今ここに会社を立てて義塾を創はじめ、同志諸子、相ともに講究切せっ磋さし、もって洋学に従事するや、事、もと私わたくしにあらず、広くこれを世に公おおやけにし、士しみ民んを問わずいやしくも志あるものをして来学せしめんを欲するなり。
そもそも洋学のよって興おこりしその始を尋ぬるに、昔、享保の頃、長崎の訳官某等ら、和蘭通市の便を計り、その国の書を読み習わんことを訴えしが、速やかに允いん可かを賜りぬ。すなわち我が邦の人、横おう行こうの文字を読み習うるの始めなり。
その後、宝暦明和の頃、青木昆陽、命を奉じてその学を首唱し、また前野蘭化、桂川甫ほし周ゅう、杉田斎いさい等起り、専精してもって和蘭の学に志し、相ともに切せっ磋さし、おのおの得るところありといえども、洋学草そう昧まいの世なれば、書しょ籍じゃくはなはだ乏とぼしく、かつ、これを学ぶに師友なければ、遠く長崎の訳官についてその疑を叩たたき、たまたま和蘭人に逢わばその実を質ただせり。けだしこの人々いずれも英邁卓絶の士なれば、ひたすら自わレれ我より作いレにし古えをなすの業わざにのみ心をゆだね、日夜研精し寝食を忘るるにいたれり。あるいは伝う、蘭化翁、長崎に往きて和蘭語七百余言を学び得たりと。これによって古人、力を用ゆるの切なると、その学の難きとを察すべし。その後、大槻玄げん沢たく、宇田川槐かい園えん等継けい起きし、降りて天保弘化の際にいたり、宇田川榛しん斎さい父子、坪井信道、箕作阮げん甫ぽ、杉田成せい卿けい兄弟および緒方洪庵等、接せっ踵しょう輩出せり。この際や読書訳文の法、ようやく開け、諸家翻訳の書、陸続、世に出ずるといえども、おおむね和蘭の医籍に止まりて、かたわらその窮きゅ理うり、天文、地理、化学等の数科に及ぶのみ。ゆえに当時、この学を称して蘭学といえり。
けだしこの時といえども、通商の国は和蘭一州に限り、その来らい舶はくするや、ただ西せい陲すいの一長崎のみなれば、なお書籍のとぼしきに論なく、すべて修学の道、はなはだ便ならざれば、未いまだ隔かく靴かの憾うらみを免れず。然るに嘉永の季すえ、亜ア美メ利リ駕カ人、我に渡来し、はじめて和親貿易の盟約を結び、またその好よしみを英、仏、魯等の諸国に通ぜしより、我が邦の形勢、ついに一変し、世の士君子、皆かの国の事情に通ずるの要務たるを知り、よって百般の学科、一時に興り、おのおのその学を首唱し、生徒を教育し、ここにいたりてはじめて洋学の名、起れり。これあに文学の一大進歩ならずや、おもうに一事一運の将まさに開かんとするや、進むに必ず漸ぜんをもってす。たとえばなお楼閣にのぼるに階級あるが如し。すなわち天保・弘化の際、蘭学の行われしは、宝暦・明和の諸哲これが初階を成し、方今、洋学のさかんなるは、各国の通好によるといえども、実に天保・弘化の諸公、これが次じか階いをなせり。然らばすなわち吾が党、今日の盛せい際さいに遇うも、古人の賜たまものに非ざるをえんや。
そもそも洋学のもって洋学たるところや、天然に胚はい胎たいし、物理を格かく致ちし、人道を訓くん誨かいし、身しん世せいを営えい求きゅうするの業にして、真実無妄、細大備具せざるは無く、人として学ばざるべからざるの要務なれば、これを天真の学というて可ならんか。吾が党、この学に従事する、ここに年ありといえども、わずかに一斑をうかがうのみにて、百科浩こう澣かん、つねに望ぼう洋ようの嘆たんを免れず。実に一大事業と称すべし。
然れども難きを見てなさざるは丈夫の志にあらず、益えきあるを知りて興おこさざるは報国の義なきに似たり。けだしこの学を世におしひろめんには、学校の規律を彼に取り、生徒を教道するを先務とす。よって吾が党の士、相ともに謀はかりて、私にかの共立学校の制にならい、一小区の学舎を設け、これを創立の年号に取りてかりに慶応義塾と名づく。
ことし四月某日、土木、功を竣おさめ、新たに舎の規律勧戒を立てり。こいねがわくは吾が党の士、千里笈きゅうを担にのうてここに集り、才を育し智を養い、進退必ず礼を守り、交際必ず誼ぎを重じ、もって他日世になす者あらば、また国家のために小補なきにあらず。かつまた、後こう来らいこの挙に傚ならい、ますますその結構を大にし、ますますその会社を盛んにし、もって後来の吾われ曹らをみること、なお吾曹の先哲を慕うが如きを得ば、あにまた一大快事ならずや。ああ吾が党の士、協同勉励してその功を奏せよ。