朝蚊か帳やの中で目が覚めた。なお半ば夢中であったがおいおいというて人を起した。次の間に寝て居る妹と、座敷に寐て居る虚子とは同時に返事をして起きて来た。虚子は看護のためにゆうべ泊ってくれたのである。雨戸を明ける。蚊帳をはずす。この際余は口の内に一種の不愉快を感ずると共に、喉のどが渇かわいて全く潤うるおいのない事を感じたから、用意のために枕許の盆に載せてあった甲州葡ぶど萄うを十粒ほど食った。何ともいえぬ旨さであった。金きん茎けいの露一杯という心持がした。かくてようように眠りがはっきりと覚さめたので、十分に体の不安と苦痛とを感じて来た。今人を呼び起したのも勿論それだけの用はあったので、直ちにうちの者に不浄物を取とり除のけさした。余は四、五日前より容態が急に変って、今までも殆ど動かす事の出来なかった両脚が俄にわかに水を持ったように膨ふくれ上って一分も五厘も動かす事が出来なくなったのである。そろりそろりと臑すね皿ざらの下へ手をあてごうて動かして見ようとすると、大だい磐ばん石じゃくの如く落着いた脚は非常の苦痛を感ぜねばならぬ。余はしばしば種々の苦痛を経験した事があるが、此度のような非常な苦痛を感ずるのは始めてである。それがためにこの二、三日は余の苦しみと、家内の騒ぎと、友人の看護旁かたがた訪い来るなどで、病室には一種不穏の徴を示して居る。昨夜も大勢来て居った友人︵碧へき梧ごと桐う、鼠そこ骨つ、左さ千ち夫お、秀ほつ真ま、節たかし︶は帰ってしもうて余らの眠りに就ついたのは一時頃であったが、今朝起きて見ると、足の動かぬ事は前日と同しであるが、昨夜に限って殆ど間断なく熟睡を得たためであるか、精神は非常に安穏であった。顔はすこし南向きになったままちっとも動かれぬ姿勢になって居るのであるが、そのままにガラス障子の外を静かに眺めた。時は六時を過ぎた位であるが、ぼんやりと曇った空は少しの風もない甚だ静かな景色である。窓の前に一間半の高さにかけた竹の棚には葭よし簀ずが三枚ばかり載せてあって、その東側から登りかけて居る糸へち瓜まは十本ほどのやつが皆瘠やせてしもうて、まだ棚の上までは得取りつかずに居る。花も二、三輪しか咲いていない。正面には女おみ郎なえ花しが一番高く咲いて、鶏けい頭とうはそれよりも少し低く五、六本散らばって居る。秋しゅ海うか棠いどうはなお衰えずにその梢こずえを見せて居る。余は病気になって以来今朝ほど安らかな頭を持て静かにこの庭を眺ながめた事はない。嗽うがいをする。虚子と話をする。南向うの家には尋常二年生位な声で本の復習を始めたようである。やがて納豆売が来た。余の家の南側は小路にはなって居るが、もと加賀の別邸内であるのでこの小路も行きどまりであるところから、豆腐売りでさえこの裏路へ来る事は極きわめて少ないのである。それでたまたま珍らしい飲食商人が這入って来ると、余は奨励のためにそれを買うてやりたくなる。今朝は珍らしく納豆売りが来たので、邸内の人はあちらからもこちらからも納豆を買うて居る声が聞える。余もそれを食いたいというのではないが少し買わせた。虚子と共に須磨に居た朝の事などを話しながら外を眺めて居ると、たまに露でも落ちたかと思うように、糸瓜の葉が一枚だけひらひらと動く。その度に秋の涼しさは膚はだに浸み込むように思うて何ともいえぬよい心持であった。何だか苦痛極きわまって暫く病気を感じないようなのも不思議に思われたので、文章に書いて見たくなって余は口で綴つづる、虚子に頼んでそれを記してもろうた。筆記しおえた処へ母が来て、ソップは来て居るのぞなというた。 ︹﹃ホトトギス﹄第五巻第十一号 明治35・9・20︺