ロジェ・マルタン・デュ・ガールの﹁チボー家の人々﹂十一巻は、いまこそ、日本の読者のために、その翻訳を完結されなければならない。第七巻まで翻訳出版されたのが一九四〇年八月。兇悪な戦争が、訳者山内義雄氏と出版社白水社の仕事を阻んだ。六年を経て、一九四六年十一月に第八巻﹁一九一四年夏﹂第一部が出版されて、更にきょうまで三年の月日が沈黙にすごされている。﹁チボー家の人々﹂の日本語版がめぐりあったこれらの障害は、一つとして国際的な風波の反映でなかったものはなかった。
新しいエポークが世界と文学にひらけかけているこんにち、一九二〇年―三七年の間に書かれた﹁チボー家の人々﹂は、ロマン・ロランの﹁魅せられた魂﹂とともに一つの古典的な記念碑となった。フランス中流の、誠実で人間らしい人々は、第一次大戦前後の劇はげしい歴史の摩擦相剋のうちに、どのように生き、破滅し、成長して行ったのだろうか。ジャックという名は、きょうのわたしたちを深くひきつける。日本資本主義独得のひねくれ、欺瞞と粗野、卑屈のジャングルをかきわけて、明るい世界の心をわけもたずには自分を生存しているものとして感じられなくなっているきょうの日本の真面目な人々の理性と心情に、﹁一九一四年夏﹂を生きたジャックは何を語るだろう。ヨーロッパの精神史にとっての一九一四年は、時間的には1/4世紀以上おくれて、しかし、社会と個人の歴史が飛躍するための要因としては、ジャックの所有したものと比較にならない複雑ゆたかな条件をそなえて、きょうのわたしたちの前にある。
第二次大戦を経験した成長で﹁一九一四年夏﹂をかえりみたとき、もしかしたら、マルタン・デュ・ガール自身そこに、いくらかまだ観念的だった革命性や、革命についての語りかたを発見しているかもしれない。しかし、重要なことは、作者であるロジェ・マルタン・デュ・ガールと彼の読者である人々とはともに反ファシズムの人民戦線につき、第二次大戦でナチの侵略に抵抗したたかったという事実である。そして、西ヨーロッパの明日の運命に対して、最も重大な関係をもっているフランスの民主精神堅持のために、こんにち根づよい芸術家である彼と彼の文学を愛する人々は、どのように働いているかということである。
︹一九四九年八月︺