○ みのえは、板の間に坐っていた。真暗な板の間であった。 みのえの前の瓦ガ斯スコンロだけが、暗闇の中で勢よく青い広い焔をあげている。その薄明りでみのえは自分の鼻の先と手を見ることが出来る。 自分の鼻の先、それからすべっこい熱い激しい瓦斯の焔。一心に見つめつつみのえは全身の注意であっちの話声をきいていた。あっちの部屋の襖ふすまをしめて、母親と油井が火鉢を挾んでいた。油井は、黒い髪を分け、和服の下に真白いソフトカラアのついた襯シャ衣ツを着た男だ。彼は鼻にかかる甲高い声を出した。その夜は、低い声で、彼の心を蹴とばして他人のものになった女のことを母娘に話してきかせた。油井が最後の訣わかれにその女と小田原へ行ったというところへ来たとき、お清は、 ﹁ああ、みのちゃん、お前ちょっとこれ沸しといで﹂ と瀬戸引の薬やか罐んをぎゅっとみのえの手に持たせた。 ﹁お願いだから、あっちへ聞えるように話してよ、ね、油井さん﹂ みのえは、その続きを聴かずにはいられない。暗闇の中へ座っている彼女の神経は、だから瓦斯の焔そっくり新鮮で色が奇麗で、燃えたつようなのだ。 ﹁じゃ、それっきりお嫁に行っちゃったんですか﹂ ﹁そうですとも﹂ ﹁……でも余りだわねえ、そいじゃ﹂ ﹁私は淋しい人間だというわけでしょう?﹂ ﹁…………﹂ あっちで二人が沈黙したら、その空気が徐おもむろに狭い家じゅうに拡った。みのえは、いかにも夜の更けたことを感じ、あっちの灯の明るい、油井の白いソフトカラアーを浮立たせている部屋の沈黙を甘美に思った。 するのは瓦斯の焔が噴ふき出す音ばかりだ。ピラピラする透明な焔色を見守り、みのえは変に夢中な気持になって湯の沸くのを待った。彼女には、この夜ふけの、恋物語の後の沈黙が異常に作用するのであった。じかに板の間にいて寒さも感じない。 薬罐の底がクトンとずるように鳴った。 シューン。…… みのえは、溺れ込んだように集注して息をつめ、たぎり始めた湯の音をきいた。蓋を、元禄袖の袖口できると、俄にわかに湯玉のはじける音がはっきりした。 もう少し……もう少し……もう少し。あたりは暗いし、待ち遠しいし、つきつめた、気の遠くなるような思いで今溢れる際までたぎり立たせ、みのえは瓦斯を消し、ちょっと手をひっこませて元禄の袖口の綿入れにもうっと温く伝って来るほど熱した薬罐を持って立ち上った。 襖をあける。 眩まぶしい。光の針束がザクリと瞳孔をさし、頭痛がした。 みのえは、 ﹁ああくたびれちゃった!﹂ 薬罐を置いて、油井の横へ、ぺたんと坐った。 ﹁――御苦労さま﹂ お清は、生真面目な顔と様子で番茶を注ぎ出した。その真面目さが、みのえを擽くすぐった。みのえは、肩揚げのある矢絣の羽織の肩に自分の顎をのせるようにして油井を見ながら、眼と唇とで笑った。油井は、ちらりとみのえの笑いを照りかえしたが、素早く口元をたてなおし、睨むような真似をした。みのえは、少し体を動かして母親の方を向いた。 番茶を飲み終ると、 ﹁さあ﹂ 油井は立ち上って、銘仙の着物の膝をはたくようにした。 ﹁もう帰らなくちゃ﹂ ﹁そうですか――まあ、もうこんな時間かしら﹂ 油井は玄関へ出て、外套や襟巻をつけた。お清が外套をきせかけてやる。みのえは、柱によりかかり、油井の一挙一動を見守った。彼が、真白い襟巻をきっちり頸につけて巻いた時、みのえは小さい声で、 ﹁似合うのね、それ﹂ と感に入ったように囁ささやいた。 ﹁左様なら、またいらっしゃい。――お父さんにどうぞよろしく﹂ みのえは、母親の肩につかまって、やはりじっと油井が格子を出るのを見送ったまま、左様ならとも何とも云わなかった。 元の八畳へ戻ると、急に茶器が散乱しているのばかり目立った。 ﹁あーあ、すっかりおそくなっちゃった!﹂ さも迷惑らしくお清は片づけものをよせ集めながら欠あく伸び混りで呟いた。が、みのえはそれが本ものでないのを知り、母親を侮蔑した。 飽くまで真面目でお清は娘に云いつけた。 ﹁さ、早く表の締りしてきとくれ﹂ 父であり夫である杉本剛一は当直の冬の夜であった。みのえは十六だ。 ○ みのえに三つの妹があった。その児をみのえが八時過ると寝かしつけなければならなかった。 更紗の小布団の横にみのえもころがって、子供に顔をいじられながら何かお伽とぎ噺ばなしをしてやった。古風な猿蟹合戦、または浦島太郎。 ﹁ね、浦島さん、亀の子へのっかって海へ行ったのよ﹂ 浦島太郎は亀にのり 波の上やら海の底 みのえは唄っているうちに稚な心に戻った。鈍いような、鋭いような、一種液体のような幼年時代がみのえの発育盛りの不安な神経を覆う。彼女は子供と溶け合ってぼんやり転ころがっている。―― 突然、 ﹁今晩は﹂ みのえは、愕然として意識がはっきりすると一緒に、母親が自分の子をひとに押しつけ、身軽に油井を迎え、喋しゃべろうとしているのを感じ、泣きたいようになった。 みのえこそ、真先にとび出したい者であった。けれども彼女は、パッと襖の立て合せから条になって洩れて来る光線を眺めるだけで、そこを動くことは出来ない。子供はまだ眠りつかない。 中途で立って行けば子供は泣くだろう。 母親のお清は、再び暗い、むつき臭い部屋へみのえを閉じ込めるであろう。 いつまでも眠らない子供、自分に代ろうと思ってもくれない母親。みのえは、自分の体の中で赤いものや青いものが上になったり下になったり、銀座の夜店で売っている色紙細工の気味悪い遊び道具のように、のたくり廻るのを感じた。 油井は、喉仏から出すような声で話した。 自分が出て行く迄に油井が帰ってしまいはすまいかという不安で、みのえは死にそうであった。今は大切だ。一つの身動きで子供が目を醒したら最後だ。みのえは一筋に油井の声に縋すがりつきながら、一生懸命 ﹁ねろ、ねろ、ねろ﹂ 呪文を称え、ぎっしり自分も眼を瞑つぶった。息を殺して子供の寝息をうかがうみのえの前に、切ない待ち遠しさが光った道になって横わった。 ○ 母親が先に立って行く。一間と離れず油井とみのえがその後に跟ついた。それでも人波の間に紛れてしばしばお清の後姿は彼等のところから――お清からは彼等が見えなくなった。 みのえはそれを楽しみ亢奮して売場、売場の間を歩いた。油井が着物を買うのに、お清母娘を誘い出したのであった。 ﹁――一人で買いにいらっしゃいよ、番頭が見たててくれますよいい加減に﹂ ﹁そりゃそうでしょうがね、三十にもなれば大抵細君がそんな心配はしてくれるものでしょう。侘しいですよ、ぽつねんと一人では﹂ お清は、 ﹁他に人がいないわけじゃあるまいし、とんだお役目ね﹂ と云って笑った。 が、今先へ行く彼女の包みは油井の反物だ。 午後三時のデパアトメントストア。天井に舞い上った風船玉。華やかなパラソル。リズム模様、最新流行モダーン染。 ――上へ参ります、上へ参ります。 ――美容術をやって見せるんだよ。 ――だって二十銭も違うんだもん、そりゃそうだろう。 緑色の仕着せを着た音楽隊はフィガロの婚礼を奏し、飾ショ棚ーケースにロココの女の入黒子で流なが眄しめする。無数の下駄の歯の音が日本的騒音で石の床から硝子の円天井へ反響した。 エスカレータアで投げ上げられた群集は、大抵建物の拱廊から下を覗いた。八階から段段段、資本主義商業の色さまざまな断面図。 ――まだここから飛び降りた奴あねえ。 ﹁もっとこちらへいらっしゃい﹂ 音や人目や色彩や、それが余り繁いので、つまり無いと同じ雑踏の中で油井はみのえの手を執り、自分の傍へ引きよせた。油井が大人の男であるのがみのえの満足であった。彼はけちな、直き赭あかい顔をする中学生ではない。母親の横顔はつい三四人隔てて見えているのに、実際油井の握って離さないのは自分の手だという歓びが、みのえを恍うっ惚とりさせた。油井は、髭と瞼が西日に照らされるような顔付で、そっと訊いた。 ﹁くたびれたの﹂ みのえは黙っていいえをした。 ―― ﹁さて――これから油井さん貴方どうなさるの﹂ 往来へ出て、みのえは急に空気が軽くなったような心持がした。 ﹁わたし、どうせここまで出たついでだから浜町へ廻って行きたいんだけれど……﹂ お清は、みのえを見た。 ﹁叔父さんのところへ来るかい﹂ ﹁いや﹂ 油井が、みのえの方は見ず、 ﹁じゃ、奥さん行ってらっしゃい、私、みのえさんを家まで送って行きますから﹂ と云った。 ﹁そうですか、じゃそう願おうかしら﹂ ﹁丁度いい。来ましたよ、築地両国でいいんでしょう﹂ 電車へお清を押し上げ、窓から歩道に向って頭を下げた彼女を乗せたままそれが動き出すと、油井はみのえを連れ、ぶらぶら歩き出した。 ﹁ちょっと日比谷でも散歩して行きましょう、ね﹂ 彼等は公園の池の汀に長い間いた。噴水が風の向のかわるにつれ、かなたに靡なびきこなたに動きして美しい眺めであった。低い鉄柵のかなたの街路を、黄色い乗合自動車、赤いキャップをかぶった自転車小僧、オートバイ、ひっきりなく駆け過るのが木間越しに見えた。電車の響もごうごうする。公園のペリカンは瘠せて頸の廻りの羽毛が赤むけになっていた。 ベンチのぐるりと並んだ花壇を抜け、彼等は常緑樹の繁った小こみ径ちへ入った。どこまでも黙って歩いた。やがて竹藪の間へ来かかった。 ﹁みのえちゃん﹂ 彼を見上げた口の上へ油井はキスした。 ○ 二定点間ノ最短距離ハソノ二点ヲ結ブ線分ナリ。 然し、みのえはジグザグ裏通りの狭いところを通って、女学校の往きに、時々油井の家へよった。会社員である油井も、電車へ八時半に乗らねばならぬ。 ﹁一緒に行かない?﹂ 或る朝、みのえは赤い鞣なめし皮の財布から五十銭出し、小さい一つの花束を買った。桶屋の前で、みのえの小学校で体操を教えた教師に出会った。桃色のカーネーション、アスパラガス、紅毬薔ば薇ら。朝日のさす往来でパラフィン紙を透きとおす活々した花の色が、教師をひきつけた。彼は、みのえの方へ黒い詰襟服のカフスをのばし、 ﹁それ、お呉れ﹂ と云った。驚いて、みのえは花束を後にかくした。 ﹁いやかい?――誰にやるの﹂ ﹁いいひと!﹂ みのえは憤ったように本気な力を入れてそれを云い、さっさと自分の道を歩き始めた。 すがすがしい朝の花束に、教師の息がかかったのをみのえは残念に思った。彼女は油井の玄関を開けた時、少し悲しそうに、 ﹁これあげるわ﹂ と、その花束を出した。 ○ みのえは光りもののうちに生活している。彼女の内の発光体の眩ゆさで自分も外界も見えぬ。 ○ 油井は、お清夫婦とみのえを誘って活動写真など見物に出かけた。 ﹁もうこれから帰るの面倒くさくなっちゃった。泊めて下さい﹂ そう云う翌朝、みのえは白々明けに目を醒さました。心臓がとび出しそうな心持で、油井の泊った二階へ登って行った。 ﹁早いのね、もう起きたの﹂ 油井も起きていて、彼等は並んで窓枠に腰かけた。まだ門の閉ったままの隣家の庭がそこから見下せた。飛石に葉が散っている。門燈の光で露に濡れた小さい蜘く蛛もの巣が見える。四あた辺りはしめっぽく草木の匂いが漂った。 油井が、やがて云った。 ﹁ああ、いい気持だ――みのえちゃん朝好き?﹂ ﹁好き﹂ ずっと顔をさしよせ、 ﹁私もすき?﹂ ﹁…………﹂ 頬笑み、木の実のような頬をしたみのえの手をとって、彼は、 ﹁こっちへおいで﹂ と立ち上った。 彼は掃かない座敷の真中に突立って、確りみのえを擁だきよせた。そして、幾つも幾つもキスし、自分の体をぐうっとかぶせてみのえを後へ反せるようにした。一度目より二度、もっときつく反らせた。 倒れるかと思って、みのえは両手で油井の羽織の背中をつかみ、 ﹁あぶない、あぶない﹂ と、笑った。油井は真面目な顔で喉仏から出る声で、 ﹁スウェーデン式体操﹂ と云った。 ○ 紫や黄や朱の縞のある新しいネルの元禄袖を着ているみのえの体から、いい匂いが発散した。 油井は、剪きりたての花でも見るようにみのえの坐り姿を見つめていたが、 ﹁どうしてそんなに奇麗?﹂ と呟いた。 みのえは嬉しそうに、満足そうに笑った。みのえも今朝は何だか自分がいい匂いなのや、何か別の生物みたいなのを感じたのであった。 ﹁ね、みのえちゃん、私と結婚してくれる?﹂ 結婚という言葉はみのえに漠然と飛躍を期待させ、こわいような、珍しいような正体の解らない感動そのものがいい心持であった。みのえは黙って、黒いお下さ髪げのリボンが動くほど合点をした。 ﹁じゃ約束してくれる?――約束すると他の人と結婚出来なくてもいい?﹂ みのえはまた合点をした。 いきなり、髭がみのえの頬ぺたを刺した。油井の顔が、みのえの視野一杯にひろがった。彼女は油井の眼が兎の眼のように赤かった気がし、夢中になって彼の胸に自分の顔をつっこんだ。 ○ 母親が縫物をひろげている。みのえは傍の小机に肱をついてぼんやりしていた。 ﹁明日は土曜日だね﹂ ﹁…………﹂ ﹁油井さんまた来るだろうか﹂ ﹁さあ、知らないわ﹂ みのえは冷淡さで自分の感情をカムフラージした。 お清はしばらく黙って袖の丸みを縫っていたが、表へかえし、出来上りの形をつけながら独言のように云った。 ﹁あの人も早く奥さん貰えばいいのにさねえ。――もっともどんな気でいるんだか知れやしないが﹂ ふと語調をかえ、お清はおかしい秘密話でも打ちあけるように云いつづけた。 ﹁こないだあの人の家へ行った時ね、話さなかったけれど、親父さんなんかいやしなかったんだよ、いやじゃあないの。あんなに、親父さんが会いたいって云うって招よんどきながらねえ。私が帰るまで影も見せやしない。だから私云ってやったんだよ、油井さん、見かけによらないんですねって。さすがに何か云い訳してたけど……﹂ その日、お清はみのえを連れて油井の家へ行った。油井のところからみのえだけ母親の代理に一人浜町へやられた。叔母と向い合っている間じゅう、叔母の眼鼻だちのすき間に油井の二階に坐ってこっち向いている母親の姿がちらちらして、みのえは自分で何を喋っているのか分らなかった。その気持が母親の話でみのえの記憶に甦った。彼女は、その感情を心にかみしめながら、 ﹁そいでどうしたのよ﹂ と云った。 ﹁どうもしやしないけどね……でも変さねえ私がひとり者だったらどうしたって結婚するだの、どこかへ出かけようだのって――あの日芝居へ行こうってきかなかったんだよ﹂ ﹁ふうん﹂ 浜町へ行きたがらないでじぶくっていたみのえに、 ﹁いい子だから行ってらっしゃい、ね、ね﹂ 油井は、ね、ね、を特別な眼つきと言葉の調子とで云い、みのえを玄関へ送り出してキスした。 再び油井の家へ帰って来た時も油井が直ぐ二階から降りて来た。そして、みのえの手を引っぱって二階へ連れ上った。 ――云いたいことが沢山あるようで、それが何か分らない、唯ひどく心を押しつける。みのえはしょげて黙った。油井がいやな人のように思われ、悲しくなった。お清もいつか真面目な眼付きになって手を動していたが柱時計を眺め、 ﹁どれ﹂ と縫物を片よせ始めた。 ﹁こんなこと、誰にも云うんじゃないよ﹂ みのえは素直に合点をした。 それは、もう秋であった。 暑いが、草木を照す日の光が澄み渡って、風が乾いた音で吹いた。 みのえは家を出て、赫土のポクポクした空地を歩いて行った。広い空地で、ところどころに赫土の小山があった。子供が駈け登ったり、駈け下りたりして遊んでいる。その叫び声が、高い秋空へ小さく撥はねかえった。赫土には少し、草も生えているし、トロッコの線路も錆びている。 Lをさかさにしたような悠ゆるやかな坂をみのえはのぼった。坂の上は草原で、左手に雑木林があった。その奥に池があった。池は凄く、みのえ一人で近よれない。みのえはだらだらと下った草原の斜面に腰を卸おろした。 百も舌ず鳥が鳴いていた。空にある白い雲が近くに感じられた。みのえの体のまわりにある草の中に、黒い実のついたのがあった。葉っぱが紅くなったのもある。一匹のテントウ虫が地面から這い上って、青い細い草をのぼった。自分の体の重みで葉っぱを揺ら揺らさせ、どっちへ行こうかと迷っているようであった。地面の湿っぽい香と秋日和の草の匂いとが混ってある。 みのえは、涙を落しそうな心持で、然し泣かずそこに足をなげ出して虫や草を眺めていた。少し病気になったようにみのえは奇妙な心持であった。母親も油井もいやで、がっかりして、風も身に沁みる、空の高さも、そこに飛び交う蜻とん蛉ぼも身に沁みる。魂が空気の中にむきだしになっていた。 長い時間が経った。 みのえは、背後で荒っぽく草を歩みしだく跫あし音おとを聞いた。みのえは自分の場所からその方を見たら、一人の十六七の小僧が立って放尿していた。白いシャツに腹がけをしめ、何故か脚の方はすっかり裸であった。 みのえは直ぐ正面を向いた。 小僧は草をこいで段々みのえの傍に来た。一歩一歩近づくのが判ったが、みのえは恐怖で痺しびれ体を動かすことが出来なかった。眼尻を掠め、股まで裸の二本の脚と穢きたない体の一部が見えるくらい傍によった時、小僧は低い震えるような声で、 ﹁――……﹂ と云い、みのえの正面へ立ちはだかろうとした。みのえは、のっそり立ち上り、小僧を睨みつけると、物も云わず片手にキラキラ閃くものを振り翳かざし小僧に躍りかかった。 気がついた時、みのえは元よりずっと草原の上の方に跳ねとばされていた。四五間下の方に、小僧も倒れた。彼等は互に睨み合いながら、獣のように起き上った。みのえは、後じさりにそろそろ上の坂の方へ出ながら、組打ちした場所と思わしい辺をちょいちょい見た。リボンで帯につけていたエァーシャープを彼女は振り廻したのであったがそれが環のところかられてどこへか行ってしまった。 小僧は、じろじろみのえの方を見ながら草をこいで草原の縁へ出、つぎの当った股もも引ひきをはき始めた。その時、路の彼方に大人の男が現れた。パナマの縁をふわふわさせながら。―― みのえは、坂を下り出した。子供の微かな叫び声と、赫土の空地が行手にある。あたりは先さっ刻きの通り静かで、秋日和で、白い雲は空に光っていた。みのえは、それが不思議な気がした。地球が一つぐるりと急廻転した後のような気持がした。歩いて行くみのえの左右で、自然がいやにくっきりしていた。