日記

一九三八年(昭和十三年)

宮本百合子




一月一日

(土曜)小雨。
 除夜の鐘を戸塚できいた。靄がこく柔かくこめている大晦日の晩で、カネ坊[#窪川稲子の家のお手伝い]をかえすのにもたしてやるものを買いに三人で八時頃伊勢丹へゆきベルがジリジリいうなかで私は帯、いね公は、S・F[#スフ]の羽織、その半エリそれぞれ買い、たかのに腰かけた。戸塚の街で私年来の宿望であるとその道具を買い、雑煮茶わんも五つ買う。「いいお年越しでございますこと!」こわいろで云って笑う。二十九日午後と午前とに内務省図書課ジャーナリズム関係者を呼び出して、中野、私、戸坂、岡、鈴木安蔵、堀真琴そのほかすべてで八名の名を云い、こういう人たちに書くなという権限のないのは御承知のとおりであるから、挙国一致の精神に賛成して、諸君自発的に云々という形で執筆禁止をした。或人がそういう人達の生活問題はどうなるのですかときいたら、そこまでは干渉しませんとか、それは権限外ですとか云った由。寿江子来て泊る。小雨ふり栄さん雑煮をたべに来て、おだやかな正月也、この家の近所門松なし。私たちにとって全く新しき年はじまる。忘れがたき年越し。一九三三年の暮と本年と。

〔欄外に〕
 四時すぎてから三人で出て、日比谷へオーケストラの少女を見にゆく。ストコフスキーという者の指揮ぶりを見てハハンと思う。ああいうのは一種のパントマイムであって、あの位の演奏者の技術がなければストコフスキー存在出来ない。あの気どりかた! 一種の大俗物である。かえりに林町へまわりシャケをたべて来る。


一月二日

〔発信〕第一信。こういう内容の第一信とはMも予期していなかったであろう。
 起きて下に降りたら栄さんもう大分あみものをすすめている。けさはパンをたべる。それから私はすこし手紙をかく。お礼や鶴公の就職にやら。すぐ夕方になって、一寸郵便を出しにゆき、夕飯。そして栄さんかえる。もう風呂に入ってねようとしているときバラさん高島田でやって来る。手拭をもって。ひさよろこんでいる。入毛をかりる約束などしている。十一時すぎかえる。シュトルムの「みずうみ」をよむ。一寸よろし。
 やはり念頭をはなれぬのはいかに生活すべきかということである。勉強の方法とテーマとはありあまる。それにはこまらない。だが、どうして金をとってゆくか。この問題の解決は容易でない。又生活の形をどうするかということも。林町の裏へ家を建てさせてそこに住む。――フム。しかし、この時期の生きかたが実に実に名状すべからざるほど大事であるからくさりかかる危険に近づくことは出来ない。床に入って考えて、いろいろ考えて、うとうととなって電気を消してねた。

一月三日

(月曜)曇
 講座の方の原稿はどうするのかと思っていたら敏氏より手紙。稲は新潮へ小説をもって行ったらリストに名がないのに楢崎氏すっかりあやまってしまった由。情を知ってトク名でも何でものせたら編輯者をやるというのだから。トーマス・マンのようなさわぎをおこさずやる法を考えついたのなり。文学界発禁。人民文庫発禁。中、改は、大森義太郎の映画時評をのせたのがいけないと云って発禁、サク除、ホホー。米が来た。稲のところへやるために爺さんをたのむ。
 夜まで待ったがい来ず。フラリと出かけて見た。子供をつれてテムプルを見せたら言葉がよく判らないし字もよく分らないので案外面白がらなかった由。ソバを二人でたべて十一時ごろかえって来た。五銭のコーヒー店を出したらというプランを立てている。何だかよさそう。それだけの話があるだけでも気が楽になり、夜フーフー眠った。三十日以来のことなり。「何かしていてもここんところでいつも考えちゃっていてねえ」

一月四日

(火曜)
 ,80
 寿
 

一月五日

(水曜)
 
 ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)

 
  
 


 
 


一月六日

(木曜)
 久しぶりで森川町のおいなりのところを通った。木村氏はあすこに、まだ住んでいられるのかしら。

 五日にはひとりで来たいと云っていたと云って、夕方ふっとやって来た。二時ごろまであれやこれやを話す。とまる。コーヒー店の話、段々具体的になって来る。うれしい。

一月七日

(金曜)
 
 寿
 


 
 


一月八日

(土曜)
〔発信〕第二信
 手紙をかいて、一寸おひるをたべて出かける。
 留守かと思ったら台所の方にいて、おしるこのようなものを御馳走になった。映画を見る。上海。ひどいひどい戦いなり。肉弾ということの意味が実にまざまざとわかった。決死隊というものの内容も。市街戦というもののすさまじさ。
 かえりに牛肉をかって来てたべ、話をする。やはり奥の方へひっこんだ家へゆく由。家賃がもっと高いところへ今引越せる生活術というものは面白し。
 こうづへのドライブへはやめにした。カゼがなおっていないから。それに横腹のためにもよろしからず。

一月十日

(月曜)
 読売の記者来。越冬プランはいかがですか
「スタンドバーをおやりになるそうじゃないですか、お妹さんと」
「冗談でしょう! やれることとやれないこととありますよ」
「宮本さんの御実家は大変お金持だそうじゃないですか」
「昔からの伝説でね」
           ――○――
 ふらりふらり市場の方から歩いて来たら、むこうから二人づれの女来る。どこの女かと気にもとめず大分近くなって見たら一方は咲、おや誰かしらと見たら、それが寿。バケタりな、ばけたりな。これだから女はいやなり。美味いチョコレートをくれた。咲先へかえる。

〔欄外に〕
 生活の全面的再組織ということは実に大問題であり、大事業である。箇人箇人の持っているすべての条件が皆箇的にプラスとマイナスに作用して来ることが余り歴然として居て、実に沈思せざるを得ない。永年に亙ることなのだから、いよいよ重大でなかなか易きにつき難し。本能がアラームを発する。哲人的ポーズ、受難者的ポーズでは、せいぜいよくて偶像になるにすぎず。生きるということは生活するということ也。生理的生に非ず。


一月十一日

(火曜)
 おひさ君を洗濯にと思ってつれて行ったら、センタクはけさやっちゃった、あら惜しいと。
 それから又出かけたら、工合よし。六時頃かえりかけていたら、ガラス戸の外に女客あり。いやがってあわてて送って来て、何のことか親類のお嬢さんを一寸送って、だって。可笑しい。
 いろいろ話す。つるやとしようという話。夫婦でいろいろ話せるという方の面が単純に感じられた。話せるという条件が何もプラスだけではないのに。いつか夜中バクハツのとき、ハッと目をさまし、あら一寸何でしょう、何だろうというとたんの夫婦の近さというものを感じた。それに似ている。女の心の滑稽さ、そして又ただ滑稽と云い切れぬもの。

一月十二日

(水曜)
 ひどい風が吹いて寒い。だが空がいかにも碧い。一点の雲もなく碧くて日光がキラキラしている。急に思い立って上り屋敷から豊島園までのって行って見た。かえりにバス。十一寺前というところがある。浄土宗の寺ばかり両側に並んだところ、つき当りはカラリとした墓地で、むこうに松の丘あり。いかにも珍しい。ノドがいたくなったのでかえった。頭の中些かさっぱりとする。生理的サッパリだから力弱し。かえって手紙の返事をかく。大変感情のニュアンスの濃いものになった。

〔欄外に〕
 第三信。十二月二十三日の不が、ナーヴァスに消しをつけてやっと届いた。新しい年へのよい祝詞がこめられている手紙。


一月十三日

(木曜)
 やっぱり二階がしまっている。横丁から入ったところのつき当りの家も皆二階をしめている。支那の女の児の大きいオキャガリ小坊子。実にいい顔をしていて、ながめると気がぱーっとひらける。おきゃがり小坊子のところが又よろし。ねえ、そうじゃないか、ねえ、と話せるような恰好と顔とをしている。はりこだが。月曜日までにカゼをなおすと云っている。新しい女のものの包みと新しい一寸しゃれた形の椅子。いね子の家の茶の間とそこの生活とを思わず思いくらべた。そして苦しい気がした。箇々の生活のちがいというものが、その細部まで箇々のものとしてあらわれて来るのを見る辛さ。自戒。云わば餅のヒビが日一日と深くなってゆくのを見るような気持。生活の垢、塵と生活への親しさというものの脈絡。それだから林町のはなれ説へはなかなかおいそれと承服出来ない。

一月十四日

(金曜)
 見舞にゆく。いかにも気合のかかった人物。いささか才気と勝気とにまけている。腹が年じゅういたいよし。おとといの晩なんかうなりどおし。
 三井(一字不明)四十代の男はくいつきそうな顔をしている。
 新しい連中、一つことを三度ぐらい云わなくっちゃわからない。そう云ったときの巻舌と顔の表情、軋んでいる生活。

一月十五日

(土曜)
 
 
 
   

一月十六日

(日曜)
〔発信〕第四信。
 

 
 
 姿××

一月十七日

(月曜)
 警保局図書課に禁止についてききにゆく。中野と。
 事務官が話す。「実は早速手紙をよこして、自分はそういう思想をもっていないどころか殆ど反対の側に近くいるから云々」と云ってよこした方が二人ばかりあります。そういうのは、最近のキカイに適当にカンワしたいと考えて居るわけですが、云々。
 話はここから出て来る。ダンピングなり。純毛品はS・F時代には貴重品でねがあがるものなり。「来月ごろでも又上りましょう」「いや、それより早く何とか御通知いたしましょう。ただ私は近くかわるかもしれず」云々。

一月二十日

(木曜)
 今月暮して見て、生活の統計をとって見ることにする。
 自分たちの家は、これまで二年ともったことがなかった。動坂二月から十一月まで。上落合十月から次の五月まで。ここはどの位もつのだろうねと話していたとき、十二月二十七日が来た。一年に数日不足している。我々の生活の幾変転は、一貫したものがあることによって生じる外面的なことではあるが、やっぱりくやしい。ここを動くとすれば。又すぐどこかにうつる、そういうのはいやである。よくよく考えてのこと。

一月二十一日

(金曜)
 吉祥寺へ行った。角の杉林のところ、右手はすっかり様子がかわっている。

一月二十二日

(土曜)
 田村町六丁目にゆく。いろいろの様子をきく。予想のとおり。手紙は出さないことにしてかえる。若い女のひとがお茶をくんで出してくれる。いかにもこの辺の住人らしいあかぬけたほっそりさ。下町のほっそりさというのは、日光の不足といくらか関係があると感じる。

 ひさを戸塚へ手つだいにやる。くたびれて気分がわるいと云ってねていて出かけなかった由。

一月二十三日

(日曜)
 23

 

 


 


一月二十四日

(月曜)
  
 
 

一月二十五日

(火曜)

〔発信〕第五信


一月二十六日

(水曜)
 鈴木氏のところへゆき、福田さんという人に会い、戸籍のことを相談する。やはり廃嫡にして分家した方がよい。
 かえりにタバコやにきいて行ったら、もうこの間うち度々きかれたと見えてよく知って居り、同時に或表情をももっている。便利で、湯に近くていい。茶の間のよこがすぐ通れるようになっていて、そこには陽がささないのがよくないが。二十五円な由。いろいろ話し。こっちの顔につけてはなさない眼が切なく、はりきっていて苦し。素朴な信頼にたよっているところ。

一月二十七日

(木曜)
〔受信〕一月十(一字不明)日の分が着いた。
 この頃すこし調子が整って来た。頭の調子が。云って見れば、一九三二年来のあわただしい生活が急転したのだから、気分が落付き、こういう事情の中で着々仕事をしてゆけるようになるには一ヵ月や一ヵ月半はかかろう。
 どたばたは今月だけにして来月は仕事にとりかかる。





底本:「宮本百合子全集 第二十四巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年7月20日初版
   1986(昭和61)年3月20日第4刷
入力:柴田卓治
校正:富田晶子
2018年6月27日作成
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