与惣次失踪から足のつくことを懼おそれて、与惣次の内輪話を資本に、頭を剃って夢物語に箔を付け、女房の一筆と高飛の路銀を持って余ほと熱ぼりの冷める両三日をと次郎兵衛店に寝に来たところを、その坊主頭と旦那旦那という呼言葉と、絶えず光を背にしようとした心遣い、最後に常吉への借か銭り云うん々ぬんの鎌掛けでさすがの悪も釘抜親分の八方睨みに見事見破られたのであった。
家財を纏めて熊谷在の知しり人びと方がたに良おっ人とを待っていた女房のお若も間もなく御用の声を聞いた。
翌る十二日の槍祭、お米蔵は三吉の渡し、松前志摩殿の切きり立だて石いし垣がきに、青坊主の水死人が、それこそ落葉のように笹舟のように、人筏のように、流れ流れて寄ったという。
後の祭に花が咲いても、それは詮ない与よ惣さの変り果てた姿であった。