日記

一九四三年(昭和十八年)

宮本百合子




二月二十七日

 
 
 寿
 
 麿
 
 寿
 
 
 
 
 

二月二十八日

 寿江子に手紙かいて貰う。
 この間うちから、朝体が大儀で起きにくかったのが、きょうは我まん出来ず、夕飯迄床にいる。背中の肝ゾーの裏の痛いわけ、夕飯のとき皆のごはんをよそっていて分った。椅子の上で体をねじる丁度そこがつれて、いつの間にか一種こってしまったらしい。
 肝ゾーがあやしいのではないかと、きょうあたりは神経を相当に立てたが、これで一安心した。そして少し滑稽にもなる。
 自分をいれて四人の御はんをよそうのに、いくら健啖と云ったところで昨今のことだもの二度ねじりもしないだろうのに。
 自分がひとり気にしてしょげた心持や安心したこころもち思うと可笑しい。
 午後、かきもち焼こうとしてお醤油もって来て下さいナといったら、家じゅう一たらしもございませんと云った。
 夕飯のときは、非常用と称してこげくさいのが出て来た。
 Gどうしていることか。
 小さい利口で私に向い、うそでこしらえた話して来て、今かけつけても来られないのだろうと可哀想に思う。おっかさんが万事心得ているのは不快なり。そしてその卑俗さで娘をもあやまっている。律儀さがないああいう境遇の女親がいつの間にか娘をめかけのようなものにしてしまう過程が、あすこにも隠見している。本人はそうしようと思わないでも。
 今よんでいるのはピエール・キュリー伝。これも五号で字が大きい。

三月一日

  暖い日
 西寿
 
 
 

菱餅や 五人囃の
     そのかげに
一葉日記も
     おくべかりけり
 自分は、この間の朝の鶯のおさなさを可愛く思い
鶯はまだおぼつかな桃の春
 三十一文字が並べにくいのは面白い。
 三月一日からすべてのものの税が大変あがった。買えぬということ也。一層いいうたや作品が心に近くなって来る。ただ絵の修業のひとは哀れと思う、キャンバスその他も高いから。
 自分は眼がわるくて鉛筆でザラ紙にかき筆でかき、計らず原稿紙以外のものにもかくけいこが出来ている。
 増税についての感想で「自然にかえれ」と云っている人あり。

三月二日

  防空演習
 午後じゅうかかって『史籍集覧』の見出し紙をつける。昔の本の不便さや、それをこまごまと手入れして愛読した人々の心持を思いやる。露伴などという人は本の綴じを直したし、虫干しをしたり、そういうことにたのしみを感じられるのだろう。栄花物語、古今著聞集、今昔物語、大鏡、水、増、今など出て来たのは面白い。註解なしでは分りにくいかもしれないが。
 土蔵から一緒に出して来たものの中に元禄十三年の出版にかかる『和歌八重垣』というものが七巻出て来た。誰の蔵書だったのか、西村の方から来たものだろう、定家の歌論を根拠としている。末期の和歌が常套に堕してゆく道がこういう指南書にあると思って面白い。
 定型類型歌から入ることを定家は初心者にすすめて居る、心に日頃面白いと思う詩なり歌なり思い浮べてつくれというのは『八重垣』らしい。

三日

 きょうの主人は泰子だから髪をきれいにかいて、赤い布のはしをリボン代りにつけてやる。
 太郎のところへと思ってアルスにサンドの『白象物語』を注文しておいたのが来た。期待したほどでなく、生れかわりや前世のいんねんと云っているようなところ、又子供のテムポに合わぬほど(太郎が小さすぎもするが)美文的自然描写をしているところ満点でないが太郎むきにホンヤクして読み話ししてやったら大よろこび。キプリングの「ジャングル・ブック」もこうしてきかしてやればよいのだと気づいた。非常袋の中に私は忘れず太郎用の本一冊大人用の本一冊入れておこう、もしやけ出され野宿するときそんな本を朗読してきくような場合が決してないとは云えなかろう、そういう心くばりがこの一家における私の独自性であり芸術のありがたみでもあるわけだと思う。
 午後、国府津へもって行ってもらう小さいカバンの中をつめる。
 原稿紙も湯本いとさんあて送る。
 戦争生命傷害保険が明日公表される。自分は入っておこうと思う。万一のことがあってもあちらで困らないように。永年の経験でその必要がわかる。ひとの世話というものはして貰おうとのぞむ方が無理というべし、親切というものは誰ももっているが、その限度は実に小さいものだから。つまりその日その日にそれ丈追われているのが皆の実状也。
 窪鶴おとさたなし、留守つづきか。しかしかなりのものと思う。ともかく一年以上ぶりで自分でどうやらかいてやったのだから。

四日

 木
 G、きょうは元気なので手つだって貰いよい。栄さんに送るものすっかり揃える。夜余りつかれてよく眠れず。
 

五日

 1700
 
 
 
 宿
 


 
 湿()()
 
 
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 西


三月十一日

 湯浅さん来。本の礼だと思って通って貰ったら、西鶴の浮世草紙の書き入れをしたのがないの、何とかないものの不足が出た。それから大沢とかいう男を私がひいきにしたとか、私の人格がどうのと、不快なことを云い出して、私は疲れていたから腹が立って涙が出た。弱い人間は実にいやなものだ。自分が十何年もちがった生活をし、しかも一緒に生活出来ないような別れかたをして、しかも自分が一等よく相手を知っていると自認しているような、自分の感情への甘えかたはやり切れない。大時代な表現は古典ばかりよんでいる故だろうか。率直とか誠実とかを変に鈍感さと混同している。いろいろ親切に心痛もしてくれると思い本も送ったりしたが、やっぱり一寸近づくとすぐ足許を乱してもたれかかって来る。もう御免と苦しい気になる。そして、いろいろ人とのつき合いかたについて考えさせられる。旧い友人は対手がその気にならないときは決して過去にさかのぼった時間的な内容でつき合わず、現在あるところでつきあって行くべきと思う、現在その人の生活が本質的によくなっていても、又低下していてもそれは同様だ。そういう自立的な態度が保てなくては人につき合う実力いまだしということになるだろう。Mが13年に、人のつき合いには、それぞれの限度があるべきだと云ったのは、まさにこの点なり。大いに学んだ。世田ヶ谷[#手塚英孝、てっちゃん]へたのむ本少し出す。

十二日

 きのう、ひどく疲れ、目もチラチラ、しかし期限だから色紙、短冊三枚かく。
 ○霜はことしも自身の美しい結晶の法則をかえることなくこの地上におりた。
 ○洗った髪を夜風にふかせながら見ると、手鏡にはさいかちの梢に出た月も映っているのであった。
 ○みのをはるかな稚い日の思い出を今朝下って来る笹舟がある。

三月十三日

 書いたもの、永田町へ届けて貰う。
 午後、てっちゃん来。すっかり経済上のこと話して托す。これで、よほど安心なり。夜よく眠るようになった。かえってからmへ手紙かく、長い長い手紙。切手三枚の書留。

十四日

 
 
 

十五日

 仁多見氏のこと戸台さんにきいてやる。三朝のことケイオーにきいてやる、何だか仁多見氏のこと、ゆきそうに思えるが如何。
 これと同じ帖面はもうないそうだ。この形のを自分で綴じてつかっていいのだが、紙があるかどうか、本当にこれは気持よい形だ。

四月九日

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
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又別の日
 Fに「あなた奈良で胃が苦しかったって、過労したのね」「ええ、とっても苦しかったの」
 そのことGと話す
「あのひとは弱いからね」
「そうよ、とってもよわいわ、しまいには私がにくらしくなったんですって、いくらでもあっちこっち見て歩こうって云ってばかりいるもんだから」
 そして心から満足し、はたで知れないよろこびに胸がふくらんだように、テーブルに両肱をつきながら胸をはって微笑した。それが何かまともに見られないものをもっている。

 砂糖を一貫目十六円でわけるという友達がある。ときいて二貫目たのむ。
「そのうち何が商売なの?」
「さあ」
 今になって見ると、それは学校の友達ではないのかと思える。あんな経済の子に云うと思えず。やはりHの方か。知らずに気をよくして欲しがっているかと思っているのかと、いやになる。二貫目買えば少くとも一割はよこすと計算している性根見えすいて。

 こぶしも白い木蓮も梢の上の日あたりのところから咲き出す。

四月十三日頃

 西
 


 

 
 

 

 椿西
 
  
 

 

四月十四日の夕方

 そろそろ七時になろうとする頃。光線の工合で樫や青木やの葉の茂みが藍のこい緑に重なって見える間に、乙女椿の桃色の花が、平常よりはこれもいくらか、涼やかなかっちりと少しやきものめいた陶器めいた光沢でつめたさで大変美しい。
 ○目白のうちの空虚さ、責任だけあって実質のない。今の方の嬉しさ。子供のこと。

◎今年は誰も桜の咲いた話をするものがなかった。
――誰も云わなかったねえ
――桜なんか見て歩いてたらつきとばされちゃう。


四月十四日

 えんじ一色に芽立った楓が梢の上の方から、段々柔かいみどりの稚い葉をまきひろげはじめて来る。





底本:「宮本百合子全集 第二十五巻」新日本出版社
   1981(昭和56)年7月30日初版
   1986(昭和61)年3月20日第4刷
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:柴田卓治
校正:富田晶子
2019年2月22日作成
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