一
火曜日の晩、八時過ぎであった。ようやく三ヶ月計り前に倫ロン敦ドンへ来た坂さか口ぐちはガランとした家の中で、たったひとり食事を済すと、何処という的あてもなく戸外へ出た。
日はとうに暮れて、道路の両側に並んだ家々の窓には、既に燈火が点いていた。公園に近いその界隈は、昼間と同じように閑静であった。緑色に塗った家々の鉄柵が青白い街灯の光に照らされている。
大方の家は晩餐が終ったと見えて、食器類を洗う音や、女中の軽い笑声などが、地下室の明るい窓から洩れていた。ある家では表玄関と並んだ窓を一杯に開けて、若い娘がピアノを弾いていた。またある家では二階の窓際に置いてある鉢植の草花に、水をやっている華きゃ奢しゃな女の手首と、空色の着物の袖だけが見えていた。
坂口は生れつきの気質から、賑かな市街を離れて、誰人に妨げられることもなく、黙々としてそうした甃しき石いしの上を歩くのが好きであった。彼の心は丁度古い邸宅の酒さか窖ぐらに置棄られた酒樽の底のように静かで、且つ陰鬱であった。
坂口は家を出た時から、伯父の事を考えていた。もともと伯父は寡むく口ちで、用の他は滅多に口を利かない程の変人であった。五十の坂を越しても未だに独身で、巨満の富を持っている。そして一二年前から、公園に近いベースウオーター街に、現在の家を買って、何をするともなく日を暮している。
それだけでも既に不可解であるのに、此数日は食事の時間も不在勝で、何時家を出て、いつの間に帰って来るのか、それさえ判らなかった。坂口はたった一人の伯父の、そうした孤独な振舞を考えていると、一層沈んだ心持になってくるのであった。
快い夜風が彼の頬を吹いていった。
足は自然にクロムウェル街に向う。其処には伯父の旧い友達でエリス・コックスという婦人の家があった。伯父はエリスがチルブリー船ドッ渠クに遠からぬチャタムに住んでいた頃からの友達であった。
エリスの良人は珍らしい日本人贔びい負きであった。凡そ日本の汽船でテームス川を溯ったほどの船員は、誰一人としてコックス家を知らぬものはなかった。永い単調な航海の後で、初めて淋しい異郷の土を踏んだとき、門戸を開放し、両手を拡げて歓び迎えてくれるコックス家を、彼等はどんなに感謝したことであろう。
彼等はよく招かれてコックス家の客となった。船員仲間はそこを﹁水夫の家﹂と呼んでいた。
それは二昔も以前の事である。ある年﹁水夫の家﹂の父は突然病を得て倒れて了しまった。後に残った若く美しい母は、生れた計りの女の子を抱えて、しばらく其土地に暮していたが、そのうち屋敷を全部売払って、現在のクロムウェル街に住むようになったのである。
坂口は伯父とエリスがどのような関係にあるのかは少しも知らない。永い間海員生活をしていた伯父は、若い頃から幾度となく、英国と日本の間を航海していたが、つい二三年前に汽船会社を辞して了った。そして世間を離れて少時東京の郊外に仮寓していたが、何を感じたか、飄然と倫敦へ移ってきたのである。
多くも無い親戚ではあるが、同じ甥や姪のうちでも、伯父はとりわけ坂口を愛していた。そのような訳で、坂口は予かねてからの希望通り倫敦へ来て、伯父と一緒に住む事を許されたのである。
坂口は曾つて伯父の笑った顔を見たことはなかったが、伯父は親切で優しかった。坂口はそれだけ伯父の生活が寂しく思われてならなかった。倫敦へ来て親しく伯父に接するにつけて、頼りない伯父の身を気遣い、他所ながら面倒を見ようという殊勝な心持を深めていった。
﹁事によると、エリスさんの家にいるかも知れない﹂街の角に差かかった時、坂口は独言を云ったが、急に顔が熱ほてって来るのを感じた。
コックス家にはビアトレスという、美しい一人娘がある。坂口が倫敦へ着いて間もなく、伯父と共に晩餐に招ばれたのは、このビアトレスの家であった。従って彼が若い女性と言葉を交えたのは、彼女が始めてであった。
鉄柵を繞めぐらした方スク園エアの樹木が闇の中に黒々と浮上っている。傾きかかった路傍の街燈が、音をたてて燃えていた。坂口の歩いてゆく狭せ隘まい行手の歩道は、凹凸が烈しかった。
彼は方スク園エアを過ぎて、心もち弓なりになったクロムウェル街を、俯向きながら歩いていると、すぐ五六間先の敷石の上に倒れている女の姿を見付けた。夫それは丁度コックス家の前あたりであった。坂口は喫びっ驚くりして馳寄った。女は黒っぽい着物の裾を泥塗まみれにして、敷石の上に蹲うずくまっていた。
﹁どうかなさいましたか﹂坂口は傍へ寄って抱起した。
女は弱切ったような声で、頻しきりに、
﹁水、水﹂と叫んでいる。
幸いコックス家の前であったので、坂口は女の傍を離れて、石段を上ろうとすると、玄関の扉を開いて、若いビアトレスが顔を出した。
﹁今晩は、私です。今お宅の前へ参りますと、その方が倒れていたのです。それで、水を戴きに行こうと思ったのです﹂と、坂口がいうと、ビアトレスは美しい眉を顰ひそめて、幾度も頷うな首ずきながら、石段を下りて女のそばへ寄った。その間に坂口は台所へ行って、コップに水を汲んできた。
女は強したたか酒に酔っているらしかった。
坂口とビアトレスは互に顔を見合せたが、女は膝に怪我をしている様子なので、一先ず家の中へ扶たすけ入れる事にした。
その物音に、エリスは二階から下りてきた。彼女は台所から馳上って来た女中にいろいろ指図を与えたあとで愛想よく坂口の方に手を差延べながら、
﹁よく来ました。さアどうぞこちらへお入り下さい﹂といってイソイソと玄関わきの居間へ導いた。
﹁あの女を助けてやったのは貴あな郎たですってね。本統にお若いのに感心です。怪我はしていないようですが、あの女は大分お酒を飲過ぎて苦しんでいますから、ちっと休ませてやりましょう﹂エリスは同おも情いやり深い調子でいった。
紺サージの着物に、紅い柘ざく榴ろ石の頸飾りをした彼女のスッキリした姿は、どうしても五十を越したとは見えなかった。
薄い藤紫の覆か布さをかけた電燈の光が、柔く部屋の中に溢れている。霎しば時らくするとビアトレスが扉をあけて入ってきた。
﹁三階に空いた寝ベッ床ドがありますから、連れて行って寝かしてやりましたわ。服装は相当にちゃんとしているのね。あんなにお酒に酔ってどうしたのでしょう。今晩は宿とめてやりましょうか﹂
﹁そうですね、年をとっているし、可哀そうだから、そうしてお上げなさい﹂
﹁あの方の家に電話でもあれば、こっちから電話をかけて置いて上げるのですが、何しろ満足に口が利けない程ですの﹂
三人の話題は一しきりその女のことに及んだが、エリスは話題を変えて、二三日姿を見せぬ伯父の消息を訊ねたり、倫敦の生活は好きかなどときいた。
伯父はコックス家より他に、訪ねる友達を持っていないことを、坂口はよく知っていた。それ故、今頃伯父は何処で、何をしているのかといささか気になってきた。
坂口がコックス家を辞して家へ帰ったのは十時近かった。重い玄関の扉を開けて、しんとしたホールを通ってゆくと、伯父の書斎に電燈が点いていた。彼は、
﹁オヤ、既もうお帰か宅えりになったな﹂と思いながら、軽く扉を叩いたが、一向応答がない。そこで恐る恐る扉を開けて、中を覗いてみた。
部屋はきちんと整かた理づいて、明るい電燈が空しく四辺を照らしている。伯父の姿は何処にも見当らなかった。
﹁先刻家を出るときは、確に電燈が点いていなかったから、私の不在の間に、一ぺんお帰りになったと見える﹂彼は念のためにホールの鏡の前にいって、平常のステッキと、帽子の置いてないのを確めてから、伯父の書斎へ戻ってきた。
フト気が付くと、卓子の上に坂口に宛てた伯父の手紙が置いてある。彼は胸騒ぎを覚えながら、手早く封を切って読下した。
前略小生急用出来候ため、S地方へ旅行致すべく候。四五日は帰宅の程、覚束なく候えども、御心配御無用に御座候。尚小生今回の旅行は絶対に秘密を要するものに候間、左様お含み下され度候。
順三郎どの 林
二
不可解な伯父の手紙を坂口は幾度も繰返した。インキの乾き加減や、電球の温度から考えても、伯父が家を出たのは僅々三十分も前の事と思われた。これからすぐ自動車で停車場へ馳付ければ、伯父に会う事が出来ると思ったが。伯父の気質を知っている彼は、そのような事をしたところで、叱られこそすれ、思立った伯父の旅行を引止め得るとは思わなかった。
坂口は伯父の手紙に記された、急用、秘密、などという言葉を不思議に思った。伯父は別段商売に投資している訳でもなく、財産の幾部分を日本の営利会社の株券に換えて持っているだけで、財産全部は悉ことごとく銀行へ預入れてある。それ故商人に有勝ちな急用で、旅行云々などとは受取れぬ話である。殊に規律の正しい伯父が、旅行先を明記しないのも訝おかしい。のみならず他人とは交渉を持たない伯父の生活に、秘密のありよう筈はなかった。
坂口は二階の暗い寝床の中で、まじまじと伯父の身の上を案じていた。
燈火を消した室内に、戸外の街燈の光が、ぼんやりと射込んでいる。夜が次第に更けていった、坂口の疲つ労かれた眼まぶ瞼たに、フト伯父の顔が映った。続いて品の好いエリスの姿が浮んだ。と思うと急に伯父が二十年も若返ってデップリ肥ふ満とった体躯を船長の制ユニ服ホームに包んで、快活らしく腕組をしている姿になった。それと共に、船着場に近い穏かな街の景色が見えた。それはまるで坂口の知らない光景であった。青々と伸びた楊やな柳ぎの葉がくれに、白く塗った洋館が見えてきた。仏フラ蘭ン西ス窓に凭よりかかって、豊頬に微笑を浮べながら、遠くの澄んだ空を見上げているのはエリスであった。そのうちに伯父の顔はいつか、坂口自身になり、エリスの顔は緑色のブラウスを着た甲斐甲斐しいビアトレスの姿になった。
坂口は軈やがて華ねむ胥りの国に落ちて了った。
翌朝彼が目を醒したのは、九時を過ぎていた。麗かな太陽の光が、枕元のガラス窓を訪ずれていた。薔薇の咲く裏の芝ロー生ンに青い鳥が来て、長のど閑かな春の歌を唄っていた。
坂口は食事を済ませてから、コックス家を訪ねた。昨ゆう夜べの女のことが気に掛っていた。それに置手紙をして、昨夜一晩帰って来なかった伯父のことを思うと、じっとして家にいることが出来なかった。
丁度十一時である。彼は女中の開けてくれた玄関を入った。ホールの突当りに在る書斎は開放しになって、そこから庭に続く石段の手摺や、緑色の芝生が見えていた。
書斎のベランダに置かれた鳥籠の中で、薄桃色と青とで彩いろ色どったような鸚おう鵡むが、日光を浴びながら羽ばたきをして、奇声を上げている。
窓わきに椅子を寄せて、頻りに編物をしていたビアトレスは坂口の姿を見ると、微わら笑いながら立ってきた。
﹁オヤ、誰かと思ったら貴郎なの、よくいらしってね。随分いい季節になったのね。貴郎はお好きでしょう﹂
﹁エエ、散歩には上等です﹂坂口は相手が笑いながらじっと視詰めているので、聊いささか固くなって答えた。
﹁戸外はいいでしょう。ほんとに男の方は羨しいわ。何処へでも自由に行けるのですもの﹂
﹁女だって、何処へでも自由に行けると思いますがね﹂
﹁アラ、そうはゆかないわ。でも母さんはよくお出掛けになるけれども﹂ビアトレスは冗談らしくそう云ったが、急に不安らしい顔付をして、何やら考込んで了った。
﹁小母さんはお不在ですか。そして昨夜の女はどうしました﹂
﹁ああ、あの方はエドワード夫人というのですって、もうすっかり元気を快復して、今朝は私達と一緒に朝御飯を喰べました。今しがたまで、その辺に見えましたが、大方三階へいったのかも知れません。じき下りて来るでしょう﹂ビアトレスがいっているところへ、噂のエドワード夫人が血色の勝れない顔をして入ってきた。
﹁昨夜は本統に、御世話をかけて済みませんでした。お蔭様で助かりました﹂
﹁お礼には及びません。でも御元気になられて結構です﹂と坂口がいった。
エドワード夫人はビアトレスに向っていった。
﹁お嬢様、誠に有難うございました。宿のものが心配しているといけないから、一旦自う家ちへ帰りまして、改めてお礼に伺います。お母様がお帰宅になったら、どうぞ宜しく申上げて下さい﹂
﹁そうですか、では気をつけてお帰りなさいね。お宅はモルトン町だそうですから、そんな遠い所から、わざわざ出直していらっしゃらないでもよろしゅうございますわ。お宅へ帰って悠ゆっくりお休やす息みなさい﹂ビアトレスは劬いたわるようにいった。
エドワード夫人は間もなく家を出ていった。
書斎のベランダでは、鸚鵡が喧ましく女中の名前を呼んでいる。二人は別々の事を考えながら、霎しば時らく黙って椅子にかけていた。
﹁林小父さんは此頃どうしていらしって?﹂編物を膝へ置いて、硝ガラ子ス戸越しにぼんやりと戸外を眺めていたビアトレスは、突然声をかけた。
﹁伯父ですか、……別に平常と変った事はないと思いますが、……﹂
﹁そうなの、家の母さんは此五六日ほんとに様子が訝おかしいのよ。貴郎はそれに気がお付きになって?﹂
﹁そう仰おっ有しゃれば、昨夜も何だかソワソワして、淋しそうにしていらしったと思います﹂
﹁エエ、本統にそうなの、私何だか心配で仕方がないのよ。そして不思議な事には、此節しげしげと、何処からか手紙が参りますの、その度に母さんは悲しそうに溜息をしていらっしゃるわ﹂
﹁母さんは其事に就ては、何事も貴女に仰有いませんか﹂坂口は怪いぶ訝かしそうに相手の顔を視守った。
﹁エエ、私は心配になって、度々その訳をお訊きするのですけれども、その事に就ては何も仰有らず、手紙が来ることさえ、私に隠か匿くそうとなすっていらっしゃるのよ。何か凶わるい事でも起ったのではないでしょうか﹂
ビアトレスの言葉を聞いて、坂口は前夜伯父の書残していった不思議な置手紙を思出した。彼はその事が危く口に出かかったが、気がついて口を噤つぐんでしまった。
﹁ビアトレスさん、余り心配なさらないがいいです。伯父さんもいることですから、小母さんの為には、どんな事でもして吃きっ度と小母さんの御心配を取除くに違いありません。然し一体それはどんな手紙でしょう﹂
坂口は霎時していった。
﹁今迄私の見た事のない筆蹟で、それがみんな、同じ人から来るらしいのよ。母さんは女中にさえ、手紙の上書を見られるのを厭がっていらっしゃるのです。今朝もエドワード夫人が手紙を受取って、母さんのところへ持っていったら、平常の母さんに似合わず、引ひっ奪たくるようにしてそれを持って、二階へ引込んでおしまいなすったのです﹂
﹁それは林伯父さんの手紙ではありませんか﹂
﹁真まさ逆かそんな事はないわ。無論、男の筆蹟には違いありませんが、小父さんとは違ってよ﹂
﹁そんなに度々何処から手紙が来るのか知ら……お待ちなさい、私も考かん案がえがある﹂
﹁どんな事?﹂
﹁小母さんの後を尾つ行ければ、きっと手紙の差出人が判わ明かると思います﹂
﹁貴郎、そんな事をして若しそれが、万一母さんの為に悪い事だったらどうしましょう﹂ビアトレスは周あ章わてて押止めた。
﹁そんな事は必ずあるまいと思いますが……それでは伯父の力を借ります﹂
﹁どうぞ左そ様うして下さい。小父さんなら必きっと何とかして下さると思います。母さんは本統にお可哀そうなのです﹂
ビアトレスは一年一年と年をとってゆく母の淋しい様子を思浮べて、大きな眼に涙を浮べた。坂口も何をいう術もなく黙込んで、兎ともすれば誘込まれそうな泪を、じっと耐こらえていた。そして何にもない窓の上部に目をやっていたが、それから霎時して故わ意ざと元気よく別を告げて、ビアトレスの家を出た。
三
ビアトレスは坂口を玄関まで送って、再び居間へ戻ると、突然けたたましくホールの電話が鳴出した。生あい憎にく女中が買物に出た不在であったから、ビアトレスが電話口に出た。
先方の男は叮てい寧ねいな言葉でいった。
﹁私はコックス夫人から御伝言を頼まれたものですが、お嬢様に鳥ちょ渡っと電話口まで出て頂きたいのです﹂
﹁私が娘のビアトレスです。貴郎は何どな誰た?﹂
﹁ハイ、私はパーク旅ホテ館ルの給仕ですが、コックス夫人と林様がこちらで食事をなさるから、貴方様も直ぐいらっしゃるようにと申す事でございます﹂
﹁何ですって? 母さんと林さんが何処に居ると仰おっ有しゃるのですか﹂
﹁こちらは旅館にお滞とま在りになっている日本の紳士で近藤様と仰有る方とお三人でございます﹂
﹁何旅館とか云いましたね。……電話が遠いのでよく聞えないのです……エエ? パーク旅館?……ああ判りました、パーク旅館ですね。……はアそうですか、百二十八号室は五階ですか……では直ぐ参ります﹂ビアトレスは電話をきって、イソイソと二階の寝室へ馳上った。
それから数分後に寝室を出てきたビアトレスは、菫色の繻サテ子ンの、袖口や裾に、黒をあしらった衣服を着て、見違える程美しくなっていた。彼女は浮々した様子で階段を馳下りると、女中を捜すために地下室へ行ったが、まだ使にいって帰って来なかった。
ビアトレスは舌打ちをしながら、壁に掛っている時計を見上げたが、いつ戻って来るか判らない女中を、的も無く待っていても仕方がないと思って、置手紙をして出掛ける事にした。彼女は紙片の端に、母から電話がかかったので食事に行くから、其積りでいてくれ、と鉛筆で走書をすると、それを台所の卓子の上へ乗せて置いて急いで家を出た。
ビアトレスは町の角からタクシーに乗って、H公園に近いパーク旅館に急がせた。
軈やがて旅館へ着いた。彼女は自動車を下りて賃金を払うと、電話で教えられた通り、入口の左側にある昇リ降フ機ト室へ入った。
ビアトレスが五階へ運ばれて、廊下へ出た時には、四辺に人影がなかった。広い旅館の中はしんとして何の物音も聞えない。彼女は部屋の扉の上に記された番号を数えながら、足を運んでゆくと、純白なリンネルの上衣を着た給仕が前方からやってきた。
﹁百二十八号室をお尋ねでいらっしゃいますか﹂男は小腰を屈めながらいった。
﹁左そ様うです。そこへ連れて行って下さい﹂
﹁ハイ、畏かしこまりました。どうぞ此方へいらしって下さい﹂男は先に立って、とある部屋の前まで来ると、
﹁ここでございます﹂といって一足後に退った。
ビアトレスは軽く会釈をして、手をかけた把ハン手ドルを廻しながら、扉を開けた瞬間、背うし後ろに立っていた給仕が突いき然なり躍り蒐かかった。
﹁呀あっ!﹂と云う間もなく、ビアトレスは両腕を捩上げられて了った。
云うまでもなく部屋には誰一人いない。恐ろし気な顔をした給仕が、ドキドキする細長いナイフを、ビアトレスの鼻先に突つけている。彼女は努めて平静を装って、
﹁お前はこんな手荒な事をしてどうしようというの? 私の生命を奪とろうというの?﹂と叫んだが、余りの怖ろしさにワナワナと体躯を慄わせていた。
相手はビアトレスの手首を後手に括くくって了うと、薄気味悪く微笑いながらいった。
﹁静かにさえしていれば、そんな虞おそれはない。まア少しの間、その椅子にでも腰をかけて気を落着けるが可い﹂
﹁貴郎は一体何者です。私の持っているものが欲しいなら、指輪でも、首飾りでも、皆あげますから、私を外へ出して下さい﹂とビアトレスがいうと、男は落着払って答えた。
﹁今に当方の用事が済んだら出してあげるよ。ここまで来て了えば、いくら騒いでも到底遁のがれる事は出来ないのだから、その積りで諦めるが可い。別に心配する事はない。晩の十時まで温おと順なしく此処にいればそれでいいのだ﹂
﹁母さんや林さんが、此旅館に来ていらっしゃるなんて、先刻電話をかけたのは貴郎でしょう﹂
﹁それは貴女を捕とり虜こにする手段さ﹂
﹁母さんか、林さんが貴郎の顔を見れば、きっと誰だか知っているに違いありません。貴郎は男の癖に真ほん実とうに卑怯です。若し母さんに怨うら恨みがあるなら、何故男らしく正面から来ないのです﹂
ビアトレスは段々と落着いてきた。彼女はじっと男の顔を視詰めながらいった。相手は五十を二つ三つ越した色の黒い大柄な男である。彼はそれには応えず、
﹁どれ、俺は出掛けるとしよう。俺が帰って来るまで昼寝でもしているが可い﹂といいながら、手早くビアトレスに猿さる轡ぐつわをはめて、部屋に続いた奥の寝室へ引立てた。
彼はビアトレスの手首を結んだ紐の先を、寝台へ括りつけた。
﹁いいかね、静かにしているんだ。若し騒立てて家へ逃帰ったりすれば、貴女のお母さんは生命を隕おとすことになるんだよ。解ったかね﹂男は境の扉を閉めて鍵を下すと、次の間で何やらゴトゴトやっていたが、廊下に面した扉に鍵の音をさせて、何処へか行って了った。
旅館の中は依然として無人の境のように静かであった。稍や々や西に廻った太陽が、赤く窓の桟の上に光を落していた。
ビアトレスは身動きも出来なかった。仮たと令え彼女が死力を尽して猿轡を噛切り、縄を抜けたところで、男の残していった言葉が気になって、迂うか闊つな事も出来ないように思われた。男の言葉はありふれた脅おど喝かしかも知れないが、どうやら彼の態度には真実を語っているらしい意味有りげな様子が見えていた。
ビアトレスは眼を閉じて、軽卒にも知らぬ男の電話にかかって、此ような旅館へ監禁された不甲斐なさを、今更のように歯はが癢ゆく思った。
四
坂口はクロムウェル街を出て、V停車場を通りかかると、自動車から降りたエリスがあたふたと銀行の中へ入って行くのを見た。
坂口はビアトレスの口から、エリスの此数日来の振舞を聞いていたのと、そそくさと銀行へ入っていった様子が、如何にも訝いぶかしく思われたので、踵きびすを返して彼女の後に附つき随したがった。
エリスは五百磅ポンドの金を引出すと、直に表へ出た。坂口は背後から声をかけたが、エリスは一向気が附かぬらしく、待たせてあった自動車に乗って疾は走しり去った。
坂口は首を傾げながら、ベースウオーター街の自宅へ帰った。心待ちにしていた伯父からの手紙も来ていず、ブラインドを下したままの部屋は暗くて陰気であった。
彼は窓に近い長椅子の上に横になって、ややもすると引入れられるような不安な心持を紛らす為に、積重ねた雑誌類を手当り次第に拾読していた。と、突然玄関の呼ベ鈴ルが鳴った。坂口は椅子から飛起きて扉を開けに行った。
そこにはひどく周あ章わてた様子でエリスが立っていた。
﹁貴郎大変です。ビアトレスが何処かへ行って了しまいました。私がいま他所から帰りますと、女中に宛てた置手紙があって、それには私から電話がかかったので外出すると、書いてあるのです。私は決して娘に電話をかけたことはありません。吃度何者かに誘拐されたのです﹂
坂口は顔色を変えて言葉もなくエリスの顔を視詰めた。
﹁林さんはいらっしゃいますか﹂とエリスは気忙しく訊ねた。
﹁イイエ、不在です。今朝早く何処かへ出掛けました。夜分には帰って来ると思いますが……﹂坂口は口籠りながら、しどろもどろの返事をしたが、
﹁すぐ警察へお届けになったら如何です。私に出来る事なら、何でも致しますから、どうぞ御遠慮なく申つけて下さい﹂と熱心にいった。
エリスは林の不在をきいて、失望の色を浮べながら帰りかけたが、
﹁あの娘には可哀そうだけれ共、兎に角無事でいるに違いないから、騒がずにいて下さい。警察へなど、訴えてはいけません。吃度今晩中には帰ってきます。そして林さんがお帰宅になったら、直ぐ家へいらしって下さるようにお願い致します。それから貴郎は明日の朝早く家へいらして下さい﹂といって力なく石段を下りていった。然しながら彼女の悲しげな顔には、何処か強い決心の表情が現われていた。
水曜日はやがて日の暮れに近かった。昨夜以来伯父が帰って来ないという事に就ては、決して心配は要らぬという伯父自身の置手紙で、さまで気にする要はないのであるが、ビアトレスに就ては胸が痛くなる程気遣いであった。坂口はもう先刻のように椅子にねそべって雑誌を見ている事は出来なかった。彼は閉切った部屋の中を往ったり来たりしていたが、耐えられなくなって家を出た。
彼は何処をどう歩いたか、知らぬ間にもとの町へ出て了った。日頃行きつけのベルジアン・カフェで食事を済すと、またコックス家を訪ずれた。
窓という窓は真暗で、只ホールの上の電燈だけが、扉の上の硝子板に明るく映っている。家中は不在であった。
﹁奥様は先程一寸お帰りになりましたが、また直ぐ外出なさいました。お嬢様はお嬢様で、私が買物に行っている間に、置手紙をして何処かへお出掛になって、まだお戻りになりませんのですよ﹂女中は不安らしくオドオドした様子で、ビアトレスの書残した紙か片みを坂口に見せた。
彼はホールの電燈の下で、鉛筆の走り書を読んだ。すると突然、ホールの蔭で物音がした。
二人は吃驚して振返った。電話機の横手に吊した、籠の中で、鸚鵡が羽ばたきをしたのである。
﹁まア、どうしたのでしょう。ゴタゴタしていたものだから、私はすっかり鸚鵡の始末を忘れていたよ﹂女中は独言をいいながら、帽子掛のついた鏡の前に置いてある鳥籠の覆おお布いを持ってきた。
﹁本統にお嬢様は何処へ行きなすったのだろう、手紙では奥様と御一緒のようでしたが……﹂と女中がいいかけると、籠の鸚鵡が不意に大声を上げた。
﹁待て待て、鸚鵡が何か云っているじゃアないか﹂と坂口は低い声で云った。
二人は霎しば時らくの間、片かた唾ずをのんで鸚鵡の言葉を聞いた。
﹁そうだ、ビアトレスさんに電話がかかった時は、此広い家の中に居合したものはお前丈だ﹂坂口はそう思って、じっと鳥籠を視守った。
彼は電話の鈴を鳴したり、電話を聞く真似をしたりして苦心の結果、二度程聞いた同じ言葉から、Pという頭文字のついた二音シラ符ブルの旅館の名を捜出そうと思った。彼は直に電話帳を繰ってPの行を読んでいったが急に顔を輝かして、
﹁パーク旅館! これに違いない。H公園なら造作ない、私はこれから行ってくる﹂と叫んだ。
坂口はそれから三十分後に、旅館の前の横町へ姿を現わした。
と見ると旅館から出てきた二人の男女が周あわ章ただしく、出口に待っている自動車の中へ入っていった。何分にも、道路を隔てているので確しかとは判らないが、どうやら中折帽を冠っている男は、旅行に行っている筈の伯父であり若い女はビアトレスであるらしく思われた。
坂口は一直線に往来を横切って、自動車へ馳寄ろうとする瞬間、烈しい爆音をたてて車は動きだした。
﹁待って下さい私です﹂坂口は大声に叫んで後を追かけたが、二人は慥たしかに後を振向きながらも、そのまま一散に疾走し去った。
坂口は公園の角まで馳って、やっと空いたタクシーを見つける事が出来た。先へ行った車は、とっくに姿を失って了ったが、坂口はそれに乗ってクロムウェル街に向った。土地馴れない運転手は、大おお迂まわ廻りをしてようやくコックス家の前へ辿りつくと、坂口はイライラしながら車を飛下りて石段を馳上るなり、烈しく扉を叩いた。
玄関はすぐ開かれた。彼は呆気にとられている女中を押除けるようにして、居間へ躍込むと、ビアトレスがたった一人、真青な顔をしてオドオドと戸口を視詰めていた。
﹁ああよかった、貴女は無事にお帰宅になっていましたね﹂坂口は呼い吸きを喘はずませながらいった。
ビアトレスは坂口の顔を見ると、ホッと安堵の溜息を洩らした。
﹁自動車が家の前へ止ったから、誰が来たのかと心配していたのよ。貴郎で本統によかったわ。私は悪わる漢もののためにパーク旅館の五階に監禁されていたのです。それを林小父さんが救い出して下さいましたの﹂ビアトレスは思出すさえ恐ろしそうに身を慄わせながら、パーク旅館の給仕と称する男から電話がかかった事から、見知らぬ男のために手足を縛られ、その上、猿轡まではめられて、五階の一室に監禁されたまでの一什ぶ始終を語った。
﹁それで私はどうなる事かと思ってじっと目を閉じているうちに、外はすっかり夜になり、段々お腹は空へってくるし。たまらなくなったのです。どうかして手首の自由を得ようと頻りにいて居りますと、誰かが鍵をガチャガチャやって部屋へ入って来ました。それが林小父さんだったのです。真ほん実とに私はどんなに嬉しかったでしょう。小父さんは手早く縄を解いて私を戸外へ連出して下さいました。私共が表へ出ると、誰かが追かけて来るようでしたが、幸い旅館の前にタクシーが止って居りましたので、自動車を急がせてから、少し前に家に戻ったところです﹂
坂口は胸を躍らせながらビアトレスの話を聞き終ると、やがて気が附いたように、
﹁伯父は何処へ行きました﹂と四辺を見廻しながらいった。
﹁私達は家へ帰りましたが、女中の話で母さんが心配して外出なすったきり、未だ帰っていらっしゃらない事を知りました。何処へいらしったのかと思って、先ず何という事なしに、二階のお部屋へ行って見ますと、脱ぎ捨てた着物の間から例の不思議な手紙を見付たのです。場合が場合だったので、思切って開けて読んだのです。それは或男から来た強迫状で、今夜の九時に五百磅ポンドの金を持ってパラメントヒルへ来なければ、貴女の秘密を公にする計りでなく、娘の生命を奪ってしまうというような事が記してありました。私は喫驚して林小父さんにそれを見せますと、小父さんは顔色を変えて、母さんを救う為にたった今、家をお出になったのです﹂
坂口はそれを聞くと突如、手に持っていた帽子を被って戸口へ歩みかけた。
﹁今から直ぐ私も行ってきます。伯父に万一の事でもあると大変です﹂
﹁ああ、貴郎がいらっしゃれば、母さんも、小父さんも、どんなにお気が強いでしょう。九時といえば既もう十分しか間がありません。すぐいらしって下さい﹂
坂口はビアトレスの言葉を後に聞流して玄関を出た。自動車は全速力でハムステッドへ向った。
坂口は暗い車の中で、何を考える余裕もなく、行先計り急いでいた。そのうち彼の乗った自動車は地下鉄道の停車場前を過ぎて、公園の入口に停った。坂口はそこでタクシーを帰して、木立の間についている小径へ入っていった。
時計は九時を十五分程過ぎている。昼間の天気とは違って、空はすっかり曇っていた。湿しめ気りけを持った夜風がしっとりと公園に立罩こめていた。
坂口は爪先上りの小径を上って、目指すパラメントヒルの土手へ出ようとした時、たちまち身辺に凄まじい銃声が起った。それと同時にバタバタと入交った靴音が聞えた。坂口は思わず芝草の上に立竦すくんだが、靴音を忍ばせて物音の起った方向へ進寄った。
靴音はいつの間にか消えて了った。
闇の中を透すと、つい十数間先を、密ひそかに歩いて行く人影を見つけた。それより少し向うに二三の立木があった。男は中折帽子を冠って、右手に杖を持っていた。彼は立木の蔭でフト足を停めた。
見ると男の足下に長々と真黒な人影が横わっている。中折帽子を冠った男は、紛れもない伯父の姿であった。
五
坂口は霎時の間、闇の中に棒立になっていたが、次の瞬間に伯父は、北に向って走っている小径を、周あわ章ただしく歩去った。坂口はフト我に返ると、その辺にまごまごしているのは危険であると感じてきた。共ベ同ン椅チ子の前に倒れている人間を見究めないのは、如何にも残念であるが、それは婦人でない事だけは夜目にも慥かに判っていた。
﹁何だって伯父はこんな思切った事をやったのであろうか。エリスさんはどうしたろう。先刻人の馳けてゆく靴音が聞えたが、あの時の音がエリスさんであったかも知れない﹂
坂口は丘を馳下りるなり、道路のない雑木林の間を抜けて、一直線に公園の外へ出ようとした。一刻も早く人通りのある往来へ出て了おうと焦りながら、針金を亙わたした低い柵を越えて、ようやく池の傍わきへ出た。
と見ると、十数間先の四角になった小径を横切って、バラバラと馳けて行った女があった。姿はたちまち見えなくなったが、縁のある大きな帽子を被った女であった。
坂口は地下鉄道の停車場傍まで来ると、其前から市街自動車に乗って、ベースウオーター街の家へ帰った。
伯父は未だ戻っていなかった。それで直にコックス家を訪ねた。女中はとうに、自分の部屋へ引退って了って扉を開けてくれたのはビアトレスであった。
居間ではエリスが手ハン巾カチを眼にあてて、深い椅子に腰を下ろしたまま、じっと首うな垂だれていた。ビアトレスと坂口は言葉もなく、その傍に佇んだ。
ビアトレスは劬いたわるように母親の肩を撫でていた。
﹁本統に私はどうしたらいいか、少しも分らない。……何も彼もみんな私が悪かったのですよ﹂霎時してエリスは絶入るような低い声で云った。
﹁ビアトレスさんがパーク旅館に監禁された事といい、昨晩旅行に出掛けた筈の伯父が、貴女の後を追ってパラメントヒルへ出掛けた事といい、私には何が何だか薩さっ張ぱり了わ解かりません﹂と坂口がいった。
﹁昨夜から旅行しているのですって? 林さんは何処に居ります﹂エリスは泣膨らした眼を上げて訊ねた。
﹁彼あす処こから私は直ぐ、家へ戻って見ましたが、伯父はまだ帰宅して居りませんでした﹂
﹁では貴郎もあの事を御存知ですか﹂エリスは怖ろし気に手ハン巾カチで顔を覆った。
﹁エエ、私は伯父が死骸の傍に立っているのを見ました。……然し殺された男は一体何者でしょう。無論パーク旅館で貴女を監禁した男と思いますが……﹂と坂口は嗄しわがれたような声でいった。
ビアトレスは手を挙げて坂口を制しながら、﹁そんな事はどうでもいいわ。……それより林小父さんはどうしたでしょう。何故早く帰っていらっしゃらないでしょう﹂と穏かにいった。
エリスは何事をか云おうとしたが、悲しげな様子をして口を噤つぐんでしまった。
たちまち、玄関の呼鈴が鳴った。三人は思わず顔を見合せて、誰一人席を立つものはなかった。第二の呼鈴が続いて起った時、坂口は思切ったように立上って玄関へ出ていった。
扉を開けると、平服を着た二人の男がヌッと家の中へ入ってきた。彼等は無遠慮に自ら背後の扉を閉めた。
﹁貴郎はベースウオーター街二十番地に住んで居らるる林という方の甥御さんで、坂口さんと仰有る方ですね﹂一人の男が口を切った。坂口は黙って点うな首ずいた。
その間に、もう一人の男は頻りに居間の扉を叩いた。すると部屋の中からスックリとビアトレスが現われた。
﹁貴郎方は何者です。断りもなく他人の家へ入って来て失礼ではありませんか﹂彼女は厳しい言葉で慎たしなめるようにいった。
二人の男は急いで冠っていた帽子を脱ると、叮てい嚀ねいな言葉で、
﹁夜分に飛んだお騒がせを致しまして誠に申訳ありません。仰有る通り、少々失礼には違いありませんが、職掌柄でございますので、どうぞ御寛大にお許し下さいまし﹂と先に立った男がいった。彼は更に言葉を続けた。
﹁貴女が御当家のお嬢様でいらっしゃいますか。実は一時間半程前に、パラメントヒルで殺人がありましたのです。それに就きましてここにいる坂口という青年を取調べる必要があったものですから、所々を訪ねた結果、こちらへ上った訳なのでございます﹂
﹁坂口さんは私共のお友達で、そのような恐ろしい殺人などに、関係のある方ではありません﹂
﹁成程左様かも知れません。坂口さんがお宅の友達である以上は、林さんと御親交のある事は無論の事ですな。どの点までのお知合いであるか、一応奥様にお目に掛ってお話を伺いたいと存じますが、如何でしょう﹂男は如才なくいった。
﹁母は加減が悪いので、今夜はお会わせする事は出来ません﹂ビアトレスは不興気に云った。
﹁いつ頃からお加減が悪いのですか。御様子を見ますと、お取込があるように存じますが﹂
ビアトレスはそれには答えず、相手の顔を視返した。
﹁イヤ、どうも飛んだ失礼を致しました﹂男は坂口を振向いて、
﹁君、御苦労だが警察署まで一緒に来てくれ給え。君の伯父さんが現場から引いん致ちされたものだからね、つい君にも余とば波しりがきた訳さ﹂と聞えよがしに大声でいった。
﹁まア、林小父さんが捕まったのですか?﹂とビアトレスは思わず叫んだ。
﹁その通りです。それに就てお宅とは日頃の御関係もありますから、改めて相当の手続を履んでお伺いする事に致しましょう。甚だお気毒ですが、明日は一歩も外出なさらないように予あらかじめ申置いておきます﹂
二人の刑事は意味有気な薄笑いを浮べながら、悪叮嚀に挨拶をして、坂口を引立てていった。
H警察署の薄ら寒い一室で、坂口は係官の取調べを受けた。パラメントヒルで、何者にか射殺されたのは、立派な服装をした五十四五の男であった。
彼は最初何事を訊ねられても頑強に知らぬ一点張りで通して見た。然し、それは却って伯父の嫌疑を深くして彼を死地に陥れるものである事を知った。坂口は伯父を全然、無罪とは信じていなかったが、尚そこに二分の疑念が残っていた。それで仕舞には考直して彼の知っているだけを語った。
そして彼はパラメントヒルで、死骸の傍に立っていた伯父を見たという件は、寧ろ伯父の加害者でないという事実を立証するものであると力説した。即ち仮に伯父が拳ピス銃トルを発う射ったものとすれば、被害者が倒れると共にそのまま遁走するのが自然である。然るにステッキをついて、悠々と死骸の傍に立っていたという事実は、他の何者かが拳銃を発射した後、伯父はその音を聞付けて、現場に至ったものであるという事を明白に語るものであるといった。
然しながら彼の切角の言証も、伯父が射殺したものでないという積極的な反証の出ない限り、何の効果も来す事は出来なかった。
係官は冷かに笑って取合わなかった。夜は更けてから、彼は一先まず放還された。
六
灰を被ったような古いクロムウェル街の家並は、荒あ廃れきって、且つ蜿えん々えんと長く続いている。甃しき石いしの亀さ裂けている個所もあり、玄関へ上る石段の磨すり滅へっている家もあったが、何処の家にも前世紀の厳めしいポーチと、昔の記憶を塗込めた太い円まる柱ばしらがあった。岩丈な樫の扉は深緑色褐色と、幾度か塗替えられたが、扉の中央に取付けられた鋳物の獅子の首と、その下に垂下った撞たた金きかねは、昔も今も変らず云合したように手ずれがして黒く光っていた。
その一本通りの中程に、コックス家があった。坂口とビアトレスは往来に面した階下の居間で心配そうに顔を突合わせていた。
戸外には初夏の穏やかな太陽が街を明るくしている。それだけ閉切った部屋は暗く陰気であった。エリスは坂口がコックス家へ来る前から、H警察署へ召喚されてまだ帰って来なかった。
﹁殺された男というのは、貴女をパーク旅館に監禁した怪しい人間と同じです。一体その男とお母さんとはどういうお知合なのでしょう。そして私の伯父もその男を知っているのでしょうか﹂しばらく沈黙の後で坂口がいった。
﹁私もよくは存じませんけれど、母さんの昔の友達であったという事です。何でも母さんを酷い目に合わせておいて、外国へ遁にげてしまったとかいう事を聞きました﹂ビアトレスは母の痛ましい古傷に触れるのを耐えられないようにいった。
﹁私も恐らくそのような事ではないかと思っていたのです。その事を伯父は知っているでしょうか﹂
﹁小父さんがチャタムにいらしったのは、その前後であるという事ですから、薄々は御存知かも知れませんが……小父さんとその男が顔を合せた事はなかったと母さんが仰有っていました﹂
﹁でも伯父はどうして貴女がパーク旅館に監禁されていた事を知ったのでしょう。伯父がいつになく旅行するといって前の晩から家へ帰らなかったのも不思議です﹂
二人は言葉を止めて、各自別々の事を慮かんがえ初めた。
坂口は伯父の日頃の気質から、彼が恐ろしい殺人罪を犯したとはどうしても信じられなかった。永く外国の生活をしている程の伯父であるから、或は拳ピス銃トルの一挺位は所も持っていたかも知れないが、それにしてもついぞ伯父の拳銃を見た事はない。……けれども又一方に、伯父が今日まで独身生活を続けているその理由を段々解して来たように思った。……伯父はエリスを愛している。世界中の誰よりもエリスを愛している。愛するものの為ならば、人間はどのような犠牲をも払う事が出来る……彼はそう思って慄然とした。ビアトレスはブラウスの襟に顎を埋めて、呆ぼん然やりと、足下の床に視線を落していた。彼女は別の世界に引込まれて行くような、頼りない心持になっていた。何かなしに、警察へいったきり母親はもう帰って来ないように考えられてならなかった。彼女は慌ててそれを打消そうと努めたが、払っても、払っても、次から次に浮んでくる不吉な幻影が一層彼女の心を重くした。そして今朝母親が家を出て行った時の悲しげな眼まな眸ざしが、いつまでも目先にチラついているのであった。
ビアトレスは母親が林に対して抱いている心持を知っていた。そして母親が殺された其男を呪い、醜い記憶を持った間柄をどんなに秘かくしていたかを知っていた。
坂口とビアトレスはフト目を見合せたが、二人は窓の外に眼を背そらしてしまった。
クッキリと黄色い光線を浴あびている甃石の上は、日蔭よりも淋しかった。青空も、往来も、向う側の家々も、黒眼鏡を通して見るように明はっ瞭きりとして、荒さ廃びれて見えた。
間もなくエリスが死人のような顔色をして入って来た。
﹁ああ、既もう駄目です。すべてが終りです﹂エリスは力なく椅子に着いてさめざめと泣いた。
﹁小母さん、伯父はどうなりました﹂坂口は急せき込こんで訊ねた。
﹁林さんにお目に掛る事は許されませんでしたが、林さんはすっかり自白して罪を承認したいという事です﹂エリスは泣なきりをしながらいった。
﹁真実ですか、……然し私にはどうしても信じられません、……それで兇器はどうしました﹂
﹁拳銃は捜査の結果、現場から余り離れていない雑木林の中で発見したという事です。そしてそれは殺された男の所有品である事が判ったのです﹂
﹁被害者の拳銃で伯父が相手を射撃するというのは不思議ではありませんか﹂坂口は元気づいて叫んだ。
﹁それが却っていけないのです。林さんは旅行に出掛けたと見せて、実はパーク旅館のその男の隣室に宿とまっていたのです。それで娘を助ける事が出来、拳銃も持出す事が出来たものと、警察では思っているのです﹂
﹁然しその拳銃がどうして殺された男の所有品である事が判わ明かったでしょう﹂
﹁パーク旅館の滞在人であるという事は、昨夜の中に所持品で知れたのです。それで旅館の部屋を捜さ査がしているうちに、その男がスマトラにいた頃、官憲の拳銃購入許可書と銃器店の出した受取書を発見したのです。その受取書に拳銃の番号が記してあったという事です﹂エリスは絶望したように首を左右に振った。
﹁そうですか、伯父自ら罪を承認したといえば、どうしても致し方ありません﹂坂口はその儘俯うつ向むいてしまったが霎時すると顔を上げて、
﹁どうか有の儘にお話して下さい。小母さんはどの位永くあの腰ベン掛チにいました。そしてその男とどんな談はな話しをなさいました?﹂と熱心にいった。
エリスは稍やや当惑気に坂口の顔を視詰めていたが、やがて意を定めたようにいった。
﹁十分間程でした。男は私に五百磅を強請しました。私はそのお金を用意して持って居りました。無論金は渡してやる覚悟でありましたけれども、将来またこうした強請に合うのを虞おそれましたので、その男のいう通り南米へ行って必ず二度と英国へ足踏みしないという誓を立てれば、お金をやっても可いといったのです﹂
﹁それからどうしました﹂
﹁すると彼がいうには﹃自分には敵があって、絶えず附纏まとわれているので、英国にいては一刻も枕を高くしてはおられないから、便船のあり次第南米へ渡って、一生涯英国には帰らない﹄と答えました﹂
﹁その男を付狙っている敵があると、仰有るのですか﹂
﹁そうです。彼はこういいました。すると、たちまち、拳銃の音がして、アッと悲鳴をあげながら彼は腰掛からのめり落ちました。私は不意の出来事に気も顛倒して逃去ったのです﹂
﹁待って下さい。その時彼は腰掛のどっち側に腰をかけていました?﹂
﹁私は広場に向って左端にいましたから、彼は右側です。そうです、彼は両手で右の脇腹を抱えながら前へ仆たおれたのです﹂
それを聞くと、坂口は急に椅子から躍上って、﹁有難い、伯父さんは無罪だ﹂と叫んだ。
エリスの言葉によればその男は彼女の右側におって、右脇腹に弾た丸まを受けている。然るに彼が銃声に続いて死骸を認めた時、伯父はその傍に立っていた。坂口は前夜公園の小径を入って径の二股に別れたところから右手の路をとった。左手の路は曲カー線ブを描いて大迂回をしながら、腰掛の傍にいて、更に北に向って走っているのであった。
現場から右手に十間程距へだてて、真黒な影をつくっているこんもりとした雑木林があった。坂口が拳銃の音をきいた瞬間と、死骸を認めたまでの時間からいっても、右手の雑木林に潜んでいた伯父が、死骸の傍に馳つけるという暇はなし、且つ仮りに十間の距離を、殆んど一瞬のうちに走り得たとしても、坂口の立っていたところから見通しになっていた雑木林と腰掛の間を、坂口の目に触れずに通り終せる事は出来ぬ筈である。して見れば伯父は小径の二股になったところから、左手の径を通っていったものでなければならぬ。男がエリスの右側にいて、右脇を射う撃たれたのであれば、何者かが右手の雑木林に潜んでいて発砲したものに違いない。
彼は呆気にとられているエリスとビアトレスを後に残して、忙しく表へ飛出した。
坂口はパラメントヒルへ急いだ。そして前夜と同じ道路を通って、兇行のあった場所へ出た。彼は腰掛の前までいって後戻りをすると、径の二股になったところから左手の路をいって見た。次に右手の雑木林へ入込んで、注意深く地上の足跡を検しらべたが、晴天続きのために、地面はすっかり乾き固っていた。最初彼は足下の草が踏にじられていたり、灌木の枝や葉が折れちぎれているのを発見して、眼を輝したが、すぐ後からそれは警官や探偵が兇器を捜査する為に入込んだものと知った。
雑木林を出ると、彼は更に腰掛の附近を思うままに調べて見ようと思ったが、最前からその近くにうろうろしている平服の刑事が、怪訝らしく彼の挙動を見守っていたので、足早に其処を去った。
池の縁を通りかかったとき、前夜道路を横切っていった女の後姿が、チラと脳裡に浮んだが、公園を出ると既もうすっかり忘れていた。彼は市ま街ちへ帰った。然しどういう気持か、ひきつけられるようにH公園の傍にあるパーク旅館の前へ出て了った。
旅館から数間先に、小綺麗な酒バ場アがある。彼はその朝軽い食事をしたのみで、午後四時になるまで、水一杯も口に入れなかった事を思出して苦笑した。それでも別に食慾はなかったが、かなり疲つ労かれて頻りに咽喉の乾きを覚えていた。
彼は酒場へ入って店カウ台ンターの前の丸椅子に腰をかけながら、炭酸水を交ぜたウイスキーをチビチビと飲んでいた。
すると、羽目板を隔てた隣りの婦人室から、大声を上げて喋っている女の声が聞えて来た。何をいっているのか、坂口にはよく聴取れないが、明はっ瞭きりした愛アイ蘭リッシュ訛で、折々口ぎたない言葉を吐いていた。その度に二三の女達がドッと笑い崩れている。
坂口は余り賑やかなので、何気なく店台の上から首を延して覗くと、それは慥かに火曜日の晩、コックス家の前に酔倒れていた婦人であった。
彼女は余程酔っているらしく、片手に泡の立った黒ビールの杯カップを持って、フラフラと室の中を歩廻っていた。坂口は苦々しげにその様子を眺めているうちに、フト忘れていた黒い陰か影げが脳裡に拡がってきた。
前夜ハムステッドの池の縁で、道路を横切っていった婦人の後姿が、ありありと目の前に浮んで来た。縁の広い帽子といい、背恰好といい、どうしてもその婦おん人なに違いない。坂口は或事を考えて急に険しい顔付になった。
婦人は間もなく酒場を出て去いった。
坂口は、笑いながら自分の前へ廻って来た給バア仕メイ女ドに、
﹁何だね、あの方は﹂と訊くと、
﹁大方狂人でしょうね。この一週間程前から、毎日のように来ていますよ﹂といった。
坂口は続いて表へ出た。彼は数間先を蹌よろ踉よろと歩いている女の背後から声をかけた。
﹁一寸お待ちなさい。貴女に訊きたい事があるのです﹂
女はギョッとして振返った。
﹁私と一緒に警察へ来て下さい﹂
女は少時相手の顔を凝み視つめていたが、
﹁ああ、お前か。……既もうこうなっちゃア駄目だ。何処へでも連れて行くがいい。……私は神様の思召通り、真実の事をやったのだから、ちっとも恐れる事はない。何も彼かもすっかり言ってやる﹂と喚わめいた。
坂口は通りすがりのタクシーを呼んで、足下の危しい女を扶たすけ乗せると、運転手に命じてH警察署に急がせた。
七
女の自白によって、林は其晩のうちに警察から放免された。
寂しいクロムウェル街のコックス家からは、チャタム以来の華やかな、楽しい笑声が洩れた。エリス母子や、甥の坂口に囲まれた半白の林は、絶えず東洋人らしい無邪気な微笑を口許に湛えながら語った。
林は火曜日の午後五時、所用を帯びて銀行へいった帰かえ途り、チープサイドの喫茶店でお茶を飲んでいると、衝立の蔭にエリスともう一人見知らぬ男が席を占めているのを見た。場所柄エリスの来そうもないところなので、林は尠すくなからず不審に思った。二人はヒソヒソと話を続けていた。軈て二人は店を出た。フト見るとエリスと同年輩程の、服装の余り上等でない女が、二人の後を見え隠れに蹤つけてゆくのであった。林は激しい人込の中で、いつか女を見失って了った。一方エリスは町角からタクシーへ乗った。見知らぬ男は地下鉄道の停車場へ下りていった。今から思えば、仮令エリスと一緒にいたからといって、見ず知らずの男を尾行しようという気を起したのは自分でも不思議であったと林は語った。
それは日暮方であった。その男はK停車場で下車し、パーク旅館へ入った。
男は金ぴかの制服を着た旅館の取フー次トマ人ンに冗談口などをいいながら、帳場から自室の鍵を受取って階段を上っていった。
林は取次人の傍へ寄って、
﹁あれはジェンキンさんじゃアないかね﹂と如才なく訊ねた。
﹁エドワードさんですよ﹂という取次人の言葉をきいて林は家へ帰った。そして数日間旅行をするという置手紙を残して再び家を出た。彼は小型の手提鞄をもっただけで、旅行客がたった今、倫敦へ着いた計りという様子で自動車をパーク旅館へ疾走らせた。彼は帳場で宿帳に自分の姓名を記入しながら、エドワードと名乗る男は、五階の百二十八号室に宿泊っている事を知り得た。成可く閑静な室をという注文が図にあたって、彼は五階の百二十七号室を占める事が出来た。エドワードという男は何処かで見た事のある顔だと思って頻りに記憶を辿って見るが、どうしても思出せない。
夜の九時に近かった。隣室のエドワードという男は食堂へ下りていったようである。林も続いて階下へ行こうとしたが、自分でも見覚えのある位だから、恐らく先方でも自分を見知っているかも知れない、気取られてはならぬと思って食堂行は止めにした。彼は廊下に人気の絶えたのを見究めてから、密に男の室へ入って見た。直ぐ目についたのは、牀ゆかの上に投出してあるトランクと手提鞄である。それには孰いずれもT・Cと姓名の頭文字が記してあった。彼はトランクの上の頭文字をじっと凝視めているうちに、トーマス・コルトンという、昔の恋敵の名を思出してきた。そうだ、そのコルトンだと林は心の中に叫んだ。もっとも彼は後にも先にも、一度しかその男と顔を合した事はなかった。而もそれは二十年以前チャタムの町で、エリスがひとりの男と一緒に歩いていた時の事であった。その男がコルトンであると、彼は後から聞されたのだ。
フト廊下に跫あし音おとがしたので、林はハッとしたが、どうする事も出来ずに、其儘部屋に続いた奥の寝ベッ室ドルームへ隠れた。彼は寝台の下で息を殺していると、跫音は部屋の前で止って、ツカツカと誰かが表部屋へ入ってきた。幸いにも数分の後に、跫音は廊下の外へ消えてしまった。
林は危い思をしてようやく自室へ戻った。彼はつづいて戸外へ出たが、コルトンの姿は何処にも見えなかった。彼は物思いに沈みながら、歩調を緩ゆるめてブラブラと歩いているうちに、いつかクロムウェル街のエリスの家の前へ出てしまった。時計を見ると、九時を大分過ぎていたので、旅館へ引返した。
コルトンはもう部屋へ戻っていた。霎時コトコトと牀の上を歩いているような物音がしていたが、それきり音は歇やんで、其儘夜が明けた。
翌日コルトンは一足も外出しないで、昼まで部屋に引籠っていた。給仕を呼んで昼食をも自室に運ぶように命じているらしかったが。
林はその頃チャタムでコルトンが勤めていた製薬会社の名を記お憶ぼえていた。それでフト思いついて、チャタムの製薬会社を訪ねて彼の其後の様子を調べて見ようと考えた。
林は早さっ速そく汽車に乗って。チャタムへ赴いた。製薬会社へいっていろいろ問合せて見たが、何分にも年月を経ているので、予お期もっていた程の収獲を得る事は出来なかった。その帰途にフェインチャーチ停車場で下車して二三の汽船会社へ寄って最近に着いた便船の船客名簿を見せて貰った。其結果トーマス・コルトンと名乗る男は蘭らん領スマトラから乗船して、二週間前に倫敦へ着いた事を知った。
林が町で夜食をしてから旅館へ帰ると、微かな唸声が隣室に聞えていた。コルトンがまだ戻っていない事は帳場で確めてある。林は不思議に思って念の為に百二十八号室の扉を叩いてから部屋へ入り、思掛けずにビアトレスを救出す事が出来た。彼はビアトレスを護ってクロムウェル街へ赴いた。そしてコルトンからエリスへ宛てた強迫手紙を読んで、直にパラメントヒルへ馳付けたのである。彼は幾いく許らかの金をやってコルトンを外国へ追おい遣やり、エリスを救う所存であった。
林がパラメントヒルに着いたのは九時五分過であった。彼は暗い小径を左へ折曲って、コルトンとエリスの姿を探し求めているうちに、たちまち側近くに拳銃の音を聞いた。彼は音のした方へ馳寄ると、薄ぼんやりとした夜霧の中を走ってゆくエリスの後姿が影絵のように見えた。彼はある怖ろしい予感に脅かされながら、疎まばらな木立を背バッ景クにした共同椅子の前へ出ると、コルトンが草の上へ俯せになって仆たおれていた。其辺にはまだ火薬の臭が漂っていた。林は確にエリスがやったのだと思った。突とっ嗟さの場合にも、彼はどうかしてこの犯罪を隠蔽して、哀れなエリスを救わねばならぬと焦った。彼は間もなく其処を離れて丘の下まできたところを、銃声を聞いて馳付けた警官の手に押えられてしまったのである。彼は殺人犯の有力な嫌疑者として直に所轄のH警察へ引致され、係官の厳重な取調べを受けた。
﹁そのうちに現場附近から、兇器の拳銃が発見される。コルトンの身許も判明し、ベースウォーター街に自宅を持ちながら、私が態わざ々わざパーク旅館の而も被害者の隣室に投宿したという件も知れて来て、私に対する嫌疑がいよいよ深くなっていったのです。それで仕舞には面倒になって、自分から殺人罪を承認してしまったのですよ。然し、有難い事に不思議な女が飛出して来た為に、私の無罪が判明してこの通り放免になったのです﹂と林は長い談話を結んだ。彼は身に覚えのない殺人罪を何故承認したのであるか。恐らく彼はエリスの名が、心ない世人の口の端はに上るのを虞おそれて、自ら罪を引受けてしまったものと思われるが、林はエリス母子と坂口を前にして、その点に関する説明を避け極めて簡略に、且つ無造作に、かたづけてしまった。
コックス家と林家の人々は翌朝の新聞紙によって、その怪しい女は曾かつてトーマス・コルトンの情婦であった事を知った。その二人は数年間スマトラ地方で同棲していたが、其後コルトンは女を棄てて姿を隠して了った。行先は多分生れ故郷の英国であろうと女はかんがえていたので、つい此程倫敦へやってきて、毎日根気よく男の行方を探たずねているうちに、ようやく男がパーク旅館に滞在しているのを見付け出した。然しながら女は、コルトンが一筋縄ではゆかぬ悪漢である事を知っていたので、用心して機会を狙っていた。そのうちに男はある女と文通したり、密みつ々みつ会っていたりするのを知って、激しい嫉妬と憎悪の念に悩まされた。女は遂にエリスの家を探りあてた。エリスの家の前に倒れて、家の中に担かつ込ぎこまれるように計たくらんだのは、彼女の狂言であった。そして彼女はエリスと男との関係を探ろうとしたのであった。彼女は一旦エリスの家を出たが、執念深く二人に附纏った。其夜コルトンとエリスが人気のないパラメントヒルの共同椅子に腰をかけていた時、二人がどのような話をするかと、近くの雑木林の中に潜ひ伏そんでいるうちに、つくづくコルトンが憎くなって、思わず拳銃の引金を引いてしまったという事であった。
パラメントヒルの殺人事件はそれで終りを告げた。コルトンの死骸の横っていた共同椅子の辺には、青草が知らず顔に萋せい々せいと伸びている。倫敦は軈て芳かお香り高い薔薇の咲く頃となった。
︵﹁秘密探偵雑誌﹂一九二三年五月号︶